「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

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2001年の911テロ事件から20周年の日を迎えた。消滅したはずのアフガニスタンのタリバン政権が、20年かけて復活した。その衝撃が、国際社会を覆い続けている中で迎える911日だ。

思えば、アメリカの20年にわたるアフガニスタンでの軍事作戦は、いわば「ゼロ・テロリスト」の発想にもとづくものであった。911テロ事件の首謀者だけでなく、テロ組織のネットワークも根絶やしにしなければ、テロ攻撃はなくならない。このような考えに基づいて、911テロ攻撃の首謀者であるオサマ・ビン・ラディンを追跡するだけではく、組織体であるアル・カイダの壊滅を目指し、さらには温床となっていたタリバン政権の除去も目指した。

結果的にこの「ゼロ・テロリスト」政策は、過大な負担を長期に渡ってアメリカ及び同盟諸国に課し続けた。20年後の今、「もう無理だ」、と音をあげてアメリカが完全撤退し、あまりにもあっけなくタリバン政権が復活した。

今後も、アメリカだけでなく、国際社会全体が、アフガニスタンが再びテロ組織の基地にならないように努力をし続けていく。広い意味での「テロとの戦い」は、全く終わっていない。

だが、そもそも復活したタリバン政権それ自体が、テロリスト集団である。国連安全保障理事会の決議により全ての国連加盟国に遵守の義務がある制裁の対象になっている者が、新たなタリバン政権の中に多数入っている。アメリカ政府の単独制裁の対象者も多く、これまで暗殺作戦の対象として付け狙われてきた者たちもいる。たとえば最強硬派である内務大臣に就任したシラジュディン・ハカニや、防衛大臣に就任したモハメド・ヤクーブ・ムジャヒドらが、未だに表に顔を出す機会も避けているのは、アメリカの暗殺作戦の再開を恐れているからのようにも見える。最高指導者の地位にあるマウラウィ・ハイバトゥラー・アクンザダに至っては、未だに居場所もわからず、すでに以前のアメリカの空爆で死亡しているという観測も根強いにもかかわらず、その名前がタリバン政権の重しとして機能している。

アメリカは、より悪しき存在であるアル・カイダやイスラム国のような国際テロ組織がアフガニスタンを基地にして暗躍するのを、タリバン政権が防ぐように、「お願い」をする立場に陥っている。したがって今さらタリバン要人を暗殺する作戦などを遂行することはできない。だが武力で政権を奪取すると、制裁対象だったテロリストであっても次々と国際社会に認められていくようになる、などといった悪しき事例は、簡単には作れない。苦悩が続く。

タリバンは変わった、タリバンに変わってもらおう・・・、状況が苦しくなったからといって、身勝手な希望的観測を並べ立ててみたところで、テロリスト集団がアフガニスタンという一つの国家を実効支配する政府になってしまったという衝撃的な事実を打ち消すことまではできない。

20年にわたる「対テロ戦争」を遂行してきた国際社会は、今やテロリストとの共生を強いられている。少なくとも共存していくための最善の「抑制管理」の方法を模索するように強いられている。いわば「ゼロ・テロリスト」政策の破綻を受けて、「ウィズ・テロリスト」政策への転換を迫られているのである。

これは苦痛に満ちたプロセスだ。リスクも大きい。だが20年かけても根絶できなかったのだ。現実を受け入れていくことなくしては、前に進むことはできない。

「対テロ戦争」の挫折は、国際社会の複雑な事情を反映した特殊な話題であるかのようにも聞こえるかもしれない。だが考え方の基本は、たとえば新型コロナ対策などの場合であっても同じだろう。

新型コロナの根絶が不可能であることに、もうほとんどの人々が気づいている。甚大な犠牲を払ってロックダウンを繰り返し、必死になってワクチンを打ちまくっても、新型コロナを根絶できるという見通しは立たない。少なくとも近い将来に「ゼロ・コロナ」を達成することが不可能であることは、火を見るより明らかである。

超大国の威信かけた軍事介入をしたからといってテロリストを根絶することができるのか、という疑問は、2001年の「対テロ戦争」の初期段階から存在した。それでも最大限の努力は払わざるを得なかった。人間の生死にかかわる事柄だったからだ。

同じように、新型コロナ対策が世界的に行われ始めた2020年の春の時点から、ウィルスを根絶することなどできるのか、という疑問は存在した。それでも最大限の努力は払わざるを得なかった。人間の生死にかかわる事柄だったからだ。

しかしエボラ出血熱のように極めて死亡率が高いがゆえに、隔離を通じた根絶の道筋も立てやすい感染症であってすら、何年にもわたって撲滅宣言と再発見が繰り返されている。致死率が一定の低さであるがゆえに、極めて高い感染力を制御できない新型コロナが全世界の隅々にまで広がってしまい、画期的なワクチンで対抗しても集団免疫の達成は無理であることが判明してしまっている今、このウィルスを撲滅する方法は、少なくとも現実の政策立案で目標にできるようなレベルの事柄ではなくなってしまっている。

確かに、ウィルス撲滅の不可能性は、苦痛を伴う認識である。簡単には受け入れることができない苦悩を伴う。だがそれが不可避であるならば、現実を受け入れることしか、前に進む方法はない。

そもそも「ゼロ・コロナ」が不可能だからこそ「ウィズ・コロナ」といったメッセージも、一年以上前から発せられてきたのではなかったか。そもそも日本では、新型コロナの初期対応の段階から、撲滅は極めて難しいという理解に依拠した「抑制管理」政策がとられてきたのではなかったか。

厳しい現実を見据えたうえで最善の「抑制管理」を目指す「日本モデル」の意味は、しかし、「ゼロ・コロナ」が達成できないのは政権担当政党の無能と怠慢のせいであると糾弾する左翼勢力や、無責任な煽りを繰り返して日銭を稼ぐメディアだけでなく、もっともらしい抽象理論を振り回してマウンティングを繰り返すいわゆる専門家と呼ばれる人々などによってかき消されてしまった。苦痛に満ちたプロセスであっても「抑制管理」政策を精緻化するしか残された道はない、という現実判断に根差した政策議論は、時間がたてばたつほど、かえって忌避されるようになってしまった。あるいは不謹慎な話題だという烙印を押されて、封印されてしまった。

だが、答えを出すことが不可能であること知りながら、答えを出せない人を糾弾してストレス解消することだけを続ける生活は、あまりに非建設的であり、不健康である。

国際社会が「ゼロ・テロリスト」から「ウィズ・テロリスト」への苦痛に満ちた政策転換を迫られている中で迎える2021年の911日は、あらためて「ゼロ・コロナ」から「ウィズ・コロナ」への政策転換の意味について考え直すのに良い契機であるかもしれない。

前回の記事で書いたように、東京都の新規陽性者数の拡大は鈍化が続いており、実効再生産数も下がり続けている。https://agora-web.jp/archives/2052552.html  全国レベルの実効再生産も下がり始めている。入院患者の絶対数が多くなっているのは確かだが、普通であれば、下がり始めたことの評価があってもいいと思うが、それはほとんどタブーのようになっている。「気が緩む」せいであるらしい。私のように10日前から増加率の鈍化にふれてほしいと言っていたような人物は、ほとんど非国民のようで、肩身が狭い。

https://twitter.com/ShinodaHideaki/status/1422829803279831044

相変わらず、残念な風潮である。

日本人は、人を褒めない。誰からも褒められなくてもコツコツと働くのが、日本人の美徳とされる。しかし、いつも必ずそれだけでいい、というわけではない。

子どもの教育でも、もっと褒めることをしたほうがいい、という認識は広がっている。大人も一緒だ。

「気の緩み」を断罪し続けるアプローチだけでなく、もっと頑張っている人を褒めるアプローチがあってもいい。頑張っている人がいるから、成果が出ている。そのことに対する社会的な認知が低いのではないか。負担を受け止めながら頑張っている人たちを、もっと評価する方法について、考えを及ばせるべきではないか。

私は一年半前からそう言い続けているが、もちろん社会の風潮を変えることはできないので、諦めてはいる。だが、果たして日本はこのままでやっていけるのか、という不安感は高まる一方だ。

新型コロナ対策の負担は、社会の特定層に歪な形でのしかかっている。旅行業界や飲食店の負担は、まさに「災害時」の様相だ。

世代間の負担の不公平も甚大だ。高齢者を守るために若者が犠牲になっている構図が続いている。これは直近の負担だけでなく、国家財政を通じた負担という面でも、そうだ。

これに対して、医療体制の充実が芳しくないことへの不満が高まっている。欧米諸国では、医療従事者への感謝を表現する気運が非常に高まったが、日本では逆の雰囲気だ。高齢者よりも先に医療従事者へのワクチン接種が優先的に進められた。ところがほとんど医療従事者は新型コロナ対策に従事していない。ただしもちろんこれは、医療従事者の人間性の問題ではない。システムが硬直化しすぎている。医療体制のひっ迫と言っても、医療施設が災害時対応のモードに切り替わっていないことは、一年半にわたって議論され続けてきたことなのだ。だが繰り返されるのは、「気の緩み」をさらに断罪し、対処療法を強めて継続させていく方法だけだ。

今まで負担を引き受けてきた人々への負担をさらに強める内容しか持たない新型コロナ対策は、もう危険水域に入っている。

ロックダウンを要望する世論が強まっている。これは単に強力な対策を打つべきだ、という気持ちからだけではなく、負担を公平に配分する形で「公正な」新型コロナ対策を行うべきだ、という気持ちが人々の間に根強く存在しているからでもあると思う。

現在の緊急事態宣言の対策が忌み嫌われているのは、「公正さ」が足りないからだ。平時の医療体制を維持することを大前提にして、特定業者に負担が偏る「自粛」によって事態を乗り切ろうとすることの「公正さ」が問われている。

冷戦時代の日本は、一億総中流社会と言われた。日本は、実質的な平等が確保された社会だ、という観念が国民の間にも広がっていた。しかし今は違う。

経済的「格差」の拡大が指摘されて久しい。逼迫した国家財政の中で、利益団体の影響力に応じた資源配分の歪さも恒常的な社会問題となっている。超高齢化社会における世代間の不平等も構造的な問題だ。新型コロナは、これらの社会の「不公正さ」の問題の全てを、深刻に悪化させ続けている。

「公正さ」の観点を軽視した新型コロナ対策は、日本社会全体の停滞を加速させる。われわれが対応しなければならないのは、目の前の感染症の問題であって、それだけではない。対処療法ではない新型コロナ政策は、「公正さ」をどれだけ確保できるか、にかかっている。

オリンピック開催に反対していたマスメディアが、オリンピック報道に熱を上げているのは商業主義的すぎる、と揶揄されている。しかし、メディア関係者は、全く同じメンタリティで、新型コロナとオリンピックの報道を続けているにすぎない。

「過去最高の日本の感染者数!」

「過去最高の日本の金メダル!」

「日本のお粗末な新型コロナ対策!」

「日本のお粗末なオリンピック運営!」

といった見出しを付けている人物が、全部同じであったとしても、違和感はない。要するに、その日に入ってきた情報で、その日の記事を最も盛り上がる見出しで作ることが重要なので、選定する内容はもちろん、見出しの妥当性などは、特に重要なことではないのである。

そうだとすれば、情報を受け止める側が、最低限のリテラシーをもって情報を吸収しなければならない、と思うしかない。

ただ、そこでさらに厄介なのは、SNSなどを通じた、いわゆる「専門家」たちの発信内容も、全面的に信じていいものである保証はないことだ。SNSでは特に、進行形の相互チェックのプロセスをへて情報の質が高まっていくことを、参加者がよく理解していく必要がある。

たとえば、SNSで盛んに発信しているので、私の目にも入ったデータサイエンティストの方の場合、731日に、東京の一日当たり新規陽性者数は「来週5000名に到達するのはほぼ確実」とツィッターで発信した。しかし、実際には、その一週間後の87日、この人物が通常行っている二階差分トレンドの推定値でも、5,000人には到達しなかった。https://twitter.com/TJO_datasci/status/1421382011457982466 木曜日に瞬間風速で5,042人の新規陽性者が出たときには、「西浦さんの勝ち」といった煽り系の表現でツィートしていた。しかし、ただ一日でも5,000人に到達した日があればそれで「勝ち」「負け」が決まるといった走り幅跳びの採点方式のような話でいいのであれば、お茶の間の素人の誰でもテレビを観ながら簡単にできる。データサイエンティストは用なしになるのではないか。

87日時点で、東京都の一日当たり新規陽性者数は、7日移動平均で、3,893人である。私自身は、新規陽性者数を、7日移動平均以外の言い方で表現したことはない。曜日の偏差があるのは織り込み済だし、一日一日のムラがあることも当然なので、統計処理をする際には移動平均値をとるのは普通だ。一週間単位の業務サイクルを持つ公の機関が数値発表をする各国共通の事情のため、7日移動平均は、新型コロナの国際的な数値理解において世界各国で広範に用いられている。

東京都の新型コロナウイルス感染症医療アドバイザーを務める国立国際医療研究センター病院の大曲貴夫医師も、いつも7日移動平均で都内の感染状況を語っている。この言い方がよほど気に入らない場合には使うのを拒絶したくなるのかもしれないが、本来、建設的な議論をするためには、普通の言い方にあわせたうえで、評価をめぐる意見を戦わせるべきだ。ところが日本では、マスコミが一日一日の報告数値で盛り上がれるかだけにしか関心がなく、多くの「専門家」が独自の指標を使ってみたりしながら、マスコミ好みの予測をしてみて「勝った」「当たった」を叫んだりするだけと支離滅裂であったりするため、未だに一貫性のある形で建設的なデータ評価の議論が行われている形跡がない。

85日、大曲医師が818日には1909人の新規陽性者が出ると予言したかのような記事が、各メディアで大きく取り上げられた。https://news.yahoo.co.jp/articles/4be6b7101bfc440c797a5118b19af81113e941c0 ただそれは、85日時点の前週比の増加率が2週間続く仮定の計算をしてみた場合にはそうなる、ということだけの話である。何かニュース性のあるような内容ではない。単なる計算の話である。実際には、増加率が2週間固定される、という現象は、稀にしか起きない。

本当に重要なのは、増加率の増減の変動を冷静に観察したうえで、短中長期のトレンドを考えることだ。

現在、日本では、以前と比して、新規陽性者数に対して重症者数や死者数が抑え込まれている。それをふまえたうえで、なお新規陽性者数を見るのは、いずれにせよ新規陽性者数が重症者数と死者数の先行指標だからだ。割合は変わっても、新規陽性者が増えれば、必ず重症者数と死者数も増える傾向が一か月程度以内に現れてくる。それを予測することは、医療体制の充実などを図る政策的措置をとるために、極めて重要だ。

日本では、新規陽性者数が語られるのは、「途方もなく深刻で悲惨な事態が起こっている!皆さん、恐怖におののいて、震えあがって一歩も家から出れなくなってください、そして家でオリンピックを見て楽しむか、菅首相辞めろと叫んで憂さ晴らしをするかしかできなくなってください!」というメッセージを送るためである。

しかし、本来は、新規陽性者数の観察とは、もっと冷静に行い、将来の政策に活かしていくために行うものなのである。

東京都の新規陽性者数の増加は、7月の最終週で急激な上昇を見せた後、731日をピークにして、スピードを減速させている。

タイトルなし

本来であれば、この現象の要因分析にエネルギーを注がなければならない。だが、「一人の生命も軽視するな」、「デルタ株の恐ろしさを過小評価するな」、「俺が勝った」、「あいつは馬鹿」といった感情論とマウント合戦で、全く建設的な議論が行われていない。議論をさらにいっそう不毛にするために、様々な怪しい「専門家」が闊歩している。非常に残念な事態である。

現在の日本の混乱に、政治家の責任も大きいだろう。だが、言論人の責任も大きい、と考えざるを得ない。

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