「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文その他の情報や、時々の意見・解説を集めています。以前にホームページとして掲載していた情報ともリンクさせています。

 前回の私のブログ記事についてhttp://agora-web.jp/archives/2030362.html 、小西ひろゆき参議院議員が批判していると聞いたので、見てみた。1月4日に二回にわたり、私を名指しで糾弾している記事があった。https://twitter.com/konishihiroyuki 
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 安倍政権の解釈変更が「違憲でなく立憲主義に反しない」との主張は、科学的事実を無視する点で映画「否定と肯定」のホロコースト否定論者等と同質である。篠田氏は「教授」であるなら事実を直視すべきだ。・・・解釈変更が「違憲かつ立憲主義の破壊」である理由は憲法学者がそう言ってるからではない。この世に事実に基づく科学が存在するから、すなわち政権の合憲根拠が事実に反する虚偽だからである。篠田氏は暴論の前に東京外国語大学生のために違憲等の科学的証明を学んで頂きたい。
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 私は、「蓑田の足元にも及ばない」いわば三流「蓑田胸喜」(戦前の右翼)だ、と憲法学者の水島朝穂教授に糾弾されている。http://agora-web.jp/archives/2029005.html 今度は小西参議院議員が、「ホロコースト否定論者」だ、と糾弾する。大変に時代がかった、大げさな事態に巻き込まれてしまったものだ。
 「戦前の再来」「ナチスと同じ」・・・などのお馴染みすぎるレトリックは、教条的護憲主義者が、相手を選ばず、数十年にわたって使いまわしてきた凡庸な表現だ、と言ってるのが、私である。拙著『ほんとうの憲法』第3章では、なぜそうなってしまうのかを分析してみた。その私を否定するために、あえて「(三流)蓑田胸喜」だ、「ホロコースト否定論者」だ、という正面突破的なレトリックの糾弾を浴びせかける。大変に深刻な事態である。
 拙著『ほんとうの憲法』では、小西議員が「芦部信喜」を知らないという理由で、国会で安倍首相を糾弾したエピソードについてふれた(ちなみに芦部とは、100万部を売るベストセラーになっており、司法試験・公務員試験受験者であれば必ず暗記する憲法学の基本書の著者)。私は、小西議員の名前はあげなかったが、このエピソードを、日本の知的閉塞状況の象徴的な例としてふれた。あるいは、そのため私は小西議員に糾弾されているのかもしれないが、もう少し本の中身に即した批判をいただきたいものである。
 小西議員は、「集団的自衛権は違憲」という議論にも強い思いれがあり、そのうえでも私を「ホロコースト否定論者」と呼ぶようである。しかし拙著『集団的自衛権の思想史』もお読みいただいたうえで、それを「暴論」とお呼びになられているのであれば、凡庸なレトリックを抜きにして、しっかりと本の中身に即した批判をいただきたいものである。
 それにしても小西議員の文章で非常に特徴的なのは、「科学」という言葉の使い方だ。自然科学だけでなく、社会科学や人文科学も含めた「科学」という語には、「学問」一般を指す意味があるが、現実を科学的に見ていることを強調して他者に対する知的優越性を誇る態度は、かつてマルクス主義者によく見られたものだ。昭和時代の日本で「科学的(wissenschaftlich)」という言葉がよく用いられたのは、史的唯物論に典型的に見られるように、表層的な上部構造の出来事だけにとらわれず、歴史の運動法則を捉えて社会の本質をとらえることが「科学的」態度だとされたからだ。
 端的に言えば、小西議員の言葉遣いは、非常に「左翼っぽい」。だがそこに史的唯物論のような特殊な視点はあるだろうか。気になって小西議員が指定する論文を読んでみた。https://goo.gl/8mxuBF そして、驚いた。小西議員の議論は、むしろ過去の上部構造の虚偽意識を絶対化する議論である。
 小西議員は、「科学的事実」を、1972年政府見解を出した当時の内閣法制局長官・吉国一郎氏が何を考えていたか、ということに還元する。吉国長官が1972年見解文書の最終決裁の権限を持っていた、と強調する。そこで、もし安倍内閣の立場が1972年の吉国長官の見解と違う場合には、「科学的事実」により、安倍内閣のほうが否定されなければならないとする。
 意味不明だ。安倍首相自らが、安保法制は、1972年政府見解の「基本的な論理」は維持しているが、解釈の「一部変更」にはなる、と明言している。1972年見解との関係についても、「基本的な論理は維持するが一部変更」論について批判をするのでなければ、意味がないはずだ。それにもかかわらず、アベ首相の見解には1972年吉国一郎内閣法制局長官と違うところがある、などとあえて言ってみることに、いったい何の意味があるのだろうか。
 そもそも仮に小西議員が強調するように、「安保法制は1972年政府見解の虚偽の読み替え」だとして、それで安保法制は「違憲」だとことになるのか。小西議員の「科学」とは、アベ首相は、1972年の内閣法制局長官に従っていないので、違憲論者であり、反立憲主義者だ、という主張のことなのだが、それはいったいいかなる意味で「科学」なのか。
 小西議員の「科学」によれば、過去の(というか1972年という特定時点なのだが)内閣法制局長官の見解は、後世の総理大臣を含むすべての人々の考えを支配しなければならないようである。小西議員の文章は、内閣法制局長官の憲法解釈は憲法そのものと同じなので、過去(1972年)の内閣法制局長官の見解に少しでも違ってしまうことは自動的に「違憲」行為であり、「反立憲主義」行為になる、と主張しているようにしか読めない。 しかも小西議員によれば、これが「科学」であり、この「科学」に反することを言う者は、「ホロコースト否定論者」と同じなのだという。
 それにしても「違憲」とか「反立憲主義」とか言うのであれば、しっかりと日本国憲法典の具体的な条項を参照し、自分自身の正しい憲法理解を提示して、そう言うべきではないだろうか。内閣や国会を凌駕する権威を内閣法制局長官が1972年においては持っており、2015年には失ったことの憲法上の根拠を示すべきではないだろうか。1972年内閣法制局長官の見解と違うから、違憲だ、反立憲主義だ、ホロコースト否定論者だ、というレベルの議論で、本当に小西議員は、自分自身の国会議員としての矜持を保てるのだろうか。
 ところで私は、9条改憲の大きなメリットは、解釈を確定させ、不毛な神学論争による国力の疲弊に終止符を打つことにある、と考えている。しかし、小西議員は、仮に改憲がなされても、それは「騙され改憲」であり、違憲状態を前提にした改憲発議は無効なので、改憲も無効になる、と主張する。
 国民投票をへてもなお解釈は確定されないとか、小西議員指定「科学」に反した内容だと国民投票は無効になる、とかという主張には、嘆息せざるを得ない。
 1972年見解の最終決裁のオリジナル文書を入手した!と自慢をしていた小西議員の「科学」は、いずれにせよ、小西議員の憲法解釈の永久的な絶対的正しさを証明するらしい。「科学」に反する意見を持つ者は、「ホロコースト否定論者」として糾弾されなければならない、ということを証明するらしい。
 小西議員は、テロ等準備罪法が「成立したら本気で国外亡命を考えなければならなくなると覚悟している」、と述べたことにより、大きな話題を呼んだ人物でもある。http://www.buzznews.jp/?p=2108446 ご本人は、現在では過去の自分の発言を否定されているようだ。総理大臣にどれだけの制約を課そうとも、小西議員ご自身は、過去の自分の発言にも拘束されることがないので、いずれは文部科学大臣にでもなられるおつもりだろうか。そして独自の「科学」概念を吹聴し、その「科学」に従わない「暴論」を言う国立大学教員を「ホロコースト否定論者」として糾弾するご予定だろうか。
 物騒な世の中だ。どうやら小西議員によれば、亡命しなければならないのは、小西議員ご自身ではなく、私だということか。

丸山眞男が、1969年の東大紛争で研究室を荒らされた後、全共闘の学生たちに「君たちのような暴挙はナチスも日本の軍国主義もやらなかった」、と述べたとされることは、有名である。<ただしhttp://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/52008482.html>

 全く不謹慎な表現である。第二次世界大戦の死者は、推計5,000万人以上、ナチスによる凄惨な虐殺の被害者は推計500万人以上という規模だ。一人の大学教授の研究室の本が読めなくなったことなどが、それを上回る暴挙であるはずはない。丸山の発言は、日本の知識人がいかに世界情勢に疎く、独りよがりのレトリックに沈殿していたかを示す象徴例だ。

逆に言えば、日本の知識人が言う「戦前の復活」「ナチスの再来」などは、大学教授の研究室が荒らさられる程度にも酷いことではなく、いわば頻繁に起こっている日常的なことでしかない、ということだ。そのレトリックは、国際的には使ってはならないタブーだとしても、日本ガラパゴス島の知識人でいる限りは大した問題にはならないので、憲法学者らが毎日毎日せっせと他人を罵倒する際に使っている、それだけのことにすぎない。

「立憲主義の破壊」などといった大仰な言葉も、ふたを開ければ、東大法学部出身者ではない者を内閣法制局長官にした、といったレベルの話でしかない。このことを、たくましい想像力によるものだとみなすか、枯渇した感性によるものだとみなすかは、どちらでもいい。本来は、知識人層は、「アベ政治を許さない、と唱えれば、君も立憲主義者だ」、のような話を延々と続けるだけの態度を、恥じるべきだ。少なくとも、もう少し物事を長期的に、できれば本質的に、見た話をするべきだ。

 憲法学会の「隊長」・長谷部恭男教授は、「国民には、法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかない」と述べる。そして、社会契約論を否定する(『憲法と平和を問い直す』[2004年])。残っているのは憲法学者による独裁制だろう。拙著『ほんとうの憲法』では、このような憲法学者の独裁主義は、日本国憲法の否定である、と論じた。

 日本国憲法に「三大原理」なるものがあり、その一つが「国民主権」であるというのは、1960年代に小林直樹・東大法学部教授らによって憲法学会の通説になり、学校教科書などに入り込み、社会に浸透した。しかし憲法典を素直に読めば、そのような読解は自然ではない。憲法が「基く」「人類普遍の原理」とは、人民の人民による人民のための「国政は、国民の厳粛な信託による」という考え方である。「信託(trust)」の解釈にはニュアンスがあっていいだろうが、社会契約の論理の完全否定は、致命的な反立憲主義だ。

 現在、日本は、低経済成長が常態化する中、巨額の財政赤字を膨らませ続けながら、人口減少時代に突入しようとしている。これこそが現在の日本の立憲主義の本質的危機であることを、知識人層は、きちんと説明すべきだ。

 立憲主義は、「信託」に基づく「責任政治」によって成り立つ。社会構成員は、自分の権利を守り、安全を確保し、さらに幸福を追求するために、そのための環境の整備という任務を政府に与え、「国政」を「託す」。定期的にチェックし、不備があれば政府を取り換える仕組みを維持しつつ、責任を持った活動を行わせるための「信託」は行う。

 もしそうであれば、政府の活動に必要な経費は、社会構成員が負担するのが当然である。事業委託者は、費用負担を前提にして、事業受託者に、業務遂行を委託する。受託者(実施者)による契約不履行の場合、委託者(発注者)が契約を破棄できるのは、費用負担していればこそである。逆に、委託者(発注者)が費用を負担しないなら、受託者(実施者)は、事業の実施を拒絶する。それが契約というものだ。

 イギリスやアメリカの古典的な立憲主義体制においては、選挙権は、財産=納税の有無によって制限されていた。自治の論理を純粋に追求すれば、納税の有無が決定的な要因であってもやむをえなかった。後に民主主義的価値観の広がりにより、納税能力を選挙権の制限に適用することは廃止され、累進課税や法人税の考え方も発展したが、「契約」関係を重視する立憲主義の考え方は、英米社会では消えなかった。

 現代世界において、天然資源を豊富に持つ「レンティア国家」で立憲政治が育たないのは、税金徴収を媒介にした「契約」関係に基づく責任政治が育たないからだと考えられている。たとえば石油収入だけで政府を運営することができ、国民も石油収入のおこぼれにあずかることだけを求めているような社会では、立憲政治は非常に難しい。政府は、石油市場への責任政治を重視しがちになるからだ。

 また、国家収入のほとんどが外国からの援助で占められているような場合も、税金徴収を媒介にした「契約」関係に基づく責任政治が育たない。対外援助が恒常的なものであってはならないとされるのは、そのためである。政府は、援助提供者への責任政治を重視しがちになるからだ。

 もう一つ、立憲主義に、天然資源や対外援助と同じ効果をもたらすのは、借金である。政府が借金漬けになれば、政府は債権者への責任政治を重視しがちになる。

 日本の財政赤字をめぐっては、国債の暴落はあるか、という点に議論が収れんしがちである。そして政府保有資産額や国内債権者比率の評価の話になる。しかし立憲主義の観点から問題なのは、国債暴落の有無だけではない。そのような議論が蔓延しているということ自体が、本来の立憲主義の責任政治の観点からは問題なのだ。社会構成員が、少なくともその能力に応じて、社会を運営する活動に貢献して初めて、政府に責任政治を求める契約関係が発生する。政府資産の評価額や、国債保有者の国籍などは、関係がない。

 心ある立憲主義者は、国債発行額のさらなる圧縮を目指し、財政健全化のために、知恵を絞るべきなのである。政党間対立は、そのための政策的競争を促すための誘因とするべきなのである。政権交代は、複数の方法を試してみるための制度的な保障とするべきなのである。

 このような話をすると、9条改憲をすると軍事費が増大して、財政赤字が拡大する、といった憲法学者らの声が聞こえてきそうである。しかし9条改憲それ自体と、財政赤字には、論理的な連動性がない。「改憲はナチスの再来だ」といった自己催眠にかかる場合にのみ、連動性があるように感じられてくるだけだ。

 むしろ国会議員を不毛なイデオロギー論争やパフォーマンス競争から解放し、真摯な政策論に専心させるためには、9条解釈を確定させることが望ましい。「立憲主義とは、アベを許さないということだ」といった低次元の扇動だけを繰り返すのではなく、もっと社会的問題の本質を論じていく努力を払うべきだ。

  2018年の国政は、憲法改正が大きなテーマになるという。言うまでもなく改憲の本丸は9条である。平和国家の仕組みを話し合う議論が成熟する機会となれば、素晴らしい。
  しかし野党第一党の立憲民主党などは、9条改正を認めない立場をとっていない。「立憲主義違反」の安倍政権が続く限り、改憲がなされても結果を認めない、といった発言もあった。
 国会で改憲発議を止められない冷戦時代「革新」党系勢力が、議論の質で存在感を見せようとするのではなく、国会内外のパフォーマンスに知恵を絞るとしたら、不毛である。「戦前の復活」「ナチスの再来」「軍国主義化」「独裁国家化」など、お馴染みの紋切型が、「立憲主義違反」なるシュプレヒコールとともに、扇動的に唱えられるのだろうか。そうなると、改憲を議論する年は、あらためて不毛な対立の年になる。
 改憲することが立憲主義を失わせることだ、などというのは、ナンセンスである。まして霞が関の慣例に従った内閣法制局長官の任命をしないと立憲主義違反になるとか、芦部信喜と違う憲法解釈をとると立憲主義違反になる、などいうのも、全くナンセンスである。
 責任ある政治家たちが、不毛なパフォーマンスを繰り返し、不必要に国力を疲弊させ続けることこそが、立憲主義国家としての日本の危機である。
 もっとも、そういう不毛な方向に進む可能性は高いような気がしてならないが・・・。

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