「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

経歴・業績 http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/shinoda/   
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 普段は政治の話などしか文章で書かないが、これも政治の話ではないかと思い、書いている。
 87歳のドライバーによる親子死亡事故の件だ。
 現場には、子ども用のヘルメットが転がっていたという。あまりに胸が痛み、夜も眠れない人も多いのではないか。
 政治の怠慢だ。
 日本は少子高齢化の深刻な危機にある。子どもを守るのは政治家の務めだ。
 高齢者支援を充実させるべきだという意見もある。財政赤字の中で少子高齢化が進む社会で、どこまでやれるのか、やれるだけやってみたらいい。しかしどこまで充実させても、「車に乗ってしまったほうが楽だ」、と考える高齢者をなくすことはできないだろう。それははっきりしている。ごまかしてダメだ。
 高齢者の票を失わないことだけを考えて行動するのは、政治の無責任だ。
 75歳以上のドライバーの免許更新の際には、認知症のテストをしているとされるが、手ぬるいのではないか。そうだとすれば、少なくとも毎年更新・半年更新などにするべきだ。
 テストや講習の内容充実も精査が必要だろう。認知力・体力だけでなく、運転をやめる決断力があるかどうか、そのような環境にあるかを試すことが必要だ。更新料を大幅に値上げして被害者補償にあてるなどの措置はとれないか。
 高齢者対策で、高齢者の事件については特に民事訴訟手続きを迅速に処理する手立てなどはとられているのだろうか。
 将来的には、高齢者を想定して、AT者限定免許のように、自動運転車限定免許への切り替えを促す仕組みも作るべきだろう。

 龍谷大学で憲法学を教えていらっしゃる奥野恒久教授が、私の著書を論じる内容の論文を一本書かれた(「『戦後日本憲法学批判』に向き合う」『龍谷大学政策学論集』第8巻第12合併号)。憲法学者の方に正面から論じていただいた論考が公刊されたのは初めてなので、大変に光栄である。

 「篠田の議論が憲法問題に関心を寄せる市民に参照され、影響を与えていることを重く受け止め・・・憲法学研究者として応答を試みる」(47頁)というもので、大変にありがたいものだ。篠田への批判としては、水島朝穂教授のブログがあるが、残念な内容だったので、http://agora-web.jp/archives/2029005.html 今後も奥野教授のような方が増えてくださると本当にありがたい。

 もちろん奥野教授の論考の狙いは、篠田の批判である。私としては、奥野教授のご厚意に感謝しつつ、論点を拾い出す形でコメントをしてみたい。

<「抵抗の憲法学」の描写に対する批判>

 私は拙著『ほんとうの憲法』の中で戦後日本憲法学を特徴づける概念として「抵抗の憲法学」という言い回しを使っている。これは私が考えたものではない。高橋和之・元東京大学法学部教授が使い、その後に石川健治・東京大学法学部教授が使っている(拙著251頁注3)。私はそれを念入りに分析しているだけだ。憲法学者が自分で使うのはOKだが、国際政治学者がそういうことを言うのはダメだ、というのは、不当だろう。

もちろん私が、高橋教授や石川教授が語っていないことを語っているのは確かだが、分析をしているだけだ。分析の過程において、「権力を制限する」ものとして立憲主義の概念を使いたがる傾向について論じている。奥野教授は、これに対して、「憲法学でも国民主権と民主主義の緊張関係は論じられている」、といった指摘をしているが、私の議論とかみあっていない。

あまりにも政府が国民の代表者であることを軽視して、一方的に政府を制限することを無条件に良しとする「抵抗の憲法学」の傾向がある、そのことについて、私は分析をしている。

私が論じているのは、たとえば、主権という概念とは別に「統治権」という実定法上の根拠のない概念を、極めて実体化したうえで、堂々と若い法律家たちに教え込もうとする憲法学者の態度に、いったいどんな法的根拠があるのか、といったことだ。「主権」とは区別された「統治権」がないと、憲法学にとって不都合だ、と感じているから、そういう法的根拠のないことを無批判的に行っているのではないか、と疑わざるを得ないのだ(サントリー財団『アステイオン』90号[20195月公刊予定]掲載予定の拙稿「『統治権』という妖怪の徘徊~明治憲法の制約を受け続ける日本の立憲主義~」もご参照いただきたい)。

<憲法9条解釈に対する批判>

長谷部恭男教授が、今年の1月に出た岩波文庫に寄せた「解説」文について、拙論を書いたばかりだがhttp://agora-web.jp/archives/2038336.html 、篠田の憲法9条解釈批判は、今や面白い意味を持っている。

長谷部教授は、今世紀になってから、学会通説を変えるべく、自衛隊を合憲とする内容の著作を出した人物である。その長谷部教授は、今や二正面作戦を強いられている。

一方では、自衛隊違憲論を信奉する伝統派に対抗して、自衛隊合憲論を通説化させようとし続けている。条文にとらわれない憲法学者の「良識」で進めてきたプロジェクトだ。憲法9条と国際法のつながりも、役立つところがあるのであれば、利用してもいいのだろう。

ところが、この試みはうっかりすると、足を取られる。なぜなら憲法が国際法に結びついている経緯を明かせば明かすほど、「個別的自衛権は合憲だが集団的自衛権は違憲だ」、という主張が、怪しくなってきてしまう。そこで長谷部教授は、さらにいっそう憲法学者の「良識」とやらを強調して、「自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲」という立場を維持しようとする。

だが、それは本当に法律論によって支えられている議論なのか?ただ憲法学者たちの「良識」に訴えるだけで、法律論としては、学術的には、まだ全く成功が証明されていない作業のままなのではないのか?

さて、奥野教授は、そんな長谷部教授のような立場を助けることができるだろうか?奥野教授は、長谷部教授が満足するようなやり方で、篠田を否定できるだろうか?

奥野教授は、「国民」と「アメリカ」の力を借りて、篠田の憲法論を否定する。恐縮だが、よくあるタイプの議論だ。

篠田の9条解釈を見て、奥野教授は、「何ゆえ、戦勝国の意図に基づいて日本国憲法を理解しなければならないのか」(奥野論文55頁)、と訴える。「憲法9条の解釈にあたり国際協調主義を踏まえるとしても、あくまでも国民の視点で行わなければならない」(同上)と主張する。奥野教授によれば、篠田の憲法9条解釈を許すと、「アメリカの世界戦略への加入」(奥野論文56頁)になる。奥野教授は、篠田の解釈では「92項の意義が全く見出されていない」と断定し、「国民の視点から92項の意義が語られなければならない」(奥野論文57頁)と主張する。

こういった篠田の否定論が正しいとすれば、憲法の解釈にあたっては「アメリカの政策に同調する可能性がある憲法解釈は否定されなければならない」という原則が事前に確立されていなければならない。しかしそんな解釈原則は、さすがにどんな憲法学の教科書にも書かれていない。そんな解釈原則が正しいと、学術的に証明されたことは一度もない。

・・・国民主権が憲法の三大原理の一つだ。篠田は憲法「前文」に書かれている「原理」は「信託」の一つだけだ、とか憲法学通説を否定するようなことを言っているが、まあそれは無視しよう。とにかく憲法学通説では国民主権が三大原理の一つなのだから、「国民の視点」に立つということが、憲法解釈の原則だ。ところで篠田は、「国民の視点」に立っていない。だから篠田は間違っている。これに対して、憲法学者は「国民の視点」に立っている。したがって憲法学者は正しい。・・・

果たして、こういう議論は、本当に学術的な議論なのだろうか。

一方では、憲法学者は主権者「国民」も憲法には服することを認める、だから「抵抗の憲法学」を強調する篠田は間違っている、と主張する。

他方では、篠田の憲法解釈は「国民の視点」に反している、したがって「国民の視点」に寄り添っている憲法学者が正しい、と主張する。

「国民の視点」とは何なのか?どこにも説明がない。「アメリカの世界戦略」ってつまり何?どこにも説明がない。ただ、こうした不明瞭な言葉が、篠田を否定するには十分なもの、として提示される。

これは法律論なのか。初めに結論ありきで、ただあとは印象操作で言葉が並べられているだけなのではないか。奥野論文を読むと、疑問が次々と沸き起こってくる。

と、言いながら、しかし、最後に繰り返し申し上げる。私の議論をとりあげて論文を書いてくださった勇気ある憲法学者である奥野教授に対しては、心より感謝している。最後にあらためて、深く敬意を表したい。

 今年1月に出た岩波文庫の『日本国憲法』は、日本国憲法とあわせて、英文日本国憲法、大日本帝国憲法、パリ不戦条約、ポツダム宣言、降伏文書、日本国との平和条約、日米安全保障条約のテキストを収録するという意欲的な仕組みになっている。

国際的な流れの中で日本国憲法を位置付けるのは、正しい方法であり、歓迎したい。

 解説は、あの長谷部恭男教授である。憲法学者がかかわっている憲法理解が、このような形で提示されていることは、素晴らしいことである。賞賛したい。

それにしても、長谷部教授の解説文は、目を見張るものだ。

 

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 国際紛争解決の手段としての戦争を禁止する不戦条約の文言を受けた日本国憲法九条一項も、同じ趣旨の条文であり、禁止の対象を武力による威嚇と武力の行使へと文言上も明確に拡大したものである。「戦力(war potential)」の保持を禁じずる二項前段も、「決闘」としての戦争を遂行する能力の保持を禁ずるものと理解するのが素直であるし・・・、「国の交戦権」を否定する二項後段も、政府が一九四五年以来、一貫して有権解釈として主張してきたような、交戦国に認められる諸権利の否定ではなく、紛争解決の手段として戦争に訴える権利(正当原因)はおよそ存在しない、という趣旨に受け取る方が筋が通るであろう。一項と二項を分断した上で「戦力」「交戦権」など個別の概念に分解して解釈する手法は、条文全体の趣旨を分かりにくくする。(長谷部恭男「解説」岩波文庫『日本国憲法[2019年]所収、171頁。)

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 つまり長谷部教授は、1946年日本国憲法91項が1928年不戦条約と同じ趣旨のものであり、1945年国連憲章の文言にしたがった文言整理も行われている、ということをはっきり認めた上で、その延長線上で「戦力(war potential)」と「交戦権」概念を位置付けるべきことを提唱している。あえて内閣法制局の有権解釈の間違いを指摘しながら、提唱しているのである。

私は、2016年に『集団的自衛権の思想史』を出版し、20177月に『ほんとうの憲法』を出版した。そこで私が提示した憲法9条解釈は、次のようなものであった。91項で放棄されている「戦争(war as a sovereign right of the nation)」は、その文言から国際法で不戦条約以降に放棄されている「戦争」のことを指していることは、明らかである。したがってそこでは自衛権は放棄されていない。その1項の「戦争」の理解に沿って92項の「戦力(war potential)」を解釈すべきなのは、その文言から、明らかである。したがって92項は自衛権行使の手段を禁止していない。91項は「不戦条約」と「国連憲章」に強く影響された文言であり、そこで放棄されている「戦争」に自衛権が含まれたりしないことは、確立された国際法規から自明である。

憲法学通説は、伝統的に、私のような解釈の余地を認めてこなかった(芦部信喜『憲法学I憲法総論』[有斐閣、1992年]261頁、樋口陽一「戦争放棄」樋口陽一(編)『講座憲法学2主権と国際社会』[1994年、日本評論社]111頁、高橋和之『立憲主義と日本国憲法』[2017年、有斐閣]、53-54頁など)。

国際法にそった91項解釈の可能性を認めつつも、それを最後に覆すために、2項の「戦力」不保持を持ち出すという手法をとっていた。仮に1項で「自衛戦争」(憲法学者はわざと自衛権行使のことを「自衛戦争」と呼ぶが、実はそのような用語法には法的根拠がない)が留保されているとしても、2項で「戦力」が禁止されているので、結局、「自衛戦争」はできない、と憲法学者たちは論じてきたのである。

 私の主張は、この憲法学通説の解釈は、逆さまだ、というものであった。1項で先に国際法に合致した「戦争」概念が登場している以上、2項の「戦争潜在力(war potential)」としての「戦力」も、1項に続いて1項と同じ「戦争」概念が用いているものとして解釈するのが正しい、というのが、私の主張である。したがって2項で不保持が宣言されている「戦力(war potential)」には、1項で禁止されていない自衛権の行使の手段は、含まれない。それが最も論理的な解釈である。20191月の長谷部教授が言うように、91項・2項を一続きのもとして体系的に理解する解釈である。

 しかし長谷部教授は、自分の主張が篠田と重なるところがある、などということは、絶対に認めないだろう。

まあ、それはいい。

 だが気になるのは、長谷部教授が、いつから「war potential」に言及するような解釈論を提示するようになったか、である。

 長谷部教授は、まだ東大法学部教授であった2004年に出版した『憲法と平和を問い直す』で自衛隊合憲の議論を提示し、話題を呼んだ。だがそれは、ひどくふわっとした、絶対平和主義は特定の価値観の押し付けなので、「穏健な平和主義」あたりがいい、といった曖昧な主張であった。

そのとき、長谷部教授はむしろ、「日本の憲法学者は、法律学者が通常そうであるように、必ずしも、つねに剛直な法実証主義者として法文の一字一句に忠実な解釈を行うわけではない」(長谷部『憲法と平和を問い直す』142頁)、などと平気で主張していた。そのうえで憲法の「解釈運用は、最後は専門の法律家の手に委ねられる」(同上、173-174頁)べきだと平気で主張していた。つまり、長谷部教授好みの「穏健な平和主義」が正しいのは、文言解釈にはとらわれない憲法学者の解釈に憲法解釈を委ねることが、憲法学者が信じる最も正しい憲法解釈の方法だから、憲法学者の解釈に憲法解釈を委ねて憲法を運用していかなければならないからでしかなかったのである。この驚くべき憲法学者中心主義それ自体は、最近の著作でも貫かれている。http://agora-web.jp/archives/2032313.html 

いずれにせよ、以前の著作において、決定的な自衛隊合憲論を主張する著作においても、長谷部教授は、「war potential」の概念を提示することなどはしていなかった。むしろ、憲法解釈は、憲法の文言に委ねるのではなく、憲法学者に委ねろ、という話しかしていなかったのである。

それ以降の著作でも同じだ。私も長谷部教授の憲法9条論はだいたい確認しているつもりである。しかし最近になるまで、長谷部教授が、「war potential」についてふれているのを見たことがなかった。長谷部教授がようやく初めて「war potential」についてふれたのは、私の『ほんとうの憲法』が出版された数か月後の201710月のことである。ウェブサイトにおける連載記事で、長谷部教授は、201710月に、次のように書いた。

 

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戦力ということばは、いろいろに理解できることばである。歴代の政府は、このことばを「戦争遂行能力」として理解してきた。war potential という条文の英訳(総司令部の用意した草案でも同じ)に対応する理解である。91項は、明示的に「戦争」と「武力の行使」を区別している。「戦争遂行能力」は「戦争」を遂行する能力であり、「武力の行使」を行う能力のすべてをおおうわけではない。そして、自衛隊に戦争を遂行する能力はない。あるのは、日本が直接に攻撃されたとき、必要最小限の範囲内でそれに対処するため、武力を行使する能力だけで、それは「戦力」ではない、というわけである。<http://www.hatorishoten-articles.com/hasebeyasuo/10

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 201710月になってようやく「war potential」の概念を参照するようになった長谷部教授は、しかしまだ「歴代の政府」と「総司令部」の解釈がそれだ、という突き放した言い方で、「war potential」を参照するだけであった。つまり201710月にようやく「war potential」について触れ始めた長谷部教授は、しかしまだその時点では20191月の岩波文庫の「解説」における文章のように、「war potential」を自分自身の92項解釈の基盤とするほどの立場はとっていなかった。長谷部教授の憲法9条理解は、変化し続けているのである。

 ちなみに201710月の長谷部教授の言説は、問題を含んでいる。長谷部教授は、「歴代の政府」の解釈は、「総司令部」の「war potential」の理解と同じだ、と201710月に主張した。しかし日本政府が「war potential」という概念を参照して憲法92項解釈を行った記録を、私は知らない。存在していないと思う。日本政府が「war potential」を参照して「総司令部」のように国際法にそった9条解釈を施した、という経緯はない。

ところが20191月になると、その解釈を、長谷部教授は、自分のものともした。かえって今度は、日本政府の「戦力」「交戦権」の理解はおかしい、と言い始めた。つまり「war potential」として「戦力」を解釈しない日本政府はダメな憲法解釈をしており、したがってこの点では内閣法制局の有権解釈も否定されなければならず、「war potential」として「戦力」を解釈する自分は優れている、ということを示唆するようになった。20191月の長谷部教授は、「総司令部」には、ふれない。

どういうことなのか、私には、長谷部教授の態度が、全く不明瞭なものにしか見えない。

私のように日本国憲法における「戦争(war)」「戦力(war potential)」概念を、不戦条約や国連憲章によって代表される国際法規範にそって解釈する私の立場を採用するのであれば、もはや個別的自衛権だけは合憲だが、集団的自衛権は違憲だ、などという国際法に反した主張を維持するのは、著しく困難になるはずだ。だがもちろん長谷部教授が、今になって集団的自衛権の合憲性について、私と同じ立場をとるなどということは、想像できない。それはもう期待しない。しかしそれにもかかわらず、実際には、以前の長谷部教授の9条解釈では見られなかった解釈方法を、20191月の長谷部教授は行うようになっている。

それはどういうことなのか?全く不明瞭である。

これでは長谷部教授は、国際法と憲法の関係について、まったく一貫性のない、つまみ食い的な態度しかとっていないのではないか?という疑惑が深まっていかざるをえない。

*****ところで、この文章を読んでいる方で、長谷部教授の言説について一貫性のある体系的な説明ができる方がいたら、私にそれを教えてほしい。また、20177月以前に、長谷部教授が「war potential」に参照している文章があることを知っている方がいたら、やはり私にそれを教えてほしい。*****

長谷部教授は、2018年の『憲法の良識』で、次のように述べた。

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このところ、日々憲法について発言する人々の顔ぶれを見ると、その大部分は、憲法の専門家ではない人たちです。専門外の問題について憶することなく大声で発言する、その豪胆さには舌をまくしかありませんが、こうしたフェイク憲法論が世にはびこることには、副作用の心配があります。これは高血圧に効く、あれは肥満に効くといわれるリスクの中には、にせグスリもあるでしょう。……その結果として起こるおかしな事態は、最初におかしな言説をとなえた人たちだけに悪い影響をもたらすわけではありません。日本の社会全体に悪影響が及びます。(203-204頁)

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 つまり長谷部教授にとっては、私、篠田英朗、という人物も、存在していないに等しいものでしかない。私の『ほんとうの憲法』という著作も、存在していないに等しいものでしかない。

 したがって長谷部教授の『ほんとうの憲法』以降の言説が、『ほんとうの憲法』における議論とどういう関係にあるのか、という問いは、長谷部教授が絶対に受け入れることのない問いだ。仮に長谷部教授が「war potential」について参照し始めたのが、私の『ほんとうの憲法』の公刊後のことであったとしても、それは長谷部教授は決して参照することのない事実である。なぜなら私の『ほんとうの憲法』という著作自体が、長谷部教授にとっては、この世に存在してはならない憲法論でしかないからである。存在してはならないものなのだから、長谷部教授は決して私の著作を参照することはない。

 しかし、どうだろう。仮に、長谷部教授が、私が指導している博士課程の学生だったとしたら、どうなるだろう。

 指導教員である私は、長谷部教授のような博士課程の学生に、次のように言わなければならない。

 「先に自分の議論に関係している議論をしている著作があったら、きちんとそれを参照しなければ、学術的には、剽窃(plagiarism)に該当してしまうんだよ。君が、そんな著作の存在は認めない、意識化していない、だから剽窃にはあたらない、と主張するとしても、それはダメだ。学位をとりたかったら、剽窃行為だと言われないように、きちんと関係している先行研究を参照しなさい。」


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