「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

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 いま欧州に来ているため、イギリス政治の混乱を間近で感じる。この混乱はブレグジットに関する国民投票から発生したのだが、改めて思うのはむしろ、首相解散権の持つ機能だ。イギリスは、首相から解散権を奪うという実験を行った。そのため失敗しているのだ。
  2011年議会任期固定法は、内閣不信任決議に対する解散権行使か、下院の3分の2以上の賛成による自主解散によってしか、議会が解散されないことを定めた。つまり首相から議会の解散権を事実上取り上げた。 2010年のイギリス下院選挙において、どの政党も過半数の議席を獲得することができず、「ハング・パーラメント」の事態が起こったとき、保守党が自由民主党に譲歩して連立政権をつくるために実施を約束した措置だ。
 首相に解散権がない場合、首相は議会に妥協し続けるしかない。素朴な単純理論では、首相は議会の多数派の信任を得て首相になっているはずではある。しかし実際には、議会の多数派が、個別の政策では首相に反対するかもしれない。最悪の場合、今回のブレグジット騒動が劇的に示したように、首相に反対する点で大同団結する議会の多数派が、実際には政策的な統一性を全く持っていない場合すら起こりうる。その場合、どこにも政策を調整する原理が働かないままの状態が続く。政策の実効性を確保するために「議会を解散して民意を問う」という手段がとれないために、何も決められない状態が延々と続いてしまうのである。
 ブレグジットに関する2016年国民投票は、2011年の議会任期固定法の一つの論理的帰結であった。2015年に行われた総選挙の際、デービッド・キャメロン首相は、EU離脱の是非を問う国民投票を行うことを公約してしまった。理由は単純で、保守党内部のEU離脱派の支持がなければ、保守党もバラバラで、政権維持ができなかったからである。
 伝統的なイギリス政治の考え方に沿って言えば、国民投票ではなく、EU残留の是非を問い直す解散総選挙を行うべきであった。しかし解散権を奪われたキャメロン首相には、それができなかった。そこで首相が首相としての議会の信任を確保するためには、重要事項の決定を国民投票に回して誤魔化すしかなかったのである。
 2011年議会任期固定法によって生じた国制(憲法)改革は、実際には残存する議会主権や議院内閣制の考え方と整合性のないものだった。そのため矛盾が顕在化したのが、2016年国民投票であり、それに引き続く収拾不能な混乱であった。
 日本においても改憲論議の中で、立憲民主党が首相解散権の制約を提案している。首相解散権は、議院内閣制の枠組みの中で三権分立を図るために、近代議会政治の中で培われて発展してきたものだ。「アベ政治を許さない」勢力の支持固めの発想だけでなく、各国の様々な実例をふまえた慎重な検討をしてほしい。(そもそも本来は、野党第一党には政権交代を目指してもらうのが王道であり、あたかも第三党のように首相解散権を制約して議会の現有勢力の確保を優先する関心を持っているだけでいいのかも、問い直してほしい。)
 日本国憲法は、その前文において、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」するという文言から始まる。憲法学者系の方々は、やたらと「国民主権」「国民主権」「国民主権」と強調する。しかしそれは困った態度だ。
 拙著『憲法学の病』でも指摘したが、日本国憲法の「一大原理」は、「国政は、国民の厳粛な信託(trust)によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者 がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」という、国民と政府との間の「信託」原理である。実体性のない「国民」の「主権」ばかりを強調して全ての議論を押し切ろうとする憲法学者によく見られる発想は、日本国憲法の原理ではない。実際の日本国憲法典は、議会を通じた政治の調整を求めており、今回のイギリスの国民投票以降の混乱を避けることを要請している。
 GHQは、英米法の考え方にそって憲法草案を起草した。しかしアメリカ流の大統領制にもとづいた三権分立の導入を避けた。そのため、日本国憲法は、イギリス政治を模した制度設計を取り入れている。 「国会が国権の最高機関」で、首相が「議会の議決」で決められる制度をとりながらも、「三権分立」も確保されるのは、首相に「解散権」があればこそだ。解散権がなければ、三権分立は溶解し、議会の独裁に陥るのでなければ、「何も決められない政治」が引き起こされる。
 イギリスは日本国憲法がモデルとしている国だ。そのイギリスが解散権を変更したことで、どれだけの混乱を経験する羽目になったかは、日本人はよく見ておくべきだ。

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 井上達夫・東大教授の憲法に関するインタビュー記事を読んだ。https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019083000002.html 複雑な心境を抱いた。

私がまだ修士課程の大学院生だった頃、井上教授に、早稲田で開かれた研究会に来ていただいたことがある。私が23歳頃の1992年頃だ。非常に力強くも落ちづいた報告と受け答えに、感銘を受けた。井上教授は、30歳代前半でサントリー学芸賞を受賞され、名声を確立されていた。自信に裏付けられた静かな凄みに、新進気鋭の若手学者とは、こういう方のことか、と胸に残った。

 その時から比べると、井上教授は、変わってしまった。60歳代半ばで、もう怖くて誰も何も言えない存在だ。すっかり、いつも怒って説教をしている人、になってしまった。

 井上教授は、「修正的護憲派」・「原理的護憲派」と呼ぶ人々を批判し続ける。だがその批判の根拠は、何やら特殊な倫理的な姿勢を問うものだ。「欺瞞的」、といった言葉を、繰り返し繰り返し、他者の糾弾のために使う。

 木村草太・首都大学東京教授への糾弾の例をとろう。「私の授業を聴いていた元学生」の「木村君」が、「お話にならない暴説」を述べている、と井上教授は激怒する(『脱属国論』62-63頁)。木村教授が、集団的自衛権は違憲だが個別的自衛権は合憲だ、と主張する際の根拠に、憲法13条「幸福追求権」を使った、という理由で、井上教授は激怒するのである。憲法9条で戦争は否定されるが、国民の幸福は守らなければならないので、個別的な自衛権の行使だけは13条で認められる、という議論をするのは、人権を理由に9条を骨抜きにする、許してはいけない態度だ、と井上教授は主張する。

 しかし井上教授の木村批判は、いささか的外れである。13条の参照を思いついたのは、木村教授ではない。そもそも集団的自衛権は違憲だが個別的自衛権は合憲だ、という政府見解を初めて文書で出した1972年に内閣法制局が、正式な論拠として採用したのが、13条根拠説だった。木村教授は、72年の政府見解のままでいい、という話をしているに過ぎない。

 仮に井上教授が、72年政府見解に依拠すること自体が、憲法学者として欺瞞的な態度だ、と言いたいのだとしたら、72年以前に著作活動で13条を参照した者たちにふれるべきだ。佐藤達夫は1953年・1960年の著作で、13条を参照して自衛隊の創設を正当化していた。もっとも佐藤は、個別的自衛権は良いが集団的自衛権はダメだ、などとは言わなかった。自衛権一般を13条で正当化した(拙著『集団的自衛権の思想史』25178頁参照)。

 井上教授は、13条を援用したら「安倍政権の集団的自衛権行使だって容認されてしまう」という理由で、木村教授を否定する。安保法制懇のメンバーや、私を含めて多くの国際政治学者なら、「だから最初から集団的自衛権の合憲だと言っているのに・・・」と思う。しかし井上教授は、われわれのような者については、存在すら認めない。井上教授の頭の中では集団的自衛権は絶対に違憲だということは論証の必要もない宇宙の運動法則のようなものとして決まってしまっているので、集団的自衛権合憲論者は、ふれるに値しない地球外生物の扱いである。したがって井上教授は堂々と、「それでは集団的自衛権まで合憲になってしまうではないか!」という理由で、木村教授を否定する。

 ここまで徹底した他者「欺瞞性」糾弾の根拠は何か。井上教授の憲法9条解釈である。井上教授によれば、9条は全ての自衛権の行使を否定している絶対平和主義であり、それ以外の解釈の余地は全く一切ないと主張する。なぜそこまで強く言えるのか?

 驚くべきことに、井上教授は、憲法9条解釈論を示したことがない。憲法を論じている者については相当に論じているが、実は井上教授はまだ、自らの憲法解釈の正しさを説明したことがない。

せいぜい、「文理の制約上、原理主義的護憲派の見解が正しいことは、日本語を解する者なら否定できない」と手短に断定し、宣言するだけなのである(井上達夫『立憲主義という企て』226頁)。

 井上教授とは違うふうに憲法9条を解釈する者は、「日本語を解しない者」である。そのような烙印を押された者は、議論から排除される。この仕組みがある限り、当然、どこまでいっても必ず井上教授だけが正しい。

つまり、井上教授の議論の絶対的な正しさは、「日本語を解する者であるかどうか」という基準にかかっているのだが、この「日本語を解する」能力の認定権限の全ては井上教授のみに委ねられている。しかも井上教授は「日本語を解する者であるかどうか」という審査基準の内容を説明することはしない。説明不要の審査基準が、井上教授の専管的裁量事項として、運用される。だから、どこまでいっても必ず井上教授だけが正しいのである。

 井上教授によれば、憲法9条が絶対平和主義の条項であることは、一切の論証の必要のない「日本語を解するかどうか」の問題である。およそ「日本語を解する者」であれば、憲法9条を絶対平和主義として読むしかない。もしそのような解釈をしない者がいたら、それはその者が「日本語を解する者」でないか、嘘をついている「欺瞞的」な者であるかのどちらかである。

 しかし、「日本語を解する者」であるかどうかという審査基準を、一切説明を施すこともなく振り回すだけで、本当に学者の議論を終わりにしてしまっていいのか。それで、憲法学者や法哲学者が社会に存在していいのか、不安になったりしないのだろうか。

 たとえば普通の人は、読売巨人軍の「戦力」は充実している、などといった会話をする。テレビの解説者なども頻繁に「戦力が充実していますねえ」などと言う。とすると、普通の人の感覚にしたがうなら、プロ野球選手は違憲だ、と言わなければ、「欺瞞的」である。

 井上教授は、「日本語を解する者」は当然、プロ野球選手は違憲ではない、と主張するかもしれない。つまり「日本語を解する者」なら当然、「戦力」という言葉を使っていても、それは憲法の「戦力」ではない、と井上教授は言うのかもしれない。

 しかしそれでは日本国民のほとんどが自衛隊を合憲だと感じているというアンケート調査はどうか。現代日本において、大多数の国民は、自衛隊を合憲だと考えている。大多数の国民の言語感覚では、自衛隊は憲法が禁じている「戦力」ではないのである。

 ところが井上教授は、自衛隊を「戦力ではないと言い張るのは、詭弁以外の何物でもない」と一方的に断定する。
 結局のところ、井上教授によれば、大多数の国民は、「日本語を解する者」でないか、嘘をついている「欺瞞的」な者であるかのどちらかでしかないわけである。(ちなみに井上教授は、「日本人のマジョリティが『不感症』になっている」[井上達夫『立憲主義という企て』299頁]と述べるが、要するに日本人の大多数は「不感症」で「自己欺瞞的」であるようである。)

 井上教授は、自衛隊の合憲性を認める「修正主義的護憲派」も「欺瞞的」だが、自衛隊の存在を認めない「原理主義的護憲派」の「欺瞞は修正主義的護憲派よりもなおひどい」と述べる。「原理主義的護憲派」が「欺瞞的」なのは、自衛隊を違憲だと思っているのに、違憲だという立場を貫かず、自衛隊が存在している現実を受け入れているからだという。「自衛隊廃止や安保破棄を主張しなければならない」のにやっていない、というわけである。

 井上教授は、自衛隊違憲論者である。そこで井上教授は、9条削除論を主張する。9条の文言と現実との乖離があまりに激しいので削除したうえで、国民が自ら安全保障政策を選択していくべきなのだとする。(もっとも井上教授が、「日本語を解しない者」と「不感症/欺瞞的である者」から成り立っている国民の大多数に安全保障政策を考えさせたいのか、ただ「日本語を解する者」だけを真正な国民として扱うのかは、判然としない。)

 さらに判然としないのは、井上教授が、「9条の2」の追加を提案する山尾志桜里(立憲民主党)衆議院議員を激賞し、繰り返し褒めちぎることである。

 井上教授によれば、山尾議員は、9条の2を挿入して、「専守枠内で戦力の保有・行使を認める」と定める改憲を行うことを提唱しているから良いのだという。しかしなぜ山尾議員だけは「欺瞞的」ではないのか?山尾議員は、まず、自衛隊の違憲性を明言し、「自衛隊廃止や安保破棄を主張」しているのか?山尾議員は、立憲民主党の指導部の「欺瞞」を糾弾し、共産党ですら「欺瞞的」だと糾弾しているのか?もし糾弾してもいないのに、違憲状態があるかのように語って、それを解消する自分の案が素晴らしいと説明しているのだとしたら、それこそ最も「欺瞞的」なのではないのか?なぜ井上教授は、山尾議員にだけは、「自衛隊廃止や安保破棄を主張」していないという理由で「欺瞞的」だ、と糾弾しないのか?なぜせめて「改憲案が達成されなければ、違憲状態が続いてしまうので、自衛隊廃止や安保破棄を主張」せよ、と山尾議員に言わないのか?

 判然としない。

判然としないのは、私が「日本語を解しない者」であるか、「欺瞞的な者」であるかだからだという。しかし、そんなことを言われても、やはり判然としない。

 まあ井上教授のような大教授が、私などを、「日本語を解しない者」以下で、ほとんど存在していない等しい塵だとみなし、視界の片隅にも入れないのは、まあ、仕方がないとしよう。だが政府見解なども、完全に存在していないかのように振るまっていて、本当にそれでいいのだろうか。

 井上教授は、繰り返し繰り返し、自衛隊は戦力で軍隊だから、違憲だ、と主張している。しかし政府見解は、「自衛隊は憲法上の戦力ではないが、国際法上の軍隊だ」、というものである。http://agora-web.jp/archives/2030702.html 

そういう政府見解は、「日本語を解しない者」の戯言でしかないか、単なる「欺瞞」だとして、井上教授は、議論の視野には入れないのだろう。確かに、井上教授ほどの権威ある崇高な学者であれば、そのような立場もとれるのだろう。しかしほとんどの平凡な学者の場合には、政府見解を存在していないものとして取り扱ったら、不勉強を指摘される。せめて政府見解の間違いを指摘し、その論拠を示さなければならない。

学界の重鎮が、60歳代半ばになって、「日本語を解する者であるかどうか」を論証不要な絶対基準として振り回し、お前は欺瞞的だ、あいつも欺瞞的だ、こいつも欺瞞的だ、と怒鳴り続けるとしたら、日本の学界も、言論界全体も、萎縮する。いや、おそらく日本それ自体が、萎縮する。

しかも、井上教授の「日本語を解する者であるかどうか」なる絶対基準にしたがうと、特定の女性野党議員だけは激賞しなければならず、その特定の女性野党議員だけは「欺瞞的」ではない、という認定をしなければならない。判然としない気持ちを抱いても、「それはお前が日本語を解さない者であるか、欺瞞的な者であるからだ」、とだけ言われる。

大学院生だった23歳頃の私が見た井上教授は、そういうことは言っていなかった。井上教授は変わってしまった。もっとも時代も変わってしまったのかもしれない。


https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=sr_1_1?qid=1567924535&s=books&sr=1-1

  日本政府は、香港問題についての言及を自重しているように見える。伝統的な態度かもしれないが、欧米諸国の政府首脳が積極的に発言していることと比べれば、物足りない。アメリカも、欧州諸国も、中国政府の鎮圧行動をけん制する発言を行い、民主化運動への関心を示している。

 もちろん、ただ内気で恥ずかしがり屋だから日本政府は何も発言しない、ということでもないだろう。日韓関係が緊張している中、中国が韓国寄りの立場をとることを自重していることに、日本が注目するのは、当然である。韓国政府は、国際世論工作を、今後さらに強化していく。中国がどのような態度をとるのは、焦点の一つになる。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190904-00000575-san-kr そうだとすれば、日本政府が中国政府への批判を控えるのは、理にかなっている。

 しかし、外交というものは、常に複眼的に考えなければならない。実は、日韓対立の時期においてこそ、インド太平洋戦略を強化する重要性が高まっていることも考えなくてはいけない。インド太平洋戦略を、一帯一路とは区別される、血肉の通った構想にするためには、自由民主主義の価値観へのコミットメントが、絶対に必要である。香港の民主化運動に対する強い関心は、今や日本の国益に深く関わるインド太平洋戦略の推進と、無関係ではない。

 ではどうすればいいのか。

 昨日、香港の行政長官が、逃亡犯条例改正案の正式な撤回を表明した。

 日本政府は反応すべきだ。

 中国政府が自ら歩み寄りの姿勢を見せたその瞬間こそ、中国政府の努力の姿勢を評価しながら、同時に民主化運動の行方に強い関心を持っていることを表明することができる、大きなチャンスだ。それを捉えていくべきだ。

 中国政府への事態収拾への努力を留意する表明を行いながら、その機会に日本が香港の民主化運動を注意深く観察し、香港がさらにアジアの魅力ある民主的な街として発展していくことを期待していることを、アピールするべきだ。

 民主化運動はとにかく素晴らしい/中国政府は抑圧的だ、などといったことを、日本政府は言うことができない。しかし日本は香港の民主化運動に一切何も関心を持っていない、といった疑念を各方面に与えることも、日本の国益に反する。

 日本は、この二つの要請を満たす行動をとらなければならない。実は、そのためのチャンスは時折めぐってきている。そういうチャンスを見逃すことがないようにしてほしい。 

 中国に対しては、見ざる聞かざる言わざる、の態度が、日韓関係緊張の時代には必要だ、と考えるのは、愚の骨頂である。もちろん超大国・中国に対して、日本が介入主義的な態度をとることも、愚の骨頂である。

日本は、両方をきちんとわかっている、そういう対応を柔軟にとることができている、という印象を、世界に与えて、日本の外交力をアピールしたい。

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