「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

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3月11日、国際刑事裁判所(International Criminal Court: ICC)の新たな所長に、赤根智子判事が選出された。ICC所長職は、要職である。赤根所長のご活躍を心から祈念する。

ただし、「日本人として初」といった伝え方で、ある種の祝賀ムードのようなものが日本国内で見られたような気がするのは、私の気のせいであったかどうか。ICC所長職は、大変に重たい職務である。日本政府は、すでに昨年から赤根所長の身辺警備に特段の要請をしてきている。緊張感を持ちながら、応援していきたい。

ICCは特殊な国際裁判所で、検察部が並置されている。捜査対象の選定や訴追の決定にあたって果たす役割では、現在カリム・カーン氏が務めている主任検察官のほうが、裁判部よりも政治的には重たい。

 そうは言っても、赤根判事がロシアのプーチン大統領の訴追の判断に加わり、ロシアの連邦捜査委員会から報復措置として指名手配されたことからもわかるように、裁判部の役割も非常に重たいものであることは言うまでもない。

 しかも裁判官が就任する所長職は、ICC全体の長であるので、書記局という名称の事務局機構にも権限を行使し、外交官に対してもICC全体を代表して折衝をしていくことになる。本来は裁判所に政策があるということは簡単には言えないのだが、ICCのように各国政府の信任を維持しながら、高度に政治的な案件を扱っていく機構であれば、当然のこととして実態面での政策的領域がある。判事が就任する仕組みとなっているとはいえ、所長職は、二名の次長とともに、裁判部の機能を超えた重要性を発揮する職務であると言える。

 赤根判事は、齋賀富美子判事、尾崎久仁子判事に続いて、三人目の日本人ICC判事である。齋賀判事と尾崎判事が、外務省の外交官出身の判事であったのに対して、日本で検察官を長く務めた赤根判事は、初の法務省系の背景を持つICC判事である。

 ICCは、日本の省庁では、外務省と法務省が、担当省庁として関与する仕組みがとられている。アメリカと中国がICCに加入していないため、GDP比率で分担金比率が決められるICCにおいて、日本は、2007年のICC加入以来、財政貢献一位の地位を占めてきた。18人の判事席の一つは、ほとんど指定席のようになっている。

もちろん三名の歴代判事は、立派に職務を全うしてきている。ただ齋賀判事は、在任中に病気で亡くなる不幸に見舞われた。尾崎判事は、リトアニア大使に任命されて退職した際に、トラブルに見舞われた。継続審議中で非常勤判事として残ることになった事件の弁護人が兼務を理由に忌避申立てを行い、それによって裁判が遅延してしまったことを受けて、特命全権大使のほうを退任する出来事があった。その意味では、日本にとっては、赤根判事の所長就任への思いは強い。国際司法裁判所(ICJ)では、外務省出身の小和田恒判事を除けば、現職の岩沢雄二判事を含めた歴代の三名の日本人判事は、大学の学者である。国際海洋法裁判所も、歴代の日本人判事は、学者と外交官だ。実務で国際法を扱わない法務省系の人材にとっては、赤根判事は類まれな逸材であると言える。

赤根判事は、第六代のICC裁判所長になる。前任者は、カナダ、韓国、アルゼンチン、ナイジェリア、ポーランドの出身者である。ICCは国際機関としてポストの地域配分に配慮をする。所長としての赤根判事を補佐する二名の次長は、欧州のイタリア出身の判事とアフリカのベナン出身の判事だが、異なる地域出身の判事三名で所長・次長二名を構成するパターンは、過去ほぼ一貫して踏襲されてきている。所長職は、地域ローテーションで、これまで欧州(西欧[北米で唯一の加盟国のカナダはこのグループに属する])、アジア、中南米、アフリカ、欧州(東欧)と回ってきていたので、今回の改選ではアジア出身者の所長就任が有力であった。ICC124加盟国の中で、「アジア太平洋」グループに属する諸国は19しかなく、ほとんどが小国だ。https://asp.icc-cpi.int/states-parties 18名の判事の中で「アジア太平洋」出身は、3名である。ただし残り二人は、すでに所長経験済の韓国の判事と、昨年末に選出されて判事に就任したばかりのモンゴル出身の判事だ。順当にいけば、赤根判事の就任が確実であった。

赤根判事の判事就任は、20183月で、私がICCVisiting Professionalの肩書をもらって出入りしていた時期の直後であった。すれ違いのようだが、赤根判事の極めて実直で学究的なお人柄は伺っている。過去6年間にわたりICC判事としての職務も、極めて堅実にこなしてきた。

ただし、就任当初に、大きな試練があった。設立以来、アフリカ人ばかりを捜査しているとアフリカ諸国に糾弾され、アフリカからの加盟国の脱退騒ぎが起こっていた直後、当時のベンスーダ主任検察官は他の地域の犯罪捜査を矢継ぎ早に開始しようとした。その流れの中で、201711月、ベンスーダ主任検察官は、アフガニスタンの捜査の開始の許可を裁判部に要請した。

当時のアフガニスタンは、まだ戦争の真っただ中の状態であった。治安上の理由から、捜査は不可能と思われた。それを判断する辛い仕事にあたったのが、第二予審部を構成する三名の判事であった。めぐりあわせから、就任直後の赤根判事は、その一人となってしまっていた。そして20194月、赤根判事を含む第二予審部の三名の判事は、検察官のアフガニスタンにおける戦争犯罪の捜査の開始の許可の要請を、却下した。理由が、法律的には説明されたとは言えない。ICCには限られた資源しかない、といった表現で描写されただけであった。

これに検察部だけでなく、設立からICCを応援してきたNGOなどが一斉に反発した。アメリカの政治圧力に屈したと糾弾する者なども現れた。赤根判事の名前は、ICC批判の文脈の中で頻繁に言及されることになった。辛い時期であったと言える。

結局、約一年後の20205月、上訴審に移った審議の結果、検察官の要請は認められて、アフガニスタンは、ICCの正式な捜査対象となった。赤根判事を含む第二予審部の判断が、他の判事の決定によって、覆されたのである。

その後、アフガニスタンでは、20218月にアフガニスタン共和国政府が崩壊し、タリバンが権力を奪取するという事態が起こった。本来は捜査対象であったタリバンが実効統治する体制になり、ICCの捜査は、いよいよ実態として不可能な状態になった。ICCのアフガニスタンに関する捜査が、ほぼ開店休業状態になっていることは、自明である。赤根判事ら第二予審部の判断は、裁判所としては政治的な事態に直面して妥協を強いられた辛いものだったが、実態としては現実に即したものであったことは否定できない。

今回の赤根判事の所長就任の機会に、こうしたICCの持つ特殊な性格とともに、重要な職務を全うしているその他の日本人職員にも注目が集まれば、とも思う。800人以上と言われるICC職員の中で、日本人職員は20人にも満たないと言われる。財政貢献15%に対して、職員数は約2%といった残念な状況だ。理由の一つは、国際裁判所で実務にあたる準備のある日本の法曹界の人材が不足していることではあるだろう。しかし実際には、書記局で政務系の分析をするセクションの長が日本人であることをふまえても、幅広い人材がICCでキャリアを磨くことができる可能性がある。現実に根差して、自然に幅広い視点で見ていくことが必要だ。https://youtu.be/NmuySqRIuEI

 「グローバル・サウス」なる概念を、自民党議員のみならず学者層までが、多用していることについて、私は批判的である。その最大の理由は、「グローバル・サウス」なるものは世界に存在していない、と考えるからである。

 欧米諸国と、あとは東アジアやオセアニアの一部の諸国を除いて、世界の全ての諸国を、「グローバル・サウス」なる実態を欠いた抽象名詞のみで括られる一つのグループに属している、と断定するのは、壮大な現実の歪曲である。端的に間違いであり、思考の暴力である。実務的にも、あらゆる側面で外交政策の誤謬を招くだろう。

 だが「世界に200も近く国があって各地域ごとにも異なる特性があるなどというのは面倒すぎる、どうせそれらの諸国は貧しくて力も弱い国なのだろう、ざっくり一つのグループだということにして理解したことにしてしまうのはどうか」、という考えに、日本の高齢者層が誘われてしまうのは、どうしようもないことなのだろう。

だが、たとえ少子高齢化の日本の市場原理が高齢者向けに進むとしても、そのような思考

が実際の世界と乖離していることは、隠しようがない。

 インドが、「グローバル・サウス」概念を使った外交術を駆使することがあるのは、事実である。だがそれはあくまでインド政府が自国の国益を計算して有利だと考えて進めているインド外交の話であり、基本的にはただそれだけのことである。

 たとえばインドは、中国とは異なり、世界のその他のいずれの国とも異なる。

現在、中国は、世界第2位のGDPを誇り、インドは世界第5位である。インドが数年後に日本とドイツを抜いて世界第3位の経済大国になることは、確実である。その現実を目にして、「中国とインドは有力な新興国だな」、と日本で呟くことは、余裕のなせる業か、現実逃避の姿勢によるものか。

「グローバル・サウス」論の陥穽は、歴史観が近視眼的すぎることでもある。中国とインドがGDPで欧米諸国及び日本の後塵を拝していたのは、19世紀途中から20世紀にかけての時代においてだけである。人類の長い歴史の中では、ほんの一瞬と言っても、過言ではない。

19世紀初頭の世界経済を例にとれば、中国のシェアは3割以上、インドが約2割で、両国で世界経済のほぼ半分を占めていた。イギリス、アメリカ、ドイツのGDPが、中国のGDPを抜くのは、ようやく19世紀末になる頃である。しかもそれは純粋な市場経済の原理の中でい起こった出来事ではない。欧米列強が、軍事力を駆使して、中国大陸を反植民地化して侵食していった結果として、経済力の逆転現象が起こったにすぎない。
GDP

s1-11-1-4.pdf (cao.go.jp)

イギリス、フランスなどの西欧諸国の経済力の源泉は、植民地経営だ。大航海時代を切り開いた技術革新による植民地経営を前提にした産業革命の成果をへて、政治力・軍事力が先行するようになり、それにともなって経済力が付与された。ドイツやアメリカは、イギリスを起点として開始された産業革命の波に乗ることによって、やはり技術的優位を確立し、それを軍事力の増強につなげたことを、経済力の増進につなげた。

普通に考えれば、中国やインドに対抗できるはずがない欧州諸国が、産業革命の成果を軍事力の増強につなげ、それを最終的に経済力の増強につなげることによって、経済力でも両国を凌駕することができた。その19世紀から20世紀にかけての事情は、長い人類史から見れば、極めて特異な環境要因が存在した特殊なものだった。

20世紀後半以降の国際社会は、民族自決の原則を確立して植民地主義を否定し、武力行使の禁止を一般原則にして武力による他国の威嚇も否定し、主権平等の原則を絶対化して諸国の独立を保障した。そのような国際社会では、19世紀に産業革命の恩恵を真っ先に享受して、軍事力の拡充に努め、それによって経済力の増強にも努めた欧米諸国の相対的優位は、失われる。

その欧米諸国の相対優位の条件の喪失によって、19世紀初頭まで世界有数の超大国であった中国やインドが、再び超大国化していくのは、むしろ自然な流れだったとも言える。

長い人類史の視点から見れば、中国やインドが超大国に戻り、欧州諸国が衰退していくのは、単に異常な短い時期を脱し、むしろ常態に戻るだけの現象である。

アメリカ合衆国は、19世紀になるまで、基本的に存在していなかった国である。この国の趨勢については、長期的な人類史の観点からは、推し量れないものがある。とはいえ、欧州文明の後継者としてのアメリカの比較優位性は、21世紀には失われていくことになるだろう。

果たしていつまで極東の島国・日本の住民は、「欧米以外の世界のほとんどの国はグローバル・サウスとして括って十把一絡げに理解しておけばそれで足りる新興国である」、という横柄な態度を維持できるだろうか。

 オスヴァルト・シュペングラーが『西洋の没落(Der Untergang des Abendlandes)』を著したのは、1918年だった。第一次世界大戦が、物理的な荒廃だけでなく、文化的な卓越性をも、「西洋(Abendland)」から奪ったことを、多くの人々が感じていた時だった。そのため、『西洋の没落』は広く読まれた著作となった。

 シュペングラー自身は敗戦国・ドイツ帝国の人物だった。そのため少し偏見があったことは確かかもしれない。しかし「西洋の衰退(Der Untergang des Abendlandes)」はまやかしだった、その後も「西洋」が影響力を持ち続けた、と考えるのは、誤りである。

 シュペングラーが論じた歴史的な意味での「西洋」は、第一義的には、欧州のことである。欧州の影響力が、19世紀までの権勢と比べて、20世紀になって衰退したことは疑いのない事実だと思う。

 20世紀に世界を主導した二つの超大国であるアメリカとソ連は、いずれも厳密な意味では欧州ではない。とはいえ、確かに、両者を「広い意味での西洋」の一部とみなして、それをもって「西洋の衰退」は二つの超大国によって防がれた、と論じることは可能ではあるかもしれない。しかし20世紀末にソ連は消滅した。アメリカもまた、その力を衰えさせている。

 国際政治学の領域では、アメリカがベトナム戦争から敗走した後の1970年代などに、アメリカの衰退を論じる議論が華やかになった。だが反論も多くなされた。冷戦終焉後に「自由民主主義の勝利」の物語とあわせて、世界で唯一の超大国となったアメリカの「単独主義」が語られるようになって、「アメリカの衰退」は間違いであったかのように総括されることが多くなった。

 だが長期的な傾向からすれば、19世紀から20世紀にいたる時代の流れで欧州が衰退したのが疑いのない事実であるのと同様に、20世紀から21世紀にいたる時代の流れで米国もまた衰退しているのは否定できない事実であるように思われる。「アメリカの衰退はブラフだ」の主張は、そもそも非常に怪しいうえに、少なくとも限りなく通用する法則のようなものではない。

 1960年に世界経済全体の40%を占めていたアメリカのGDPは、2019年の統計で24%にまで落ちている。欧米諸国という言い方で、「西洋」を考えた場合であっても、あるいはさらにその友好国である日本を加えた場合でも、世界経済全体における「西洋」の割合は下落の一方だ。現在の経済成長率、及び人口動態の数値を見れば、さらなる「西洋の衰退」が不可避的な長期的傾向であることは、火を見るより明らかな現実である。

 文化的な影響力を測定するのは難しいが、たとえば政治現象を見ると、欧米諸国に芳しくない状況が広がっていることは明らかだ。冷戦終焉後一貫して増え続けていた「民主主義国」の数は、近年、減少に転じた。欧米諸国主導の軍事介入はもちろん、和平努力すらも、失敗か停滞に直面している場合がほとんどである。

 もっとも西洋の「没落」というよりは「衰退」であり、かつてほどの影響力はなくなった、という意味である。そしてかつてよりも影響力を高めた諸国からの追い上げにさらされている、ということである。

 2021年アフガニスタンからのアメリカの敗走は、「グローバルな対テロ戦争」の一つの暗澹たる帰結を示したのみならず、アメリカの衰退・西洋の衰退を、強く印象づける事件であった。その後、ロシアのウクライナ全面侵攻を見て、欧米諸国は団結して勇敢に戦うウクライナを支援することによって、威信を回復させようとした。しかしそこで得たある種の貯金も、ガザ危機をめぐる混乱で、喪失の危機にさらされている。

 こうした状況で、日本外交が考えるべきなのは、現実を受け止めたうえで、なお同盟国・友好国と、よりよき国際秩序を維持発展させていくためにできることを一緒に考える態度だ。

 西洋からアジアへ、のような安易な乗り換えは、ありえない。現実的ではない。ただ、いずれにせよ、日本国内では、西洋からアジアへ、といった左派的なスローガンは、すでに勢いを失っているように見える。アジアでは中国の影響力が圧倒的で、日本はもはや主導的な役割を、少なくとも思うようには、発揮できないからだろう。様々な意味で、現代日本はもはや第二次世界大戦時の大日本帝国ではなく、そのようなものになりうる国ではない。

 現代日本で目立っているのは、むしろ復古主義的に日本の国力を誇張する極右勢力である。日本の国力が衰退している現実を受け止めず、移民排斥的な傾向にも走る。高齢視聴者に訴える扇動ユーチューバーとその取り巻きの「政党」関係者が、常軌を逸した行動に出ていることが話題を呼んでいる。背景には、日本の衰退と自己の社会的地位の実情を受け入れられない高齢者層がいるようである。

https://twitter.com/chutoislam/status/1739168692926316563

 訴訟ネタになる行動に走る層を、特異なSNS界生息高齢者群と考えるとして、その外周にいるのは「西洋の没落」を受け入れられない層である。ガザ危機で、イスラエル政府の大本営発表をそのまま拡散すれば自分も安全保障の専門家になれると信じているような層、あるいは、結局は中東情勢の行方はアメリカが決めるのさ、と呟いていれば自分も安全保障の専門家になった気分に浸れる、と考えているような層である。

 タイトルなし

 超少子高齢化社会とは、時代の趨勢を受け入れられない高齢者が社会を支配し、現役世代をSNSで恫喝し、若者を委縮させる社会のことである。

 少なくとも自らの衰退に極めて自覚的な欧米社会では、少子高齢化社会の弊害を防ぐための努力が多々なされている。

その意味では、「西洋の衰退」の自覚なき日本の方が、より危険が大きいかもしれない。

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