「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

経歴・業績 http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/shinoda/   
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 先日、ゴーン事件をめぐる東京地検の態度に、プレゼン力の欠如を感じるという内容のブログを書いた。http://agora-web.jp/archives/2035966.html
 
順天堂大学医学部が「コミュ力の高さ」を理由に女子受験生の一律減点をしていたという事件を見ても、日本社会が抱える問題の根の深さを感じる。
 
私自身は、家族や知人の入院・出産等をへた経験からは、欧米諸国の医者と日本の医者では、圧倒的に欧米諸国の医者のコミュニケ―ション能力が高いと感じている。そもそも根本的な態度のところで、決定的な差があると感じている。
 
医者のような人間を相手にした仕事で、人間とコミュニケーションをとる能力は、職業能力の中核を占めるはずだ。欧米社会では、そういう価値観が当然視されていると思う。日本では違うらしい。
 
日本の法律家の間でも、司法試験対策で憲法学の基本書を丸覚えしたペーパー答案を書く能力だけを競い合い、基本的なコミュニケーション能力、あるいはそもそも物事を丁寧に議論する態度を軽視したりする傾向が生まれていないか。
 
「篠田の言っていることは芦部信喜『憲法』と違っている、したがって篠田は間違っている」といった思考態度が蔓延していないか。
 
1210日発売の雑誌『VOICE』に元徴用工問題を論じた拙稿を掲載していただいた。編集側で、「教条的な国内法学者の異常さ」という題名をつけていただいた。
 
日本政府は韓国大法院判決を、「国際法違反だ」という立場をとっている。それはそれでいいと思うが、東大法学部の憲法学者の権威に訴えるペーパー答案作成技術のようなものだけで、この状況を乗り切れると思ったら、痛い目にあるだろう。国際社会に効果的に訴え、韓国とも上手に対峙していくコミュニケーション能力が必要だ。
 
受験で不利な立場に置かれた者たちにこそ、活躍の機会を与えなければ、今後ますます日本社会は立ち行かなくなっていく危機感を感じる。

 残念ながら、一般に、日本人はプレゼン力が弱い。小学校時代から詰め込み教育ばかりやっているからだとか、タコツボ社会だからだとか、権威主義的だからだ、とか、アティチュードの問題として、語られる。
 
カルロス・ゴーン氏逮捕は国際的な大事件になっている。日本は元徴用工事件で、司法と政治が絡む部分で隣国ともめている。だからこそ、国際的に通用するやり方でプレゼンをしていくことが求められる大事な時だ。
 
ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)など海外メディアが、ゴーン氏逮捕と長期勾留を「中国並み」と批判した。これについて、東京地検の久木元伸・次席検事が、「それぞれの国の歴史と文化があって制度がある。他国の制度が違うからといってすぐに批判するのはいかがなものか」、と「反論」したという。https://www.asahi.com/articles/ASLCY6G3XLCYUTIL049.html
 正直、最低の反応だと思う。
 
これは、ウイグルやチベットを弾圧している中国政府が、そっくりそのまま借用できる言葉ではないか。つまり海外メディアの正さを証明しているだけではないか。韓国政府が、元徴用工裁判を批判する日本人に対抗するために、引用したらどうするのか。
 
米国、英国、仏国・・・「欧米諸国」とくくられる諸国のそれぞれは、具体的な制度を見たら、すべて全然違っている。彼らが相互に信頼しあうときに参照するのは、「人権」とか「法の支配」とか「法の前の平等」とか「デュープロセス」とか「推定無罪」とか、普遍性を持つ原則だ。共通する価値観を確認して初めて、文化事情に応じた適用方法の違いを理解することができる。
 
だいたいこんな最低の対応を、「反論」と描写するメディアも、どうかしている。言葉の普通の意味で、この発言は、「反論」になっていない。これは単なる「開き直り」だ。
 
ゴーン事件の行方が混沌としてきている。時間がかかりそうだ。とりあえずは、日本人の評価を下げることを、国際的に目立つ形でやらないように、心がけてもらいたい。

 リベラル派で知られる政治学者の吉次公介・立命館大学教授の『日米安保体制史』(岩波新書)の記述内容に疑問を感じたので、質問メールを、実名で、岩波書店に出した。返事がなかったので、三日後にもう一度出した。すると、誤りでした、と言われた。その誤りは、増刷のときに訂正する、という。しかしそれでは、増刷になるまで訂正されない。つまり、増刷されなければ訂正されない。
 
私の本の議論を否定する内容であるため、それでは困るので、ブログに書く、と宣言した。私は不利益を受けているので、誤りがあることは、公にせざるをえない。
 
吉次教授の『日米安保体制史』29ページには、次のような記述がある。

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日本政府は、54年に集団的自衛権の行使は憲法上認められないとの認識を初めて示し、56年には、日本は集団的自衛権を有しているが、憲法が許容する自衛権の行使は「わが国を防衛するため必要最小限の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されない」との見解を表明していた・・・。

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新書で注がないのは、珍しくないとしよう。だがそうであればなおさら、参照先について情報を提示しておくべきではないか。「1956年*月*日・・・大臣は、衆議院外交委員会で・・・」と書いておいてさえくれれば、注がなくても検証可能だ。だが吉次教授のような書き方では、全く検証ができない。
 
そこで私は、岩波書店に出典根拠を質問した。1956年に、日本政府が、吉次教授が引用しているような発言を行った記録がない。私もあらためていくつか文献を見直してみたが、1956年に吉次教授が引用するような政府見解がなされたという記録はどこにも見つからなかった。
 
なんと、岩波書店からの回答によると、著者である吉次教授が、「昭和56年」を誤って1956年」と誤認し、そのままそのように書いてしまったのだという。ところがその誤りを根拠にして、吉次教授は、1950年代から日本政府は一貫して集団的自衛権を否定してきている、と岩波新書の中で主張している。
 
いささか驚くべき事情ではある。
 
私にとって問題なのは、結果として、吉次教授が、私の議論を完全否定し、その根拠を密かに持っているかのように岩波新書を通じて喧伝したことである。私は、繰り返し、日本政府が集団的自衛権を違憲だと明言し始めたのは、1960年代末からのことであり、それはベトナム戦争進行中の状況で沖縄返還を目指していた政治状況と密接に結びついていた、と議論している。吉次教授の岩波新書は、それを完全否定するものだ。ところが否定する根拠を見せてほしい、と尋ねると、「実は昭和56年のことを1956年と間違えて書いてしまいました」と打ち明ける・・・。
 
1954年についても、やはり日本政府が、吉次教授が述べているような公式見解を表明した経緯はない。ただしこちらについては、吉次教授が何を参照しているのかを推察することはできた。当時の外務省条約局長下田武三の5463日衆議院外務委員会での発言だ。
 
岩波書店からの回答では、著者の吉次教授は、坂元一哉教授の『日米同盟の絆』を参照したのだという。坂本教授は、阪口規純氏の1996年の『外交時報』論文で下田答弁にふれているのを参照していただけだ。となると、吉次教授の記述は、いわば「曾孫引き」、である。国会議事録検索システムで容易に検証できるのに、なぜそのようなことをしてしまったのかは、よくわからない。
 
私にとって問題なのは、結果として、吉次教授が、私の議論を完全否定し、その根拠を密かに持っているかのように岩波新書を通じて喧伝したことである。
 
少し長くなるが、私の拙著『集団的自衛権の思想史』から箇所を引用しておきたい。

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 195463日、当時外務省の条約局長であった下田武三は、次のように答弁を行った。「日本憲法からの観点から申しますと、憲法が否認してないと解すべきものは、既存の国際法上一般に認められた固有の自衛権、つまり自分の国が攻撃された場合の自衛権であると解すべきであると思う」。そのため「集団的自衛権、これは換言すれば、共同防衛または相互安全保障条約、あるいは同盟条約ということでありまして・・・、一般の国際法からはただちに出て来る権利ではございません。それぞれの同盟条約なり共同防衛条約なり、特別の条約があつて、初めて条約上の権利として生れて来る権利でございます。ところがそういう特別な権利を生ますための条約を、日本の現憲法下で締結されるかどうかということは、先ほどお答え申し上げましたようにできない」。
 
この下田の答弁には、質疑応答の相手方であった社会党議員である穂積七郎のほうが驚き、「集団的自衛権という観念は、もうすでに今までに日本の憲法下においても取入れられておるわけです。そうなると、・・・すでに憲法のわくを越えるものだというように考えますが」、と質問した。これに対して下田は、「憲法は自衛権に関する何らの規定はないのでありますけれども、自衛権を否定していない以上は、一般国際法の認める自衛権は国家の基本的権利であるから、憲法が禁止していない以上、持つておると推定されるわけでありますが、そのような特別の集団的自衛権までも憲法は禁止していないから持ち得るのだという結論は、これは出し得ない、そういうように私は考えております。」と答えた。そこですかさず穂積は、「今のその御解釈は、これはあなた個人の御意見ではなくて、外務省または政府を代表する統一された御意見と理解してよろしゆうございますか。」と質問した。下田は、「外務省条約局の研究の段階で得た結論」と述べ、政府統一見解にまでは至っていないと説明した。(第19回国会衆議院外務委員会議録第57号[195463日]、5頁)。
 
なおこの下田の答弁をもって集団的自衛権違憲の政府判断がなされていた、と論じられることもある(浦田一郎「集団的自衛権論の展開と安保法制懇報告」奥平康弘・山口二郎(編)『集団的自衛権の何が問題か 解釈改g憲批判』[岩波書店、2014年]所収、106頁)。これについては、まず下田が「政府の見解」ではないと強調した点は留意しなければならない。またさらに日本が国連未加盟国であった1954年の当時と、国連加盟を果たした1956年以降とで国連憲章上の権利に対する評価が変わるか、1960年新安保条約もまた「共同防衛または相互安全保障条約、あるいは同盟条約」ではないと言えるのかどうかが、論点になりうる。
 
なお下田は、1931年東京帝国大法学部卒で、佐藤達夫らと同じく、美濃部・立の盛時代に東大法学部に在籍した世代である。「一般国際法の認める自衛権は国家の基本的権利」だという考え方を論理構成の基本に据えるのは、「国家法人説」を通説とみなす世代に、特徴的なものであろう。第1章で見たとおり日本では立作太郎が基本権に依拠した国際法講義を東大法学部で行っていたが、第2章で見たとおり横田喜三郎は戦前から「国家に固有の先天的」な「国家の基本的権利」を否定していた。国際法においては「一般国際法」といえども、結局は慣習法の集積に過ぎない。その内容は、国連憲章のような新しい包括的条約によって上書きをされる。一般国際法というのは、自然法的な国家の自然権が表現するようなものではなく、「自然権」を求めるのは「国内的類推」の陥穽である。(拙著『集団的自衛権の思想史』194-196頁。)

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 下田が自らの見解を政府統一ではないと明言したこと、社会党議員の方が驚いて「「集団的自衛権という観念は、もうすでに今までに日本の憲法下においても取入れられておるわけです。」と反応しているような同時代の風潮があったこと、同時代に下田説を補強する意見を述べる者が他にいなかったこと、1960年新日米安保条約締結の審議の際に岸信介首相や他の閣僚のみならず内閣法制局長官も集団的自衛権行使を認める答弁をしていることhttp://agora-web.jp/archives/2035078.html、などを考えると、1954年の下田答弁をもって日本政府が集団的自衛権を違憲とする立場を固めたと主張するのは無理がある、というのが私が拙著『集団的自衛権の思想史』で指摘したことだ。
 拙著は読売・吉野作造賞をいただいたのだが、吉次教授によってその存在は完全に否定されている。岩波書店も完全に無視をする。
 
周知のように、岩波書店は、2015年安保法制が議論されていた時期、憲法学者らによる「安保法制は違憲だ!」的な本を、大量に出版していた出版社である。その出版社が、謎の出典不明の政府見解で、憲法学者とは違う見解を持つ私の議論を完全否定する本を大量印刷する。そこで私が証拠を見せてくれと繰り返し質問すると、「誤りだったが、増刷するまでは直さない」、という態度をとる。
 
非常に割り切れない思いだ。


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