「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

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 「表現の自由について憲法学者2人が語ったこと。」という題名の記事を読んだ。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191006-00010005-huffpost-soci&fbclid=IwAR310TnJNUm3aJYVw8DRZYWnfL-c2KC635tRqFP64WZDKilan9haDhNtyxI 記事元の「ハフポスト日本版」は朝日新聞の共同事業で、執筆は朝日新聞が担当している。

この記事の執筆者の朝日新聞社記者は、憲法学者は、憲法で規定されている「表現の自由」の専門家だ、という位置づけで、「表現の不自由展」をめぐる批判への反批判に、その専門家を利用することを狙ったようだ。この朝日新聞社記者は、題名や冒頭説明を用いて、「国際芸術祭『あいちトリエンナーレ2019』の企画展「表現の不自由展・その後」に関して、憲法学者が不自由展を擁護する声を上げた、という印象を作り出そうしている。しかしそれは、残念な印象操作と言わざるを得ないものだ。

 曽我部真裕教授が語っている「表現の自由の根本理念」のフランス革命や1976年ヨーロッパ人権裁判所の判決などを参照した説明は、せいぜい大学の一般教養課程の一般論の話である。その内容は、今回の「表現の不自由展」の具体的な問題の説明にはなっていない。

 どうも記事の執筆者である朝日新聞社記者は、曽我部教授の講義を、「表現の不自由展」への批判者への批判として読ませたいようだ。しかし、「表現の不自由展」を批判する人々に、「表現の自由」の講義をしてみたところで、何も変わらない。その人たちは「表現の自由」にもとづいて「表現の不自由展」を批判するのだ。批判者の表現の自由も、当然、憲法21条は保障している。

 もちろん批判に威嚇の要素があったりするのであれば、別の次元の問題として扱うべきだ。しかし、「表現の不自由展を批判するのは表現の自由に反する」という話を作り出そうとするのであれば、それはおかしい。「一切の表現の自由は、これを保障する」という憲法21条を理由にして、対立する議論の一方だけを保障の対象とし、それに対する批判を禁止しようと試みるのは、明らかにおかしいのである。

 おそらく、曽我部教授は、記事の執筆者が期待することを言っていない。しかし明らかに朝日新聞社記者が印象操作を狙った記事である。

横大道教授の発言は、公権力が芸術の内容に口を出すべきではない、という趣旨が強調されている。題名からすると、横大道教授が、表現の不自由展への批判を批判しているかのように見える。しかし横大道教授の話は、単に一般論であるだけでなく、今回の事件とはあまり関係がないもので、なぜ引用されているのかがわからない。今回の表現の不自由展では、公権力である愛知県は、表現を圧殺している側ではなく、表現の自由を主張する側に立っているからである。むしろ愛知県が表現の自由を主張することが適切であるかどうかが、今回の事件の論点である。

調べてみると、横大道教授は、正しくそのことを朝日新聞デジタルに書いたが、朝日新聞は紙面に載せることを避けた、といった出来事がかつてあったことが指摘されている。https://www.jijitsu.net/entry/triennale-hyougennojiyuu-yokodaidou 

憲法学者としての権威に訴えて、表現の不自由展への批判を禁じる、ということになると、むしろ表現の自由を不当に抑圧する行為である恐れが出てくる。憲法学者なる社会的権威を振りかざしてそれを行おうとするのであれば、むしろ憲法21条違反の恐れが出てくるはずだ。

 「憲法学では『間に専門家・専門機関を挟んで判断を委ねよう』という考えがある」、という発言には、恐怖を感じる。憲法学者が定義する「専門家」は、憲法学者らで構成されるのではないか、と想像してしまうからだ。http://agora-web.jp/archives/2032313.html しかし横大道教授は実際にはそうは言っていない。朝日新聞記者の印象操作だろう。

 「表現の不自由展」への公金支出の是非を問う議論は、基本的に憲法21条とは関係がない。むしろ憲法89条「公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用、便益若しくは維持 のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」の観点から、論じていい問題である。

 いずれにしても、日本のマスコミは「憲法学者=答えを知っている人」といった図式を振り回した安易な印象操作で記事や番組を作る悪弊をやめるべきだ。

  石破茂氏による「国際法における『軍』など」と題された記事を見た。http://agora-web.jp/archives/2041771.html?fbclid=IwAR3eGDB0mdJKmcH3Fi2v84iNviJZA09H0qWKKyuxrauAX7CQH5SGwPP7px4 憲法改正をめぐる議論もかなり行き詰まってきたな、と感じる。自民党の中ですらこの状況なのだから、憲法改正の可能性は低いと見積もらざるを得ない。

 石破氏は、「自民党総務会において正式に党議決定された自民党案」に固執する。正直、この野党時代の自民党の「自民党案」こそが、改憲反対派に勢いを与えてしまっている代物である。

石破氏は、次のように述べる。

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「『軍』は本来、三権以前の自然的権利である自衛権を体現する。よって、国内法執行組織である行政と同一ではない。ゆえに「文民統制」と言われる、国民主権に依拠した司法・立法・行政による厳格な統制に服さなければならない」

これが国際的な常識であり、国際社会においては至極当然のことなのです。我が国の憲法はこの国際的な原則をまったく無視して作られています。「自民党案」が提起しているのは、すでに我が国に定着している「自衛隊」のあり方を、このような国際的な原則に合致できるように改正しよう、ということなのです。

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石破氏は、「三権以前の自然権的権利である自衛権」という特異な概念が「国際的な常識」だと主張する。大変な主張である。これは少なくとも説明を施すべきである。しかし石破氏は何も根拠を示さない。

国連憲章51条は「個別的又は集団的自衛の固有の権利(inherent right)」を定めている。しかし国連憲章制定以前から存在した権利としての自衛権の存在については、「慣習法」を言えば足りる。そもそも「条約」と「慣習」だけが国際法の二大法源である。果たしてその二つの法源で成り立っている国際法のどこに「三権以前の自然権的権利である自衛権」が「国際的な常識」であると断言するための根拠があるのか。

石破氏によれば、「軍」は「三権以前の自然権的権利」を行使するがゆえに「文民統制」に服さなけばならないのだという。自民党憲法改正案は、内閣総理大臣を「国防軍」の「最高指揮官」とする。https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf 石破氏によれば、「軍」は「行政権」の一部ではないが、「文民統制」をかける必要から、やむをえず行政府の長である内閣総理大臣を借りてきて「最高指揮官」に据えておく、ということであるらしい。内閣総理大臣は、いわば借り物の「最高指揮官」だ。石破氏によれば、「行政権」と「軍」は別のものだが、「軍」を統制するためには、別組織の長を借りてきて、「最高指揮官」と名乗らせなければならない、ということであるらしい。「軍」にとって「最高指揮官」は借り物でよそ者なのである!

ということは、防衛大臣もよそ者の行政権からの借り物なのだろうか。となると防衛省という組織も行政権からの借り物なのだろうか。大変な事態だ。

これはどう考えても、石破氏は、戦前の大日本帝国憲法の「統帥権」時代の発想で「軍」を考えている。つまり大日本帝国憲法こそが、「国際的な常識」だ、と主張しているのである。大変な事態である。

自民党改正案は、様々な面から様々な批判を浴びている。石破氏の主張する「国際的な常識」の観点から、自民党改正案の特徴を一つ指摘するならば、「国」の概念の斬新な導入である。たとえば自民党憲法改正案の「9条の3」は、次のように定める。

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国 は 、 主 権 と 独 立 を 守 る た め 、 国 民 と 協 力 し て 、 領 土 、

領 海 及 び 領 空 を 保 全 し・・・

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「国」という存在が、「国民」と切り離され、全く別の存在として、「国民」と「協力」して、自衛権を行使するのだと言う。

主権者である「国民」と切り離され、別個の存在として並置される、この「国」というのは、いったい誰のことなのか?

自民党憲法改正案は、「国」が誰なのかについて、明確には説明していない。石破氏も、説明しない。ただ主権者である「国民」と併存関係にある「国」こそが、「三権以前の自然権的権利である自衛権」を行使する、それが「国際的な常識」だ、と石破氏は主張する。全く根拠を示さないまま、石破氏はそのように主張する。

なお現行の日本国憲法には、「国民」と並列関係にあり、「三権以前の自然権的権利である自衛権」なるものを保有する、謎の神秘的存在である「国」は、存在していない。

石破氏の主張は、現行の日本国憲法の概念枠組みを根底からひっくり返す革命的な主張である。ところが根拠が不明なのである。

石破氏は、一部の憲法学者のガラパゴスな議論に騙されて、日本の憲法学通説が依拠している時代遅れの19世紀ドイツ国法学の枠組みを「国際的な常識」と誤認してしまい、大日本帝国憲法時代の「統帥権」や「統治権」の概念を復活させることこそが「国際的な常識」だと考えてしまっているのではないか?

石破氏は、ガラパゴス憲法学通説の絶対無謬を信じる者だけが憲法改正を主張することができる、と思いつめてしまい、日本国憲法を大日本帝国憲法に戻すことが「国際的な常識」にそうことだ、などという誤解をしているのではないか?

自民党の有力議員が、こうした「ちゃぶ台返し」的な憲法論を主張しているのだとすれば、これはやはり憲法改正は困難を極める。これでは現行憲法の解釈論の混乱すら、収拾できない。

石破氏に、日本の憲法学の通説=絶対無謬、という世界観から離れるように働きける方法はないものだろうか。

 

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 先日、「安倍・ロウハニ会談こそが、日韓対立克服の試金石」という題名の記事を書いた。日本にとっても意義があるということを書いた。http://agora-web.jp/archives/2041587.html 

だが、それでは、ロウハニ大統領との会談それ自体に何らかの突破口があると言えるのか?本当はそこが問題だ。

 「イランさん、もう少しアメリカの言うことを聞いてくれませんか?」と誘っても、のってくるはずはない。イランは制裁対象となって経済的には苦しいとされているが、そんなことは通常の選挙民主主義国とは違って、政治指導者層には大した問題ではない。制裁解除がレバレッジになると考えるのは無理だろう。

 おそらく重要なのは、イエメンである。安倍首相は、どうやって効果的に「イエメン」という単語を口にするか、よく考えるべきだ。

イエメンの「フーシー派」の名前は現在、サウジアラビア東部州石油施設攻撃の主体であったかどうかだけで日本のニュースで言及されている。極めて視野が狭い。

イランを糾弾するアメリカのポンペオ国務長官の糾弾に対して、ザリフ・イラン外相は、イエメンの窮状の写真を掲載して対抗した。https://twitter.com/JZarif/status/1174002704483520514 イエメン情勢に関心を払わないアメリカが、サウジアラビア石油施設への攻撃でオロオロしてイランを批判しているのは茶番だ、という指摘である。イエメンではアメリカを後ろ盾とするサウジアラビア主導の連合軍が軍事介入し、イランを後ろ盾とするフーシー派がそれに対抗して、サウジアラビアに攻撃をし続けている。

実はアメリカでも民主党主導の議会は、イエメン情勢を憂い、サウジアラビアに対する武器供与をトランプ政権にやめさせる決議を出している。トランプ大統領が拒否権を発動しているだけだ。イランの立場には説得力がある。

もちろんイランは人道的な理由だけでイエメンを見ているわけではないだろう。だがそれも含めて、イエメンの重要性を、ロウハニ大統領との会談にあたっては、まず強調すべきだろう。

フーシー派が、事実上の停戦提案を、サウジアラビア側に対して出した。極めて注目すべき動きだ。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190921-00000027-reut-asia 

湾岸諸国がフーシー派の駆逐を、もはや非現実的な目標だとして断念するかどうかが問われている。フーシー派の存在の認知こそがサウジアラビアを含めた湾岸諸国の安全を保障する措置である、イランに圧力をかけても何も進まないぞ、という示唆は、強力だ。

サウジアラビアとイランの関係に関して言えば、シリアよりも、イエメンのほうが、重要である。イエメンにおけるフーシー派の存在を認める国際社会の流れは、イランに対する大きなレバレッジになる。

もちろんムハンマド・ビン・サルマン皇太子(MBS)が主導する形で引き起こされたサウジアラビア主導のイエメンへの軍事介入は、簡単には終わらないだろう。日本がMBSを説得できるはずもない。しかし、MBSがイエメンでフーシー派を完全駆逐できると今でも信じているとも思えない。日本がイランと対話できるのは、イエメンに関して中立的であるからだ、とも言える点を、よく認識するべきだ。

アメリカとイランを直接対話させるなら、イエメン和平の国際会議を開き、両者が参加する形をつくるしかない。もともとイエメン情勢を度外視して、アメリカがサウジアラビアと対立するイランと交渉して成果を出す状況など、想像できないのである。

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