「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

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ソウルで国際会議に出席した。平和構築・紛争予防をテーマに、国際機関や各国政府の職員が議論する会議(主催:韓国政府・ハマーショルド財団・国連平和構築支援事務所)に、セッションの座長役で、招いてもらった。セッションでは、アフガニスタン、スリランカなども話したが、東ティモール出身の「G7+」という国際的プラットフォームの方が、東ティモールとインドネシアの関係改善を題材に、「最後は、政治的意思と国益判断だ」、と強調していたのが、耳に残った。https://www.facebook.com/hideaki.shinoda.73 
 たまたまトランプ大統領の訪韓と重なったので、会議後には、反米デモと親米デモと警察部隊が渦巻いているのを見ることができた。北朝鮮との国境から約40キロ、国民性もあると思うが、韓国の人々は、熱い。アメリカ軍とともに朝鮮戦争、そしてベトナム戦争を戦った経験を持つ。アメリカとの関係は、複雑だ。
 もちろん、日本も、負けず劣らず、アメリカとの関係は複雑である。ただちょっと違った様子で、複雑である。一緒に戦争を戦ったという記憶は、ない。ただ、敵味方に分かれて、片方が降伏して占領されるまで、戦い続けた。「東西の強者の代表」が「新世界出現のために避け難き運命」(大川周明)として 、「決勝戦」としての「最終戦争」(石原莞爾)を戦ったのが、日本にとっての「太平洋戦争」だった。
 戊辰戦争から約10年後の東北に生まれた吉野作造は、「戦後」を語ることなく、東大教授となり、普遍主義的な立憲主義を標榜していた。彼が「英雄」と呼んだウッドロー・ウィルソンは、幼少期に南北戦争を体験したヴァージニア州出身者だ。やはり「戦後」を語ることなく、プリンストン大学教授となり、普遍主義的な立憲主義を標榜した。
 太平洋戦争後の日本人は、吉野やウィルソンと、少し似ている。ただし、もう少し、屈折している。普遍主義を掲げて、あらためて勝者と対峙したい。ただし、その敵国が起草した憲法が基礎になるとしたら、敵国の文化にそって、敵国の影響下で、普遍主義を語らなければならない。そこで日本の憲法は世界に唯一で他に類例がないガラパゴスであるということにしたうえで、ガラパゴスであることこそが世界最先端だ、という理論を作り上げた。
 日本の政治を、「リベラル」「保守」といった概念で見ても、理解できるはずがない。冷戦が終わったとき、「革新」政党のアイデンティティを消し去る必要があったが、代替案がなかったので、外国から概念を借りてきただけだった。「私はリベラルで保守だ」とか「本当のリベラルとは何か」、などと語り合うのは、修辞的な効果や学問的な話としては意味があるが、日本の政党政治の分析としては、的外れだ。
 結局、政権与党の自民党を一極とし、冷戦時代から反対の立場を貫いている共産党をもう一方の極とし、その他の野党を順に並べていくには、アメリカとの距離、を尺度にするのが、一番わかりやすい。親米か、反米か。この尺度で、自民党から共産党までの政党を並べていけば、だいたい間違いない。
 現代日本に、反米の右翼政党、がないのは、あまりにも戦前復古主義に見えるからだろう。戦前の日本では、最後の大政翼賛会の地点で、反米右翼で政治が一元化された。反米右翼で一元化されたから、泥沼の戦争に陥ったのだ。
 したがって左翼的な反米主義者が、右翼的な反米主義者と大同団結するのは、全く不思議なことではない。国粋主義的と言われるか否かの相違は、反米主義的であるか否かの相違ほどには、現代日本では、重要ではないのだろう。
 集団的自衛権を合憲とするか違憲とするかに関する立場の相違も、結局、アメリカに対するスタンスに還元される。何度か指摘したように、憲法学者の集団的自衛権違憲論を支えているのも、結局は、「アメリカなんかを信用するんですか?」という情緒的訴えである。http://agora-web.jp/archives/2029141.html  
 アメリカを信用するくらいであれば、どこまでも個別的自衛権を拡大解釈していったほうが、まだマシなのだろう。絶対に認めてはならないのは、日本国憲法に登場する「平和を愛する諸国民」にアメリカを含めることなのだろう。もし含めてしまったら、「われらの安全と生存」が、アメリカへの「信頼」によって成立するものになってしまう・・・。
 アメリカ人が作った憲法を、反米主義の武器に作り替えるという壮大なプロジェクトこそが、集団的自衛権違憲論と合憲論の背後に控えているものだ。http://agora-web.jp/archives/2028302.html 確かに、冷戦時代後期には、談合政治的な操作で、実態としての集団的自衛と、建前としての集団的自衛権違憲論が併存するようになった。しかしそのような一時的な措置が、冷戦終焉と共に賞味期限を迎えたのは、やむを得ない事だったのだ。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53213 
 ところが実際の日本の国家体制は、アメリカとの同盟関係を大前提にして構築され、運用されてきている。したがって反米主義を貫くことは、革命家になることに等しい。そこで、アメリカを批判する「理想主義」を忘れてはいけないと訴えながら、アメリカと適当に仲良くなる「現実主義」も持ち合わせています、といったくらいの玉虫色の態度を正当化することに四苦八苦することになる。
 団塊の世代が去った後の時代も見据えながら、日本の野党が生き残っていくためには、「反米主義の理想を掲げながらも、現実的にアメリカとやっていくことくらいはする」、といった生半可な態度から、「親米主義の姿勢を基本にしながら、建設的にアメリカと付き合っていく」、という態度への切り替えを決断することが必要だろう。
 そのような決断さえすれば、内政面の政策に特化した政策論争で、差異や優位を見せることもできるようになる。もちろん、冷戦終焉後、四半世紀にわたって、野党はそのような決断を避け続けてきた。おそらく、今後も避け続けるのだろう。しかし結局それによって選択肢を狭められ、不利益を被るのは、次世代の日本人たちである。

最近、枝野幸男・立憲民主党代表が、「改憲派」であったことが、少しずつ話題になっているようだ。衆議院選挙の中で、リベラル=護憲派のイメージで立憲民主党は「躍進」したことになっているが、枝野代表自身は、自分を「保守」だと自称している。枝野代表が「第三の道」なる改憲案を公表したのは、わずか4年前のことだ。保守を自認する小林よしのり氏が、衆議院選挙中から、一貫して「保守/改憲派」の枝野代表を応援し、選挙後も支援を繰り返し表明していることは、真面目に受け止めてよい。http://blogos.com/article/256525/ 
 安保法制を「立憲主義に違反する」とする立憲民主党/枝野代表の立場は、実は「安全法制は違憲だ」論ではない。立憲主義違反だが、違憲とは言っていない、というのが、枝野代表の発言である。http://www.nicovideo.jp/watch/1502956118 控えめに言って、これはややこしい。護憲派の枝野ファンが、小林よしのり氏が枝野代表を誤解しているのではないか、と思おうとするのも、無理もない。実際、「アベを許さない」「リベラル」「保守」「安保法制反対」「改憲派」の枝野氏の立場は、仮に姑息でないとしても、ややこしい。
 たとえば、私は、安保法制は違憲ではなく、立憲主義違反でもないと考えている。全く逆に考える人もいる。しかし、枝野代表は、どちらでもない。立憲主義違反だが、違憲ではない、と言う。ややこしい。仮に姑息ではないとしても。
 それにしても驚いたのは、あの長谷部恭男教授が登場し、「すべて個別的自衛権の行使として説明できる」という「従来の政府解釈を憲法に明文化しようとしたもの」だという理由で、2013年の「枝野氏の改憲案」を擁護していることだ。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171031-00000051-sasahi-pol   
 率直に言って、
201310月に『文芸春秋』に掲載された「枝野氏の改憲案」について、長谷部教授のような描写をすることは、正しくないと思われる。しかし驚くのは、そのことだけではない。そもそも長谷部教授は、従来の政府解釈を明文化するだけなら改憲は必要ない、と考えるため、「アベ改憲は許さない」の立場だったのではないか?なぜ「枝野氏の改憲案」であれば、従来の政府解釈と同じだからOKだ、になるのか?これはダブル・スタンダードではないのか?
 アベはダメで、枝野なら良い、らしい。アベは敵だが、枝野は「アベを許さない」同志だ、ということなのか。党派的な対立関係は、明確だ。しかし知的議論の内容は、混乱しているように見える。
 2013年論文(枝野幸男「憲法九条 私ならこう変える」『文芸春秋』201310月号、126131頁)において、枝野氏は、個別的自衛権か集団的自衛権かで「線引き」をした旧来の内閣法制局の見解から、明らかに距離を取っていた。

 「日米安全保障条約に基づき、我が国に米軍基地が存在しているという実態は、集団的自衛権の「行使」ではないにしても、ある種の集団的自衛と説明するしかありません。そもそも、こうして個別的か集団的かという二元論で語ること自体、おかしな話です。そんな議論を行っているのは、日本の政治家や学者くらいでしょう。」(同上、127頁。)

このような立場から出発した枝野氏は、「具体的に、どうしたケースであれば、実際に集団的自衛権の行使を可能とする必要があるのか」という問いを出した。そして公海上の米艦船を助けることを合憲とし、「その他の大部分の集団的自衛権行使」については否定する、という改憲案を提案した。長谷部教授は、これをもって、「個別的自衛権にあたるから合憲だ」と枝野氏が言っている、と解釈するようだ。だが、それは枝野氏の議論ではない。枝野氏は、「集団的自衛権の一部容認と説明するのか、それとも個別的自衛権として許されるギリギリの限界として説明するのか。説明の方法が異なるだけで大きな差はないと思います」、などと述べていた。
 日本政府は個別的自衛権と集団的自衛権が重なることはない、という解釈をとっている。したがって、枝野氏が述べたことが「従来の政府解釈」にそったものなら、枝野氏は、米艦防護が個別的自衛権か集団的自衛権かはわからないが、どちらかではある、しかしいずれにせよ合憲だ、と言ったわけである。枝野氏が、「集団的自衛権ではない、個別的自衛権だから合憲だ」、と主張した形跡はない。
 2013年の改憲案論文で、枝野氏は、「後方支援については言及する必要がない」、といって議論の必要性それ自体を退けた。国際法で集団的自衛権に該当するものは「違憲」だ、と考えるのであれば、枝野氏のような態度はとれない。枝野氏は、「私は憲法でタガをはめるべきなのは、実際に我が国が、自衛目的ではない武力行使に踏み切らないようにすること」だと宣言していた。枝野氏は、「集団的自衛権」と「個別的自衛権」の差異には、関心がなかったのである。2013年枝野論文によれば、「個別的か集団的かという二元論で語る」という「おかしな話」を広めているのは、日本の憲法学者、および憲法学者へのアンケート調査結果で政策を決める政治家だけである。ちなみに国連憲章51条は、個別的・集団的自衛権を包括的に扱っている。2013年枝野論文の見解でよい。
 そうした見解で、枝野氏は、解釈を明確にするための「9条の2」「9条の3」を加える改憲を提案したのであった。これに対して長谷部教授は、枝野氏の改憲案は良い、アベ改憲案は「地球の裏側」の活動も認めてしまうので、ダメだと言う。しかし共産党は、枝野改憲案に対して、「日本への攻撃に対する自衛措置としていますが、地理的な限定も示されていません」と批判していた。  http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-09-10/2013091002_02_1.html 枝野氏は「公海」の話しかしていない。共産党のほうが、きちんと2013年枝野論文を読んでいると思う。
 私個人は、国際法上の概念を不当に軽視するのは、危険なことだと考えているし、個別的自衛権の拡大解釈はさらにいっそう危険なことだとも考えている。だが、それ以前の問題がある。今、私が指摘しているのは、アベはダメだが、枝野なら良い、と言った話を、憲法学者が憲法学者の権威を利用して世間に広めようとしているのではないか、ということだ。もしそうであれば、それは極めて危険な行為だ。
 2013年枝野論文を、長谷部教授は曲解し、「すべて個別的自衛権だからできると枝野は言っているにすぎない」、と読み替えてしまっている。意図的に曲解しているのでなければ、「枝野自身がそう言っていなくても、この私、憲法学者の長谷部恭男が、そのように認定するので、枝野はそう言っているということだ」、と言い替えてしまっている。仮にそれで、アベはダメだが、枝野なら良い、という結論が出せるとしても、そこに至る議論の内容は、全く不明瞭極まりない。アベが加憲するなら絶対反対、枝野が加憲するなら全く問題ない、ということだとしたら、それは単なる党派的事情に応じたダブル・スタンダードでしかない。
 枝野代表は、東北大学では小嶋和司ゼミに属していたという。(故)小嶋和司は、その優秀さで知られていたが、ウィキペディアでは、その優秀さのゆえにかえって宮沢俊義に疎まれて東大に残れなかった、などと書かれている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B6%8B%E5%92%8C%E5%8F%B8 ミステリアスな憲法学者だ。小嶋教授の弟子、いわば枝野代表の兄弟弟子に、大石眞・京都大学法学研究科教授がいる。大石教授は、集団的自衛権は違憲とは言えない、と明言する論文を持つ数少ない憲法学者の一人だ。大石教授の下で学んだ者の中に、井上武史・九州大学准教授がいる。井上准教授は、集団的自衛権は違憲とは言えない、と発言したため、執拗な嫌がらせと脅迫を受け、警察官とともに通勤せざるを得なくなった経験を持つ憲法学者だ。「2013年枝野改憲案」論文は、枝野氏が小嶋教授門下生であることを考えながら読んでみると、よりよく理解できるかもしれない。(ただし、2017年の立憲民主党代表の枝野氏の立場が何であるかは、まだ判然としないのだが。)

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追記になるが、小嶋和司は、非常に魅力的な憲法学者だ。「憲法典の規定から姿を消した緊急権・軍制といった問題(が論じられなくなったのは)・・・、立憲制や国家制度にとってバイタルな意味を持つだけに、学問にとって喜ばしき現象とは考えがたい」、と書き、弟子にも軍制研究を奨励していた(小嶋和司「戦後憲法学の特色」『ジュリスト』197753日号、小針司「立憲主義と軍隊」『小嶋和司博士東北大学退職記念:憲法と行政法』[1987年])。
 興味深いのは、拙著『ほんとうの憲法』で私がとった立場と同じように、宮沢俊義に見込まれて東大法学部第一憲法学講座に招聘された小林直樹によって「通説」化された、日本国憲法には「三大原理」がある(国民主権は一つの「原理」である)、という説を、小嶋が採らなかったことだ。小嶋にとって、「主権が国民に存する」と宣言することは、日本国憲法が「民定憲法」である性格を示している、それだけのことだった。小嶋は、代わりに、三つの「日本国憲法の諸主義」として、「自由主義、戦争放棄主義、国際協和主義」をあげていた。(小嶋和司『憲法概観』(新版)[1968年])。 
 小嶋の主権論は、日本国内の主権をめぐる議論に関する論説の中では、珠玉だ(小嶋和司「『主権』論おぼえがき<その一>『法学』465号、1982年)。
 「明治憲法当時多数説であった『統治権総攬』を『主権』とする立場は、明治憲法典と、その下の精神的風土においてのみ多数説となりえたもので、『主権』の一般的概念ではありえない」(43頁)
 このような記述は、もし「三流蓑田胸喜の篠田英朗」が言ったことだったら、「sovereign powerは統治権と訳していい」と主張する憲法学者の方に、即座に斬首されるようなものだろう。http://agora-web.jp/archives/2029005.html 
 師であった宮沢俊義に対する小嶋の次のような鋭利な文章も、「三流蓑田胸喜の篠田英朗」が言ったら、斬首間違いなしだ。
 「宮沢俊義教授は、ポツダム宣言の受諾は『主権』の変更を意味し、『主権』の変更は法律上『革命』とみるべきであるとして、有名な『八月革命説』を述べられた。ポツダム宣言は『日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ』政府形態が定めらるべきことを述べるのみで、『主権』を問題としていないし、その受諾のとき、『革命』の担い手もなければ、『革命』の意識もなかったのにである。この論理において注目されるのは、『主権』概念をもち出し、それを媒介とする論断で、ここでは、その語の権威的印象が、これまた強烈な印象を随伴する『革命』論の決め手とされている。『主権』の語の意味多面性は、それを上手にふりかざせば、望みの帰結を出しうるごとくである。」(7頁)

 読売吉野作造賞をいただいたご縁で、宮城県古川(吉野作造の生誕地)の吉野作造記念館にお招きいただき、講演をする機会をいただいた。せっかくなので「民本主義と立憲主義」という題名で、吉野について考えながら、話をさせていただいた。
 吉野作造と言えば、1916年に『中央公論』に掲載された「憲政の本義を説いて其有終の美を濟すの途を論ず」における「民本主義」の主張が有名だ。今日の日本では、「アベ政治を許さない」の憲法学者が「立憲主義」者の代表であるかのように語られることが多い。だが、それとは異なる「憲政の精神的根底」である「民本主義」の思想は、非常に重要な意味を持っている。
 「立憲」民主党の枝野幸男代表は、2017年衆議院選挙にあたって、次のように演説した。「立憲主義は、確保されなければならないというのは、明治憲法の下でさえ前提でした。少なくとも、大正デモクラシーの頃までの日本では、立憲主義は確保されていました。戦前の主要政党、時期によって色々名前若干変化しているんですが、民政党と政友会という二大政党と言われていたそれぞれ、頭に「立憲」が付いていた。」(2017103日)こうした野党第一党党首の発言を見ても、「大正デモクラシー」に大きな影響を与えた吉野作造について考え直すことは、今日的な意味を持っていると言える。
 戦後の日本では、吉野の「民本主義」は、ある種の苦肉の策であったかのように語られることが多い。戦前の日本では完全な人民主権の民主主義を唱えることができなかったので、妥協を図りながら、民主化を進める事を画策したのが「民本主義」だった、という解釈である。「八月革命」説を通過して「国民主権」を強調する憲法学のみならず、民主主義の「永久革命」を標榜する丸山眞男の政治学の流れでは、国民主権の完成が理想として追い求められるので、そのような「民本主義」解釈が戦後の日本で広まったのではないか。
 しかし、実際に吉野が言ったのは、それとは少し違うことであった。吉野が言ったのは、「デモクラシー」には二つの区別される意味があり、一つが「民主主義」、もう一つが「民本主義」だ、ということであった。「民主主義」とは、主権の「所在」に関わる主義で、「国家の主権は人民にあり」、という考え方によって説明される。これに対して、「民本主義」とは、主権の「運用」に関わる主義で、「主権を行用するに当って、主権者は須らく一般民衆の利福ならびに意嚮を重んずるを方針とすべきという主義」である。
 これは、ジョン・ロックら、17世紀革命期前後のイギリスで、多くの著述家が言っていたことと重なる。ロックの『統治二論』に引用されている「Salus Populi Suprema Lex(人民の安寧が最高の法)」は、同時代の人々が重ねて引用していた成句だ。イギリスの古典的な立憲主義の精神を表現していると言っていい。法律の不備や解釈の困難が生まれたら、そもそも法律とは人々の生活を安全にするために存在しているものだ、という基本に立ち返る、という精神である。社会契約論の根本的な思想的基盤だと言ってもよいだろう。吉野作造の「民本主義」の「憲政」とは、イギリスの立憲主義と重なるものであった。
 吉野作造は、同時代の米国大統領ウッドロー・ウィルソンを、「曠生の英雄」と称した。そのウィルソンは、政治学者だった時期の著作で、「政治的自由とは、統治される者たちが、彼ら自身の必要性や利益に政府を適合させる権利」が尊重され。そして「安全や幸福」を確保するために立憲政治(constitutional government)が形成されるのだ、と説明した。(Woodrow Wilson, Constitutional Government in the United States [1908]) 吉野作造の「民本主義」の「憲政」は、アメリカの立憲主義とも重なるものであった。
 ウィルソンは、国際連盟の創設を通じて、民族自決だけではなく、集団安全保障の仕組みを、ヨーロッパにも持ち込んだ人物であった。そして20世紀後半以降では集団的自衛権と呼ばれる「地域に関する了解にして平和の確保を目的とするもの」(連盟規約21条)も、国際法秩序の中に取り込んだ。吉野は、1918年に初めて設置された東京帝国大学のアメリカ研究講座を担当し、アメリカの外交政策を講義した。
 三谷太一郎は、大正デモクラシーはアメリカの影響によって起こったと述べる。(三谷『大正デモクラシー論』)吉野は、三谷の議論の証左だ。「吉野作造は、ウィルソン主義の普遍主義的側面を強調し、それが指示する『世界の大勢』に日本もまた順応すべきことを説いた日本における典型的なウィルソン主義者であった。吉野によれば、アメリカは憲政の運用にもっとも成功した国家であり、『憲政の本義』たる民本主義の最良の範例であった。」実際、吉野は、「ウィルソンの説を行はれしむる事が大体に於て世界共同の利益であり、又世界の一員としての日本の利益であると信じて疑はざるが故である」と述べていた。(三谷79-80頁)
 吉野の「憲政」への期待は、1924年~31年の「憲政の常道」たる二大政党制の実現で実を結ぶはずだった。しかし実際の政党政治家は、金権政治に陥り、国民の信頼を失っていった。やがて吉野も、現実の政党政治への失望を言い表すようになる。そのような気運の中で軍部が政治権力を握っていくのも批判しながら、吉野は1933年に没した。
 ただし吉野の期待は、完全に消滅したわけではなかった。1945年に日本の占領統治が始まった際、米国の了解を得て日本政府側の要職に就いた人々の多くは、幣原喜重郎や吉田茂ら、吉野作造と同じ1870年代生まれの大正デモクラシーの信奉者たちであった。アメリカ人は、アメリカを信奉した大正デモクラシーを、重視した。当時の米国内の知日派は、大正デモクラシーの経験を、日本が民主国として再生できる可能性を示す歴史とみなしていた。日本国憲法は、大正デモクラシーの未完の可能性を信じる人々によって起草され、整備されたのだ。日本国憲法が目指したのは、ある意味で、頓挫した大正デモクラシーの復活であった。
 中国の独立運動に強い関心を寄せ、豊富な留学経験から欧州情勢にも精通していた吉野は、普遍主義と立憲主義が重なり合う大正デモクラシーの時代の思潮を代表する人物であった。その吉野は、ウィルソンを信奉し、英米流の政治思想にそった立憲主義を標榜する民本主義を唱えた人物であった。吉野と思いを同じくする人々は、世界大戦の惨禍をへて、日本国憲法に大正デモクラシーの希望を託した。彼らが目指した立憲主義は、民族自決だけでなく、集団安全保障や集団的自衛権などの国連憲章にも結実したウィルソンの国際秩序構想と、当然、整合する立憲主義であるはずだった。
 なぜ今日の日本では、憲法の優越を唱えて国際法規範を軽視し、アメリカを権力政治の世界の悪の権化のようにみなし、憲法典に書いてなくても憲法学者がアンケート調査で違憲だと言えば違憲だという考え方を立憲主義などと呼ぶ風潮がまかり通るようになってしまったのだろうか。
 われわれは、吉野作造から、もっと「憲政の精神的根底」について、学ぶべきではないか。

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