「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

経歴・業績 http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/shinoda/   
Facebook    https://www.facebook.com/hideaki.shinoda.73
過去のブログ記事(『アゴラ』) http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda

 前回のブログで、「立憲主義違反」を国会で叫ぶ枝野幸男代表について書き、公人の責任として、きちんと議論をしてほしい、と書いた。http://agora-web.jp/archives/2029642.html
 その後、山尾志桜里衆議院議員が、関連したことを語っているインタビュー記事を見つけた。 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/071000146/112100013/?n_cid=nbpnbo_fbbn 山尾議員は、立憲民主党員ではないが、同党の会派を代表して衆議院憲法審査会に参加するという。そこで記事を読んでみた。そして、呆れた。
 自衛権に歯止めをかけることが必要だと強調している。そして自衛権を個別的自衛権だけに限定することが歯止めになるのだという。山尾議員によれば、「自衛権は今、透明人間のような存在で実態がない」ので、今は歯止めがないのだという。自衛権を個別的自衛権に限定する改憲を行うと、初めて自衛権に「実態」が生まれるのだという。
 意味不明だ。
 自衛権は、国連憲章51条に記載されている国際法上の国家の権利である。日本は国連憲章を批准し、日本国憲法98条の条約遵守義務にしたがって、それを遵守している。日本国憲法に自衛権の記載がないからと言って、それを不思議に思うほうがどうかしている。まして制限がなく「透明人間」になっているというのは、理解不可能な話だ。
 自衛権の行使に対する制限は、国際法にしたがって行うのが当然であり、本来それ以外の方法などない。国際法では、自衛権は必要性と均衡性の原則によって制約されており、慣習国際法にもしたがった厳密な運用規範が国際的に成立している。自衛権が「透明人間」であるというのは、国際法の存在に対する冒涜である。
 自衛権が「透明人間」になっているのではない。山尾議員が、国際法を知らないか、無視しているだけだ。
 憲法で自衛権という国際法上の概念を制限するというのは、本来、「民法に殺人罪の規定がないので、民法に殺人罪を入れよう」と言うようなものなのである。百歩譲ってそれをやるとしても、実現するまでは「殺人罪は透明人間のようだ」などと言うのは、滑稽である。
 山尾議員には、しっかりと国際法規範もふまえたうえで、あらためて個別的自衛権を徹底的に擁護することが、なぜ「歯止め」になるのかを、きちんと説明してもらいたい。
 個別的自衛権性善説に立って、集団的自衛権だけを違法にして、自衛権を制限したつもりになるというのは、うちの日本村ではリンゴは果物だが、バナナは果物ではない、と主張してみせるようなものなのである。百歩譲ってそれを言うとしても、言わない者を「反立憲主義だ」と糾弾するというのは、滑稽である。
 山尾議員は、過去の特定の時代の内閣法制局見解を永遠の憲法規範とみなしつつ、国際法は無視する。もはや、なぜ集団的自衛権が違憲で、個別的自衛権だけが合憲なのか、ということを議論するつもりもないようである。・・・昔、内閣法制局がそう言っていたから。そのほうが首相の権限を制限できるから。だって権力を制限するのが立憲主義だから・・・。驚くべきことに、それ以上の議論がない。
 山尾議員は言う。「私は個別的自衛権を深化させるべきという考えです。これによって自衛権の行使に明確な歯止めをかけることができる。」この盲目的な個別的自衛権=絶対善、集団的自衛権=絶対悪の信仰はいったい何なのか。なぜ、そのような法的裏付けを欠いた信仰を持つに至ったのか、きちんと説明すべきだ。
 個別的自衛権だけでも、たとえば日本の艦船などがあれば、「地球の裏側」であっても、自衛権の主張をすることができ、濫用の危険性も残る。集団的自衛権として違法な行動は、地球の裏側でも、日本近海でも、違法だ。こうした国際法規範の枠組みを無視し、どこまでもガラパゴス憲法論を貫き通すことの意味は何なのか。個別的自衛権=絶対善、集団的自衛権=絶対悪、という今や内閣法制局ですら放棄した法的根拠を欠いた盲目的な信仰を振りかざしたうえで、「自衛権に歯止めがかけられる」、などという壮大な物語を披露するのは、間違っているだけでなく、極めて危険なものではないか?
 戦後しばらくの間は、日本でも、山尾議員のような議論はなかった。満州事変からの泥沼が、集団的自衛権などではなく、個別的自衛権の濫用によって起こったことを、日本人の誰もがよく知っていたからだ。冷戦時代特有の環境の中で、1960年代末に集団的自衛権違憲論が生まれた(拙著『集団的自衛権の思想史』参照)。
 もっとも、司法試験業界には冷戦終焉の余波などなかったのだろう。そこで憲法学の基本書を手掛かりに国際社会を見る癖がついている方々は、いまでも「団塊の世代中心主義」に陥る。その特徴は、国際感覚の欠如である。山尾議員の国際法を無視するガラパゴス主義は、その典型だ。自分自身を律することを忘れ、国際的な規範を無視し、ただ「権力を批判する者が立憲主義者」と唱え、平和主義者は必然的に反米主義者だ、と信じる安直な態度が、それなのである。
 今の日本に本当に必要なのは、国際社会の常識を取り戻し、国際法に従って、まずはすでに自衛権に制約があることを理解することではないだろうか。つまり山尾議員に、国際法を勉強して、実践してもらうことではないだろうか。
 憲法が、海洋法や難民法の規定を持っていないからといって、不思議に思う人はいない。それらの法規が「透明人間になっている」と主張する人はいない。ではなぜ自衛権(武力行使に関する法=jus ad bellum)についてだけ、「国際法などは透明人間だ、すべて憲法学に仕切らせろ」、といった態度をとるのか。
 本当に特異なのは、9条ではない。9条に異常なロマン主義を投影する人たちのメンタリティである。「国際法は黙っておけ、すべて憲法学に仕切らせろ」、といった態度を「立憲主義」などと言いかえて正当化する日本の法律家たちの態度が、異常なのだ。
 山尾議員は、山尾議員が理想とする行動をとる憲法裁判所を設置して、首相の独断専行を防ぐと言う。立憲民主党の憲法調査会が第1回会合で最初に講師として招いたのは、あの長谷部恭男教授だ。https://cdp-japan.jp/news/385   http://agora-web.jp/archives/2029309.html   http://agora-web.jp/archives/2029141.html   http://agora-web.jp/archives/2027653.html 長谷部教授は、初代憲法裁判所長に内定なのか。その他、憲法学者たちが続々と裁判官として名前を連ねることになるのかもしれない。
 山尾議員が理想とする憲法裁判所が設置されると、安保法制は即廃止、その他、国際法にしたがった立法措置や条約批准なども、次々と違憲になっていくのだろう。
 山尾議員は、どうやら砂川事件最高裁判所判決も「統治行為論」だと考えているようだ(前回ブログ記事で書いたように、私に言わせればこれはイデオロギー的なデマなのだが http://agora-web.jp/archives/2029642.html)。そうなると山尾議員が夢見る憲法裁判所とは、日米安全保障条約に違憲判断を下すようなものかもしれない。山尾改憲は、外交安全保障政策などの大改造計画になり、国政には大混乱が訪れるだろう。
 もちろんそうなっても、山尾議員だけは、「首相権限を制限したので立憲主義が発展しましたね」、と喜ぶ、という筋書きになっている。
 山尾議員も、山尾議員の倉持麟太郎政策顧問も、枝野幸男立憲民主党代表も、弁護士である。山尾議員の改憲案は、いわば弁護士・憲法学者の連合体による日本の外交安全保障政策の大改造計画である。
 司法試験受験者で、国際法を受験科目で選択する者は、わずか1.6%であるという。勉強が大変な割には点数が伸びない科目なので、予備校ではこぞって選択しないことを勧めているようだ。
 日本の法律家の約99%は、「国際関係法(公法系)」を、受験科目レベルですら、勉強していないのである。受験に役立たないため、大学で国際法の授業に出ることもしない。実務についてからも、日本では国際情勢から縁遠い。国際機関の法務部に、日本人は驚くべきほどに存在しないため、外国に留学しなければ、国際公法に詳しい知り合いもできない。
 つまり、国際法の話を、憲法の基本書を引っ張り出してきて解説してしまうガラパゴスな方々の代表が、司法試験受験組の方々なのである。山尾議員は、そして山尾議員の倉持麟太郎政策顧問も、枝野幸男立憲民主党代表も、そんな日本の法律家の純粋な典型例なのであろう。
 もちろん、弁護士なら、それでもいい。しかし国政を預かる政治家は、それでは困る。

国会の代表質問で、枝野幸男・立憲民主党代表が、安保法制も集団的自衛権も「立憲主義違反」だと断ずる演説を行った。
 枝野代表は、憲法問題に入ると、国内政策に関するときの語り口を突然変え、「まずは、今ある憲法をちゃんと守ってから言え!」と恫喝するかのような雄たけびをあげた。しかも枝野代表は、手続きを踏んで改憲しても、「立憲主義違反を事後的・なし崩し的に追認することになるので、到底認められない!」、とも叫んだ。万が一改憲がなされても、その結果を認めない、という宣言である。
 また、相変わらず反米的なトーンが顕著であった。「日米同盟はケンゼンに強化発展させるべき」という断片的な一言は、「もっとも、ケンゼンな同盟関係であるならば・・・」、とつなげ、「ケンゼン」「ケンゼン」と繰り返して、結局、日米同盟が不健全であることを強く示唆した。
 枝野代表は、自らが真の「保守」で、真の「リベラル」で、真の「立憲主義者」であることを誇る。しかし、結局、冷戦時代の「革新」と同じように見えるのは、国政の要の一つである外交安全保障分野で体系的な政策を打ち出さず、ただ反米主義のアピールで、支持者層を確保しようとするからだ。
 それにしても立憲民主党は、「立憲主義に違反する」のがどんな状態であるのか、なぜ安保法制や集団的自衛権そのものが「立憲主義に違反する」のかについて、まだきちんと体系的で精緻な議論を提示していない。立憲主義者を誇るのであれば、まず責任をもってそれらを説明すべきだ。
 私は、拙著『集団的自衛権の思想史』で、集団的自衛権違憲論が1960年代末の特有の時代の政治的産物でしかなかったことを論じ、拙著『ほんとうの憲法』で国際法と調和するのが本来の憲法の姿であることを論じた。つまり私は、枝野代表によって完全否定されている存在である。
 私は、攻撃的な憲法学者に、「三流蓑田胸喜だ」「日陰者だ」と誹謗中傷されている。http://agora-web.jp/archives/2029005.html 憲法学者の中には、集団的自衛権は違憲だとは言えない、と表明したがゆえに、執拗な脅迫にあい、警察官とともに通勤せざるを得なくなった方もいる。http://agora-web.jp/archives/2029309.html 
 立憲民主党が、一方的な思想統制に加担しているわけではない公党なら、断言調で他者を否定する行為について、自らの言葉でしっかりと説明する責任がある。
 私を含めて多くの方々が、立憲民主党が、どのような精緻な議論で、自己の主張を裏付けるのか、大きな関心を持っている。

*****

前回のブログでは、矢部宏治氏の反米ナショナリズムの誇張と扇動の言説について書いてみた。その中で、砂川事件最高裁判決が、「統治行為論」に逃げて、日米安保条約の違憲性の判断を回避した、とする見方にも、疑問を呈した。http://agora-web.jp/archives/2029574.html 
 「立憲主義」の理解にあたって、最高裁判所判決を知るのは、非常に重要なことだろう。そこで、砂川事件最高裁判決(1959年)について、具体的に見てみたい。個別意見にも幾つかの有名な文章が多々あるが、あえて最高裁全体の見解として提示された判決の主文に絞って、見ていきたい。主文は4千字余り程度の量の文章だ。誰でも簡単に読める。http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/816/055816_hanrei.pdf
 判決は、まず9条の検討から入る。 

「そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および九八条二項の国際協調の精神と相まつて、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。」

  ここで書かれているのは、9条が、侵略国家としての日本の体制転換を図る政策的意図で作られたものであることの確認である。 

「しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」

  ここで書かれているのは、9条が自衛権を否定するものではないことの確認である。戦争放棄が、自衛権の放棄ではないことの確認であると言ってもよい。 

「すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによつて生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。」

 ここで書かれているのは、「戦力」不保持は、「諸国民の公正と信義に信頼」で補って、「われらの安全と生存を保持する」、という憲法前文の「決意」の仕組みの確認である。

 それは、地方裁判所判決(伊達判決)のいうように、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。」

  ここで書かれているのは、「諸国民の公正と信義に信頼する」ということが、他国に安全保障を求めることを含む、広範な措置でありうることの確認である。

 「憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体なつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。」

 ここで書かれているのは、9条が侵略国家であった日本の体制転換を図る国内法根拠を作るものであったことを鑑みれば、日本に駐留しているからといって、外国軍が92項が禁止する「戦力」に該当するような可能性はない、ということの確認である。

 「アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に反するかどうかであるが、その判断には、右駐留が本件日米安全保障条約に基くものである関係上、結局右条約の内容が憲法の前記条章に反するかどうかの判断が前提とならざるを得ない。しかるに、右安全保障条約は、日本国との(サンフランシスコ)平和条約と同日に締結せられた、これと密接不可分の関係にある条約である。すなわち、(サンフランシスコ)平和条約六条(a)項但書には「この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」とあつて、日本国の領域における外国軍隊の駐留を認めており、本件安全保障条約は、右規定によつて認められた外国軍隊であるアメリカ合衆国軍隊の駐留に関して、日米間に締結せられた条約であり、平和条約の右条項は、当時の国際連合加盟国六〇箇国中四〇数箇国の多数国家がこれに賛成調印している。」

 ここで書かれているのは、日米安全保障条約がサンフランシスコ講和条約と一体のものとして締結されたということであり、つまり米軍の駐留は日本の主権回復と矛盾しない形で国際的に認められたということの確認である。

 「右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。それ故、右安全保障条約は、その内容において、主権国としてのわが国の平和と安全、ひいてはわが国存立の基礎に極めて重大な関係を有するものというべきであるが、また、その成立に当つては、時の内閣は憲法の条章に基き、米国と数次に亘る交渉の末、わが国の重大政策として適式に締結し、その後、それが憲法に適合するか否かの討議をも含めて衆参両院において慎重に審議せられた上、適法妥当なものとして国会の承認を経たものであることも公知の事実である。」

  ここで書かれているのは、日米安全保障条約が、「わが国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利」にもとづいて締結されたものであることの確認である。判決は、それは国際連合憲章にもそっており、国内手続きも不備なくとられて、成立したものであることも確認している。

 「ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする。」

 この箇所が、砂川事件最高裁判決が、「統治行為論」を採用した、と後に憲法学界で言われるようになる根拠である。ただし、この箇所において、判決は、違憲審査を放棄していない。「一見極めて明白に違憲無効である」と認められる場合には、やはり違憲判断を下すだろうことが、示されている。ただ、三権分立の観点もあるだろう、裁判所が国会の権限の範囲に入り込むことには慎重さが必要だ、ということが書かれているにすぎない。

 「本件アメリカ合衆国軍隊の駐留に関する安全保障条約およびその三条に基く行政協定の規定の示すところをみると、右駐留軍隊は外国軍隊であつて、わが国自体の戦力でないことはもちろん、これに対する指揮権、管理権は、すべてアメリカ合衆国に存し、わが国がその主体となつてあだかも自国の軍隊に対すると同様の指揮権、管理権を有するものでないことが明らかである。またこの軍隊は、前述のような同条約の前文に示された趣旨において駐留するものであり、同条約一条の示すように極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、ならびに一または二以上の外部の国による教唆または干渉によつて引き起されたわが国における大規模の内乱および騒じようを鎮圧するため、わが国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することとなつており、その目的は、専らわが国およびわが国を含めた極東の平和と安全を維持し、再び戦争の惨禍が起らないようにすることに存し、わが国がその駐留を許容したのは、わが国の防衛力の不足を、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して補なおうとしたものに外ならないことが窺えるのである。果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。そしてこのことは、憲法九条二項が、自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨のものであると否とにかかわらないのである。」

 ここで書かれているのは、これまでの判決主文の内容の要約であり、結論である。米軍駐留の合憲性が再度確認されており、それはまず米軍が外国軍であるからだからだが、同時に米軍が「国際の平和と安全の維持に寄与する」ものだと認定されるからであり、「平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼」するという憲法の精神に合致したものだと認定されるからである。

 「なお、行政協定は特に国会の承認を経ていないが、政府は昭和二七年二月二八日その調印を了し、同年三月上旬頃衆議院外務委員会に行政協定およびその締結の際の議事録を提出し、その後、同委員会および衆議院法務委員会等において、種々質疑応答がなされている。そして行政協定自体につき国会の承認を経べきものであるとの議論もあつたが、政府は、行政協定の根拠規定を含む安全保障条約が国会の承認を経ている以上、これと別に特に行政協定につき国会の承認を経る必要はないといい、国会においては、参議院本会議において、昭和二七年三月二五日に行政協定が憲法七三条による条約であるから、同条の規定によつて国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決され、また、衆議院本会議において、同年同月二六日に行政協定は安全保障条約三条により政府に委任された米軍の配備規律の範囲を越え、その内容は憲法七三条による国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決されたのである。しからば、以上の事実に徴し、米軍の配備を規律する条件を規定した行政協定は、既に国会の承認を経た安全保障条約三条の委任の範囲内のものであると認められ、これにつき特に国会の承認を経なかつたからといつて、違憲無効であるとは認められない。」

 ここで書かれているのは、日米安全保障条約の実施にあたって定められた諸々の行政協定について、いずれも条約の委任の範囲内のものであるので、違憲性はない、という判断の明示である。条約の行政執行には、少なくとも当時の時点で、違憲性が認められない、ということの確認である。

 「原判決(伊達判決)が、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条二項前段に違反し許すべからざるものと判断したのは、裁判所の司法審査権の範囲を逸脱し同条項および憲法前文の解釈を誤つたものであり、従つて、これを前提として本件刑事特別法二条を違憲無効としたことも失当であつて、この点に関する論旨は結局理由あるに帰し、原判決はその他の論旨につき判断するまでもなく、破棄を免かれない。・・・この判決は、・・・裁判官全員一致の意見によるものである。」

  最後に書かれているのは、日米安保条約を違憲と判断した地方裁判所判決(伊達判決)の否認という結論であり、その判断が最高裁判所裁判官全員の一致した意見として決せられたものだ、ということである。

 最高裁判決の論理の筋道は明確であり、判断をせずに統治行為論に逃げ込んでいるというのは、かなりうがった読み方ではないだろうか。
 日米安保条約が、「平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認している」ことに基づいているという最高裁判所の論理は、明晰だろう。
 もちろん、そのうえでなお2015年安保法案の合憲性に関する議論はあってもいいだろう。しかし少なくとも国会で集団的自衛権は違憲だ、と高らかに宣言した立憲民主党の枝野幸男代表の断言は、論証不要なまでに自明とまでは言えない。
 枝野代表は、他人の議論を完全否定するのであれば、その理由を明示する、という公人として最低限の責務を果たすべきだ。


先日、「米大統領が横田基地を使ったと言って怒る昭和の人々」という題名のブログ記事を書いた後、読者から、「付記」の部分に関する問い合わせをいただいた。http://agora-web.jp/archives/2029459.html 私が、『知ってはいけない:隠された日本支配の構造』(2017年)の著者である矢部宏治氏のことを「非常に高く評価」していると書きながら、「話の骨子は、普通に安全保障問題に関心を持っていれば、誰でも知っている事」、と書いたことについてであった。
  矢部氏の真摯な調査努力には敬意を持っている。ただ、誇張と扇動があまりに多い*。矢部氏の著書のメッセージは、アメリカが日本を支配していて日本は属国なので、主権回復のために立ち上がろう、という反米ナショナリズムのアジテーションである。私はこの大雑把なメッセージそのものには同調しない。地位協定の改善などの具体的な論点の検証だけであれば、私は本当に賛同したいのだが。
 「知ってはいけない」衝撃的な事実とは、憲法典と憲法学の間には、大きな乖離がある、ということだ。この点について、矢部氏を引用しよう。 

「『日本国憲法の草案は、占領下で占領軍によって書かれたものである』まずこの明白な事実を、いかなるあいまいな言い訳もなく、真正面から受け入れる必要があります。たしかに厳しい現実です。大きな心の痛みも伴います。でも、そこから出発するしかありません。事実にもとづかない主観的な議論には、いくらやっても着地点というものがないからです。」(167頁)
 「憲法9条や憲法前文について少しでも論じようとするなら、それらの条文が、国連憲章のどの条文にツールがあるのか、さらにその国連憲章の条文はそれぞれどこにルーツをもっているかについて、まず調べる必要があります。・・・すべてのスタート地点となった『大西洋憲章』は、日本ではあまり知られていませんが、非常に重要な文書なのです。現在、私たちが暮らす第二次世界大戦の世界は、・・・大西洋憲章で示された枠組みの上にあります。・・・そこには憲法9条の持つ、A「平和に対する人類究極の夢(=戦争放棄)B「邪悪な敗戦国への懲罰条項」(=武装解除)というふたつのルーツが、はっきりと書かれている・・・。憲法9条が国連軍を前提として書かれた条文であることに、疑いの余地はありません。そしてその背景にはいま見たように、一九四一年の大西洋憲章にはじまる、国際的な安全保障体制についての長い議論の積み重ねがあったのです。・・・『平和を愛する諸国民』とは、・・・本来、『第二次世界大戦に勝利した連合国(およびその国民)』を意味する言葉だからです。」(169171174-175178180頁)
 「自分もふくめ大多数の日本人にとってこの『反戦・護憲平和主義者』という立場は、基本的になんの義務も負わず、しかも心理的には他者より高みにいられる非常に都合のいいポジションなのです。・・・議論も許さない『絶対護憲主義』は、しょせん戦術論でしかありません。」(矢部宏治『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』[集英社、2014年]40181頁)

このように書いて、矢部氏は憲法学者から、「三流蓑田胸喜だ!」、と非難されたりしないのだろうか?もちろん、されない。なぜだろう。矢部氏が、反米ナショナリズムを掲げ、対米従属体制からの脱却を唱えるからだろう。たとえば篠田英朗であれば、同じような観察から、国際法に調和した憲法典の復権を唱え、米国との同盟関係もその中で位置づける。解釈姿勢が篠田と同じでも、結論が反米・反国際法の提唱であればOKで、そうでなければダメなのだ。
 矢部氏は、アメリカによって憲法9条が破壊される、といったことを語る。正しくは、現実が、憲法学の通説的解釈の虚偽性を頻繁に露呈する、ということだろう。
 現行の日本国憲法が、占領期に作られたものであることは、一つの端的な事実である。憲法が1907年ハーグ陸戦法規43条への抵触を免除する「絶対的な支障」があって作られたものであるかどうかには、議論があっていいだろう。矢部氏が、日本国憲法がアメリカ人が起草したものでしかないことを深刻に捉えるのは、一つのスタンスである。矢部氏の立場は、押しつけ憲法否定・自主憲法提唱者と同じなのである。ただあからさまに自主憲法制定を唱えることはしない。自らが洞察している国際法・日米同盟とつながっている日本国憲法典を拒絶しながら、何とかひとまず主流の憲法学者とは同盟を組んでおこうとする。
 矢部氏は、2015年の安保法案反対デモに参加した際、「『安倍はやめろ』といったコールは連日繰り返して」いたそうだが、「『集団的自衛権はいらない』というコールだけは、一緒に言えませんでした」と告白する。「なぜなら一九五一年一月末から始まった日米交渉のなかで、旧安保条約をなんとか国連憲章の集団的自衛権にもとづく条約にしようと、必死で交渉していたのが日本側のほうで、それを一貫して拒否し続けていたのがアメリカ側だったことを、私はよく知っていたからです」(『知ってはいけない』236頁)と述べる。矢部氏は、集団的自衛権に反対せず、安保法案に反対していた。
 矢部氏は、日米安保条約においては、アメリカに日本を防衛する義務がない、と強調する。だが、「義務」ではないことが「権利」の否定にならないことは、言うまでもない。現実の日米同盟体制は、双方の努力により、「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認」(安保条約前文)する体制で、運用されている。「権利」の運用に不可欠とされているのが、日本国憲法前文にも謳われている「信頼」であることも、双方が了解している。
 矢部氏は続ける。
「アメリカの公文書を読んでいつも感じるのは、『戦後世界の歴史は、法的支配の歴史である』ということです。・・・戦後世界においては、軍事力ではなく、国際法こそが最大の武器だというわけです。」(240頁)
 こうして、矢部氏は、対米従属への抵抗を唱え強調しながら、現代国際法と危うい関係に立つ。現代国際法は、アメリカが中心になって作ったものなので、国際法に従い続ける限り、アメリカの支配を受け入れなければならないからだ。
 実は、矢部氏が洞察するとおり、国際法/日米同盟と、日本国憲法もつながっている。とすれば、それらをセットで受け入れるのでなければ、セットで拒絶するしかないのはないか?矢部氏は、「憲法を守れ」と叫ぶ代わりに、「憲法を変えろ」と言わなければいけなかったのではないか?
 矢部氏は、以前の著作では、「前項の目的を達するため、日本国民は広く認められた国際法の原則を自国の法の一部として取り入れ」るという内容の憲法92項修正案を提案していた。(『日本はなぜ・・・』273頁)
 私としては、国際法を強調する改正に、大賛成だ。憲法解釈の揺らぎによる弊害を今、そして将来も防ぐためには、憲法は国際法と調和するものとして存在する、という原則を思い出すようにしておけばいい。(ちなみに私の拙著『ほんとうの憲法』での提案は、「前二項の規定は、本条の目的にそった軍隊を含む組織の活動を禁止しない。」というものである。)
 ところが、矢部氏は、もう一つの案として、個別的自衛権だけを明示的に憲法に挿入する案も提示し、これでいいならこれでもいい、といった言い方でまとめた。デモをしたときの迷いを見せながら、最後は通説的な憲法学に合わせようとした。矢部氏は、長谷部恭男教授を称賛する。そして、集団的自衛権を敵視することに合意し、日米安保体制の解消のために、大同団結する。
 矢部氏は、昨年の著書では、加憲式の憲法改正を提案し、「憲法の条文の削除は、歴史そのものの削除である」と訴え、「日本の憲法改正はアメリカ型の追加条項方式でやるしかない」、と訴えていた。(『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか[集英社、2016年]302-304頁)
 ところが、今年の著書では、安倍首相の加憲案はダメだ、と主張した(『知ってはいけない』259頁)。駐留米軍を完全撤退させず、日米安保体制を残存させながら、加憲するのではダメなのだという。
 基地のない安保条約は、少なくとも現在の形ではありえない(第6条)。そもそも日米安保条約とは、「ヒト(米軍)とモノ(基地)」の交換を骨格とするものだ。条約改正に先立って憲法改正で事実上の条約の無効化を狙うのは、まさに反米ナショナリストの革命的な挑戦だと言ってよい。
 日本国憲法98条は、「条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と定めている。日本も含め大多数の諸国が加入している「条約法条約」26条は、「効力を有するすべての条約は、当事国を拘束し、当事国は、これらの条約を誠実に履行しなければならない」と定め、同条約27条は、「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することができない」と定めている。矢部改憲が成立したら、大混乱が訪れ、恐らく誰も収拾することができないだろう。 
 果たして、矢部氏のような態度は、論理的に可能だろうか。日本自らを含む193ヶ国が批准している国連憲章で明記されている条項を、アメリカの軍事支配の邪悪な道具だと断定して拒絶しながら、国際法は全て遵守します、などと説明する態度が、国際的に通用するだろうか。通説の憲法学の政治的イデオロギーを排し、集団的自衛権を含めて国際法の原則を認めたときにこそ初めて、本来の正しい集団的自衛権の原則的解釈に従って、違法な軍事行動を審査して批判することが可能となるのではないか。
 頻繁に矢部氏は、ヨーロッパ人が、アメリカを批判することを参照する。しかし彼らがアメリカを批判するのは、国際法の原則を認めており、それにしたがってアメリカを批判できるからだ。
 日本がアメリカを批判できないのは、日本のガラパゴス憲法論の殻にこもり、国際法の原則にしたがった議論ができないからだ。
 とにかくアメリカはダメだから集団的自衛権は邪悪なもの・・・、などと言っている限り、国際的に通用する精緻なアメリカの批判はできない。
 私は、もちろん日米地位協定が万全だとは思っていない。沖縄に過剰な負担がかかっていることは疑いのない事実だ。その改善に努力するのは、素晴らしい事だ。しかしそうした事実を隠ぺいする役割を果たしてきたのは、日米安保体制を語る事ができない偏った憲法解釈である。作り上げた美しい憲法のイメージを守るために、現実を汚らわしいものとして避ける態度が、裏・表の二枚舌構造を作り出し、裏側を隠ぺいし、表だけを語り続ける人々を大量生産してきた。
 安全保障体制と憲法体制をしっかりと整理して体系的に位置付けた上で、現実の個々の問題の改善に専心するべきではないか?その際に普遍主義的な規範を参照し、国際法の諸原則に沿った形で、事態の改善策を追求していくべきではないか?日本は属国だから立ち上がろう、という反米主義のスローガンを掲げている限り、「革命」が成就するまで事態の改善が果たせないのではないか?
 憲法91項は、現代国際法では国連憲章24項に結実している国際法原則の国内法化の規定である。憲法92項は、戦後処理の一環として行われた侵略国家である大日本帝国の陸海空軍の武装解除/解体の国内法上の根拠を定めたものである。「戦力(war potential)」ではない自衛権の行使を目的にした軍隊の存在を将来にわたって禁止するための規定ではない。(矢部氏は、多くの憲法学者と同じように「マッカーサー三原則」を強調するが、将来にわたる軍隊の保持の禁止は、GHQ内部での議論の段階ですでに削除された考え方だ。)
 「戦後世界の歴史は、法的支配の歴史である」という「現実」を見すえて生きていくのであれば、日本国憲法典を反米ナショナリズムの政治的イデオロギーにしたがって解釈するのではなく、憲法典が調和することを予定している国際法の原則にしたがって解釈すべきだ。矢部氏の著書の実質部分を、誇張と扇動を切り落として読み込めば、本当は、そのような見解が出てくるはずである。

*****

<追記> 矢部氏は、「密約」という言葉を繰り返し使って、センセーショナルな演出を繰り返す。しかし矢部氏の「密約」は、どこまでが本当に「密約」だろうか。「横田空域」を例に取ろう。横田基地が存在しているために、広範な周辺地域の空域に特別な管制が敷かれていることは、よく知られている事実である。私は長く広島大学に勤務していたので、航空機で頻繁に東京と広島を往復していた。横田空域は、体感として知っている。ちなみに広島から九州方面に飛ぶと、岩国空域も感じる事はできる。しかしこれは「密約」のようなものではない。国会で議論されたこともあるし、石原慎太郎都知事の時代には民間機乗り入れ提案が公約とされていたこともある。矢部氏は全くふれないが、横田空域が段階的に縮小していることや、航空自衛隊も入っていることなどは、公の情報で流通している。
 日米安保条約の運用によって、米軍は日本国内のどこにでも基地を持つ権利を持っている、と矢部氏は強調するが、本当に矢部氏が言うように「日本の空は、すべて米軍に支配されている」といったほど、その条約上の権利が行使されているわけではない。仮に矢部氏が言うように、「数十万人程度の人たちが知っていればそれでいい、という問題ではない。少なくとも数千万単位の日本人が、常識として知っていなければならない」(19頁)としても、矢部氏の本が数千万部売れるまで、日米安保に関する行政運営文書の全てが「密約」だったことになるわけではない。
 ちなみに横田基地のある土地は、旧日本帝国陸軍飛行場があった場所だ。現在の昭和記念公園から砂川エリアまで広がる広大な地域も、戦前の軍事関係施設を米軍が一度接収した後に、段階的に返還してきたものだ。沖縄とも事情が違う。米軍基地が東京都にあるからダメだ、という話ではないと感じる。
 矢部氏は、指揮権についても密約があったと言う。自衛隊が、専守防衛の原則にしたがって、数々の米軍との共同行動を前提にした仕組みを持っている事は、周知の事実である。あまり非現実的な民族主義的主張をしても、自衛隊を機能不全に陥らせるだけだ。
 かつて日本の主権回復直後、朝鮮戦争中、まだ自衛隊も創設される前の1953年だ。吉田茂首相が米軍司令官と夕食を共にして、緊急事態の統一指揮権について話した。「現状では」統一的な指揮官はアメリカが担わざるを得ないだろう、と話した。その会話の内容は、司令官から統合参謀本部に打電され、アメリカ政府側に残った。興味深い資料ではある。しかし、これは本当に「口頭密約」と呼ぶべきものなのだろうか?そうした夕食の会話があると、本当に日本は「なんの言い訳もできない完全な『属国』」(196頁)だ、というべきものになってしまうのだろうか?
 そもそも有事の指揮権の問題は、日本人のほうが議論することを拒絶している。憲法学者が、軍隊の存在を認めないので、国内法体系で指揮権を議論できないことが、はじめの一歩の問題として存在してしまっているのだ。緊急事態条項ですら話し合うこと自体を批判している。自国の中で指揮権をきちんと議論することを拒絶しておきながら、日米共同作戦の有事に米国の指揮権がありうることを糾弾するのは、陳腐である。
 ちなみに、陸上自衛隊は、国連PKOに派遣されて、外国人司令官の指揮下に置かれた経験をすでに持っている。海上自衛隊は、ソマリア沖の海賊対策作戦で、多国籍艦隊で外国人司令官の指揮下に置かれた経験と、自ら司令官の任務を遂行する経験もした。矢部氏によると、外国人が指揮官だった期間は日本は「完全な属国」だか部分的な属国だかだったかで、日本人が司令官だった期間は独立国だった、ということになるのだろうか。
 そもそも国際的な軍事活動で、統一指揮権がない、などという事態は、想像できない。「米軍を守っても、米軍に守ってもらっても、どこまでいっても、個別的自衛権だけしかありません」、というガラパゴス理論に固執する人であれば、統一指揮権を邪悪なものと考えるだろう。憲法学者が外交・安全保障問題を仕切るのが、正しい社会のあり方だ、と信じる意識的・無意識的な反米ナショナリストであれば、アメリカ人の指揮下に入ることは到底認めてはならない奴隷行為だ、と考えるだろう。だが果たしてそれは現実的に最も妥当な選択だろうか。
 ところで、矢部氏は、日米安保条約を合憲判断した「砂川事件最高裁判決」を「統治行為論」の産物と断定するだけでなく、相当なページを統治行為論の糾弾にあてている。これは矢部氏だけの責任ではないのだが、砂川事件最高裁判決を統治行為論だけで理解するのは、私は違うと思っている。矢部氏は「保守派」を糾弾するが、むしろ護憲派憲法学者こそが、砂川事件最高裁判決の意義を貶めるために、あれは統治行為論だった、という宣伝を行ってきたのではないか。
 実際の判決を読んでみれば、最高裁判決が「統治行為論」を理由にして合憲判断をしたわけではないことがわかる。合憲判決は、憲法9条が自衛の措置をとることを禁じていないという論旨が中心になされており、追加的に、国権の最高機関である国会が批准した条約に対する違憲判断には強い違憲の明白性が求められると、書かれたにすぎない。その部分だけを取り上げて、統治行為論だ、法治国家崩壊だ、米国支配の属国化だ、と騒ぐのは、読み方としておかしいと思う。
 統治行為論に与した裁判官もいたのかもしれないが、強く反対した裁判官の意見も個別意見の中で確認されている。全体として、判決それ自体が統治行為論に依拠していたとは言えない。統治行為論を拒絶した裁判官も、結局、全員一致の合憲判決に賛同したのだ。
 矢部氏の本の書評で、そうした裁判官を指して「砂川判決に対して反対意見を述べた最高裁判官」が、統治行為論を批判した、などとまとめているものがある(嶋崎史崇『哲学と現代』3220172月)。違う。裁判官たちは、全員一致で、合憲判断に賛同していた。ただ、判決の追加的な記述の書き方について懸念を表明したにすぎない。
 1960年苫米地事件、長沼事件控訴審判決(1976年札幌高裁)、百里基地訴訟第1審判決(1977年水戸地裁)などで統治行為論が採用され、それは砂川事件最高裁判決で用いられた表現が、影響を与えたのかもしれない。だがだからといって遡及的に砂川事件最高裁判決が純粋な統治行為論の判決だったと言えるようになるわけではない。
 砂川事件最高裁判決については、伝言ゲームによる誤解がひどいが、かなり政治的な操作で意図的に悪意の伝言ゲームが行われているのではないか、とも感じる。プロパガンダ本ばかりを読むのではなく、判決それ自体を読んでみるべきだ。最高裁判決は、次のように宣言していた。
 (憲法92項が)「保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。・・・(日米)安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。」(最大判昭和341216日刑集13133225頁)。<http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/816/055816_hanrei.pdf>

↑このページのトップヘ