「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

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日本政府が日韓請求権協定時の議事録を公開して、請求権協定の範囲内に元徴用工問題があるという認識があったことを主張した。これに対して韓国政府は即座に反応し、大法院判決はそれを考慮した上で否定したのだ、とコメントした。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190730-00000091-jij-kr

水掛け論というやつである。

今回のように、政治的立場をかけて水掛け論が発生しているような場合には、水掛け論を非難しても、事態は改善しない。なぜなら立場の奥底にある「利益」があって、お互いに立場を譲り合わない水掛け論をしているからだ。

現在の日韓関係では、「共通の利益」の土台が不透明になっている。ただし存在していないわけではない。米国という共通の同盟国を持ち、一定の共通の安全保障政策を持っているため、この安全保障政策の枠組みの維持が「共通の利益」として働き、ぎりぎりのところでの両国関係の破綻を防いでいる。

換言すれば、安全保障政策の破綻が予測されない範囲内では、両国関係は悪化し続けていくだろう。また、万が一の暴発で、安全保障政策の枠組みが壊れていく事態が発生するならば、それは新次元の深刻な状態ということになり、新しい対応が必要だ。

現状で必要なのは、この「共通の利益」の土台を維持しながら、事態を改善していく道筋があるかどうか、だ。その道筋は、お互いが「何故お前は自分が間違っていることに気づかないのだ」という言葉を発することを封印しつつ、「私は間違っていました」という言葉も発しない地点でのみ、可能となる。

日本政府は、元徴用工問題を国際法の観点から理解する立場である。韓国政府(含む大法院判決)は、歴史問題の観点から理解する立場である。どこまで言っても両者が調和することはないのは、火を見るより明らかだ。

まずは自分の立場と、相手の立場を知り、よく分析していくことが必要だ。そのうえで対応策を考えるべきだ。

私は韓国大法院の判決は、国際法を無視しているという点で、問題をはらんでいると考えている。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58305 

ただしそれを是正する手段はない。したがって「共通の利益」を求めている姿勢をみせるためには、日本政府は、韓国国会を通じた法的措置を訴えるなどの具体的な改善案を率先して提示してもいいのではないかと示唆したこともある。ただしそれも、法的な論点を双方の当事者が共有してからの話にはなるだろうhttps://gendai.ismedia.jp/articles/-/65462 

どちらかがより激しく相手を糾弾したり、どちらかがより深く自分を反省したりしても、事態は改善しない。

まして事態を改善できないのは、誰かが日本で韓国を「敵」扱いする「ネトウヨやヘイトスピーチ派」のせいなので、自分はネトウヨではないと思う人は冷静な知識人とともに「署名」をしてほしい、といった人気投票の運動で、何か事態が改善するようになるとは、思えない。問題が発生しているのは世の中にネトウヨがいるからだ、といった安易な診断に対する「署名」活動を呼びかけることが、大学教員に与えられている社会的使命なのだろうか。

至る所に同じような構図の問題があり、日本社会全体に閉塞感があふれている。憲法問題は代表例だ。憲法解釈の問題は、認識のレベルの問題だ。徹底的に議論しなければならない。ところが「多数派だ」「通説だ」「憲法学者以外の者が憲法を語るのはフェィクだ」、といった人気投票に持ち込むことを、大学教員が率先して呼びかけている。納得がいかない。http://agora-web.jp/archives/2040594.html 

私は、むしろ池袋老人暴走事件の遺族の方が訴えている「署名」に参加し、署名用紙を送付した。https://ameblo.jp/ma-nariko/entry-12499751619.html

暴走老人に対する歯止めを怠っているのは、政策論だ。高齢老人に対する適正な処罰の在り方を求めることも、暴走老人に対する抑止効果をどうやって維持するか、という深刻な社会問題に対応した政策論だ。世論の高まりが意味を持つ。「署名」をするなら、こういう問題だ。

社会意識が高まり、対策が講じられることで、他の人々にも恩恵がある。言い知れない苦しみを抱えながら、前を向いた活動を行っている遺族の方の勇気には、どれだけの敬意を払っても足りない。

遺族の方へのマスメディアの取材のあり方が問題になった。遺族の方が社会的意義あることを訴えているとき、今度はしっかりと伝えていくのが、マスメディアの社会的意義であり、存在価値だろう。責任をもって、社会的意義のあることを、しっかりと伝えていってほしい。

 参議院選挙が終わり、改憲論議の行方が話題になっている。多くの人々が、「改憲問題は国民の関心事項ではない」といった主張をしている。改憲論の進展への強い警戒心は、改憲問題への強い関心の表れのようにも思えるが、議論はしないのだという。

わかりにくい。

議論しないという立場の人々は、「自衛隊は広く国民に認められているのだから、改憲の必要性はない」と主張している。しかし自衛隊が広く認められていることを肯定しているのなら、改憲に賛成してもいいではないか。

非常にわかりにくい。

アンケート調査では、具体的な改憲案の是非についての質問ではなく、「安倍政権下での改憲に賛成ですか」とか「改憲問題の優先順位はどれくらいですか」といった、ひねった質問がなされる。

とてもわかりにくい。

わかりにくい原因は、冷戦時代を生きていた世代の人々が、すべてを左右のイデオロギー集団間の闘争の歴史の中で捉えていることなのではないか。論理的一貫性は度外視して、勝つか負けるか、といった図式で全てを捉えている。そのため人間関係に着目するとわかりやすいのだが、論理を見てみると、とてもわかりにくくなってしまうのではないか。

改憲の必要性のポイントは、解釈の確定である。

憲法9条の解釈が曖昧になっていることは疑いのない事実だ。解釈を確定させることに大きな利益がある。改憲が解釈確定に役立つなら有益だし、そうでないなら無益だ。

現在でも憲法学の基本書を見ると、自衛隊違憲説が学界「通説」として紹介されている。それなのに憲法学者たちが率先して「自衛隊は広く国民に認められている」と声高に主張しているのは、いったいどういうことなのか。

「自衛隊が違憲だと言う憲法学者ばかりではない」などとのんびりと語ってみせる憲法学者もいるが、それでは、結局、どちらなのか。学者の良心から、議論せずにはいられない、という衝動を、憲法学者の方々は感じたりしないのか。

学者同士の議論を避けて、「アベ政治を許さない」で大同団結することを優先していることの憲法学上の意味は何なのか。

まず自分の学界内部で、自衛隊が合憲なのか、違憲なのか、徹底的に議論するべきではないのか。その様子を公にすることこそが、学者が社会に対して持っている社会的使命を果たすことなのではないか。

伝統的な憲法学界「通説」は、次のようなものである。
 91項では自衛権が否定されていないように見えるが、2項が「戦力」と「交戦権」を否定しているため、1項で留保されている自衛権の行使もできなくなる。1項の意味を、2項を読んでから、修正するという奇妙な「ちゃぶ台返し」の解釈論である。http://agora-web.jp/archives/2040347.html

これに対して、1項にしたがって2項を解釈する立場は、伝統的に京都大学系の憲法学者や国際政治学者らによって採用されてきた。これは伝統的に「芦田修正説」と呼ばれてきた。「芦田修正」とは、2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という挿入句を入れた憲法改正特別委員会の措置のことを指すが、今日に至るまで主流派の憲法学者たちから蔑みの対象であり続けている。http://agora-web.jp/archives/1667846.html 

なぜ「芦田修正」が邪道なのかというと、2項の真ん中に「句点」があるからだという(!)。「前項の目的を達するため」は、2項の最初の一文である「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」にかかるが、句点「。」によって、「前項の目的を達する」の縛りは終了するという。そこで2項の2文目の「国の交戦権は、これを認めない。」には「前項の目的を達するため」はかからない。そのため「前項の目的を達するため」ではない「交戦権」の否認によって、1項の自衛権の留保も無効化される、というのである。
 たとえば 高橋和之・元東大教授によれば「不戦条約等の文言と関連づけて解釈することを否定し、日本国憲法独自の意味を探るという立場」が有力なのは、「こう解すれば2項の前段も後段も、何の技巧も施すことなく文言通りの意味に解することができる」からだと説明する。高橋教授によれば、92項が「前段と句点で区切られているため、『前項の目的を達するため』を後段にまで及ぼすことができず、自衛のための『交戦権』は否定されないと読むことが困難である」と主張する。高橋教授は、「交戦権の意味に技巧をこらし、国際法上交戦国に認められる(敵の船舶を拿捕したり、敵の領土を占領統治したりする)権利の意味であるとし、かかる意味での交戦権は否定されたが、戦う権利が否定されたわけではない」といった考え方を仮想敵としながら、「もし自衛のための戦争・戦力が認められるなら、なぜかかる意味での交戦権が否定されねばならないのか説明が困難であろう」と述べる。(高橋和之『立憲主義と日本国憲法』(第4版)(2017年、有斐閣)、53-54頁。

「句点」! 日本の憲法学通説の正しさを裏付ける根拠は、「句点」!

国家の安全保障政策を、70年以上にわたって「句点」を根拠にして、大きく制約し続けようとしてきたと言うのだから、冗談にもならない。しかし日本では、こんな憲法解釈がはびこる学界「通説」を学ぶことが、司法試験や公務員試験を通じて、法律家や官僚になるための必須要件とされている。よくぞ「句点が根拠」下で、国家を運営してこれたものである。驚くべき作業だと称賛してもいいが、そのために膨大な量の残業費の無駄遣いや政策の停滞が引き起こされてきた。憲法学界「通説」によってもたらされた壮大な無駄の規模は、計り知れないのである。

私は、繰り返し、以下の憲法解釈の妥当性を主張している。

憲法上の「戦力」概念は、感覚的に解釈されるべきものではない。たとえば、読売巨人「軍」の選手などもしばしば一般人によって「戦力」と表現されている。一般人の言語感覚にそって憲法解釈するならば、プロ野球選手も違憲の存在なのである。だがもちろんそのような感性的な解釈は、法律論ではない。一般人の言語感覚を、憲法学者の言語感覚、と置き換えてみても、事情は変わらない。感性論は、法律論ではない。重要なのは、明確な基準があるかないか、である。

「戦力」の憲法上の意味は、「戦争潜在力(war potential)」であり、この「戦争」概念は、1項で放棄された「国権の発動としての戦争(war as a sovereign right of the nation)」であることは、自明である。「芦田修正」の挿入句なども気にすることなく、ただ素直に1項から自然に2項を読み進めていけばいいのである。1項で否定されたのは、国際法で違法の「戦争(war)」のことである。そこには自衛権は含まれていない。2項で不保持が宣言されている「戦争潜在力(war potential)」も、1項と綺麗につながっているために、自衛権行使の手段は含まれていない。

憲法学者は「自衛戦争」なる国際法では使われていない造語などを乱発し、「自衛戦争」も戦争だから放棄される、といったお話を広めようとする。しかし「自衛戦争」は日本のガラパゴス憲法学にのみ存在している概念である。そんなものを理由にして国際法上の自衛権を否定するというのは、完全に破綻した議論である。

また句点の後で否認されている「交戦権」は、国際法では存在していない概念である。存在しないものを「認めない」と宣言しても、国際法上の権利で失うものは何もない。「交戦権」否認は、不戦条約体制から逸脱した太平洋戦争中の大日本帝国憲法の「統帥権」概念などを根拠にした大日本帝国特有のイデオロギーの否定である。自衛権の放棄とは何も関係がない。

なぜ1項と2項を論理的に結びつける解釈が、「句点が根拠」論よりも、劣っているとみなされるのか?納得がいかない。

議論が必要ではないだろうか? 国会議員も議論すべきだが、まずは学者が議論すべきなのではないか?

私は各方面で、主流派の憲法学者との議論の場を設定してくれないか、と頼んでいる。ここ数年頼み続けている。理解ある憲法学者の方だけでなく、マスコミ関係者や政治家の方にも頼んでいる。しかし実現していない。主流派の憲法学者を、私との議論の場に連れて来れる腕力のある方が、今の日本にはいないのだ。

それどころか憲法学者は、憲法学者ではない者は憲法を語ってはならない、と主張し続けている。http://agora-web.jp/archives/2032313.html 

一部の良心的な憲法学者の方々の中には、次のように私に助言してくれる方もいる。「主流派の憲法学者を批判しても勝ち目がないですよ、彼らはマスコミに重宝されていますから」。

しかし、このまま憲法学「通説」の「句点が根拠」を許し続けていて、日本はやっていけるのか。時代遅れのイデオロギー闘争をやっている場合ではない。

 

https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=as_li_ss_tl?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E6%86%B2%E6%B3%95%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%97%85+&fbclid=IwAR0gWB5OBKS6ZzZKENPGr26ETyoFLoTPfDql4y_-kAJCvVQFDnl-78y4xWw

 参議院選挙の投票率は低調で、特に若年層の投票率が低かった。そこで「主権者教育」の効果が問われたりしている。

だが、そこで話題になる、「主権者教育」とは何なのか?

2016年の参議院選挙から選挙権年齢が18歳に引き下げられたことを受けて始まった新しい学校教育を指す概念だ。最近はよく聞く言葉になっているかもしれない。だが投票率の低調さを見るまでもなく、深く浸透しているようには見えない。

文部科学省は、「青少年の健全育成」の一部に「主権者教育の推進」を入れ、「単に政治の仕組みについて必要な知識の習得のみならず、主権者として社会の中で自立し、他者と連携・協働しながら、社会を生き抜く力や地域の課題解決を社会の構成員の一員として主体的に担う力を育む主権者教育を推進」している。http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/ikusei/1369165.htm

投票率向上を狙っているはずなのだが、それだけではない、という話が、最初から「主権者教育」の目的として強調されている。そのせいだろうか。「主権者教育」の内容は何なのかと思って文科省提供の情報を見てみても、ひどく説教じみたものにしか感じられない。「主権者かくあるべし」といった精神論が多く、若者が投票に行きたくなるような魅力を感じさせるものには見えない。

それにしても「主権者教育」というのは、誰が考え出した言葉なのだろうか。「主権者」を教育する、というのは、奇妙な発想だ。「主権者」は、ヨーロッパ絶対王政の時代に専制君主を指す言葉として使われ始めた。確かに、長い歴史の中で、様々な意味を持たされた(篠田英朗『「国家主権」という思想』参照)。だがそうだとしても、最高権力者である主権者を教育する、というのは、奇抜な発想だ。「主権=最高権威」を持つ主権者を教育する権威を持つ人物とは、いったい何者なのか?主権者とは、文部科学省の教育によって作られるものなのか?

日本国憲法の「三大原理」の一つが「国民主権」であると主張する勢力が、やたらと「主権者である国民」の概念を振り回したがる。意味もよく考えず、言葉の整合性も考えず、お題目として「主権者は国民だ」スローガンを振り回す傾向は、日本特有のガラパゴス文化だ。どうやら「主権者教育」の概念も、そうした日本のガラパゴス文化と深く関わっているように感じる。

私は、憲法学者が広めてきた「日本国憲法には三大原理がある」説には、根拠がない、と主張している(篠田英朗『憲法学の病』参照)。憲法前文には、ただ一つの原理しか「原理(principle)」として書かれていないので、憲法「一大原理」が正しい、と主張している。日本国憲法が「この憲法はかかる原理に基づく」と宣言している「人類普遍の原理」とは、「国政は、国民の厳粛な信託による」という理念である。これは「人民の人民による人民のための政治(その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受す)」と言い換えられているが、その根本には、「信託(trust)」という概念がある。社会契約論を示す「信託」概念を不当に貶めて、「要するにすべては国民主権論の話さ」と言いくるめようとするのは、ほとんど陰謀である。「信託」は、ジョン・ロックの社会契約論を基本とし、アメリカ独立宣言で謳われた社会契約思想を指していると考えるのが、本来は最も自然だ。

ジャン・ジャック・ルソーが「イギリス人は選挙の時だけ自由だが、議員が選ばれるや否や奴隷となる」と述べたのは、あまりにも有名だ。ルソーの影響が強いフランス革命は、イギリス流の古典的な自由主義を克服しようとする運動でもあった。国民を真の主権者にするために、ルソーは「一般意思」説などを唱え、イギリス流の古典的な社会契約論を作り替えようとした。主権者・国民は、選挙の時以外でも、主権者として振る舞わなければならない。それに従わない主権者は罰せられることもある。主権者は自由であるように強いられる、というのが、ルソー=フランス革命の思想である。

これに対して、エドムンド・バークのような同時代のイギリス人は、フランス革命の思想を危険な空理空論として警戒した。国民全体が主権者として振る舞うことは不可能であり、最悪の場合には、それは国民を操作して動員する権力者たちが牛耳る全体主義に陥る。極度に抽象的な国民主権論などよりも重要なのは、選挙を通じて与えられた「信託」に忠実に政府が行動することを確証する仕組みを作ることだ。政府は人々の自由を守り、安全を保障する。そのために必要な政策は、政府が考え、実行する。いちいち主権者・国民が「われわれが主権者であるから、われわれ自身が行動していることにしなければならない」などと出しゃばる必要はない。重要なのは、「契約」である。

日本国憲法は、その文章や、起草の経緯を考えれば、疑いなく英米流の社会契約論を基盤としたものだ。「信託」が「一大原理」として書かれているのは、そのことを示している。ところが、本当の日本国憲法を、日本の憲法学者たちは、長きにわたり隠蔽し続けてきた。アメリカの独立宣言ではなく、フランス革命こそが日本国憲法の基盤であるかのように説明してきた。ロックではなく、ルソーが日本国憲法に影響を与えたかのような解釈を「通説」とする態度を日本社会に広め続け、学校教育もその影響下に置こうとし続けてきた。日本の憲法学は、いわば「主権者教育」の総本山かもしれない。

・・・主権者は、放っておけば選挙の時以外は奴隷だ。常に主権者として振る舞うように「教育」されなければならない・・・。まさに教育論『エミール』を執筆したルソーにもつながるような思想が、「主権者教育」の考え方の背景にはある。

残念ながら、この憲法学通説を基盤にした「主権者教育」は、若者を魅了しきれていない。しかし、だからといってさらに大声で若者を説教しようとするのは、やめたほうがいい。

むしろ必要なのは、憲法学通説の妥当性とともに、「主権者教育」の妥当性も、あらためて見直すことなのではないか。
https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=sr_1_1?qid=1564010108&s=books&sr=1-1

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