「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文その他の情報や、時々の意見・解説を集めています。以前にホームページとして掲載していた情報ともリンクさせています。

 拙著『ほんとうの憲法』が75日付で公刊された。https://www.amazon.co.jp/%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%AE%E6%86%B2%E6%B3%95-%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%86%B2%E6%B3%95%E5%AD%A6%E6%89%B9%E5%88%A4-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%AF%A0%E7%94%B0-%E8%8B%B1%E6%9C%97/dp/448006978X/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1499359297&sr=1-1 前著『集団的自衛権の思想史』では、集団的自衛権という概念の歴史を辿ったが、そのためには戦後日本の憲法学のあり方を問い直さざるを得ないことがわかった。今回は、東大法学部系の憲法学で確立された読み方だけが日本国憲法の読み方ではないことを示しつつ、なぜ東大法学部系の憲法学が特異な伝統を築くに至ったかについて、考察をしてみた。

 池田信夫さんに見本として出版社から渡された拙著を謹呈したところ、あっという間に読んでいただき、書評まで書いていただいた。http://agora-web.jp/archives/2027030.html 池田さんには、「憲法学者の精神分析」という表現で、論じて頂いた。大変に鋭い表現で、ありがたく思う。また、池田さんには、私が論じたのが、あくまでも東大法学部憲法学講座の伝統であって、たとえば同じ東大でも、法学部憲法学以外は関係がないことを、明示してくださった。ありがたい。

 私は高校の教科書の執筆委員や一般職の公務員試験の試験委員などをやっている。そこで感じたのは、社会的権力というべきものの強さだった。私が「国際政治学界ではもう最近ではこうなっている」と言っても、教科書を作り変えることは難しい。高校の先生方にアピールして買ってもらわなければならないからだ。そして学校の先生方は、東大法学部系の憲法学の概念構成に飲み込まれている。公務員試験について言えば、もともと公務員志望者で「国際関係」を選択する者は少なく、「憲法」学の影響力の足元にも及ばない。「権力は腐敗する」、と総理大臣に叫ぶ者は数多くいても、一見したところ分かりにくい社会的権力の中枢を識別して、同じようにつぶやく人は、あまりいない。

 これは、旬な話題である。安倍晋三政権が、「東京の私立大学の出身者」が中心の内閣であることは、公然の秘密である。首相自身(成蹊大)から始まって、菅官房長官(法政大)、麻生財務相(学習院大)、岸田外相(早稲田大)はもちろん、石原特命担当大臣(慶応大)、世耕経産相(早稲田大)、稲田防衛相(早稲田大)、松野文科相(早稲田大)、山本農水相(早稲田大)、山本環境相(慶応大)、吉野復興相(早稲田大)など、大半の閣僚が「東京の私立大学の出身者」である。塩崎厚労相、石井国交相ら東大出身者もいるが、20人の大臣の中で東大法学部出身は、鶴保特命担当大臣だけである。なお自民党側でも、安保法制成立時に活躍した高村副総裁や二階幹事長が中央大卒といった様子になっている。

 本来、東大は学生数が圧倒的に多いわけではない大学なので、それを考えれば閣僚の4分の1程度を構成しているのは、まだ相当な数だと言えるかもしれない。しかしかつての自民党が、東大法学部/高級官僚出身の首相を輩出するのを常道としていたこと、中央官庁の高級官僚のほとんどが東大(法学部)出身者であることを考えると、閣僚と役人の出身大学の層がずれていることは、一つの大きな特徴である。

東大法学部・官僚出身の最後の首相は、宮沢喜一であった。私に言わせれば、1993年の宮沢内閣の終焉と自民党の下野が、冷戦型の政治スタイルが終焉した瞬間であった。政権を奪還した後の自民党は、橋本、小渕、森、小泉、安倍、福田、麻生、安倍、と、「東京の私立大学の出身者」を連続して首相として送り出してきている。それだけではない。石破茂(慶応大)をはじめとして、自民党内の首相候補は「東京の私大出身者」で占められており、近い将来に東大法学部出身者が首相の座を得る見込みはない。特に小選挙区制が導入されてからは、「東京の私立大学」系のコミュニケーションのスタイルが、有利に働いているところもあるのではないか。

近頃、安倍首相に反旗を翻したとして有名になった前川喜平・元文科省事務次官は、東大法学部出身(麻布中・高出身)で、「東京の私立大学出身者」が中核を構成する内閣の方針にも「面従腹背」を座右の銘とする姿勢で臨み、天下りあっせんにも熱を入れていた。前川氏は、裕福な家系に生まれて、華々しい姻戚関係も持っている。よく知られているように、東大生の親の平均所得は非常に高く、東大は特定の一貫教育私立/国立大付属校や特定の予備校を通過する学生が非常に多い「寡占」状態に置かれていることが、時に問題視されている。前川氏は、その意味でも典型的な「霞が関エリート」だと言えるだろう。

前川氏のような方々こそが、東大法学部系憲法学のドクトリンを中心に据えて、長きにわたり、日本社会の運用管理を担ってきた「共同体」の方々だと言えるだろう。前川氏のような伝統的タイプのエリートからすれば、安倍首相などは、あらゆる意味において、「クーデター」派でしかないのだろう。

2015年安保法制をめぐる喧噪では、東大法学部系の憲法学者の方々が、内閣法制局見解を事実上の憲法解釈の最終審であるかのように語り、首相などが勝手に「クーデター」を起こすことは許さない、といった態度をとったことが、衝撃を持って受け止められた。だが、それは、素朴な心情に突き動かされた態度だったかもしれない。

問題は、冷戦終焉後の時代の日本において、伝統的エリートが、伝統的なやり方で権力を動かす時代は終わってしまっていることだ。そのことをタブーのように感じる向きもあるかもしれない。だが本当は皆が気づいている重大な事実である。

 稲田朋美防衛大臣の「自衛隊としてお願いします」発言を見て、私は、自分自身が6月20日に書いたブログ記事を思い出した。「自衛隊員の立場を勝手に代弁するのはルール違反ではないか」という題名を付した記事だ。http://agora-web.jp/archives/2026715.html
 朝日新聞の対談において長谷部恭男・早稲田大学教授(元東大法学部教授)が、安倍首相は「改憲の道具として自衛隊利用」をしているので「自衛官の尊厳がコケにされている」と発言しているのを見て、私は「気分が悪くなった」。
 私が「気分が悪くなった」理由は、見え見えの子供だましの話しぶりで、自分の政治的立場を正当化するために、勝手に「自衛官の尊厳」なるものを振りかざし、自分自身が自衛隊を政治利用していることに、全く良心の呵責を感じていない様子である言論人を見た気がしたからだ。他人=権力者は、自衛隊を政治利用してはいけない。しかし憲法学者なら、自衛隊を政治利用してもよい。といわんばかりの法技術論に、「気分が悪くなった」。
 素朴に見て、5月3日の安倍首相の発言のほうが、品が良いと思う。安倍首相は、次のように言っていた。

今日、災害救助を含め命懸けで、24時間365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿に対して、国民の信頼は9割を超えています。しかし、多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が今なお存在しています。「自衛隊は、違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ」というのは、あまりにも無責任です。

 この発言の姿勢は、いわば自衛隊員に「なりすまし」て、勝手に自衛隊員を代弁しようとしたりする態度とは、違っていると思う。自衛隊員を統括する最高責任者として、部下である自衛隊員の憲法上の位置づけを明確化したいという思いを吐露した上で、その思いを共有してほしいと国民に求めるため、改憲案を政治的議題として世に問うことを表明した。政治家としてまっとうな姿勢ではないだろうか。
 イデオロギー的・政策的な評価は別にして、安倍首相が、少なくとも政治家として持つべき基本的な素養を持った人物であることは、稲田大臣の「失言」との比較では、明らかになったような気がする。
 稲田大臣の態度は、大臣としての地位を自民党のために「政治利用」して、自衛隊員に「なりすまし」、勝手に23万自衛隊員を特定政党への投票行動のレベルで独断的に代弁したものだ。権力を逆手にとった狡猾な「政治利用」以外の何ものでもない。憲法学の最高権威としての社会的権力を逆手にとった狡猾なやり方で自衛隊を「政治利用」しようする憲法学者と、大差ない。
 自衛隊に対する日本社会における評価は非常に高い。東日本大震災における献身的な姿勢などもあり、日本社会において圧倒的な尊厳を持つ組織体になっていると感じる。私自身も、平和構築関連の調査・会議・研修・講演等の様々な機会にお付き合いをさせていただいており、素朴な尊敬の念は持っている。彼らは、社会的尊重を受けるべき人々である。
 だが、だからこそ、自衛隊員の「政治利用」には、敏感になりたい。大臣なら「政治利用」していいというものではなく、憲法学者なら「政治利用」していいというものでもない。
 自衛隊員の「主たる任務」は、「 我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。」(自衛隊法第三条)だ。自衛隊員を尊重するということは、彼らがこの「任務」が重要な任務であると信じ、危険を顧みず、その任務の遂行にあたる準備を日々整えている人々だ、という事実を尊重するということだ。
 自衛隊法は、その他、周辺地域における我が国の平和及び安全の確保に資する活動」や「国際社会の平和及び安全の維持に資する活動」を、「任務」として掲げている。要請にもとづく「災害派遣」も可能としている。私は、自衛隊員を尊重することとは、これらの任務を遂行する専門人として尊重することだ、と思っている。余計な修辞や浅薄な感情論は、一切いらない。任務を信じ、任務を的確に遂行する「プロ」として尊重することが、自衛隊員を尊重することだ、と思っている。
 自民党に票を入れるかどうか、憲法学者を支持するかどうか、そんな低次元なことは、どうでもいい。彼らが「任務」を遂行する「プロ」であるという事実の尊重が、彼らへの尊敬の根源であるべきだ。
 僭越ながら、私は、学者として、尊重されたい。プロの学者として、自分自身の社会的価値を認められたい。私が、どの政党に票を入れるか、護憲派であるかどうか、そんなことで評価されたくない。だから、自衛隊も、そのように尊重したい。
 南スーダンPKO派遣時には「自衛隊員が可哀そうだ」といった無数の勝手連自衛隊員代弁者が生まれた。「私は自衛隊員だ」のような悪質ななりすましとしか思えないような言説が、無数にとびかっていた。私の個人ブログですら、「(自称)自衛隊員」なる人物から、「私は自衛隊員です、あなたの言説を否定します」、のような匿名投稿コメントを受けたことがある。http://shinodahideaki.blog.jp/archives/14804753.html#comments
 改憲議論が沸騰するにつれて、さらにまた「私こそが自衛隊の気持ちを代弁している者だ」「何だと、俺こそが自衛隊の尊厳を守ろうとしている者だ」「私は自衛隊員(なりすまし)だ、お前は黙れ」、といった言説が、さらにいっそう数多く飛び交っていくことは、必至である。大臣も、憲法学者も、右翼も左翼も、入り乱れて、「我こそが真正な自衛隊員代弁者(なりすまし者)だ」、という言説が、あふれかえっていくのだ。
 私自身は、そのような事態を想像するだけで、気分が悪くなる。
 自衛隊を尊重する、とは、どういうことか。任務を遂行するプロとして尊重するということだ。勝手に自衛隊員を政治利用してはいけない、ということだ。改憲議論の行方がどのようなものであろうとも、発言者は、勝手に自衛隊を政治利用することなく、自分自身の言葉、思想、責任で、語っていくべきだ。
 今後も、自衛隊員「なりすまし」ご都合主義者の言説には、気を付けていきたい。

 自民党の全国会議員を集めた憲法改正推進本部の会合が、昨日開催されたという。現在、自民党内の議論は、安倍首相の自衛隊合憲性明記を追記する提案と、石破茂・元幹事長の9条2項削除論の意見が、対立軸になっているように見える。
 私自身は、6月12日に、自民党の憲法改正推進本部のお招きを受けて、話をさせていただいた。私の話が終わるや否や、真っ先に手を高々とあげて質問をしてくださったのは、石破・元幹事長であった。非常に熱情こもる話しぶりであり、真面目さが伝わった。
 私は石破・元幹事長の現行憲法理解には全面的に賛同する、と申し上げた。また改憲案としての2項削除案は綺麗な案であることは間違いないと述べた。ただ自分自身は、自衛隊の合憲性明確化は早期に確定したほうが良いと考えるので、争いが少ないだろう首相提案のままでいいのではないかと思っている、と述べた。
 以前に書いたブログ記事では、首相案のまま提案するのか否かは、「政治判断だろう」、と書いた。http://agora-web.jp/archives/2025987.html
 ちなみに私は、やはり以前のブログで、「護憲派は改憲案に賛成すべきだ」、という意見を書いた。http://agora-web.jp/archives/2025881.html
  しかし、残念ながら、実際には、改憲に賛成する護憲派はいないようである。それどころか、護憲派は、「政治判断」以前のいわば誤解を広めて、何としても改憲を阻止しようという政治運動を展開する構えのようである。
 健全な論争は、もちろん望ましい。しかし政治運動を優先させて、誤解、あるいは意図的な問題のすり替えを広めようとするのは、邪道である。そこでまずは、扇動主義の蔓延を少しでも防ぐための解説を施しておきたい。

<ポイント1:但し書きは一般条項に優越する>
 自衛隊の合憲性を明記する9条3項(9条の2が良いという見解もあるようだが、ここでは便宜的に新設の3項と仮に呼んでおく)は、2項に対する但し書きになるはずである。「特別法は一般法に優越する」のが法解釈の大原則である。したがって但し書きは一般条項に優越する。つまり但し書きが明記された時点で、自衛隊は2項の「戦力」に該当しないことが、文言上疑いのないものとして確定する。但し書きを作っても、なお2項で「戦力」が禁止されているので矛盾が残る、といった議論は、端的に間違いである。
 巷では、首相案では、9条に自衛隊禁止規定と合憲規定が混在して混乱してしまう、などと言っている憲法学者がいるが、全く成り立たない。2項が自衛隊を禁止しているという理解が生まれる余地を消し去るのが、新設3項の但し書き規定になる。但し書きがあっても2項があるので自衛隊は禁止され続ける、といった話を流布しようとしている憲法学者は、法学者というよりも、混乱の拡張を狙う政治運動家だ、と言わざるを得ない。
 英文で「Force」が2項で禁止されているのにSelf-Defense Forceが合憲化されるのはおかしいとか、自衛隊をしっかり軍隊にしないと自衛隊員が可哀そうだといった「自衛隊員なりすまし」式の言説も見かけるが、議論としては全く成り立たない。2項で禁止されている「War Potential」としてのForceに、自衛隊というForceが該当しないことが、但し書き規定によって確定されることになるはずだ。同じForceという語だと曖昧だという話は、現在の状態に対する評論ではありうるかもしれないが、新設但し書き3項案への批判としては成り立たない。また現時点でも、「実力組織」としての自衛隊は、Militaryとしての軍である。軍隊にしてやらないと可哀そうだといった議論は、現状でも成り立っていない。どうしてもということであれば、新設3項の但し書き規定に、自衛隊は2項で禁止されている戦力ではない「軍隊」だ、ということをしっかり明言すればよい。
 9条2項の「戦力」概念は、日本国憲法特有の法律概念であり、そのような概念として理解しなければならない。「僕は戦力という言葉をこう考えています」「私は戦力という言葉を聞くとこういうことを想像します」といったレベルの話は、憲法解釈論とは言えない。まして新設の但し書き3項が作られた後でも、「とにかく、何が何でも僕は戦力という言葉をこう解釈するので、憲法典が但し書きで何を言おうとそんなことは知ったことではない」というレベルの言説に固執しようとするのは、少なくとも憲法解釈の議論とは言えない。
 これもやはり以前のブログで書いたが、http://agora-web.jp/archives/2026481.html 但し書き3項が設定されれば、2項で禁止されている「War Potential」という「戦力」が、侵略戦争などの国際法違反を犯すための「戦力」であるという解釈が確定することになるはずだ。なお私自身は、この解釈は、しっかりと前文から日本国憲法を精読すれば、現在であっても自然に見えてくるはずの解釈だとも考えている。

<ポイント2:但し書き追加に反対するのは政治的立場である>
 以上をふまえると、但し書き3項によって自衛隊の合憲性を明確にする提案に反対する立場は、法的見解をめぐる立場ではない、ということが判明する。それは、自衛隊の合憲性を明確化することに反対する、という政治的立場のことである。仮に、その立場をとっている者の職業がたまたま憲法学者である場合でも、そういう立場をとるという判断は、政治的立場をめぐる判断である。

 ここまでをふまえたうえで、次に2項維持案と削除案を比較すると、次のようになる。

<ポイント3:維持案のメリットは解釈の安定性にある>
 2項を維持する案は、「戦力ではない自衛隊」を明確化するという案である。言うまでもなく、従来の政府見解は、自衛隊は2項の「戦力」ではない、というものであった。したがって維持案のメリットは、従来の政府の立場を変更するコストを防ぎながら、自衛隊の合憲性を文言の上で明確化できることにある。従来の政府見解との整合性や、新たな位置づけを与えられる自衛隊を確立し直すコストを回避したいのであれば、維持案がよい。

<ポイント4:削除案の意味は自衛隊の再構成にある>
 上記のメリットは、立場を変えると、デメリットになる。「戦力ではない自衛隊」という位置づけに不備を感じる場合に、2項を削除すべきだという意見になる。従来の政府見解を正すのであれば、2項を削除することが、わかりやすい。自衛隊を新たに国防軍として位置づけし直すのであれば、2項の制約はないほうが望ましいということになる。2項削除案のポイントは、現状の変更を恐れずに自衛隊の位置づけを再構成して国防軍の設置を求める、ということである。

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