「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文その他の情報や、時々の意見・解説を集めています。以前にホームページとして掲載していた情報ともリンクさせています。

 希望の党の小池百合子党首が、民進党の「リベラル」勢力を「排除する」と述べたとされることが、話題を呼んでいる。しかしよく見てみると、小池党首は、「リベラルを排除する」と発言したわけではないようだ。民進党の立候補予定者を全員公認するわけではなく選別したい、と述べた。「憲法・安全保障観の一致が大事だ」という方針で選別を行う、と述べたようだ。したがって排除されるのは、「リベラル派」というよりも、「改憲反対派」「安保法制反対派」のことである。あるいは「旧左翼」あるいは「冷戦時代ノスタルジア派」が排除される、ということではないか。
 日本では冷戦終焉後、保守vs革新、という言い方が、時代遅れになった。「革新」政党と呼ばれた社会党が没落したため、「保守vsリベラル」という、アメリカの共和党と民主党の対立軸の丸ごと輸入の言い方が導入されることになった。しかし全く内実の伴わない「横文字を縦にする」かのような輸入ものの表現であった。そのため、何が「リベラル」なのかは、全く不問にされた。現状は、ただかつての「保守vs革新」が、「保守vsリベラル」と呼び換えられただけの状況だ。
 確かに、もともと民主党は、結党時に、アメリカの民主党を意識して、現実主義的な中道路線を目指す、という意思を持っていたのだろう。ただし民主党が象徴するマイノリティに寛容な「Liberal」な価値観を民主党が熱心に語ってきたのかどうかは怪しい。そもそも「Liberal」という言葉も、アメリカ社会において初めて意味を持つ言葉だろう。
 アメリカではビル・クリントン大統領の時代に、新自由主義革命後に、財政再建を果たして経済成長を達成する民主党路線のモデルを作り上げ、「Liberal」派の復活を果たした。日本の民主党政権には、そのような政策的方向性が全くなかった。
 結局、民主党の勢力は、野に下りながらも政権担当時の混乱を総括できないまま、2015年安保法制の頃には、「憲法9条改悪阻止」を唱える伝統的な「護憲派」、つまり革新政党に集った左翼勢力でしかない地点にまで、撤退してしまった。マスコミがそれを「リベラル」と呼び続けたが、実態は、「冷戦時代からの護憲派」勢力のことであった。
 2015年の安保法制の喧噪も大きかっただろう。私に言わせれば、ある特定の政治運動に加担している特定の憲法学者の学説を、あたかも絶対的真理であるかのように振りかざして政策論を進めようとしたことが、失敗の原因だった。「迷ったら芦部説を選んでおけ、と公務員試験/司法試験のときに予備校の先生に教わった」、といった態度で政治家が政策論を行えば、袋小路に入り込むことは当然であった。
 「絶対に9条を変えるな!」「安保法制は許さない!」などと叫ぶと、なぜ「リベラル」、つまり「自由主義的」だったり、「価値観において寛容」だということになるのか、全く不明である。しかも標榜する価値観が「アベ政治を許さない」くらいしかないので、盲目的にアメリカの政治文化の輸入でカタカナ言葉を使うくらいしか、自分たちの立場を表現する手段を持っていない。
 こうした全く中身の伴わない政治言語は、普通の人々の政治の理解を阻害する。まずはいい加減な言葉の使い方を、政治から排除するべきではないだろうか。
 「排除」された方々が、再び「民主党」を作るという。「新・民主党」では、なぜ「冷戦時代からの改憲反対派勢力」が「リベラル派」などという妙なカタカナ英語で表現されることになったのかを説明してもらいたい。日本の政治文化において「リベラル」とは「アベ政治を許さない」以外に何かあるのか、などの基礎的なことを、わかりやすく論理的に説明していくところから始めてもらいたい。

 麻生大臣の「武装難民」発言が波紋を呼んでいる。
 麻生大臣特有の故意に問題を荒削りにみせる言い方が、しばしば「失言」を生み出してきた。単語の選択のレベルで政治家の物言いとして適切だったか否か、という話であれば、麻生大臣の姿勢に品がなかった事は間違いない。言葉遣いが違っていれば、難民保護の原則に反する、といった原則論を掲げた韓国政府の反応もなかっただろう。
 ただ、内容それ自体は、それほどスキャンダラスなことではない。整理して考えてみよう。
 難民とは、迫害から逃れて避難所を求めている人のことだ。しかしそのような人々に、政治的目的を持って武装している人々が紛れ込むことは、世界の紛争地のほとんどの場所で頻繁に見られることだ。難民とは、みすぼらしい姿で、可哀そうな格好で助けを求めてくる人のことなので、悪人であったとしても、難民は難民・・・、なのだろうか?そんなことはない。敵の攻撃から一時的に逃れながら、攻撃の機会をうかがっているような人々は、難民条約で保護対象とすべき難民ではない。
 朝鮮半島有事の際、歴史的に深いつながりを持つ北朝鮮から日本に、難民を偽装した不穏分子がれてこむことは、十分にありうる。コンゴ、アフガニスタン、南スーダン、世界の多くの地域と同じように、十分にありうる。もちろん、だからといって(避)難民を保護するのをやめるべきだ、ということにはならない。紛争に起因する世界の難民支援の現場では、常にこの種の問題がある。その現実を冷静に受け止めながら、なお本当の難民を保護しようとする人たちこそが、難民支援のプロだ。難民といえば、みすぼらしくて可哀そうな人のことだから、何があってもとにかく保護しなければならない・・・、というのは、難民問題ボケである。
 日本人が、難民問題を遠い世界の出来事としてしか受け止めてこなかったからこそ、かえってそうしたロマン主義も生まれてしまうのだろう。「もし可哀そうな難民が攻撃をしてきたら、絶対平和主義の精神で甘んじて皆で殺されよう」・・・などと主張するのであれば、プロの態度ではない。
 戦時中に海洋から入ってくる<偽装>(避)難民を管理・保護するのが、著しく困難な作戦になることは、間違いない。政治家が、その対応策の検討の必要を強調する事は、なんらおかしなことではないように思う。
 それにしても気になるのは、自衛隊は軍法を持たないから、南スーダンに送ると殺人者になる、と主張していた人たちのことである。南スーダンで避難民を偽装した武装勢力に任務遂行のためだからといって発砲すると、自衛隊員は殺人者になってしまう、だから自衛隊を早く南スーダンから撤退させるべきだ、といった議論が多く見られた。となると朝鮮半島から難民を偽装してやってきて日本に攻撃を仕掛ける武装勢力に対して発砲してしまうと、自衛隊員は殺人者になってしまうのだろうか。
 そこで「自衛隊員を武装勢力に対抗する作戦から撤退させよう」ということになるのだろうか。殺人は警察官にやらせておけばいいじゃないか、ということになるのだろうか。
 「いや、日本国の個別的自衛権の行使なら殺人罪にならないが、南スーダンで集団安全保障にもとづいた国連の命令で業務をしていると殺人罪になるのですよ」、ということなのだろうか?「あ、日本の領域内だと殺人罪ではないですが、もし1メートルでもはみ出していると殺人罪ですよ」、ということなのだろうか?「国家には集合的人格を持った生きる有機体として自分自身を守る自然権的な基本権がある」といったドイツ観念論万能論が「憲法学会の通説多数説ですから」、ということなのだろうか?
 私は、警察官であっても自衛官であっても、そして日本国内に於いても国外においても、業務命令にもとづいて正当に行動した行為の結果として不測の事態が発生しても、それはせいぜい業務上過失致死の話であり、殺人罪の話ではない、と考えている。命令した者については、自衛権にもとづいた正当な根拠があるかどうかが、犯罪対策のために警察官に厳重対応を命令する者の場合と同じで、違法性阻却の基盤になると考えている。そしてそのような考え方の基本は、南スーダンでも、日本国内でも、同じだと考えている。
 そもそも自衛隊は国際法上の軍隊であることを政府も認めているのだから、それに対応した軍法を国内法で作っても、憲法違反に該当するはずがないとも思っている。
 しかし私の意見は、少なくとも憲法学界に何ら影響を与えない。だとしたら、結局どういうことなのか?私にはよくわからない。
 「難民は可哀そうな人たちなのだから、発砲されたら、平和主義を掲げて殺されよう」ということなのか。私にはよくわからない。ただ、政治家が、「困難な状況でどのような対応をとるべきか、よく考えて準備しなければ」といった指示をするのは、当然至極のことであるように思える。

アメリカのトランプ大統領は、「北朝鮮を完全に破壊する」と国連総会で演説し、「(北朝鮮は)長くはないだろう」と述べた。これに対して北朝鮮の李容浩外相が、「彼(トランプ氏)は宣戦布告をした」、と主張した。
 
宣戦布告、というのは、現代国際法では意味をなさない概念である。国連憲章24項が武力行使を一般的に禁止しつつ、その例外として(個別的・集団的)自衛権と、集団安全保障を定めているだけだからである。宣戦布告の有無は儀式的な意味しか持たない。法的に重要なのは、武力行使がなされたかどうか、それが自衛権または集団安全保障に該当するかどうか、という点である。
 しかし
トランプ大統領の発言が、武力行使に関する法の観点から見て、全く度外視すべきものだったとは言えないだろう。憲章24項は「武力による威嚇」を禁止しており、それに抵触する可能性がある行為は、少なくとも危うい発言である。なんといっても、「自国に対して相手国が武力行使をする意図を表明した」という経緯があれば、それは「威嚇」であり、自国の自衛権を発動する大きな要素になりうる。もっとも北朝鮮側も、過去に何度も24項の抵触が疑われる発言を繰り返してきていることにも注意が必要である。
 
 もちろん単なる言葉での威嚇に対して、先に武力行使で対応してしまうとすれば、「必要性と均衡性」を大原則とする国際法上の自衛権の発動の仕方としては、適切ではない。しかし威嚇された場合、威嚇した者の行動について、緊張感を持って捉えざるを得ないことは確かとなる。たとえば軍用機の自国領土への侵入があった場合などに、自衛権の行使を主張して撃墜することを正当化できるハードルが下がるだろう。あるいは実験であるかどうか不明なミサイル発射に対して自衛権の行使を主張して撃墜することを正当化できるハードルが下がるだろう。
 北朝鮮とアメリカは、なぜ自衛権行使のハードルを下げあっているのか。決して間違えてやっているわけではないだろう。意図的に、そうしている。自国の軍事力の効果を高めて、相手をよりいっそうけん制するために、自衛権行使のハードルを下げあっている。裏を返せば、単純な軍事力の誇示だけでは相手が威圧されないので、「俺は本気だぞ」、という説明を付け加えなければならない状態を、双方が作り出している。そのために自衛権行使のハードルを下げあう状態を進んで作り出しているのだと言える。
 何らかの計算間違いで不測の事態が発生するリスクが高まっている一方で、実は双方が決め手を欠いているにらみ合いの状態に入っているのが、現在の状況なのだ。これこそが本格的な相互「抑止」の状態だと言っても過言ではない。
 冷戦が終わって四半世紀以上がたち、冷戦時代の経験を教科書的にのみ理解する風潮が広がっている。たとえば「抑止」の理解がそれだ。「抑止」というのは世界戦争を防いだので、「抑止」があれば戦争を防げる、あたかも「抑止」が平和で安定した社会をつけるコツであるかのように語る人もいる。だが、冷戦時代に核抑止が「恐怖の均衡」と呼ばれていたように、抑止とは常に相手側に対する恐怖と、相手側に恐怖を与える努力とによって、成り立つものである。
 冷戦構造を完成された安定化のシステムであったかのように誤認すると、抑止を、楽観的に捉えすぎる傾向が生まれる。抑止があると、世の中が平和で安定する、といわんばかりの風潮が蔓延する。北朝鮮が核兵器一個持ったら、日本も一個持てばいいじゃないか、それで安定した平和な世の中が来るのであれば、と言った風潮が蔓延する。あるいは、抑止して安定化させながら、ゆっくり「対話」をして双方わかりあったらいいじゃないか、といったのんびりした議論が生まれる。
 しかし抑止というのは、本来は恐怖が常態化している中で、機能する。ぎりぎりのところで最悪のオプションだけは自分も相手も回避するように動くようにしむけるのが、抑止というものである。抑止とは、安定の仕組みのことではない。抑止とは、恐怖が常態化している状態のことである。

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