「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文その他の情報や、時々の意見・解説を集めています。以前にホームページとして掲載していた情報ともリンクさせています。

1115日に駆けつけ警護の任務付与が閣議決定されたため、話題になっているようだ。私は本来、国際平和活動を専門の研究対象としているため、この問題に関心があるべきだと思い、記者の取材等にも応じているが、実際にはあまり関心を持っていない。理由は、第一に、実際の法律文言が曖昧模糊としているからであり、第二に、おそらく行使される可能性は高くないと考えているからであり、第三に、駆けつけ警護を危険視する見方を支持していないからである。テレビに出るのが目的で発言するのであれば、わかりやすい立場を声高に唱えたりしたら良いのだろうが、それにもあまり関心が持てない。

池田信夫氏がブログにおいて、拙著『集団的自衛権の思想史』について参照しながら、日本の憲法学を「ガラパゴス憲法学」だと呼んでいる。言い得て妙な表現を思いつくことに優れた人がいるものだと感心する。ガラパゴスを愛するのは一つの自由だが、ガラパゴスが外部社会の方を間違っていると糾弾してみせたり、そもそもガラパゴス以外の世界があることに気づかないふりをしてみせたりしているのは、問題だと言わざるを得ない。

「駆けつけ警護」は国際法では存在していない概念であるのはもちろんだが、そもそも英語などに翻訳すること自体が不可能な概念だ。理由は、この概念が、日本語としても全く曖昧模糊とした概念だからだ。それなのに自分のイデオロギー立場に引き寄せて他人を批判したりするのに使ったりする人がいるので、曖昧な言葉が空虚な形で流通していってしまう。というよりも批判のために使っている概念なので、曖昧模糊としていた方がかえって好都合だというわけである。

「駆けつけ警護」は、日本の国内法においても存在していない概念である。本来であれば、法学者の方々にこそ立ち上げってもらい、「法的議論になじまない概念を振りかざして法律議論をしているかのように振る舞うのは困る」、と言ってもらいたい気がする。ところが、事態はその全く逆であるようだ。法学者こそが、実定法に根拠を見いだせない概念を振りかざしていく。

なぜそのような事態になっているのか。拙著『集団的自衛権の思想史』では、日本の憲法学が憲法典に根拠を見いだせない概念を、(東大法学部出身)憲法学者のコンセンサスという形で事実上の法的効果を持つものとして振りかざそうとしてきたことを論じた。その特異な立場がまとまってきたのは、高度経済成長期以降であり、アメリカは日本の態度にかかわらずとにかく日本に基地をおいて日本を守るしかないので日本はただ経済成長に邁進さえしていればよい、という神話が無前提に信じられるようになった時代以降であった、と論じた。ただし同時に、その学術的イデオロギーの源泉は、芦部信義その人ではなく、宮澤俊義の師である美濃部達吉、あるいは美濃部が強い影響を受けたイエリネックのドイツ国法学である、ということを、拙著では論じた。集団的自衛権に関する日本の憲法学の見解は、ドイツ国法学に立ち返ることによって初めてわかる、と論じたわけだが、「駆けつけ警護」も同じであろう。

「駆けつける」という概念は、ある人が、自分が今いる場所とは異なる場所に「駆けていく」という行為を表現するために用いられている。だがその場合「自分」とは誰だろう。政府の命令を受けて業務にあたっている自衛隊員という国家公務員の一人一人の自然人的存在を「自分」として位置づけるというのは、この場合、全く的外れだ。ある自衛隊員に、隣の自衛隊が殴り掛かった、といったことが、ここで話題になっているわけではない。「駆けつけ警護」の議論で話題になっている安保関連法で話題になっているのは、PKOに派遣されている自衛隊による「活動関係者」の保護であり、自衛隊員が国際機関に派遣された国家公務員として国連PKOの指揮下で業務を遂行する際の話である。「駆けつけ」という言葉は、日本国政府機関を「自分」と位置づけ、それ以外の外国人や民間人を「他人」と考える発想法に依拠して初めて理解できるものだ。

しかし自衛隊は、日本の国家公務員の地位を維持したままでありながら、国連PKOの指揮下に入っているのであり、いわば出向している状態である。出向元の組織の意向を踏まえて出向するのは当然としても、出向先組織に同化してはいけない、とまで考えるのは、やりすぎである。出向先組織で「僕はあなたの同僚ではない、この会社を自分自身と同一視することは一切ない、僕にとって自分とは派遣元の組織のことだけだ」、と言い続けるというのは、常識として、ありえない。出向している以上、出向先の組織も「自分が働いている組織」と考えて行動するのが、普通だろう。自衛隊員は、日本の自衛隊員であると同時に、国連PKO要員でもある。つまり、「自分」意識は、多層化するのが、当然だ。

「駆けつけ」て国連PKO要員を保護するのは憲法違反だ、という主張は、国連PKO指揮下にある自衛隊員に対して、「あなたにとって『自分』とは出向元である日本のことだけであり、万が一にも国連の連中を自己の組織の同僚だなどと考えるな」、と命じているに等しい(そして「ちなみに日本国憲法において「自分」とは「日本国民」のことであり、この「自分=国民」が「自分(=国民)自身」を守ることだけが合法である」と主張するということに等しい)。このような主張は、著しく観念論的である。

私が24歳の時、国連カンボジア暫定統治機構投票所責任者として勤務していた時、日本の自衛隊の車両が一日複数回来て、おしゃべりをして滞在してくれようとした。「情報収集」名目で、「巡回」のようなことをするために、おしゃべりもしていくことによって、「駆けつけない」で日本人を保護できる時間を作ろうとしてくれていたということである。このようなややこしいことをしなければならなかったのは、日本の法律整備の問題であったのだが、より哲学的に言えば、国連PKO指揮下にある日本の自衛隊に国連職員を「自分たち」と同一視することを禁じていたからである。

今回の法的措置は、法的枠組みを実態に近づけるのが第一であろう。今回の法整備は、自衛隊員の安全(物理的安全だけではなく法的安全)を高める措置だという政府の見解は、よほど深く裏読みするのでなければ、全くその通りであろうと思う。そもそも施設部隊である自衛隊が「駆けつけ警護」する命令を受ける可能性は著しく低い。そこに念のための例外的状況での法的保障措置をかけているわけである。

なお「駆けつけ警護」をめぐっては、「ユニット・セルフ・ディフェンス」の国際法上の地位が一つ論点になりうるか否か、といった専門的議論もある。すべて、「駆けつけ警護」概念の曖昧さによるものであろう。自衛隊は南スーダンのUNMISSという具体的な組織に派遣されており、現実のオペレーションの合法性は国連安保理決議によって担保されている[1]。ユニット・セルフ・ディフェンスは法的根拠としては関係がない。こうしたところにまで議論が波及してしまうのは、日本国内法制度が、従来の憲法解釈なるものに気を遣いすぎて、曖昧模糊としたものになっているからにほかならない。国際法の概念枠組みとは異なったところに、さらに独自の概念を積み重ねていることが、国連指揮下の自衛隊の立場を不必要に複雑にしているに過ぎないのである。

それにしても、国内のテレビ番組で、UNMISSの中国軍の部隊が、「住民保護(PoC)」のための出動を渋ったことが「駆けつけ警護」がいかに安倍政権の暴走であるかを強調する文脈で紹介されているのだという。グロテスクだと思う。

そもそも安保法制によるPKO法改正をへてもなお「駆けつけ警護」は「住民保護」をカバーしていない。つまり中国軍不出動のUNMISSの事例は、安保法制のいわゆる「駆けつけ警護」とは関係がない。それにもかかわらず「安倍政権は暴走政権ですよね」ということを言いたいがために、南スーダンの実情を完全に無視した話を強引に作り出そうとするのは、罪深いことではないだろうか。

先週、私がインドネシアで参加した国際会議では、UNMISSが「住民保護」のマンデートを十分に遂行できなかったことに関する国連の内部調査が入っていることが、一つの議題となった。中国からの参加者は、マンデート遂行が困難な場合には、部隊展開を躊躇する場面もありうる、という議論を苦渋に満ちた表情で行った。世界のPKO3000人近くの要員を派遣し、困難な任務にもあたり、南スーダンでも二名の殉職者を出している中国政府関係者だからこそ言えることだ。消防を任務とする消防士が、「火事が激しすぎて人命救助を断念せざるを得なかった」と断腸の思いで語るのと同じだ。「駆けつけ警護やりたがるなんで、安倍政権は暴走政権ですよね」といった話とは、一切全く関係がない。

日本のマスコミに対応すると、「何言ってんのかよくわからないんですが、それで要するに、あなたは政権寄りの御用学者なのか、政権の暴走を止めたい護憲派なのか、どっちなんですか、もっとはっきりと、わかりやすく話してください」、といった対応をされることがよくある(というか、そればかりである)。

私には、南スーダンで平和活動に従事すする知り合いのみならず、南スーダン人の知り合いも多数いる。南スーダンはジェノサイドの恐れもあるという危機の状況だ。そこで働いたり、生活したりしている人のことを考えたら、国内のグロテスクな議論の構図には、どうしても関心を持つことができない。



[1] UN Security Council Resolution 2155 (2014) of 27 May 2014 says that SC, “Acting under Chapter VII of the Charter of the United Nations,…authorizes UNMISS to use all necessary means to perform the following tasks:…(c) ii. To ensure the security and freedom of movement of United Nations and associated personnel where appropriate, and to ensure the security of installations and equipment necessary for implementation of mandated tasks”.

国家は人間ではない。一つの制度的実態を持つ存在だとしても、生身の人間とは異なる。当たり前のことだ。だが時にわれわれは、倒錯した状態に陥る。ルソー(フランス革命)からヘーゲル(ドイツ観念論)に至る系譜では、国家は意思する実体であるということが、まじめに論じられた。そのような思想を支えているのは、国家と等しいとみなされる「国民」という集合的人格が持つとされる「一般意思」なるものへの信奉だ。

国家があたかも生きる実体であるかのように仮想するところから、自衛権は国内法における正当防衛と同じだという発想法が生まれる。ところが単なる発想法でしかなかったものが、次第に思考の枠組みそれ自体を強力に支配し始めるときがある。たとえば、自衛権の理解が国内法の正当防衛の理解と異なっている場合には、自衛権の理解の方を国内法の正当防衛の理解にそって正すべきだ、といった主張がそれだ。国家と自然人を類推関係に置き、徹底して擬人法を貫いて国際社会を秩序づけることが、最も正しい態度だ、という思い込みから発している主張である。

「イギリス学派」の総帥とも言える国際政治学者・へドリー・ブルは、擬人法を振りかざして国際社会を理解しようとする態度を「国内的類推(domestic analogy)」と呼び、国際社会の理解を阻害する大きな偏見であると指摘した。国内社会の秩序と国際社会の秩序は異なる。本来はどちらが良いとか優越しているとかではなく、単に異なっているのである。

ところが「国内的類推」を振りかざして、「まあ要するに国際社会では国家が自然人のようなものですよね」という偏見から全ての推論を作り出そうと試み、もし国際社会が国内社会と異なっている場合には国際社会の在り方を糾弾する、といった態度をとる人たちもいる。

そうした人々からは、「国際社会は遅れている、なぜなら国内社会のような秩序がないからだ」、「国際法は原始的だ、なぜなら世界憲法も世界政府もないからだ」、といった結論しか出てこない。国際社会は国内社会とは違う、という単純な事実が、いつのまにか「だから国際社会は遅れているのだ」という断定にすり替わり、「国際法上の自衛権はおかしい、なぜなら国内社会の正当防衛と違っているからだ」、「だいたい国連憲章集団安全保障までは政府の代替としてまだ認められるが、51条の集団的自衛権は国内法に対応物がないので間違っている」、のような偏見に満ちた論理が大真面目に振りかざされてしまう。最悪の場合、「国際政治学者や国際法学者はおかしい、なぜなら憲法学者のように考えないからだ」といった話にまで発展しかねない。

拙著『集団的自衛権の思想史』第1章では、次のように書いた。

――――――

内閣法制局の推論は、国際政治学で用いられる概念を援用すると、「国内的類推」の危険性に対してあまりにも無頓着である。国内社会における自然人と、国際社会における国家とを、類似関係に置いて国家の自然権などを説いていく思考回路は、国際政治学および国際法の分野では、「国内的類推(domestic analogy)」と呼ばれて、警戒すべき俗説とされるものだ[1]。自然人と国家は異なり、国内社会秩序と国際社会秩序とは異なる。国際社会における自衛権の行使は、依然として公権力の行使であり、私人の正当防衛とは異なる。国際法の分野でも、京都大学教授・田岡良一が「国際法上の自衛権」を論じた際に、指摘した点だ。「国内法上の自衛権の概念を模して国際法上の自衛権を説」いていると田岡が描写したのは、東大法学部で国際法を講義した立作太郎や横田喜三郎らであった[2]

国際法においても、国家を正面から擬人化する論調が通説だというわけではない[3]。国家が自然権的に自衛権を持っているという思考は、ドイツ国法学に特徴的だ。日本の憲法学の戦前から続く伝統の部分である。従来の内閣法制局が依拠していたのは、「国家法人説」の擬人国家観に依拠した「国内的類推」の発想であった恐れがある。



[1] Hedley Bull, The AnarchicalSociety: A Study of World Order (London: Macmillan, 1977).

[2] 田岡良一『国際法上の自衛権』(新装版)(勁草書房、2014年)(初版1964年)。

[3] 「(自衛権を「固有の権利」とする憲章51条は)自衛権を超実定法的な国家の自然権とみなすものではなく、あくまで国際慣習法の範囲内での基本権能をいうにすぎない。・・・国内社会では、法の執行手段が集権化され法益侵害の態様も特定されており、したがって正当防衛はやむをえずとられる例外的な自救手段である。これに対して国際社会では自衛権は、各国がひろくその権利・利益に対する重大な侵害(侵害法益の未分化)を排除するためにとりうる正当な手段」である。山本草二『国際法(新版)』(有斐閣、1999年)、732頁。

お陰様で『集団的自衛権の思想史』が重版されることになりました。その際、誤植が一点訂正されます。181頁の第1章注10の中の二行目「・・・国際社会では」が間違いです。正しい山本草二『国際法』からの引用文として、「・・・国内社会では」に訂正されます。初版を購入していただいた多くの方々には誤植不手際を深くお詫び申し上げるとともに、訂正が入ることをお知らせいたします。

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