「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文その他の情報や、時々の意見・解説を集めています。以前にホームページとして掲載していた情報ともリンクさせています。

 「立憲主義とは、主権者である国民が政府を制限することだ」というテーゼは、立憲主義の定義としては、錯綜した、ほとんど自己否定的な論理によって成り立っている。この「立憲主義=主権者による政府の制限」というテーゼは、いかに立憲主義の定義としての装いを取り繕うとも、つまりは「主権主義」の言い換えでしかない。常に主権者は制限する権力を行使する絶対者であり、主権者がその絶対権力を行使して政府を制限するときに立憲主義が生まれる、といった固定的な構図をあてはめる瞬間において、立憲主義は国民主権主義の派生物に貶められる。

主権者は、無謬であり、絶対的であるという推論を、ほとんど全ての議論の基盤としようとする立場が、日本の憲法学の立場だ。そのため、立憲主義の価値ですら、憲法超越的な権威を持つ主権者の行為によって基礎づけられていなければならないと信じるのである。東大法学部の伝統にそった日本の憲法学においては、立憲主義とは、「憲法制定権力」とも呼ばれる主権者の意思の創作物でしかない。立憲主義の基盤は主権者への信奉に見いだされるので、結局は「主権主義」が立憲主義に優越することになり、立憲主義は「主権主義」の言い換えでしかなくなる。

確かに、日本国憲法では前文で国民主権を謳っている。しかし、そこからどのような憲法体系を導き出すかは、解釈論的要素によって左右される。なんでもかんでも絶対国民主権主義を振りかざした主張を繰り返せばいいと言うわけではない。国民が自分自身を守るのが最も純粋な自衛権なので民衆蜂起だけが日本国憲法が許している自衛権だ、とか、国家が自分自身を守ることだけが本当の自衛権なので「個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲だ」、といったテーゼは、独特な「主権主義」への思い入れを知ることなくしては、決して理解しえない。憲法九条だけ見ていても、東大法学部系の日本の憲法学者による独特の集団的自衛権違憲論は全くわからない。

東大法学部系の憲法学は、英米思想の影響下で起草されたはずの日本国憲法を、あえて戦前の大日本帝国憲時代の東京帝国大学時代からのドイツ国法学の視点と用語で捉え続けた。あるいはフランス革命史への参照で日本国憲法を体系化しようとした。そこで一貫して維持されてきたのは、独特の「国民主権」(憲法制定権力)へのこだわりであった。

「八月革命」の概念を提示し、ポツダム宣言を「国民主権主義」の革命の成就と読み替えることによって戦後の憲法学を作り上げることを提唱した宮沢俊義は、「主権抹殺論」とも説明された同時代の法哲学者・尾高朝雄の立場を強く徹底的に繰り返し否定し続けた。なぜなら主権者はどこかに存在していなければならない(見つからなくても絶対にどこかにいなくてはならない)と主張したからである。宮沢の弟子筋は、今日に至るまで徹底して尾高朝雄は「主権の議論から逃げた」「敗北者」であるとの烙印を押し続けてきている。(拙著『集団的自衛権の思想史』第1章)

ではその主権者である「国民」とは、実際には誰のことなのか。宮沢自身は、「「国民」は、Jedermann、だれでもあるのであって、「国民主権原理の主眼は、主権が国民に属するというよりもむしろ、主権は君主というような特定の人間に属していないということにある」とも説明した(宮沢『憲法の原理』所収「国民主権と天皇制」)。

「主権者・国民」とは、誰でもあって必ずどこかに実在していなければならないが、決して具体的に誰それとは言うことができない神秘的な存在である。その神秘的な存在である「主権者・国民」が、政治やら政府やらを制限すると立憲主義となる、という極度に思弁的な発想は、国民主権主義だけでなく、立憲主義をも具体性のない抽象的な命題にしてしまわざるをえない。そして結局は立憲主義を、憲法学者による操作概念に貶めてしまうだろう。

制限のための制限が称賛され、制限という行為自体が目的化され、主権者たる国民が政府を制限しているから正当だ、といった議論が延々と展開される。制限行為の正当性を判断するのは憲法学者であるということも繰り返し主張される。

尾高の孫弟子にあたる井上達夫氏は、東大法学部系の憲法学者の「欺瞞性」を手厳しく批判しているが、リベラル派と呼ばれる人たちがリベラリズムの推進者に見えないのは、彼らが実際には特異な「国民主権主義者」でしかないからだ。

日本憲法学における「国民主権主義者」によれば、誰もが主権者として存在しているが主権者は特定の誰でもない。その誰でもなくて誰でもある主権者が政府を制限すると立憲主義が生まれるのだというが、そのような思弁的な発想の絶対性を声高に主張する立場は、個人の権利を究極的な規範原理とするリベラリズムとは、全く異なる。

リベラリズムを信奉するのであれば、国民主権を信じていても、決してそれを絶対視せず、なお個人の権利の至高性を正面に据えて、「立憲主義」を論じるはずである。制限が必要なのは、あくまでも守るべき個人の権利を守るためであって、主権者による制限するという行為それ自体が絶対的であったり素晴らしかったりするからではないはずだ。制限のための制限を自己目的化し、制限それ自体を立憲主義の本質と呼ぶことは、私にとってはほとんど立憲主義という語の濫用でしかない。


 拙著『集団的自衛権の思想史』の「あとがき」で次のように書いた。

―――――――
2015年の安保法制反対デモの中に、「War IsOver, If YouWant It」というスローガンがあるのを、何度も見かけた。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが1960年代末からベトナム反戦運動で使いだしたメッセージであり、1971年の「Happy Christmas」の中のフレーズでもある。「戦争は終わっている(あなたがそれを望めば)」というメッセージは、その瞬間に進行中の戦争があることを念頭に置いたうえで、その事実に対する共感と責任を、その時代に生きたアメリカ人たちに、求めたものだ。ジョン・レノンは、その瞬間の同時代の世界の現実に対する想像力を求めた。

 安保法制反対デモで、このメッセージを使うことに、いったいどういう意味があるのだろうか。日本がすでに戦争に関与していると言いたいわけではなさそうだ。始まるかもしれないと想像する戦争がすでに終わっていることを想像してほしい、というのは、いささか思弁的に過ぎる話であるように思えてならない。ジョン・レノンのメッセージが、「アベ政治を許さない」といったことだったとしたら、そこにわれわれは何を感じるべきなのか。2015

年の日本では想像力が進展しすぎているのか、想像力の欠落した半世紀前へのノスタルジアだけがあるのか。
―――――――――
それにしても思弁的なやり方で脅威を作り出した上で、その脅威への抵抗を呼びかけるという構成は、憲法学それ自体に見られたものではなかったか。拙著では「第1章」で次のようにも書いた。

――――――――――

実は日本の憲法学界では、戦前の大日本帝国憲法の時代から今日に至るまで、「国家の三要素」なるものの存在を通説として保持し、その一つを「統治権」とすることが、ほぼ常識として確立されてしまっている[1]。ところが、この「三要素」について憲法典を含めて法律上の根拠はない。憲法学者が自分たちで作り上げ、美濃部達吉以来、東大法学第一憲法学講座の教授陣の面々が守りぬいてきた理論だ、ということ以上のものではない。

実定法として国家の成立要件を定めた根拠として参照されるのは、国際法の分野では1933年「モンテビデオ条約」である。そこには三つではなく、四つの要件が定められている。住民、領土、政府、そして他国と関係を持つ能力だ。ところが日本では、高校の教科書などから、堂々とモンテビデオ条約を脚注で参照しながら、「国家の三要素」が説明されていたりする。勝手に「政府」と「他国と関係を持つ能力」を合体させたうえで「主権」と言い換えて、四つを三つに作り替えてしまうのである。憲法学者が書いた憲法学の教科書に記載されている「統治権」なる概念は、さらにいっそう謎の権利である。日本国憲法には、「統治権」はおろか、「統治」という概念も登場しない。「統治権」なる概念の実在を信じる憲法学者は、大日本帝国憲法下の戦前からの憲法学の伝統を踏襲しているにすぎないのである。なぜそのような態度が普通になっているのだろうか。

高橋和之・東大名誉教授執筆の基本書『憲法』第一章は、絶対王政によって国家が確立されて「領域的支配権」が確立されて、「領土、国民、統治権(主権)」の三要素を持つ国家が生み出されるようになったのだ、と断言する。これらの要素が憲法典に記述がないのは、「憲法の前提ではあるが、憲法の中で確認するには必ずしも適さない」からだと注釈が施されている。根拠となる文献類は提示されない[2]。「国家の三要素」とは、いわば憲法学者だけが知る「社会学的意味での国家」の「歴史的成立」の物語の産物であり[3]、憲法学者だけが知る「憲法の条規を超えた『不文の憲法原理』」なのである。



[1] 美濃部達吉『憲法撮要』(有斐閣、1923年)、1018頁。「国民は、属人的に、ある国の統治権に服する人間だということもできる」。宮沢俊義『憲法』(第五版)(1956年)、96頁。芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』第六版(岩波書店、2015年)、3頁。

[2] 野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法I』第5版(有斐閣、2012年)、35頁。

[3] 高橋和之『立憲主義と日本国憲法』(有斐閣、2005年)、34頁。高橋教授は「三要素」を備えた「国家の成立により、国際社会は、相互に独立の『主権国家』から成るものと理解されるようになる」と断言し、憲法・国際法にも先立つ原初的存在としての「社会学的な意味での国家」の概念を、立憲主義に関する著作の冒頭で提示する。根拠となる文献等の指示はなく、原初的な「社会学的な意味での国家」の成立の措定は、いわば高橋教授による立憲主義理解のための「命題」のようなものとなっている。

シノドスに掲載した文章が意外に反響があった。拙著の内容にそったものだが、あえて書籍では書かなかった言い方をした書き出しが、わかりやすかったようだ。
 他方、結局、篠田は合憲・違憲論をどう考えているのか、についてもう少し踏み込んで言ってほしい、という意見もいただいた。たしかに視点がずれると思って、あえて私はこういう立場です、というところから書き始めるということをしていない。

私は東大法学部系の憲法学の議論が間違いだ、とは言っていない。ある解釈体系を間違いだと糾弾するのは、よほどのことであろう。東大法学部系の憲法学者があまりに安易に他人を愚弄していることについては批判的だ。政治家や国際政治学者を「反知性主義者」と呼び、憲法学者と官僚群が素晴らしい知性と良心の砦だと主張するような態度は、全く根拠がないイデオロギー的態度ではないか、と指摘したい気持ちはある。もっともだからといって彼らの解釈論が間違いだ、とまでは言っていない。

ただ申し訳ないが、説得力がある卓越した解釈だとも、日本国憲法全体との体系的調和が果たされている美しい解釈だとも、考えていない。むしろ単なる自己撞着的な議論であると考えている。東大法学部の伝統という権威がなければ、全く異なる扱いを受けるはずの議論だろう。

そのことを指摘するために私が拙著で使ったキーワードは、たとえば「国家の基本権」思想だ。国家が自分自身を守るのが自衛権なので、個別的自衛権が最低限で、したがって合憲で、それ以外が違憲だ、という憲法典を超越した論理を信じる踏み絵を迫るのは、「国家の基本権」を信じ、それを国際法学者も認めなければならない超越的真理だとして主張するからなのだ。

この「国家の基本権」信奉の背景には、観念論的なドイツ国法学の影響下で開設・運営された東大法学部憲法学の伝統があり、それは英米圏の思想を基盤にしているはずの本来の日本国憲法の体系と鋭く対立する解釈論的立場であることを拙著では説明した。もちろんフランス革命に強くこだわる戦後憲法学における「国民」の「一般意思」への憧憬がそこに加わる。

屈折しているのは、国際法学者が信奉しない国家の基本権思想を信じて国連憲章を解釈するべきだ(憲法学者の言うとおりに国際法学者は国際法を解釈すべきだ)と主張しながら、憲法学者はその基本権を持つ巨大な国家に立ち向かう勇敢な者たちである、といった独特の論理構成でさらなる自己正当化を主張することであろう。勝手に「自衛権は国家の自己保存権だ」と断定しながら、「われわれはそれを制限する」という宣言を誇る。
 正直、学者としての私が困るのは、こうしたイデオロギー的な試みを推し進めるために、「立憲主義」といった概念も、独特のやり方で定義し、それ以外の定義を持つ者は皆「反知性主義者だ」と呼ぶような態度をとることだ。(それがそもそも拙著『集団的自衛権の思想史』を書いておこうと思った動機の一つであり、この文章を書いている理由でもある。)
 立憲主義者であるならば、徹頭徹尾、個人の権利について語るべきではないだろうか。国家の基本権を主張した上で、それを制限するから憲法学は素晴らしい、といった迂回路をとる意味が不明瞭なのだ。

以下、拙著からの引用である(34-35頁)。

―――――-----------------------

社会契約論に根差した立憲主義によれば、政府は社会構成員の安全を確保する責務を負っている。人民は、自分たちの安全をよりよく守るために、「信託」して政府を設立するのである。思想史の関連から言えば、社会契約論に根差した自衛権の理解こそが立憲主義的なものだと言えるだろう。日本国憲法前文において登場する「信託」概念は、この意味での立憲主義を示している。政府が「信託」を受けて行使する自衛権は、憲法11条・13条などとの関連で、その根拠および範囲が設定されるべきである。
 
ところが実際には、内閣法制局も多くの憲法学者も、このような英米流の立憲主義の考え方にそって日本国憲法を議論せず、むしろ擬人法を多用し、国家法人説を導入して、自衛権などの議論につなげる。人権保障に対する「必要性と均衡性」を基準にするのではなく、国家の自己防衛の範囲が「最低限」なのが個別的自衛権で、集団的自衛権は「最低限以上なので違憲」、といった議論を展開する。多くの憲法学者や過去の内閣法制局が依拠している論理は、上述の意味での立憲主義的なものではない。日本が個別的自衛権だけは行使できるのは、自分が自分自身を守る国家の自己保存の権利までは憲法も否定していないはずだから、という論理である。そこで国家が自分自身を守るのが本当の自衛権なので、他者を守る権利を自衛権と呼ぶのはまやかしであり、憲法は許していない、という議論になる。(注1)
この国家の自己保存権としての「自衛権」の正当化方法は、国民を守るために政府が取る措置を正当化するのではなく、国家あるいは国民が自分自身を守るために取る措置を正当化する概念構成に依拠している。国家の自己保存の権利が自衛権で、それは個別的自衛権なので、憲法が国家の自己保存の権利として認める自衛権は個別的自衛権だけだ、という自家撞着的な論理構成である。「我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置をとり得ることは国家固有の権能の行使」といった内閣法制局の説明は(注2)、「国家固有の権能」を強調する点において、憲法典内在的な説明を拒絶した主張である。従来の内閣法制局の説明では、自衛権をめぐる主語も述語も、「国家」なる超憲法典存在であるのが特徴だ。
 
憲法学においては、自衛権は否定されないが戦力は持てないという理由で、「民衆蜂起」が残された自衛権行使方法だ、とする学説が根強かった。この考え方によれば、国民が主権者だと言う理由で、国民それ自体が自ら直接自分自身を守ることが最も正しい本当の自衛権だということになる。「信託」して政府などに安全保障を代行させるのは真の主権者らしくない行為なのである。また内閣法制局によれば、国家が自衛権を持ち、国家が自分自身を守るのが自衛権だという。ここでも国家それ自体が主権者として直接自分自身を守ろうとするのが本当の自衛権だ、という論理が貫かれる。つまりこれらの憲法学者や内閣法制局の議論からは、社会構成員と政府の間の「信託」関係などは全く度外視されてしまっている。社会契約論に根差した伝統的な意味での立憲主義は忘れ去られており、ひたすら真の国民主権、真の国家主権が追い求められているのである。

1:「自衛権は、独立国家であれば当然有する権利である。国連憲章五一条において、個別的自衛権として認められている。」芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』第六版(岩波書店、2015年)、59頁。この記述に対する説明のようなものは施されていない。

2:大森政輔内閣法制局長官の発言。第145 回国会参議院日米防衛協力のための指針に関する特別委員会会議録第4 号、平成11 5 11 日、5頁。

↑このページのトップヘ