「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

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  先日、「伊藤詩織さんと左右の場外乱闘」という題名の文章を書いた。https://blogos.com/article/425014/ あえて「保守」という言葉は避けておいたのだが、案の定、今回の山口敬之氏の事件をめぐって、「保守」という概念は、定義が争われるらしい。https://blogos.com/article/425078/

 確かに、たとえば山口氏が、小川榮太郎氏を携えて自己の主張を展開している姿は、「常識」的には理解が難しい。あえて、かつてLGBTと痴漢を比較する文章で物議をかもしたあの小川氏を起用するのは、「常識」的な発想の訴訟戦略には感じられない。

 SNSで回ってきたので、小川榮太郎氏の「性被害者を侮辱した「伊藤詩織」の正体」と言う題名の月刊『Hanada』という雑誌に掲載された文章を見てみた。https://hanada-plus.jp/articles/230 すると、こんなことが書いてある。 

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仕事の世話をしてもらおうという男性との初めての会食で、自ら進んで大量に酒を煽り、陽気に振る舞っていたとなれば、その後の出来事は明確な犯跡がない限り、当事者間で解決すべき痴話に過ぎなくなる。

国連でこの実態を正直に語ったうえで性被害を訴えれば、笑い者になるどころか、逆に厳しく糾弾されるだろう。進んで自ら大酒したことを認めたら、性被害者として打って出る根本が崩れてしまう。

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  日本の保守層は、国連を嫌っている場合が多いと感じていたので、小川氏が自らの洞察の裏付けに「国連」を持ち出しているのは、意外に感じる。

 しかし酔っぱらってしまったことを「国連」で「正直に語ったうえで性被害を訴えれば、笑い者になるどころか、逆に厳しく糾弾される」という考え方は、「常識」的な「国連」理解に反すると言わざるを得ない。

私は自分の専門分野から、相当数の国連職員を知っている。だが、小川氏の描写に合致する発言をしそうな国連職員は、一人たりとも思い浮かばない。

 もし国連職員になりたいという人が、小川氏と同じ「国連」理解をしていたら、それは誤解にもとづくものなので、国連でのキャリアを考え直したほうがいい、と助言するだろう。

 上述の小川氏の伊藤詩織さんを糾弾する文章は、「安倍首相と近い山口敬之を貶めたい人たち」への警戒を促す文章で結ばれている。

実際、山口氏も、小川氏も、その他の同じ文脈で言及される方々の多くも、安倍首相との関係が話題になっているらしい。

 事件は全く政治イデオロギーが介在するものではない。しかし、一部の人たちが、安倍首相への立場こそが真の論点だ、と主張していることが、事件が「左右の場外乱闘」に発展している大きな原因なのだろう。

ただし、少なくとも「国連」は、そちら側ではない。

 伊藤詩織さんの民事訴訟での判決が出た後、SNS上で左派と右派の場外乱闘が至るところで起こっている。この種の事件がここまで政治イデオロギー対立と連動するというのは、目を見張る状況だ。
 私はここ数年で憲法学の陥穽を批判する文章を多々書いている。憲法学「通説」派は、左派の牙城のようなものである。とすれば、それを批判している私は右派かと言うと、もちろんそんなことはない。しかも当たり前のことだが、憲法学「通説」批判をすることは、伊藤詩織さんを批判することや、山口敬之氏を擁護することとは、全然関係がない。
 正直、今回の民事訴訟判決の後の山口氏の発言は、かなりヤバい。山口氏は言った。 ―――――――――――――
「本当に性被害にあった方は『伊藤さんが本当のことを言っていない。それから例えばこういう記者会見の場で笑ったり、上を見たりテレビに出演して、あのような表情をすることは絶対ない』と証言してくださったんですね」。
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 性被害を受けた人物は陰鬱になるべきであり、沈黙しているのが当然である、という世界観を披露した山口氏の発言は、かなりヤバい。多くの人々が、そう感じていると思うが、私もそう感じる。
 ただし、それでも執拗に山口氏を擁護する人々がいる。その人たちは伊藤詩織氏が左派系の人物たちと付き合っていることを問題視している。これは意味不明である。
 政治イデオロギー闘争を持ち込む必要がない場面で、政治イデオロギー闘争を持ち込むのは、ナンセンスだ。冷静になりたい。

 アフガニスタンで亡くなられた中村哲医師は、あらゆる方面の人々から尊敬されていた偉人と言ってもいい人物だ。政治的立場も超えて尊敬されていたことが中村医師のすごさだ。小川和久氏は、テロ特措法をめぐる国会審議の際に、国会で参考人として、中村医師が自分とは反対の立場から意見を述べたとき、「中村さんの穏やかさには感銘を受けた」、とSNSで思い出を披露している。これが本当だろう。

 私自身、憲法9条の理解は中村医師と違っていると思う。だが、そのことと、中村医師が偉大な人物であったとことには、何も関係がない。

 中村医師は、偉大な実践者だ。口だけのレベルの人たちとは、レベルが違う。

憲法9条を改正すべきだ、だからガンジーは偉大だと思わない、などという人は、よほど偏屈な人だ。政策論と、ある人間の人生の偉大さは、全く別の次元の話だ。

憲法9条は、平和主義を掲げる日本の大きな財産である。

ただし、政策論であれば、たとえば実際の平和を支えている日米安保体制下の米軍と自衛隊を無視するわけにはいかない。そんな偽善は、口だけの詭弁にすぎない。

アメリカを傭兵のようにして自国の安全保障を確保しながら、対外的には憲法9条を強調して無垢な平和主義者であることを強調するのは、控えめに言って、政策論としては、姑息である。もちろん姑息な政策が可能であり、最善である場合もある。しかし調子に乗っていれば、足を取られる。冷戦が終わって久しい今もまだ、日本にとって姑息な政策こそが最善であるかどうかは、政策論として検証すべき事項だ。

敵を圧倒する軍事力を持っている場合には、重装備の軍事力の展開が最善の安全確保策である。しかしそれが望めない場合には、なるべく目立たないようにしながら、広範に信頼を得る努力をしていくのが最善の安全確保策となる。それは政策論である。

援助関係者の安全確保策にも、政策判断の要素はある。武装警護を付けるか、低姿勢(low profile)で行くかは、その時々の状況によって、有効性が変わる。

想像してみてほしい。アフガニスタンのような状況、たとえば戦国時代の日本に突然舞い降りてしまった場合を。あなたがもし、他の仲間たちと戦国武将を圧倒できる重装備を保持した形で舞い降りてしまったのであれば、その威力を見せ付け、陣地を確保することが最善の安全保障政策だ。ただしその政策に効果がない場合には、いちかばちかで戦国武将に取り入ったり、現地住民になりすましたりするしかない。

中村医師の死去にあたって、タリバン勢力が中村医師に同情的な声明を出した。中村医師は、タリバンからも信頼されていた。すごいことである。政府関係者はやりたくてもできない。ただし信頼をベースにした安全確保策が完璧ではないのは、武力だけに訴える安全確保策が完璧ではないのと、同じだ。

結局、安全確保策に完璧ということはない。場面によって有効性は異なる。中村医師のようなNGO活動者が、信頼を勝ち取ることこそが最善の安全確保策であると考えることには、合理性がある。代替策は、撤退である。もう限界だ、と思った瞬間は、撤退だけが合理的な選択になる。

他方、国家政策をNGOの活動と同じものと捉えることはできない。国家存在それ自体に撤退のオプションはない。全ての政策が、国家存在には撤退がない、という認識から出発する。

ただし、国家の場合であっても、対外的な行動であれば、とりうる政策の有効性が、撤退のオプションとともに、検討される。国際法上の自衛権は、侵略を正当化しない。対外行動をしてでも自衛権を行使する場合があるのは、その行動が国家の生存に必要だから、である。国家の場合には、そうした事情に即して、政策の合法性や有効性が検討されることになる。

アフガニスタンで軍事力を行使しているアメリカだけの話ではない。日本も長期にわたり、一時期は大々的に、アフガニスタン政府を支援した。とにかくややこしいところからは撤退しよう、島国に引きこもっていればそれでいいじゃないか、という政策が、常に最善の安全保障政策ではないと考えたために、支援をしてきている。そのことの妥当性は、政策論のレベルで、検討しなければならない。

 

 

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