「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

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過去のブログ記事(『アゴラ』) http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda

 いよいよトランプ大統領がシンガポールに入った。アメリカの大統領が北朝鮮の最高指導者と直接会談を行うという歴史的瞬間が近づいている。
 前回のブログで「日本の団塊の世代」についてふれた。http://agora-web.jp/archives/2032999.html 「団塊の世代」とは、いわば物心つく頃には朝鮮戦争が終わっていた世代の最年長組だ。日本にも韓国にも米軍基地があることを空気のように感じているので、たまにアメリカ大統領が横田基地を使ったりすると怒りだしたりする。アメリカ軍が見えないところで、永遠にどこかにいる、という前提を誰よりも強く抱えているからこそ、薄っぺらな反米主義を気取ってみたり、従米主義なるものを糾弾してみせたりする。
 こういった特徴は、1960年代安保闘争の頃くらいでも、まだなかったように私は感じている。集団的自衛権は違憲、などといったのんきな言説も、団塊の世代が学生運動をやっている最中に、米国を空気のように感じながら適当に厄介者にしておく、という風潮の中で生まれたものだっただろう。
 
しかし、構造的要因で生まれている条件は、容易には変化しない一方、あるときに一気に変わる。612日米朝会談で全てが変わることはないだろうが、その予兆を示す重要なことが起こる可能性はあるだろう。
 戦後一貫して存在していたが、実は政治的事情で生まれている人工的な現実を相対化してみるためには、歴史を見る、地図を見る、理論を見る、といった作業をしなければならない。
 
アゴラで新たに松川るい参議院議員のブログ転載が始まったようだ。http://agora-web.jp/archives/2033015.html 松川議員は、私が自民党参議院の会合で憲法の話をした際に、熱心に質問をしてくれた方だった。松川議員のような方は、外国の大学院でも訓練を受けているから、上記のような見方ができるだろう。
 私自身も、今までに何度か様々な媒体で北朝鮮問題について書いてきており、実は会談後にも、いくつかの論考を雑誌等に送る予定になっている。このブログでは、松川議員に歩調をあわせて、ただ一つのことだけ、述べておきたい。
 アメリカは北朝鮮にCVID(完全かつ検証可能で不可逆的な非核化)を求め、北朝鮮は体制保証を求める、というのが、会談の基本構図になっている。それは「立場」として全くその通りだが、もちろん、それだけではない。
 時間をかけて段階的に行われざるを得ないCVIDには、経費負担、経済支援、開発投資の話題が、密接にかかわってくるだろう。だが北朝鮮はすでに核開発に多大な投資をしている。すべてはそれに見合う「体制保証」の枠組みがあるかどうかにかかってくる。
 
体制保証の過程は、朝鮮戦争終結宣言によって、一つの新しい段階に至るかもしれない。しかしそれは本質的問題でも、最終段階でもない。朝鮮半島の問題は、朝鮮戦争によって生まれたものではない。朝鮮戦争は、朝鮮半島の問題の一表象である。朝鮮戦争が終わっても、朝鮮半島が持つ地政学的な事情に起因するが構造的な問題が消滅するわけではない。
 
「体制保証」の本丸は、在韓米軍の(縮小)撤退である。在韓米軍の撤退こそが、現実の実質的な「体制保証」であり、それ以外のものは、そうではない。在韓米軍撤退こそが、北朝鮮という特異な国家に「体制保証」を与えるという構造的な転換に見合う事態である。
 
もちろんこのような最終カードを、トランプ大統領が612日に切ってしまうということは、とても想定できない。しかしあるいはトランプ大統領の背広の奥底に潜んでいるカードが、交渉の過程で、ほんの少し、金正恩氏の視界に入るような瞬間が作られるかどうか。それは612日が終わっても、わからないだろうが、事態の展開の中で、引き続き論じられていくだろう。
 
612日を注意深く見守るために、われわれがまず気を付けておかなければならない。社会の老齢層が生まれた時から存在している空気のように感じられることでも、それが政治的な事情で生まれたことでしかないのであれば、いつか必ず政治的な事情の変化に応じて変わってしまう時が訪れる。そのことを、肝に銘じておかなければならない。

 6月4日は天安門事件の29年目の記念日だ。1989年当時、私は大学3年生だった。偏屈者が集まることで評判だった政治思想のゼミに通いながら、天安門事件や、同じ年の秋に発生する東欧革命のニュースを見た。その年の暮れに、私は、学者になろうと思った。天安門事件のことは、当時の様子とともに、鮮明に思い出される。未完の革命だった。もちろん今も当時も、中国で革命が起こる可能性は低い。しかし天安門事件を過小評価して、現代の中国人と付き合うのは違う、と私は思っている。
 そういえば今年の5月は、1968年フランス「5月革命」50周年であった。日本ではあまり話題にならなかったようだが、研究者層では、1968年は世界史の転換点だった、という評価が固まっている。その1968年の象徴が、フランス未完の革命である「5月革命」だ。
 高校時代に私は、よく学校をさぼって東京のはずれで映画を観たりしていた。安い料金で何本も観られる映画館に行ったりしていたため、寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』や『ウッドストック』の映画は、何度も観た。「1968年」の雰囲気は、私にとって、一つの不思議だった。大学に入って、フーコーやドゥルーズなどの「68年思想」とも言われる現代思想にふれて、1968年は、いっそう関心をかきたてるものになった。
 当時は村上春樹が一世を風靡した時代だ。1968年当時を舞台にした『ノルウェーの森』がベストセラーになったのが、私が大学一年のときだった。その中に、主人公の「僕」(ワタナベトオル)が、亡くなった友人「キズキ」に次のようにつぶやく場面がある。学生運動で大学封鎖をした連中が、運動熱が冷めると、きちんと授業に出たりしているのを見た後の言葉だ。
 
「キズキ、ここはひどい世界だよ」「こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ」

アメリカでは、1990年代に、ベトナム反戦運動に熱心に参加していたビル・クリントンが、大統領になった。イギリスでは、オックスフォードで熱心に学生運動をやっていたトニー・ブレアが、首相になった。パリ5月革命時に、パリ大学医学部で運動指導者だったベルナール・クシュネルは、早くも1971年に「国境なき医師団(MSF)」を設立して世界的に有名なNGOに育てあげた後、90年代前半には保健・人道活動大臣を務めた(後に外務大臣)。
 
1990年代に、人道援助、人道介入、平和活動、人権問題の話は、大きく広がった。世界の構造的矛盾に異議を唱えた世界各国の1968年世代の人々が、そこにいた。第一線で、活躍し始めていた。ロンドンでPh.D.を取得した私は、平和構築を専門にして学者としてやっていくことを決めた。
 
それにしても、日本の団塊の世代は、何をやっているのか。
 
まさか「立憲主義は政府を制限すること」と主張し、「モリカケのアベに憲法を語る資格はない!」などと叫び、テレビを見ながら「もう詰んだ」など言って、革命ごっこの気分に浸ることが、日本では1968年世代の習慣になっていないか。
 「
キズキ」に話しかける、「ワタナベトオル」のような気持ちになる。

日本維新の会憲法改正調査会にお招きいただき、「自由民主党の憲法改正条文イメージ(たたき台素案)」について話をさせていただいた。本年3月に提示された自民党の憲法改正条文イメージについて具体的に議論する機会をいただいたのは初めてだった。
 
実は自民党の条文イメージに関する議論は進んでいない。ほとんどの憲法学者が、「改憲反対!」「いつか来た道!」「モリカケのアベ首相に憲法を語る資格はない!」などと叫ぶ政治運動に奔走し、条文案を客観的に分析する社会的役割を遂行していないからだろう。
 
そこで恐縮であるが、せっかくなので、ブログでも書いておこうと思う。現在伝えられているところでは、自民党の9条改憲案は、以下のとおりである。

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第9条の2 前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。

2 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。

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 この案を見て感じる論点を拾っていくと、以下のようになる。

(1)「我が国の平和と独立」・・・「我が国」という表現は、通常の行政文書等では頻繁に使われているものだが、日本国憲法においては、前文において「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保」という表現で「わが国」への言及が一度あるだけである。したがって表現の統一性という観点から、まず「我が国」は、「わが国」と表記すべきであろう。だがもちろん問題はそれだけにとどまらない。
 憲法前文における「わが国」は、主権者である国民が憲法発布にあたって「自分たちの国」に言及したときに用いられた概念であり、憲法典における主語として具体性を持っているか、疑念の余地がある。実際、日本国憲法は、1条の天皇の地位に関する規定で、そして982項の条約順守義務に関する規定で、より客観的な「日本国」という表現を用いている。「平和と独立」の主体として国家を参照したいのであれば、より具体的に「日本国」とするほうが、適切だろう。
 
もっともより重要なのは、「平和と独立」のほうだ。「平和」と「独立」を並置するとすれば、両者は異なる概念だということになる。しかしそれは必要な措置だろうか。憲法全体の趣旨や、9条の2を追加する趣旨を考慮すれば、「平和」だけで十分であるようにも思える。この点は、(2)とも関わる。

(2)「国及び国民の安全」・・・「国と国民」が並置されているという特異な内容を持つ部分である。ここで「(日本)国の安全」が言及するのは、その前の箇所にある「我が国の平和と安全」は、重複感がある。表現を整理したうえで、どちらかだけにまとめたほうがいいのではないか。
 それにしても「国民の安全」と区別される「国の安全」とは何か。これは私が拙著『集団的自衛権の思想史』や『ほんとうの憲法』で繰り返し述べている日本憲法学特有のドイツ国法学の残滓そのものではないのか?このような「擬人法」的国家観にもとづく表現は、日本国憲法典には存在していないのではないか?このような「擬人法」を強引に挿入することは、戦前のドイツ国法学の影響に染まった憲法学の言語を、数十年遅れで日本国憲法典に挿入し、憲法典の現在の体系を破壊することにつながらないか?
 「安全」を守ってもらうのは「国民」だけで十分だろう。それで不足だと考える人がいるなら、「国土の保全」といった概念で、より具体的に無人島を含む領土の保全策を対象としていることを明記すればよい。確かに尖閣諸島などは、無人島だ。「国民の安全」だけでは不足だ、と感じる人もいるのかもしれない。しかし領土問題への対応を考えているのであれば、なおさら「国の安全」などといった時代錯誤的なドイツ観念論丸出しの概念構成は避けておくべきだろう。「国土の保全」でよい。
 それにしても現在の政府見解では、自衛権の憲法上の根拠は、13条の幸福追求権にある。ということは無人島の防衛などの国土の保全なども、結局は、「国民の安全」にとって重要なので、追求されるはずだ。だとすれば、国土の保全、といった概念も必要なく、「国民の安全」だけで十分なのではないかという気はする。

(3)「必要な自衛の措置」・・・必要な自衛の措置をとるという文言は、政局的には、集団的自衛権を認めているのか否かで話題になったりするのだろう。だが憲法典にこの文言を入れると集団的自衛権の理解が変わる、というのは、おかしい。現状は、実態として、安保法制の枠組み内では集団的自衛権の行使が可能である一方、枠組み外では実施手続きを定める通常法がないので行使できない。自衛権そのものが違憲だとする者、安保法制が違憲だとする者にとっては、この機会に改憲を潰して議論を有利に持っていくために、文句をつけたい文言であるかもしれないが、それ以外の者にとっては、特にどうということはない。「自衛の措置がとれる」というのは、これまでの政府見解から外れるものではない。
 むしろ問題なのは、「必要な自衛の措置」という文言が「自衛権の行使」と言い切っていないために、国際法との関係が不明瞭にならないかどうか、だろう。その観点からは、国際法上の自衛権の要件である「必要性と均衡性」の原則のうち、「均衡性」が言及されていないことが不都合を生まないかどうかだろう。ただし、これはやや杞憂と言ってもいい懸念だ。おそらくは、極端な解釈論が出ない限り、問題はないと思う。ただし、それにしても、あえて曖昧さを残した文言のほうがいいのか、国際法との関係をよりはっきりと明示した表現のほうがいいのではないか、という気持ちは残る。
 なお大きな問題として、憲法9条の主語の問題がある。憲法9条は、前文以外では、主語が「日本国民は」になっている唯一の条項である。9条が、特に深く前文と結びついていることを示す重要な点だ。もし9条の2が、現在伝えられているような形で挿入されると、その主語はそのまま「日本国民は」となる。したがって「必要な自衛の措置」をとる条項が入れば、「自衛の措置」をとっている者は、「日本国民」だということになる。
 
果たしてそれでいいのか?日本国憲法では、9条の禁止規定を除いて、日本国民が主語になっている条項はない。それは能動的な主体を設定したうえで、その主体に権限を委譲するという行為を、憲法制定者である日本国民が行っていることの証左である。たとえば立法する権限は、日本国民は、国会に授権している。日本国民自身が立法することはない。ところが自民党案の9条の2が入ると、憲政史上初めて、日本国民が能動的に動き、自分たち自身の安全や国の安全なるものを守るために、自衛の措置をとることになる。たとえ最高の指揮監督者が内閣総理大臣だとしても、自衛の措置をとっているのは、文章上は、日本国民である。となると、そこで規定されている「自衛隊」なりの組織は、日本国民が直接動かしているという理論構成になる。9条の2によって、日本国憲法において、主権者・国民が直接動かす唯一の組織が、「自衛隊」だということになる。この理解を発展させると、「統帥権干犯」問題に類似した、国民による直接行為の性格を確保する手段をめぐる議論が発生してしまう恐れがないとは言えない。法益がない無意味な混乱の要因なので、9条の2の主語の設定については、配慮しておいたほうがいい。

(4)「実力組織」・・・「実力組織」は、政府が長年使ってきた言葉だが、意味不明なものである。正式な憲法典の用語になると英訳も考えなければならないが、翻訳不能だろう。「ability organization」と言う人もいるらしいが、全く意味不明である。パッとみて意味不明であるだけならまだいいが、「ability organizationって何ですか?」と外国人記者に聞かれて、ピシッと答えられる日本人がいるとは思えない。つまり憲法典にこの概念を入れても、精緻に説明できない。ガラパゴス憲法学の悲惨な実情を、世界に宣伝するだけの措置に終わるだろう。
 憲法9条のように、国際的な活動を行う場面で問題になる条項は、国際法との整合性や、国際的に用いられている概念体系との関係が、非常に重要である。日本人だけで分かったような気になっていても、国際的に説明不能であれば、結局は憲法と現実の間のギャップが如実に見えた、といった状態に陥らざるを得なくなる。したがって「実力組織」概念の憲法典への挿入については、私は非常に否定的な気持ちを持っている。

(5)「内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者」・・・やたらと長い表現である。「内閣の首長たる内閣総理大臣」は憲法66条で、内閣総理大臣が行政各部を「指揮監督」するということは72条で、それぞれ定められている。9条が、これらの行政機構の仕組みを説明する必要はない。「内閣総理大臣が指揮監督する」と言えば十分ではないか。最高司令官規定を憲法に入れることは、必ずしも絶対に必要なことではない。もっとも自衛隊が行政府の一部であることを明示する文言を入れることには、意味があるだろう。

(6)「自衛隊」(Self-Defense Force)・・・「自衛隊」という名称の組織を合憲化することは、実際に存在する組織が持っている性質や活動の合憲性の保証にはならない。名前が合憲であるだけだ。しかも名称変更するだけで、憲法改正手続きを必要としてしまう不都合が発生する。組織名称が憲法典に記載されているのは、三権を代表する機関以外にはほとんどないため、自衛隊の位置付けは突出したものになる。そこまでの大きな意味を、あえて「自衛隊」という語に付与する必要があるのかは、疑問だ。つまり私には、「自衛隊」という語を憲法典に挿入することに大きな意味があるとは思えない。
 すでに何度かブログで主張していることだが、政府見解からしても、自衛隊は「憲法上の戦力」ではないが、「国際法上の軍隊」である。http://agora-web.jp/archives/2030702.html だとしたら、「国際法上の軍隊」が合憲であることを、「軍」という語を用いて、明晰化するのが、本当に必要なことだ。そうなると国際法との関係も明確になり、ジュネーブ条約(捕虜条約等)の自衛隊員への適用を拒絶する、といった自虐的な立場をとらなくてもよくなる。
 自民党は、議論の過程で、92項削除を唱える石破茂氏の主張を退けて、2項維持案を掲げていることになっている。それはそれでいい。だが今までの憲法解釈を維持した上で自衛隊の合憲性を明確化することが改憲の狙いであるとすれば、「憲法上の戦力ではなく、国際法上の軍隊である」、ということを明確化することが、本当は必要だ。つまり92項を維持して自衛隊は「憲法上の戦力ではない」という立場を維持しつつ、9条の2を追記して「国際法上の軍隊である」ことを明確化することが、最善策だ。
 拙著『ほんとうの憲法』で説明したことだが、92項が不保持を命じている「陸・海・空軍」は、「その他の戦力」とともに、「戦力(war potential)」の例示として示されているものにすぎない。「戦力」とは、政府見解のとおり、「戦争を遂行するための潜在力」である。92項が否定しているのは、「戦争」を行うための「戦力としての軍」である。「戦争(war)」は、国連憲章24項を参照するまでもなく、すでに91項によって違法化とされている行為だ。違法な「戦争(war)」という行為を行うことを目的とした組織は、大日本帝国軍のみならず、国家総動員体制の竹やり部隊であっても、92項によって、違憲になる。しかし「戦争」を目的にしていなければ、「憲法上の戦力」ではなく、軍隊であっても、合憲である。「戦力(war potential)」の違法化は、前文及び91項からの一貫性のある合理的な論理の帰結なのである。
 憲法学者は、自衛権の行使、をすぐに「自衛戦争」と言い換えたがる。陰謀論めいた概念操作であり、間違いである。1928年不戦条約以来、「戦争」は、違法である。しかし侵略者が違法な戦争行為で国際法秩序を脅かす事態が発生したら、侵略行為に対抗して国際法秩序を守ることが必要になる。その必要な行動の制度的措置として、自衛権と集団安全保障がある。
 
憲法学者風の発想によると、ずるがしこい外国人たちが、「戦争」を禁じると言いながらこっそり作った抜け穴が「自衛戦争」、である。そこで世界で唯一純朴で美しい民族である日本人だけが、全ての戦争を放棄する。しかしこれは自己陶酔的なガラパゴス論だ。
 
国際法秩序を守るために、武力行使の一般的禁止原則があり、国際法秩序を守るために、自衛権と集団安全保障の制度がある。勝手に不当な形で自衛権の趣旨を貶めたうえで、自衛権ではない「自衛戦争」なるものだけを議論していこうとするのは、日本の憲法学の悪質な概念操作の所産である。
 
なお念のため付記しておけば、「交戦権」は、現代国際法が否定している概念だ。戦前のドイツ国法学の概念構成を振り回して現代国際法を混乱させない、というのが92項「交戦権」否認の趣旨である。日本の憲法学の基本書にしか登場しない架空の「国際法上の交戦権」など、そもそも全く考慮する必要がないのだ(ただし司法試験・公務員試験受験者の方は、丸暗記しなければならない)。
 世界各国が保持しているのは、日本の自衛隊と同じで、自衛権行使の手段としての軍である。国連憲章24項で禁止されている「戦争」を行うための組織などではない。新設の9条の2は、ただ世界各国で常識とされていることを日本でも常識とするために、設定してくれればいい。何とかして「自衛権」行使を「自衛戦争」と言い換えようとするガラパゴス憲法学者に屈しないようにしてくれれば、それでいい。
 
確かに、日本政府の見解も、私の憲法理解とは異なる。まあ、政府は憲法学者には気を遣うが、憲法制定時の国会の憲法改正小委員会委員長であった芦田均の見解にも、9条の起草者と言えるダグラス・マッカーサーの見解にも気を遣わないのだから、仕方がない。だが政府が「実力組織」などの実定法上の根拠がなく説明困難な概念に固執しさえしなければ、あとの概念構成は細かい話だ。自衛隊が「戦力」でなければ、それでいい。「憲法上の戦力ではないが、国際法上の軍隊である」、という結論が共有できれば、それでいい。あとは、「憲法優越説」なるものを振りかざすガラパゴス憲法学者に屈しないようにしてくれれば、それでいい。「憲法上の戦力ではないが、国際法上の軍隊である」ならば、当然、捕虜になった自衛隊員にもジュネーブ条約が適用されるはずだ、といった論点を、一つ一つ整理していってくれれば、それでいい。

(7)「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」・・・最後に書いておきたい。憲法9条の「目的」は、冒頭で「誠実に希求する」と書かれていること、つまり「正義と秩序を基調とする国際平和」だ。9条の具体的な内容は、「手段」でしかない。それは、前文からしっかり通して9条を読めば、さらにいっそう明らかになることだ。
 日本の憲法学者は、「芦田修正説」を攻撃することには熱心だが、「正義と秩序を基調とする国際平和」については、議論しない。東大法学部時代に司法試験に合格したという弁護士の方は、「「日本国憲法が希求している目的が『正義と秩序を基調とする国際平和』だ、などという議論はこれまで一度も聞いたことがない」と証言する。blogos.com/article/280280/ 実際、日本の憲法学者が「正義と秩序を基調とする国際平和」について論じた形跡はない。せいぜい「世界最先端の9条があるから日本が世界のリーダーだ」、みたいなことを言うだけだろう。しかし、およそ正義(justice)を基調とするのなら、国際法秩序に整合した平和を求めるのが、当然だ。「正義(justice)」の確立を希求しながら国際の平和も求める「平和愛好国家」の国連憲章の「平和」の考え方と調和する形で、「国際平和」を求めて、9条を解釈運用するのが、当然だ。
 9条の2を挿入しても、9条冒頭の「目的」は残る。国会議員の方々が、憲法学の基本書よりも、日本国憲法典のほうを信頼し、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」する憲法の精神を尊重し続けることを期待する。

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