「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文その他の情報や、時々の意見・解説を集めています。以前にホームページとして掲載していた情報ともリンクさせています。

『現代ビジネス』さんに、「自衛隊PKO派遣の議論がいつもモヤモヤしたものになる理由:日本の憲法学の「陥穽」」という題名で、拙稿を掲載していただきました。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50645 

駆け付け警護をめぐる「それなりの議論」は、安保法制が成立した頃の「集団的自衛権」を中心としたときの議論と比べれば、盛り上がりには欠けていました。「駆け付け警護」が一層よくわからない概念であったという事情に加えて、「南スーダン」や「国連PKO」が、人々の関心を掻き立てるテーマではなかったからでしょう。

出版社の方と話しても、「PKOでは売れない」、と言われることが普通です。そのような日本社会の風潮の結果、情報量が少なくなり、かなりいい加減な議論がまかり通ってしまいがちになるようです。ネットを通じてPKOについて誤解を解く言論活動をすることができるのは、大変にありがたいことです。

それにしても、「自衛隊PKO派遣の議論がいつもモヤモヤしたものになる理由」とは、何でしょうか。日本における国際法の理解の低さ、特に武力行使に関する法と国際人道法の理解の低さは、大きな論点です。しかし拙稿が主張したのは、国際法に対する理解の低さの裏側にある問題の深刻さです。つまり憲法九条のロマン主義的解釈です。

日本では、日本国憲法九条が、世界でも類例がなく、世界に先駆けて戦争放棄をした画期的な条項だ、というロマン主義的理解が、蔓延しています。これは歴史を無視した、あるいは国際法を無視した理解です。なぜなら国際法では、日本国憲法よりも先に、戦争を違法化しているからです。現代国際法において最高の権威を持つ1945年国連憲章が、武力行使の一般的違法化を定めました。国連加盟国は193カ国にのぼっており、世界のほぼすべての国々が憲章を批准していることになります。

いや、そんなはずはない、憲法九条は、邪悪で戦争まみれな国際社会と一線を画する理想主義的な条項であるはずだ・・・、と日本人は思いがちです。国際社会では、戦争を違法化しているとしても、実態として紛争は防ぎきれていないじゃないか、と言う人もいるかもしれません。しかしただその程度のことを言うだけであれば、日本国憲法もまた戦争放棄し、戦力不保持を宣言しつつ、実態として、日米同盟を堅持し、自衛隊を維持する体制と両立してきているわけですから、それほど原理的な差があるとは言えないと思います。ひとたび紛争に巻き込まれそうになったら、絶対平和主義を掲げ、全面降伏してでも紛争に関わることを忌避する、といった憲法九条解釈のコンセンサスはないと思います。

なぜ国際法ですでに1945年に否定されたことを、日本国憲法はあえてあらためて否定したのでしょうか。しかしこの問いは、時代錯誤的です。日本国憲法制定当時、「旧枢軸国」の占領下の日本は、独立国ではなく、国連加盟国ではなかったのです。その「旧敵国」日本に対して、旧連合軍(United Nations)諸国が、憲法典を通じて、国連(United Nations)憲章の規定を守らせようとしたとしたのは、全く奇異なことではありません。

憲法九条は、前文で謳われている「国際協調主義」の産物です。・・・「八月革命」を起こした「主権者」である「国民」が、邪悪で戦争まみれの国際社会からの決別を誓って、世界初めての理念を、日本独自の理想の旗として掲げたのが九条だ・・・、といった奇妙な自己催眠をかけることになったのは、東大法学部系の戦後憲法学の壮大な「物語」叙述によってです。憲法典から自動的にそのような「物語」を読み取ることは、必ずしも必然的ではありません。そのような「物語」が「通説」となった事情は、理想と現実の対峙とかそんなものではなく、むしろ単なる日本国内の権力的な背景によって説明されるべきものでしょう。

 細々と備忘録の代わりのように使い始めたこのブログですが、このたび「言論プラットフォーム:アゴラ」で転載していただけることになりました。驚くと同時に大変に光栄に感じております。もちろん内容が稚拙であったり不適切であったりする場合には、あえて転載されることはありません。私にとってもチャレンジです。
 さてそういう経緯もあり、「アゴラ」掲載の記事をあらためて見てみました。ネット掲載記事は、自由で闊達な雰囲気があるのが、いいところですね。制限字数とかも緩やかですから、ありがたいのと同時に、自由な自己を律する姿勢がより強く求められるというところも、当然あるかと思います。
 自己を律する姿勢、ということで気になるのが、「立憲主義」ですね。今年は日本国憲法施行70周年にあたります。池田信夫さんが新年の記事として「憲法の何を改正するのか」を「アゴラ」で掲載されています。そこで朝日新聞の元旦の社説についてふれておられます。主流メディアを批判的に論評する記事を自由に素早く出せるのは、ネット言論の最大の利点でしょう。池田さんの批判的論説は、実際の文章を見ていただくとして、http://agora-web.jp/archives/2023616-2.html 実際、私も最近の一部言論人・機関の「立憲主義」キャンペーンには、懸念を抱いています。
 私は若い時に大佛次郎論壇賞を受賞したことがあり、もちろん選んでいただいたのは審査員の先生方であり、私を候補作として推してくださった方々なのですが、主催者は朝日新聞社ですから、お世話になったという素朴な気持ちがあります。とても親切な方や、真摯な方が、たくさん社内にいるのは知っています。ですから朝日新聞社全体を云々することは、私はあまりやりたくありません。しかし最近の「立憲主義」キャンペーンは、難しいです。拙著『集団的自衛権の思想史』を執筆することにしたのも、このまま偏った「立憲主義」が通説になってしまうと、言論どころか、研究活動さえ圧迫されてしまうという危機意識を持ったからでした。
 池田さんも以前に指摘したように、頂点に達したのは、「国民は憲法を守る義務はない」という議論を、「立憲主義」と呼ぶ記事だったでしょう。http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51976502.html  これはヤバいです。国民は憲法に縛られない(ただし憲法学者の基本書からは逸脱してはならない?)、それが立憲主義だ、と唱えるのが日本においてだけ通説になってしまったら、国際的議論に参加できない究極「ガラパゴス」で、ヤバすぎます。
 政府が憲法に反して権力を濫用したらその政府を制限することを試みる、これは立憲主義的でしょう。しかしそのことを言うために、国民は憲法を超越している、それが立憲主義だ、と主張するというのは、自殺行為です。憲法を制定した人民が、自分たち自身にも制約を課す、なぜなら信じている根本価値規範があるから、そういう考え方が立憲主義のはずです。憲法制定権力さえ覆せない根本的価値規範=個人の尊厳を信じるからこそ、政府も制限するでしょうし、憲法制定者もまた自らを律しなければならないのです。それが「主義」としての立憲主義の神髄です。それが立憲主義の思想であるはずです。国民が絶対主権者だ、というのは、立憲主義でも何でもありません、ただの絶対主権主義(のせいぜい拡張版)です。
 元旦の朝日新聞の社説は、「個人の尊重」を立憲主義の神髄と掲げている点で、昨年5月3日の根本論説主幹の記事よりも妥当なものになっています。総意の成果なのでしょうか、仕上がりは格段に上等だと思います。しかし、よく見てみると、非常に原理的な問題がまだひそんでいることがわかります。以下、朝日新聞の社説の引用です。

「中学の公民の教科書でも近年、この言葉を取り上げるのが普通のことになった。 公の権力を制限し、その乱用を防ぎ、国民の自由や基本的人権を守るという考え方――。教科書は、おおむねこのように立憲主義を説明する。」
「公権力は、人々の「私」の領域、思想や良心に踏み込んではならない・・・。」

 ここで特徴的なのは、制限されるのが「公の権力」だけである点ではありません。「個人の尊重」で基本的人権として守られるのが、「人々の「私」の領域」と規定されてしまっていることは、大きな特徴です。ここに絶対国民主権主義=国民憲法超越主義の考え方と表裏一体の深刻な問題がひそんでいるわけです。これでは、いかに制限されようとも、「公」は権力者に独占されています。国民一人一人には「私」しか守られていません。国民は「私」の集合体で、そのようなものとしてただ「公」を独占している政府を「制限」するときだけ「公」に現れますが、それもほとんど「公」を独占している政府のわき役としてだけなのです。
 政府を制限すること以外に、国民に「公」の役割はないのでしょうか?国民一人一人に守られているのは「私」の領域だけなのでしょうか?このような一方的な「公」と「私」の関係では、国民はチクチクと「制限」する行為に趣味のような楽しみを覚える以外には、「公」に幻滅して背を向けてしまう以外にすることがなくなってしまうのではないでしょうか?
 このような「公」・「私」の概念は、日本国憲法典に書かれていません。朝日新聞というか、一部の有力で権威ある憲法学者の方々が、ご自身の思想的信念に基づいて憲法解釈にあたって導入している概念でしょう。解釈と言うものは、自由である限り、素晴らしいものです。しかし権威主義を乱用して一つの解釈を絶対的真理であるかのように語り始めるとき、危機が訪れます。まして憲法典に書かれていない概念を振りかざすのであれば、特にそうでしょう。
 日本国憲法13条は、国民の権利に、「公共の福祉に反しない限り」、という留保を受けています。「公」が政府に独占されている限り、いかに「私」を振り回して政府を「制限」することを英雄視しようとも、最終的には「公」対「私」の分が悪い戦いの構図から逃れられません。非常に危険な思想であり、危険な憲法解釈だと言わざるを得ません。
 国民も「公」を形成すべきです。国民も「公共の福祉」に貢献すべきです。「制限」する趣味だけに活動を限定するのではなく、「公共の福祉」の領域を豊かにするために、国民も活躍するべきです。
 たとえばネット言論も、「公共の福祉」に著しく反していれば、制限されるべきでしょう。しかし「公共の福祉」を豊かにするネット言論は称賛されるべきです。どのようなメディアであれ、「公共の福祉」を豊かにする活動をしているという自負を持つ者が、矜持を感じるべきです。
 公共の福祉に貢献しているかどうかではなく、政府を制限しているかどうかによって称賛されるべきだと考える思想は、立憲主義的ではないと思います。
 国民は、憲法学の基本書ではなく、憲法典それ自体が表現している価値規範を信じて、生きていくべきだと思います。

『現代ビジネス』に2016年の世界の紛争状況を鳥瞰する拙稿が掲載されました。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50566

ところでわざわざリンク許可を申請するほどではないと思いつつ、『現代ビジネス』さんにご迷惑をおかけしてもいけないなと思い、紛争数に関するデータベースに対するリンクは、上記の文章では割愛しておきました。私は通常UCDPを使っていますが、国連等も通常はUCDPを使うのを標準としており、学生にも「特に理由がなければこれを使っておけば疑問視はされないもの」と言ってあるものです。http://ucdp.uu.se/ Peter Wallensteenが統括している限り、信頼度は下がらないでしょう。Peter自身は、昨年お会いして会話した際、2010年代の紛争数の激増の理由を総括するにはまだ時期尚早だと言っていました。失礼ながら、統計をとっている方は、これくらいのほうが、かえって信頼度が高いです。

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