「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

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 最近、国会審議の劣化が著しいということはないだろうか。ほとんどの国民は、「国会なんて昔からそんなものなのでは?誰も期待していませんよ」といった雰囲気なのではないかと思うが、それにしてもやはり劣化していないだろうか。
 遅刻を擁護するつもりはなく、大臣の資質を擁護するつもりもないが、3分遅刻すると5時間の審議拒否というのは、いかにも低レベルである。
 横畠裕介内閣法制局長官が野党質問を「批判」したとされる問題でも、実際には横畑長官が「このような場で声を荒らげて発言」と、やや皮肉めいた発言をしたとされる、それだけのことである。皮肉には皮肉で応酬する、といった洗練されたやり取りくらいはあってもいいと思うが、「どっちが偉いか分かってんのか、貴様」、といわんばかりに官僚イジメをする国家議員の行動から、国民が何か利益を得られるとは思えない。
 これによって安倍政権の驕りが見えた、とか大げさな結論を導き出そうとするのも、いただけない。挑発して相手の失点を狙う、というのは、ほとんど炎上ビジネスのようなものなのではないか。
 特段、中央官僚の味方をしたいと思っているわけでもないが、特段、国会議員は常に官僚に威張れる、ということを強調したい気持ちもしない。
 
国会議員も公僕であり、公益に奉仕する、ということが最高の行動原理である、ということについて、もう少し社会全体で真面目に考え直してみるべきなのではないだろうか。
 
横畑議員の失言を引き出した小西洋之参議院議員については、私自身が意味不明な罵倒をされたことがあるので、やや思い入れを持たないわけではない。http://agora-web.jp/archives/2030493.html 小西議員といえば、「幹部自衛官 暴言事件」などもあり、国会議員による官僚に対するコントロールには、強い信念をお持ちのようだ。https://blogos.com/article/295740/ だがそうした政策的課題は、「声を荒げて発言」と言われたくらいで大問題だとみなすといったような、そういった小さな話なのか。http://agora-web.jp/archives/2030677.html 
 集団的自衛権及び安保法制は違憲だという信念を持つ小西議員にとって、安保法制成立に尽力した横畠内閣法制局長官は、あらゆる機会を通じて攻撃したい対象であると想定される。だがもしそれが伏線だとすれば、今回の事件が持つ意味は、非常に深刻である。

 1月に米朝会談が2月末に開催されることが決まった際、「31独立運動100周年に備えよ」という題名のブログを書いた。http://agora-web.jp/archives/2036796.html 大人の対応を心がけながら、韓国発の「物語」の拡散に警戒せよ、という内容だったが、事なきを得て、31が終わったのは、良かった。
 直前の米朝会談が物別れに終わったことが大きい。米朝会談前の文大統領による「親日清算」発言はあったが、31当日の文大統領の発言は、穏便なものにとどまった。反日を基調にして、朝鮮半島の未来を語るという目論見は、米朝会談が不調に終わったところで、軌道修正を強いられていると見てよいだろう。安倍首相陰謀論まで出ているそうだが、https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190303-00000005-cnippou-kr 日本としては、淡々と朝鮮半島の非核化を願う姿勢を強調すればよい。
 
昨年6月の米朝会談で、「CVID(完全かつ検証可能で不可逆的な非核化)」と「体制保証」を「取引(Deal)」するという方向性が示された際、中身がないという酷評が多かったように思う。私の論調程度でもhttps://gendai.ismedia.jp/articles/-/56108 、トランプに好意的なものに見えるくらいだった。米韓合同軍事演習の中止という措置を見て、米国が譲歩し過ぎではないか、とする論者もいた。そもそもアメリカの大統領が北朝鮮の最高指導者と直接会談すること自体の妥当性を問う手続き論的な意見もあった。
 
トランプ流で「取引」交渉が進んでいることは、間違いない。非伝統的なやり方だろう。しかし、制裁解除せずに、北朝鮮の核実験やミサイル実験を止めているのだから、交渉がアメリカ不利に進んでいる、などと言うことはできない。危機の高まりを抑えながら、交渉には臨むという姿勢は、日本にとっても、利益がある。
 
これまでの安倍外交には安定感がある。国際政治学者の間でも、おおむね好意的な見方が多いと思う。ただし、最近の北方領土交渉は、空回りしている。大局的な視野からの計算の甘さがあった、と指摘せざるをえない事態になっている。3期目の安倍外交に新しい案件での得点を狙う焦りがそこにあるとしたら、心配だ。
 「
戦後日本外交の総決算」http://agora-web.jp/archives/2036498.html は焦って個別事案に精力を注ぐだけでは、達成されない。北朝鮮問題も同じだ。もちろん拉致問題の解決は至上命題だが、北朝鮮への譲歩は禁物だ。「体制保証」それ自体がまだ「取引」中である。大局的な視点から流れを踏まえて見通しを立てることを、忘れないでいただきたい。

 「平和構築人材育成事業」の研修が続き、私が多数の現役国連職員らからなる講師層の招聘から演習の仕組み等にいたるまで運営指揮していため、なかなかブログを更新する時間もとれなかった。https://peacebuilderscenter.jp/ ようやく研修が終わり、ともに「広島平和構築人材育成センター(HPC)」をやっている上杉勇司・早稲田大学教授とともにニコニコ動画「国際政治チャンネル」で対談をするような余裕もとれた。今回の題名は、「国際平和協力の夢破れた僕らの世代」というものだった。http://live.nicovideo.jp/gate/lv318590501?fbclid=IwAR0L2GKc_gdbXr5DfSkIMzoB-Cw5y8Qrn5N4ob7bJx2yNARB-xW61Uc5Bm4 この「夢破れた僕らの世代」という題名の淵源は、以前の私のブログにあるのだが、日本の国際平和協力活動は伸び悩んでいるという状況認識によるものだ。http://agora-web.jp/archives/2032199.html
  私は1968年生まれで、1991年に大学を卒業した。つまり生まれたときに学生運動が峠を越え、大学卒業時に冷戦が終結していた、という世代だ。平和構築という政策分野を専門にしてきたのは、こうした世代的な背景と無縁ではない。
 新しい時代の中で日本も活躍するのでは・・・、という華やかな夢は、必ずしも期待通りには実現しなかった。すべては一部の憲法学者のせいだ、と言うわけではないが、憲法の新著も夏までには、また出す。今後も私自身は自分自身の世代に属する者として生きていくしかない。
 遂に映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観ることもできた。アカデミー賞でも主役となった話題作だが、何と言ってもクィーンは、我々の世代では思い出がからむバンドだ。私の最愛のバンドはU2だが、クィーンも来日コンサートを観に行ったことはある。感傷的な思いにひたりながら鑑賞した。
 この映画は、もちろん単なるクィーン物語の映像化の試みではない、ということがわかった。かつて1980年代にはAIDSの恐怖は、政治的にはレーガン大統領の「小さい政府」路線への反発と重なった。今日、LGBTの描写は、政治的にはトランプ大統領のマイノリティ軽視路線への反発と重なる。フレディ・マーキュリーのインド系の出自への着目も、同じマイノリティ問題と重なる構図だ。
 しかしそれにしても思いが深まるのは、1985年「Live Aid」におけるパフォーマンスを映画のハイライトにしていることだ。映画は、いくぶん史実と違う描写を施してでも、「Live Aid」をエンディングにすることにこだわった。フレディ・マーキュリーの父との和解まで、「Live Aid」に盛り込んでいたのは印象的だった。
 エチオピアなどのアフリカの角における大飢饉を救うために豪華ミュージシャンがイギリスとアメリカで集結して製作された「Do they know it’s Christmas?」(現在でもヨーロッパでは定番のクリスマス・ソングとして定着している)、「We are the World」(現在でも国連職員ら実務家層などとカラオケに行けば国籍を超えて皆で歌う曲の筆頭だ)は、「我々の世代」を代表する大事件だった。これらの楽曲のインパクトの大きさから企画されて数十億人が視聴したとされるイベントが、「Live Aid」だった。
 映画『ボヘミアン・ラプソディ』では、一連のイベントの呼びかけ人であるボブ・ゲルドフがテレビカメラの前で「give us money」と訴えた有名なシーンまでが再現されていた。https://www.youtube.com/watch?v=vqwvkZ8xyYo 当時、私は高校生だったが、生放送で見たこのシーンで、ボブ・ゲルドフに「日本も参加している」と言及してもらったことは、よく覚えている。「我々の世代」は、「Live Aid」世代だ。
 複数ミュージシャンによる野外コンサートと言えば、1969年「ウッドストック」が音楽史に残る大事件だった。「Live Aid」は、その歴史を完全に書き換えた。「ウッドストック」は、「若者の反乱」といった反体制派のカウンター・カルチャーを象徴するものだった。1985年「Live Aid」は、ミュージシャンたちが、アフリカの飢餓への対応を訴えるために立ち上がるという、全く新しい考え方で、社会運動を巻き起こした事件であった。
 この「Live Aid」において、クィーンは内省的な1970年代の代表曲「ボヘミアン・ラプソディ」をへて、「We are the Champions」を聴衆とともに歌って、パフォーマンンスを終える。この流れ自体は、クィーンの定番なのだが、映画で観ると、そこに大きなメッセージがあったことを、今さらながらに痛切に感じた。
 「我々が世界だ(we are the world)」と歌ったミュージャンに魅せられて集まった「我々の世代」の聴衆たちは、クィーンとともに「間違いもあったが乗り越えてきた・・・、我々が世界のチャンピオンだ(we are the champions of the world)」と合唱しながら、国際協力への関心や関与を深めた。
 1985年は、国際政治学では、ゴルバチョフの登場によって冷戦の終わりが始まり、プラザ合意によって新自由主義的経済体制が進展した年として記録されている。わずか数年後、冷戦は「自由主義陣営の勝利」という形で終焉し、自由主義的価値観を基盤にした国際平和活動や開発援助や人道支援は、画期的な勢いで進展していった。そこにいたのは、「我々が世界だ」「我々がチャンピオンだ」と合唱しながら、アフリカの飢餓問題への対応を訴えた世代の人々だ。
 冷戦後の世界で、欧米諸国は政治・経済の両面で勢いを取り戻し、自信を取り戻した。牽引したのは、「ウッドストック」を経験した後、「Live Aid」に脱皮した、トニー・ブレアやビル・クリントンといった人々だった。
 今日の国際協力の現場は、もう少し複雑になっている。「自由主義の勝利」によって確立された国際協力の体制に順応しない中国が超大国として台頭し、権威主義的なやり方で体制安定と経済成長を目指す数多くのアフリカの指導者たちをも魅了している。
 だがそんなときだからこそ、映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見て、内省的な気持ちに浸りながらも、最後には再び「我々がチャンピオンだ」と歌いたくなってしまうのではないか。
 もちろんそこにはノスタルジックな自己陶酔がある。
 しかし、そうでなければ、我々「夢破れた僕らの世代」は、意気消沈していってしまうだけではないか。
 1985年当時、日本はそこにいたか。1991年当時、日本は何を思ったか。「ウッドストック」を夢見続ける団塊の世代の人々に対して、我々の世代は「Live Aid」をどう思い出していくか。
 30年余の時をへて、現在の世界において、現在の国力で、日本は何を目指すのか。映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見て、かつて音楽少年だった国際政治学者が考えるのは、そうした問いである。

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