「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

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 「『命か経済か』の不毛な論争を超えて~『Go To』問題の再整理を」という文章(http://agora-web.jp/archives/2049021.html) を書いた翌日の1121日、菅首相が、「Go Toトラベル」の運用見直しと、「Go Toイート」の見直しの方針を表明した。三連休の初日の夜の表明になったことで、混乱した印象は否めない。ただ、分科会提言をすぐに受け入れた連携については、妥当だったと考えたい。

 「Go To」がどれだけ感染を拡大させたのかについては、定かな証拠はない。ただ調査がなされていないし、大々的な調査をする余裕もないので、わからないと言うしかないだろう。

 要するに、現実に、止めたい新規陽性者の拡大が続いているので、国家事業で行っている新型コロナ対策の見直しをする、ということだ。それは仕方がないことだと思う。

前回書いたように、「Go To」の趣旨は、新型コロナを忘れて経済至上主義を貫くことではない。「ウィズコロナの時代の新しい生活様式」を普及させることだ。そうだとすれば、新型コロナ対策の観点から事業の改善を図るのは、当然だ。

 「Go To」をめぐっては、中止か、一時停止か、時短か、継続か、4人以下か以上か、東京を外すか入れるか、といった、やるかやらないか、あるいはその中間のどこか、といった議論しか見られない。もちろんこうした議論も必要だろうし、確かに調整政策の一部だろう。しかし、ただそれらだけでは、事業の趣旨にそった「新しい生活様式の普及」には必ずしもつながらない。

より具体的に言えば、たとえば、マスクと換気が、課題ではないか。

分科会も政府関係者も、あれほどマスクにこだわっている。これに対して一般には、マスクをしながら食事が楽しめるか、という反発が強い。このままうやむやになる恐れが強いと感じる。

論理的に解釈すれば、飲食店におけるマスク基準の厳格化には、反発が予想されるからこそ、マスクを励行する業者が不利にならないように、国家が「Go To」で後押ししようとしている、と考えるべきだろう。

より厳格なマスク基準を遵守しない顧客には、「Go To」特典を付与しないというルール作りの明確化があっても仕方がないのではないか。

業者側の努力も、現状では不明瞭ではないだろうか。新型コロナ対策で、換気装備を充実させた、複数の窓の開放だけでなく換気扇の位置を明示している、露出形ベンティエールを導入した、といった業者が「Go To」で恩恵を受けて、事業促進を後押しされた、という話を聞かない。

 より厳格な換気基準の適用を、「Go To」見直しを連動させるのは、仕方がないのではないか。

 日本の新型コロナ対策の最大の弱点は、法制度が十分ではないため、強制力のある措置がとれないためだ。そこで導入された「Go To」は、基準を遵守しない業者を罰するのではなく、基準を遵守した業者に特典を与える、という趣旨だろう。

 私個人は、憲法を改正して緊急事態条項を入れること妥当であり、必要だと考えている。感染症の問題だけをとっても、新型コロナだけで終わる保証はどこにもない。

 しかし当面の手段として「Go To」のような政策があるのだとしたら、その見直しの際には、あくまでも事業の趣旨に論理的に沿う形で、検討を進めるしかない、ということだろう。

日本医師会の中川俊男会長が、新型コロナの感染拡大と「Go Toトラベル」との関係について「エビデンス(証拠)がなかなかはっきりしないが、きっかけになったことは間違いない」と発言したことが、波紋を広げている。

この問題の背景には、結局われわれは何をしているのか、についての意識共有が図られていないことが存在していると思う。船橋洋一氏などは、「日本モデル」という概念を使うのは「日本特殊論だからダメだ」と言い続けているが、他国をどれだけ模倣できたかどうかを評価の中心に据えなければならない理由はない。http://agora-web.jp/archives/2048784.html 

Go To」をめぐる論争を考えるにあたっても、私たちが今何を目標にして、そのために何をしているのかを意識化する作業が、まず大切ではないかと思う。

「命を取るか、経済を取るか」の短絡的で不毛の論争が広がりすぎた。そこにいつのまにか、どうしても全てを政府の責任したい左翼勢力と、それに反発する勢力のイデオロギー論争がからみあってきて、大変なことになってきている。

日本は、2月の段階から、ウイルスの撲滅を目指すのではなく、「重症者中心主義」で「社会経済活動との両立」を基調とした「抑制管理」を目指している。http://agora-web.jp/archives/2048347.html

Go To」をめぐる論争も、まずはその点をよくふまえたうえで、行うべきだろう。

私は「第二波」の際に「日本モデルvs.西浦モデル2.0」という文章を連続シリーズで書き、最後は「日本モデル」の勝利を宣言して、終わりにした。http://agora-web.jp/archives/2047913.html その時の大きなテーマは、「第一波」の際に大きな論争を呼んだ「人と人との接触の8割削減」だけが新型コロナ対策なのか、あるいは日本が追求してきている「抑制管理」アプローチに妥当性はあるのか、ということだった。私が「日本モデル」の勝利を宣言したのは、過剰な「人と人との接触の削減」を求めることなく、新規陽性者数の抑制に成功したからである。

ただし「第二波」の抑え込みは、感染者数をゼロにしたことを意味せず、「第二波」以前の緊急事態宣言終了直後の状態に戻ったことも意味しない。「第三波」における医療施設の負担が「第二波」のときよりも大きいのは、「第一波」終了時ほどの低水準までには、入院者数などが下がっていないところから「第三波」が始まったためだ。そこに早くから予測されていたとおり、冬に入って「換気」の徹底が不十分になる季節では、新規陽性者数の拡大の力学が高まり、いわゆる「第三波」の状態への突入が始まった。したがって「第二波」への対応と全く同じ対応で全く同じ結果が得られるとは言えない。政府の分科会が10月の段階から冬に備えるべきことを提言していたように、https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/bunkakai/teigen_12_1.pdf また119日に緊急提言という形で記者会見も行ったように、https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/ful/bunkakai/seifu_teigen_14.pdf 「第二波」とはまた違う対応が求められていたことは間違いない。

ただ、それはもう「人と人との接触の8割削減」をするかどうかの選択ではない、ということは、はっきりしている。

ウイルス撲滅を目指して国家財政が破綻するまで全国民毎日PCR検査に狂奔するか、ウイルスなど存在していないと強弁して何もしないか、の選択肢も、検討されていない。

「命か経済か」で言い争う必要もない。

政府は邪悪で無能なので否定されるべきかどうか、の国民投票を実施する必要もない。

すべては過去10か月ほどの間に蓄積した経験と、さらなる理論的推論とを組み合わせて、より精緻に行う「抑制管理」の政策の問題だ。

その観点から「Go To」キャンペーンについて考えてみよう。

Go Toトラベル」のウェブサイトを見ると、次のような記述が見られる。

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Go To トラベル事業は、ウィズコロナの時代における「新しい生活様式」に基づく旅のあり方を普及、定着させるものです。https://goto.jata-net.or.jp/ 

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 「Go Toイート」のウェブサイトにも次のように書かれている。

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Go To Eatキャンペーンは、感染予防対策に取り組みながら頑張っている飲食店を応援し、食材を供給する農林漁業者を応援するものです。https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gaisyoku/hoseigoto.html 

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これらの事業趣旨は、全く国民に理解されていないと言っていいだろう。「煽り」系メディアの意図的な扇動報道によるところが大きい。ただ、与党政治家たちが、「経済は止められない」といった誤解を招く悲壮感あふれた発言を繰り返すために、誤解が助長されている面があることも否めない。

日本の「抑制管理」を目指すアプローチでは、社会経済活動を止めるのでなく、感染拡大を防ぎながら、社会経済活動を続ける方法こそが、重要である。そこで政府は、事業主が積極的に感染拡大防止策を導入することを推奨する目的で、十分な予防策をとっている事業者を選定し、広く公にし、その事業者の感染予防と両立した活動を奨励する目的で、「Go To」を導入しているのである。

したがってまずは、この目的を十分に周知徹底する「コミュニケーション」のあり方を検証すべきだ。

さらにチェックして奨励している「感染予防策」が、果たして適切で十分な内容を持ったものであるかを、一定期間をへた後に検証する作業も、当然あっていいだろう。それがなければ国民の信頼も得られないし、事業の趣旨にも合致しない。その際に、「Go To」に対して不信感を持っている方々の意見も、より具体的なレベルで、よく聞いてみたらいい。

「日本特殊論はダメだ!」と言われているうちに、本当に「命か経済か」の不毛なイデオロギー論争に陥ってしまい、これまでの日本の現実的で堅実な取り組みの意義が全否定されてしまうことがないように、切に願う。

(11月24日に上念司さんとの対談を収めた本が公刊されます。https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%8D%E5%AE%89%E3%82%92%E7%85%BD%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1-WAC-BUNKO-330-%E4%B8%8A%E5%BF%B5/dp/4898318304/ref=tmm_pap_swatch_0?_encoding=UTF8&qid=1605836014&sr=1-1 )

 9日、尾身茂・分科会会長の記者会見が久しぶりに開かれた。感染拡大傾向に入っているので、警戒心を持って取り組みたい、ということで、政府に行った対策提言の細かな説明がなされた。

 これに対して、質疑応答では、いつものように、生産的ではないやり取りが繰り返された。記者から「第2波と同じ波が来るのか」「欧米と同じ波が来るのか」といった質問が相次ぎ、尾身会長や脇田(国立感染症研究所)所長から「寒くなったら拡大するという見方にエビデンスはない、そういう傾向があるとしても今日語っているのは人間のファクターが大きいということ」という説明が繰り返された。

 記者たちは、相変わらず専門家に気象予報士のような役回りを期待しているらしい。あるいは西浦主義の余韻だろうか。「42万人死ぬ、もし8割削減すれば撲滅できる、中間はない」という考え方がこびりついてしまっているらしい。

 記者たちに限らず、気になるのは、新型コロナウイルスの流行に「波」があることが当然視されていることだ。冬を迎える日本には「第3波」が到来している、ということらしい。それでしきりに人々が、「第3波は大きいのか小さいのか」云々といったことを心配しあっているのである。

 社会科学者として痛切に感じるのは、この「波」という概念が「物象化」されて独り歩きしているということだ。あたかも海の波と同じような自然現象であるかのように捉えられてしまっている。

しかし、言うまでもなく、ウイルス感染の「波」は、単なる比喩の表現でしかない。

 自然現象としての海で起こる本当の「波」は、人間が関知することなく発生する。たまたま人間のいるところを襲ったりするだけだ。これに対してウイルスの流行は、人間が自分たちで作り出している現象である。ただ、意図せず無意識のうちに作り出しているだけで、人間的な営みの結果として流行が発生することに違いはない。実際には、「波」など存在していない。存在しているのは、ウイルスを伝播させている人間の活動だ。

 物理的には存在していない事柄を、抽象概念で表現しているうちに、あたかも物理的に存在しているかのように誤認していくのは、社会科学者が「物象化」と呼ぶ錯誤である。

 かつてマルクスは、人間の労働という具体的な行為が商品経済を通じて法則化されて人間を支配していく「物象化」を、資本主義のメカニズムの中に見出した。その後、「物象化」は、具体的な人間の行為の総体が抽象化されて人間を支配するようになる現象一般を指す言葉として、使用されるようになった。

 ニーチェは、「雷が光る」という言い方は間違いで、「光っているのが雷だ(ある種の光の現象を人間は雷と呼んでいる)」と言うのが正しいと指摘し、人間の暴力的な抽象化思考が主語にならないものを主語にして人間の思考を支配している有様を、そして主語を隠ぺいすることによって人間が認識者としての自らの行為の介在も隠ぺいしてしまう偽善を、指摘した。

 難しい話は置いておこう。

要点は、「波」は自然現象ではなく、人間的な営みだ、ということである。

 ウイルスが人間社会に侵入すると、人間の行動を通じて、人間の間で、ウイルスの伝播が広がる。「第1波」だ。そこで流行を抑制する行動を人間がとると、「第1波」が終了する。ところが抑制行動を緩和させると、「第2波」が到来する。そこで抑制行動をさらに調整すると、「第2波」が終了する。このプロセスが繰り返されるのが、「波」という比喩を用いてグラフ上で可視化させている現象である。「第3波」の場合、たとえば冬を迎えて窓の開閉を面倒がって喚起しなくなることが感染の拡大傾向に影響しているとしたら、暖房方法の改善という政策努力で、「波」は抑制可能である。

 いたずらに「今度の波は大きいかもしれない、怖いから高台に逃げよう」といった自然現象の津波の対策と同じようにウイルスの流行への対策を考えるのは、愚の骨頂である。そのように考えると、「全国民毎日PCR検査で感染者を全部あぶりだして周囲にいるかもしれない感染者から逃げよう」という発想しかできなくなる。

 また、「波」が小さくなったのはウイルスが弱くなったからだ、というふうに、常に外部条件にのみグラフの曲線移動の理由を求めることも、正しいとは思えない。人間的な営みとしての「波」の発生と、抑制策の繰り返しを、あたかも完全に自然現象であるかのようにみなすことに、私は懐疑的である。

 いわゆる「第2波」が到来したとされていた時、日本では新規陽性者数に対して死者数が抑制されていた。これをもってウイルスが弱毒化した云々といった議論もあったが、実際には高齢者や慢性疾患者の致死率(だけ)が高いことがさらに広く知られて社会的防衛の方法が進んだことや、治療方法の進展があって、致死率が下がったのではないか。少なくとも万人に対して等しくウイルスの殺傷性がなくなったわけではない。

 グラフを見てみよう。日本の「第2波」は、「第1波」と比べて、一日当たり新規陽性者数では2倍程度の大きさになっているように見える。Japan 20201109

 ところが一日当たり死者数で見ると、3分の2程度の大きさで抑制された。Japan 20201109death

これを見てウイルスが弱毒化した、と考える人もいたが、証拠がないと思う。人為的な努力によって死者数が抑制された、「第2波」では、「第1波」の時以上の学習効果が働いた、と評価する方が、より自然だ。

 現在、ヨーロッパを巨大な「第2波」が襲っているとされる。これは私に言わせれば、巨大な「第1波」に対する厳しいロックダウンなどの対策の効果が薄れた後に発生している現象である。日本と比したときの欧州諸国の「波」の大きさや長さの違いは、流行の度合いや社会政策の度合いによって決まっている。

 致死率だけを見ると、ヨーロッパ全域で劇的な改善が見られる。「第1波」を大きく超える新規感染者が発生しているにもかかわらず、「第1波」を上回る死者数を記録している国はない。日本と同じで、学習効果が働いていると評価することができる。

 日本と異なるのは、絶対数が大きい(波が大きい)まま振れていることだ。抑制していても、感染拡大の規模が大きくなりすぎれば、やはりなお看過できない絶対数にまで死者数も達する恐れがあるために、次々とロックダウンに踏み切ることになる。欧州でとられているのは、日本の「第2波」対策よりも、強い措置だ。しかし、春先の「第1波」に対する措置と比べれば、各国とも緩和した措置だけをとっている。なぜなら、死者数の相対的な抑制を図りながら、日本と同じように「医療崩壊を防ぐ」を判断基準にして、社会政策の内容を決定しているためである。

 現在のヨーロッパで注目すべきは、たとえばオランダだろう。致死数を下げて、「第1波」の死者数を上回る状態に達する前に、緩和された社会政策で、「第2波」の新規陽性者数の抑制に成功し始めたように見える(ベルギーも似た傾向があるが、相対的に成績が悪い)。

 グラフを見て一目瞭然だが、オランダの「第2波」の一日当たり新規陽性者数は、「第1波」の際の約10倍の高水準に達した。
netherlands 20201109

 だが「第2波」の死者数は、現時点で「第1波」の際の半分を超えた程度の水準である。netherlands 20201109 death

もちろん、死者数は、陽性者数の遅行指標と考えるべきものなので、今後数週間にわたって死者数の増加が見られることはほぼ確実である。しかし逆に言えば、新規陽性者数がピークアウトしたのであれば、死者数もピークアウトする。最終的には、「第1波」の10倍の新規陽性者数で「第1波」と同程度の死者数になった、ということになりそうである。この場合、致死率は10分の1程度にまで下げた計算になる。

 ヨーロッパでは様々な条件から、日本よりもいまだ「波」が大きい(陽性者数と死者数の絶対数が多い)。オランダとベルギー以外では、まだ「第2波」の抑制の糸口が見えていない。むしろ一部の国、特にフランスの状況は非常に悪い。ただヨーロッパが目指しているのは、日本とほぼ同じものである。恒常的な対策と、段階的な社会政策の導入による抑制管理が、進められている。オランダが目に見えた結果を確定できるかどうかは、注目点だ。

 オランダ政府は「インテリジェント・ロックダウン」の概念を好んで用いて、部分的かつ段階的な社会政策を導入する姿勢をとっている。11月に入ってからのピークアウトは、10月中旬に導入した飲食店の閉店措置によるものだろう。ただしその他の目立ったロックダウン措置はとられておらず、日常生活の中での一層の配慮が求められているだけだ。国境封鎖も導入されていない。

オランダでは、10月になってからようやく公の場におけるマスク着用が要請されるようになっただけで、マスク着用率も日本と比べると非常に低い。その他の社会行動の変容も、日本人からすれば「手ぬるい」ものだ。とはいえ、ソーシャル・ディスタンスや除菌剤などは普及しているし、喚起の重要性なども徹底されてきているので、全般的に気を付けていないわけではない。「知性的な対応」を強調しているだけあり、少なくとも「第1波」の段階と比して目に見えた改善は図っている。

私は、ここまでくると、一概に日本のほうがオランダより優れている云々といったことはあまり言えないと思っている。オランダはもともと高齢者の安楽死を合法化しているような国だ。新型コロナの犠牲者数の捉え方も、日本と全く同じではないだろう。何を、どのように、いつ行うかは、議論を通じて決めるべき政策判断事項なのだ。

そもそもウイルスの蔓延をゼロにしたいのであれば、全国民に強制的に睡眠薬を飲ませて何か月も眠らせておくしかない。そうではなく、社会的に持続可能性のあるやり方で抑制管理を図りたいのであれば、どの程度の水準での抑制を目指して、どのような措置を、いつとっていくかを、しっかりと議論して判断していかなければならない。

「波」は自然現象ではない。人間が作り出しているものである。尾身会長が、「人間のファクターが大きい」と説明しているのは、そうした意味だ。そのことを意識化せず右往左往していたのだとしたら、意識化しよう。そして、何を、どこまで、いつやるのかを、人間自身がしっかりと考えて決めていく、という政策判断を行っていこう。

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