「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

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  ソレイマニ司令官殺害事件についていくつか文章を書いているうちに、憲政史家・倉山満氏のことが気になってきた。人気著述家である倉山氏のことは、私も気にしている。倉山氏の最新刊『ウェストファリア条約』は公刊後すぐ、昨年のうちに読んでいた。

倉山氏は、憲法と国際法に関して、私とは真逆の立場をとる方である。倉山氏は、アメリカが起草した現行憲法を無効と考える一方、明治憲法を高く評価する。興味深いのは、倉山氏が、国際法についても似た立場をとることだ。現代国際法を評価せず、古典的な国際法を評価する。

倉山氏の『ウェストファリア体制』は、グロティウスを天才と呼び、1648年ウェウストファリア条約以降の国際法体制の素晴らしさを訴える本だ。なぜかと言えば、ウェストファリアによって、「殺し合い」が横行していた30年戦争が終わり、暴力を独占する主権国家による「戦争」だけに暴力が整理されたからだ。

学術的に細かい議論は、捨象しよう。倉山氏の歴史観は、基本的には、全く正統である。絶対王政下時代の主権国家の原則によって、「戦争」という制度が確立された。

宗教戦争の虐殺が繰り返される状態から脱しようとしたヨーロッパの知識人たちは、主権国家という制度を強調した。主権国家による国内の治安装置と、「宣戦布告」を経た主権国家による対外「戦争」だけに、「正統な暴力」を限定した。それは、宗教戦争を防ぐという課題に対応する方法であった。

ヨーロッパ公法における主権の絶対性は、宗教戦争の途方もない「殺し合い」を終わりにするための装置であった。実際、この社会法制度の革命によって、ヨーロッパは暗黒時代を脱し、主権国家の絶対性を通じた発展の時代を迎えたのである。

ただし19世紀までの古典的なヨーロッパ公法の時代は、ヨーロッパで成立した、ヨーロッパ中心主義的なものであった。そこで倉山氏は、「日本語としてのウェストファリア体制」は1907年に確立された、と語る。その理由は、1907年に、日仏協商・日露協商が結ばれ、各国が東京に大使館を置くようになり、大日本帝国が名実ともにヨーロッパ列強と肩を並べる非ヨーロッパ大国になったからである。つまりヨーロッパ公法が、大日本帝国の参入を得て、遂にヨーロッパを超えた国際法になった瞬間が1907年だった、というわけである。

残念ながら、この国際法は、ほんの7年の短命なものだった。なぜなら第一次世界大戦をへて、国際法は大きく刷新され、ヨーロッパ公法の時代は終焉していくからである。

倉山氏は、アメリカの影響で刷新された20世紀以降の国際法を、糾弾する。グロティウスが作った古典的な国際法を壊してしまった、ウッドロー・ウィルソンのアメリカを拒絶する。

 

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欧州公法は、日本人の手によって国際法となったのです。それを、一人の狂人がぶち壊しました。その狂人とは、ウッドロー・ウィルソン。世界の誰にとっても不幸な、第一次世界大戦の時のアメリカ大統領です。(『ウェストファリア体制』222223頁)

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倉山氏は、民族自決原則を取り入れて世界を大混乱に陥らせたことなどで、ウィルソンを糾弾する。特に深刻なのは、ウィルソンが「戦争の違法化」を推進したことである。「戦争」が廃止されてしまえば、「ウェストファリア体制」は崩壊する。なぜなら宣戦布告して主権国家が開始する「戦争」だけが正当な暴力でなければ、「殺し合い」の世界が復活してしまうからだ。

現実には、ウィルソンの考えにしたがって、国際連盟規約が作られ、1928年不戦条約へとつながり、1945年国連憲章が生まれた。国連憲章では、「戦争の違法化」は、「武力行使の一般的違法化」として定式化されるまでに至った。

主権国家が正式に宣戦布告する「戦争」であれば全て合法だが、そうでない暴力は全て違法、というヨーロッパ公法の考え方が廃止され、現代国際法が生まれた。20世紀以降の現代国際法では、主権国家が宣戦布告しても、侵略行為の武力行使は、違法である。代わりに、宣戦布告などをしなくても、侵略行為に対抗するための「自衛権の行使」や「集団安全保障」は、合法である。

現代国際法は、合法性の判断基準を、「主権国家の宣戦布告」から切り離した。そして国際法秩序に反する武力行使なのか、国際法秩序を維持するための法秩序なのかに、判断基準を変更した。

このウィルソン以来の「国際法の構造転換」が、すでに発生してしまった事実であることを、倉山氏は知っている。知ったうえで、それはダメなことだった、と倉山氏は断じている。

この主張は、学者にはできない。現代国際法は狂人が作り出したおかしなものだ、とは、とても学者では言えない。

もっとも例外は、日本の憲法学者だ。日本の憲法学者だけは、いまだに世界は19世紀ヨーロッパ公法に支配されているかのように語る。ただし憲法学者がそのような国際法蔑視の態度をとるのは、19世紀ヨーロッパ国際法とともに、現代国際法を拒絶し、「憲法優位説」を打ち立てるためであろう。

これに対して倉山氏は、むしろ大日本帝国憲法と19世紀ヨーロッパ公法こそが、取り戻すべき素晴らしい世界だ、と主張するのである。

ヨーロッパ公法の「ウェストファリア体制」が続いていれば、ソレイマニ司令官殺害が合法的であったかどうかを議論する必要もなかった。主権国家の宣戦布告があったかどうか、だけが判断基準だったら、何も議論しなくていい。トランプ大統領の頭には、宣戦布告などなく、そもそもイランという国家を攻撃したという考え方すらない。「テロリスト」を排除した、という発想方法しかなかった。

早川忠考氏は、自衛権を認めると、「弱肉強食の野蛮な世界」が生まれ、http://agora-web.jp/archives/2043710.html 「悲惨な事故」が招かれる、http://agora-web.jp/archives/2043710.htmlと主張している。日本の法律家としても、今日では希少となった自衛権否定論である。

もし絶対平和主義を採用しないのに、自衛権を否定するのであれば、あとは「ウェストファリア体制」の復活しかないだろう。合法性の判断基準を、「主権国家が宣戦布告をしたかどうか」だけに還元するという方法である。主権国家の「戦争」は合法だが、それ以外の武力行使は単なる「殺し合い」で違法だ、という世界観を復活させるしかない。

議論としては、一つの立場である。倉山氏の議論は、思考のトレーニングとして、一つの洞察を含んでいる。

だが、現実には、21世紀の世界は、19世紀のヨーロッパとは、全然違う。現代世界で、19世紀ヨーロッパ公法を復活させるなどという試みは、あまりにも壮大すぎる。

第一次世界大戦から第二次世界大戦に至る現代国際法が生まれた時代は、ヨーロッパ「帝国」の崩壊の時代だ。ヨーロッパの帝国が潰し合いを始めたのが、第一次世界大戦だ。ウィルソンは、その説明をマルクス=レーニンだけに委ねて、共産主義が世界を支配してしまうのを防ぐために、自由主義にもとづく国際秩序を構想した。

その後の脱植民地化の歴史を通じて、ヨーロッパの帝国は完全に消滅した。そして、無数の脆弱な新興独立諸国が生まれた。国家の数が200近くにも増加した20世紀後半以降の新しい国際社会において、19世紀ヨーロッパ公法の主権の絶対性に依拠するだけの秩序を導入することは、不可能ではないか。

1648年ウェストファリア条約から1914年第一次世界大戦に至るまでの間に、国家の数は激減した。絶対主権の審査が厳しすぎたのだ。「宣戦布告があれば戦争は全て合法」の秩序は、ヨーロッパの帝国すら、崩壊させた。
 現代国際法は、初期の目的を達成している。今日の世界では、国家間戦争は、ほとんど起こっていない。現代世界の武力紛争のほぼ全ては、内戦か、あるいは内戦が近隣諸国を巻き込んで国際化したものである。テロリスト集団のような非国家主体が闊歩する「非対称戦争」がほとんどだ。
 新しい対応策が必要になっている。だが、それでも自衛権を否定したり、ヨーロッパ公法の復活を唱えたりすることが、現実に可能だとは思えない。現代世界の国際法秩序を強化しながら、新しい対応策を考えるしかない、と私は考える。

 トランプ政権が発足した直後の2017年初頭、私は、「トランプの「ジャクソン主義」について」という文章を書いた。http://agora-web.jp/archives/2024257-2.html トランプ大統領は「孤立主義者」だといった政権発足当初の「識者」の方々の描写に、納得ができなかったからだ。

 「ジャクソン」とは、第7代合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンのことである。日本では明治以来の「ヨーロッパ中心主義」が根強すぎるため、「200年近く前のアメリカの田舎の大統領など知らない」、という学者が多い。しかしジャクソンは、アメリカの政治思想史における超重要人物の一人である。

 「ジャクソニアン・デモクラシー」で知られるジャクソンは、「庶民(common man)の味方」として知られ、アメリカ政治を大衆化した人物だ。そのため19世紀前半のアメリカの民主主義運動は、「ジャクソニアン・デモクラシー」として知られている。

ただし同時に、ジャクソンは、苛烈な人種差別主義者でもあった。黒人差別は言うまでもないが、ネイティブ・インディアンに対する徹底した虐殺は、米国史においても、際立ったものだった。独立後の北米13州の「市民」たちの間では、まだネイティブ・インディアンとの共存する考え方があった。しかし、19世紀になってから合衆国に加入した南西部州の「市民」たちは、黒人を奴隷として使いながら、ネイティブ・インディアンを抹殺すべき邪魔者とみなしていた。

その「市民」たちの利益を代弁したのが、ジャクソンだ。「ジャクソニアン・デモクラシー」の時代に、アメリカ大陸のネイティブ・インディアンたちは、政治共同体としての存在を、抹殺された。

ところで、1990年代の日本に、強烈な存在感を放っていたBlankey Jet Cityというバンドがあった(今日では椎名林檎さんがBlankey Jet Cityのブランキーの熱狂的ファンであったことが有名だ)。Blankey Jet Cityの代表曲に「悪いひとたち」がある。この曲は、このような歌詞で始まる。https://www.youtube.com/watch?v=xzX4xCqLcRs&list=RDxzX4xCqLcRs&start_radio=1&t=2 

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悪い人たちがやって来て、みんなを殺した

理由なんて簡単さ そこに弱い人たちがいたから

女達は犯され、老人と子どもたちは燃やされた

若者は奴隷に 歯向かう者は一人残らず皮を剥がされた

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 ネットを見ると、このブランキーの歌詞を見て、旧日本軍の大陸での行為を考える人もいるらしい。しかし、Blankey Jet Cityである。この「悪い人たち」の冒頭で参照されているのは、ジャクソン大統領だ、と言わざるを得ない。ジャクソンがネイティブ・インディアンたちに対して行った残虐行為は、Blankey Jet Cityの歌詞だけで物足りないくらいに、残虐なものだった。

 このBlankey Jet Cityの「悪いひとたち」という曲は、「第三次世界大戦のシナリオライター」を乗せた「ガイコツマークの俺の黒い車」に轢き殺されることになる黒人の「恋人」が身ごもっている「お腹の赤ちゃんはきっと可愛い女の子さ」、というフレーズで終わる。ボーカルのブランキーが「きっと可愛い女の子だから」と繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し叫ぶところで、Blankey Jet Cityの「悪いひとたち」という代表曲は終わっていく。

 ジャクソン主義の虐殺の後、独立戦争をへて、アメリカ合衆国の理想は確立された。

多くの人々は、したがってアメリカの理想とは、暴力と偽善の上に成り立っているものだ、と言うだろう。それは真実である。

 ただし、国際政治学者ならば、必ずしもそういう言い方を選択しないかもしれない。

果たして人類の長い歴史において、虐殺に手を染めたのは、アメリカ人だけだった、と言えるのか?

ジャクソン主義の虐殺をへて、「アメリカの世紀」と呼ばれる理想主義的な20世紀の国際社会の秩序は確立された。

実はむしろ、アメリカ人とは、虐殺の血塗られた歴史を引き受けるために、理想主義の旗を掲げ続けることを誓った国民のことではなかったか?

日本は、アメリカとの間で、「決勝戦としての最終戦争」(石原莞爾)を戦った後、アメリカの同盟国となって生まれ変わった国である。

ソレイマニ司令官殺害は、残酷な事件であった。ただし、人類の歴史が始まってから最も残虐な事件であった、などといった偽善的ことは、言わないでおこう。

日本は、野蛮なアメリカのトランプ大統領とは、一切全く無縁だ、などといった偽善的なことは、言わないでおこう。

国際政治学も、国際法も、国際社会が残虐なジャングルであることを知っている。アメリカが残虐な歴史を持った国であることを知っている。

それを知った上で、理想を掲げている。

 私ですら、トランプ大統領が、人格的にも優れた、素晴らしい大統領だ、などとは思っていない。

 だが、そのことは、トランプ大統領の政策が全て間違っていて、トランプ大統領の行動からは何も生み出されることがない、ということを証明しない。

 国際政治は不条理だ。日本人は、国際政治を、誤解している。つまり、国際政治は、驚くべきほど、哲学的なのだ。

  先日「トランプ大統領よりも冷静さを欠く野党」という文章を書いた。http://agora-web.jp/archives/2043682.html 野党の皆さんには申し訳ない題名だが、野合ではなく、政策で頑張ってほしい、という気持ちのゆえである。

 関連して、ソレイマニ司令官殺害事件以降、日本で、「トランプ大統領の行動なんて全て選挙に勝つためにやっていることさ」、といった文章が大量生産されているのが気になる。トランプ大統領の頭に政策なんてないさ、ただ選挙に勝とうとしているだけさ、という訳知り顔の文章である。たいてい分析の一つもない皮相な言葉の羅列である。

 わけがわからない。これは評論家のほうが無責任だ。

 政治家が選挙に勝とうと思わなくなったら、民主主義の終わりではないか。代議制民主主義は、選挙を通じて政治家の行動をコントロールできる、という考え方によって成り立っている。

 選挙民は、間違った政策をとる政治家を好まず、良い結果を出す政治家を好む。選挙は、世論調査とも違う。選挙民は、長期的に望ましい結果をもたらす政策を好み、合理性がなく破綻していく政策を見捨てていく。

したがって、重要なのは、「政治家が選挙に勝とうとしている!」、などと当たり前のことを指摘することではない。重要なのは、その政治家の政策は本当に多くの選挙民に評価される政策であるか?という問いだ。その政策は、数年後の選挙で政治家を勝たせる政策か、政治家が勘違いでとってしまった政策か、を問わなければならない。

 「この政治家は選挙で勝とうとして行動している!」などと指摘する暇があるのであれば、むしろ「本気で選挙に勝つために合理的に行動しているか」という視点で、政治家を評価すべきだ。

 日本の野党はどうだ。いかにも選挙に勝つ気がない。現有議席数を維持するために固定ファンにアピールすることだけしか考えていない。あるいは金の取り合いと揶揄されるような合併騒ぎで、選挙民の信頼を手放していく。

選挙で勝つために合理的な行動をとることを目指さず、既得権益の維持ばかりを目指す政党ばかりになったら、民主主義は終わりだ。溶解していく。

 トランプ大統領の独特のスタイルを見習え、とは言わない。しかし、既存政党も飲み込んでしまったあの強烈なアピール力は、日本の野党に最も欠けているものではないか?

どうやったら次の選挙で勝てるのか、毎日毎日、真剣に自問自答を続け、ぎりぎりの中で見出した政策論を国民の前に投げかけている野党政治家が、今の日本に、どれくらいいるのか。

自分ほど日本の将来を憂いている者は他にはいない、自分の政策論こそが絶対に最も国益にかなう、という言葉を、国民に真剣に投げかけている野党政治家が、いったいどれだけいるのか。

 政治家や政党が選挙に勝つことを目指すのは当然であり、そうしてくれなければ困る。問題は、どれだけ真剣に選挙に勝とうとしているのかだ。

 選挙民は、確保したい利益を持っている。そのために、選挙民は、国政を託すのに最善と思う人物・政党に、投票したい。仮に一度間違えたと思えば、次の選挙では違う投票行動をとりたい。

大事なのは、政治家が、本当に「次の選挙」「次の次の選挙」で勝つために悩みぬいているか、だ。

 次の選挙で絶対に勝つ、自分自身の力で必ず勝つ、そういう気概を、日本の野党政治家に見せてほしい。

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