「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

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 緒方貞子・元国連難民高等弁務官が10月29日に他界した。緒方氏の業績について、私がここで書く必要はないだろう。私は学生時代に難民を助ける会というNGOに出入りしていた。そのつながりで1991年湾岸戦争後のクルド難民支援の現場に行ったのは、最初に体験した国際的な緊急人道援助の現場だった。その当時、UNHCRの存在感は、圧倒的だった。国連機関の中でも圧倒的だった。大学を卒業する頃の私には、UNHCR職員の全てが格好良く見えた。そのUNHCRを指導する緒方氏は、テレビ等で見るたびにほれぼれするほど、格好が良かった。
 今、SNSでも緒方氏を悼むメッセージが多数見られる。いずれももっともな気持ちの表現になっている。ただ、しかし、私自身は、なぜかそうしたメッセージを出す気にならない。自分が多感な20歳代を緒方氏のUNHCR時代で過ごした人物であるだけに、私は、SNSで「緒方氏を悼む」などと書く気になれない。
 緒方氏は、不遇の境遇にあった難民・避難民のために心を砕いていた。疑いのない事実だ。だが、そのことだけを描写し続けるのは、足りないと思う。
 現代世界の難民・避難民数は7000万人をこえており、緒方氏の時代の数をはるかに上回る。どうなっているのか。緒方氏を悼む際には、そのことにもふれるべきだろう。 しかも、それだけではない。
 むしろ私にとって、一番印象に残っているのは、UNHCR職員の現場での殉職に直面し、怒りの声を上げていた緒方氏の姿だ。追悼集会で「Enough is Enough(もう十分だ)」と叫んでいた緒方氏の姿だ。最高責任者が職員の殉職に対して見せた、あの真剣な怒りに接すればこそ、UNHCR職員は、またあらためて危険地での職務に向かって行った。
 2018年に殺害された援助関係者の数は、131人を数えた。140人が負傷し、130人が誘拐された。2017年の殉職者数も139人だった。2019年も、それ以上のハイペースで、犠牲者が出続けている。緒方氏がUNHCRを率いていた時代よりも犠牲者数はさらに増えているのだ。だが、以前ほど注目されていない。実は国連PKO要員も年間100人近くという高い水準で毎年殉職者が出ているのだが、日本では特に、全く報道もされていない。世界的な武力紛争数・犠牲者数の増加と、対テロ戦争の拡大の情勢を見ながら、日本に暮らす者の感覚は、世界の現実から、さらにいっそう離れてきている。
 たとえば、緒方氏が他界したその翌日の10月30日、南スーダンでは、エボラ出血熱の拡大予防に従事していたIOMという国連機関の援助関係者が、政府軍と武装勢力の間の交戦に巻き込まれ、3人が死亡した。しかも、もう1人の職員だけでなく、殉職した職員の4歳の息子が誘拐されるという衝撃的な事態も起こった(*犠牲になったのは南スーダン人スタッフである可能性が高い)。解放を訴える国際的アピールがなされている。 https://news.un.org/en/story/2019/11/1050421?utm_source=UN+News+-+Newsletter&utm_campaign=81f03345a3-EMAIL_CAMPAIGN_2019_11_01_05_05&utm_medium=email&utm_term=0_fdbf1af606-81f03345a3-105785473     
 今、この瞬間、人道援助の現場で殉職し続けている援助関係者がいるにもかかわらず、それらに注意を払うことなど全くなく、ただ、「ああ、緒方さんは素晴らしい日本人だったなあ、緒方さんの死を悼もう」、などといったことだけをのんびりと言い続けるのは、もっとも緒方氏的ではない姿勢だ。職員の殉職に心の底からの怒りの叫びをあげた緒方氏の姿勢から、もっとかけ離れた態度だ。
 現代世界に紛争犠牲者があふれているが、終息していく見込みがあるわけではない。その現実に目を向けて、「緒方氏は偉大な日本人だ、緒方氏の死を悼もう」、とだけ言い続けるのは、あまりにも緒方氏的ではない。
 「憲法9条は交戦権を否認している、交戦状態に巻き込まれたら、憲法違反だ!、われわれ日本人は一切絶対に交戦状態に関わってはいけない!」、とデモ行進し続ける狂信的9条主義者が、緒方さんの死を悼む、などと言っているのを見ると、正直、心の底から陰鬱な気持ちになる。
 緒方氏は、日本人も世界に目を向けよう、と言い続けていた。世界の趨勢から目をそらし続けながら、ただ緒方氏を悼むことだけに専心するのが、日本人のあるべき姿なのだとしたら、私は緒方氏に申し訳ない気持ちになる。 

 森ゆう子議員による、台風が東京を直撃する前夜の深夜まで質問通告を行い続けた問題(と名誉棄損の疑いがある発言問題)が騒動になっているようだ。この問題の背景に、野党による日程闘争と、官僚にブラック労働を強いる文化がある、という指摘がなされている。http://agora-web.jp/archives/2042273.html

 この問題の根は深いな、と私も思う。思い出す言葉がある。まだ20代半ばだったときだ。私の留学先のLSEには、日本の官僚の方々もよく留学に来られていた。その中のお一人と、中央省庁の官僚機構ではなぜ度を越した残業が常態化しているのか、という話をした。そのとき、「第一の理由は民主主義だから」、と言われたことが妙に心に残った。それから四半世紀が立っているが、まだ覚えているのだから、本当に耳に残ったのだ。

 なぜ民主主義をとると、官僚が深夜まで連日残業することになるのか?

 「国会議員の先生は大変に偉い方々なので、無茶な要求であっても、国会議員の先生方の要求に従わなければいけないから」、であるらしい。

 知識先行で世の中のことを知らない大学院生であった私は、その説明に、非常に強い印象を受けた。不思議な説明だと思ったのだ。

ただし、今でも不思議さの感覚は、なくなっていない。

 言うまでもなく、これは単純な問題ではない。こうした日本の議員=官僚関係の文化から、かえって「忖度」だけでなく、「面従腹背」のような不健康な文化もはびこってくる。実際に、多くの社会問題の温床になっているのだが、誰も不思議には思っていないようだから、改善はされない。

 私は「働き方改革」の流れで、対応すべきテクニカルな要素もあるとは思っている。そもそも国会議員の数が多すぎるので、議員数を減らして議員スタッフを充実させるべきではないかという学者的な考えも持っている。

 しかし本質はそこではないだろう。本質は、日本における民主主義の理解の問題である。

 実際、森ゆう子議員は、批判に対して、「質問権への侵害で、重大な民主主義への挑戦だ」と反論しているという。https://www.zakzak.co.jp/soc/news/191017/pol1910170004-n1.html 憲法51条の議員特権と、憲法41条の国会の「最高機関」の規定を根拠に自己の正当化を図るということらしいが、これが正当な主張なのか、憲法規定の濫用にあたらないのかは、野党議員と親交の深い憲法学者の方々のご意見を拝聴したい論点である。

 いずれにせよ、国会議員は憲法によって最高の地位を保障されている民主主義の代表者だ、という意識が働いてくるため、官僚機構の職員に過度な負担がかかる。民主主義の絶対権力の行使者によって、官僚が強制労働を強いられているという気持ちが生まれる。台風前夜の深夜残業が問題になったのは、テクニカルな問題というよりも、人間の「尊厳」にふれてくる問題だという意識があったためではないか。奴隷扱いをされた、という意識が広がったことが、問題の噴出につながっているのではないか。

 「働き方改革」は、「尊厳」を保って働けているという感覚の問題を軽視して、テクニカルな側面ばかりに目をやって処理するならば、失敗するだろう。

 国会議員は官僚に対して主人のような立場にある、という理解は、本当に民主主義の根幹をなす考え方なのか。

 国会は、本来、国会議員同士が議論をする場だ。しかし、日本では、そうなっていない。立法府職員が行政府関係者を問いただす場になってしまっている。
 議会制民主主義の本質は、議論をすることの大切さだ。権力関係の確認ではない。

 日本の国会が、立法府の議員同士が議論をする場ではなくなり、行政府vs国会議員という対立構造が常態化している場になってしまっていることが、問題の温床だ。

 日本にいるとほとんど忘れてしまうが、本来は、国会議員同士、与党議員と野党議員が議論を戦わせるのが、国会の主任務である。国民はそれを見て、問題の性格を知っていくように期待される。

 ところが日本では、議員同士が全く議論をしない。ただ、国会議員が、行政府関係者に質問をし続け、行政府関係者が回答をし続けている。

そこに一部の憲法学者が、「権力を制限するのが立憲主義なので、アベ政治を許すな」という風潮を広めるので、あたかも野党議員が行政府を攻撃すると立憲主義が進展するかのような誤解も生まれてくる。そして、実際に本当に権力を持つ首相はまだしも、なぜかそのあおりを受ける行政府職員が、「民主主義」や「立憲主義」を振りかざす権力行使の対象とされてしまう。

しかも、自民党が長期政権化し、野党が万年野党議員化する中で、行政府を野党議員が追求する場と化しているのが、日本の国会の実情になっている。政党間関係が固定化された不健康な考え方の中で、議員が、行政府職員に対して、民主主義の絶対性を理由に、権力関係の確認をするかのような行為に及ぶことが、憲法の名において許されてしまうような文化が助長されている。

 一時期、官僚主導の国会答弁を排して「政治主導」にするべきだという議論があり、官僚による答弁が減った。しかしポイントは、政治家と官僚の間の権力関係にあるのではない。国会において議員同士が議論をしていないことが問題だ。

 議会制民主主義は、議論をすることよって人間の社会は発展する、という信念によって成り立っている。立法府議員が行政府職員に質問をすることは、その一部ではあっても、本質ではない。

 森ゆう子議員問題の根は深い。

 「表現の自由について憲法学者2人が語ったこと。」という題名の記事を読んだ。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191006-00010005-huffpost-soci&fbclid=IwAR310TnJNUm3aJYVw8DRZYWnfL-c2KC635tRqFP64WZDKilan9haDhNtyxI 記事元の「ハフポスト日本版」は朝日新聞の共同事業で、執筆は朝日新聞が担当している。

この記事の執筆者の朝日新聞社記者は、憲法学者は、憲法で規定されている「表現の自由」の専門家だ、という位置づけで、「表現の不自由展」をめぐる批判への反批判に、その専門家を利用することを狙ったようだ。この朝日新聞社記者は、題名や冒頭説明を用いて、「国際芸術祭『あいちトリエンナーレ2019』の企画展「表現の不自由展・その後」に関して、憲法学者が不自由展を擁護する声を上げた、という印象を作り出そうしている。しかしそれは、残念な印象操作と言わざるを得ないものだ。

 曽我部真裕教授が語っている「表現の自由の根本理念」のフランス革命や1976年ヨーロッパ人権裁判所の判決などを参照した説明は、せいぜい大学の一般教養課程の一般論の話である。その内容は、今回の「表現の不自由展」の具体的な問題の説明にはなっていない。

 どうも記事の執筆者である朝日新聞社記者は、曽我部教授の講義を、「表現の不自由展」への批判者への批判として読ませたいようだ。しかし、「表現の不自由展」を批判する人々に、「表現の自由」の講義をしてみたところで、何も変わらない。その人たちは「表現の自由」にもとづいて「表現の不自由展」を批判するのだ。批判者の表現の自由も、当然、憲法21条は保障している。

 もちろん批判に威嚇の要素があったりするのであれば、別の次元の問題として扱うべきだ。しかし、「表現の不自由展を批判するのは表現の自由に反する」という話を作り出そうとするのであれば、それはおかしい。「一切の表現の自由は、これを保障する」という憲法21条を理由にして、対立する議論の一方だけを保障の対象とし、それに対する批判を禁止しようと試みるのは、明らかにおかしいのである。

 おそらく、曽我部教授は、記事の執筆者が期待することを言っていない。しかし明らかに朝日新聞社記者が印象操作を狙った記事である。

横大道教授の発言は、公権力が芸術の内容に口を出すべきではない、という趣旨が強調されている。題名からすると、横大道教授が、表現の不自由展への批判を批判しているかのように見える。しかし横大道教授の話は、単に一般論であるだけでなく、今回の事件とはあまり関係がないもので、なぜ引用されているのかがわからない。今回の表現の不自由展では、公権力である愛知県は、表現を圧殺している側ではなく、表現の自由を主張する側に立っているからである。むしろ愛知県が表現の自由を主張することが適切であるかどうかが、今回の事件の論点である。

調べてみると、横大道教授は、正しくそのことを朝日新聞デジタルに書いたが、朝日新聞は紙面に載せることを避けた、といった出来事がかつてあったことが指摘されている。https://www.jijitsu.net/entry/triennale-hyougennojiyuu-yokodaidou 

憲法学者としての権威に訴えて、表現の不自由展への批判を禁じる、ということになると、むしろ表現の自由を不当に抑圧する行為である恐れが出てくる。憲法学者なる社会的権威を振りかざしてそれを行おうとするのであれば、むしろ憲法21条違反の恐れが出てくるはずだ。

 「憲法学では『間に専門家・専門機関を挟んで判断を委ねよう』という考えがある」、という発言には、恐怖を感じる。憲法学者が定義する「専門家」は、憲法学者らで構成されるのではないか、と想像してしまうからだ。http://agora-web.jp/archives/2032313.html しかし横大道教授は実際にはそうは言っていない。朝日新聞記者の印象操作だろう。

 「表現の不自由展」への公金支出の是非を問う議論は、基本的に憲法21条とは関係がない。むしろ憲法89条「公金その他の公の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用、便益若しくは維持 のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」の観点から、論じていい問題である。

 いずれにしても、日本のマスコミは「憲法学者=答えを知っている人」といった図式を振り回した安易な印象操作で記事や番組を作る悪弊をやめるべきだ。

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