「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

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 長谷部恭男教授の最新刊『憲法の良識』(朝日新書)を読んだ。驚嘆した。憲法学者による著作群の歴史の中でも、ここまで徹底した他者否定と自己肯定は、珍しいのではないか。
 公平に言おう。この本は、長谷部教授へのインタビューの内容がまとめられたものに過ぎない。また、最後に付け加えられた長谷部教授が自身の人生を愛読書と共に振り返る箇所などは、面白いところもある。
 それにしても、である。冒頭から一本調子で延々と続き、最後にまた繰り返される徹底した他者否定と自己肯定は、強烈だ。特に目を見張るのは、他者否定と自己肯定が、「憲法学者であるか否か」、という基準によって展開していくことだ。
 
私は門外漢ながら、『集団的自衛権の思想史』と『ほんとうの憲法』を執筆した事情もあり、これまで主要な憲法学の学術書は、読み込んできたつもりだ。しかし今回の長谷部教授の本は、すごい。異次元レベルの自己賛美の書ではないだろうか。
 
学術的な内容面を見れば、『憲法の良識』のほとんどは、平凡な憲法の説明と、これまでの長谷部教授の著作からの抜粋である。むしろ強い印象を受けるのは、平凡な一般論が、突然、具体的な結論と、それに続く侮蔑の言葉につながっていくところである。
 
通常、長谷部教授は、自分が批判する相手の議論を引用したり、具体的に参照したりもしない。ただ侮蔑する。
 
「不思議な議論がここ数年つづいているので、まともに法律を研究している人たちや、憲法学者たちはみんな、まじめに耳を傾けるべき話なのか、正直なところ、とまどっているわけです」(25頁)といった言い回しは、長谷部教授の議論の仕方に慣れている者にとっては、お馴染みといってもいいレトリックである。こういう場合、長谷部教授は、なぜそう言えるのかを、説明しない。具体的な議論に引き込まれる余地を作ることも避ける。そして、ただ、一方的に高みに立とうとする。
 
具体的に反論してくる可能性がなさそうな政治家のような人物であれば、名前をあげる。しかし曲解した形でのみ参照する。そしてレトリックを重ねたうえで、最後はやはり侮蔑の言葉で結ぶ。
 
長谷部教授が繰り返し執拗に糾弾し続ける、安倍首相の例を見てみよう。長谷部教授は、安倍首相の改憲提案には、理由がない、と断定する。なぜなら「考え方の分かれるところではありますが、自衛隊を違憲としない政府解釈を受け入れている憲法学者は、私をふくめ数多くい」るからだという。そのうえで、長谷部教授は、安倍首相にとって「改正論議は国の利益のためではなく、おじいさんから受け継いだ自分の思いを実現するためのもの」だと断定し、「公私混同もはなはだしい」と述べる(2426頁)。
 
しかし、本当に安倍首相は、憲法学者全員が自衛隊違憲論者だ、と主張しているのだろうか。というよりも、憲法学者の間で違憲か合憲か総意がない状態がもたらす不都合を解消するために、「改憲論争に終止符を打つ」ことが必要だと言っているのではなかったか。政策研究をやれば、わかる。解釈が曖昧であるがゆえに、政治や行政に壮大な無駄が存在している。総理大臣が、憲法解釈を確定させて、壮大な無駄を取り除きたいと考えるのは、それほど奇異な話ではないように思う。
 
だが長谷部教授は認めない。「少なくとも私が知る限り、憲法を変えるべきだ、といっている人たちは、その理由も必要性も、明確には示していない」と主張し、「安倍さん自身も、じつは憲法を変える意味がどこにあるのか、本当のところはわかっていないのではない」か、と言う(2426頁)。
 
しかしわからないのなら、まずわかるための努力を、長谷部教授が、するべきではないだろうか?誰かを批判する際には、まず相手を理解する努力を払うのは、いわば社会人としてのマナーのようなものだろう。「憲法学者たちはみんな、まじめに耳を傾けるべき話なのか、正直なところ、とまどっている」、などとブツブツつぶやく前に、まずはとりあえず耳を傾けてみたらどうなのか。
 
過去の著作からの焼き直しを取り除き、こういった一般論⇒結論の断定⇒侮蔑レトリック、の繰り返しの中から、しかし議論の流れを何とかつかもうとするならば、この本で長谷部教授が主張していることは、以下のように要約されるように見える。

 
1. 憲法学者以外の者は、憲法について語るべきではない。
 
2. 憲法学者は、「知的指導者」であり万能の「医者」である。
 
3. 憲法学者が卓越しているのは「良識」を持っているからである。

 
第一に、長谷部教授は、憲法学者ではない者が憲法を語っているという状況それ自体を、嘆く。

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「このところ、日々憲法について発言する人々の顔ぶれを見ると、その大部分は、憲法の専門家ではない人たちです。専門外の問題について憶することなく大声で発言する、その豪胆さには舌をまくしかありませんが、こうしたフェイク憲法論が世にはびこることには、副作用の心配があります。これは高血圧に効く、あれは肥満に効くといわれるリスクの中には、にせグスリもあるでしょう。・・・その結果として起こるおかしな事態は、最初におかしな言説をとなえた人たちだけに悪い影響をもたらすわけではありません。日本の社会全体に悪影響が及びます。」(203-204頁)

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もちろん一般論として、おかしな憲法論がはびこれば、おかしな事態が招かれるのは確かだろう。しかし「おかしな憲法論」とは「憲法の専門家ではない人たちの憲法論」のことだ、と一般論レベルで断定するのなら、理由を示すべきだ。少なくとも何か具体的な事例をあげるべきだ。しかし、長谷部教授は、まったく根拠を出さない。何も出さず、むしろレトリックにレトリックを重ねて、断定し続ける。

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私がよく使う比喩ですが、私にはアイスクリームを食べる権利があります。しかし健康のことを考えて、アイスクリームは、食べるとしても一日一個だけにするというきまりを自分でつくっているとしましょう。・・・それと同様、国際法上は、日本には集団的自衛権があることになっている。しかし、自国の安全と国際の平和のことを考えて、日本としては憲法で、個別的自衛権しか行使しないことにしている、ということに何の矛盾もありません。(108-109頁)

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だから何なのか?いったい誰が、アイスを二十個食べさせろ、と要求しているのか。集団的自衛権の違憲性の議論と、全然関係がない。それを言うなら、集団的自衛権合憲論は、食べる一個のアイスは、バニラでもチョコでも同じだ、と言っているに過ぎない。
 
長谷部教授は、茶化すような煙に巻く話だけをするのではなく、なぜ日本国憲法が集団的自衛権を禁止していると断言できるのかについて、真面目な議論を提示するべきだ。内閣法制局見解は変わってしまったのだ。いつまでも内閣法制局長官を取り換えたのが気にいらないといったことをブツブツ言いながら、ただアイスの話を繰り返すのではなく、「専門家」らしい精緻な集団的自衛権違憲の議論を発表するべきではないか?正直、アイスの比喩は聞き飽きた。
 
第二に、長谷部教授は、憲法学者を、憲法学者であるという理由で、称賛する。

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「憲法の専門家といわれる人々―主に憲法学者ですが―は、長年にわたって憲法をいろいろな角度から観察しているので、問題が単純でないことが分かっています。・・・憲法に限らず、法律学は、お医者さんの仕事と似たところがあります。お医者さんの仕事は、この病気にはこのクスリを処方すればいい、ですむことはありません。この患者さんにはアレルギーはないか、ほかに持病はないか、別のクスリを常時服用してはいないか、クスリが効かない特異体質ではなど、いろいろなことに注意する必要があります。・・・憲法の専門家の仕事もそうしたところが大いにあります。」(204-205頁)

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法律家は、医者のように振る舞うべきだ、という意見は、特に異を唱えるほどのものではない。しかしだからといって、ただ憲法学者でさえあれば、医者のように振る舞うことができる、と断定できるはずもない。本来、優れた医者であればあるほど、一方的に相手の意見を侮蔑したりせず、むしろ理解するための努力を最大限で払ったりするものなのではないだろうか。
 
言うまでもなく、憲法学者以外の者も、副作用に気を遣い、様々なことを気にかけているつもりだ。「憲法の専門家」だけが、物事を単純にとらえない高級人種だと主張するのであれば、その根拠を示すべきだ。
 
ひょっとしたら、むしろ憲法学者こそが、「憲法優越説」を振り回し、「法律家ではない者は相手にしない」、といった「単純」な態度をとりがちな人々だとしたら?憲法学者はあまりに卓越しているので、無知な者たちの会話を聞くことすら拒絶する、といった態度が、まさに「問題を単純」化する態度だとしたら?
 
しかし、長谷部教授自身は、もちろん憲法学者の卓説性を信じて疑わない。わざとらしく引用という形をとった、もったいぶった言い方で、長谷部教授は、次のように書く。

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「(シモン・サルブランさんによれば、)日本において憲法学者というのは、ほかの国にはない知的指導者としての位置を占めている、これはなかなかないことである。典型は樋口陽一である・・・。そうかもしれないと思うのは、イギリスにしてもアメリカにしても、ほかの国では、厳密な意味での憲法問題についてしか、憲法学者の意見が求められることはないということです。その点、日本は少しちがいます。厳密な意味での憲法問題でなくても、憲法学者はどう考えているのか意見を聞かれることがある。そこは他国と少しちがう、日本の特殊なところかもしれません。ですから、憲法のきらいな人からみると、憲法学者がいばりすぎだ、口を出しすぎだ、と頭にくることがあるのかもしれない。もっとも、自分だって目立ちたいのに、というただの嫉妬心からかもしれませんが。」(198-199頁)

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長谷部教授によれば、憲法学者が憲法以外のことを語るのは、憲法学者が「知的指導者」だからである。他方、憲法学者ではない者が憲法について語るのは、憲法学者に「嫉妬」しているからである。
 
この徹底した憲法学者絶対主義を肯定するために、長谷部教授は、第三に、驚くべき主張をする。憲法学者だけがなぜ「知的指導者」なのかと言えば、それは憲法学者だけが「良識」を持っているからだというのである。
 
たとえば憲法92項の「戦力」禁止規定で、自衛隊の保持は認められないのか、と疑問に感じる時が、「法の解釈が求められる典型的な場面」、つまり専門家としての憲法学者の専門性が問われる場面だ、と長谷部教授は主張する。そこで憲法学者は何をするのか?「良識」を働かせるのだという。日本が攻撃されても政府が何もしないのは「非常識なこと」である。「あまりにも良識に反します。」そこで憲法92項にかかわらず、自衛隊は合憲になるのだという。ということは、憲法学者ではない普通の人々が誰でも「良識」を働かせて、同じ結論に至るということなのかな?と思うと、そうではない。なぜなら「良識」にもとづいた「法の解釈」ができるのは、長谷部教授のような憲法学者だけなのだから(33-35頁)。
 
長谷部教授によれば、「良識」ある憲法学者でないと、毎日毎日アイスを二十個ずつ食べ続けるらしい。放っておけばどうせ憲法学者以外の者は毎日アイスを二十個ずつ食べ続けるので、「良識」を持った「法の解釈」ができる憲法学者が必要になる。
 
憲法学者とは、「良識」を持った「法の解釈」ができる者である。憲法学者ではない者とは、つまり「良識」を持った「法の解釈」ができない者のことである。
 
もし本当にそうだとすれば、長谷部教授が「憲法学者だけが知的指導者」であると信じることも、確かに何ら奇異なことではない。それは「良識」の問題であり、「常識」の話なのだから、一切、論証の必要もないと言わんばかりに振る舞うことも可能になってくる。
 
なぜ憲法学者だけが「良識」を知っているのか?と聞くのは、野暮である。憲法学者だけが「良識」を持っているという確信こそが、「良識」そのものなのであり、そのように信じない者は、つまり「良識」がない者なのである。
 
長谷部教授の『憲法の良識』は、日本の戦後憲法学が遂にたどりついた、ある意味で前人未到の到達点ではないか。憲法学の長い歴史でも、自己肯定と他者否定が、ここまでの境地に至ったという例を、私は知らない。
 
「知的指導者」にして唯一の「良識」人である「憲法学者」の方々は、今こそ「隊長」長谷部教授のもとに参集し、「これで憲法学者だけが良識を持ち、憲法学者だけが知的指導者であり、憲法学者以外の者は憲法を語ってはいけない、ということが明らかになりましたね!」、と言いあい、お互いを祝福しあうのだろうか。
 
今や日本の憲法学は、いよいよ本格的に、まさに世界で唯一の、他に一切類例のない、ものすごく特別なものになろうとしているのかもしれない。ひょっとしたら、「ガラパゴス」などという言葉では、足りないかもしれない。

 先日、上杉勇司・早稲田大学教授と藤重博美・法政大学准教授のお二人が編者となった新著『国際平和協力入門』の出版にあわせたシンポジウムに参加した。私も一章を執筆した本だ。https://www.amazon.co.jp/国際平和協力入門-国際社会への貢献と日本の課題-上杉勇司/dp/4623081656/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1524064715&sr=1-1&keywords=%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%8D%94%E5%8A%9B%E5%85%A5%E9%96%80
 
上杉さんとはもう二十年近い付き合いか。外務省「平和構築人材育成事業」も10年以上、一緒にやっている。藤重先生は、1992PKO協力法ができた頃に抱いた強い気持ちで国際平和協力を研究する道を選んだ、と「あとがき」で書く方だ。
 冷戦が終わり、日本も国際貢献をする新しい時代に入ったと、1992PKO協力法ができたときに多くの人々が思った。当時、大学(院)生だったりしたわれわれも、そのように思っていた。私自身、1993年に、カンボジアPKOに選挙要員として行った際、「自衛隊の海外派遣は違憲だと思わないんですか!」といった質問ばかり浴びせかけられた。しかしそれも新しい時代の「産みの苦しみ」のようなものだろうと、思っていた。
 しかし、その考えは違った。あれから四半世紀がたったが、何も変わっていない。相変わらずの中身のない政局。硬直した左右対立の図式。相手を糾弾するためだけの強い言葉の羅列。正論を避ける薄っぺらな議論。そして国際貢献に献身した方々に対する全く不当な扱い。
 
自衛隊は違憲なのか、合憲なのか。日本は国際貢献したいのか、したくないのか。日報に「戦闘」という言葉があると違憲なのか、何なのか。結局、表面的な話題を取り換えていくだけで、延々と同じ人々が同じ構図で同じ対決をしているだけのように見える。国際貢献など、ただの美辞麗句であり、都合よく捨てられる。
 
日本では、国際平和協力活動について語っていると、自分が反時代的な人間であるような孤独を感じるときがある。
 
シンポジウムでは、細谷雄一・慶応大学教授が、まとめの挨拶をされていた。細谷さんは、外交史が専門だが、私や上杉さんと同じような世代で、印象深いことを言った。
 
1992年、PKO協力法ができたとき、若者だったわれわれは、国際貢献をする新しい時代が到来する可能性に、胸を躍らせていたのだ。
 
細谷さんは言う。「夢は破れた」、と。
 
ああ、本当にそうだな、と、聞きながら、思った。われわれの「夢は破れた」のだ。
 
騙された、とは言わない。全く予想していなかった、わけでもない。だがこんなことになる可能性だけしかなかったわけでもないはずだ。変化は起こってもよかったはずだった。だが起こらなかった。認めよう。「夢は破れた」、と。
 
日本は、イラクに派遣されて困難な仕事にあたった自衛隊員の方々が困難な状況の中で書き続けた日報を、全て公開させたうえで、「『戦闘』という言葉があるじゃないか!」、といった調子で扱う、そういう国になり果てた。
 
国民の間でも支持が高く、日本が正当な国際社会の一員になるために必要な活動だという理解が広く共有されているにもかかわらず、実際には、できない。憲法が禁止しているからだという。
 
そうだろうか。嘘ではないだろうか。憲法を、特定の思想にもとづいて、特定の仕方で解釈する、特定の業界の人が力を持っているから、できないだけではないだろうか。
 
PKOをやるなとまでは言っていない」、と言うかもしれない。しかし「これはダメ、あれはダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ、ダメ・・・、日報で『戦闘』という漢字を使うこともダメです」。
 
それでも「まあ、PKOをやるな、とまでは言わないでおいてやる」、と言ってもらえるのであれば、深々とお辞儀してお礼を言わなければならないのか。
 
全ての責任は憲法学者にある、と言いたいわけではない。しかし日本の国際貢献の「夢は破れた」、という感覚。この感覚を持って、われわれは、これからの人生を生きていく。この不満をどこにぶつけて生きていけばいいのか。
 
日報に「戦闘」という言葉があった?だから?
 
困難な環境における困難な仕事を、現場で必死の努力で遂行していた人たちに、「日報に『戦闘』という文字があったから、問題だ」、と言う?はあ?
 
まるで四半世紀前の24歳のときに日本で感じたような、焦燥感を覚える。
 
明日、ニコニコ動画「国際政治」で、二時間+α、世界の紛争問題を語り続けていい、という企画をもらった。http://ch.nicovideo.jp/morley 心の底から深く感謝する。こういう番組をやらせてもらえるのだから、まだ人生は投げ出すほどのものではないのだ。そう、自分に言い聞かせよう。

 「木村草太教授の学説は憲法学界を代表しているのか」という題名のブログを書いた。http://agora-web.jp/archives/2032139.html 木村教授は、集団的自衛権は「軍事権」なるもので行使されるが、「軍事権」が憲法に規定されていないので、集団的自衛権は違憲なのだと言う。ちなみに個別的自衛権は「行政権」なので合憲だという。
 初めの一歩の「軍事権」が空想物のようにしか聞こえないので、「消去」されていると言われても、謎々みたいな話にしか感じられない。
 行政権とは別だということは、「軍事権」というのは、三権分立から離れた「第四権」か。もっとも日本だけは「消去」しているので、日本の三権分立は無事だ。ところが日本以外の世界の諸国は、集団的自衛権を認めているので、「第四権」である「軍事権」なるものを持っているらしい。諸国の三権分立はどうなるのか???
 その後、匿名の方からのブログへのコメントで、「軍事権のカテゴリカルな消去」という発想の起源は、やはり石川健次・東京大学法学部教授だろう、と教えていただいた。石川教授は、それで自衛隊違憲論の立場にあるという。
 「軍事権のカテゴリカルな消去」は、もともとの発想では、自衛隊違憲・非武装のドクトリンであったのだ。そこに個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲だ、という落としどころを付け加えたのが、木村草太教授のようだ。
 自衛隊が違憲になるか、合憲になるか、について全く違う結論を導き出しても、同じ一つ憲法学の通説を持っていることになるというのだから、憲法学界というのは、なかなか大らかな学界だ。
 ついでなので石川健治教授の「前衛への衝迫と正統からの離脱」論文から引用しておこう(面倒な方は飛ばして読んでください)。

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軍隊を消滅させることによって軍事力統制の課題そのものの解消を企図した現行憲法九条は、日本の議会政治へのdefinitionalな制約条項としての意味をもちえただろう。すなわち、同条は、第一に、議会の立法権行使に関し、軍編成権(軍政)に関しては、その組織法制定権限に制約を課す、という(消極的な)法的権限規定の側面、第二に、そうした組織法制定権限の制約(その結果としていわゆる軍令の領域も原理的に存立しえなくなる)根拠として、平和主義の理想という―――「民意」をも超える―――高次の正統化根拠を提示しているという側面と、第三に、それに伴い政府が軍事予算を計上することが不可能になる、という意味での財産権の限界規定の側面とを、もっていたはずである。にもかかわらず、戦後の国会は、消極的権限分配としての九条を破って、自衛隊法という組織法を制定するに至ったのであり、しかも、裁判所が憲法判断を回避している現状のもとで、自ずと第二および第三の側面に過重な負担がかからざるをえなかったのが、戦後における軍事力統制の特異性である。すなわち、平和主義という正当化根拠によって自衛隊の正統性を剥奪するとともに、GNP一パーセント枠というそれ自体何の理論的根拠もない財政権の限界規定(その場合に御大蔵省の果たした役割は大きい)により、辛うじて軍事力のコントロールをし、国家機構における権力バランスを維持してきたというのが、戦後の憲法史の現実ではないかと思われる。」(116117頁)

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 この名文によって、今や「カテゴリカルな軍事権の消去」は、憲法学通説となった、ということのようである。ただし自衛隊が違憲なのか、合憲なのか、個別的自衛権だけは合憲なのか、やはり違憲なのか、まだわからない。『憲法判例百選』の解説者陣へのアンケート結果の集計を待たなければならないのか。
 ちなみに石川教授の「前衛への衝迫と正統からの離脱」論文の「結論」はどうなっていたか。引用してみよう(途中で辛くなる方は、飛ばして先に読み進めてください)。

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近代的主体なるものが、その種の―――連帯関係のレベルでの―――哲学者の妄想において確立されてきたのではなく、主体を実際に確立するに際しては―――法関係のレベルでの―――われわれ法律家の力によるところも少なくなかったことを考えると、そうした妄想が我々の議論を根底から覆すと考えてあわてる必要はない。むしろ、社会的価値評価の水準での文化的開放の動きとの関連を、慎重にかつ繊細に見極めてゆくことが重要であるように思われる。そのひとつの手がかりを、本稿は<前衛への衝迫>と<正統からの離脱>という対称軸に求めて、これと憲法学サイドの「期待の地平」(H.R.Jauß)との関係を、試験的に考察してきた。そして、そうした状況下で立憲主義者が心がけるべきは、詩人TS・エリオット風にいえば、現行憲法を擁護するという意味では保守主義者であること、前衛への衝迫から自由であるという意味では古典主義者であること、そして<文体>の実験がもつポテンシャルに開かれてあるという限りでモダニストであること、ではないだろうか。これが本稿筆者のさしあたりの結論である。」(122123頁)
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 それで、結局、「第四権」=「軍事権」はあるのか、ないのか?
 『憲法判例百選』解説者アンケート結果が出ていないので、どちらだかわからないような不安に襲われる。
 大日本帝国憲法下では「統帥権」があったのに、日本国憲法にはないなら、それは「統帥権のカテゴリカルな消去」を示しているのではないだろうか???
 
木村教授は、「軍事」を「他国の主権を制圧して行う活動」と定義する。http://webronza.asahi.com/politics/articles/2014102500005.html ということは、「軍事権」は「他国の主権を制圧」する権利?それを日本以外の世界の諸国は持っている?
 
(ちなみに、集団的自衛権は、支援対象国の同意にもとづき、その国の主権を侵害している脅威を除去することを支援する行動だ。集団的自衛権にもとづく行動は、「他国の主権侵害を除去して回復させることを支援する活動」、なので、軍事力を用いても、木村教授の言う「軍事権」の行使には該当しないだろう。)
 
近代憲法は、三権分立を大原則にしている。その前提から、国家の機能のうち立法と司法の機能を除いた全ての機能が行政機能と分類されると考える「行政控除説」は、ほとんど常識化している通説だろう。行政控除説に異を唱える学説もあるようだが、だからといって行政権の外側に「軍事権」がある、などという話につながるわけでもない。三権分立を、近代国家の立憲主義の根源的考え方の一つとみなす限り、あらゆる国家機能は、三権のどこかに帰属すると考えるのが原則であるはずだ。
 
三権分立の考え方にしたがえば、軍事組織を創設する権能は立法権(Legislative power)にあり、軍事組織を運用する権能は、「執行権/行政権(Executive power)」にある。日本国憲法にそって言えば、「国務を総理する(conduct affairs of state)」ことに含まれると考えるのが自然だ。
 
「軍事権」=「統帥権」=「第四権」を主張する木村ドクトリンは、世界最先端の画期的憲法論か、ガラパゴス憲法論の究極的な形態か。

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