「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文その他の情報や、時々の意見・解説を集めています。以前にホームページとして掲載していた情報ともリンクさせています。

 前回のブログで山尾議員の改憲案について書いた際、「憲法裁判所」設置の改憲案は危険ではないか、と書いた。http://agora-web.jp/archives/2029686.html
 英米法思想の強い影響を受けた日本国憲法体制で、アメリカ型の付随的違憲審査制をとっているのが、現在の日本の制度である。憲法裁判所制度は、ドイツやフランスを代表とするヨーロッパ大陸諸国で採用されているもので、判例法重視の英米法の伝統にはなじまない。拙著『集団的自衛権の思想史』や『ほんとうの憲法』で論じたが、本当の日本国憲法典はアメリカの影響が強いものだが、その解釈方法を独占的に論じてる日本の憲法学ではドイツ国法学的な伝統すら根強い。憲法典と憲法学の間のギャップは、憲法裁判所の導入によって、劇的なまでに白日の下にさらされることになるだろう。
 独裁的な権限を持ちうる憲法裁判所の設置は、国政を混乱に陥れいれる危険性をはらむ。導入するのであれば、十分な議論と準備と管理が必要だ。たとえば裁判官の選定にあたっては、万が一にも、「憲法学者だから」、といったことを理由にした安直なやり方があってはならない。客観的な評価に耐えうる業績を持ち、人格的に高潔であることが条件になるのは当然だが、さらに、政治的偏向がない人物であることも、極めて重要な要件となる。http://agora-web.jp/archives/2029309.html
 各裁判官推薦者の能力・人格・政治的偏向などを徹底的に審議検討し、議決を経て正式候補を認定する手続きを確保するべきだろう。国民審査をへるまでは裁判にあたってはいけない、などの規則を作っておくことも大切だ。
 現在二つの憲法学会の長を同時に務める長谷部恭男教授は、次のように述べる。

「法律の現実を形作っているのは法律家共同体のコンセンサスです。国民一般が法律の解釈をするわけにはいかないでしょう。素っ気ない言い方になりますが、国民には、法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかないのです。」 (『朝日新聞』2015年11月27日)

 憲法裁判所の場合、「法律家共同体」どころか、「憲法学者共同体」に、圧倒的な権限を与えられるかもしれない。現行憲法の三権を凌駕する超越的権限を持ちうるとすれば、現在の社会秩序を転覆させる革命的な独裁主義を内包した制度となる。設立されれば、多方面に甚大な影響を与えるだろう。
 「安保法制を廃止せよ」、「アベ政治を許さない」、といった時局的かつ党派的な関心だけで、独裁制に道を開く制度を歓迎してよいのか、よく考えてみるべきだ。
 私の見解を述べれば、どうしても必要でなければ、そのような危険な制度は、ないほうがいい。私は、山尾議員の改憲案に反対する。

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 なお上記の点についてさらに強く思ったのは、前回のブログ掲載の後に届いたコメント群を見てである。http://shinodahideaki.blog.jp/archives/22400236.html#comments 
 国際法と憲法の話をすると、必ず紋切り型のコメントが届く。何度も聞いたことがあるパターン化された紋切り型である。日本の法学教育では、よほど徹底して紋切り型コメントに関する教育がなされているらしい。それはあくまでも司法試験受験「法律家共同体」の中で徹底されているにすぎない紋切り型だろう。しかしその「共同体」に、独裁的な権限が与えられるとどうなるのか。憲法裁判所の行方も不安にならざるをえない。
 何度も何度も個別に紋切り型コメントに対応するのは、率直に言って煩雑だ。以下にまとめて書いておき、今後はこのブログを参照するだけにしておきたい。

1.「憲法優位説が学会の通説だ」
 こういう紋切り型コメントを発する人に、「国際法優位説など主張していない」と何度言っても、聞いてくれない。こちらが面倒になって話をやめるまで、「憲法優位説」という言葉を呪文のように唱え続ける。要するに「憲法学は天上天下唯我独尊」だ、という態度なのである。
 「殺人罪なんていつでも無にできる」と、「憲法優位説」にもとづいて刑法学者にケンカを売る人いないだろう。ところが、ひとたび「国際法には自衛権の規範がある」、といった話をすると、すぐに怒った人が現れて「そんなことを言うのは国際法優位説だ、しかし学会通説は憲法学優位説だ、したがってお前は間違っている」、という反応になる。
 日本国憲法98条2項は、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と定め、条約の遵守を求めている。憲法41条で「国権の最高機関」と定められている国会が審議して批准した条約で、「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することができない」(条約法条約27条)という規範も、日本は遵守している。
 国内法体系と国際法体系を矛盾のないように「調和」させる努力をするのが、憲法典の要請である。すでに成立した規範体系は、そのような努力の結果だという前提をかけるのが、日本国憲法典が予定している秩序観である。
 これは対立が生じたときにどちらが優位するか云々といった類の抽象的法理論の問題のことではない。憲法典が持っている国際協調主義の理念を否定するのは、端的に、反立憲主義的である。

2.「憲法学が正しい根拠は、憲法学の基本書だ」
 憲法学の通説が偏向しているのではないか、という指摘をすると、すぐに怒った人が現れて、「お前は間違っている、なぜなら権威ある憲法学の教科書にこう書いてある、大学の憲法学の講義でこう聞いた・・・」という話が始まる。
 「いや、私が言っているのは、まさにあなたが引用しているその基本書が偏向しているのではないか、ということなのですが・・・」と言っても、全く聞いてくれない。
 「統治権」やら「国家の自然権的自己保存」やら、ドイツ観念論丸出しの議論は、私に言わせれば、実定法的根拠を欠いた単なる漫談である。ところが、そう言っている私に対して「何を言っているんだ、ホラこの教科書も統治権と書かれている、ホラこの教科書にも統治権と書かれている」などといったことを延々と羅列してくる方もいる。http://agora-web.jp/archives/2029005.html
 「あのお・・・、貴方が引用されている無数の教科書類は全て、『実定法上の根拠がない話が憲法学の伝統になっている』、という私の指摘を補強するだけなのですが・・・」と私が言っても、全く聞いてくれない。
 判例を引いてくるのは重要な法律論である。憲法学会の通説にも、それなりの意味はあるだろう。だがそのことと、「お前は間違っている、なぜなら憲法学の基本書の内容がお前の言っていることと違うからだ」、と主張し、異端者を排除する態度を徹底することとは、違う。「憲法学者の基本書は絶対無謬の聖書のようなものであり、何人も逆らうことが許されない」といった「二者択一」主義は、独裁主義を用意する危険な考え方だ。

3.「統治行為論だから最高裁は信用できない」
 日本の裁判所は「統治行為論」を採用している、だから信用できない、という話が、驚くべきほどにまで流通している。憲法学から発しているものだ。しかしたとえば1959年砂川事件最高裁判決を、「統治行為論」だ、と断定し、「だからダメだ」と結論づけるのは、真面目な議論と言うよりも、政治的イデオロギーで偏向した議論だと言うべきだろう。http://agora-web.jp/archives/2029642.html 

4.「戦前の復活だ」
 日本には、半世紀以上にわたって「戦前の復活」の予言がなされ続けている。世の中のどんな事象を見ても「戦前の復活」につなげるのである。「戦前の復活」論は、いわば紋切り型思考のチャンピオンだと言ってよい(拙著『ほんとうの憲法』第3章参照)。
 結論を「戦前の復活」と決めたうえで、そこに至る道筋だけを競い合うのは、いわば夏休みの宿題コンテストといった類のものだ。「僕は、緊急事態条項がナチス・ドイツの復活だ、という議論で戦前の復活を予言してみました」、「僕は、安保法制が徴兵制を必然的にする、という議論で、戦前の復活を予言してみました」、「僕は、特定秘密保護法案が『いつか来た道だ』、という議論で戦前の復活を予言してみました」、「僕は、篠田英朗が三流蓑田胸喜だ、と言うことで戦前の復活を予言してみました」・・・。
 「コンテスト」は、仲間内で行うだけなら無害なのだが、具体的な他者を否定したいという政治的意図で開催されることも多いので、質が悪い。
 しかも国際的には標準とされている話まで、日本では「戦前の復活」と言われることが多い。日本以外の国々では、「戦前」ばかりが流通しているようだ。戦後世界を生きているのは、世界最先端の憲法を持つ日本だけのようである。壮大な盲目的民族主義の物語だ。

5.「お前は従米義者だ」
 こういった腑に落ちないやり取りが続いていってしまう社会構造の問題の核心にあるのは、日本人が持つアメリカへの屈折した思いだろう。
 本来、戦前の復活だけを警戒するのであれば、満州事変などで悪用された個別的自衛権のほうを警戒しなければならない。集団的自衛権は、枢軸国を打ち破った連合国側のドクトリンだ。それがいつの間にか話がすりかわって、個別的自衛権=善、集団的自衛権=悪、になってしまうのは、1960年代末のベトナム反戦運動や学生運動の体験に過剰な思いれがあり、その思考枠組みにとらわれているからだ。したがって私は、集団的自衛権違憲論を、団塊の世代中心主義と呼んでいる。
 以前のブログで「長谷部恭男教授の立憲主義は、集団的自衛権違憲論を説明しない」、と書いた。http://agora-web.jp/archives/2029141.html それでは何が集団的自衛権違憲論を証明するのか。反米主義である。
 反米主義を感覚的に事前に共有している人々の間では、集団的自衛権違憲論は、論証抜きで広まる。そうでない人々の間では、広まらない。
 もともとベトナム戦争に反対する運動が巻き起こっている中で沖縄返還の離れ業を達成した談合政治の時代の政治家たちが、「集団的自衛権は違憲なので、仮に国際法的には行使している状態があっても、憲法的にはやっていない」、という詭弁を作り出した。1960年代末以降の冷戦後期の思潮を反映した反米主義者と親米主義者の妥協の産物が、集団的自衛権は違憲だ、という物語であった(拙著『集団的自衛権の思想史』参照)。
 今日でも長谷部教授の議論で、集団的自衛権を違憲論の基盤になっているのは、アメリカの戦争に巻き込まれたくない!、といった情緒的な話である。「自国の安全が脅かされているとさしたる根拠もないのに言い張る外国の後を犬のようについて行って、とんでもない事態に巻き込まれないように、あらかじめ集団的自衛権を憲法で否定しておくというのは、合理的自己拘束」(『憲法と平和を問い直す』162頁)だという。
 それでは、日米安保条約の廃棄を求めるのだろうか。よくわからない。「憲法学に仕切らせろ」と登場してくる場面と、「ここは沈黙しておこう」の場面は、現在、完全に憲法学者の裁量に任されている。しかし憲法裁判所裁判官になったら、そのような態度は許されない。
 憲法裁判所は、日米同盟違憲の宣言に踏み切って国制に大混乱をもたらすか、そうでなければ自己矛盾を抱えて崩壊する運命だろう。
 アメリカの戦争に巻き込まれたくないなら、政策判断で、巻き込まれないようにすればよい。なぜそういう素直な話ができないのか。いちいち憲法を曲解して包括的な言い方で禁じてもらうような話ではない。
 私はイラク戦争は国際法に反する行動だったと考えている。繰り返しこういった話は出てくるだろうと思い、2003年前後の著作で、はっきり文字にして、その見解を記録に残しておいてある(たとえば拙著『平和構築と法の支配』[2003年])。在外研究で米国滞在中の2002年には、反戦デモにも参加していた。だからこそあえて言う。イラク戦争は個別的な事例だ。アメリカは永久に邪悪な存在だと断定する根拠にはならない。「集団的自衛権は違憲だということにして、アメリカの戦争に巻き込まれないようにしよう」、という姑息なアイディアは、日本の将来の世代に不当な制約をかける無責任行為だ。
 国際標準のやり方は、「国際法にしたがってアメリカの今回の行動は違法だと考える」といった議論を行うことだ。そのうえでイラクの戦後復興に協力しても、決しておかしくない。そういった議論や行動の積み重ねが、より良い国際秩序の形成への努力として評価される。
 議論に参加する度胸を持たず、ただ、「国際法のことはわかりません、ただとにかくうちの国の憲法で禁じていることは、日本は何もできませんから、その点だけよろしく」、といったことだけ繰り返そうとするのは、あまりにも無責任である。
 これから国際社会で活躍する甚大な可能性を持つ若者に、そういった無責任を強いるのは、罪深い。そのような姑息な反米主義を若い世代に強いるのは、日本という国を将来にわたってガラパゴス化させ、停滞させる行為でもあると思う。

 前回のブログで、「立憲主義違反」を国会で叫ぶ枝野幸男代表について書き、公人の責任として、きちんと議論をしてほしい、と書いた。http://agora-web.jp/archives/2029642.html
 その後、山尾志桜里衆議院議員が、関連したことを語っているインタビュー記事を見つけた。 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/071000146/112100013/?n_cid=nbpnbo_fbbn 山尾議員は、立憲民主党員ではないが、同党の会派を代表して衆議院憲法審査会に参加するという。そこで記事を読んでみた。そして、呆れた。
 自衛権に歯止めをかけることが必要だと強調している。そして自衛権を個別的自衛権だけに限定することが歯止めになるのだという。山尾議員によれば、「自衛権は今、透明人間のような存在で実態がない」ので、今は歯止めがないのだという。自衛権を個別的自衛権に限定する改憲を行うと、初めて自衛権に「実態」が生まれるのだという。
 意味不明だ。
 自衛権は、国連憲章51条に記載されている国際法上の国家の権利である。日本は国連憲章を批准し、日本国憲法98条の条約遵守義務にしたがって、それを遵守している。日本国憲法に自衛権の記載がないからと言って、それを不思議に思うほうがどうかしている。まして制限がなく「透明人間」になっているというのは、理解不可能な話だ。
 自衛権の行使に対する制限は、国際法にしたがって行うのが当然であり、本来それ以外の方法などない。国際法では、自衛権は必要性と均衡性の原則によって制約されており、慣習国際法にもしたがった厳密な運用規範が国際的に成立している。自衛権が「透明人間」であるというのは、国際法の存在に対する冒涜である。
 自衛権が「透明人間」になっているのではない。山尾議員が、国際法を知らないか、無視しているだけだ。
 憲法で自衛権という国際法上の概念を制限するというのは、本来、「民法に殺人罪の規定がないので、民法に殺人罪を入れよう」と言うようなものなのである。百歩譲ってそれをやるとしても、実現するまでは「殺人罪は透明人間のようだ」などと言うのは、滑稽である。
 山尾議員には、しっかりと国際法規範もふまえたうえで、あらためて個別的自衛権を徹底的に擁護することが、なぜ「歯止め」になるのかを、きちんと説明してもらいたい。
 個別的自衛権性善説に立って、集団的自衛権だけを違法にして、自衛権を制限したつもりになるというのは、うちの日本村ではリンゴは果物だが、バナナは果物ではない、と主張してみせるようなものなのである。百歩譲ってそれを言うとしても、言わない者を「反立憲主義だ」と糾弾するというのは、滑稽である。
 山尾議員は、過去の特定の時代の内閣法制局見解を永遠の憲法規範とみなしつつ、国際法は無視する。もはや、なぜ集団的自衛権が違憲で、個別的自衛権だけが合憲なのか、ということを議論するつもりもないようである。・・・昔、内閣法制局がそう言っていたから。そのほうが首相の権限を制限できるから。だって権力を制限するのが立憲主義だから・・・。驚くべきことに、それ以上の議論がない。
 山尾議員は言う。「私は個別的自衛権を深化させるべきという考えです。これによって自衛権の行使に明確な歯止めをかけることができる。」この盲目的な個別的自衛権=絶対善、集団的自衛権=絶対悪の信仰はいったい何なのか。なぜ、そのような法的裏付けを欠いた信仰を持つに至ったのか、きちんと説明すべきだ。
 個別的自衛権だけでも、たとえば日本の艦船などがあれば、「地球の裏側」であっても、自衛権の主張をすることができ、濫用の危険性も残る。集団的自衛権として違法な行動は、地球の裏側でも、日本近海でも、違法だ。こうした国際法規範の枠組みを無視し、どこまでもガラパゴス憲法論を貫き通すことの意味は何なのか。個別的自衛権=絶対善、集団的自衛権=絶対悪、という今や内閣法制局ですら放棄した法的根拠を欠いた盲目的な信仰を振りかざしたうえで、「自衛権に歯止めがかけられる」、などという壮大な物語を披露するのは、間違っているだけでなく、極めて危険なものではないか?
 戦後しばらくの間は、日本でも、山尾議員のような議論はなかった。満州事変からの泥沼が、集団的自衛権などではなく、個別的自衛権の濫用によって起こったことを、日本人の誰もがよく知っていたからだ。冷戦時代特有の環境の中で、1960年代末に集団的自衛権違憲論が生まれた(拙著『集団的自衛権の思想史』参照)。
 もっとも、司法試験業界には冷戦終焉の余波などなかったのだろう。そこで憲法学の基本書を手掛かりに国際社会を見る癖がついている方々は、いまでも「団塊の世代中心主義」に陥る。その特徴は、国際感覚の欠如である。山尾議員の国際法を無視するガラパゴス主義は、その典型だ。自分自身を律することを忘れ、国際的な規範を無視し、ただ「権力を批判する者が立憲主義者」と唱え、平和主義者は必然的に反米主義者だ、と信じる安直な態度が、それなのである。
 今の日本に本当に必要なのは、国際社会の常識を取り戻し、国際法に従って、まずはすでに自衛権に制約があることを理解することではないだろうか。つまり山尾議員に、国際法を勉強して、実践してもらうことではないだろうか。
 憲法が、海洋法や難民法の規定を持っていないからといって、不思議に思う人はいない。それらの法規が「透明人間になっている」と主張する人はいない。ではなぜ自衛権(武力行使に関する法=jus ad bellum)についてだけ、「国際法などは透明人間だ、すべて憲法学に仕切らせろ」、といった態度をとるのか。
 本当に特異なのは、9条ではない。9条に異常なロマン主義を投影する人たちのメンタリティである。「国際法は黙っておけ、すべて憲法学に仕切らせろ」、といった態度を「立憲主義」などと言いかえて正当化する日本の法律家たちの態度が、異常なのだ。
 山尾議員は、山尾議員が理想とする行動をとる憲法裁判所を設置して、首相の独断専行を防ぐと言う。立憲民主党の憲法調査会が第1回会合で最初に講師として招いたのは、あの長谷部恭男教授だ。https://cdp-japan.jp/news/385   http://agora-web.jp/archives/2029309.html   http://agora-web.jp/archives/2029141.html   http://agora-web.jp/archives/2027653.html 長谷部教授は、初代憲法裁判所長に内定なのか。その他、憲法学者たちが続々と裁判官として名前を連ねることになるのかもしれない。
 山尾議員が理想とする憲法裁判所が設置されると、安保法制は即廃止、その他、国際法にしたがった立法措置や条約批准なども、次々と違憲になっていくのだろう。
 山尾議員は、どうやら砂川事件最高裁判所判決も「統治行為論」だと考えているようだ(前回ブログ記事で書いたように、私に言わせればこれはイデオロギー的なデマなのだが http://agora-web.jp/archives/2029642.html)。そうなると山尾議員が夢見る憲法裁判所とは、日米安全保障条約に違憲判断を下すようなものかもしれない。山尾改憲は、外交安全保障政策などの大改造計画になり、国政には大混乱が訪れるだろう。
 もちろんそうなっても、山尾議員だけは、「首相権限を制限したので立憲主義が発展しましたね」、と喜ぶ、という筋書きになっている。
 山尾議員も、山尾議員の倉持麟太郎政策顧問も、枝野幸男立憲民主党代表も、弁護士である。山尾議員の改憲案は、いわば弁護士・憲法学者の連合体による日本の外交安全保障政策の大改造計画である。
 司法試験受験者で、国際法を受験科目で選択する者は、わずか1.6%であるという。勉強が大変な割には点数が伸びない科目なので、予備校ではこぞって選択しないことを勧めているようだ。
 日本の法律家の約99%は、「国際関係法(公法系)」を、受験科目レベルですら、勉強していないのである。受験に役立たないため、大学で国際法の授業に出ることもしない。実務についてからも、日本では国際情勢から縁遠い。国際機関の法務部に、日本人は驚くべきほどに存在しないため、外国に留学しなければ、国際公法に詳しい知り合いもできない。
 つまり、国際法の話を、憲法の基本書を引っ張り出してきて解説してしまうガラパゴスな方々の代表が、司法試験受験組の方々なのである。山尾議員は、そして山尾議員の倉持麟太郎政策顧問も、枝野幸男立憲民主党代表も、そんな日本の法律家の純粋な典型例なのであろう。
 もちろん、弁護士なら、それでもいい。しかし国政を預かる政治家は、それでは困る。

国会の代表質問で、枝野幸男・立憲民主党代表が、安保法制も集団的自衛権も「立憲主義違反」だと断ずる演説を行った。
 枝野代表は、憲法問題に入ると、国内政策に関するときの語り口を突然変え、「まずは、今ある憲法をちゃんと守ってから言え!」と恫喝するかのような雄たけびをあげた。しかも枝野代表は、手続きを踏んで改憲しても、「立憲主義違反を事後的・なし崩し的に追認することになるので、到底認められない!」、とも叫んだ。万が一改憲がなされても、その結果を認めない、という宣言である。
 また、相変わらず反米的なトーンが顕著であった。「日米同盟はケンゼンに強化発展させるべき」という断片的な一言は、「もっとも、ケンゼンな同盟関係であるならば・・・」、とつなげ、「ケンゼン」「ケンゼン」と繰り返して、結局、日米同盟が不健全であることを強く示唆した。
 枝野代表は、自らが真の「保守」で、真の「リベラル」で、真の「立憲主義者」であることを誇る。しかし、結局、冷戦時代の「革新」と同じように見えるのは、国政の要の一つである外交安全保障分野で体系的な政策を打ち出さず、ただ反米主義のアピールで、支持者層を確保しようとするからだ。
 それにしても立憲民主党は、「立憲主義に違反する」のがどんな状態であるのか、なぜ安保法制や集団的自衛権そのものが「立憲主義に違反する」のかについて、まだきちんと体系的で精緻な議論を提示していない。立憲主義者を誇るのであれば、まず責任をもってそれらを説明すべきだ。
 私は、拙著『集団的自衛権の思想史』で、集団的自衛権違憲論が1960年代末の特有の時代の政治的産物でしかなかったことを論じ、拙著『ほんとうの憲法』で国際法と調和するのが本来の憲法の姿であることを論じた。つまり私は、枝野代表によって完全否定されている存在である。
 私は、攻撃的な憲法学者に、「三流蓑田胸喜だ」「日陰者だ」と誹謗中傷されている。http://agora-web.jp/archives/2029005.html 憲法学者の中には、集団的自衛権は違憲だとは言えない、と表明したがゆえに、執拗な脅迫にあい、警察官とともに通勤せざるを得なくなった方もいる。http://agora-web.jp/archives/2029309.html 
 立憲民主党が、一方的な思想統制に加担しているわけではない公党なら、断言調で他者を否定する行為について、自らの言葉でしっかりと説明する責任がある。
 私を含めて多くの方々が、立憲民主党が、どのような精緻な議論で、自己の主張を裏付けるのか、大きな関心を持っている。

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前回のブログでは、矢部宏治氏の反米ナショナリズムの誇張と扇動の言説について書いてみた。その中で、砂川事件最高裁判決が、「統治行為論」に逃げて、日米安保条約の違憲性の判断を回避した、とする見方にも、疑問を呈した。http://agora-web.jp/archives/2029574.html 
 「立憲主義」の理解にあたって、最高裁判所判決を知るのは、非常に重要なことだろう。そこで、砂川事件最高裁判決(1959年)について、具体的に見てみたい。個別意見にも幾つかの有名な文章が多々あるが、あえて最高裁全体の見解として提示された判決の主文に絞って、見ていきたい。主文は4千字余り程度の量の文章だ。誰でも簡単に読める。http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/816/055816_hanrei.pdf
 判決は、まず9条の検討から入る。 

「そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および九八条二項の国際協調の精神と相まつて、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。」

  ここで書かれているのは、9条が、侵略国家としての日本の体制転換を図る政策的意図で作られたものであることの確認である。 

「しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」

  ここで書かれているのは、9条が自衛権を否定するものではないことの確認である。戦争放棄が、自衛権の放棄ではないことの確認であると言ってもよい。 

「すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによつて生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。」

 ここで書かれているのは、「戦力」不保持は、「諸国民の公正と信義に信頼」で補って、「われらの安全と生存を保持する」、という憲法前文の「決意」の仕組みの確認である。

 それは、地方裁判所判決(伊達判決)のいうように、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。」

  ここで書かれているのは、「諸国民の公正と信義に信頼する」ということが、他国に安全保障を求めることを含む、広範な措置でありうることの確認である。

 「憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体なつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。」

 ここで書かれているのは、9条が侵略国家であった日本の体制転換を図る国内法根拠を作るものであったことを鑑みれば、日本に駐留しているからといって、外国軍が92項が禁止する「戦力」に該当するような可能性はない、ということの確認である。

 「アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に反するかどうかであるが、その判断には、右駐留が本件日米安全保障条約に基くものである関係上、結局右条約の内容が憲法の前記条章に反するかどうかの判断が前提とならざるを得ない。しかるに、右安全保障条約は、日本国との(サンフランシスコ)平和条約と同日に締結せられた、これと密接不可分の関係にある条約である。すなわち、(サンフランシスコ)平和条約六条(a)項但書には「この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」とあつて、日本国の領域における外国軍隊の駐留を認めており、本件安全保障条約は、右規定によつて認められた外国軍隊であるアメリカ合衆国軍隊の駐留に関して、日米間に締結せられた条約であり、平和条約の右条項は、当時の国際連合加盟国六〇箇国中四〇数箇国の多数国家がこれに賛成調印している。」

 ここで書かれているのは、日米安全保障条約がサンフランシスコ講和条約と一体のものとして締結されたということであり、つまり米軍の駐留は日本の主権回復と矛盾しない形で国際的に認められたということの確認である。

 「右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。それ故、右安全保障条約は、その内容において、主権国としてのわが国の平和と安全、ひいてはわが国存立の基礎に極めて重大な関係を有するものというべきであるが、また、その成立に当つては、時の内閣は憲法の条章に基き、米国と数次に亘る交渉の末、わが国の重大政策として適式に締結し、その後、それが憲法に適合するか否かの討議をも含めて衆参両院において慎重に審議せられた上、適法妥当なものとして国会の承認を経たものであることも公知の事実である。」

  ここで書かれているのは、日米安全保障条約が、「わが国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利」にもとづいて締結されたものであることの確認である。判決は、それは国際連合憲章にもそっており、国内手続きも不備なくとられて、成立したものであることも確認している。

 「ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする。」

 この箇所が、砂川事件最高裁判決が、「統治行為論」を採用した、と後に憲法学界で言われるようになる根拠である。ただし、この箇所において、判決は、違憲審査を放棄していない。「一見極めて明白に違憲無効である」と認められる場合には、やはり違憲判断を下すだろうことが、示されている。ただ、三権分立の観点もあるだろう、裁判所が国会の権限の範囲に入り込むことには慎重さが必要だ、ということが書かれているにすぎない。

 「本件アメリカ合衆国軍隊の駐留に関する安全保障条約およびその三条に基く行政協定の規定の示すところをみると、右駐留軍隊は外国軍隊であつて、わが国自体の戦力でないことはもちろん、これに対する指揮権、管理権は、すべてアメリカ合衆国に存し、わが国がその主体となつてあだかも自国の軍隊に対すると同様の指揮権、管理権を有するものでないことが明らかである。またこの軍隊は、前述のような同条約の前文に示された趣旨において駐留するものであり、同条約一条の示すように極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、ならびに一または二以上の外部の国による教唆または干渉によつて引き起されたわが国における大規模の内乱および騒じようを鎮圧するため、わが国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することとなつており、その目的は、専らわが国およびわが国を含めた極東の平和と安全を維持し、再び戦争の惨禍が起らないようにすることに存し、わが国がその駐留を許容したのは、わが国の防衛力の不足を、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して補なおうとしたものに外ならないことが窺えるのである。果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。そしてこのことは、憲法九条二項が、自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨のものであると否とにかかわらないのである。」

 ここで書かれているのは、これまでの判決主文の内容の要約であり、結論である。米軍駐留の合憲性が再度確認されており、それはまず米軍が外国軍であるからだからだが、同時に米軍が「国際の平和と安全の維持に寄与する」ものだと認定されるからであり、「平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼」するという憲法の精神に合致したものだと認定されるからである。

 「なお、行政協定は特に国会の承認を経ていないが、政府は昭和二七年二月二八日その調印を了し、同年三月上旬頃衆議院外務委員会に行政協定およびその締結の際の議事録を提出し、その後、同委員会および衆議院法務委員会等において、種々質疑応答がなされている。そして行政協定自体につき国会の承認を経べきものであるとの議論もあつたが、政府は、行政協定の根拠規定を含む安全保障条約が国会の承認を経ている以上、これと別に特に行政協定につき国会の承認を経る必要はないといい、国会においては、参議院本会議において、昭和二七年三月二五日に行政協定が憲法七三条による条約であるから、同条の規定によつて国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決され、また、衆議院本会議において、同年同月二六日に行政協定は安全保障条約三条により政府に委任された米軍の配備規律の範囲を越え、その内容は憲法七三条による国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決されたのである。しからば、以上の事実に徴し、米軍の配備を規律する条件を規定した行政協定は、既に国会の承認を経た安全保障条約三条の委任の範囲内のものであると認められ、これにつき特に国会の承認を経なかつたからといつて、違憲無効であるとは認められない。」

 ここで書かれているのは、日米安全保障条約の実施にあたって定められた諸々の行政協定について、いずれも条約の委任の範囲内のものであるので、違憲性はない、という判断の明示である。条約の行政執行には、少なくとも当時の時点で、違憲性が認められない、ということの確認である。

 「原判決(伊達判決)が、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条二項前段に違反し許すべからざるものと判断したのは、裁判所の司法審査権の範囲を逸脱し同条項および憲法前文の解釈を誤つたものであり、従つて、これを前提として本件刑事特別法二条を違憲無効としたことも失当であつて、この点に関する論旨は結局理由あるに帰し、原判決はその他の論旨につき判断するまでもなく、破棄を免かれない。・・・この判決は、・・・裁判官全員一致の意見によるものである。」

  最後に書かれているのは、日米安保条約を違憲と判断した地方裁判所判決(伊達判決)の否認という結論であり、その判断が最高裁判所裁判官全員の一致した意見として決せられたものだ、ということである。

 最高裁判決の論理の筋道は明確であり、判断をせずに統治行為論に逃げ込んでいるというのは、かなりうがった読み方ではないだろうか。
 日米安保条約が、「平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認している」ことに基づいているという最高裁判所の論理は、明晰だろう。
 もちろん、そのうえでなお2015年安保法案の合憲性に関する議論はあってもいいだろう。しかし少なくとも国会で集団的自衛権は違憲だ、と高らかに宣言した立憲民主党の枝野幸男代表の断言は、論証不要なまでに自明とまでは言えない。
 枝野代表は、他人の議論を完全否定するのであれば、その理由を明示する、という公人として最低限の責務を果たすべきだ。


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