「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

経歴・業績 http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/shinoda/   
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 先日、「高齢者暴走は政治家の問題なのではないか」、という記事を書いた。その後、立憲民主党が、高齢者運転対策に乗り出したというニュースを見た。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190425-00000162-jij-pol 応援したい。

 立憲民主党は、どちらかというと高齢者からの得票率が高かった政党だ。私自身も、何度か憲法問題などで批判的な文章を書いたことがある。
 しかし、その立憲民主党が、こうした問題で、次世代の側に立つのは、大変に素晴らしいことだ。長期的な党の立ち位置を固めるためにも、得策だ、とあえて強調しておきたい。

 少子高齢化社会に立ち向かうということが、どういうことなのか、まだわかっていない人が多い。多数決で物事を決めていったら、すべて高齢者に有利なことしか決まっていかない、それが暗澹たる少子高齢化社会の本質の一つだ。

80歳以上の高齢者による死亡事故は、75歳未満の約3倍だという。http://agora-web.jp/archives/2038592.html 人口の絶対数は減り始めているが、高齢者人口の比率は高まり続けている。厚生労働省によれば、2000年には、70歳以上の人口は901万人、85歳以上はわずかに224万人だった。2020年に70歳以上の人口は1,879万人、85歳以上が637万人になり、2055年までに70歳以上の人口が2,401万人で、85歳以上だけで1,035万人になるという。

3倍の危険性を持つ85歳以上の人口が、過去20年弱の間にすでに2倍以上になってしまっており、その数は将来的にさらに倍増する勢いで増えていく。その一方、若者の人口は減少し続けている。マイノリティに転落した若者層は、2000年時と比べても、何倍にも増大した危険高齢者のリスクにさらされながら、生きていかなければならない。
 アンフェアだ。 

無策であれば、これから高齢者による危険運転事故は増え続けるのだ。統計を見れば、そういう結論しか導き出せない。現実を直視した政策をとるべきだ。

危険が増大しているという現実を見据えたうえで、公正さを取り戻すための政治的措置をとる必要があるのだ。

 政治の本質は、価値の配分である。高齢者に配慮して高齢者の票を維持しようとするのか、高齢者の票を失っても、日本の未来のために、子どもを守る政策を推進するのか、日本が今置かれている状況を考えて、政治家は態度を決していくべきだ。

 池袋の高齢者暴走事件には、多くの示唆があった。都会で、社会的地位の高かった人物が、87歳になって、暴走して起こした事件だ。田舎の貧しい高齢者の苦難などを持ち出して、池袋で暴走した元高級官僚を守ろうとするのは、的外れである。社会的地位が高かった者に限って自分に甘く、周囲も遠慮して苦言を呈することに躊躇しがちだ。池袋で暴走した87歳の人物のような老人に、二度と暴走させないための政策が必要だ。

 生活に運転が必要なら、それに見合う自分を維持する努力をするべきだ。必要性があって、努力している高齢者は、認めてあげるべきだろう。したがって基準の厳格化が必要だ。

 車の運転以外の手段の利便性を高めて、免許返納のインセンティブにしていくというのは、いかにも不足感がある。車の運転に伴う負荷を高めなければ、釣り合わない。

 70歳以上は運転免許の毎年更新、80歳以上で半年更新、85歳以上は3カ月更新でもいい。費用は、講習料の値上げでまかなうべきだ。「認知症のテストに通った、あと何年も自分は大丈夫だ」、と勘違いしている高齢者が多数いる。頻繁にテストしていくべきだ。

 ただ免許返納ですら、決め手ではない。池袋暴走事件の直後であってもなお、「郵便局に歩いていくのが面倒」という理由で、84歳の無免許の人物が、逮捕されたという事件が起こっている。https://www.msn.com/ja-jp/news/national/「郵便局に歩いていくのが面倒」無免許運転の疑いで84歳男逮捕-%EF%BC%8F松戸/ar-BBWen7r 

これが少子高齢化社会の日常風景というものなのだろう。

免許返納するか、免許失効した高齢者が、車を所有したままだったり、運転者のままになっていたりしないか、罰則も設けて、厳しくチェックしていくべきだ。当然、高齢者に限らず、無免許者に車を貸した者にも厳しい罰則を設けなければならない。

 ところで高齢者暴走の場合、加害者が被害者家族よりも先に他界することになる。民事上の負担が、無責任な高齢者ドライバーに危険回避をするインセンティブとして働かないかもしれないという意味で、一つの深刻な問題だ。法的解決も図られていないまま加害者がいなくなってしまうケースも多いだろう。相続人に対して損害賠償請求することになる場合、被害者側の負担が増す。手続きを簡素化する措置を導入するべきだ。

 将来的には、一刻も早く、自動運転車専用免許を導入すべきだ。そして高齢者による免許の切り替えを促進する措置を導入しなければならない。自動ブレーキ車に限定する措置がとれないかも、自動車メーカーの大々的な協力を得て、検討していくべきだろう。

 普段は政治の話などしか文章で書かないが、これも政治の話ではないかと思い、書いている。
 87歳のドライバーによる親子死亡事故の件だ。
 現場には、子ども用のヘルメットが転がっていたという。あまりに胸が痛み、夜も眠れない人も多いのではないか。
 政治の怠慢だ。
 日本は少子高齢化の深刻な危機にある。子どもを守るのは政治家の務めだ。
 高齢者支援を充実させるべきだという意見もある。財政赤字の中で少子高齢化が進む社会で、どこまでやれるのか、やれるだけやってみたらいい。しかしどこまで充実させても、「車に乗ってしまったほうが楽だ」、と考える高齢者をなくすことはできないだろう。それははっきりしている。ごまかしてダメだ。
 高齢者の票を失わないことだけを考えて行動するのは、政治の無責任だ。
 75歳以上のドライバーの免許更新の際には、認知症のテストをしているとされるが、手ぬるいのではないか。そうだとすれば、少なくとも毎年更新・半年更新などにするべきだ。
 テストや講習の内容充実も精査が必要だろう。認知力・体力だけでなく、運転をやめる決断力があるかどうか、そのような環境にあるかを試すことが必要だ。更新料を大幅に値上げして被害者補償にあてるなどの措置はとれないか。
 高齢者対策で、高齢者の事件については特に民事訴訟手続きを迅速に処理する手立てなどはとられているのだろうか。
 将来的には、高齢者を想定して、AT者限定免許のように、自動運転車限定免許への切り替えを促す仕組みも作るべきだろう。

 龍谷大学で憲法学を教えていらっしゃる奥野恒久教授が、私の著書を論じる内容の論文を一本書かれた(「『戦後日本憲法学批判』に向き合う」『龍谷大学政策学論集』第8巻第12合併号)。憲法学者の方に正面から論じていただいた論考が公刊されたのは初めてなので、大変に光栄である。

 「篠田の議論が憲法問題に関心を寄せる市民に参照され、影響を与えていることを重く受け止め・・・憲法学研究者として応答を試みる」(47頁)というもので、大変にありがたいものだ。篠田への批判としては、水島朝穂教授のブログがあるが、残念な内容だったので、http://agora-web.jp/archives/2029005.html 今後も奥野教授のような方が増えてくださると本当にありがたい。

 もちろん奥野教授の論考の狙いは、篠田の批判である。私としては、奥野教授のご厚意に感謝しつつ、論点を拾い出す形でコメントをしてみたい。

<「抵抗の憲法学」の描写に対する批判>

 私は拙著『ほんとうの憲法』の中で戦後日本憲法学を特徴づける概念として「抵抗の憲法学」という言い回しを使っている。これは私が考えたものではない。高橋和之・元東京大学法学部教授が使い、その後に石川健治・東京大学法学部教授が使っている(拙著251頁注3)。私はそれを念入りに分析しているだけだ。憲法学者が自分で使うのはOKだが、国際政治学者がそういうことを言うのはダメだ、というのは、不当だろう。

もちろん私が、高橋教授や石川教授が語っていないことを語っているのは確かだが、分析をしているだけだ。分析の過程において、「権力を制限する」ものとして立憲主義の概念を使いたがる傾向について論じている。奥野教授は、これに対して、「憲法学でも国民主権と民主主義の緊張関係は論じられている」、といった指摘をしているが、私の議論とかみあっていない。

あまりにも政府が国民の代表者であることを軽視して、一方的に政府を制限することを無条件に良しとする「抵抗の憲法学」の傾向がある、そのことについて、私は分析をしている。

私が論じているのは、たとえば、主権という概念とは別に「統治権」という実定法上の根拠のない概念を、極めて実体化したうえで、堂々と若い法律家たちに教え込もうとする憲法学者の態度に、いったいどんな法的根拠があるのか、といったことだ。「主権」とは区別された「統治権」がないと、憲法学にとって不都合だ、と感じているから、そういう法的根拠のないことを無批判的に行っているのではないか、と疑わざるを得ないのだ(サントリー財団『アステイオン』90号[20195月公刊予定]掲載予定の拙稿「『統治権』という妖怪の徘徊~明治憲法の制約を受け続ける日本の立憲主義~」もご参照いただきたい)。

<憲法9条解釈に対する批判>

長谷部恭男教授が、今年の1月に出た岩波文庫に寄せた「解説」文について、拙論を書いたばかりだがhttp://agora-web.jp/archives/2038336.html 、篠田の憲法9条解釈批判は、今や面白い意味を持っている。

長谷部教授は、今世紀になってから、学会通説を変えるべく、自衛隊を合憲とする内容の著作を出した人物である。その長谷部教授は、今や二正面作戦を強いられている。

一方では、自衛隊違憲論を信奉する伝統派に対抗して、自衛隊合憲論を通説化させようとし続けている。条文にとらわれない憲法学者の「良識」で進めてきたプロジェクトだ。憲法9条と国際法のつながりも、役立つところがあるのであれば、利用してもいいのだろう。

ところが、この試みはうっかりすると、足を取られる。なぜなら憲法が国際法に結びついている経緯を明かせば明かすほど、「個別的自衛権は合憲だが集団的自衛権は違憲だ」、という主張が、怪しくなってきてしまう。そこで長谷部教授は、さらにいっそう憲法学者の「良識」とやらを強調して、「自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲」という立場を維持しようとする。

だが、それは本当に法律論によって支えられている議論なのか?ただ憲法学者たちの「良識」に訴えるだけで、法律論としては、学術的には、まだ全く成功が証明されていない作業のままなのではないのか?

さて、奥野教授は、そんな長谷部教授のような立場を助けることができるだろうか?奥野教授は、長谷部教授が満足するようなやり方で、篠田を否定できるだろうか?

奥野教授は、「国民」と「アメリカ」の力を借りて、篠田の憲法論を否定する。恐縮だが、よくあるタイプの議論だ。

篠田の9条解釈を見て、奥野教授は、「何ゆえ、戦勝国の意図に基づいて日本国憲法を理解しなければならないのか」(奥野論文55頁)、と訴える。「憲法9条の解釈にあたり国際協調主義を踏まえるとしても、あくまでも国民の視点で行わなければならない」(同上)と主張する。奥野教授によれば、篠田の憲法9条解釈を許すと、「アメリカの世界戦略への加入」(奥野論文56頁)になる。奥野教授は、篠田の解釈では「92項の意義が全く見出されていない」と断定し、「国民の視点から92項の意義が語られなければならない」(奥野論文57頁)と主張する。

こういった篠田の否定論が正しいとすれば、憲法の解釈にあたっては「アメリカの政策に同調する可能性がある憲法解釈は否定されなければならない」という原則が事前に確立されていなければならない。しかしそんな解釈原則は、さすがにどんな憲法学の教科書にも書かれていない。そんな解釈原則が正しいと、学術的に証明されたことは一度もない。

・・・国民主権が憲法の三大原理の一つだ。篠田は憲法「前文」に書かれている「原理」は「信託」の一つだけだ、とか憲法学通説を否定するようなことを言っているが、まあそれは無視しよう。とにかく憲法学通説では国民主権が三大原理の一つなのだから、「国民の視点」に立つということが、憲法解釈の原則だ。ところで篠田は、「国民の視点」に立っていない。だから篠田は間違っている。これに対して、憲法学者は「国民の視点」に立っている。したがって憲法学者は正しい。・・・

果たして、こういう議論は、本当に学術的な議論なのだろうか。

一方では、憲法学者は主権者「国民」も憲法には服することを認める、だから「抵抗の憲法学」を強調する篠田は間違っている、と主張する。

他方では、篠田の憲法解釈は「国民の視点」に反している、したがって「国民の視点」に寄り添っている憲法学者が正しい、と主張する。

「国民の視点」とは何なのか?どこにも説明がない。「アメリカの世界戦略」ってつまり何?どこにも説明がない。ただ、こうした不明瞭な言葉が、篠田を否定するには十分なもの、として提示される。

これは法律論なのか。初めに結論ありきで、ただあとは印象操作で言葉が並べられているだけなのではないか。奥野論文を読むと、疑問が次々と沸き起こってくる。

と、言いながら、しかし、最後に繰り返し申し上げる。私の議論をとりあげて論文を書いてくださった勇気ある憲法学者である奥野教授に対しては、心より感謝している。最後にあらためて、深く敬意を表したい。

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