「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

経歴・業績 http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/shinoda/   
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 米・英・仏3カ国が、ダマスカス近郊の施設に攻撃を行った。米国による昨年の4月の攻撃の際、ブログで書いたことだが、http://agora-web.jp/archives/2025413.html 国連憲章24項の武力行使の一般的禁止により、この攻撃にはjus ad bellumの国際法の観点から違法の推定がかかる。だが化学兵器による一般市民の犠牲(明白な国際人道法[jus in bello]違反)への対応の正当性は論点になる。http://agora-web.jp/archives/2025429.html シリアについては、管轄権を持つ国家の政府が市民を保護する「意図または能力を持たない(Unwilling or Unable)」状況にあるとみなされてきたことも、関係してくるだろう。
 
ところでこうしたアメリカの軍事行動を見て、あらためて思い出すのが、木村草太教授である。ここ数日で二回、『中央公論』における木村草太教授の「メディアにもてはやされている極端な意見を言う人」を突き放そうとする発言について、ブログでふれた。その都度、匿名の方々に、ブログのコメント欄で、色々と教えていただき、初めて知ったこともあった。
 
例えば、木村教授によれば、日本国憲法には軍事に関する規定がないので「軍事権」なるものを持っていないが、アメリカ合衆国憲法は軍事に関する規定があるので「軍事権」というものを持っているのだという。そこでアメリカは集団的自衛権を行使できるが、日本はできない(ただし個別的自衛権は行使できる)、といった差が出てくるのだという。木村教授は、このことを日本国憲法における「軍事権のカテゴリカルな消去」と呼び、この「軍事権」なるものの消去によって、行政権である個別的自衛権は合憲だが、「軍事権」である集団的自衛権は違憲になる、と説明するそうだ。
 
新奇な理論だ。「軍事権」という概念それ自体が聞いたことがなく、内容も不明だ。しかし憲法学会の新しい通説なのか。インターネットで検索をかけてみると、結構な人々が「憲法学には『軍事権のカテゴリカルな消去』という通説があり、だから集団的自衛権は違憲なのだ」と主張したり解説したりしていることがわかった。木村教授自身に、弁護士、さらに運動家のような方々が多かった。ただし、木村教授以外の学者の方は見つからなかった。
 
木村教授は、自身のツィッターで、西村裕一・北海道大学法学研究科教授(憲法学・東京大学法学部出身)が、この学説を標榜していると説明し、憲法学界で広範に支持されているかのように語っている。https://twitter.com/sotakimura/status/526888423424933888 そこでツィッターで参照されている『自治体法務検定テキスト』を見てみることにした。
 
憲法学界では、新しい学説を『自治体法務検定テキスト』(!)といった媒体で発表説明するのか・・・と思いつつ、西村論文を探してみた。しかし『自治体法務検定テキスト』に、該当していると思われる西村論文というものはなく、見つかったのは、石川健次・東京大学法学部教授編集の「第1章憲法」の中にある「木村草太・西村裕一」連名の「第3節立法と行政と司法・1政治の領域と法の領域」という節における次のような文章であった(35-36頁)。 
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「統治の基本プログラムを決定する作用を、執政とよびます。・・・外交や軍事に関する基本決定は、伝統的には執政権をもつ君主の専権事項だとされてきましたが、これらは執政作用の典型だといえるでしょう。・・・憲法65条にいう「行政権」には、法律の執行権限(狭義の行政権)に加え、執政権も含まれると解すべきだとする議論も有力です(執政権論)。・・・議会の統制能力に対して不信感が存在する場合には、執政権を国家作用からカテゴリカルに削除する規定が憲法に置かれることもあります。例えば、日本国憲法は軍事作用について沈黙していますが、これは戦前への反省に基づく自覚的な決断であると理解するべきでしょう。すなわち、「統帥権の独立」を定める大日本帝国憲法下においても、軍の編成権に関わる軍政については帝国議会の統制下に置くことが試みられました。しかし、戦前の議会政治は、統帥権干犯問題に見られるように、軍部に対するシヴィリアン・コントロールを自ら放棄することによってその信頼を失うことになります。そのため日本国憲法9条は、軍事的な権力体系をカテゴリカルに消去することによって、軍事作用における執政権の統制を図ろうとしたと考えることができます(参照、石川健治「前衛への脅迫と正統からの離脱」憲法問題8号(1997年)105頁以下)。
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『自治体法務検定テキスト』におけるこれだけの文章だけで、本当に憲法学界に「軍事権」なるものについての学説がある、という理解をするのは、躊躇する。ましてこの「執政権の統制」について語っている文章が「集団的自衛権は『軍事権』で個別的自衛権のように行政権ではないので違憲」という結論を導き出すための根拠になるというのは、よほどの想像力を駆使しなければ無理であるように感じる。しかしこれ以上の叙述はなかった。

そこで参照文献とされている石川健次・東京大学法学部教授の「前衛への脅迫と正統からの離脱」なる題名の1997年論文を見てみた。そこには確かに日本国憲法において軍事に関する規定がないことについてふれている箇所が2ページ弱ほどあり、それは戦前の統帥権干犯問題などが影響しているのだ、といった叙述があった。しかし論文それ自体は、ヘーゲルやリオタールやヴィトゲンシュタインらが次から次へと飛び出しくる思想の論文であり、問題となるはずの箇所も、率直に言ってかなり小説家風のロマン主義的叙述の読み込みであり、およそ「カテゴリカルな軍事権の消去」なるものを実定法上の論点として検討した形跡のあるものではなかった。そして「軍事権」なる概念の説明がなかった。集団的自衛権違憲論の説明もなかった。それどころか石川教授は、自衛隊の創設によって憲法の意図が壊されたかのように述べるので、個別的自衛権だけは合憲だという議論がどう導き出されるのかも不明だ。

 どういうことなのか。インターネットで検索すると、すでに「集団的自衛権の違憲性を証明する憲法学会通説である『カテゴリカルな軍事権の消去』」というものが、人口に膾炙している。だがその論理や根拠はもちろん、出自すら不明瞭だと言わざるを得ないのが実情だ。

 今の日本には、各大学の予算削減や少子化などにより、長年にわたって堅実で意義深い研究をして学界にも貢献しながら、なかなか常勤職につけず、30代・40代にまでなってしまう人までたくさんいる。彼らは、今時ではあまりに学者っぽ過ぎ、見栄えが悪く、しゃべり方が不器用なのだ、ということなのかもしれない。まあそういう時代だからこそ・・・、ということなのかもしれないが、時には全く違う世界もあるものだ、とつくづく感じる。

 昨日のブログで、北岡伸一JICA理事長と私との対談記事を掲載していただいた『中央公論』を紹介しつつ、木村草太教授の「メディアにもてはやされている極端な意見を言う人」発言について、ふれた。http://agora-web.jp/archives/2032093.html
 するとコメント欄で、木村教授が「清宮四郎も読んでいない」という理由で、国際法学者や政治学者らを批判しているラジオ番組があったことなどを、親切に教えていただいた。https://youtu.be/ZENML-d7_GA
 木村教授が「清宮四郎も読んでいないのだろう」と断定する理由は、通常法には憲法の授権が必要であることを、国際法学者や政治学者が知らないから、だという。なぜこのような単純なことを言うのに、いちいち「清宮四郎」などといった気の利いたところを狙った名前を出すのかよくわからないが、そもそも一般法令が憲法に反してはならないことを知らない国際法学者や政治学者がいる、という主張は、すごい。
 法学者ではないからといって、そんなことを知らない学者が、
いるはずがない。学者でなくても、たいていの人が知っているのではないか。だが、ラジオを聞いている聴取者に、「そうか、誰だか知らないけど、憲法学者だけは知っている偉い先生のことを、国際法学者は政治学者は知らないから、憲法学者と意見が違ってしまうのだな」、という印象を与えるためには、木村教授のしゃべり方は、十分に効果的なのだろう。(関連していると思われる木村教授の団藤重光への言及については、下記点線以下を参照。)
 「集団的自衛権は保持しているが、行使できない」というのが、2015年以前の政府見解であった。なぜ行使が違憲だとしても保持はしている、と言わなければならなかったのか。日本国が、憲法の手続きにしたがって、国連憲章を批准し、つまり「個別的又は集団的自衛の固有の権利」について定めた憲章51条を受け入れているからだ。
 
国連憲章の批准には、憲法41条が「国権の最高機関」と定める国会が、憲法61条が必要と定める「承認」を行う手続きがとられている。成立した条約は憲法982項にしたがって「誠実に遵守する」ことが必要とされている。
 
したがって批准の際に明示されなかった留保については、憲法典において明示的に禁止されている必要がある。そのため「憲法に集団的自衛権を明示的に否定する条項はない」ことが問題になるのである。国連憲章を批准して国際法秩序を実定法上も受け入れている以上、それに留保を付す場合、留保を主張する側のほうに立証責任がある。したがって集団的自衛権の違憲性は、違憲性を主張する側に、立証責任があるのである。
 
木村教授は、憲法13条の幸福追求権を、個別的自衛権の合憲性の根拠とするが、同時に集団的自衛権が合憲ではないことの根拠にもする。なぜなら国民が攻撃されることなくして、幸福追求権を保障するための措置をとってはいけないからだという。http://koyamakaoru.com/2016/02/02/%E6%88%A6%E4%BA%89%E6%B3%95%E6%A1%88%E9%81%95%E6%86%B2%E7%84%A1%E5%8A%B9%E3%83%BC%E6%9C%A8%E6%9D%91%E8%8D%89%E5%A4%AA%E6%B0%8F%E3%81%AE%E8%AB%96%E6%8B%A0/ 
 
この主張が、相当な論証を必要とするはずの極めて大胆なものであることは、憲法13条が模倣していると想定される独立宣言を持つアメリカ合衆国では、集団的自衛権違憲論などが発生する余地がなく、国連加盟国のいずれの国も幸福追求権を理由にして集団的自衛権を否定するなどという主張をしていないことからも、容易に推察されるだろう。日本国憲法に軍隊に関する規定がないことは、個別的自衛権は合憲だが集団的自衛権は違憲だ、という主張とは関係がない。http://shinodahideaki.blog.jp/archives/25684216.html#comments
 
木村教授の主張にしたがえばhttps://synodos.jp/society/14863 、日本の領土が攻撃されれば、他国が無人島だけしか攻撃しないと表明していたとしても、個別的自衛権の発動で武力行使が合憲になる。しかし日本への侵略の意図を持つ者が隣国に侵攻した場合であっても、集団的自衛権に該当するので、他国を援助して日本への攻撃を未然に防ごうとしたら、違憲になるのだという。
 このような無味乾燥な形式論は、まったく国民の権利としての幸福追求権に配慮したものとは思えない。真に国民の幸福追求を保障するのであれば、幸福追求に対する深刻な脅威を防ぐための措置をとることが、その幸福追求権に「最大の尊重」をすることであるはずだ。憲法13条の論理にしたがえば、国民の幸福追求権への脅威があり、その脅威を取り除く措置をとることが「最大の尊重を必要とする」責務の遂行にあたるかどうかが重要になるはずだ。幸福を侵害する脅威は、様々な形で、様々な方角からやってくる。ただし、それを除去する措置は、せめて個別的・集団的自衛権行使の範囲内で行うべきだ、という制約は、むしろ憲章51条がかけているのであり、憲法13条がそのような制約をかけているという読解は、とても自明だとは思えない。憲法13条がかけている制約は「公共の福祉に反しない限り」という制約だけであり、「公共の福祉」の制約が個別的自衛権の合憲性と集団的自衛権の違憲性の証明になるという読解も、とても論理的な解釈だとは思えない。
 
もしどうしても13条は、個別的自衛権だけの合憲性は示しているが、集団的自衛権の合憲性のほうだけは否定している、と主張するのであれば、より精緻な論理を提示するべきだ。
 
ちなみに憲法91項は、193の加盟国が批准している国連憲章24項と、基本的に同じ内容である。92項は戦力不保持と交戦権否認の規定でしかない。憲法13条の規定も、国際的に見ても極めて妥当な内容だ。それなのになぜ他の国連加盟国が自明視している自衛権の理解を、日本の憲法学者だけは否定し、日本だけは「日本への武力攻撃の着手のない段階での武力行使は違憲」と信じたり、日本だけは「必要最小限度」を制約概念として運用しなければならなかったり、「軍事力の行使は行政権に該当しない」などと主張しなければならないのか、憲法学者は、今一度、十分に論理的で、憲法学者の名前ではなく憲法典に根拠を見出す、精緻な議論を提供するべきではないか。
 
その際には、清宮四郎でも誰でもいいので、きちんと引用しながら、しかし精緻な論理を提示するべきだ。
 「当然でしょ、『憲法判例百選』の解説者の憲法学者であればわかるのです」、といった態度だけでは、全く不十分である。

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<拙著『集団的自衛権の思想史』2324頁からの引用>

木村教授は、法律の解釈はプロらしく行うべきだとして、団藤重光(刑法学の権威)『法学の基礎』を参考文献にあげる。しかし実際の団藤の議論を読むと、木村教授の意図は不明瞭に感じられてくる。団藤は『法学の基礎』において、「制定法の解釈」にあたって、「論理的解釈」、「利益の較量」、「その基準として法の奥にあるもの(立法趣旨)」をあげた。そして述べた。

 

「法解釈について種々さまざまな解釈が主体的に持ち出され、それが判例に反映し・・・判例の形成において、これらの見解の一つのもの、あるいはいくつかのものが、そのままの形においてであろうと修正された形においてであろうと、あるいは複合的な形においてであろうと、採用される。かようにして法そのものが客観的にさらに形成されて行くのである。・・・はじめからある解釈内容が客観的に存在していて解釈者がそれを発見するものと見るべきではなくて、上に述べて来たような法解釈の主体性を通じて法解釈が客観化されて行くということになるべきであろう。・・・かような個々の法解釈の見解における主体的=客観的構造が、司法制度という機構を通じ、判例という形式において、より社会的な意味における客観性=主体性を獲得するということになるのである。」(団藤重光『法学の基礎』[有斐閣、1996年]、354356頁)

 

団藤の考えに従えば、絶対的に客観的な解釈者は存在しない。憲法学者が何人か集まると、客観的に不動の尺度ができあがるというわけではない。解釈者は何人集まっても解釈者にすぎない。「法の支配」を重視する立憲主義に立脚する社会では、絶対的な客観性を持つ解釈は存在しないという前提をとった上で、なお「司法制度」、つまり裁判所の判例に大きな重みが与えられる。団藤が述べているように、法解釈が特別なのは、裁判所という特別な権威を持った法解釈機関が存在しているからでもある。判例がない事案については、判例がないという基本的な事実から出発せざるをえず、憲法学者へのアンケートがその代替になるわけではない。

 昨日発売の『中央公論』において、北岡伸一JICA理事長との対談記事を掲載していただいた。http://www.chuko.co.jp/chuokoron/newest_issue/index.html 世間では「モリ・カケ祭り」が続く中、「国際協調主義を阻むものは何か」というタイトルの対談を掲載していただけたのは、中央公論社の方々のご配慮のおかげでもあり、北岡先生のおかげでもある。感謝したい。

 ちなみに「憲法」特集号であったので、「大沼保昭名誉教授(国際法)・中西寛教授(国際政治)・木村草太教授(憲法)」の鼎談も掲載されており、興味深く読んだ。印象深かったのは、木村草太教授が、憲法論議をめぐる「左派」と「右派」の対立を描写しつつ、大沼教授の「憲法論議は決して右と左の極端な対立に対極化すべきものではない」という発言に対して、次のように答えたところだ。
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「私もメディアで不毛な議論に巻き込まれることがあったので、大沼先生のおっしゃることはよくわかります。メディアは、極端な意見を言う人をもてはやす態度を改めるべきでしょう。私が信頼性の高い研究者についてアドバイスを求められた時には、「『憲法判例百選』の解説を書いている人なら信頼性が高いです」と答えました。」(『中央公論』20185月号33頁)

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 『憲法判例百選』は、司法試験などの受験生のための参考書として知られている。ちなみに現在の編者は、長谷部恭男(元東京大学法学部教授)、石川健次(東京大学法学部教授)、宍戸常寿(東京大学法学部教授)であり、各判例の解説者は、これらの編者が選定していると思われる。
 興味深いのは、「『憲法判例百選』の解説者」とは、2015年安保法制の喧騒のさなか、『報道ステーション』が、「憲法学者へのアンケートで9割が違憲判断」といった企画を進めた際に、「憲法学者」を選ぶ基準としたものであったことだ。
 世論と乖離して9割の圧倒的比率で「違憲」主張する人々の集団が、「信頼性が高い人」集団なのか、「メディアにもてはやされている極端な意見を言う人」の集団なのかは、非常に興味深い問いだ。
 それにしても、そもそも受験参考書で判例解説を書いていると最も信頼できる学者とみなされるというのは、かなり特異な憲法学界の性格を示していると言わざるを得ない。
 
普通の学術領域では、学者を専門領域を持った専門家として扱うので、その学者の専門領域に応じて、信頼感を持つ。ところが憲法学ではそうではないらしい。
 
『憲法判例百選』で取り上げられている判例を見てみよう。自衛権や憲法9条にかかわるのは、せいぜい日米安保条約の違憲性が争われた判例として知られる砂川事件くらいだろう。あとは「校則によるバイク制限」だとか、「取材・報道と肖像権」だとか、「わいせつ文書の頒布禁止と表現の自由」などに関する判例が延々と並ぶ。なぜこのようなトピックに関する判例の解説を書いたことがあると、集団的自衛権の違憲性について最も信頼度が高い意見を述べる人だという認定になるのか、私にはさっぱりわからない。
 
実際、憲法学者で自衛権や9条に関する研究をして業績を持っている者は、ごく少数だろう。ほとんどの憲法学者は、表現の自由とか、プライバシーの権利だとかに関わる問題を研究している。しかしそれでも、『憲法判例百選』の解説者であると、信頼感が高く、たとえどんなに自衛権に関して研究を進め、業績を持つ人と比べても、やはり信頼感が高いのだという。なぜそう言えるのか。理由は、『憲法判例百選』の解説者だから、である。
 
こういう価値観を持つ学会は、憲法学界を除くと、わりあい珍しいのではないか。
 どうやら木村草太教授的な世界観では、日本人は二種類に分かれるようだ。「『憲法判例百選』の解説者」と、そうではない人々である。前者は、わいせつ文書の取り扱いや校則規制の話から自衛権の発動に至るまで、最高権威の意見を発することができる人々として尊重されなければならない。それ以外の人々は、何を言ってもダメな人々である。
 非常に印象深い世界観だと言わざるを得ない。

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