「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

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自民党の石破茂氏は、現在の政府の憲法92項解釈はわかりにくいので、削除が望ましいと主張している。興味深いことに、そこで石破氏は、『あたらしい憲法のはなし』(1947年文部省中学1年生用教科書)や「芦田修正」についてもふれる。blogos.com/article/275313/  

しばしば誤解されているが、石破氏は、誰よりも憲法学通説に忠実な方である。伝統的な憲法学の通説をすべて一度完全に受け入れている。そのうえで、だから92項を削除するしかない、との結論を付け加えるだけである。

私は石破氏の改憲案には賛成だ。ただし、2項だけでなく、1項も削除していい、とも言っている。9条がなければ、国際法を守ればいい/守らなければいけない、ことが、はっきりするからだ。

石破氏は、物腰柔らかな勉強家だ。それに対して、私などは、いかにも品がない。憲法学の憲法解釈が偏向している、などと言っている。私に言わせれば、石破氏が議論の前提としている憲法解釈は、戦後憲法学の陰謀の産物でしかない。

たとえば、石破氏は、『あたらしい憲法のはなし』(1947年文部省中学1年生用教科書)を参照し、それが憲法「制定当初の意図」と描写する。ただし、より正しく言えば、そこに反映されているのは、教科書策定にかかわった新憲法推進運動を展開していた運動家たち、つまり東大法学部系の憲法学者たちの憲法制定の頃の「意図」であろう。www.yuhikaku.co.jp/static/shosai_mado/html/1711/01.html

1946年の新憲法案に対する採決においては、枢密院と貴族院で、元東大法学部憲法学教授の美濃部達吉と京都大学憲法学教授の佐々木惣一が反対票を投じた。その後も、大石義男・京都大学憲法学教授らは、新憲法は手続き違反で無効であるという立場をとった。

ただ、現役の東大法学部憲法学教授であった宮沢俊義が「八月革命」説をもって新憲法擁護の立場に立ち、東大法学部系の同僚たちによる大々的な政治運動にかかわり、新憲法に寄り添う戦後の憲法学の成立を準備した。宮沢は、文部省教科書と全く同じ題名の書物『あたらしい憲法のはなし』を、同じ1947年に、朝日新聞社から出版した人物でもある。

新憲法否定に流れていく可能性もあった憲法学会が、新憲法の擁護者となったのは、宮沢を中心とする勢力の立場が「学会通説」「学会多数性」「学会主流」になったからである。その過程で、『あたらしい憲法のはなし』も、一緒になって、「学会通説」を表すものとなった。

しかし、だからといって『はなし』が本当に日本国憲法典の一部であるわけではない。そこには戦前の大日本帝国憲法時代にドイツ法学に慣れ親しんでいた憲法学者らによる、新憲法の読み替えがあった。

宮沢らが苦心して日本国憲法への大転換を読み解こうとした過程で、ドイツ国法学的な発想が残存する解釈が定着した。国際法に準拠し、英米法的な発想で、憲法典を読み解こうとする意識は葬り去られた。本来は憲法典の条項のある一つの解釈でしかなかったものが、絶対的な「通説」となった。日本人は、実際の日本国憲法典を読むことをしなくなった。資格試験の際に憲法学者の基本書を読むのでなければ、『あたらしい憲法のはなし』の挿絵が挿入され続けている学校教科書を読んで、憲法を理解することになった。http://agora-web.jp/archives/2027165.html

端的に言おう。1946年当時、ドイツ国法学に慣れ親しんでいた日本の憲法学者たちは、アメリカ人が主導して進めた国際秩序の変更を知らず、アメリカ人が主導して作成された国連憲章の内容を全く意識していなかった。そして1946年以降も、日本国憲法におけるアメリカの影を葬り去ることに専心し、むしろアメリカを批判する道具として憲法を使うことに躍起になってきた。

その影響の一つが、日本の憲法学における「戦争」概念の19世紀的性格の残存である。日本の憲法学は、国際法上の概念である「自衛権」を、常に「自衛戦争」と言い換えてしまったうえで、だから「すべて憲法学者に仕切らせろ」、という態度をとり続けてきている。「交戦権」概念が現代国際法ではすでに死語になっていることを無視し、憲法の基本書のみに存在して現代国際法には存在しない、摩訶不思議な「(憲法学の基本書が定める)国際法上の交戦権」なる謎の概念を日本国内で普及させる運動を展開し続けてきた。本来の日本国憲法がまさに禁止しようとしていた、19世紀ドイツ国法学の発想を残存させる運動を、日本国憲法に反して、推進し続けたのが、憲法学者たちであった。<私の議論の長谷川幸洋氏による簡潔な整理:http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54332?page=2>

私に言わせれば、石破氏も、その他の多くの日本人も、騙されているのである。憲法を語っているつもりになっていて、実は、憲法学の基本書を語っているにすぎないのである。

石破氏は、いわゆる「芦部修正」にも言及する。そして「芦部修正」を採用するのは無理だ、と主張する。典型的な憲法学の基本書の主張である。

しかし私に言わせれば、そもそも「芦田修正」なるもの自体が、憲法学者の陰謀なのである。

「芦田修正」とは、通常、1946年に日本政府憲法改正小委員会(委員長:芦田均)が、92項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を挿入する修正を行ったことを指す。憲法学「通説」は、芦田委員長が、9条が否定している「自衛戦争」を復活させる可能性を残すために、姑息にもつまらない文言を挿入する陰謀を働かせた、とする。憲法学「通説」は、そのうえで、「芦田」の陰謀は、文理上、破綻しているので、その姑息な試みは失敗している、と結論づける。

しかし私に言わせれば、この姑息な陰謀としての「芦田修正」説は、「憲法学会通説」を維持するための自作自演の芝居である。陰謀は、芦田均ではなく、憲法学会多数派のほうにある。

憲法改正小委員会が行ったのは、9条という特異な条項を憲法に挿入するにあたって、その背景を明確にしておきたい、ということだった。その背景とは、つまりすでに憲法の前文に書かれていた憲法の趣旨である。芦田にとって、「前項の目的」とは、「憲法の前文」と言い換えて全く問題ないことだった。前文の制定趣旨があって、その趣旨を反映した9条という特異な条項が生まれた。そのことを、芦田は明確化させたかったにすぎない。

憲法学会「通説」が否定しているのは、芦田の姑息な陰謀などではない。実は、憲法学会「通説」は、日本国憲法の「前文」を否定しているのである。

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日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

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「平和を愛する諸国民」とは日本国憲法起草の半年前に成立していた国連憲章に登場する言葉であり、つまり国連加盟国を指す。原加盟国の筆頭は、第二次世界大戦の戦勝国の筆頭である、アメリカ合衆国である。国際協調主義の精神にのっとり、アメリカが中心となっている国際秩序を受け入れ、その国際秩序の中で、名誉ある地位を占めたい、と宣言しているのが、日本国憲法「前文」である。したがって憲法9条は、国連憲章24項の「武力行使の一般的禁止」の原則及びその運用方法を受け入れ、さらに貢献していくために、憲法に挿入された条項である。それが、憲法改正小委員会が明確にしたかったことだ。

日本国憲法は、国際秩序に反旗を翻し、(個別的)自衛権を濫用して世界を戦争の惨禍に陥らせた経験を反映し、二度と国連憲章に反した19世紀国際法的な発想を振り回すことはしない、ということを誓っている。宣戦布告さえすれば正当に戦争を遂行できる「基本権」を主権国家は持っている、などといった今日では日本の憲法学会にしか生き残っていないような骨董品のような「交戦権」概念を、放棄しよう、と9条は誓っていたのである。

国連憲章24項で一般的に否定されている「戦争」を遂行するための「戦力(war potential)」を保持しないという2項の規定は、国際秩序を無視して暴走した大日本帝国軍の解体を正当化し、完遂させようとしていたマッカーサーの政策を裏付けるための国内法規定だ。国際法で禁止されている戦争を行うための大日本帝国軍のようなものは二度と持たない、というのが92項の趣旨であり、国連憲章で定められている自衛権を行使することも放棄する、などという乱雑な趣旨を、92項は持っていない。

1950年代に作られた内閣憲法調査会の会長を務めた高柳賢三は、すでに1963年の著作で、憲法学会通説が「芦田修正」と呼んでいること、つまり92項は自衛権を否定していないという論理は、むしろGHQの中では共有されていた、と指摘した。それを否定する論理が生まれたのは、東京帝国大学法学部出身で戦中に内閣法制局長官を務めながら、吉田茂内閣の憲法担当国務大臣として国会で憲法改正に関する答弁を担当した金森徳次郎によってであった(高柳賢三『天皇・憲法第9条』[有紀書房、1963年])。

英米法が専門であった高柳は、金森説を「通説」とした憲法学会の態度について、次のように述べた。

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私は日本国憲法ができる時に、勅選議員として貴族院で憲法討議に参加したが、新憲法の草案を見て、これは英米法的な憲法だなと思った。そのときからこの法を大陸法的な頭の日本法律家が妥当な解釈をするまでには相当混乱が起こるだろうという感じをもっていた。この予感は間違いでないことが段々分かってきた。例えば戦争放棄の第9条の解釈でこれが現れた。

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高柳が会長を務めた内閣憲法調査会は、1955年保守合同で改憲の機運が高まったときに設置されたものである。結局、高柳の強いリーダーシップで、改憲の必要はない、という結論が導き出される。英米法が専門の学者であった高柳は、「前文」で謳われている趣旨に沿って9条を解釈すれば、何も問題がない、GHQ関係者もそのような意図を持っていたことが調査で確証された、と判断し、改憲の必要はない、という結論を導き出したのである。

ところが憲法学会「通説」にそっていくと、「戦前の復活」を狙っていた憲法調査会の連中が、憲法学者らが主導した憲法擁護の「国民の声」に圧倒されて、遂に改憲を提案することができないところまで追い詰められた、といったストーリーになってしまう。

私に言わせれば、これはほとんど陰謀である。

高柳賢三は、1963年に、次のように述べた。

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(憲法)学会の通説について顧みると、ドイツ法学から十二分に学んだ法典実証主義の影響が第九条の解釈についても濃厚にあらわれていた。つまり刑法典や商法典の解釈方法とおなじ手法で、日本国憲法を解釈するという傾向がつよかったが、それが第九条の解釈にもあらわれていることが印象的であった。アメリカではジョン・マーシャルの古い警戒の言葉、すなわち、われわれの解釈せんとしているのは憲法であることを忘れてはならぬということが憲法解釈の金言として尊重されている。・・・マ(ッカーサー)元帥が一面日本は自衛のためにはいかなる措置をもとりうるとして九条の成文の規定を抹殺するかの如き態度をとりながら、他面これを不朽の記念塔として大切に保存すべきであろうとする“複線的解釈”は日本の法律家には了解に苦しむものがある。

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こうした事情から、今日でも、石破茂氏らは、9条の「複線的解釈」に苦しむ。そして、「削除」しかない、という結論に達する。

石破氏は、「いわゆる芦田修正」への反証として、次のように述べる。

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①もし第1項を「自衛のための武力の行使はできる」と解するならば、そのための戦力を保持できることは自明のことであり、第二項をわざわざ置く意味は全くなく、むしろ「前項の目的を達するため陸海空軍その他の戦力を保持する」と書く方が自然なのではないか

②同時に憲法に自衛のための組織に関する統制の規定や、自衛権行使にあたっての規定を置くのが当然ではないか

③「前項の目的を達するため」は「国の交戦権はこれを認めない」という部分にはかかっておらず、この部分は芦田修正にかかわらず生きているのではないか

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  について言えば、1946年初頭の日本では、まだ大日本帝国軍の解体も完成しておらず、今日の言葉で言う「DDR(武装解除・動員解除・社会再統合)」は、むしろ達成すべき一つの困難な政策課題であったことを想起しなければならない。近衛師団の残存勢力であった禁衛府と皇宮衛士総隊の解散指令をGHQが発したのが、ようやく463月である。今日の日本人は「必要最小限」の概念に毒されてしまっているため、「多少の量なら温存して良かったなら、憲法でそう言ってくれればよかったのに」といった発想にとらわれがちである。しかし「解体」の基準になるべきなのは、「量」ではなく、「質」だったのである。大日本帝国軍を受け継いでいる19世紀的な「戦争」組織は全面的な「解体」「放棄」対象であるのに対して、現代国際法に沿って自衛権を行使するための組織なら導入してもいい、と言うことに、何も矛盾はない。それどころか、それこそが国際法にそった考え方であり、世界の諸国の普通の考え方である。「質」でなく、「量」を基準にする発想は、ほんとうの日本国憲法の仕組みではなく、憲法学の陰謀的な発想の所産である。

  自衛組織や自衛権行使の規定が憲法典にないことは、何ら不思議なことではない。そもそも日本国憲法が目指していたのは、現代国際法を基盤にした国際秩序にしたがって国家を運営することだったのだから、国際法で規定されていることは、単に国際法を守ればそれで済む。また、国内組織に関する事柄は、通常法で規定するのが当然だ。憲法に組織法の規定がなくても、何も不思議なことはない。

  「交戦権」(rights of belligerency)否認の意味は、「二度と国際法を無視し、19世紀的ドイツ国法学的な国家の基本権思想などを振り回して、国際秩序を蹂躙することは致しません」、ということである。自己反省にもとづく寂しい内容の規定だが、歴史的経緯を考えれば仕方がなく、その点は「前文」ではっきり謳われているとおりである。アメリカ合衆国は、19世紀にモンロードクトリンの「相互錯綜回避」原則をヨーロッパ諸国に主張していた時代から、「交戦権否認」のドクトリンを持っていた。大日本帝国が「交戦権否認」ドクトリンに挑戦し、主権国家の戦争をする権利のようなものを振りかざしたので、「交戦権否認」を国内法規定にも入れ込ませた。「芦田修正」云々を言うことは、憲法学「通説」の陰謀に引っかかって、日本国憲法の全体的な趣旨や、歴史的背景を、意図的に見失おうとすることに他ならないのである。

*篠田英朗『ほんとうの憲法:戦後日本憲法学批判』(ちくま新書、2017年)、参照。

私が一年半ほど前からブログを書いているのは、『集団的自衛権の思想史』という本を書いてみて、少しは普通の日本人の方向けの話ができるかな、と思ったからである。ようやく幾分かの反応をいただいているが、その内容を見ると、複雑な思いにかられざるをえない。
 
現在、『平和構築人材育成事業』研修をやっているので、連日にわたり朝から夕方まで、世界中から集まってきている25名の研修員たちと、南スーダンやらマリやらの話を題材にした英語で議論をしている。ほとんどが海外から呼んでいる国連職員など30名弱の方々をファシリテーターとして数週間にわたって運営する研修で、多様なシミュレーションの筋書きなども私が責任を持っているため、けっこう夜中まで頭を悩ませたりしている。http://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/ipc/page3_002350.html
 それでも少し合間を見て、息抜きにブログの様子などを見ることは見る。そうすると、自分がいかに日本社会から乖離したところに暮らしているかを感じて、複雑な思いになってしまう。世界の現実から、日本はあまりに乖離している。もっとも、それでも日本という社会はなんとか成立はしてはいる。人口を減少させ、国力を停滞させながらも、なんとか日本社会は維持されてはいる。
 
だが本当にこのままでいいのか。このままでも、本当に日本の未来は、大丈夫なのか。
 
前回のブログの後、弁護士の早川忠孝氏が、私の文章についていろいろと反応していただいていたのに、ようやく気付いた。正直、早川氏は、私の著作はおろか、ブログレベルの文章についても真面目には読んでいないようなので、早川氏が書いていることについては、最早あまり関心がわかない。だが、印象に残ったのは、次の表現である。「それにしても、篠田さんはお若い。面白いことを言われる方ではある。」http://agora-web.jp/archives/2030772.html 
 
実は私は49歳なので、「若い」と言われるのは冗談にもならない。少子高齢化社会の日本の現実をふまえたブラック・ジョークではあるかもしれないが、真面目な描写ではない。だがそれにもかかわらず「篠田は若い」と言ってみることに、いったい何の意味があるのか。
 
「戦前の復活」「ナチスの再来」「軍国主義へのいつか来た道」・・・・半世紀以上にわたって使い古されてきた陳腐な表現でしか他人を批判できないのは、ちょっと問題ではないか、と憲法学者らを批判しているのが、私である。その私に対して、憲法学者の方々は、あえて「三流蓑田胸喜」「ホロコースト否定論者」といった正面突破の言葉を投げかける。
 
私は「面倒なことは存在していないことにしよう」という価値観を振り回すのは、大人の姿勢でも何でもない、既得権益の維持だけを狙った単なる思考停止ではないか、と主張している。その私に対して、「若いな」という正面突破の言葉で否定してみせようという人がいる。正直、暗澹たる気持ちになる。
 
若いとか、年寄りとか、そんなことは関係がない。護憲派とか、改憲派とか、そんなことは関係がない。リベラルとか、保守とか、そんなことは関係がない。親米派とか、反米派とか、そんなことは本質的な問題ではない。
 
自分が生きている社会を、もう少しだけでもいいので、良いものにしたい。そのために、相手の人格を尊重し、意見を受け止め、真摯な気持ちで対応しながら、頭を悩ませて、自分の意見を顧みながらも、他者の意見についても検討する。そういう素直で普通の生き方が、なぜ現代日本では、簡単にはできないのだろうか。

一人の言論人として気ままにブログを書いているが、真面目に反応していただける方がいらっしゃるとすれば、大変にありがたい。先日、「再度言う。自衛隊は軍隊である。」という記事を書いたところ、弁護士の早川忠孝氏に「篠田氏が何を言っても、自衛隊は自衛隊でしかない」という題名の記事を書いていただいた。わざわざ言及していただき、大変に光栄である。
 
しかも「自衛隊はどこから見ても『軍隊』だ、などと断言されない方がいい」、「篠田氏は、もう少し違った切り口から問題提起をされては如何か」、という忠告もしていただいた。そのうちにまた、憲法学者・司法試験(公務員試験)受験者の方々に、「三流蓑田胸喜だ」「ホロコースト否定論者だ」と言われるぞ、というご忠告だろう。大変なご親切なお心遣いに謝意を表する。
 
だが、早川氏の文章の内容は、理解できない。
 
早川氏は、自衛隊は軍隊ではない、と断言する。そしてその理由として、次のように述べる。
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「日本の国民が期待する自衛隊の役割は、あくまで日本の国民の安全確保や国土の保全のための活動であって、自衛隊はその名称に端的に表れているように、あくまで「自衛」のための組織であって、国際平和維持活動の場合を除いて、自衛の限度を超える活動までは基本的に求められていない。」http://agora-web.jp/archives/2030718.html
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しかし、早川氏は、日本以外の世界の全ての国は、国際平和維持活動を除いた自国の防衛以外の目的で軍隊を保持している、というお考えの根拠を、全く示していない。そもそも国際平和活動や自国の防衛以外の目的だという謎の目的が、どんなものなのかも全く示していない。
 
もちろん、日本以外の全ての国が、謎の目的を掲げて軍隊を持っているという事実を、私は知らない。しかし、早川氏だけは知っているらしい。
 
そうだとすれば、早川氏は、責任をもって、日本以外の全ての国々が、今、この現代国際法が適用されている21世紀においてなお、自国の防衛や国際平和維持活動以外の何らかの謎の目的で軍隊を保持している、ということを、しっかり立証するべきだ。
 
もし立証しないで他人の言論活動を一方的に封殺する行動だけをとろうとするのであれば、無責任のそしりを免れない。
 
たとえば海外に軍事基地を置くアメリカなどは、日本よりも集団的自衛権や集団安全保障に対応する体制をよりよく整えているだろう。しかしアメリカが自衛以外の目的で軍隊を保持するに至った、などと言う話を、私は聞いたことがない。集団的自衛権は、集団で行使する自衛権であり、つまり自衛である。日本の憲法学の基本書で説明されておらず極東の島国の司法試験勉強時に国際法を習わなかった、という理由で、国際法で確立されている自衛権の論理を否定したつもりになってみせるのは、やめてもらいたい。
 
たとえば世界中の人々が、アメリカのアフガニスタン戦争は国際法上の自衛権で正当化できるか、イラク戦争は正当化できるか、という考え方で議論をしている。前者は大多数が認めるが、後者は認めない。前者が認められるのは、911テロを本土攻撃とみなし、攻撃者勢力に対する自衛権の発動として認められうるからである。いずれにせよ、「アメリカなどの世界の国々は自由気ままに他国を攻撃できる軍隊を持っている、そのような軍隊を持っていないのは日本だけだ」、などという話は聞いたことがない。日本の憲法学者/司法試験受験者だけは、それが真面目な法律論だと信じているということなのだろうか。
 
また現代国際平和活動は、国連憲章7章、つまり集団安全保障の法理で支えられている。試しに憲法学の基本書のことは忘れ、日本国憲法それ自体を素直に読んでみれば、日本は憲章7章がかかっていない国際平和活動には参加しても良いが、憲章7章がかかっている国際平和活動には参加してはいけない、などというややこしい話が存在していないことは、すぐわかる。
 
早川氏は、軍隊の存在に関する規定が憲法にはないと言うが、日本は国連憲章を批准し、自衛権に関する憲章51条を含めた国際法規を受け入れている。憲法が明示的に否定していなければ、国際法規がそのまま適用されるのが当然である。
 
早川氏は、国際海洋法に関する規定が憲法にはないので、国際海洋法は違憲だ、と主張する準備があるだろうか。異常なロマン主義的な思い入れによる「全て憲法学者に仕切らせろ」マインドを排して冷静に考えれば、国際法の概念である自衛権も、本来は同じなのだ。多くの憲法学者はそれを認めない、というのは、むしろ政治運動の話であり、「法の文理解釈」の話であるとは言えないと思う。
 
早川氏は、中国や韓国が怒るだろうから自衛隊は軍隊ではないと言っておいたほうが得策だ、といったことを滔々と述べる。しかし、果たして、このような一方的な思い込みにもとづいた政治漫談が、早川氏が誇る「法の文理解釈」のことなのだろうか。
 
1960年代に国際法学者は、連日ベトナムに向けて爆撃機が飛び立っている米軍基地がある沖縄を、「事前協議制度」を持つ日本が返還してもらったら、集団的自衛権の行使に該当してベトナム戦争に参画していることになる、と指摘した。1972年、沖縄が返還されたとき、「集団的自衛権は違憲なので行使していない」、という政府見解が公表された(拙著『集団的自衛権の思想史』)。早川氏の価値観は、このような集団的自衛権の歴史が示すものと同じに見える。「面倒なことは、存在していないことにすればいいじゃないか」、という価値観である。
 
常日頃、憲法学を信奉する方々は、「権力を制限するのが立憲主義だ」と唱えている。それでは軍事力を保持する集団を、軍法又はそれに相当する法規範で制限することを推奨するのかと言えば、それには反対する。なぜなら軍法を作ってしまうと、自衛隊が軍隊になってしまうからだという。そして軍法がないので、自衛隊は「フルスペックの軍隊」(憲法学特殊用語)ではない、といった堂々巡りの話が始まる。このようなやりとりは、本当に「法の文理解釈」だと言えるのか。特定イデオロギーにもとづく政治運動なのではないか。
 
早川氏は、著作家ではないので、残念ながら著作活動は確認できない。ただし以前のブログ記事などを見ると興味深い記述があったりする。
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「私は、自衛権は国家の自然権であり、憲法に明記されていなくても当然ある、という立場に立っている。」(早川氏のブログ:20171125日)http://agora-web.jp/archives/2029679.html
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「国家の自然権」があるという思想を持つのは自由だと思うが、法的根拠が何もない勝手な空想である。これが早川氏の言う「法の文理解釈」というものなのか。
 
憲法学会に「国家の自然権」思想がはびこっているのは、私も知っている。戦前の大日本帝国憲法時代に、プロイセンに留学した者が憲法学教授になり、ドイツ国法学の観念論こそ世界最先端だと誇っていた時代があったことの名残である。
 
アメリカ人との戦争に日本が負けてしまったため、世界最先端を誇っていた大日本帝国憲法時代の憲法学は一夜にして消滅する危機にさらされた。よほど悔しかったのだろう。日本国憲法をドイツ国法学で解釈し続けるという離れ業によって、古い憲法解釈の伝統はいくつかの点で維持され続けた。
 
実際の日本国憲法は、前文において、「国民の厳粛な信託」こそが「人類普遍の原則」であると謳い、アメリカ流の社会契約論を基盤にしていることを明らかにしている。しかし日本の憲法学では、社会契約論は軽視され、なぜかフランス革命の伝統を引き継いでいるという壮大な歴史物語を根拠にした国民主権論にもとづく有機体的国家論が残存した。(拙著『ほんとうの憲法』参照)
 
しかし、もう大日本帝国憲法は存在していない。それどころか冷戦体制も終わってしまった。「面倒なことは、存在していないことにすればいいじゃないか」、という態度は、大人の態度でも何でもない、もはや単なる時代錯誤的な態度である。面倒を惜しまず、存在していないものは存在していないと認め、存在しているものこそ存在しているものとして認めていくのが、本筋である。
 
資格試験等を通じた既得権益を持ち、特定のイデオロギーを持つ者だけが集まる「ムラ社会」の雰囲気を理由にして、「ムラ」に属さない者を一方的に軽蔑し、排除しようする行為、それを「法の文理解釈」などといった言葉で脚色しようとするのは、是非やめてもらいたい。

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