「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文その他の情報や、時々の意見・解説を集めています。以前にホームページとして掲載していた情報ともリンクさせています。

 自民党の全国会議員を集めた憲法改正推進本部の会合が、昨日開催されたという。現在、自民党内の議論は、安倍首相の自衛隊合憲性明記を追記する提案と、石破茂・元幹事長の9条2項削除論の意見が、対立軸になっているように見える。
 私自身は、6月12日に、自民党の憲法改正推進本部のお招きを受けて、話をさせていただいた。私の話が終わるや否や、真っ先に手を高々とあげて質問をしてくださったのは、石破・元幹事長であった。非常に熱情こもる話しぶりであり、真面目さが伝わった。
 私は石破・元幹事長の現行憲法理解には全面的に賛同する、と申し上げた。また改憲案としての2項削除案は綺麗な案であることは間違いないと述べた。ただ自分自身は、自衛隊の合憲性明確化は早期に確定したほうが良いと考えるので、争いが少ないだろう首相提案のままでいいのではないかと思っている、と述べた。
 以前に書いたブログ記事では、首相案のまま提案するのか否かは、「政治判断だろう」、と書いた。http://agora-web.jp/archives/2025987.html
 ちなみに私は、やはり以前のブログで、「護憲派は改憲案に賛成すべきだ」、という意見を書いた。http://agora-web.jp/archives/2025881.html
  しかし、残念ながら、実際には、改憲に賛成する護憲派はいないようである。それどころか、護憲派は、「政治判断」以前のいわば誤解を広めて、何としても改憲を阻止しようという政治運動を展開する構えのようである。
 健全な論争は、もちろん望ましい。しかし政治運動を優先させて、誤解、あるいは意図的な問題のすり替えを広めようとするのは、邪道である。そこでまずは、扇動主義の蔓延を少しでも防ぐための解説を施しておきたい。

<ポイント1:但し書きは一般条項に優越する>
 自衛隊の合憲性を明記する9条3項(9条の2が良いという見解もあるようだが、ここでは便宜的に新設の3項と仮に呼んでおく)は、2項に対する但し書きになるはずである。「特別法は一般法に優越する」のが法解釈の大原則である。したがって但し書きは一般条項に優越する。つまり但し書きが明記された時点で、自衛隊は2項の「戦力」に該当しないことが、文言上疑いのないものとして確定する。但し書きを作っても、なお2項で「戦力」が禁止されているので矛盾が残る、といった議論は、端的に間違いである。
 巷では、首相案では、9条に自衛隊禁止規定と合憲規定が混在して混乱してしまう、などと言っている憲法学者がいるが、全く成り立たない。2項が自衛隊を禁止しているという理解が生まれる余地を消し去るのが、新設3項の但し書き規定になる。但し書きがあっても2項があるので自衛隊は禁止され続ける、といった話を流布しようとしている憲法学者は、法学者というよりも、混乱の拡張を狙う政治運動家だ、と言わざるを得ない。
 英文で「Force」が2項で禁止されているのにSelf-Defense Forceが合憲化されるのはおかしいとか、自衛隊をしっかり軍隊にしないと自衛隊員が可哀そうだといった「自衛隊員なりすまし」式の言説も見かけるが、議論としては全く成り立たない。2項で禁止されている「War Potential」としてのForceに、自衛隊というForceが該当しないことが、但し書き規定によって確定されることになるはずだ。同じForceという語だと曖昧だという話は、現在の状態に対する評論ではありうるかもしれないが、新設但し書き3項案への批判としては成り立たない。また現時点でも、「実力組織」としての自衛隊は、Militaryとしての軍である。軍隊にしてやらないと可哀そうだといった議論は、現状でも成り立っていない。どうしてもということであれば、新設3項の但し書き規定に、自衛隊は2項で禁止されている戦力ではない「軍隊」だ、ということをしっかり明言すればよい。
 9条2項の「戦力」概念は、日本国憲法特有の法律概念であり、そのような概念として理解しなければならない。「僕は戦力という言葉をこう考えています」「私は戦力という言葉を聞くとこういうことを想像します」といったレベルの話は、憲法解釈論とは言えない。まして新設の但し書き3項が作られた後でも、「とにかく、何が何でも僕は戦力という言葉をこう解釈するので、憲法典が但し書きで何を言おうとそんなことは知ったことではない」というレベルの言説に固執しようとするのは、少なくとも憲法解釈の議論とは言えない。
 これもやはり以前のブログで書いたが、http://agora-web.jp/archives/2026481.html 但し書き3項が設定されれば、2項で禁止されている「War Potential」という「戦力」が、侵略戦争などの国際法違反を犯すための「戦力」であるという解釈が確定することになるはずだ。なお私自身は、この解釈は、しっかりと前文から日本国憲法を精読すれば、現在であっても自然に見えてくるはずの解釈だとも考えている。

<ポイント2:但し書き追加に反対するのは政治的立場である>
 以上をふまえると、但し書き3項によって自衛隊の合憲性を明確にする提案に反対する立場は、法的見解をめぐる立場ではない、ということが判明する。それは、自衛隊の合憲性を明確化することに反対する、という政治的立場のことである。仮に、その立場をとっている者の職業がたまたま憲法学者である場合でも、そういう立場をとるという判断は、政治的立場をめぐる判断である。

 ここまでをふまえたうえで、次に2項維持案と削除案を比較すると、次のようになる。

<ポイント3:維持案のメリットは解釈の安定性にある>
 2項を維持する案は、「戦力ではない自衛隊」を明確化するという案である。言うまでもなく、従来の政府見解は、自衛隊は2項の「戦力」ではない、というものであった。したがって維持案のメリットは、従来の政府の立場を変更するコストを防ぎながら、自衛隊の合憲性を文言の上で明確化できることにある。従来の政府見解との整合性や、新たな位置づけを与えられる自衛隊を確立し直すコストを回避したいのであれば、維持案がよい。

<ポイント4:削除案の意味は自衛隊の再構成にある>
 上記のメリットは、立場を変えると、デメリットになる。「戦力ではない自衛隊」という位置づけに不備を感じる場合に、2項を削除すべきだという意見になる。従来の政府見解を正すのであれば、2項を削除することが、わかりやすい。自衛隊を新たに国防軍として位置づけし直すのであれば、2項の制約はないほうが望ましいということになる。2項削除案のポイントは、現状の変更を恐れずに自衛隊の位置づけを再構成して国防軍の設置を求める、ということである。

  619日付『朝日新聞』の長谷部恭男・早稲田大教授と杉田敦・法政大教授との間の「対談」を読んだ後、気分が悪くなった。なぜだったのか、一晩寝かしてから、もう一度考えてみた。

 「安倍政権マフィア化」という品のない題名も、ハッとはする。政権は個人攻撃をしているからマフィアだと言いながら、首相の個人攻撃に終始する記事を載せているのは、同じ学者として、暗澹たる気持ちになる。が、ここ数年の政治運動の仕組みを考えれば、特に今さら驚くほどのものではないのかもしれない。

 気分が悪くなったのは、自衛隊に関する記述部分だ。「改憲の道具として自衛隊利用」という見出しの欄で、長谷部教授は、次のように述べた。

 

「自衛官の自信と誇りのためというセンチメンタルな情緒論しかよりどころはありません。そう言うといかにも自衛官を尊重しているように聞こえますが、実際には、憲法改正という首相の個人的な野望を実現するためのただの道具として自衛官の尊厳を使っている。自衛官の尊厳がコケにされていると思います。」

 

 ここでは自分は自衛隊員を尊重しているが、首相はコケにしている、という文脈だ。自己説明では「俺は言っていない」ということだろう。だがそうであれば、首相もまた「俺はそんなことは言っていない」と思うに決まっていることは当然だろう。論争相手の尊厳を一切認めず、誹謗中傷だけを繰り返す、「子どものケンカ」である。

 しかし何と言っても「子どものケンカ」の題材に、「自衛官の尊厳」なるものを、勝手に持ち出し、あたかも自分こそ自衛隊員の立場を代弁しているかのように振る舞う態度が、私の気分を悪くさせた原因だ。

これは禁じ手だと思う。というのは、憲法学者が、自衛隊員自身が発言を行うことを憲法違反として禁じているからだ。自衛隊員が自ら何かを言うと、一斉に批判の声を上げ、黙らせようとする。その上で、自衛官のことを本当に代弁しているのは、私、憲法学者であるという話を、全国紙を通じて流布しようとする。ルール違反ではないだろうか。

 

  1. 自衛隊員が、憲法改正を含めて一切の政治事項について発言するのを、「違憲だ」とまで表現して、禁止する。

  2. 次に、「首相は自衛隊をコケにしており、自衛隊員を尊重しているのは憲法学者だ」と主張する。

  3. さらに、全国紙を通じて自分の政治的思想を「自衛官の尊厳」の名で広める政治運動を展開する。

 

 憲法学者は、こういった論理構成に慣れている。「主権者・国民」こそが絶対的で、政府を常に制限するのが国民だと主張しながら、ただし「国民」は何も発言しないので、憲法学者のコミュニティが学会の多数派意見で「国民」の一般意思の内容を決める、と言う但し書きをつける。こういった発想を常識とする人々だけのコミュニテイに、数十年も浸かっていると、その論理の奇妙さに気づかなくなるのだろう。

 改憲に反対したり、首相が嫌いだと言ったりしたいだけなら、ただ「私は改憲に反対する、首相は嫌いだ」、と発言すればよい。そのうえで、自分の主張の根拠について、相手の論拠にも対応した精緻な学術的な議論を提供することに努力を払うように心がけるべきだろう。

自衛隊員の発言を違憲として禁止するのであれば、勝手に自衛隊員の気持ちを代弁するのも違憲に等しいと考えるべきだ。学界で最高権威を持つ憲法学者であれば、代弁しても許される、それどころか立憲主義の進展につながるのだ、といった発想には、私は根拠がないと思う。

 安倍内閣の内閣支持率がだいぶ下がったということで、各方面でニュースが流れている。なぜ安倍内閣の支持率は下がらないのか、と問い続けてきたメディアが、ついに安倍政権の限界が露呈した、とほとんど高揚しながら、伝えている。

 一部報道では、やはり高揚感のある野党政治家の動向を伝えるものがある。しかし近視眼的なメディアの場当たり的な雰囲気に乗せられるのは、どうかしている。良識ある野党政治家は、冷静に事態を見守り、しっかりと仕事をしてもらいたい。

 政治家は、実現したい政策を実現するために政治家をやっているはずだ。ただ単に現下の内閣支持率が下がったといって喜ぶ一部の野党政治家のあり方は、理解に苦しむ。たとえ内閣支持率が変わらなくても、自分の掲げる政策に関する理解が広まったときに、喜びを感じるのが政治家のあるべき姿ではないか。

 実現したい政策があるのなら、選挙に勝ちたいと思うのは、当然だ。勝つために戦略的に動くのが、当然だ。つまり次の選挙で過半数を獲得するために、選挙区割だけではなく、時間軸をとって効果的な世論喚起の方法を計算し、さらに幾つかのオプションを比較較量したうえで、日々検証しながら、現在の政策的立場を表現していくことが、当然だ。ところが、日本の野党は、そういう当然のことをやっているように見えない。

世間の人々は、戦略を持って、日々の仕事に従事している。戦略を持っていない人に尊敬の念が湧かないのは、当然だ。

 強行採決を演出しようとするのも、無理がある。コンセンサス方式への信奉に訴えようとする態度は、国対政治ボケである。

そんなことよりも、政権獲得したらどういう政治をするつもりなのかを表明し、与党より優れたことを言っているという印象を国民に与えるために、審議の機会を活用すべきだ。

野党が広告代理店を雇っているといった話も聞くが、実績のある経営コンサルタント会社などを雇って成長戦略を作ることにもう少し力を入れたほうがいいのではないか。

 日本の議会政治の行方には、野党が持っている責任が重い。

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