「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

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 イデオロギー対立の中で他者否定の際に使う「紋切型」には、いくつかのパターンがある。たとえば「戦前の復活だ!」などが、誰でも知っているお馴染みの紋切型だ。憲法学者特有のややテクニカルな例では、「芦田修正説だ!」などの紋切型がある。http://agora-web.jp/archives/2031014.html http://agora-web.jp/archives/2030895.html 
 一般に「芦田修正説」とは、憲法92項冒頭の「前項の目的を達するため」という挿入語句が、1項の「国際紛争を解決する手段」という文言にかかるので、2項が禁止する「戦力」は、侵略戦争のための戦力だけだ、とする立場を指すことになっている。
 
ただし実際には「私は芦田修正説を支持する」などと言っている人はいない。憲法学通説に立つ者が、他者否定する際に都合がいいので、頻繁にこうした紋切型を用いるだけである。気にいらない相手を見ると、片っ端から「それは芦田修正説だ、読解が破綻している、したがってお前はもう否定されている」、と言い放つという現象である。
 
歴代の東大法学部系の憲法学者たちが推進した伝統的な憲法学通説は、「前項の目的」の文言で91項の限定を引き継ぐことはなく、だから、92項で全ての戦力は放棄される(自衛隊違憲論)、というものであった。なお、伝統的な憲法学通説は、「前項の目的を達するため」という文言を、91項冒頭の「正義と秩序を基調とする国際平和」にかける、と説明されることがある。しかしこれはレトリックの域を出ていない。もしそうならば前文にさかのぼり、国連憲章体制への信頼にさかのぼらなければならないのに、憲法学通説が「国際」社会の「正義と秩序」を語ってきた形跡はない。東大法学部在学中に司法試験に合格したという弁護士の方も、「日本国憲法が希求している目的が『正義と秩序を基調とする国際平和』だ、などという議論はこれまで一度も聞いたことがない」と証言している。http://agora-web.jp/archives/2031329.html blogos.com/article/280280/  日本の法律家の憲法9条認識は、こんなものだろう。
 
ちなみに政府見解は、2項が言う「前項の目的」は91項全体にかかり、「戦力ではない最低限の実力」の保持を否定しない(自衛隊合憲論)、というものである。政府は「芦田修正説」は採用していないという立場だが、結論はあまり変わらないので、政府見解も、伝統的には憲法学者の間で評判が悪かった。
 木村草太教授の『自衛隊と憲法』においても、この「芦田修正説」を経由した他者否定にページが割かれている。ただし特徴的なのは、木村教授が、「芦田修正説」の否定に、自説の「軍事権のカテゴリカルな消去」なるものを使う点である。
 木村教授によると、「芦田修正説を前提にすると、日本国憲法は、侵略戦争にあたらない限り、軍隊による軍事活動を行う権限を規定しているはずです」(45頁)。そして「軍事活動」は、立法でも司法でもなく、内閣の権限を定めた憲法73条にも該当がないので、「もし芦田修正説を採り、日本は軍隊を持って良いと解釈すると、軍隊を憲法でコントロールすることが全くできないことになってしまいます」(50頁)と述べる。憲法には「シビリアンコントロールの規定すらありません」(51頁)。
 そうだろうか。たとえば、木村教授の言う「軍事権」なる謎の第四の権力が、実は木村教授の想像の産物でしかない、と考えてみたらどうだろうか。そうすれば、木村教授の自作自演の懸念は、解消する。
 非常に有名なので木村教授も当然知っているはずだが、憲法改正特別委員会(芦田委員会)が9条の文言に追加を行ったのを知った連合国の極東委員会は、憲法662項「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」、という規定の挿入を求めた。一般には、将来の軍隊の創設を察知して、最低限の文民統制の仕組みを憲法に入れ込んだ、と解されているはずだ。「文民」とは軍人以外の者のことを指すので、軍人が不在の社会では「文民」規定は意味をなさない。
 
実際には、今の日本でも、たとえば自衛隊の日報問題のような事件においてすら、「シビリアンコントロール」のあり方が問われている。それに対して木村教授は、「軍事権は憲法からカテゴリカルに消去されているのだから、自衛隊の日報問題でシビリアンコントロールなどという言葉を使うのは間違いだ」、と主張しているのだろうか。
 
伝統的には、芦田修正説とは、憲法学者では、「京都学派」の佐々木惣一・元京都大学教授(滝川事件の際に辞職)や大石義男・京都大学教授が、採用していたとされる。確かに、佐々木や大石の著作を見ると、「前項の目的を達するために」という文言に着目したうえで、保持しない戦力は侵略のための戦力だけだ、とする議論が見られる。
 
しかし佐々木や大石の見解を、強引に「国際紛争を解決する手段」に「だけ」引き寄せた陰謀論的な読み方の産物だとして否定するのは、アンフェアだと思う。そもそも佐々木や大石は、自分たちは「芦田修正説」論者だ、などと言っていなかった。佐々木・大石説とは、つまり91項の内容と整合するように2項を解釈するという立場だったのであり、その議論の実質部分において、日本政府公式見解と大差がない。つまり侵略戦争を目的にしない戦力は保持できるという佐々木や大石の見解は、自衛権行使のための必要最低限の実力だけは保持できるという政府見解と、大きな違いはない。
 
むしろ疑問なのは、宮沢俊義や芦部信喜ら東大法学部系の憲法学者が採用していた、「全ての戦力が否定されているので自衛隊は違憲だ」、という伝統的な通説を、今、憲法学通説を名乗る側は、きちんと清算しているのか、ということだ。木村草太教授らは伝統的な憲法学通説とは違う立場をとっているのに、なぜ依然として芦田修正説のレッテル貼りによる他者否定を踏襲するのか。
 
冷戦が終わってしばらくして、21世紀になるころ、1995年に東大法学部教授になっていた長谷部恭男氏が、伝統を慎重に見直す動きを始めた。http://agora-web.jp/archives/2029141.html そしていまや憲法学界の頂点に君臨する長谷部教授は、自衛隊合憲論は、「良識」の問題だ、と主張するようにまでなっている。http://agora-web.jp/archives/2032313.html 21世紀の初めに東大法学部を卒業した年次の木村教授は、長谷部教授が一世を風靡した後の第一世代といった位置づけなのだろう。しかし、そうだとしたら、長谷部/木村教授は、なぜ宮沢俊義、小林直樹、芦部信喜、樋口陽一、さらには清宮四郎や佐藤功や鵜飼信成を入れてもいい、歴代の東大系の憲法学者たちが、「良識」を欠いていたことを、まず批判しないのか。
 
東大系の憲法学者らは、92項で戦力を全面否定していた。それどころか、1項で「国際紛争を解決する手段」という留保を付すことにすら意味がないと言い、自衛隊どころか自衛権行使まで否定していたのではなかったか。彼らは、そのような徹底した立場から、否定したい相手の見解を「芦田修正説」と呼んで蔑視していたのだ。はっきり言って、長谷部/木村教授の修正説は、ほんの数十年前なら、「芦田修正説」と呼ばれたようなものだろう。
 
早い時代からほぼ同じ結論を先取りしていた京都大学の教授陣の不名誉を顧みず、いまだに延々と「芦田修正説」なるレッテルについて、語っているのは、どういうことなのか。木村教授の場合、議論の内容を変えてしまっているので、「芦田修正説」という表現は、ほぼ意味を失っている。それでも延々と他者否定のためにレッテルだけを使い続けるのは、知的に誠実な態度と言えるだろうか。
 
せめてまず、長谷部/木村説をとる者は、長谷部教授の理論にしたがって、「宮沢俊義、小林直樹、芦部信喜らは、良識を欠いた人物であった、良識ある法解釈を行うという憲法学者の定義に反しているので、似非憲法学者であった」、と宣言するべきだ。http://agora-web.jp/archives/2032313.html 
 
木村教授は、憲法9条によって全ての戦力が否定されるのが本来だが、憲法13条の幸福追求権によって、個別的自衛権に関することだけは合憲になるのだ、と説明する。だが、結論を見れば、それは伝統的な憲法学通説よりも、むしろ佐々木・大石説に近づいている。
 
なお13条の援用自体は、木村教授や1972年内閣法制局見解のオリジナリティではない。憲法9条と13条を照らし合せて解釈すべきだという主張は、すでに吉田茂に仕えた内閣法制局長官の佐藤達夫の1959年の著作に見られる(『憲法講話』[立花書房])。しかしそこでは個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲だ、などという議論は出てこない。ただ憲法が許している「戦力に至らざる軍隊」の概念が説明されたりしているだけだ。92項は「戦力」不保持の規定なので、「戦力」の質か量の話をするのでなければ、92項について話していることにならない。
 
「芦田修正説」は否定したい相手を否定したかのように振る舞う際に使うレトリックだが、結果を見れば、木村教授は、政府見解の論理を踏襲しようとしており、結論部分では、佐々木・大石説に近づいている。むしろ木村教授の結論部分で否定されるのは、宮沢俊義以来の「芦田修正説」を拒絶していた伝統的な憲法学通説のほうである。
 
「芦田修正説」のレッテル貼りが間が抜けて見えるのは、結論を見ると相手方に近づいていることを誤魔化すために、「芦田修正説」なる言い方を利用して、伝統的な東大法学部系憲法学通説への忠誠心の表明だけは維持しようとしている点だ。
 
繰り返そう。かつて東大法学部系の憲法学通説は、全ての戦力を否定する結論、つまり自衛隊違憲論をもっており、同調しない人々の意見を「芦田修正説」として批判していた。現在、「長谷部恭男・木村草太修正説」は、かつての憲法学通説を骨抜きにして、自衛隊は合憲、自衛権も個別的自衛権だけは合憲、という修正した立場をとっている。結論を見れば、長谷部教授や木村教授が、憲法学通説を修正して、京都学派の立場に近づいたのである。なお長谷部/木村説では、自衛隊合憲説は、「良識ある法解釈」を行う憲法学者の結論である。したがって歴代の東大法学部憲法学者の面々には「良識がなかった」という推論こそが不可避である。だがそこはお茶を濁すために、「芦田修正説」の批判、といった都合のいいレッテル貼りの表現だけを残存させて、東大法学部系の憲法学者の相互批判の事態を避けている。
 
憲法学界ポリティクスに関わりを持たない者は、「芦田修正説」なる意味のないレッテル貼りに惑わされないことが肝要だ。中身のない軽蔑ゲームの繰り返し以上のものを何も生み出さない。
 
いずれにせよ、少なくとも最も曖昧で混乱しているのが「長谷部/木村修正説」である点には、特に注意を払っておく必要がある。

<続く>

 木村草太教授の『自衛隊と憲法』では、第1章が「国際法と武力行使」と題された国際法の話になっている。それをあえて第1章に持ってきたのは、「集団安全保障や個別的自衛権・集団的自衛権の概念そのものを悪者扱いするのは妥当ではありません」とまず言っておきながら、すぐさま、「(それらを)正当化する根拠は、とても濫用されやすい、危険なものである点に注意が必要」という警告で留保するためだっただろう(37頁)。
 木村教授は、回りくどいやり方をとるだけで、結局は、国際法を無視することを提唱する。
 「国際法は、国内法と違って、それを強制執行する仕組みが未発達です」(37頁)、という典型的な「国内的類推(domestic analogy)」の言い方をする。http://agora-web.jp/archives/2031774.html そして次のように言って、国際法に関する章を結ぶ。

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国際法上の権利濫用を防ぐためには、各国で、武力行使を厳密にコントロールし、国際法違反を防ぐ憲法・法律、行政上の仕組み、司法システムを整えなくてはなりません。そこで、次に、日本国憲法の武力行使の統制についての規定を見て行きましょう。(37頁)

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 そう言ってから、木村教授は、もう国際法の話に戻ってくることはしない。延々と憲法は集団的自衛権を否定している、といった話をするだけである。
 
これは少しおかしな態度ではないだろうか?
 
たとえば「表現の自由」が濫用されたと言って嘆く人が、「そこで私は自分自身に表現の自由を行使することを禁止する」と宣言し、一生涯無言で過ごすとしたら、どうだろう。周囲の人々は、「素晴らしい理想家だ」といって賞賛するだろうか。むしろ「なんか、あの人、勘違いしているよね」、と思うだけではないだろうか。権利の行使を禁じることでは、自分が濫用する可能性を滅することはできるかもしれないが、他人の濫用を防ぐことも、濫用に対抗することもできないし、そもそも権利を保障している自由な社会を発展させることはできない。
 集団的自衛権の意義を認め、ただ濫用の危険性だけを心配するのであれば、正しい集団的自衛権の行使方法を実現するように国内法を整えるのが、当然の措置だ。集団的自衛権の行使を全て禁止するといった方法は、侵略行為への対抗手段を保障して国際法秩序を維持しようとする国際的な努力を無視することに等しい。
 木村教授は、集団的自衛権は、「組織法」と「作用法」の二つの観点から、違憲だと述べる。前者が、憲法に授権規定があるか、後者が、憲法によって禁止されていないか、という審査だという。
 
後者をめぐる木村教授の議論は、「軍事権」に関する問題とあわせて。後に述べることにしたい。今回は、集団的自衛権を根拠づける規定が憲法にはない、という木村教授の主張について取り上げる。
 
木村教授は、憲法73条で列挙されている内閣の活動に、集団的自衛権が含まれることはない、と主張する。なぜなら集団的自衛権が、日本の領域内で「国内統治作用」として行われるものではないから、だという。
 
それではなぜ、外交官でもない国家公務員が海外の会議に出席するのは違憲にならないのか。ソマリア海賊対策でジブチに基地を持って自衛隊が海賊対策を行うのは違憲にならないのか。なぜ木村教授は、国連PKOに参加する自衛隊員は、「外交関係を処理すること」をしているにすぎないといった大胆な主張をすることに躊躇しないのか。
 
なぜ木村教授は、たとえば、憲法には「海洋法」における「公海」上の「航行の自由」などを根拠づける規定がない、「公海」は憲法が授権することができない「国内統治作用」を超えたものだ、したがって「航行の自由」を行使することは違憲だ、などと主張しないのか?あるいは「航行の自由」は「国内統治作用」なのか?
 
もし木村教授が「国内統治作用ではありません」と宣言すると、憲法61条・73条に基づいて内閣が締結し、国会が批准した条約であっても、憲法982項にしたがって「誠実に遵守する」対象とはみなされなくなるというのは、どういう憲法理論なのか。
 
日本が主権回復を果たした際の1951年サンフランシスコ講和条約は、「日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認」している。同時に締結された日米安全保障条約も、日本が「国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認」した。翌年に日本の国会は国連憲章を承認し、日本の加盟申請は1956年に認められ、51条で集団的自衛権を定める国連憲章それ自体が、正式に日本国憲法982項が「誠実に遵守すること」を求める対象となった。
 
これらの条約は、全て憲法が定める正式な手続きにそって締結・批准され、国内統治作用の仕組みにそって、憲法が「誠実に遵守」することを求める対象となった。あとは国境を越えた活動になる場合に、管轄権を持つ国の同意を得て、国際法上の要件を満たせばよい。攻撃された国の同意があって初めて行使される集団的自衛権も、全く同じはずだ。
 
もっとも執行に関する手続きが法制化されていなければ、実際には内閣は執行することができない。自衛権に関する事柄だけでなく、あらゆる条約について、国内法上の執行手続き規定が必要とされる。憲法73条を適用するためだ。
 
現在の日本では、2015年安保法制で認められた範囲内でしか、集団的自衛権を行使できない。安保法制を超えた範囲が違憲だからというよりも、まずは執行手続きを定める通常法がないためである。逆に言えば、安保法制の範囲内の活動は、憲法731項の「法律を誠実に執行し、国務を総理する」という規定にもとづいて、内閣が執行する。
 
木村教授の場合、安保法制は違憲なので、731項は適用されないだろう。ところがなぜ憲法は集団的自衛権を認めないのかと言えば、73条に該当規定がないから、だという。
 
論理の前に結論があるトートロジーだと言わざるを得ない。
 なぜこのようなことが起こるのかというと、木村教授が初めの一歩から、「国際法上の権利濫用を防ぐため」、国際法上の権利を否定する、という錯綜した態度をとるからである。私に言わせれば、このような態度は、日本国憲法982項違反である。

<続く>

 木村草太教授の新刊『自衛隊と憲法』(晶文社)は、「憲法と自衛隊の関係について、適切に整理」し、「改憲論についても、ポイントを解説」したものだという(67頁)。確かに、他の木村教授による著作と比べると、穏便な文章になっている印象は受ける。それでも繰り返し「理性的・合理的な議論からは程遠い」「現在の憲法を理解しない人々」を、「有害無益」と断じていく姿勢は、随所で健在だ(6頁、143頁)。メディア関係者らのためのガイドブックであると紹介されるが、結局は木村教授の主張が一方的に提示される。
 内容面で言うと、同書では、このブログですでに私が木村教授らの議論の問題点として指摘した諸点が列挙されている。私としても、あらためて問題点を整理してみるにはいい機会かもしれないとも思う。複数あるので、何度かに分けて書いていきたい。
 まず取り上げたいのは、集団的自衛権の扱いである。木村教授は、数年前の安保法制成立の際の喧騒時に、『報道ステーション』などのメディアともかかわりながら、集団的自衛権違憲論を展開した人物である。http://agora-web.jp/archives/2032093.html だが木村教授は、「(2015年安保法制の)集団的自衛権の限定容認についても、合憲的に解釈する余地はあります」(115頁)とも述べる。ただし「存立危機事態条項は、憲法九条違反である以前に、そもそも、漠然、不明確ゆえに違憲」だともいう(125頁)。
 集団的自衛権は、範疇として常に違憲だが、しかしときどきは合憲で、結局は法律が漠然としているから違憲だという。
 
私は二年前の拙著『集団的自衛権の思想史』で次のように書いたことがある。

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木村草太・首都大学東京教授は、2014年に集団的自衛権行使を容認する閣議決定が出た際には、これは合憲だという主張をしていた。「憲法学者として七・一閣議決定の中身を見ると、『従来の解釈と完全に整合している』と読むことができる文章にはなっていると思います。公明党議員の方々が、与党協議でかなり頑張ったということでしょう」と述べ、「個別的自衛権と重なる範囲で、集団的自衛権の行使を認めたものであり」、「日本国憲法の枠内に収まっていると評価」していた。違憲であるはずの集団的自衛権も、個別的自衛権と重なっていれば合憲になるという立場であった。ところが、その木村教授は、長谷部教授が安保法案は違憲だと明言し始めた頃には、安保法案違憲論を声高に唱えるようになっていた。やがて、「たいていの憲法学者が憲法違反と言っていますし、国民の間でもそのことが理解され、『憲法違反だと思う』というような回答が世論調査で多数を占める状況になっています。したがって、法案が憲法違反であるという点は決着がつきました」、と断言するようになった。・・・

たとえば、個別的自衛権と集団的自衛権が重なる部分があり、その部分において、集団的自衛権の違憲性が優越せず、個別的自衛権の合憲性が優越する、という理論をとってみても、それ自体として新しい理論であり、議論の余地があったはずだ。少なくともそのような見解を、過去に日本政府が示した経緯はない。200378日に民主党の伊藤英成・衆議院議員は、小泉内閣に対して提出した「内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問主意書」において、個別的自衛権と集団的自衛権は重なるのか、重なる場合にはどちらが優越するのか、という質問を行っていた。これに対して同年715日に小泉純一郎・内閣総理大臣名で提出された「答弁書」は、個別的自衛権と集団的自衛権の「両者は、自国に対し発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において、明確に区別される」、と返答していた。そのためこの答弁書においては、両者が重なる場合にはどうなるのか、という質問に対する回答はなされなかった。

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 木村教授によれば、個別的自衛権と集団的自衛権は「行使要件が異なる別々の権利」(33頁)だが、「個別的自衛権と重なる範囲で、集団的自衛権の行使を認め」ることができる。
 
木村教授は、「政府解釈や憲法体系を全くと言っていいほど理解していない」人々を嘆いている。その一方、木村教授は、個別的自衛権と集団的自衛権は「明確に区別される」という上記の政府答弁は無視して、二つは重なることができ、重なると「合憲的に解釈する余地」が生まれる、と主張する。
 
控えめに言って、わかりにくい主張である。どういうときに、どういう正当化事情で、個別的自衛権と集団的自衛権が重なり、どうして前者が優越して合憲となるのか。木村教授が学術論文を書いて丁寧に説明した気配はない。
 
そもそも一方が違憲であり、他方が合憲である二つの事柄は、どのようにして「重なる」ことができるのか?少なくとも個別的自衛権と「重なる」と集団的自衛権は合憲になりうるとすれば、どうやって集団的自衛権を一つの範疇として常に違憲だと断言できるのか?
 
木村教授は、安保法制の文言に関して、「存立危機事態とは、『外国への武力攻撃が、同時に、日本への武力攻撃の着手である事態』を意味すると理解するのが文言上は自然です」(123頁)、といったことを述べる。「重要な答弁がなされています。・・・公明党の山口那津男代表は、『武力攻撃事態等と存立危機事態が私はほとんど同じなのではないか、ほとんど重なるのではないかと思う』と指摘しました」(125頁)などとも述べる。
 
しかし「存立危機事態」や「武力攻撃事態等」といった概念は、あくまでも日本の国内法制上の概念である。それらが常に必ず集団的自衛権と個別的自衛権と同じものを指しているわけではない。
 木村教授は、「存立危機事態」と「武力攻撃事態等」という国内法上の概念の「重なり」を、集団的自衛権と個別的自衛権という国際法上の概念の「重なり」と誤認しているのではないか?
 集団的自衛権で説明するのか、個別的自衛権で説明するのかは、国際法の観点から決定すべき話であり、日本の憲法学者が「集団的自衛権容認よりも個別的自衛権拡大解釈で説明した方が好都合じゃないか」、と思うかどうかで決めていくべき話ではない。
 
そもそも憲法にそった説明であれば、まず憲法上の言語を用いて、違憲行為の性格を描写するべきである。そのうえで、国際法上の概念が、その合憲性/違憲性の範囲にどうかかわってくるかを、具体的に論じていくべきだろう。ある国際法概念に該当する行為は全て違憲だ、という結論を、憲法学者が先取りして結論づけるのは、おかしい。
 歴史的に言えば、あるいは国際的に見れば、「個別的自衛権拡大解釈」こそが、圧倒的に危険な行為だ。日本の満州事変以降の「いつか来た道」は、個別的自衛権の拡大解釈から生まれた破綻への道だった。個別的自衛権の拡大が可能なら、集団的自衛権の容認より望ましい、というのは、日本の憲法学のガラパゴス性を如実に示す発想である。
 「個別的または(or)集団的自衛権」を発動して合法的に行動する、と言うのが、国際的に標準的なやり方である。あとは両方に対して、国際法にしたがった制約をかけていけばいい。
 
ところが、日本の憲法学者は、どうしても一方を合憲、他方を違憲、と考えることに固執するので、議論が不必要なまでに著しく錯綜してくる。
 
木村教授の憲法13条を重視する議論にしたがえば、憲法13条の幸福追求権を根拠にした「自衛権」の発動は合憲だが、13条に反する「自衛権」の行使は違憲だ、と言うのが妥当なはずだ。http://agora-web.jp/archives/2026321.html ところがそれを強引に「個別的自衛権は合憲、集団的自衛権は違憲」、というフォーマットに言い換えて結論づけようとするから、無理が生じる。
<続く>

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