「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

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丸山眞男が、1969年の東大紛争で研究室を荒らされた後、全共闘の学生たちに「君たちのような暴挙はナチスも日本の軍国主義もやらなかった」、と述べたとされることは、有名である。<ただしhttp://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/52008482.html>

 全く不謹慎な表現である。第二次世界大戦の死者は、推計5,000万人以上、ナチスによる凄惨な虐殺の被害者は推計500万人以上という規模だ。一人の大学教授の研究室の本が読めなくなったことなどが、それを上回る暴挙であるはずはない。丸山の発言は、日本の知識人がいかに世界情勢に疎く、独りよがりのレトリックに沈殿していたかを示す象徴例だ。

逆に言えば、日本の知識人が言う「戦前の復活」「ナチスの再来」などは、大学教授の研究室が荒らさられる程度にも酷いことではなく、いわば頻繁に起こっている日常的なことでしかない、ということだ。そのレトリックは、国際的には使ってはならないタブーだとしても、日本ガラパゴス島の知識人でいる限りは大した問題にはならないので、憲法学者らが毎日毎日せっせと他人を罵倒する際に使っている、それだけのことにすぎない。

「立憲主義の破壊」などといった大仰な言葉も、ふたを開ければ、東大法学部出身者ではない者を内閣法制局長官にした、といったレベルの話でしかない。このことを、たくましい想像力によるものだとみなすか、枯渇した感性によるものだとみなすかは、どちらでもいい。本来は、知識人層は、「アベ政治を許さない、と唱えれば、君も立憲主義者だ」、のような話を延々と続けるだけの態度を、恥じるべきだ。少なくとも、もう少し物事を長期的に、できれば本質的に、見た話をするべきだ。

 憲法学会の「隊長」・長谷部恭男教授は、「国民には、法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかない」と述べる。そして、社会契約論を否定する(『憲法と平和を問い直す』[2004年])。残っているのは憲法学者による独裁制だろう。拙著『ほんとうの憲法』では、このような憲法学者の独裁主義は、日本国憲法の否定である、と論じた。

 日本国憲法に「三大原理」なるものがあり、その一つが「国民主権」であるというのは、1960年代に小林直樹・東大法学部教授らによって憲法学会の通説になり、学校教科書などに入り込み、社会に浸透した。しかし憲法典を素直に読めば、そのような読解は自然ではない。憲法が「基く」「人類普遍の原理」とは、人民の人民による人民のための「国政は、国民の厳粛な信託による」という考え方である。「信託(trust)」の解釈にはニュアンスがあっていいだろうが、社会契約の論理の完全否定は、致命的な反立憲主義だ。

 現在、日本は、低経済成長が常態化する中、巨額の財政赤字を膨らませ続けながら、人口減少時代に突入しようとしている。これこそが現在の日本の立憲主義の本質的危機であることを、知識人層は、きちんと説明すべきだ。

 立憲主義は、「信託」に基づく「責任政治」によって成り立つ。社会構成員は、自分の権利を守り、安全を確保し、さらに幸福を追求するために、そのための環境の整備という任務を政府に与え、「国政」を「託す」。定期的にチェックし、不備があれば政府を取り換える仕組みを維持しつつ、責任を持った活動を行わせるための「信託」は行う。

 もしそうであれば、政府の活動に必要な経費は、社会構成員が負担するのが当然である。事業委託者は、費用負担を前提にして、事業受託者に、業務遂行を委託する。受託者(実施者)による契約不履行の場合、委託者(発注者)が契約を破棄できるのは、費用負担していればこそである。逆に、委託者(発注者)が費用を負担しないなら、受託者(実施者)は、事業の実施を拒絶する。それが契約というものだ。

 イギリスやアメリカの古典的な立憲主義体制においては、選挙権は、財産=納税の有無によって制限されていた。自治の論理を純粋に追求すれば、納税の有無が決定的な要因であってもやむをえなかった。後に民主主義的価値観の広がりにより、納税能力を選挙権の制限に適用することは廃止され、累進課税や法人税の考え方も発展したが、「契約」関係を重視する立憲主義の考え方は、英米社会では消えなかった。

 現代世界において、天然資源を豊富に持つ「レンティア国家」で立憲政治が育たないのは、税金徴収を媒介にした「契約」関係に基づく責任政治が育たないからだと考えられている。たとえば石油収入だけで政府を運営することができ、国民も石油収入のおこぼれにあずかることだけを求めているような社会では、立憲政治は非常に難しい。政府は、石油市場への責任政治を重視しがちになるからだ。

 また、国家収入のほとんどが外国からの援助で占められているような場合も、税金徴収を媒介にした「契約」関係に基づく責任政治が育たない。対外援助が恒常的なものであってはならないとされるのは、そのためである。政府は、援助提供者への責任政治を重視しがちになるからだ。

 もう一つ、立憲主義に、天然資源や対外援助と同じ効果をもたらすのは、借金である。政府が借金漬けになれば、政府は債権者への責任政治を重視しがちになる。

 日本の財政赤字をめぐっては、国債の暴落はあるか、という点に議論が収れんしがちである。そして政府保有資産額や国内債権者比率の評価の話になる。しかし立憲主義の観点から問題なのは、国債暴落の有無だけではない。そのような議論が蔓延しているということ自体が、本来の立憲主義の責任政治の観点からは問題なのだ。社会構成員が、少なくともその能力に応じて、社会を運営する活動に貢献して初めて、政府に責任政治を求める契約関係が発生する。政府資産の評価額や、国債保有者の国籍などは、関係がない。

 心ある立憲主義者は、国債発行額のさらなる圧縮を目指し、財政健全化のために、知恵を絞るべきなのである。政党間対立は、そのための政策的競争を促すための誘因とするべきなのである。政権交代は、複数の方法を試してみるための制度的な保障とするべきなのである。

 このような話をすると、9条改憲をすると軍事費が増大して、財政赤字が拡大する、といった憲法学者らの声が聞こえてきそうである。しかし9条改憲それ自体と、財政赤字には、論理的な連動性がない。「改憲はナチスの再来だ」といった自己催眠にかかる場合にのみ、連動性があるように感じられてくるだけだ。

 むしろ国会議員を不毛なイデオロギー論争やパフォーマンス競争から解放し、真摯な政策論に専心させるためには、9条解釈を確定させることが望ましい。「立憲主義とは、アベを許さないということだ」といった低次元の扇動だけを繰り返すのではなく、もっと社会的問題の本質を論じていく努力を払うべきだ。

  2018年の国政は、憲法改正が大きなテーマになるという。言うまでもなく改憲の本丸は9条である。平和国家の仕組みを話し合う議論が成熟する機会となれば、素晴らしい。
  しかし野党第一党の立憲民主党などは、9条改正を認めない立場をとっていない。「立憲主義違反」の安倍政権が続く限り、改憲がなされても結果を認めない、といった発言もあった。
 国会で改憲発議を止められない冷戦時代「革新」党系勢力が、議論の質で存在感を見せようとするのではなく、国会内外のパフォーマンスに知恵を絞るとしたら、不毛である。「戦前の復活」「ナチスの再来」「軍国主義化」「独裁国家化」など、お馴染みの紋切型が、「立憲主義違反」なるシュプレヒコールとともに、扇動的に唱えられるのだろうか。そうなると、改憲を議論する年は、あらためて不毛な対立の年になる。
 改憲することが立憲主義を失わせることだ、などというのは、ナンセンスである。まして霞が関の慣例に従った内閣法制局長官の任命をしないと立憲主義違反になるとか、芦部信喜と違う憲法解釈をとると立憲主義違反になる、などいうのも、全くナンセンスである。
 責任ある政治家たちが、不毛なパフォーマンスを繰り返し、不必要に国力を疲弊させ続けることこそが、立憲主義国家としての日本の危機である。
 もっとも、そういう不毛な方向に進む可能性は高いような気がしてならないが・・・。

『現代ビジネス』に、2017年の世界情勢について振り返る拙稿を掲載していただいた。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53952 それにしても、世界情勢の中で、日本国内の様子は、のんびりしすぎているような気がしてならない。
  私個人としては、2017年は、前年に出した『集団的自衛権の思想史』で読売・吉野作造賞をいただき、その続編ともいえる『ほんとうの憲法』を公刊した年だった。日本国内の議論向けに、関連した話題を何度かブログで書いた年でもあった。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinodaそれだけに、日本国内の議論の閉塞状況を、これまで以上に痛切に感じた年でもあった。
  2017年当初は、稲田朋美大臣の拙劣な答弁もあり、自衛隊の南スーダンが話題となっていた。「駆けつけ警護」の適用例となったということもあり、「アベ首相は自衛隊員を殺したがっている」、「任務を遂行すると自衛隊員は殺人者になる」、「駆けつけ警護は改憲して戦争をする国になる第一歩だ」、などなどといった、私に言わせれば無責任極まりない扇動的な言説が、連日のようにメディアに登場していた。http://agora-web.jp/archives/2026898.html

そして自衛隊は撤収した。私はブログで、非常に残念だ、と書いた。http://agora-web.jp/archives/2024887-2.html日本の国際貢献の活動が、大きく停滞することは必至だったからだ。2018年になる今も、次の国連PKOへの派遣は、全く目途がたっていない。近い将来には、発生しないだろう。ありとあらゆるレトリックを使って自衛隊のPKO派遣を邪魔し続けた方々には、勝利宣言をしてもらいたい。
  正直、私は、「権力を制限することが立憲主義だ=自衛隊を批判することが平和主義だ」のような全く無責任なイデオロギー論で、自衛隊のPKO派遣を、思いつきの言葉を羅列して非難し続けた方々を、快く思っていない。しかし、まあ、終わったことだ。年も変わるところで、気にしないようにしたい。このような言論界しか持たないまま、国力を低下させていく日本の国際貢献が、ますます目立たないものになっていくのを、今後も見守っていくだけだ。(それにしてもいつまでも日本のほうが中国より上だと無根拠に信じ続けるのだけはやめたほうがいい。)
  自衛隊を即時撤収させよ、日本は南スーダンにそれ以外の方法で支援するべきだ」といったことを繰り返していた人々は、それ以降、ほんの少しでも「それ以外の方法」について発言しているのだろうか。そもそも「それ以外の方法」について、具体的な政策論のレベルで、考えるという作業くらいを、しているのだろうか。全く見ることがないのだが。
 「権力を制限することが立憲主義なのだ、権力を制限することは常に素晴らしいことなのだ」、といったドクトリンを信仰している方々に、こんな指摘をしても、まあ何の意味もないことだろうけれども。
  201710月の衆議院選挙の際には、「リベラル保守」を標榜する立憲民主党なる政党が現れて、50議席を獲得する「躍進」を見せた。旧民進党左派議員をコアにして、共産党の票を奪っての「躍進」であった。溶解し続けてはいるが、構図としては「55年体制」への回帰を志向した「保守」である。http://agora-web.jp/archives/2028661.html

私は、冷戦時代の「革新」政党を復活させて、高齢有権者層を中心にアピールをしても、支持率を2割以上にするのは難しいし、10年、20年の単位で見ると、ジリ貧だろう、といったことをブログで書いた。立憲民主党が本当に政権を担う政党になるのであれば、アキレス腱である外交安全保障政策について、改憲などを通じて現実主義路線に転換させたうえで、内政問題に焦点をあてるべきだ、とブログに書いた。http://agora-web.jp/archives/2029204.html

枝野幸男代表は、今のところ、全く逆の方向性を選択している。自らの2013年の改憲案を放棄し、体系的な外交安全保障政策を打ち出すことを放棄し、政権担当政党になることを目指すことも放棄し、支持率1割強程度で、100議席にも満たない議席を死守することを目的にしているような姿勢を貫き続けている。
  もちろん、あと10年、20年、自分の議席を維持することだけを目的にして行動するのであれば、支持率1割強の高齢有権者のための政党であり続けるのは、合理的だろう。だが冷戦時代ノスタルジア(=何を言ってもアメリカは日本を見放さない)、一億総中流ノスタルジア(=現代日本が1960年代と違うのはアベのせい)、学生運動ノスタルジア(反体制であることはカッコいい)に浸り続ける態度は、将来世代に対しては、もはや罪深いことではないだろうか。
  野党第一党が、万年野党主義の復権を図り、少数派政党の現有議席の維持を至上命題にして行動するとき、最大の犠牲者となるのは、実質的な政権交代の選択肢を失う有権者であり、特にそのような閉塞した社会に生き続けなければならない若者層だ。残念だが、日本は、そのような閉塞した状況に、さらに深く入り込もうとしているように見える。
  年の瀬のブログは、本音ベースで、暗いトーンになってしまった・・・。

 

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