「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文その他の情報や、時々の意見・解説を集めています。以前にホームページとして掲載していた情報ともリンクさせています。

 枝野幸男氏を代表とする立憲民主党の誕生を受けて、関連したブログ記事をいくつか書いてみた。すると、池田信夫氏も枝野氏について書いているのを目にした。http://agora-web.jp/archives/2029216.html 枝野氏が自分は「30年前だったら自民党宏池会だ」と発言したことを批判する記事だ。これは、池田信夫氏が正しい。

 宏池会の生みの親である池田勇人は、外交安全保障政策では完全に前首相の岸信介が作り上げた枠組みを踏襲した。だからこそ所得倍増計画を打ち出して、逆に経済に国民を専心させることができた。池田首相は、JF・ケネディ政権に寄り添い続けた日米同盟重視者であった。拙著『集団的自衛権の思想史』で論じたが、池田首相の時代までは、集団的自衛権は違憲だという言説はなかった。

 池田と共に吉田茂の弟子として知られる佐藤栄作は、実際には自分の派閥を持つ宏池会のライバルであった。佐藤は、1964年に池田の三選阻止を唱えて総裁選に立候補するが、敗北した。佐藤が首相になったのは、池田が病で倒れたからだ。この佐藤栄作政権末期に、沖縄返還が目指されるようになり、集団的自衛権を違憲とする言説が登場するようになった。そして1972年の集団的自衛権を違憲とする初めての内閣法制局文書が作られたのは、佐藤派出身の田中角栄が首相に就任した直後のことであった。
 田中角栄は、ニクソン大統領とキッシンジャー大統領補佐官を苛立たせた首相であった。ロッキード事件は、田中に対する報復であったという噂が絶えないのは、そのためだ。沖縄返還後に不安定化した日米同盟を再確立したのが、宏池会出身の大平正芳であった。憲法学者の石川健次・東大法学部教授は、「
9条が、同盟政策の否定によって成り立っていることは、明らかです」(『世界』20158月号)、と述べるが、初めて日米関係を「同盟」という言葉で公式に描写した首相として有名なのが、大平首相である。大平首相もまた日米同盟重視の立場であった。宏池会から続いて首相になった鈴木善幸も野党から国会で「同盟」の語の使用について責められたが、動じなかった。
 枝野氏が言及する「30年前の宏池会」というと、宮沢喜一の時代になる。1990年代に首相になった宮沢は、若い時から対米交渉にも深く関わった米国通だ。PKO法の成立に尽力したことも思い出される。宮沢が、集団的自衛権を違憲とする議論を厳しく批判した人物であったのは、極めて有名である。


 
「これまである人たちの解釈によると、横須賀沖の公海で日本がどこかから攻撃を受けた。そこで自衛隊と米海軍が一緒に行動をしているときに、米国の軍艦がやられた。
それを日本が助けると、それは集団的自衛権の行使になるから憲法違反であるという。かくのごとき解釈は、ほとんど法律家の資格のない人の言うことですね。」(中曽根康弘・宮沢喜一『対論改憲・護憲』[1997年])

 集団的自衛権行使の容認を唱えた宮沢のサンフランシスコ講和条約調印50周年(2001年)の際の講演も、有名だ。宮沢が「護憲派」だったのは、現行憲法のままで、集団的自衛権の行使は可能だ、と考えていたからにほかならない。

 時折、宮沢が主張していたのは、限定的な集団的自衛権だけだ、と言う人がいる。根本的に間違っていると思う。そもそも日本以外の全ての国が、国際法によって、個別的自衛権の行使も、集団的自衛権の行使も、制約されるのだ。集団的自衛権は違憲だが、個別的自衛権なら(制約されず)合憲だ、などという国際法を逸脱した勝手なことを言う態度こそが、満州事変のような危険な道に陥らせる。
 宏池会は、一貫して日米同盟重視の伝統を持っていると言える。宏池会が「護憲派」のイメージがあるのは、日米同盟と護憲主義の両立が、宏池会の伝統だからだ。反米主義に徹する余り、集団的自衛権をまとめて違憲にしてしまうのは、「30年前の宏池会」とは言えない。「9条は同盟を否定している」と主張する憲法学者に従い、安保法制に賛成するのは反立憲主義者だ、と叫ぶことを、「30年前の宏池会」と描写するのは、適切とは言えない。
 枝野氏は、立憲民主党を政権担当能力の政党に育てたいのであれば、よく勉強していて気の利く助言者を雇ったほうがいい。「憲法学者へのアンケート結果」だけを信奉しながら、自分は「30年前の宏池会」の立場だ、といったことをつぶやいていたら、政権担当能力を疑われる。

今回の衆議院選挙で最も注目度を上げたのは、枝野幸男・立憲民主党代表である。55議席の小政党の代表でありながら、「躍進」した「野党第一党」の党首として、民進党時代とは違う存在感を作り出した。
 小池百合子氏に「排除」された「リベラル」派が結集した、と報じられた。私は、「排除」されたのは「リベラル」ではなくて、冷戦時代に「革新」と言われていた勢力のことだろう、とブログで指摘した。http://agora-web.jp/archives/2028661.html 実際、団塊の世代が、立憲民主党の支持者層の中核であったことが、各種調査から判明している。https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2017_1024.html
 冷戦時代からの「革新」勢力である限り、立憲民主党には、万年小規模野党のジリ貧の運命が待っている。ただし、枝野氏は「冷戦時代からの革新」勢力支持者層を固める戦術を中心にしながら、一方では将来に向けた布石を打っていた。自らを「リベラル」と呼ぶことを拒絶し、むしろ「保守」であることを強調した。http://agora-web.jp/archives/2028734.html 小林よしのり氏ら「保守」派を自認する有名人が応援演説に駆けつける場面もあった。
 そこで選挙後に、私は、立憲民主党の未来は改憲にある、というブログ記事を書いた。http://agora-web.jp/archives/2029087.html せっかく将来に向けた布石を打ったのであれば、次はそれを活かす方策を考えるのは、野党第一党党首の責務だろう。
 高村正彦自民党副総裁は、立憲民主党に改憲論に入ってもらいたい、共産党は誘わないが、という秋波を送った。http://www.asahi.com/articles/ASKBW435ZKBWUTFK004.html 枝野代表は、この流れに乗るかのように、9条改正論議に参加する代わりに、首相解散権を制限する憲法7条の見直しに関心があることを表明した。http://agora-web.jp/archives/2029186-2.html 
 もし自民党が7条改憲を拒絶しなれば、当然、立憲民主党は9条改憲を拒絶しないということだ。立憲民主党の支持基盤を考えれば、そのような折衝が進展することに、大きな意味がある。
 私は93項追加案に賛同しているが(もちろん具体案が出ていないので、現時点では「9条解釈を確定させる3項追加」を提案しているにすぎないのだが)、改憲の現実性が高まっているとは考えていない。今回の衆議院選挙でも、与党側が大勝したとはいえ、世論に影響を与える大きなモメンタムを作り出したとまでは言えない。
 もし自民党が本当に改憲に本気なら、枝野代表を、野党第一党党首として、厚遇するはずだ。
 立憲民主党からすれば、政策を出せる健全な野党である、ということをアピールする大きなチャンスだろう。そもそも国政選挙に先立って改憲問題に一定の決着をつけることができれば、立憲民主党は、内政面に焦点をあてた国政選挙に臨むことができる。それは外交安全保障政策での不安感がつきまとう立憲民主党にとっては、大きな意味を持つ。
 もし枝野代表が本当に立憲民主党を政権担当能力のある政党に育てることに本気であれば、仮に支持者を意識して慎重に振る舞うとしても、改憲発議は容認するだろう。
 枝野幸男代表こそが、改憲の鍵を握る人物だ。


なお、私個人の希望を述べれば、そういう構図が作れるのであれば、なおさら自衛隊の存在の合憲性を明確するだけでは、物足りない。自衛隊の活動の合憲性をきちんと明確化する憲法解釈確定案を出してもらいたい。
 この機会に、自民党には、是非、現行憲法が国際法と調和する性格を持っているものを強調し、国際法にそって自衛権を運用する解釈が最も安定する、ということを、日米同盟重視の政策とあわせて、強調することを検討してほしい。
 そうなると立憲民主党は、集団的自衛権を違憲とし、国際法と調和する憲法案を否決する運動を、米国への「従属」解消を唱える政策とあわせて、展開することになる。(「保守」である枝野代表を支持する小林よしのり氏の説明https://yoshinori-kobayashi.com/13735/) 
 枝野代表は、安保法制は違憲だと言い続けなければならない立場に自らを追い込んでしまった。政権担当できる責任政党に立憲民主党を育てたいのであれば、大きな足かせである。早く処理しておくべきだ。永遠に「憲法学者へのアンケート」を参照し続けるスケールの小さい政治家像から脱皮するためには、集団的自衛権を違憲とする改憲案を、積極的に提示するべきだろう。日本がすでに批准している国連憲章に留保を付ける措置の明確化も行うべきだろう。

長谷部恭男教授については、以前にもブログでも書かせていただいた。http://agora-web.jp/archives/2027653.html だが、「立憲」民主党が衆議院選挙で「躍進」し、「立憲主義」という硬派な概念が再評価されている今、あらためて長谷部教授の著作を読み直してみることには、意味があるかもしれない。
 言うまでもなく、長谷部教授は、2015年に衆議院憲法調査会で「安保法制は違憲だ」という意見を述べて有名になった憲法学者である。憲法調査会を取り仕切っていた自民党の船田元議員は、長谷部教授が特定秘密保護法案などに賛成してくれていたので油断した、などと述懐した。しかしそれは長谷部教授のような超一流の学者に対して失礼な態度だっただろう。長谷部教授は、長きにわたり、集団的自衛権を違憲とする論者であった。
 現役憲法学者の最高峰に位置する長谷部教授の「違憲」発言は、民主党議員らを歓喜させ、「違憲法案廃止」の運動を大いに盛り上げた。しかしその結果として、船田議員が、役職を外されただけではない。民進党は、自民党に対抗し得る外交安全保障政策を打ち出せなくなった。そして、2017年に、分裂せざるを得なくなった。長谷部教授が国政に放った影響力の甚大さには、あらためて驚嘆せざるを得ない。
 長谷部教授は、『憲法と平和を問い直す』(2004年)で、護憲派の立場を維持しつつ、絶対平和主義=自衛隊違憲論の憲法学界の同僚を批判した。東大法学部憲法学のエース・長谷部教授の自衛隊合憲説は、当時の憲法学に衝撃を与えた。しかし、2017年の今日、憲法学者が口をそろえて「自衛隊は昔から合憲なので改憲の必要はない」という立場で、「アベ政治を許さない」ために大同団結できているのは、10年以上前に長谷部教授が身を挺して打っておいてくれた布石のおかげだ。
 拙著『ほんとうの憲法』の書評を読売新聞で掲載してくださった三浦瑠璃氏は、安保法制の前の一時期に憲法学者が政府寄りの立場をとったことについてふれていた。http://www.yomiuri.co.jp/life/book/review/20170828-OYT8T50024.html これは長谷部教授のことであろう。ただし、当時の長谷部教授には、むしろ孤高のイメージがあった。
 「安保法制は違憲だ」という発言で、俗にいう長谷部教授の「失地回復」が果たされた。発言後、長谷部教授は、201510月に全国憲法研究会代表に就任し、さらに201610月には日本公法学会理事長にも就任して、憲法学者が集う二つの学会の長を同時に務めるようになった。今や長谷部教授が自信満々で「国民には、法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかないのです」と述べるのは、裏付けのない行動ではない。
 このような背景を持つ長谷部教授の集団的自衛権の違憲論は、「立憲主義」によって、どのようにして説明されるのか。「立憲主義」の概念をかかげて憲法の平和主義を説明したことによって、朝日新聞や野党勢力をはじめとして、国政にも甚大な影響を与えた長谷部教授は、果たしてどのように「立憲主義」を駆使して、自衛隊は合憲だが、集団的自衛権は違憲だ、と論証したのか。
 不明である。
 なぜなら、長谷部教授は、立憲主義と集団的自衛権を、結び付けていないからである。
 長谷部教授は丁寧に立憲主義の観点から、自衛隊の合憲性を導き出す議論を展開した。それでは集団的自衛権はどうか。実は、長谷部教授は、立憲主義の観点からは、集団的自衛権の違憲性を、全く説明しない。集団的自衛権違憲論は、長谷部教授の「立憲主義」とは、実は、関係がない。長谷部教授の議論において、立憲主義と自衛隊の合憲性は、結びついている。しかし、立憲主義と集団的自衛権の違憲性は、結びついていない。
 長谷部教授によれば、立憲主義は、「公」と「私」を区分し、「公」が「私」に介入しないようにすることから、生まれる。価値規範が多様なリベラル・デモクラシー=立憲主義体制においては、「私」の意見の内容を、「公」が決めることができない。そこで「公」による「私」の領域への介入を不当なものとして禁止するのが、立憲主義の本質である。「公」が担当するのは、社会を維持するのに必要な「調整」問題だとされる。
 

「立憲主義は、大雑把にいえば、憲法を通じて国家を設立すると同時に、その権限を限定するという考え方です。限定することがなぜ必要かと言えば、多様な世界観を抱く人々の公平な共存を可能にするために、公私を区分し、国家の活動領域を公のことがらに限定するためだと言うことができます。」(長谷部恭男『法とは何か』101頁)

 

長谷部教授は、絶対平和主義にもとづく自衛隊違憲論を排する。なぜなら、絶対平和主義が一つの特定の価値観を他人に押し付ける行為だからだという。そこで「私」の領域の多様性を守るために、最低限の自衛権の行使が認められる。これが、長谷部教授が説く立憲主義的な平和主義であり、護憲派の自衛隊合憲論である。
 だがそこからどうやって集団的自衛権の違憲性が導き出されるのか?集団的自衛権を合憲と考えると、「公」による「私」の侵食が生まれ、立憲主義が崩されるということになるのか?
 長谷部教授は、立憲主義を駆使して、集団的自衛権の違憲性を説明することはしない。むしろ突然、国家の「合理的な自己拘束」(『憲法と平和を問い直す』163頁)が集団的自衛権違憲論である、と話を変えてしまう。そして一度自らを拘束する規則を作ったのだから、それを守っていかなければならない、という「法的安定性」に話を持っていく。「アイスクリームを食べる権利は誰にもあるが、自分は健康のことを考えて食べないことにするというのが背理でないのと同様に」(同書162頁)、集団的自衛権は、「合理的な自己拘束」(同書173頁)として、違憲だという。そして「いったん有権解釈によって設定された基準については、憲法の文言には格別の根拠がないとしても、なおそれを守るべき理由がある。いったん譲歩を始めると、そもそも憲法の文言に格別の根拠がない以上、踏みとどまるべき適切な地点はどこにもない」(同書163頁)という理由で、集団的自衛権も違憲にしておかざるをえないのだと主張する。
 この長谷部教授の議論は、少なくとも「公」と「私」の区分による長谷部教授自身の「立憲主義」とは、全く関係がない。
 国家が自らを自己拘束する、というのは、ドイツ国法学的な観念論ではないか?実際に拘束する言説を述べたのは、せいぜい内閣法制局の役人なのだから、いちいち国家が自己拘束していると考える必要はないのではないか?「国家は仮想の人格であり、人為的構成物である。生身の個人とは異なり、仮想の人格は自己保存への権利を持たない」(同書157頁)としたら、なぜその人工構成物が自己拘束などをすることができるのか?なぜ『憲法と平和を問い直す』は、150頁以降に「立憲主義」が登場しなくなってしまうのか?長谷部教授は、あるときは「国内的類推(国家を擬人化して国際社会を捉える発想)」を拒絶しながら、集団的自衛権は違憲だと主張するときだけは密かに「国内的類推」をしのびこませているのではないか?それは「国内的類推」のダブル・スタンダードであり、そもそも「立憲主義」のダブル・スタンダードではないのか?
 これらの疑問が、長谷部教授に対して、次々と湧いて出てくる。しかし長谷部教授は、淡々と、最後には、堂々と、「法律家共同体」の至高性を主張するのである。憲法が法律である以上、「解釈適用が専門家の手に委ねられることには、充分な根拠がある」(同書174頁)、という言葉で、解釈をめぐる様々な論争は、憲法学会/内閣法制局への一任、という形で解決されなければいけないものとする。
 繰り返そう。この長谷部教授の議論は、少なくとも「公」と「私」の区分による長谷部教授自身の「立憲主義」とは、全く関係がない。
 集団的自衛権違憲論は、長谷部教授の立憲主義からは導き出されない。あるいは、長谷部教授は、立憲主義について二つの異なる観念を持っている。一つは、「公」と「私」の区分という一般的原理にもとづく「立憲主義」である。もう一つは、(内閣法制局と憲法学者からなる)「法律家共同体」が決めたことは「法的安定性」のために変更してはならない、という「権威主義」と言いかえるべき「立憲主義のようなもの」である。
 なぜ長谷部教授はこのようなダブル・スタンダードに陥ったのか。一つには、伝統の問題があるだろう。すでに長谷部教授の師である芦部信喜の『憲法』に、集団的自衛権は違憲だ、と書いてある。長谷部教授は、憲法学界の同僚に、「保持する実力組織にはおのずと限界がなければならない」(同書161頁)と付け加えておく必要性にかられた。「限界」があるから、自衛隊は合憲でもいいではないか、と説明できる。本来であれば、「限界」は国際法に従う、ということだけで十分だった。しかし、憲法学者が仕切ることこそが、「自己拘束」の根拠となる。そこで長谷部教授は、とりあえず、師匠の憲法学者の見解にしたがった「限界」の線引き方法を踏襲した、ということなのかもしれない。
 理論的に着目すべきは、長谷部教授の徹底した相対主義である。長谷部教授は、憲法典からは、個別的自衛権合憲、集団的自衛権違憲、という「線引き」がなされえないことを知っている。「合理的な自己拘束という観点からすれば、ともかくどこかに線が引かれていることが重要」(同書163頁)であり、「なぜそこに線が引かれているかにはさしたる合理的理由がないとしても、いったん引かれた線を守ることには、合理的理由がある」(同書164頁)。つまり長谷部教授によれば、憲法典から、個別的自衛権合憲・集団的自衛権違憲、という結論を合理的に引き出すことはできない。しかし芦部信喜先生を中心とする憲法学者や内閣法制局の高級官僚たちが「違憲だ」と決めたことを、「違憲だ」と決め続けておくことには、合理性がある。合理的なのは内容の妥当性ではなく、決定した「法律家共同体」の威信を守ることなのである。
 私はこうした立場を、団塊の世代中心主義、と呼んでいる。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53213?page=3 集団的自衛権は違憲だという見解を内閣法制局が正式に表明したのは、1972年である。団塊の世代が学生運動を起こし、成人した時期の直後だ。団塊の世代の弟のような1956年生まれの長谷部教授が属する世代からすれば、10代後半からずっと、集団的自衛権は違憲だった、ということになる。しかし、ただ、それだけのことだ。団塊の世代を中心に法律概念を組み立てることには、「さしたる合理的理由がない」。むしろ冷戦体制が終焉すれば、見直しが必至となるのが、当然ではないか。
 さらに言えば、結局、憲法学において最も重要なのは、アメリカに対する不信である。アメリカを信用しないからこそ、長谷部教授は、最後の最後には、他の護憲派の人々と大同団結できる。「自国の安全が脅かされているとさしたる根拠もないのに言い張る外国の後を犬のようについて行って、とんでもない事態に巻き込まれないように、あらかじめ集団的自衛権を憲法で否定しておくというのは、合理的自己拘束」(同書162頁)だ、という説明は、集団的自衛権の法理が予定しているわけではない状況を、日本が常に直面する状況であると言い替えてしまう説明である。政策的分析・判断で対応すべき状況を、集団的自衛権の違憲性それ自体の根拠として主張してしまう議論である。自衛隊を合憲とし、相対主義的法律観を徹底しながら、それでも長谷部教授が、集団的自衛権はそれ自体として違憲だ、と断定できるのは、同盟国アメリカが日本を騙す悪い国だということが不変の判断基準として確立されているからなのである。もし、アメリカがそれほど悪い国ではなかったら、万が一、ほんの時折でも、アメリカが合法的で正当な国である可能性があったら、長谷部教授の集団的自衛権違憲論は、説得力を失う。
 私に言わせれば、このような長谷部教授の議論は、アメリカを中心とする第二次世界大戦戦勝国=国連加盟国=平和愛好国を「信頼」して、自国の「安全と生存を保持」する「決意」を表明した日本国憲法の精神の対極に位置するものだ。少なくとも反憲法典的であり、言葉の素直な意味で、立憲主義的でない。
 しかも、この長谷部教授の議論は、長谷部教授自身の「立憲主義」とも、全く関係がない。
 私自身は、長谷部教授の最初の立憲主義の理解が、非常に立憲主義らしい立憲主義であると認める。しかし、二番目の権威主義というべき立憲主義かもしれないもの、つまり「法律家共同体」が「法的安定性」の守護神であることが至高の合理性を持っており、「法律家共同体」は絶対に否定されてはならない、という見解は、立憲主義というよりもむしろ、単なる権威主義に近い立場だと考えている。そして重要なことに、この権威主義は、アメリカへの嫌悪、あるいは日本国憲法が信頼するように呼びかけている「平和を愛する国民」にアメリカだけは含まれないと確信する思想、によって支えられている。
 自衛権というのは、個別的であろうと集団的であろうと、それ自体が「公」の行為である。万が一にも、社会を構成する自然人の「私」の領域の問題などではない。したがって政府による自衛権行使を律するのは、「公」と「私」の区別とは関係がない。「私」の領域を守るために「公」を制限するのが「立憲主義」であるとすれば、公の自衛権を公の「自己拘束」などを理由にして制限しようとするのは、全く立憲主義的ではない。個別的自衛権の行使が主張されていても、満州事変のような侵略的な事例であれば、「私」の領域を守る効果は期待できない。他方、集団的自衛権の行使が必要とされる事例でも、他国が破壊されてしまえば自国の社会構成員の「私」を守ることが不可能になるような場合には、集団的自衛権を行使することが、社会構成員の「私」の領域を守る行為となる。
 「憲法学者が内閣支持率を下げるのに役立ちそうなので利用しよう」、といった近視眼的な考え方では、崩壊の憂き目にあう。政治家の方々は、そのことを、2017年衆議院選挙で思い知っただろう。「この学者は政府寄りだ」云々といった失礼な態度を取るだけでは、政治家としても底の浅さを露呈する。しっかりと長谷部教授のような一流の憲法学者の著書を熟読し、自分のものとしていく態度をとってこそ、立憲主義的な政治家としての活路も開けてくる。
 長谷部教授の「立憲主義」を素直に適用すれば、集団的自衛権が違憲だ、とは言えない。長谷部教授の言っていることを皮相なレベルだけで捉え、字面を追って模倣する者だけが、集団的自衛権は違憲だ、と言うことができる。
 立憲主義者の長谷部教授と、権威主義者の長谷部教授が、一つの著作の中にも混在しているのは、ややこしい事態ではある。しかし、それが実際に起こったことなのである。政治家の方々も、日本国民全員も、キャリアを犠牲にする間違いを避けたいのであれば、淡々と冷静に、「合理的」視点で、長谷部教授の著作を読んだほうがいい。

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