「駆けつけ警護」という語は、国際的に存在しないだけでなく、日本の法律の中でも存在していない。したがって「駆けつけ警護」を実施するとか、「駆けつけ警護」を批判する、という言い方は、極度に混乱をもたらすやり方なので、早くやめたほうがいい。この語を使うだけで、厳密な議論ができなくなるわけなので、すべてが党派的闘争の罵倒でしかなくなってしまう。

批判を恐れているはずの政府の側が「いわゆる駆けつけ警護」、などという意味不明な言い方を乱発しているのは、奇妙である。意図的に、煙に巻こうとしているのか、「駆けつけてどんどん日本人のNGO職員助けます」的なイメージを期待して感情に訴えようとしているのか、単に墓穴を掘っているのか、いずれにしても非生産的かつ不健康である。「いわゆる・・・」などという責任主体が不明確な全くもって無責任な言い方をやめて、政府はより正確な議論を主導することを心がけるべきではないか。

今回の安保法制にともなって改正になった国際平和協力法の該当部分、第三条第五号ラ、の該当文書は、次のようなものである。

 

「国際連合平和維活動、国際連携平和安全活動若しくは人道的な国際救援活動に従事する者又はこれらの活動を支援する者(以下このラ及び第二十六条第二項において「活動関係者」という。)の生命又は身体に対する不測の侵害又は危難が生じ、又は生ずるおそれがある場合に、緊急の要請に対応して行う当該活動関係者の生命及び身体の保護」

 

なぜこの規定について、政府が率先して旗振りをして、「第三条第五号ラを『いわゆる駆け付け警護』と呼びましょう運動」、を展開しているのか、理解できない。まあ、これまでの経緯に伴う政治的事情があるということだろうけれども・・・。

駆け付け警護をめぐる議論でさらに困惑せざるをえないのは、「いわゆる駆け付け警護」といったイメージ先行の空虚な話しぶりの中で、いくつかの混乱した議論が流通していることである。背景には、国際問題全般、特に国連、さらには紛争関連地域の知識が、日本国内で不足していることがあるのだろう。

 

* 「文民保護をするのは違憲だ」 ⇒ 実際には、今回の安保法制にともなうPKO法改正だけでは「文民保護(PoC)」は無関係で、「いわゆる駆け付け警護」の任務外である。

* 「日本には軍法がないので刑法が適用されてしまう」 ⇒ 実際には、業務に伴う行為で殺人罪が適用されることはない。業務上過失致死は、刑法第三条の「国外犯」の適用対象外であり、裁くことができない。

* 「日本には軍法がなく刑法が適用されてしまうので自衛隊員が可哀想だ」 ⇒ 実際には、軍法がないことによって法的処罰範囲が緩まる可能性が高い。当該国法規との関係では国連PKO要員には国連と当該国政府が結んでいるはずの地位協定が適用されて保護される。実際に問題になりうる可能性があるのは、過失行為を犯した自衛隊員の不処罰の状態が、被害者や当該国政府によって非難されるかどうかであろうが、それは政治的・外交的な性質の問題であろう。

 

さらに目を見張るのは、次のような議論が堂々と主張されていることである。

*国連PKOなどをやっている先進国はなく、やっているのは金儲けしたい後進国だけだ。

 

国連加盟国には自国要員をPKOに提供しなければならない義務まではない。したがって提供するかどうかは政治判断であり、したがって常に撤退の権利もある。それにもかかわらず国連PKOに自国要員を提供して多大な犠牲を払っている諸国を「手当目当てでやっているだけだから金持ちの(本当?)日本がやる必要はない」といった理由付けをして否定しようとするのは、価値観の問題なのかもしれないが、ちょっと真面目な議論としては通用しないように思う。

また、アメリカ、イギリス、フランス、ロシアといった国連安保理常任理事国で国連PKO要員派遣数が日本より少ない諸国は全て、NATOEU等の地域機構を通じた形や、単独介入の形で、「平和維持軍」を、アフガニスタン、マリ、中央アフリカ共和国、南オセチア、過去にはシエラレオネやコンゴ民主共和国などに派遣してきている。これらの「平和維持軍」の政治性を議論するのは自由だが、「国連PKOだけが純粋に綺麗で本当の平和維持活動で、それ以外は汚れた邪悪な偽物の平和維持活動でしかない」、とまで断言するのは、政治的にも、学術的にも、実は簡単なことではない。
 ちなみに中国は、国連PKOに対する拠出金額では日本を抜き去って2位となっている(1位米国28.57%、2位中国10.29%、3位日本9.68%、4位ドイツ6.3%、5位フランス6.31%、6位英国5.80%、7位ロシア4.01%)。また、中国は、2,700人以上の軍事・警察要員を国連PKOに提供しており、193加盟国中12位である。ちなみに日本は54位であり、73位米国と68位ロシアよりは多いが、46位ドイツ、52位イギリス、フランス34位など、他の「先進国」には後れを取っている。中国以外のこれらの諸国は、地域機構を通じても平和活動に従事していることは、先述のとおりであるにもかかわらずである。

 

次のような議論になると、その場限りの言葉の羅列に過ぎないようにも感じられる。

 

*自衛隊員に駆け付け警護をさせるのは可哀想だから、日本は自衛隊員以外の人をどんどん使って、南スーダンの平和に貢献すべきだ。

*駆け付け警護は違憲なので自衛隊は撤退すべきだが、「国連」は、南スーダンをしっかり平和にすべきだ。

 

「南スーダンなんて遠くの国なんてどうでもいいから、早く自衛隊を撤退させよう」、という主張であれば、まだ理解は容易だ。「たとえ非難されても日本の平和だけ守ろう、日本が他国の助けを要する事態に陥ることがあったら、そのときはそのときだ、とにかく国連なんて日本には関係ない」、というのも、一つの考え方だろう。もしそういう議論が広まっているだけなのであれば、対抗する議論も明確化できる。

しかし何を言っているのかよくわからず、「わかるでしょ、雰囲気で」「いいんですか、安倍政権で」、というだけの議論を解き明かすのは、大変である。

拙著『集団的自衛権の思想史』では、日本の憲法学を事例に、雰囲気論の背景を解き明かす作業をやってみた。「雰囲気」論に対抗するのは、単純な議論を対抗させるだけでは錯綜してしまうので、かえって骨が折れる準備がいる。しかしそれでもやはり類似の作業をまた近くやってみる必要があるのだろうか。