憲法9条については、当然ながら、私もそれなりに思い入れがある。備忘録の意味も含めて、時間のあるときに、ポイントになる事を書きとめていきたい。今回はその第一回目である。

 まず、最初に、9条について注意を喚起したいのは、9条の「主語」が「日本国民」になっていることである。

日本国憲法では、前文において繰り返し「日本国民」が登場する。「われら」という表現もあわせると、前文の文章は全て「日本国民」が主語になっている文章である。言うまでもなく、憲法制定者が「日本国民」であるため、憲法全体を貫く原則や目的を宣言する前文では、日本国民が直接的に自らの名で宣明を行う仕組みが求められたわけである。

 実は、日本国憲法の条文で、9条以外には、「日本国民」が主語になっている条項はない。日本国民が主語になっているのは、前文と9条だけである。この事実は、「第二章 戦争の放棄」という章が、ただ9条だけによって成り立っているという点ともあわせて、9条が持つ特殊な性格を如実に物語る。

端的に言って、9条は、前文に類似した性格をもつ「目的」宣言条項である。憲法が目指す目的を明らかにするための宣言を行っているのが、9条である、と言うべきである。

1956年に設置された内閣憲法調査会の会長を務めた英米法が専門の学者・高柳賢三は、9条を「政治的マニフェスト」条項と呼んだ。高柳が言いたかったことは、私が9条の基本的性格は、目的宣言にある、と言うことと、同じようなことだろう。

内閣憲法調査会には、憲法学者の宮沢俊義を初めとする護憲派の学者が参加しなかった。そのため英米法が専門であった高柳が、会長に任命された。結果的に、高柳は憲法学界の主流とは異なる議論を残したが、そのため、憲法学界に全く何もインパクトを残さなかった。もちろん高柳が、政治的マニフェストである9条の文言を厳密に解釈しすぎることはない、といった趣旨の言説を展開したため、憲法学者にまったく不評であった、という事情もある。

 私も、高柳が、9条が禁止を命じている条項であるという点について、軽視し過ぎたような印象は持っている。憲法典が禁止している事は禁止しなければならない。当然だ。しかし重要なのは、そういったことではない。

 9条解釈は、「目的」にそって、行うべきだ。それがポイントである。意味不明な言葉遊びを繰り返す訓詁学を繰り返して、解釈を進めるべきではない。解釈は、「目的」にそっているかどうかを、チェックしながら、進めるべきだ。

 それでは9条における「目的」とは何か。戦争放棄?戦力不保持?交戦権否認?・・・違う。なぜならそれらは、9条を読む限り、「手段」のレベルの事柄として扱われているからだ。

 それでは「目的」とは何か?9条の冒頭は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という表現から開始されている。明らかに、これが「目的」である。つまり「正義と秩序を基調とする国際平和」の達成が、9条の「目的」である。禁止されている事柄は、この「目的」の達成のために、禁止されている。他のいかなる理由によっても禁止されていない。ただ「目的」の達成のために、禁止されている。禁止それ自体が目的ではなく、禁止は「手段」である。そのことを憲法制定者である「日本国民」は宣言している。

 9条の文言で、意味する内容や含意が明確でないものについては全て、この「目的」にそって解釈すべきである。ある一つの言葉、たとえば「戦力」、だけを切り取り、それを勝手な思い込みでわかったような前提で解釈したり、単に辞書を引いて解釈したりすべきではない。9条全体を規定している「目的」にそって、解釈しなければならない。