アゴラの池田信夫さんが、私とのビデオ番組の収録の後、「憲法学者は真理を政治的に決める『聖職者』」か、という記事を書いた。http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51998943.html 池田さんは、最近、「石川健治東大教授は『憲法の漫才師』」というブログ記事も書いている。 http://agora-web.jp/archives/2027799.html
憲法学者は、聖職者のようでもあり、漫才師のようであるのだろうか。日本社会における「憲法学者」という存在の特殊な危うさが、こうした言い方に表現されているように思う。
政治学者と比してだけでなく、民法学者やその他の法学者と比べても「憲法学者」は特殊である。より正確には、一部の憲法学者が特殊なのだが。
拙著『ほんとうの憲法』「はじめに」冒頭で引用した以下の長谷部恭男の言葉は、「法律家共同体のコンセンサス」を、「憲法で定められた裁判所の権威ある判断」といったものに置き換えると、全く異なる印象になる。ところが、長谷部教授は、憲法学者と、内閣法制局官僚を、「法律家共同体」の主要構成員として、提示した。
「法律の現実を形作っているのは法律家共同体のコンセンサスです。国民一般が法律の解釈をするわけにはいかないでしょう。素っ気ない言い方になりますが、国民には、法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかないのです」。
中世キリスト教世界では、不変の聖書の解釈を教会が独占し、政治権力を凌駕する絶大な権勢をふるった。当時の「聖職者」が持った社会規範の最終審としてのイメージは、今日でも消えていない。世界のどこに行っても、裁判所の法廷に立つ裁判官・検察官・弁護士は、特別な法服を着る。種類は様々だが、法廷に立つ者だけが着用する特別な服がある。法服を着る習慣は、聖職者の儀式の真似事をしているかのようなのだが、実際そうなのである。裁判所における判決は、世俗化された現代社会においては、教会の聖書解釈と同じ権威を持つ法律解釈を下すための威厳が必要なのである。(たとえば国際刑事裁判所https://www.icc-cpi.int/about/judicial-divisions)
ところで、内閣法制局の官僚は国会答弁で法服を着ない。憲法学者は憲法学の授業で法服を着ない。
それにもかかわらず、憲法学者の解釈が、時には憲法典それ自体をも上回る特殊な権威を持つものであるとすれば、憲法学者は、「聖職者」と「漫才師」の境界線に位置する不思議な存在になる。
一例をあげよう。日本で義務教育を受けると、憲法に「三大原理」があることを丸暗記させられる。繰り返し丸暗記されるので、大学生になる頃くらいには、万有引力の法則と同じくらいのレベルの「原理」であるかと信じ込まされるようになる。
しかし憲法典には「原理」が三つあるとは書いていない。拙著『ほんとうの憲法』では、前文を素直に読めば、「原理」は一つだ、と書いた。最高の権威を持つ原理は一つだと書いてあるように読める、ということだ。
誤解のないように言っておくが、ほかに目的や原則がない、ということではない。むしろ思いつくもの全てを拾い上げていったら、逆に三つよりは多くなるだろう。憲法発布直後であれば、美濃部達吉や清宮四郎ら著名な憲法学者が、憲法には原理が四つある、と書いた。宮沢俊義は16の原理があると書いたこともある。
文部省の『あたらしい憲法のはなし』が、憲法には三つの原理がある、と言い始めて、学校教育に広めた。ただし今日の「三大原理」と内容は異なっていた。
今日われわれが学校教育で丸暗記させられる「基本的人権の尊重・主権在民・国民主権」が憲法の三つの原理だというふうに確定していったのは、1960年代以降に小林直樹・東大法学部教授の言説以降だ、と『ほんとうの憲法』で書いた。
小林教授の授業は、東大法学部で必修単位化されていて、東大法学部の学生たちは小林教授の教科書を暗記させられていたようだ。ただし、小林教授が法服を着ていた、という話は聞いたことがない。
石川健治教授は、次のように言い方をすることに躊躇しない。
「違憲審査権を行使する正統性を裁判所に付与する努力を、憲法学はやってきた」。「違憲審査権を行使する正統性を裁判所から剥奪(はくだつ)する議論を、有力な憲法学は展開してきました」。
http://webronza.asahi.com/politics/articles/2017060500003.html
裁判所の適正な活動は何であるか、具体的な判決はそれであったかを、憲法にのっとって憲法学者が議論するということであれば、当然だろう。それは学者の仕事だ。
だが、石川教授は、そこから先を行く。憲法学者が正当性を付与した、憲法学者が正統性を剥奪した、などといったことを自慢話のように語る。
石川教授は、法服を着た者に対する、憲法学者の卓越性を自慢するのである。
私の印象では、戦後初期の憲法学者までは、このような態度まではとらなかった。憲法学者の権威を憲法学者自身が主張するようになったのは、最近の現象だろう。
憲法学者の方々は、大学の授業であろうと、テレビ番組であろうと、きちんと法服を着て、登場してみてはいかがだろうか。
憲法学者は、聖職者のようでもあり、漫才師のようであるのだろうか。日本社会における「憲法学者」という存在の特殊な危うさが、こうした言い方に表現されているように思う。
政治学者と比してだけでなく、民法学者やその他の法学者と比べても「憲法学者」は特殊である。より正確には、一部の憲法学者が特殊なのだが。
拙著『ほんとうの憲法』「はじめに」冒頭で引用した以下の長谷部恭男の言葉は、「法律家共同体のコンセンサス」を、「憲法で定められた裁判所の権威ある判断」といったものに置き換えると、全く異なる印象になる。ところが、長谷部教授は、憲法学者と、内閣法制局官僚を、「法律家共同体」の主要構成員として、提示した。
「法律の現実を形作っているのは法律家共同体のコンセンサスです。国民一般が法律の解釈をするわけにはいかないでしょう。素っ気ない言い方になりますが、国民には、法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかないのです」。
中世キリスト教世界では、不変の聖書の解釈を教会が独占し、政治権力を凌駕する絶大な権勢をふるった。当時の「聖職者」が持った社会規範の最終審としてのイメージは、今日でも消えていない。世界のどこに行っても、裁判所の法廷に立つ裁判官・検察官・弁護士は、特別な法服を着る。種類は様々だが、法廷に立つ者だけが着用する特別な服がある。法服を着る習慣は、聖職者の儀式の真似事をしているかのようなのだが、実際そうなのである。裁判所における判決は、世俗化された現代社会においては、教会の聖書解釈と同じ権威を持つ法律解釈を下すための威厳が必要なのである。(たとえば国際刑事裁判所https://www.icc-cpi.int/about/judicial-divisions)
ところで、内閣法制局の官僚は国会答弁で法服を着ない。憲法学者は憲法学の授業で法服を着ない。
それにもかかわらず、憲法学者の解釈が、時には憲法典それ自体をも上回る特殊な権威を持つものであるとすれば、憲法学者は、「聖職者」と「漫才師」の境界線に位置する不思議な存在になる。
一例をあげよう。日本で義務教育を受けると、憲法に「三大原理」があることを丸暗記させられる。繰り返し丸暗記されるので、大学生になる頃くらいには、万有引力の法則と同じくらいのレベルの「原理」であるかと信じ込まされるようになる。
しかし憲法典には「原理」が三つあるとは書いていない。拙著『ほんとうの憲法』では、前文を素直に読めば、「原理」は一つだ、と書いた。最高の権威を持つ原理は一つだと書いてあるように読める、ということだ。
誤解のないように言っておくが、ほかに目的や原則がない、ということではない。むしろ思いつくもの全てを拾い上げていったら、逆に三つよりは多くなるだろう。憲法発布直後であれば、美濃部達吉や清宮四郎ら著名な憲法学者が、憲法には原理が四つある、と書いた。宮沢俊義は16の原理があると書いたこともある。
文部省の『あたらしい憲法のはなし』が、憲法には三つの原理がある、と言い始めて、学校教育に広めた。ただし今日の「三大原理」と内容は異なっていた。
今日われわれが学校教育で丸暗記させられる「基本的人権の尊重・主権在民・国民主権」が憲法の三つの原理だというふうに確定していったのは、1960年代以降に小林直樹・東大法学部教授の言説以降だ、と『ほんとうの憲法』で書いた。
小林教授の授業は、東大法学部で必修単位化されていて、東大法学部の学生たちは小林教授の教科書を暗記させられていたようだ。ただし、小林教授が法服を着ていた、という話は聞いたことがない。
石川健治教授は、次のように言い方をすることに躊躇しない。
「違憲審査権を行使する正統性を裁判所に付与する努力を、憲法学はやってきた」。「違憲審査権を行使する正統性を裁判所から剥奪(はくだつ)する議論を、有力な憲法学は展開してきました」。
http://webronza.asahi.com/politics/articles/2017060500003.html
裁判所の適正な活動は何であるか、具体的な判決はそれであったかを、憲法にのっとって憲法学者が議論するということであれば、当然だろう。それは学者の仕事だ。
だが、石川教授は、そこから先を行く。憲法学者が正当性を付与した、憲法学者が正統性を剥奪した、などといったことを自慢話のように語る。
石川教授は、法服を着た者に対する、憲法学者の卓越性を自慢するのである。
私の印象では、戦後初期の憲法学者までは、このような態度まではとらなかった。憲法学者の権威を憲法学者自身が主張するようになったのは、最近の現象だろう。
憲法学者の方々は、大学の授業であろうと、テレビ番組であろうと、きちんと法服を着て、登場してみてはいかがだろうか。
コメント
コメント一覧 (4)
但し、「芸人・漫才師」というレッテル貼りは有効なのでどんどんやるべきですが。
長谷部教授は、私が大学生の時、ランチを御馳走してもらい楽しく議論させてもらった
先生で、個人的には大好きな教授です。頭が天才的に良い。それは対面して議論したらイヤでもわかります。
彼は若い時から「分析哲学」にも手を出していましたので、「論理学」に対する素養が深いので、それゆえ、「論理学」の考え方から「法律家共同体」論が誕生しています。
この誕生縁起を理解しておくことが大切でしょう。
「論理学」の世界では、素人は、論理言語を操ることができないので、
論理学の専門家集団だけが正しい結論や真理に到達できる、とします。
(参考:三浦俊彦氏の著書等々)
数学でも、そうですよね。
たとえば、ペレルマンが「ポアンカレ予想を証明した」として論文発表したら、
その証明が正しいか、誰が検証するのでしょうか?
「専門家共同体」以外に有り得ないでしょう。他の素人では不可能です。
実際、「三つの専門家共同体」が検証に当たりました。
この「三つの専門家共同体」は法服を着ていませんが、彼らの出す結論に対しては
「受け入れるか/受け入れないか」の二者択一しか、普通人にはできないわけです。
我々素人は、この「三つの専門家共同体」の結論を信じて受け入れるしかありません。
もちろん、数式展開を理解して読むことができれば、自分で検証結果を査読することができるでしょうが・・・普通の素人は無理です。
つまり、「論理学や数学」などの世界では、
「(良心的な)専門家共同体が正しい判定を下す」は真実です。
ですから、これと同様に、
(続)
長谷部教授は「法学」を「純粋法学」もっと言うと「純粋に論理的な法体系」として
構想しており、その流れで、「法的真理は専門家共同体でのみ判定可能」という主張をしている、と言えます。
無論、「法」とは、そもそも高度に政治的な側面を内包するもので、
ましてや「国防や自衛権」の問題となれば、なおさらなので、
「象牙の塔」の中での論理演算的な法学理論など、
現実的には機能しないことは当然ですが、
隠密外国のスパイから
「日本弱体化工作」やりませんか?
と、もちかけられ、
目の前に「ニンジン」をブル下げられば、
愛国と、自分の学問的楽しさや煩悩とを天秤にかけて、
前田喜平前文部科学省事務次官のような選択行動をして
連れ出しバーに通うなどして、「甘い汁」を吸う選択も続発するわけです。
諜報の世界では、
米国CIAの工作員スカウトは、人間の煩悩は108個と日本では言うが、そんなものではない、もっと多いよ。それを刺戟すれば、スカウトは簡単だ、と述べています。
何がほしい?地位か?名誉か?女か?金か?
ほしいものはみんな、くれてやるぞ、と。
(但し、スカウト者の本心では「このゲス野郎、この程度のニンジンで簡単に国家を裏切り工作員になることに同意するなんて、こいつはクズだな、と思っている、と。)
共産左翼コミンテルンでも、手法は同じことです。
ご褒美として「所属する団体世界の最高権威に登り詰める」工作も可能です。
(そういう約束をします)前田氏同様、レンホウ氏なども、わかりやすいですね。
石川教授は
>近代的な国家の二本柱ともいうべき政軍の分離と政教の分離がともに成立
>しないというのでは、まっとうな憲法論議にはなりようがないわけです。
ということをおっしゃっていますが、日本国憲法の母国であるアメリカは石川教授の理想には程遠い程度にしか実現してないでしょう。
理想の国家が存在しないのだとしたら学者なら理想の方が間違ってると考える、あるいは瑕疵がある可能性を検討すべきで、それをしない、あるいはできないというのなら彼の理想は宗教だといわれても仕方がないと思います。
ただ彼のような立場の人は近代憲法の中核の一つである国民主権についての
疑義(日本国憲法がGHQの圧力下で出来たことは周知の事実)についてはいとも簡単に瑕疵の治癒を認めています。そうすると彼は信仰に忠実とも言い難いでしょう。
宗教家としては世俗に毒されすぎて二流と言わざるを得ません。
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