「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文その他の情報や、時々の意見・解説を集めています。以前にホームページとして掲載していた情報ともリンクさせています。

2016年10月

 「立憲主義とは、主権者である国民が政府を制限することだ」というテーゼは、立憲主義の定義としては、錯綜した、ほとんど自己否定的な論理によって成り立っている。この「立憲主義=主権者による政府の制限」というテーゼは、いかに立憲主義の定義としての装いを取り繕うとも、つまりは「主権主義」の言い換えでしかない。常に主権者は制限する権力を行使する絶対者であり、主権者がその絶対権力を行使して政府を制限するときに立憲主義が生まれる、といった固定的な構図をあてはめる瞬間において、立憲主義は国民主権主義の派生物に貶められる。

主権者は、無謬であり、絶対的であるという推論を、ほとんど全ての議論の基盤としようとする立場が、日本の憲法学の立場だ。そのため、立憲主義の価値ですら、憲法超越的な権威を持つ主権者の行為によって基礎づけられていなければならないと信じるのである。東大法学部の伝統にそった日本の憲法学においては、立憲主義とは、「憲法制定権力」とも呼ばれる主権者の意思の創作物でしかない。立憲主義の基盤は主権者への信奉に見いだされるので、結局は「主権主義」が立憲主義に優越することになり、立憲主義は「主権主義」の言い換えでしかなくなる。

確かに、日本国憲法では前文で国民主権を謳っている。しかし、そこからどのような憲法体系を導き出すかは、解釈論的要素によって左右される。なんでもかんでも絶対国民主権主義を振りかざした主張を繰り返せばいいと言うわけではない。国民が自分自身を守るのが最も純粋な自衛権なので民衆蜂起だけが日本国憲法が許している自衛権だ、とか、国家が自分自身を守ることだけが本当の自衛権なので「個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲だ」、といったテーゼは、独特な「主権主義」への思い入れを知ることなくしては、決して理解しえない。憲法九条だけ見ていても、東大法学部系の日本の憲法学者による独特の集団的自衛権違憲論は全くわからない。

東大法学部系の憲法学は、英米思想の影響下で起草されたはずの日本国憲法を、あえて戦前の大日本帝国憲時代の東京帝国大学時代からのドイツ国法学の視点と用語で捉え続けた。あるいはフランス革命史への参照で日本国憲法を体系化しようとした。そこで一貫して維持されてきたのは、独特の「国民主権」(憲法制定権力)へのこだわりであった。

「八月革命」の概念を提示し、ポツダム宣言を「国民主権主義」の革命の成就と読み替えることによって戦後の憲法学を作り上げることを提唱した宮沢俊義は、「主権抹殺論」とも説明された同時代の法哲学者・尾高朝雄の立場を強く徹底的に繰り返し否定し続けた。なぜなら主権者はどこかに存在していなければならない(見つからなくても絶対にどこかにいなくてはならない)と主張したからである。宮沢の弟子筋は、今日に至るまで徹底して尾高朝雄は「主権の議論から逃げた」「敗北者」であるとの烙印を押し続けてきている。(拙著『集団的自衛権の思想史』第1章)

ではその主権者である「国民」とは、実際には誰のことなのか。宮沢自身は、「「国民」は、Jedermann、だれでもあるのであって、「国民主権原理の主眼は、主権が国民に属するというよりもむしろ、主権は君主というような特定の人間に属していないということにある」とも説明した(宮沢『憲法の原理』所収「国民主権と天皇制」)。

「主権者・国民」とは、誰でもあって必ずどこかに実在していなければならないが、決して具体的に誰それとは言うことができない神秘的な存在である。その神秘的な存在である「主権者・国民」が、政治やら政府やらを制限すると立憲主義となる、という極度に思弁的な発想は、国民主権主義だけでなく、立憲主義をも具体性のない抽象的な命題にしてしまわざるをえない。そして結局は立憲主義を、憲法学者による操作概念に貶めてしまうだろう。

制限のための制限が称賛され、制限という行為自体が目的化され、主権者たる国民が政府を制限しているから正当だ、といった議論が延々と展開される。制限行為の正当性を判断するのは憲法学者であるということも繰り返し主張される。

尾高の孫弟子にあたる井上達夫氏は、東大法学部系の憲法学者の「欺瞞性」を手厳しく批判しているが、リベラル派と呼ばれる人たちがリベラリズムの推進者に見えないのは、彼らが実際には特異な「国民主権主義者」でしかないからだ。

日本憲法学における「国民主権主義者」によれば、誰もが主権者として存在しているが主権者は特定の誰でもない。その誰でもなくて誰でもある主権者が政府を制限すると立憲主義が生まれるのだというが、そのような思弁的な発想の絶対性を声高に主張する立場は、個人の権利を究極的な規範原理とするリベラリズムとは、全く異なる。

リベラリズムを信奉するのであれば、国民主権を信じていても、決してそれを絶対視せず、なお個人の権利の至高性を正面に据えて、「立憲主義」を論じるはずである。制限が必要なのは、あくまでも守るべき個人の権利を守るためであって、主権者による制限するという行為それ自体が絶対的であったり素晴らしかったりするからではないはずだ。制限のための制限を自己目的化し、制限それ自体を立憲主義の本質と呼ぶことは、私にとってはほとんど立憲主義という語の濫用でしかない。


 拙著『集団的自衛権の思想史』の「あとがき」で次のように書いた。

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2015年の安保法制反対デモの中に、「War IsOver, If YouWant It」というスローガンがあるのを、何度も見かけた。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが1960年代末からベトナム反戦運動で使いだしたメッセージであり、1971年の「Happy Christmas」の中のフレーズでもある。「戦争は終わっている(あなたがそれを望めば)」というメッセージは、その瞬間に進行中の戦争があることを念頭に置いたうえで、その事実に対する共感と責任を、その時代に生きたアメリカ人たちに、求めたものだ。ジョン・レノンは、その瞬間の同時代の世界の現実に対する想像力を求めた。

 安保法制反対デモで、このメッセージを使うことに、いったいどういう意味があるのだろうか。日本がすでに戦争に関与していると言いたいわけではなさそうだ。始まるかもしれないと想像する戦争がすでに終わっていることを想像してほしい、というのは、いささか思弁的に過ぎる話であるように思えてならない。ジョン・レノンのメッセージが、「アベ政治を許さない」といったことだったとしたら、そこにわれわれは何を感じるべきなのか。2015

年の日本では想像力が進展しすぎているのか、想像力の欠落した半世紀前へのノスタルジアだけがあるのか。
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それにしても思弁的なやり方で脅威を作り出した上で、その脅威への抵抗を呼びかけるという構成は、憲法学それ自体に見られたものではなかったか。拙著では「第1章」で次のようにも書いた。

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実は日本の憲法学界では、戦前の大日本帝国憲法の時代から今日に至るまで、「国家の三要素」なるものの存在を通説として保持し、その一つを「統治権」とすることが、ほぼ常識として確立されてしまっている[1]。ところが、この「三要素」について憲法典を含めて法律上の根拠はない。憲法学者が自分たちで作り上げ、美濃部達吉以来、東大法学第一憲法学講座の教授陣の面々が守りぬいてきた理論だ、ということ以上のものではない。

実定法として国家の成立要件を定めた根拠として参照されるのは、国際法の分野では1933年「モンテビデオ条約」である。そこには三つではなく、四つの要件が定められている。住民、領土、政府、そして他国と関係を持つ能力だ。ところが日本では、高校の教科書などから、堂々とモンテビデオ条約を脚注で参照しながら、「国家の三要素」が説明されていたりする。勝手に「政府」と「他国と関係を持つ能力」を合体させたうえで「主権」と言い換えて、四つを三つに作り替えてしまうのである。憲法学者が書いた憲法学の教科書に記載されている「統治権」なる概念は、さらにいっそう謎の権利である。日本国憲法には、「統治権」はおろか、「統治」という概念も登場しない。「統治権」なる概念の実在を信じる憲法学者は、大日本帝国憲法下の戦前からの憲法学の伝統を踏襲しているにすぎないのである。なぜそのような態度が普通になっているのだろうか。

高橋和之・東大名誉教授執筆の基本書『憲法』第一章は、絶対王政によって国家が確立されて「領域的支配権」が確立されて、「領土、国民、統治権(主権)」の三要素を持つ国家が生み出されるようになったのだ、と断言する。これらの要素が憲法典に記述がないのは、「憲法の前提ではあるが、憲法の中で確認するには必ずしも適さない」からだと注釈が施されている。根拠となる文献類は提示されない[2]。「国家の三要素」とは、いわば憲法学者だけが知る「社会学的意味での国家」の「歴史的成立」の物語の産物であり[3]、憲法学者だけが知る「憲法の条規を超えた『不文の憲法原理』」なのである。



[1] 美濃部達吉『憲法撮要』(有斐閣、1923年)、1018頁。「国民は、属人的に、ある国の統治権に服する人間だということもできる」。宮沢俊義『憲法』(第五版)(1956年)、96頁。芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』第六版(岩波書店、2015年)、3頁。

[2] 野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法I』第5版(有斐閣、2012年)、35頁。

[3] 高橋和之『立憲主義と日本国憲法』(有斐閣、2005年)、34頁。高橋教授は「三要素」を備えた「国家の成立により、国際社会は、相互に独立の『主権国家』から成るものと理解されるようになる」と断言し、憲法・国際法にも先立つ原初的存在としての「社会学的な意味での国家」の概念を、立憲主義に関する著作の冒頭で提示する。根拠となる文献等の指示はなく、原初的な「社会学的な意味での国家」の成立の措定は、いわば高橋教授による立憲主義理解のための「命題」のようなものとなっている。

シノドスに掲載した文章が意外に反響があった。拙著の内容にそったものだが、あえて書籍では書かなかった言い方をした書き出しが、わかりやすかったようだ。
 他方、結局、篠田は合憲・違憲論をどう考えているのか、についてもう少し踏み込んで言ってほしい、という意見もいただいた。たしかに視点がずれると思って、あえて私はこういう立場です、というところから書き始めるということをしていない。

私は東大法学部系の憲法学の議論が間違いだ、とは言っていない。ある解釈体系を間違いだと糾弾するのは、よほどのことであろう。東大法学部系の憲法学者があまりに安易に他人を愚弄していることについては批判的だ。政治家や国際政治学者を「反知性主義者」と呼び、憲法学者と官僚群が素晴らしい知性と良心の砦だと主張するような態度は、全く根拠がないイデオロギー的態度ではないか、と指摘したい気持ちはある。もっともだからといって彼らの解釈論が間違いだ、とまでは言っていない。

ただ申し訳ないが、説得力がある卓越した解釈だとも、日本国憲法全体との体系的調和が果たされている美しい解釈だとも、考えていない。むしろ単なる自己撞着的な議論であると考えている。東大法学部の伝統という権威がなければ、全く異なる扱いを受けるはずの議論だろう。

そのことを指摘するために私が拙著で使ったキーワードは、たとえば「国家の基本権」思想だ。国家が自分自身を守るのが自衛権なので、個別的自衛権が最低限で、したがって合憲で、それ以外が違憲だ、という憲法典を超越した論理を信じる踏み絵を迫るのは、「国家の基本権」を信じ、それを国際法学者も認めなければならない超越的真理だとして主張するからなのだ。

この「国家の基本権」信奉の背景には、観念論的なドイツ国法学の影響下で開設・運営された東大法学部憲法学の伝統があり、それは英米圏の思想を基盤にしているはずの本来の日本国憲法の体系と鋭く対立する解釈論的立場であることを拙著では説明した。もちろんフランス革命に強くこだわる戦後憲法学における「国民」の「一般意思」への憧憬がそこに加わる。

屈折しているのは、国際法学者が信奉しない国家の基本権思想を信じて国連憲章を解釈するべきだ(憲法学者の言うとおりに国際法学者は国際法を解釈すべきだ)と主張しながら、憲法学者はその基本権を持つ巨大な国家に立ち向かう勇敢な者たちである、といった独特の論理構成でさらなる自己正当化を主張することであろう。勝手に「自衛権は国家の自己保存権だ」と断定しながら、「われわれはそれを制限する」という宣言を誇る。
 正直、学者としての私が困るのは、こうしたイデオロギー的な試みを推し進めるために、「立憲主義」といった概念も、独特のやり方で定義し、それ以外の定義を持つ者は皆「反知性主義者だ」と呼ぶような態度をとることだ。(それがそもそも拙著『集団的自衛権の思想史』を書いておこうと思った動機の一つであり、この文章を書いている理由でもある。)
 立憲主義者であるならば、徹頭徹尾、個人の権利について語るべきではないだろうか。国家の基本権を主張した上で、それを制限するから憲法学は素晴らしい、といった迂回路をとる意味が不明瞭なのだ。

以下、拙著からの引用である(34-35頁)。

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社会契約論に根差した立憲主義によれば、政府は社会構成員の安全を確保する責務を負っている。人民は、自分たちの安全をよりよく守るために、「信託」して政府を設立するのである。思想史の関連から言えば、社会契約論に根差した自衛権の理解こそが立憲主義的なものだと言えるだろう。日本国憲法前文において登場する「信託」概念は、この意味での立憲主義を示している。政府が「信託」を受けて行使する自衛権は、憲法11条・13条などとの関連で、その根拠および範囲が設定されるべきである。
 
ところが実際には、内閣法制局も多くの憲法学者も、このような英米流の立憲主義の考え方にそって日本国憲法を議論せず、むしろ擬人法を多用し、国家法人説を導入して、自衛権などの議論につなげる。人権保障に対する「必要性と均衡性」を基準にするのではなく、国家の自己防衛の範囲が「最低限」なのが個別的自衛権で、集団的自衛権は「最低限以上なので違憲」、といった議論を展開する。多くの憲法学者や過去の内閣法制局が依拠している論理は、上述の意味での立憲主義的なものではない。日本が個別的自衛権だけは行使できるのは、自分が自分自身を守る国家の自己保存の権利までは憲法も否定していないはずだから、という論理である。そこで国家が自分自身を守るのが本当の自衛権なので、他者を守る権利を自衛権と呼ぶのはまやかしであり、憲法は許していない、という議論になる。(注1)
この国家の自己保存権としての「自衛権」の正当化方法は、国民を守るために政府が取る措置を正当化するのではなく、国家あるいは国民が自分自身を守るために取る措置を正当化する概念構成に依拠している。国家の自己保存の権利が自衛権で、それは個別的自衛権なので、憲法が国家の自己保存の権利として認める自衛権は個別的自衛権だけだ、という自家撞着的な論理構成である。「我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置をとり得ることは国家固有の権能の行使」といった内閣法制局の説明は(注2)、「国家固有の権能」を強調する点において、憲法典内在的な説明を拒絶した主張である。従来の内閣法制局の説明では、自衛権をめぐる主語も述語も、「国家」なる超憲法典存在であるのが特徴だ。
 
憲法学においては、自衛権は否定されないが戦力は持てないという理由で、「民衆蜂起」が残された自衛権行使方法だ、とする学説が根強かった。この考え方によれば、国民が主権者だと言う理由で、国民それ自体が自ら直接自分自身を守ることが最も正しい本当の自衛権だということになる。「信託」して政府などに安全保障を代行させるのは真の主権者らしくない行為なのである。また内閣法制局によれば、国家が自衛権を持ち、国家が自分自身を守るのが自衛権だという。ここでも国家それ自体が主権者として直接自分自身を守ろうとするのが本当の自衛権だ、という論理が貫かれる。つまりこれらの憲法学者や内閣法制局の議論からは、社会構成員と政府の間の「信託」関係などは全く度外視されてしまっている。社会契約論に根差した伝統的な意味での立憲主義は忘れ去られており、ひたすら真の国民主権、真の国家主権が追い求められているのである。

1:「自衛権は、独立国家であれば当然有する権利である。国連憲章五一条において、個別的自衛権として認められている。」芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法』第六版(岩波書店、2015年)、59頁。この記述に対する説明のようなものは施されていない。

2:大森政輔内閣法制局長官の発言。第145 回国会参議院日米防衛協力のための指針に関する特別委員会会議録第4 号、平成11 5 11 日、5頁。

図書館で別の作業をしている際に、フト、最近の集団的自衛権がらみの論文をチェックしてみた。すると『憲法研究』に掲載されている論文が、1950年代に政府が、「個別的自衛権は、国際法上一般に認められた固有の自衛権として憲法上行使できるが、集団的自衛権は特別な条約があって初めて生まれる権利であり、交戦権を否認した日本国憲法の下ではそうした条約を締結することはできない」、という見解をもっていたと描写していたのが目についた。その論文の趣旨は、安保法制が必要な安全保障措置であるというもので、いわば安保法制の擁護論であった。したがって論旨としては、伝統的な政府解釈が間違っていて、新たな解釈変更が正しい、というものなのだが、それにもかかわらず1950年代の政府の見解を短絡的に描写しているのは、気になった。なぜなら1950年代の政府見解の描写の根拠にしているのは唯一、1954年における下田武三・外務省条約局長の答弁であったからである。またか。まだなのか。という気持ちを禁じ得ない。

 拙著で指摘したように、下田局長は、この時の自らの発言が政府見解であることを、自ら否定していた。つまり下田局長が、政府の見解ではない、と述べた発言を、後の人々が唯一の当時の政府見解の表明として扱っているのである。そのことについてふれないのは、問題であると私は考える。
 しかしさらに根が深いのは、数多くの研究者が、孫引き引用で論拠を固めることに気持ち悪さを感じていないという事実だ。

 多くの研究者や、安保法制反対運動家が、当該の下田発言を、阪田雅裕(元内閣法制局長官)『政府の憲法解釈』(2013年、有斐閣)からの孫引きで参照する。集団的自衛権反対論者だったころの阪田氏の著作だ。この阪田氏の『政府の憲法解釈』が引用している下田発言は、断片的なものである。それにもかかわらず阪田氏自身の見解、つまり下田答弁は1950年代に政府が集団的自衛権を違憲と言っていたことの証拠である(他には特に根拠はないが)、という見解を補強する形でのみ、引用されている。しかし阪田氏の引用方法は、仮に恣意的でないとすれば、一面的なのである。「政府見解ではない」と下田局長自身が述べていた発言を、『政府の憲法解釈』に収録し、それを当時の政府の立場の代表だといわんばかりに強調する阪田氏の態度は、学術的観点からは、誠実な態度とは言えないだろう。さらに言えば、阪田氏の著作のみを根拠にして政府答弁を孫引きだけして論文を書き上げてしまう側の態度の問題もあるだろう。

 拙著では次のように論じた。(拙著『集団的自衛権の思想史』第3章注4:194196頁)

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195463日、当時外務省の条約局長であった下田武三は、次のように答弁を行った。「日本憲法からの観点から申しますと、憲法が否認してないと解すべきものは、既存の国際法上一般に認められた固有の自衛権、つまり自分の国が攻撃された場合の自衛権であると解すべきであると思う」。そのため「集団的自衛権、これは換言すれば、共同防衛または相互安全保障条約、あるいは同盟条約ということでありまして・・・、一般の国際法からはただちに出て来る権利ではございません。それぞれの同盟条約なり共同防衛条約なり、特別の条約があつて、初めて条約上の権利として生れて来る権利でございます。ところがそういう特別な権利を生ますための条約を、日本の現憲法下で締結されるかどうかということは、先ほどお答え申し上げましたようにできない」。

この下田の答弁には、質疑応答の相手方であった社会党議員である穂積七郎のほうが驚き、「集団的自衛権という観念は、もうすでに今までに日本の憲法下においても取入れられておるわけです。そうなると、・・・すでに憲法のわくを越えるものだというように考えますが」、と質問した。これに対して下田は、「憲法は自衛権に関する何らの規定はないのでありますけれども、自衛権を否定していない以上は、一般国際法の認める自衛権は国家の基本的権利であるから、憲法が禁止していない以上、持つておると推定されるわけでありますが、そのような特別の集団的自衛権までも憲法は禁止していないから持ち得るのだという結論は、これは出し得ない、そういうように私は考えております。」と答えた。そこですかさず穂積は、「今のその御解釈は、これはあなた個人の御意見ではなくて、外務省または政府を代表する統一された御意見と理解してよろしゆうございますか。」と質問した。下田は、「外務省条約局の研究の段階で得た結論」と述べ、政府統一見解にまでは至っていないと説明した。(第19回国会衆議院外務委員会議録第57号[195463日]、5頁)。

なおこの下田の答弁をもって集団的自衛権違憲の政府判断がなされていた、と論じられることもある(浦田一郎「集団的自衛権論の展開と安保法制懇報告」奥平康弘・山口二郎(編)『集団的自衛権の何が問題か 解釈改憲批判』[岩波書店、2014年]所収、106頁)。これについては、まず下田が「政府の見解」ではないと強調した点は留意しなければならない。またさらに日本が国連未加盟国であった1954年の当時と、国連加盟を果たした1956年以降とで国連憲章上の権利に対する評価が変わるか、1960年新安保条約もまた「共同防衛または相互安全保障条約、あるいは同盟条約」ではないと言えるのかどうかが、論点になりうる。

なお下田は、1931年東京帝国大法学部卒で、佐藤達夫らと同じく、美濃部・立の盛時代に東大法学部に在籍した世代である。「一般国際法の認める自衛権は国家の基本的権利」だという考え方を論理構成の基本に据えるのは、「国家法人説」を通説とみなす世代に、特徴的なものであろう。第1章で見たとおり日本では立作太郎が基本権に依拠した国際法講義を東大法学部で行っていたが、第2章で見たとおり横田喜三郎は戦前から「国家に固有の先天的」な「国家の基本的権利」を否定していた。国際法においては「一般国際法」といえども、結局は慣習法の集積に過ぎない。その内容は、国連憲章のような新しい包括的条約によって上書きをされる。一般国際法というのは、自然法的な国家の自然権が表現するようなものではなく、「自然権」を求めるのは「国内的類推」の陥穽である。

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 さらにここで補足しておくと、この1954年6月3日のやり取りにおいて、下田は次のようにも発言していた。「集団的自衛というのは、先ほど申しましたように、まだ一般的の確立した国際上の観念ではございません。特別の説明を要して初めてできる観念でございますから、現憲法のもとにおいては、集団的自衛ということはなし得ない。国際法上、たとえば隣の国が攻撃された場合に自国が立つ、そうすると攻撃国側は、何だ、おれはお前の国を攻撃してわけじやない、なぜ立つて来るかといつて、これは国際法上、攻撃国側から抗議あるいは報復的の措置に出られてもいたし方のない問題でありまして、現行国際法上は、特別のとりきめなくして集団的上自衛権というものを確立したものとは認めておらない。従つて憲法は自衛権に関する何らの規定はないのでありますけれども、自衛権を否定していない以上は、一般国際法の認める自衛権は国家の基本的権利であるから、憲法が禁止していない以上、持つておると推定されるわけでありますが、そのような特別の集団的自衛権までも憲法は禁止していないから持ち得るのだという結論は、これは出し得ない、そういうように私は考えております。」
 つまり下田は、1954年の段階で、国連憲章51条の定められた集団的自衛権について、「一般的の確立した国際上の観念ではございません」などと断じ、「現行国際法上は、特別のとりきめなくして集団的上自衛権というものを確立したものとは認めておらない」などと考えていたのである。今日のわれわれからすれば、革命的なまでに反体制的な国際法理解に見える。1954年において外務省条約局長は、国連憲章否定論者だったのだろうか?阪田氏の著書を孫引きする論者でも、政府はかつて国連憲章を否定していたので、集団的自衛権も否定していたのだ、とまでは言わない。下田条約局長は、現代の安保法制反対論者をも凌駕する過激な国連憲章否定主義者だったということなのだろうか?
 もちろん下田の立場は、国連憲章否定といった過激なものではなかった。51条は間違っている、と言ったことを言いたかったわけでもなかっただろう。1954年の段階で、日本は単に国連加盟国ではなかったのである。したがって憲章51条が、非加盟国(国連憲章未批准国)に適用されるかどうか、が日本の観点からの論点であったはずだ。もし憲章51条が一般国際法化していると言えれば、非加盟国にも適用される。下田は単に、1954年の段階で、憲章51条が一般国際法化しているかどうかは明瞭ではないという考えを述べたにすぎないと思われる。繰り返すが、1945年国連憲章が一般国際法化しているか否かという論点は、日本が国連未加盟国であった1954年において、意味を持つ問いであった。国連憲章を条約批准して加盟国となった後であれば、一般国際法であるかどうかは、日本にとって大きな論点ではない。「特別のとりきめなくして」にこだわる1954年の下田の発言の今日からすると回りくどいように見える言い方は、51条が一般国際法化していると言えないのであれば51条は自動的には日本には適用されないのではないか、という見解を言っているにすぎないことを示している。国連憲章を批准していない状態において、日本国憲法だけで集団的自衛権を根拠づけられるかどうかと言えば、下田自身は疑っている、という見解を、下田は述べたにすぎない。今日の安保法制反対論に見られる、日本国憲法は国連憲章51条の行使を政府に許さない、という主張と、1954年の下田発言とは、異なる論拠を持っていると言える。
 1954年当時、「特別のとりきめ」は、国連憲章に加えてさらなる特別なとりきめ、という意味ではなく、むしろ国連憲章それ自体のことを指したはずである。「特別なとりきめ」としての国連憲章を批准していない日本にとっては云々・・といったことを論じる態度は、日本の国連加盟前においてのみ、意味を持つ態度であった。拙著ではそうした趣旨のことを、簡潔に記した。
 ただし、それにしても、事務次官・駐米大使・最高裁判事・プロ野球コミッショナーを歴任した下田武三という人物は、無視すべきマイナーな人物だというわけではない。拙著では下田について調べきる余裕も、これ以上論じる余裕もなかった。が、下田は重要人物である。それは下田が後に事務次官になった後に駐米大使となったとき、沖縄返還交渉が佳境を迎えたことによって端的に示される。

 下田は安保条約の理解についていわば修正主義的だった。下田は、著作において、1951年安保条約締結前に外務省(西村熊雄条約局長)が用意した「第一案」について「最大の特徴は、日本が集団的自衛権を発動し得るとの立場に立って日米相互防衛条約の理念を導入した点である」、と的確に描写した。その上で、批判的なコメントをした。「ただ、わが国では自衛権行使の手段、方法及び行使の地域的範囲について自ら憲法上の制約があるものと考えられているのであり、このことは集団的自衛権の場合のみならず日本が独自に行使する個別的自衛権の場合についても同様当てはまるものであることを、この際私は指摘しておきたい。」(下田武三『戦後日本外交の証言(上)日本はこうして再生した』(1984年、行政問題研究所)、9192頁)(ただしここで下田は単純に集団的自衛権は違憲で個別的自衛権は合憲だと述べているわけではない。)

 下田は、アメリカ側の難色によって「相互防衛条約」としての規定が取り除かれた上で集団的自衛権について参照するという形で成立した安保条約を、そもそもの日本側からの提案の観点からではなく、結局日本は集団的自衛権は行使しないのだ、という結果側からの観点で理解する流れを作った人物だと言えるはずだ。わかりやすく言えば、解釈変更を推進した人物である。

この人物が、高度経済成長期に事務次官を務め、駐米大使に転出して沖縄返還交渉の最前線に立った。そしてアメリカによる基地の「自由使用」容認を強調する方針で、返還をまとめ上げる動きの中心にいた。

下田は沖縄返還交渉の時期を回顧して次のように述べた。

「私は毎週、大使館で行う日本人記者との会見の際も、内地で誤った希望的観測が起こらないよう、沖縄返還問題は決して楽観を許さない旨を率直に述べるとともに、イソップ物語の北風と太陽の話を引いて、沖縄を早く返してもらうためには、対米攻撃の北風を吹かすだけでは駄目であって、ベトナムで苦しんでいる米国の立場を十分理解して、沖縄基地使用の便を図るという暖かい太陽の光を当ててやるのが、外套を脱がせるための最良の方法であるとの考えを披露した。」

「佐藤首相は一九七四年、ノーベル平和賞を受けられた。戦争で失った領土を平和的話し合いで友好裡に取り戻すことができた歴史上まれにみる平和外交の業績がこの受賞の大きな理由とされた。オスロから帰国された佐藤さんのお宅に伺った私の祝辞に対して、「下田君、僕がこんな賞をもらえたのは全く君のお陰だよ」との過分の言葉が返ってきた。」 

下田武三『戦後日本外交の証言:日本はこうして再生した』(1985年、行政問題研究所)(下)、167頁、200頁)

 繰り返しになるが、私の拙著での主張の一つは、沖縄返還こそが、1972年政府見解に至る集団的自衛権違憲論を政府見解として確立させた事件であったはずだ、というものだった。なぜなら事前協議制度を骨抜きにし、事実上アメリカは基地を「自由使用」(そして「核持ち込み))できることを強調することによって、沖縄返還を達成したのが、日本外交の全てだったからだ。1954年に下田が政府見解ではないと断った上で述べた集団的自衛権違憲の見解は、下田が駐米大使として暗躍した1960年代末において、沖縄返還という大事件をめぐって、そのときに、その歴史的意味を注入されたのだ。

先日、日本政治学会のパネルで「平和構築と安全保障-国際立憲主義の観点から 」という題名の報告をさせていただいた。他の報告者・司会者・討論者も全員国際政治学者で、頼まれたように「平和構築」の観点から安全保障を見る方向でまとめ、国際法学などで語られている「国際立憲主義」をカギにして、最近の動向をハイライトしようとした。批判的な質問もなく、平穏に終わってしまった。が、討論者の方の確認のための質問は、印象深いものではあった。
私は「立憲主義」を、「社会を構成する上位の根本規範が存在しているという信念」、と定義する。これは国内社会でも国際社会でも同じだ、というのが、国際立憲主義を語ることのポイントだ。「主義」というのは「イズム」の問題であり、価値規範の信奉の態度の問題である。そうでなければ「主義」ではない。そして立憲主義者が信じるのは、「Constitution」、社会を構成する根本規範があるということだ。Constitutionというのはconstituteという動詞に対応する単語で、「構成すること」「構成物」ということ。たまたまその「社会を構成している原理」を文字で表現しておくと、「憲法典」になるだけで、「憲法」のほうが後付けの意味だ。日本では憲法が立憲主義よりも先にできてしまったので勘違いがまかりとおる。憲法学者が意識的に日本独自の立憲主義を広める運動をしているところもある。しかしConstitutionalismの起源は、いまだに成文憲法典を持たないイギリスにある。なぜ成文憲法典もないのにConstitutionalismが生まれたのか?と問うのは日本的な偏見である。「主義」が文書より先にできたのは当然であり、それがConstitutionalismというものだ。私自身には、20歳代にLSEに留学して博士論文を書いていたとき、国際関係学部の論文を書いているにもかかわらず半年くらいは大英博物館で古い17世紀・18世紀の文書などを読むことにあてて、ようやくConstitutionalismを体感できたような気がした、という経緯があるため、思い入れがある。
社会を構成している原理。それはアングロ・サクソンの世界では、ホッブズもロックもそこからすべてを始めた、社会契約論の基盤となる「自然権」の概念だ。個人が持つ自然的な権利が絶対であるという原理から、社会契約を含めたすべての自分たちの社会の構成原理が生まれてきている、という信念、それが歴史の中の立憲主義だ。アメリカ人はそれを独立革命において「自明の真理」と呼んだ。論証の必要のない原理ということだ。論証しないことを信じて社会の構成原理を打ち立てることこそが、主義としての立憲主義の神髄だ。
討論者の方には、「それでもイギリス革命期には王権を弱体化させることが立憲主義だったのではないか」と質問していただいた。私は、「私の拙著『Re-examining Sovereignty』とか拙著『「国家主権」という思想』を題材にした研究会をやろう」、と壇上で提案した。17世紀イギリスで王権を否定したのは「レベラーズ」で、革命の主流派ではない。ロックは「人民の福祉が最高の法である」というテーゼにもとづいて国王「大権」についてすら語った。歴史的に17世紀にのちの立憲主義の萌芽となる議論をしたとされているのは、エドワード・コークだ。「古の憲法(ancient constitution)」論である。革命後の18世紀に大英帝国とイギリス不文憲法の栄光について大著を書いて君臨した法学者の代表はウィリアム・ブラックストンで、王・貴族院・庶民院の間の「バランス」こそを栄光の源たる「国家の構成原理」と主張したが、王権を弱体させることが立憲主義だなどとは言わなかった。
「通説の立憲主義の定義」として芦部信義を参照して、「立憲主義とは政府を制限すること」と唱え続け、民衆蜂起こそが最も純粋な自衛権で、それ以外はまやかしであるかのように主張するという日本の憲法学の立憲主義の理解は、決して普遍的な「立憲主義」の代表ではない。

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