「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

2016年11月

「駆けつけ警護」という日本の中だけで通用する概念は、実際には日本人にもよくわからない曖昧な概念でしょう。あえてそのガラパゴス概念を使って、国連PKOに派遣されている人たちの仕事について云々する。この状況は、国際法で存在する集団的自衛権という概念を使って日本政府の行動を論じる場合よりも、さらに絶望的にガラパゴスな状況であると言わざるを得ません。

この件についてマスコミ対応しても、私の話は採用されません。面白くないのでしょう。テレビ局の人と話をして、「(なんだ、反政府派・護憲派じゃないんですね・・・)番組出演はまあ白紙ということで・・・」、という感じで終わってしまのは、確かに残念です。目前にいる人と話をしていると、その人の期待に応えたくなる人の気持ちはわからないではありません。

しかしサービス精神旺盛な発言を繰り返してしまうのは、単に学者として危険であるだけでなく、社会に対して無責任なことでしょう。

「どうしても政府は自衛隊に銃を撃たせたいのだ」とか、「憲法改正に向けた陰謀だ」とか、「国連は憲法上の『国の交戦権』を行使しているから自衛隊派遣自体が違憲だ」[1]とか、「どうしても撃たせたいなら自衛隊でなくて警察を送ればいい」とか、個人相手であれば名誉棄損になったりするだろう、あるいは全く現実離れした、根拠が示せない発言を、実際に根拠を全く示さず、あえて学者が言っているのを見ると、驚きを禁じえません。

今回の駆けつけ警護と言われている措置は、自衛隊員に対する新任務遂行の命令ではありません。それは日本政府ではなく、現地の国連UNMISSが行います。安保法制は、不測の事態において防ぎきれない自衛隊員の行動、あるいは現場で判断させるのはあまりにも困難が大きすぎると予測される行動に対する、日本国内法上の保障でしかありません。政府の説明自体が、ある意味で平凡すぎるくらいに平凡なので、面白くないのでしょうけれども。なぜ保障が必要かというと、南スーダン情勢が悪化しているからです。

PKO5原則」は、「自衛隊の派遣地は絶対安全で一切危険な要素がない場所」ということが書かれている原則ではありません[2]。形式的には要件を満たしながら、危険度が増したり、激しい戦争が起こったり、新しい内戦の構図が生まれたりが発生したりすることもありえます(もちろん政府が「戦闘」とか「内戦」と言うべき事態を「衝突」と表現するなどの言葉遊びをしているのは事実でしょう)。日本も非常任理事国になっている国連安保理は、ジェノサイドの可能性もあると述べた特使の見解にも留意した声明を出しています[3]

そこで緊急に不測の事態が発生する可能性は高まっているという見込みをたてるのも、妥当なことでしょう。ただし施設部隊である自衛隊に治安任務が課せられる可能性が依然として著しく低いことは間違いありません。結局、実質部分の判断は、「部隊撤収」という政治判断の余地の強調で確保されていると考えるべきでしょう。

国連に邦人保護の協力要請を出したい日本人はどうすればいいのでしょう。日ごろから関連する安保理決議を熟読し、当該既定の実態運用事例を把握し、具体的に邦人保護の要請を国連に出す際には、決議上の根拠を参照するくらいのことはしても、決して自衛隊という単語は一切出さない、ということでしょう。そのときに「自国の軍隊の法的整備さえ怠っているくせに・・・」と言われないための措置が、今回の安保法制であったというべきでしょう。しかもだからといって、自衛隊が出動させられる可能性が高まる、ということは、ありません。

「俺は日本人なんだから南スーダン人やルワンダ人なんかに守ってもらいたくない、早く日本人の自衛隊員を送ってくれ・・・・」、などと言う人は、万が一にも存在しないでしょうけれども、もし存在したとしたら、単に無視されるか、棄てられるか、どちらかにすぎないということです。例外的に自衛隊員に邦人保護を行わせたいのであれば、国連指揮下に入っていない自衛隊要員を、輸送のためのC130とあわせて派遣するという措置になるのでしょう。しかしそれは今回の安保法制とは関係がありません。

日本の憲法学によるアメリカ式憲法の「ドイツ観念論的解釈」によって、異常な事態がまかり通ってきました。国連に派遣されている自衛隊員にまで、憲法学者が、「主権者である日本国民とは誰かよく考えるように。主権者が自分自身を守るのが自衛権なので、あなたが日本国民の一部なら国連に行っても許されるのは主権者が自分自身を守る自衛権だけです。国連の同僚が日本人でなければ、その人を守るために行動するのは、主権者たる日本国民が主権的な意思に基づいて日本国民自身を守る行為だとは言えなくなるので違憲になりますから、よく注意してください。攻撃に遭った場合には、いちいち「あなたは日本人ですか」「あなたは私服に着替えただけの日本の自衛隊でないですか」ですか、と関係者に質問して、素性をよくチェックしてから、主権者たる日本国民の日本国民自身を守るための自衛権の発動をするかどうかを判断するように」、という指示を出すのが、当然だということになってしまっていた。それどころか、「これこそが立憲主義を守るということだ!」(なぜなら憲法学者が政府を制限しているから)、ということになってしまっていた。

それにしても本当に日本国憲法にそのような命令の根拠が書いてあったのでしょうか。疑問でなりません。



[1] 憲法九条第1項が言及しているのは「国権の発動たる戦争(war as a sovereign right of the nation)」であり、同第2項が言及しているのは「国の交戦権(the right of belligerency of the state))である。国連PKOが安保理決議にもとづいて国連憲章7章の権威をともなった武力行使をすることは、集団安全保障の強制措置にもとづく行為であり、「国権の発動たる戦争」であったり、「国の交戦権」の発動であったりするはずがない。そもそもこれらの表現は、マッカーサーの占領軍が、「日本よ、二度と国際法を無視するなよ」、のようなややパターナリスティックというか、嫌味な言い方で入れてしまったものと思われ、現代国際法それ自体に、「国の交戦権」などという概念が、もはや存在していません。国際協調主義にもとづく憲法9条は、20世紀後半の国際法が否定したものを、もう一度あらためて否定するという上書き作業をしているものです(というのは起草制定当時の日本は国連加盟国でも何でもない被占領国家でしたから)。野蛮で戦争OKな国際法が認めている戦争権利を平和主義の日本国憲法があえて否定しているのではありません。「もう日本は古めかしい議論などを持ち出して国際法を否定するようなことはいたしません」・・・つまり「日本よ、二度と国際法を無視するなよ」、という嫌味なメッセージが9条なのです。ところが、「国の交戦権」は否定される対象だったのだが、嫌味な言い方をしてしまったため、「それでは否定されない国の交戦権はあるのか?・・・主権者である国民がこのような言い方をしたわけだから何か否定されない交戦権が世の中にはあると言う風に解釈しなければいけない・・・・、わかった!それは最低限の(個別的)自衛権のことだな!」、という19世紀ドイツ観念論に根差した時代錯誤な特異な憲法解釈が生まれる温床となってしまったのは、GHQが全く予測していなかったことでしょう・・・。「八月革命」とは、ドイツ国法学によって、マッカーサーが起草した国際協調主義の日本国憲法を「脱構築」してしまう、という革命であったと言えるでしょう。

[2] 1)紛争当事者間で停戦合意が成立していること、(2)当該地域の属する国を含む紛争当事者がPKOおよび日本の参加に同意していること、(3)中立的立場を厳守すること、(4)上記の基本方針のいずれかが満たされない場合には部隊を撤収できること、(5)武器の使用は要員の生命等の防護のために必要な最小限のものに限られること。


1115日に駆けつけ警護の任務付与が閣議決定されたため、話題になっているようだ。私は本来、国際平和活動を専門の研究対象としているため、この問題に関心があるべきだと思い、記者の取材等にも応じているが、実際にはあまり関心を持っていない。理由は、第一に、実際の法律文言が曖昧模糊としているからであり、第二に、おそらく行使される可能性は高くないと考えているからであり、第三に、駆けつけ警護を危険視する見方を支持していないからである。テレビに出るのが目的で発言するのであれば、わかりやすい立場を声高に唱えたりしたら良いのだろうが、それにもあまり関心が持てない。

池田信夫氏がブログにおいて、拙著『集団的自衛権の思想史』について参照しながら、日本の憲法学を「ガラパゴス憲法学」だと呼んでいる。言い得て妙な表現を思いつくことに優れた人がいるものだと感心する。ガラパゴスを愛するのは一つの自由だが、ガラパゴスが外部社会の方を間違っていると糾弾してみせたり、そもそもガラパゴス以外の世界があることに気づかないふりをしてみせたりしているのは、問題だと言わざるを得ない。

「駆けつけ警護」は国際法では存在していない概念であるのはもちろんだが、そもそも英語などに翻訳すること自体が不可能な概念だ。理由は、この概念が、日本語としても全く曖昧模糊とした概念だからだ。それなのに自分のイデオロギー立場に引き寄せて他人を批判したりするのに使ったりする人がいるので、曖昧な言葉が空虚な形で流通していってしまう。というよりも批判のために使っている概念なので、曖昧模糊としていた方がかえって好都合だというわけである。

「駆けつけ警護」は、日本の国内法においても存在していない概念である。本来であれば、法学者の方々にこそ立ち上げってもらい、「法的議論になじまない概念を振りかざして法律議論をしているかのように振る舞うのは困る」、と言ってもらいたい気がする。ところが、事態はその全く逆であるようだ。法学者こそが、実定法に根拠を見いだせない概念を振りかざしていく。

なぜそのような事態になっているのか。拙著『集団的自衛権の思想史』では、日本の憲法学が憲法典に根拠を見いだせない概念を、(東大法学部出身)憲法学者のコンセンサスという形で事実上の法的効果を持つものとして振りかざそうとしてきたことを論じた。その特異な立場がまとまってきたのは、高度経済成長期以降であり、アメリカは日本の態度にかかわらずとにかく日本に基地をおいて日本を守るしかないので日本はただ経済成長に邁進さえしていればよい、という神話が無前提に信じられるようになった時代以降であった、と論じた。ただし同時に、その学術的イデオロギーの源泉は、芦部信義その人ではなく、宮澤俊義の師である美濃部達吉、あるいは美濃部が強い影響を受けたイエリネックのドイツ国法学である、ということを、拙著では論じた。集団的自衛権に関する日本の憲法学の見解は、ドイツ国法学に立ち返ることによって初めてわかる、と論じたわけだが、「駆けつけ警護」も同じであろう。

「駆けつける」という概念は、ある人が、自分が今いる場所とは異なる場所に「駆けていく」という行為を表現するために用いられている。だがその場合「自分」とは誰だろう。政府の命令を受けて業務にあたっている自衛隊員という国家公務員の一人一人の自然人的存在を「自分」として位置づけるというのは、この場合、全く的外れだ。ある自衛隊員に、隣の自衛隊が殴り掛かった、といったことが、ここで話題になっているわけではない。「駆けつけ警護」の議論で話題になっている安保関連法で話題になっているのは、PKOに派遣されている自衛隊による「活動関係者」の保護であり、自衛隊員が国際機関に派遣された国家公務員として国連PKOの指揮下で業務を遂行する際の話である。「駆けつけ」という言葉は、日本国政府機関を「自分」と位置づけ、それ以外の外国人や民間人を「他人」と考える発想法に依拠して初めて理解できるものだ。

しかし自衛隊は、日本の国家公務員の地位を維持したままでありながら、国連PKOの指揮下に入っているのであり、いわば出向している状態である。出向元の組織の意向を踏まえて出向するのは当然としても、出向先組織に同化してはいけない、とまで考えるのは、やりすぎである。出向先組織で「僕はあなたの同僚ではない、この会社を自分自身と同一視することは一切ない、僕にとって自分とは派遣元の組織のことだけだ」、と言い続けるというのは、常識として、ありえない。出向している以上、出向先の組織も「自分が働いている組織」と考えて行動するのが、普通だろう。自衛隊員は、日本の自衛隊員であると同時に、国連PKO要員でもある。つまり、「自分」意識は、多層化するのが、当然だ。

「駆けつけ」て国連PKO要員を保護するのは憲法違反だ、という主張は、国連PKO指揮下にある自衛隊員に対して、「あなたにとって『自分』とは出向元である日本のことだけであり、万が一にも国連の連中を自己の組織の同僚だなどと考えるな」、と命じているに等しい(そして「ちなみに日本国憲法において「自分」とは「日本国民」のことであり、この「自分=国民」が「自分(=国民)自身」を守ることだけが合法である」と主張するということに等しい)。このような主張は、著しく観念論的である。

私が24歳の時、国連カンボジア暫定統治機構投票所責任者として勤務していた時、日本の自衛隊の車両が一日複数回来て、おしゃべりをして滞在してくれようとした。「情報収集」名目で、「巡回」のようなことをするために、おしゃべりもしていくことによって、「駆けつけない」で日本人を保護できる時間を作ろうとしてくれていたということである。このようなややこしいことをしなければならなかったのは、日本の法律整備の問題であったのだが、より哲学的に言えば、国連PKO指揮下にある日本の自衛隊に国連職員を「自分たち」と同一視することを禁じていたからである。

今回の法的措置は、法的枠組みを実態に近づけるのが第一であろう。今回の法整備は、自衛隊員の安全(物理的安全だけではなく法的安全)を高める措置だという政府の見解は、よほど深く裏読みするのでなければ、全くその通りであろうと思う。そもそも施設部隊である自衛隊が「駆けつけ警護」する命令を受ける可能性は著しく低い。そこに念のための例外的状況での法的保障措置をかけているわけである。

なお「駆けつけ警護」をめぐっては、「ユニット・セルフ・ディフェンス」の国際法上の地位が一つ論点になりうるか否か、といった専門的議論もある。すべて、「駆けつけ警護」概念の曖昧さによるものであろう。自衛隊は南スーダンのUNMISSという具体的な組織に派遣されており、現実のオペレーションの合法性は国連安保理決議によって担保されている[1]。ユニット・セルフ・ディフェンスは法的根拠としては関係がない。こうしたところにまで議論が波及してしまうのは、日本国内法制度が、従来の憲法解釈なるものに気を遣いすぎて、曖昧模糊としたものになっているからにほかならない。国際法の概念枠組みとは異なったところに、さらに独自の概念を積み重ねていることが、国連指揮下の自衛隊の立場を不必要に複雑にしているに過ぎないのである。

それにしても、国内のテレビ番組で、UNMISSの中国軍の部隊が、「住民保護(PoC)」のための出動を渋ったことが「駆けつけ警護」がいかに安倍政権の暴走であるかを強調する文脈で紹介されているのだという。グロテスクだと思う。

そもそも安保法制によるPKO法改正をへてもなお「駆けつけ警護」は「住民保護」をカバーしていない。つまり中国軍不出動のUNMISSの事例は、安保法制のいわゆる「駆けつけ警護」とは関係がない。それにもかかわらず「安倍政権は暴走政権ですよね」ということを言いたいがために、南スーダンの実情を完全に無視した話を強引に作り出そうとするのは、罪深いことではないだろうか。

先週、私がインドネシアで参加した国際会議では、UNMISSが「住民保護」のマンデートを十分に遂行できなかったことに関する国連の内部調査が入っていることが、一つの議題となった。中国からの参加者は、マンデート遂行が困難な場合には、部隊展開を躊躇する場面もありうる、という議論を苦渋に満ちた表情で行った。世界のPKO3000人近くの要員を派遣し、困難な任務にもあたり、南スーダンでも二名の殉職者を出している中国政府関係者だからこそ言えることだ。消防を任務とする消防士が、「火事が激しすぎて人命救助を断念せざるを得なかった」と断腸の思いで語るのと同じだ。「駆けつけ警護やりたがるなんで、安倍政権は暴走政権ですよね」といった話とは、一切全く関係がない。

日本のマスコミに対応すると、「何言ってんのかよくわからないんですが、それで要するに、あなたは政権寄りの御用学者なのか、政権の暴走を止めたい護憲派なのか、どっちなんですか、もっとはっきりと、わかりやすく話してください」、といった対応をされることがよくある(というか、そればかりである)。

私には、南スーダンで平和活動に従事すする知り合いのみならず、南スーダン人の知り合いも多数いる。南スーダンはジェノサイドの恐れもあるという危機の状況だ。そこで働いたり、生活したりしている人のことを考えたら、国内のグロテスクな議論の構図には、どうしても関心を持つことができない。



[1] UN Security Council Resolution 2155 (2014) of 27 May 2014 says that SC, “Acting under Chapter VII of the Charter of the United Nations,…authorizes UNMISS to use all necessary means to perform the following tasks:…(c) ii. To ensure the security and freedom of movement of United Nations and associated personnel where appropriate, and to ensure the security of installations and equipment necessary for implementation of mandated tasks”.

国家は人間ではない。一つの制度的実態を持つ存在だとしても、生身の人間とは異なる。当たり前のことだ。だが時にわれわれは、倒錯した状態に陥る。ルソー(フランス革命)からヘーゲル(ドイツ観念論)に至る系譜では、国家は意思する実体であるということが、まじめに論じられた。そのような思想を支えているのは、国家と等しいとみなされる「国民」という集合的人格が持つとされる「一般意思」なるものへの信奉だ。

国家があたかも生きる実体であるかのように仮想するところから、自衛権は国内法における正当防衛と同じだという発想法が生まれる。ところが単なる発想法でしかなかったものが、次第に思考の枠組みそれ自体を強力に支配し始めるときがある。たとえば、自衛権の理解が国内法の正当防衛の理解と異なっている場合には、自衛権の理解の方を国内法の正当防衛の理解にそって正すべきだ、といった主張がそれだ。国家と自然人を類推関係に置き、徹底して擬人法を貫いて国際社会を秩序づけることが、最も正しい態度だ、という思い込みから発している主張である。

「イギリス学派」の総帥とも言える国際政治学者・へドリー・ブルは、擬人法を振りかざして国際社会を理解しようとする態度を「国内的類推(domestic analogy)」と呼び、国際社会の理解を阻害する大きな偏見であると指摘した。国内社会の秩序と国際社会の秩序は異なる。本来はどちらが良いとか優越しているとかではなく、単に異なっているのである。

ところが「国内的類推」を振りかざして、「まあ要するに国際社会では国家が自然人のようなものですよね」という偏見から全ての推論を作り出そうと試み、もし国際社会が国内社会と異なっている場合には国際社会の在り方を糾弾する、といった態度をとる人たちもいる。

そうした人々からは、「国際社会は遅れている、なぜなら国内社会のような秩序がないからだ」、「国際法は原始的だ、なぜなら世界憲法も世界政府もないからだ」、といった結論しか出てこない。国際社会は国内社会とは違う、という単純な事実が、いつのまにか「だから国際社会は遅れているのだ」という断定にすり替わり、「国際法上の自衛権はおかしい、なぜなら国内社会の正当防衛と違っているからだ」、「だいたい国連憲章集団安全保障までは政府の代替としてまだ認められるが、51条の集団的自衛権は国内法に対応物がないので間違っている」、のような偏見に満ちた論理が大真面目に振りかざされてしまう。最悪の場合、「国際政治学者や国際法学者はおかしい、なぜなら憲法学者のように考えないからだ」といった話にまで発展しかねない。

拙著『集団的自衛権の思想史』第1章では、次のように書いた。

――――――

内閣法制局の推論は、国際政治学で用いられる概念を援用すると、「国内的類推」の危険性に対してあまりにも無頓着である。国内社会における自然人と、国際社会における国家とを、類似関係に置いて国家の自然権などを説いていく思考回路は、国際政治学および国際法の分野では、「国内的類推(domestic analogy)」と呼ばれて、警戒すべき俗説とされるものだ[1]。自然人と国家は異なり、国内社会秩序と国際社会秩序とは異なる。国際社会における自衛権の行使は、依然として公権力の行使であり、私人の正当防衛とは異なる。国際法の分野でも、京都大学教授・田岡良一が「国際法上の自衛権」を論じた際に、指摘した点だ。「国内法上の自衛権の概念を模して国際法上の自衛権を説」いていると田岡が描写したのは、東大法学部で国際法を講義した立作太郎や横田喜三郎らであった[2]

国際法においても、国家を正面から擬人化する論調が通説だというわけではない[3]。国家が自然権的に自衛権を持っているという思考は、ドイツ国法学に特徴的だ。日本の憲法学の戦前から続く伝統の部分である。従来の内閣法制局が依拠していたのは、「国家法人説」の擬人国家観に依拠した「国内的類推」の発想であった恐れがある。



[1] Hedley Bull, The AnarchicalSociety: A Study of World Order (London: Macmillan, 1977).

[2] 田岡良一『国際法上の自衛権』(新装版)(勁草書房、2014年)(初版1964年)。

[3] 「(自衛権を「固有の権利」とする憲章51条は)自衛権を超実定法的な国家の自然権とみなすものではなく、あくまで国際慣習法の範囲内での基本権能をいうにすぎない。・・・国内社会では、法の執行手段が集権化され法益侵害の態様も特定されており、したがって正当防衛はやむをえずとられる例外的な自救手段である。これに対して国際社会では自衛権は、各国がひろくその権利・利益に対する重大な侵害(侵害法益の未分化)を排除するためにとりうる正当な手段」である。山本草二『国際法(新版)』(有斐閣、1999年)、732頁。

お陰様で『集団的自衛権の思想史』が重版されることになりました。その際、誤植が一点訂正されます。181頁の第1章注10の中の二行目「・・・国際社会では」が間違いです。正しい山本草二『国際法』からの引用文として、「・・・国内社会では」に訂正されます。初版を購入していただいた多くの方々には誤植不手際を深くお詫び申し上げるとともに、訂正が入ることをお知らせいたします。

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