「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文その他の情報や、時々の意見・解説を集めています。以前にホームページとして掲載していた情報ともリンクさせています。

2017年04月

 一週間ほど前のブログで、朝鮮半島情勢について、「影響力を行使する政策決定者たちは、朝鮮半島全体の政治的管理の見通しに対する洞察から逆算された計算によって、具体的な行動を決していくはずだ」と書いた。私の専門は平和構築ということにしているが、つまり「紛争解決論」であり、シミュレーション思考は、事前の政策立案のみならず、事後の政策評価にあたっても、当然大切なものである。備忘録として、もう少し書いておきたい。
 東洋学園大学の櫻田淳教授が、4年前に書かれた記事が、体制変動後の朝鮮半島の行方を分かりやすくパターン化されているのを見つけた。http://www.sekainippo.com/newworld/vp/vi130225.html これらのどれがいつ来るのか、という問いは、予知しようとしてできるものではない。だが政策決定者には、整理されたビジョンが必要であり、これらのパターンを念頭に置いた上で、さらに直近の政策判断に関わることになる。
 現在、北朝鮮をめぐって、アメリカにどのようなオプションがあるか。枠組みとなる所与の制約は、以下のようなものだろう。①アメリカとしては北朝鮮による米国本土(核)攻撃能力の保持は絶対に認めない。②このままでは北朝鮮は数年内にそのような攻撃能力を獲得する。③軍事施設を狙ったピンポイント攻撃は可能だが、北朝鮮による韓国(や日本)に対する全面攻撃による報復という甚大な被害を伴うリスクを回避することは不可能である。④北朝鮮指導部は「体制保証」を求めているが、交渉を通じた合理的対応と将来にわたる政策的一貫性を現在の金正恩体制に期待することは難しい。⑤北朝鮮に最大の影響力を行使できるのは中国だが、最近では中国の影響力行使度合いにも限界が見られる。
 アメリカが簡単に打開策を見いだせるわけではない。しかし日本や韓国と比して多くの政策判断の幅を持っている事は確かだ。
 最も強硬なオプションは、言うまでもなく、軍事力を使った北朝鮮への攻撃による脅威の除去である(国際法上の根拠は薄弱になるが、北朝鮮による威嚇行為と安保理決議違反行動が参照されるだろう)。もちろん成功/失敗の場合の中長期的な国際的な対応体制の構築は大前提となってくる。ここで大きなポイントとなるのは、関連施設の破壊だけでは政治的効果が限定的でかえってリスク要素が非常に高まるので、北朝鮮指導部を除去する即効性のある軍事作戦をとるか/とれるかどうかである。いずれにせよリスクが高い政策なので、米国本土および周辺国への核攻撃能力の開発の脅威との比較較量が慎重に行われることになる。
 その他、様々なオプションがあるが、最も外交に重きを置いた非軍事的なオプションによる解決は、どのようなものだろうか?
 中国の圧力を介して、北朝鮮に核開発を放棄させ、体制保証にふさわしい安定的な政治体制を作らせることである。中国だけに外交が期待されるわけではないが、中国以外の諸国の政治的影響力はあまりに限定的だ。しかし今までのやり方では、中国も簡単には影響力を行使できない。そこでアメリカとしては、中国にギアを入れ替えてもらうために、相当に野心的なビジョンを提示することが必要となるかもしれない。
 ここで大きなポイントとなる問いは、中国が体制転換までに視野に入れるくらいに本気で北朝鮮に圧力をかけるなどということが起こり得るか、である。不安定な北朝鮮体制、そしてアメリカによる軍事手段行使の可能性が、中国への圧力として期待される。だがそれだけでは足りないかもしれない。中国に思い切った行動に踏み切らせるための誘因が必要であるかもしれない。
 何が中国にとってメリットになるのか?アメリカが提示できるのは、まずは将来にわたる北朝鮮に対する中国の影響圏の容認である。だが、それはすでに織り込み済みだろう。厳しい交渉に持ち込むのであれば、もっと強い誘因が必要だ。
 おそらくはアメリカが提示できる強い政治的誘因とは、将来の在韓米軍撤退も含めた、朝鮮半島全体に対する中国の影響力の拡大に対する容認政策の約束であろう。
 北朝鮮の情勢突破が、中国の表裏両方での最大級の努力によって達成されるのであれば、アメリカにとってそのようなオプションは、合理的な判断の考察対象として設定しうるものであるかもしれない。
 私も、すでにそのような打診がなされているとまでは考えない。トランプ政権といえども、そのようなオプションを打診するまでには、まだまだ相当な道のりをへなければならないだろう。だがそれは、一つの合理的なオプションとして存在している。日本人であれば、そのことを念頭に置いておかなければならない。

 米国の北朝鮮に対する武力行使の可能性が高まっているという報道が急速に日本国内で広まり、今や森友問題に見切りをつけたメディアが一斉に飛びついている感がある。
 過去の経験則から今月にあらたな核実験やミサイル実験の可能性が高く、また米国本土攻撃能力を保持することが秒読み段階に入ってきたこともふまえてトランプ政権がレベルの高い対応措置を検討しており、「武力行使の可能性が高まっている」こと自体は間違いないだろう。ではどれくらいの確率で、どのような形態の武力行使がなされるのか、については、無数のパターンがあるとしか言いようがなく、事態の推移を注視するしかない。私も一人の市民としては、刻一刻と変わる情勢変化に気をもまないわけではない。
 他方、学者としての私が思いをはせるのは、そういったことではない。東アジア地域情勢を専門とするわけではない私も、平和構築の観点から、北朝鮮問題についてはそれなりの関心を長く持ち続けてきた。したがって平時から朝鮮半島問題の地域における重要性、日本にとっての重要性は、強調しているつもりだ。
 私は、北朝鮮問題の本質は、朝鮮半島の地政学的性格にあると考えている。明治時代であれば、多くの人に、当然の指摘だ、と言われるだろう。現代でもそう言われるかは、よくわからない。
 第二次世界大戦の結果、ヨーロッパの枢軸国ドイツは分断統治されることになり、ドイツ統一には冷戦の終焉を待たなければならなかった(ドイツ統一は冷戦の終焉を決定づけた)。しかし日本では、日本は植民地や島嶼部を失っただけで済まされた。そのいわば必然的な結果として、日本にはアメリカのジュニア・パートナーとして生きていく道が与えられた。ただし1945年の大日本帝国が全く分断されなかったわけではない。日本が1910年に併合していた朝鮮半島を見るならば、大日本帝国が歪な仕方で分断されたことがわかる。
 日本プロパーが分断される代わりに、朝鮮半島が分割統治された。なぜそのような不公平な事態が朝鮮半島に訪れたのか。山のような数の学者が山のような研究を遂行しても、語りつくすことは簡単ではない。ただ、最も簡明な一つの事実を指摘すれば、日本は島国であったが、朝鮮半島は大陸に付属する橋頭保だった、ということだ。日本は「全面講和」がありえず、「単独講和」で甘んじたが、朝鮮半島の場合には「単独講和」もありえず、「分割統治」しかなかった。
 分割統治の不条理あるいは不合理を解消するために、1950年という早い段階で朝鮮戦争が発生した。しかし大国が総出で関与し、押したり引いたりした結果、38度線で分断する分割統治以上の安定策はない、というコンセンサスへの出戻りが結論付けられた。このコンセンサスは、ソ連の崩壊、中国の超大国化、南北の経済格差、といった様々な情勢変化にさらされながら、特筆すべきことに、いまだに維持されている。
 現実の諸条件は、あるいは分割統治体制を揺るがせているかもしれない。北朝鮮の経済危機、恐怖政治、膨大な数の脱北者は、分割統治体制に、いつか必ず終わりが来ることを示すのに十分なものに見える。少なくとも冷戦が終わった頃くらいの四半世紀にわたって、われわれはいつその時が来ても決して根本的には驚かないようにする心構えを持ってきた。
 しかしその時がいつ来るのかは、まだ誰にもわかっていない。自分の判断でその時を作り出したいとまで考える者はいない。トランプ大統領ですら、そうだろう。
 北朝鮮の核開発問題とは、突き詰めれば、維持が簡単ではない国家を維持するための方策の問題である。非常に歪な方策だが、しかし機能している方策だ。本質的な問題は、そこに、維持されることが自明ではない国家がある、という事実だ。
 トランプ政権は「体制転換」を視野に入れた「斬首作戦」もオプションに入れていると伝えられているが、それが具体的に何を意味しうるのかは、もちろん明確ではない。というのは、そこにも無数のパターンがありうるからだ。
 「斬首作戦」よりも「体制転換」は大きな政策視点になるが、それよりもさらに大きな政策課題は「38度線」の問題であり、「中朝国境」の問題であり、そしてつまり朝鮮半島全体の政治体制の問題である。
 明日の行方、来週の行方も、実はすべて、朝鮮半島全体の政治的管理の見通しに対する洞察から逆算された計算によって、決まっていくはずだ。
 1950年に朝鮮戦争が勃発した際、日本はまだ占領状態にあり、独立主権国家としての判断や関与をする必要がなかった。日本人の頭の中に、あらたな朝鮮半島の危機への日本の対応は、1950年のときのようになるのではないかという漠然としたイメージがあるように感じる。しかしそれは違う。
 軍事攻撃、テロ攻撃、難民到来、経済危機、といった直近の脅威を列挙し、それらに対応していくだけで、日本にとっては十分に頭の痛い問題であることは確かだ。
 だが本当に本質的な問題は、国際政治の大きな流れの中で、朝鮮半島がどう動いていくのかを見極めることだ。朝鮮半島の政治情勢を洞察した上で、日本の関与の態度を決していく政策判断が、何よりも重大だということだ。
 結局は、直近の事態の推移を見守る際も、影響力を行使する政策決定者たちは、朝鮮半島全体の政治的管理の見通しに対する洞察から逆算された計算によって、具体的な行動を決していくはずだ。日本の政策も、それをふまえて、検討されていかなければならない。

 昨日のブログでは、米国のシリアのシャリラト空軍基地攻撃は国際法上は違法と言わざるを得ないが、トランプ大統領の声明内容の妥当性も鑑みて、広範な支持が集まると想定される。日本政府の支持も妥当だろう、ということを書いた。
 ややこしい言い方だったかもしれない。大学の答案でも想定しているかのような言い方で恐縮であったが、議論の発展のための「正答」にするためには、以下のようなことにはふれてもらう必要がある。
 国連憲章2条4項で定められた武力行使の一般的禁止の原則にてらして、合衆国の武力攻撃は違法だと言わざるを得ない。トランプ大統領の声明で言及されている行使理由は、いずれも違法性阻却理由として十分とは言えない。しかしこれは「武力行使に関する法」(jus ad bellum)についての違法性である。
 トランプ声明で言及されている背景は妥当であり、シリア中西部で用いられた化学兵器は、化学兵器禁止条約違反であり、国際人道法違反であり、国連安全保障理事会決議違反である。4月4日以降、安保理では調査方法をめぐる議論がなされたが、ロシアの拒否権発動の可能性により、事態の進展は見込めない情勢であった。したがって戦争犯罪行為の当事者を処罰することのみならず、再発防止策を施すこともできない事実上の法執行の空白状態が生じていたため、合衆国はこれを行う意図をもって、化学兵器使用に用いられてきた政府空軍基地を破壊する措置をとった。強制的な措置の具体的な法的裏付けはないが、国際人道法(jus in bello)にそった論理の一貫性自体は認められる。
 国連安保理緊急会合における国連政務局長の発言によれば、イランとロシアが米国を非難し、イギリス、オーストラリア、ドイツ、トルコ、サウジアラビア、イタリア、日本、オランダ、ニュージーランドが、アメリカを支持する立場を表明したという。報道によれば、イスラエルも支持表明しており、中国の習近平国家主席は「理解」を示し、中国は安保理でも平和的解決を訴えるだけで具体的な批判等は行わなかった。安保理で明確にアメリカ批判をしたのは、ロシアとボリビアだけだ。あとはウルグアイとカザフスタンが十分に批判的であった程度だ。同盟諸国の支持表明と、中国による非難の回避が確保できているのは、上記後段の論理が確保されているからだろう。
 日本の別所浩郎大使は、安保理緊急会合において、アメリカの「決意」を支持し、アメリカの軍事的措置は事態の悪化を防ぐための予防行動であったと理解する、との見解を表明した。おおむね私が上述した理解に基づく態度だろうと考える。
 朝日新聞の社説は、トランプ政権はアサド政権やロシアと協調するはずだったのに、「行動に一貫性が見られない」、と論じた。残念だが非常に穿った見方だと言わざるを得ない。この論調では、「ロシアと仲良くすると言ったのなら、化学兵器の使用くらい気にするな」、と言っていることになりかねない。トランプ政権は、ロシアに対して事前通告を行っており、それはシリア政府に対する事実上の事前通告だ。ロシアに対する敵対姿勢への転換ではないと受け止めるべきである。いずれにせよロシアとロシア主導で協調姿勢を取るという政策がアメリカから示されたことはない。アメリカの武力行使は国際法上違法だと言えるが、先立って行われた化学兵器の使用は明白かつ甚大な国際人道法違反である。両方について言うのでなければ、バランスが取れない。
 トランプ政権高官が、「化学兵器使用がアメリカの死活的な国益に関わる」という言い方を繰り返しているのは、オバマ前大統領がやると言ってやらなかった「一線を越えた行為に対する毅然とした対応」をやると言ってやるのがこの政権だ、ということを国内向けにアピールする意図があるだろう。国際法的には化学兵器禁止条約と国連安保理決議に言及し、違法行為に対する法執行の意図がある立場を示している。シリア戦争の行方に影響力を行使する意図は表明していない。当然だが、アル=ヌスラ戦線の勢力拡大は避ける配慮はするだろう。ロシアとの協力関係も、アメリカのほうから破棄するとは表明していない。現在までのところ管理された言い方になっていると感じる。
 安保理緊急会合では、ボリビア政府代表が、2003年イラク戦争前に当時のパウエル国務長官が行った演説を写真付きで参照し、今アメリカがシリアで行っているのは同じ行為だ、と論じた。私個人にとっても、興味を感じる言い方だ。私はイラク戦争には反対した。米国での在外研究中だったため、首都での開戦反対デモにも参加した。そのことを幾つかの紙媒体につづったし、戦争開始後の批判は、拙著『平和構築と法の支配』(2003年)にも書きこんだ。その私に言わせれば、パウエル国務長官の安保理演説は、学者の検証に耐えうるものではなかった。学者は情報を集めるが、しょせんは諜報が本務ではないので、最後は論理的な推論で議論を固める。パウエル演説は、まだ存在が不明な事柄を存在していると推論させるための議論としては、証拠にならないあやふやな情報を邪推による断定でまとめ上げた拙劣なものであった。それは私を含めた同時代の多くの人が感じたことだ。
 今回の化学兵器使用は、状況が異なる。化学兵器が使用された事実が、複数の情報源から、確証されている。化学兵器が、航空兵力によって投下されたことが、複数の情報源から確証されている。シリア内戦の国内の紛争当事者の中で、空軍力を展開できるのは事実上シリア政府だけである。アメリカが、シリア国内の航空機の移動状況を把握する情報収集能力を持っていることは自明である。化学兵器が投下された時刻に現地上空を飛行していた航空機が、政府空軍基地を往復していることを掴んでいるとアメリカ政府が主張するのであれば、アメリカが意図的に情報をねつ造しているのでない限り、論理的な推論の結論は自明だ。アメリカが十分な証拠を公にしているか否かは、国内の刑事訴訟の手続きであれば問題になるが、今回のような事例で外交的に処理されるのは、仕方がない。
 安保理緊急会合において、ロシア大使は、ロシアがテロリスト組織を撲滅する活動をアメリカとともに共同で行ってきたことを強調し、なぜ化学兵器使用に関してシリア政府が無実であることを推論の出発点にしないのか、と語りかけた。また、アル=ヌスラ戦線が化学兵器を持っているのではないかと論じながら、化学兵器使用状況に関する現場のNGOなどからの情報を無視すべきだという趣旨の発言まで行っている。発言記録を見る限り、今回については、ロシアのほうが感情的で論理性が不足している。
 トランプ政権が取った行動は、化学兵器を使用した航空機が発着したと確認された空軍基地を破壊するという点で、緊急避難的な戦争犯罪再発予防措置として、論理的一貫性がとれている。ヘイリー国連大使が、「更なる行動をとる準備がある」と発言したことが報道されているが、実際にはヘイリー大使は「そのような行動が必要でないことを望む」とも付け加えている。
 すでにアメリカの安全保障政策が、マティス国防長官とマクマスター大統領補佐官という二人の元軍人を中心に展開していることは、明らかになっている。また国連ではヘイリー大使が裁量を持ちながら政策に確信を持って行動していることが感じられる。トランプ大統領は変わった人物だ、という点に、過度に気を取られ過ぎるべきではない。

 トランプ大統領が、シリアのシャリラト空軍基地への攻撃に踏み切った。北西部イドリブで化学兵器が使用されたとされることへの対抗措置として、化学兵器使用に用いられたとされる軍事基地が攻撃され、破壊されたわけである。

 今後のシリア情勢、中東情勢、そしてトランプ政権の外交政策にとって、大きな意味を持つ事件であろう。

 このブログを通じても、トランプ大統領を「孤立主義者」だと描写することの不適切さについて、何度か書いてみた。アンドリュー・ジャクソンという19世紀前半の大統領と比較してみるということもやってみたが、恐らくはわかりにくかっただろう。要は、モンロー主義を孤立主義と描写するのが間違いだ、ということだ。ジャクソンは、南部・西部州の開拓者層に支えられた「デモクラシー」を広げつつ、時には連邦最高裁判所の判決に反するような形で、インディアンの虐殺や強制移住も繰り返す苛烈な政策を取った。その「拡張主義」は、決して20世紀以降の「ウィルソン主義」のように、他国に米国が信じる理念を信じさせようとするものではない。それにもかかわらず、「明白な運命」論にもとづくアメリカの特別な使命を信じて、拡張主義を正当化しようとする政策である。

 今回の事件で、いよいよトランプ政権を「孤立主義」と描写する人はいなくなっていくのではないか。

 トランプの外交政策は、少なくともイスラム国/シリア情勢をめぐって、そして北朝鮮/中国情勢をめぐって、かなりわかりやすい地政学的な論理で動いているように見える。それは「ウィルソン主義」的な理念主義ではないが、「米国第一」の発想にもとづいて戦略的関与の地域と形態を決める、苛烈な外交政策だ。

 このブログを書いている時間帯に、ニューヨークでは、国連安保理の緊急会合が開催されているはずだ。ロシアはアメリカの攻撃の「国際法違反」を突いてくるだろう。イギリスは、アメリカへの強い支持を表明しており、日本などの同盟国が追随するだろう。中国は、トランプ大統領と習近平国家主席とのフロリダでの直接会合を終えた直後で、声明も出せておらず、後手後手に回っている印象だ。今回の軍事行動が、北朝鮮情勢をふまえた中国へのけん制であるという見方は、当然、誰もが採用する見方だろう。姑息な様相で、計算されていると感じるのが、普通だろう。

 国際法の視点から見ると、国連憲章24項にもとづき、武力行使は一般論として違法である。今回の軍事行動も、当然、違法性の推論がかかり、ほとんどの人が、かなりの程度で国際法違反は明白だ、と言うだろう。

 こうした場合、武力行使の後に、当該国政府は声明を出し、違法性を阻却する論理を披露する。今回も、トランプ大統領は国民向けメッセージを出した。ただし国際法への配慮には、不足感がある。これまでのいかなる政権の場合でも、特にクリントン政権やオバマ政権のような法律家の大統領の政権であれば、もう少し国際法にも気を遣った声明を出しただろう。

 ただし、誤解のないように言えば、国際法を意識した部分が、全くないわけではない。ポイントは三つあると思う。一つは、「合衆国の死活的な国家安全保障上の利益」への言及である。

“Tonight I ordered a targeted militarystrike on the airfield in Syria from where the chemical attack was launched. Itis in this vital national security interest of the United States to prevent anddeter the spread and use of deadly chemical weapons.”

この「死活的な利益」の防御が、国際法上の自衛権行使の要件に合致するものであれば、違法性は阻却され得る。そのためには、中東付近に展開する米国人の防衛、米国本土の防衛、または集団的自衛権行使が成立し得る周辺国の防衛のいずれかを証明する必要がある。すでにイスラエルは、今回の軍事行動への強い支持を表明している。ただし集団的自衛権の発動を説明する準備が、アメリカ・イスラエル双方にあるようには見えない。トランプ大統領の声明は、大量破壊兵器の拡散と使用が、米国にとって重大な脅威となっている、という論理構成である。化学兵器の使用に、通常兵器の場合とは異なるレベルの懸念が発生するということ自体は、否定されないだろう。ただしこの点から、国際法上の自衛権を導き出すのは、不可能ではないが、簡単ではないだろう。トランプ声明のこの部分は、そもそも国内の国民向けの説明であると思われる。

 二つ目は、シリアの化学兵器禁止条約違反を指摘し、国連安保理の要請も無視されていることを指摘した個所である。

There can be no dispute that Syria usedbanned chemical weapons violated its obligations under the chemical weaponsconvention and ignored the urging of the UN Security Council.

このトランプ大統領の指摘自体は、正しいものであると推定できる。化学兵器が使われたのであれば。禁止条約違反であることは明白であり、安保理もたびたびシリア情勢に警告を発してきており、2013年に化学兵器の使用が認められた際にも「国際の平和と安全の脅威」という憲章7章の概念が適用される認定を宣言している。ただし武力行使を含む対抗措置の明示的な授権がなければ、武力行使が合法的だと判定することはできない。

 その他、トランプ大統領は、難民問題やテロリズムの脅威についてふれている。いずれも正当な懸念ではありえても、武力行使正当化の理由として成立するかは、また別の問題だろう。

 なお冒頭および末尾で、トランプ声明は、人道的惨禍について強調している。甚大な人道的危機の拡散を防ぐための緊急避難措置として、化学兵器使用に用いられた軍事基地をピンポイントで破壊した、という議論である。安保理を通じて行動しようとしたが。常任理事国の反対で調査もできなかったため、やむをえずとられた国際の平和と安全の脅威に対応する緊急避難措置だ、という議論だ。論理構成上は憲章7章に訴えながら、限りなく人道的介入論に近づいていくことになる。すでに日本を含む幾つかの諸国の政府が、アメリカの軍事行動への支持を表明しているが、人道的危機の切迫性を強調した限定的な対応だという主張に、支持はそれなりに集まるだろう。

 実際には、アメリカは安保理で拒否権を発動できるので、安保理がアメリカの行動の違法性を指摘する決議を出せる可能性はゼロだ。ちなみにアメリカは今月の安保理の議長国である。だがそれにかかわらず、安保理で、国際法違反の疑義に対応する議論がどう出されるかは、注目すべき点だ。
 道義的な説得力はあり、政治的な支持はそれなりに集まっている。化学兵器の使用という明白な国際人道法違反に対して、安保理を含む国際社会が正規の対応措置を実施できず、法執行の空白状態が生まれているところに、トランプ政権が軍事行動を仕掛けた、という理解にはなる。微妙な言い方になるが、武力行使が合法ではないとしても、化学兵器使用の違法性と安保理決議違反が消滅するわけでもない。
 アメリカ国内の事情に即せば、オバマ政権との違いを強調する政治行動にはなった。国際政治の観点からは、その空白状態で、明白な行動をとる準備をトランプ政権が見せたことが、非常に大きな意味を持つ。
 違法性の疑いは強いが、広範な支持を集め得る行動だ。日本政府の立場も、同じような理解に立ったものだろう。正答とは言えないが、妥当ではあるだろう。

 北朝鮮の弾道ミサイル開発の進展を受けて、自民党が「敵基地攻撃能力」の保有の検討を政府に提言した。この問題については、いくぶんかの議論の錯綜があるようだが、1950年代からの政府答弁の記録も明確なので、さすがに「違憲だ」というところまで言うのは、相当な少数派のようである。しかし大新聞などを見ると、「専守防衛」原則に反する、つまり日本は盾で米軍が槍だ、という原則に反する、といった論調が見られる。
 米国依存を大前提にした仕組みを堅持すべきだ、という主張を、日本人が日本語で日本人同士だけで、どちらかというと日頃は米軍基地問題に批判的なメディアの主導で、進めていくのは、奇妙な光景ではある。が、これも日本的な風景ということだろう。
 拙著『集団的自衛権の思想史』では、こうした日本的な風景は、「戦後日本の国体」が「表の憲法9条・裏の日米安保」という仕組みで神話化されていることによって発生している、と論じた。集団的自衛権の特異な理解も、そのような特異な「戦後日本の国体」のあり方を理解(無意識のうちに自明化)して初めて可能となる、と分析した。
 拙著では、集団的自衛権は、沖縄返還を大きな政治目標とした佐藤栄作政権の政府関係者によって、1960年代末頃に国内向けに否定されるようになり、沖縄返還が達成された1972年に政府文書で初めて原則的に否定されたにすぎないものだ、と論じた。
 「専守防衛」も似たような歴史を持つ概念である。「専守防衛」が日本の防衛政策の指針を表す概念とされるようになったのは、1970年に「防衛白書」第1号が公刊された際である。まさに佐藤栄作政権がニクソン政権を相手方として、沖縄返還交渉をまとめ上げていた時期であり、安保条約の自動延長を乗り切らなければならない時期であった。沖縄返還協定は1971年に調印されたのだが、日本はその代償として、「核持ち込み」や「基地自由使用(事前協議制度の骨抜き)」などの密約を交わしていた。
 「専守防衛」論については、沖縄返還の直接的な帰結として、主張されるようになった、ということではない。ただ、「専守防衛」という概念を強調することによって確立しようとしていた「国家の体制」とは、日本の共産化を防ぐ、ベトナム戦争については支持はする、といった言説がアメリカに対して説得力を持った、当時の時代の雰囲気の中で確立が模索されていた「国家の体制」であったことには留意する必要がある。
 「沖縄返還」は、「本土の沖縄化」であった、とする論者もいる。つまり今日までの残る地位協定の問題などが恒久制度化されたのは、占領下にあった沖縄が、抜本的な制度変革もないまま本土復帰したときであった、とする論者もいる。
 集団的自衛権を違憲として確定させる政府の立場は、連日のようにベトナム爆撃のために沖縄基地を飛び立つ米軍機の行動を、日本政府が一切の責任を負うことを拒絶しながら、完全に黙認するという合意をあたえて、沖縄返還を果たしていくための政治的措置だった。そして「専守防衛」論も、全く同じ政治的含意を持つ概念だ。
 本来、日本国憲法を待つまでもなく、国連憲章以降の国際法においては、憲章2条4項で武力行使が一般的に禁止されている。その例外は、自衛権と集団安全保障しかないので、国家の防衛行動の是非はすべて、「自衛権」の適用の合法性の問題に還元される。「敵基地攻撃」も、単なる先制攻撃であれば国際法で禁止されている武力行使に該当するが、武力行使が発生する蓋然性が明白であれば、自衛権で正当化される。
 憲法9条1項が放棄しているのは「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」だけで、自衛権の行使は否定されていないとすれば、また9条2項の戦力不保持も1項で禁止されていない自衛権行使のための実力の保持は禁止していない、という政府解釈に立つのであれば、日本国憲法と敵基地攻撃との関係も、国際法と敵基地攻撃との関係と同じであるはずだ。したがって「専守防衛」とは、国際法から見ても憲法から見ても、その語義だけを単純に見ると、当然至極のことを言っているにすぎない。
 この概念が日本の防衛政策の歴史の中で持つ意味を感じ取るためには、実際の歴史的経緯の文脈で、この概念が用いられるようになった様子を見ていかなければならない。
 拙著では、集団的自衛権の是非を争う議論は、したがって少なくとも冷戦終焉後の日米同盟管理の観点で論じるのでなければ意味がない、と示唆した。「専守防衛」論も全く同じであろう。「憲法をよく読めば、日本は盾で米軍が槍だ、という原則がわかるはずだ」、といった、のんびりした見解では、いまだ冷戦ボケの思考と言われても仕方がない。

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