「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文その他の情報や、時々の意見・解説を集めています。以前にホームページとして掲載していた情報ともリンクさせています。

2017年06月

 自民党の全国会議員を集めた憲法改正推進本部の会合が、昨日開催されたという。現在、自民党内の議論は、安倍首相の自衛隊合憲性明記を追記する提案と、石破茂・元幹事長の9条2項削除論の意見が、対立軸になっているように見える。
 私自身は、6月12日に、自民党の憲法改正推進本部のお招きを受けて、話をさせていただいた。私の話が終わるや否や、真っ先に手を高々とあげて質問をしてくださったのは、石破・元幹事長であった。非常に熱情こもる話しぶりであり、真面目さが伝わった。
 私は石破・元幹事長の現行憲法理解には全面的に賛同する、と申し上げた。また改憲案としての2項削除案は綺麗な案であることは間違いないと述べた。ただ自分自身は、自衛隊の合憲性明確化は早期に確定したほうが良いと考えるので、争いが少ないだろう首相提案のままでいいのではないかと思っている、と述べた。
 以前に書いたブログ記事では、首相案のまま提案するのか否かは、「政治判断だろう」、と書いた。http://agora-web.jp/archives/2025987.html
 ちなみに私は、やはり以前のブログで、「護憲派は改憲案に賛成すべきだ」、という意見を書いた。http://agora-web.jp/archives/2025881.html
  しかし、残念ながら、実際には、改憲に賛成する護憲派はいないようである。それどころか、護憲派は、「政治判断」以前のいわば誤解を広めて、何としても改憲を阻止しようという政治運動を展開する構えのようである。
 健全な論争は、もちろん望ましい。しかし政治運動を優先させて、誤解、あるいは意図的な問題のすり替えを広めようとするのは、邪道である。そこでまずは、扇動主義の蔓延を少しでも防ぐための解説を施しておきたい。

<ポイント1:但し書きは一般条項に優越する>
 自衛隊の合憲性を明記する9条3項(9条の2が良いという見解もあるようだが、ここでは便宜的に新設の3項と仮に呼んでおく)は、2項に対する但し書きになるはずである。「特別法は一般法に優越する」のが法解釈の大原則である。したがって但し書きは一般条項に優越する。つまり但し書きが明記された時点で、自衛隊は2項の「戦力」に該当しないことが、文言上疑いのないものとして確定する。但し書きを作っても、なお2項で「戦力」が禁止されているので矛盾が残る、といった議論は、端的に間違いである。
 巷では、首相案では、9条に自衛隊禁止規定と合憲規定が混在して混乱してしまう、などと言っている憲法学者がいるが、全く成り立たない。2項が自衛隊を禁止しているという理解が生まれる余地を消し去るのが、新設3項の但し書き規定になる。但し書きがあっても2項があるので自衛隊は禁止され続ける、といった話を流布しようとしている憲法学者は、法学者というよりも、混乱の拡張を狙う政治運動家だ、と言わざるを得ない。
 英文で「Force」が2項で禁止されているのにSelf-Defense Forceが合憲化されるのはおかしいとか、自衛隊をしっかり軍隊にしないと自衛隊員が可哀そうだといった「自衛隊員なりすまし」式の言説も見かけるが、議論としては全く成り立たない。2項で禁止されている「War Potential」としてのForceに、自衛隊というForceが該当しないことが、但し書き規定によって確定されることになるはずだ。同じForceという語だと曖昧だという話は、現在の状態に対する評論ではありうるかもしれないが、新設但し書き3項案への批判としては成り立たない。また現時点でも、「実力組織」としての自衛隊は、Militaryとしての軍である。軍隊にしてやらないと可哀そうだといった議論は、現状でも成り立っていない。どうしてもということであれば、新設3項の但し書き規定に、自衛隊は2項で禁止されている戦力ではない「軍隊」だ、ということをしっかり明言すればよい。
 9条2項の「戦力」概念は、日本国憲法特有の法律概念であり、そのような概念として理解しなければならない。「僕は戦力という言葉をこう考えています」「私は戦力という言葉を聞くとこういうことを想像します」といったレベルの話は、憲法解釈論とは言えない。まして新設の但し書き3項が作られた後でも、「とにかく、何が何でも僕は戦力という言葉をこう解釈するので、憲法典が但し書きで何を言おうとそんなことは知ったことではない」というレベルの言説に固執しようとするのは、少なくとも憲法解釈の議論とは言えない。
 これもやはり以前のブログで書いたが、http://agora-web.jp/archives/2026481.html 但し書き3項が設定されれば、2項で禁止されている「War Potential」という「戦力」が、侵略戦争などの国際法違反を犯すための「戦力」であるという解釈が確定することになるはずだ。なお私自身は、この解釈は、しっかりと前文から日本国憲法を精読すれば、現在であっても自然に見えてくるはずの解釈だとも考えている。

<ポイント2:但し書き追加に反対するのは政治的立場である>
 以上をふまえると、但し書き3項によって自衛隊の合憲性を明確にする提案に反対する立場は、法的見解をめぐる立場ではない、ということが判明する。それは、自衛隊の合憲性を明確化することに反対する、という政治的立場のことである。仮に、その立場をとっている者の職業がたまたま憲法学者である場合でも、そういう立場をとるという判断は、政治的立場をめぐる判断である。

 ここまでをふまえたうえで、次に2項維持案と削除案を比較すると、次のようになる。

<ポイント3:維持案のメリットは解釈の安定性にある>
 2項を維持する案は、「戦力ではない自衛隊」を明確化するという案である。言うまでもなく、従来の政府見解は、自衛隊は2項の「戦力」ではない、というものであった。したがって維持案のメリットは、従来の政府の立場を変更するコストを防ぎながら、自衛隊の合憲性を文言の上で明確化できることにある。従来の政府見解との整合性や、新たな位置づけを与えられる自衛隊を確立し直すコストを回避したいのであれば、維持案がよい。

<ポイント4:削除案の意味は自衛隊の再構成にある>
 上記のメリットは、立場を変えると、デメリットになる。「戦力ではない自衛隊」という位置づけに不備を感じる場合に、2項を削除すべきだという意見になる。従来の政府見解を正すのであれば、2項を削除することが、わかりやすい。自衛隊を新たに国防軍として位置づけし直すのであれば、2項の制約はないほうが望ましいということになる。2項削除案のポイントは、現状の変更を恐れずに自衛隊の位置づけを再構成して国防軍の設置を求める、ということである。

  619日付『朝日新聞』の長谷部恭男・早稲田大教授と杉田敦・法政大教授との間の「対談」を読んだ後、気分が悪くなった。なぜだったのか、一晩寝かしてから、もう一度考えてみた。

 「安倍政権マフィア化」という品のない題名も、ハッとはする。政権は個人攻撃をしているからマフィアだと言いながら、首相の個人攻撃に終始する記事を載せているのは、同じ学者として、暗澹たる気持ちになる。が、ここ数年の政治運動の仕組みを考えれば、特に今さら驚くほどのものではないのかもしれない。

 気分が悪くなったのは、自衛隊に関する記述部分だ。「改憲の道具として自衛隊利用」という見出しの欄で、長谷部教授は、次のように述べた。

 

「自衛官の自信と誇りのためというセンチメンタルな情緒論しかよりどころはありません。そう言うといかにも自衛官を尊重しているように聞こえますが、実際には、憲法改正という首相の個人的な野望を実現するためのただの道具として自衛官の尊厳を使っている。自衛官の尊厳がコケにされていると思います。」

 

 ここでは自分は自衛隊員を尊重しているが、首相はコケにしている、という文脈だ。自己説明では「俺は言っていない」ということだろう。だがそうであれば、首相もまた「俺はそんなことは言っていない」と思うに決まっていることは当然だろう。論争相手の尊厳を一切認めず、誹謗中傷だけを繰り返す、「子どものケンカ」である。

 しかし何と言っても「子どものケンカ」の題材に、「自衛官の尊厳」なるものを、勝手に持ち出し、あたかも自分こそ自衛隊員の立場を代弁しているかのように振る舞う態度が、私の気分を悪くさせた原因だ。

これは禁じ手だと思う。というのは、憲法学者が、自衛隊員自身が発言を行うことを憲法違反として禁じているからだ。自衛隊員が自ら何かを言うと、一斉に批判の声を上げ、黙らせようとする。その上で、自衛官のことを本当に代弁しているのは、私、憲法学者であるという話を、全国紙を通じて流布しようとする。ルール違反ではないだろうか。

 

  1. 自衛隊員が、憲法改正を含めて一切の政治事項について発言するのを、「違憲だ」とまで表現して、禁止する。

  2. 次に、「首相は自衛隊をコケにしており、自衛隊員を尊重しているのは憲法学者だ」と主張する。

  3. さらに、全国紙を通じて自分の政治的思想を「自衛官の尊厳」の名で広める政治運動を展開する。

 

 憲法学者は、こういった論理構成に慣れている。「主権者・国民」こそが絶対的で、政府を常に制限するのが国民だと主張しながら、ただし「国民」は何も発言しないので、憲法学者のコミュニティが学会の多数派意見で「国民」の一般意思の内容を決める、と言う但し書きをつける。こういった発想を常識とする人々だけのコミュニテイに、数十年も浸かっていると、その論理の奇妙さに気づかなくなるのだろう。

 改憲に反対したり、首相が嫌いだと言ったりしたいだけなら、ただ「私は改憲に反対する、首相は嫌いだ」、と発言すればよい。そのうえで、自分の主張の根拠について、相手の論拠にも対応した精緻な学術的な議論を提供することに努力を払うように心がけるべきだろう。

自衛隊員の発言を違憲として禁止するのであれば、勝手に自衛隊員の気持ちを代弁するのも違憲に等しいと考えるべきだ。学界で最高権威を持つ憲法学者であれば、代弁しても許される、それどころか立憲主義の進展につながるのだ、といった発想には、私は根拠がないと思う。

 安倍内閣の内閣支持率がだいぶ下がったということで、各方面でニュースが流れている。なぜ安倍内閣の支持率は下がらないのか、と問い続けてきたメディアが、ついに安倍政権の限界が露呈した、とほとんど高揚しながら、伝えている。

 一部報道では、やはり高揚感のある野党政治家の動向を伝えるものがある。しかし近視眼的なメディアの場当たり的な雰囲気に乗せられるのは、どうかしている。良識ある野党政治家は、冷静に事態を見守り、しっかりと仕事をしてもらいたい。

 政治家は、実現したい政策を実現するために政治家をやっているはずだ。ただ単に現下の内閣支持率が下がったといって喜ぶ一部の野党政治家のあり方は、理解に苦しむ。たとえ内閣支持率が変わらなくても、自分の掲げる政策に関する理解が広まったときに、喜びを感じるのが政治家のあるべき姿ではないか。

 実現したい政策があるのなら、選挙に勝ちたいと思うのは、当然だ。勝つために戦略的に動くのが、当然だ。つまり次の選挙で過半数を獲得するために、選挙区割だけではなく、時間軸をとって効果的な世論喚起の方法を計算し、さらに幾つかのオプションを比較較量したうえで、日々検証しながら、現在の政策的立場を表現していくことが、当然だ。ところが、日本の野党は、そういう当然のことをやっているように見えない。

世間の人々は、戦略を持って、日々の仕事に従事している。戦略を持っていない人に尊敬の念が湧かないのは、当然だ。

 強行採決を演出しようとするのも、無理がある。コンセンサス方式への信奉に訴えようとする態度は、国対政治ボケである。

そんなことよりも、政権獲得したらどういう政治をするつもりなのかを表明し、与党より優れたことを言っているという印象を国民に与えるために、審議の機会を活用すべきだ。

野党が広告代理店を雇っているといった話も聞くが、実績のある経営コンサルタント会社などを雇って成長戦略を作ることにもう少し力を入れたほうがいいのではないか。

 日本の議会政治の行方には、野党が持っている責任が重い。

 冷戦時代に「保守/革新」と呼ばれていた左右対立は、いつのまにか「保守/リベラル」と名前を変えただけで、現在もなお終わりなき延長戦のようなことを続けている。「強行採決の暴挙に反対する!」云々と、時代がかった罵声も、あまりに見慣れたものになってしまった。国内スキャンダルであるかもしれないニュースの内容も、「一極支配を打破せよ!」という対立構図で、かき消されてしまう。
 冷戦は良かった、と言う人はあまりいないだろう。だが冷戦時代の頃の日本は良かった、と思っている人があまりに多いことには、時々驚かされる。それが日本なのか。独特な社会的雰囲気が、21世紀の現代にも日本の独特な政治文化を維持し続けている。
 10日ほど前、拙著『集団的自衛権の思想史:憲法九条と日米安保』に、読売・吉野作造賞を与えていただけることを、読売新聞と中央公論の紙上で発表していただいた。数多くの方々からお祝いの言葉をかけていただいた。時代の状況の中で書いた本であっただけに、お世話になった方々への感謝は募る。
 同時に、何人かの方々からは、「いよいよ篠田さんにも人格攻撃が始まるんじゃないか」などと忠告めいたことを言ってくださった。「要するに篠田なんていうのは〇〇だ・・・」という一刀両断式の批評をされるよ、ということらしい。まあ、あくまでも私などに批評されるほどの価値があれば、という前提での話だが・・・。
 私はかつて、朝日新聞社の「大佛次郎論壇賞」を『平和構築と法の支配』という国際政策研究で、「サントリー学芸賞」『「国家主権」という思想』という国際思想史研究でいただいたことがある。確かに、その時と比べると、私自身もあまり「お祝い」といった気分に100%浸れない気がしている。本の内容に同時代の論者への批判が含まれていることが一つ。自分の政策的立場が日本で推進されている気がしないのが一つ。
 読売新聞のインタビュー記事では、「護憲派」でも「改憲派」でもない、いわば「国際派」だと書いておいてもらいたい、とお願いした。ご親切にも、そのように書いてもらった。しかし果たしてそれを読んでピンときた読者がいただろうか。自分で紙面を読んでみると、読売新聞に悪いことをしたような気がした。「その国際派っていう少数派閥、日本に何人くらいいるんですか?」、というようなものだろう。
 先週15日、PKO協力法が25周年を迎えた。私は1993年にPKO協力法にもとづいてカンボジアの国連PKOに派遣してもらい、6週間ほど選挙関連業務にあたらせていただいたことがある。その後に書いた体験記は、ひそかに翌年の大宅壮一賞の候補作に入れていただいていた。その『日の丸とボランティア』という題名の(今は絶版となっている)書物の冒頭を、24歳の私は、次のような文章から始めた。
 
「僕は1968年に生まれた。その年の5月、パリでは学生たちの革命が起こった。・・・日本でも学生運動の嵐が吹き荒れ、翌年に安田講堂に籠城した者たちが東大の入試を中止させた。だがその一方で、日本はGNPで西側第二位の地位を獲得していた。・・・だから僕の属する世代は、戦前や戦後と格闘したことがないだけでなく、そうした格闘を見たこともない。自分が右にいるか左にいるかと考えたことがないだけでなく、右と左の対立図式を破壊しようとしたこともそこから逃げようとしたこともない。・・・僕が・・・大学を卒業したのは1991年だった。・・・」

 思えば、24年後の今、あらためて自分自身の言葉について考えているような気がしている。あの当時、24年後の日本でも、ここまで硬直した左右対立が残存し続けていると言うことを予測できていたわけではない。
 私が大学で日常的に接している学生たちは、冷戦後の世界だけしか知らない世代である。学部の学生であれば、もうすぐ21世紀生まればかりになり始める。冷戦期へのノスタルジアやその反発の言説を垂れ流しながら、彼らと接していいはずがない。
 だがそうだとすれば、この国にとって、冷戦後の世界は、どんなものなのか。あらためて、問い直していかなければならないような気はしている。

 日本国憲法と国連憲章は、「平和を愛する諸国民/平和愛好国家(peace-loving peoples [states])」、という共通の概念を用いている。実は、この概念は、1941年「大西洋憲章」でも、用いられていた。さらに「恐怖と欠乏からの自由(free from fear and want)」という憲法の文言も、大西洋憲章から引き継いでいる。言うまでもなく、これら二つの自由は、F・D・ローズベルトが唱えた「四つの自由」を構成した概念だ。国連憲章前文の「Larger Freedom」も、同じことを指していると、通常は理解されている。
 アメリカのF・D・ローズベルトと、イギリスのW・チャーチルが会談を行い、第二次世界大戦の目的を明らかにする宣言を行った。それが「大西洋憲章」であった。そのとき、「平和愛好国家」が戦争を通じて達成しようとする目的は「恐怖と欠乏からの自由」だ、という概念構成がとられたのであった。その論理構成は、そのまま国連憲章に引き継がれた。そして、日本の憲法学者はふれたくないのだろうが、実は、日本国憲法にも引き継がれたのである。
 「恐怖と欠乏からの自由」を目指して戦う「平和愛好国家」という概念構成は、起草者が戦争の勝者たるアメリカ人であったという端的な事実とあわせて、大西洋憲章、国連憲章、日本国憲法が、一続きの連続性を持っていることを証左する。
 その大西洋憲章の第8項において、米英両政府首脳は、次のように宣言していた。
 「陸、海又ハ空ノ軍備カ自国国境外ヘノ侵略ノ脅威ヲ与エ又ハ与ウルコトアルヘキ国ニ依リ引続キ使用セラルルトキハ将来ノ平和ハ維持セラルルコトヲ得サルカ故ニ、両国ハ一層広汎ニシテ永久的ナル一般的安全保障制度ノ確立ニ至ル迄ハ斯ル国ノ武装解除ハ不可欠ノモノナリト信ス。(Since no future peace can be maintained if land, sea or air armaments continue to be employed by nations which threaten, or may threaten, aggression outside of their frontiers, they believe, pending the establishment of a wider and permanent system of general security, that the disarmament of such nations is essential.)」
 つまり、すでにイギリスと交戦していたドイツや、その後すぐに開戦する日本などの枢軸国を、「一般的安全保障制度」が確立されるまで、「武装解除」することを、米英両国は、1941年の段階で、宣言していた。そしてその宣言どおり、1945年の終戦後、連合軍は日本を武装解除した。憲法9条2項の戦力不保持の規定は、その武装解除の状態を、法規範のレベルにまで高めて制度化した措置であった。
 ただしだからこそ、武装解除が永遠の措置であるとは想定されない、と言える。マッカーサーは、9条を起草しながら、警察予備隊の設立を促し、日本が自衛権を行使できることを明言した。日本の憲法学者は、それはマッカーサーが翻意したためであると断定する。憲法典を起草した際には、永遠に戦力を放棄させようとしていたと仮定する。自衛権を認めたマッカーサーは、冷戦開始後の政治的動機により、憲法典を起草した際のマッカーサー自身を裏切ったのだ、と仮定する。
 本当にそうだったのだろうか。
 大西洋憲章の趣旨や文言を見たうえで、憲法を読み直すならば、戦力不保持の規定が包括的かつ永遠の措置であったとは解釈できないと考えるのが、自然であるように思われる。日本国憲法起草時のGHQ草案は、実際に成立した日本国憲法の日本語正文の9条2項とは異なるニュアンスを持っていた。草案では、「No army, navy, air force, or other war potential will ever be authorized」とされていた。つまり戦力は「認められない」ものであった。「認めない」のは誰か。本来の憲法の論理構成では、日本国民が認めない、という説明になるはずだろう。しかし実際には、日本を占領しているアメリカを中心とする連合国が戦力を「認めない」のは、自明であった。
 確かに、「No…will ever be authorized」と書かれたGHQ草案でも、未来にわたって戦力が認めらない状態が続くことが、示されている。しかしその語感からは、一定の条件がそろったとき、「認められる」状態が訪れる可能性をくみとることはできる。どこかに「not authorized until…」というニュアンスを感じ取る余地がある。
 「大西洋憲章」では、枢軸国の武装解除が、「They will likewise aid and encourage all other practicable measures which will lighten for peace-loving peoples the crushing burden of armaments」を導くとされ、平和愛好国家の負担を減らすと説明されていた。平和愛好国家の負担が減るということがポイントであり、武装解除それ自体が永遠の絶対課題とされたわけではない。
 実際の憲法典で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とされた条項は、英文では次のようになる。「In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea and air forces, as well as other war potential, will never be maintained.」今度は、おそらく日本国民が、「maintain」しない、つまり戦力を維持しないことが、宣言されている。いずれにしても、1項では、「forever renounce war」と強く戦争放棄が宣言されたのに対して、2項は「not authorized」あるいは「not maintained」と、ややニュアンスのある表現になっていることは、目を引く。
 1項と2項の英文テキスト上の表現の違いは、「大西洋憲章」を参照すると、理解することができる。「大西洋憲章」において、「武装解除」されるのは、あくまでも侵略の脅威を与える国である。それはつまり枢軸国のことなのだが、論理構成上は、旧枢軸国が侵略の脅威を与えない国に生まれ変わった場合、おそらく一般的安全保障制度に組み込まれて生まれ変わった場合には、その旧枢軸国はもはや武装解除の対象ではなくなる。
 1項の戦争放棄は、1928年不戦条約以降の国際法の進展に歩調をあわせて、いわば永遠に戦争を放棄するものである(ちなみに自衛権にもとづく正当な武力行使は放棄される「戦争」には該当しない)。これに対して2項の戦力不保持は、もともと政策的な追加措置であり、いわば時限付きの措置である。日本は、一般的安全保障制度から外れて侵略の脅威を与える国である限り、武装解除され続ける。維持されず、認められない「戦力(war potential)」とは、もともと1項で放棄されている侵略「戦争」を行うための能力のことである。もし1項で禁止されていない合法的な武力行使を行うための組織が作られるならば、その組織は「維持され」たり、「認められ」たりするかもしれない。
 2項冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を入れた措置は、「芦田修正」と呼ばれる。憲法学者は、これを姑息な陰謀と呼び、その効果を認めない。しかし前文から続けて9条を読めば、芦田修正が前文で宣言されている理念を確認するためだけの措置であることがわかってくる。つまり芦田修正の効果は、9条を前文とのつながりに応じて解釈するだけで、発揮されてくる。放棄されているのは、国際法で違法とされる侵略戦争のことであり、侵略戦争を実施するための「戦力」である。
 日本は、過去70年の間に、「大西洋憲章」の論理にもとづいて、武装解除の終了を認められたことがあっただろうか。おそらく、あった。1951年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が締結され、米軍との協働を大きな柱とする仕組みの中で、自衛隊が設立されたとき、確かにアメリカを中心とする多くの旧連合諸国によって、もはや日本は侵略国ではないと、「認められた」。確かに、「認められた」方法は、完全なものではなかった。一般的安全保障制度は存在しているが、実効性は乏しいため、連合国の筆頭国であるアメリカとの二国間安全保障条約が、不足を補う仕組みがとられた。講和条約は「全面講和」ではなかった。しかし、それでも、国際的に、武装解除の停止が「認められた」ことは、確かだと思われる。もはや侵略国ではないと「認められ」、日本は主権国家としての地位を取り戻した。そしてもはや侵略国ではないという前提で、武装解除の停止も、「認められた(authorized)」のである。
 
 現在話題になっている改憲案に関して、自衛隊が2項で禁止されている「戦力」に該当しないことを明記する改憲だけでは足りず、そもそも2項それ自体を削除しなければならない、という議論がある。私は、必ずしも、それが必要な措置だとは思わない。現状でも自衛隊は合憲だという前提があるので、それを明確化する但し書きを作れば、十分である。
 むしろ、2項を削除してしまうと、日本が侵略国ではなくなったので武装解除の停止を「認められた」、つまり侵略戦争に用いるためではない実力組織を保持することが「認められた」という経緯が消し去られてしまい、自衛隊が持つ歴史的な性格を消し去られてしまう。それは憲法の国際協調主義の観点からは、必ずしも望ましい措置だとは思われない。
 自衛隊を普通の軍隊に作り替えるためには、9条2項削除をすべきだ、という意見は、わかる。しかし現実的だとは思えない。歴史的な経緯を消し去るというのは、どういうことか。現在まで続いている歴史の痕跡も否定するということである。5万人余にのぼる旧占領国アメリカの軍隊を受け入れ、有事の際にはアメリカ主導で共同行動をとるという仕組みを大前提として機能させ続けながら、自衛隊は完全に独立した普通の軍隊で一切の国際的制約もない、とあえて声高に唱えようとするかのような行為は、本当に必要かつ、妥当で、機能しうるだろうか。2項を維持するのは、綺麗ではないかもしれない。しかし私は、現実的な措置であると思う。

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