「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文その他の情報や、時々の意見・解説を集めています。以前にホームページとして掲載していた情報ともリンクさせています。

2017年11月

国会の代表質問で、枝野幸男・立憲民主党代表が、安保法制も集団的自衛権も「立憲主義違反」だと断ずる演説を行った。
 枝野代表は、憲法問題に入ると、国内政策に関するときの語り口を突然変え、「まずは、今ある憲法をちゃんと守ってから言え!」と恫喝するかのような雄たけびをあげた。しかも枝野代表は、手続きを踏んで改憲しても、「立憲主義違反を事後的・なし崩し的に追認することになるので、到底認められない!」、とも叫んだ。万が一改憲がなされても、その結果を認めない、という宣言である。
 また、相変わらず反米的なトーンが顕著であった。「日米同盟はケンゼンに強化発展させるべき」という断片的な一言は、「もっとも、ケンゼンな同盟関係であるならば・・・」、とつなげ、「ケンゼン」「ケンゼン」と繰り返して、結局、日米同盟が不健全であることを強く示唆した。
 枝野代表は、自らが真の「保守」で、真の「リベラル」で、真の「立憲主義者」であることを誇る。しかし、結局、冷戦時代の「革新」と同じように見えるのは、国政の要の一つである外交安全保障分野で体系的な政策を打ち出さず、ただ反米主義のアピールで、支持者層を確保しようとするからだ。
 それにしても立憲民主党は、「立憲主義に違反する」のがどんな状態であるのか、なぜ安保法制や集団的自衛権そのものが「立憲主義に違反する」のかについて、まだきちんと体系的で精緻な議論を提示していない。立憲主義者を誇るのであれば、まず責任をもってそれらを説明すべきだ。
 私は、拙著『集団的自衛権の思想史』で、集団的自衛権違憲論が1960年代末の特有の時代の政治的産物でしかなかったことを論じ、拙著『ほんとうの憲法』で国際法と調和するのが本来の憲法の姿であることを論じた。つまり私は、枝野代表によって完全否定されている存在である。
 私は、攻撃的な憲法学者に、「三流蓑田胸喜だ」「日陰者だ」と誹謗中傷されている。http://agora-web.jp/archives/2029005.html 憲法学者の中には、集団的自衛権は違憲だとは言えない、と表明したがゆえに、執拗な脅迫にあい、警察官とともに通勤せざるを得なくなった方もいる。http://agora-web.jp/archives/2029309.html 
 立憲民主党が、一方的な思想統制に加担しているわけではない公党なら、断言調で他者を否定する行為について、自らの言葉でしっかりと説明する責任がある。
 私を含めて多くの方々が、立憲民主党が、どのような精緻な議論で、自己の主張を裏付けるのか、大きな関心を持っている。

*****

前回のブログでは、矢部宏治氏の反米ナショナリズムの誇張と扇動の言説について書いてみた。その中で、砂川事件最高裁判決が、「統治行為論」に逃げて、日米安保条約の違憲性の判断を回避した、とする見方にも、疑問を呈した。http://agora-web.jp/archives/2029574.html 
 「立憲主義」の理解にあたって、最高裁判所判決を知るのは、非常に重要なことだろう。そこで、砂川事件最高裁判決(1959年)について、具体的に見てみたい。個別意見にも幾つかの有名な文章が多々あるが、あえて最高裁全体の見解として提示された判決の主文に絞って、見ていきたい。主文は4千字余り程度の量の文章だ。誰でも簡単に読める。http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/816/055816_hanrei.pdf
 判決は、まず9条の検討から入る。 

「そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および九八条二項の国際協調の精神と相まつて、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。」

  ここで書かれているのは、9条が、侵略国家としての日本の体制転換を図る政策的意図で作られたものであることの確認である。 

「しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」

  ここで書かれているのは、9条が自衛権を否定するものではないことの確認である。戦争放棄が、自衛権の放棄ではないことの確認であると言ってもよい。 

「すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによつて生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。」

 ここで書かれているのは、「戦力」不保持は、「諸国民の公正と信義に信頼」で補って、「われらの安全と生存を保持する」、という憲法前文の「決意」の仕組みの確認である。

 それは、地方裁判所判決(伊達判決)のいうように、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。」

  ここで書かれているのは、「諸国民の公正と信義に信頼する」ということが、他国に安全保障を求めることを含む、広範な措置でありうることの確認である。

 「憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体なつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。」

 ここで書かれているのは、9条が侵略国家であった日本の体制転換を図る国内法根拠を作るものであったことを鑑みれば、日本に駐留しているからといって、外国軍が92項が禁止する「戦力」に該当するような可能性はない、ということの確認である。

 「アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に反するかどうかであるが、その判断には、右駐留が本件日米安全保障条約に基くものである関係上、結局右条約の内容が憲法の前記条章に反するかどうかの判断が前提とならざるを得ない。しかるに、右安全保障条約は、日本国との(サンフランシスコ)平和条約と同日に締結せられた、これと密接不可分の関係にある条約である。すなわち、(サンフランシスコ)平和条約六条(a)項但書には「この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」とあつて、日本国の領域における外国軍隊の駐留を認めており、本件安全保障条約は、右規定によつて認められた外国軍隊であるアメリカ合衆国軍隊の駐留に関して、日米間に締結せられた条約であり、平和条約の右条項は、当時の国際連合加盟国六〇箇国中四〇数箇国の多数国家がこれに賛成調印している。」

 ここで書かれているのは、日米安全保障条約がサンフランシスコ講和条約と一体のものとして締結されたということであり、つまり米軍の駐留は日本の主権回復と矛盾しない形で国際的に認められたということの確認である。

 「右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。それ故、右安全保障条約は、その内容において、主権国としてのわが国の平和と安全、ひいてはわが国存立の基礎に極めて重大な関係を有するものというべきであるが、また、その成立に当つては、時の内閣は憲法の条章に基き、米国と数次に亘る交渉の末、わが国の重大政策として適式に締結し、その後、それが憲法に適合するか否かの討議をも含めて衆参両院において慎重に審議せられた上、適法妥当なものとして国会の承認を経たものであることも公知の事実である。」

  ここで書かれているのは、日米安全保障条約が、「わが国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利」にもとづいて締結されたものであることの確認である。判決は、それは国際連合憲章にもそっており、国内手続きも不備なくとられて、成立したものであることも確認している。

 「ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする。」

 この箇所が、砂川事件最高裁判決が、「統治行為論」を採用した、と後に憲法学界で言われるようになる根拠である。ただし、この箇所において、判決は、違憲審査を放棄していない。「一見極めて明白に違憲無効である」と認められる場合には、やはり違憲判断を下すだろうことが、示されている。ただ、三権分立の観点もあるだろう、裁判所が国会の権限の範囲に入り込むことには慎重さが必要だ、ということが書かれているにすぎない。

 「本件アメリカ合衆国軍隊の駐留に関する安全保障条約およびその三条に基く行政協定の規定の示すところをみると、右駐留軍隊は外国軍隊であつて、わが国自体の戦力でないことはもちろん、これに対する指揮権、管理権は、すべてアメリカ合衆国に存し、わが国がその主体となつてあだかも自国の軍隊に対すると同様の指揮権、管理権を有するものでないことが明らかである。またこの軍隊は、前述のような同条約の前文に示された趣旨において駐留するものであり、同条約一条の示すように極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、ならびに一または二以上の外部の国による教唆または干渉によつて引き起されたわが国における大規模の内乱および騒じようを鎮圧するため、わが国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することとなつており、その目的は、専らわが国およびわが国を含めた極東の平和と安全を維持し、再び戦争の惨禍が起らないようにすることに存し、わが国がその駐留を許容したのは、わが国の防衛力の不足を、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して補なおうとしたものに外ならないことが窺えるのである。果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。そしてこのことは、憲法九条二項が、自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨のものであると否とにかかわらないのである。」

 ここで書かれているのは、これまでの判決主文の内容の要約であり、結論である。米軍駐留の合憲性が再度確認されており、それはまず米軍が外国軍であるからだからだが、同時に米軍が「国際の平和と安全の維持に寄与する」ものだと認定されるからであり、「平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼」するという憲法の精神に合致したものだと認定されるからである。

 「なお、行政協定は特に国会の承認を経ていないが、政府は昭和二七年二月二八日その調印を了し、同年三月上旬頃衆議院外務委員会に行政協定およびその締結の際の議事録を提出し、その後、同委員会および衆議院法務委員会等において、種々質疑応答がなされている。そして行政協定自体につき国会の承認を経べきものであるとの議論もあつたが、政府は、行政協定の根拠規定を含む安全保障条約が国会の承認を経ている以上、これと別に特に行政協定につき国会の承認を経る必要はないといい、国会においては、参議院本会議において、昭和二七年三月二五日に行政協定が憲法七三条による条約であるから、同条の規定によつて国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決され、また、衆議院本会議において、同年同月二六日に行政協定は安全保障条約三条により政府に委任された米軍の配備規律の範囲を越え、その内容は憲法七三条による国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決されたのである。しからば、以上の事実に徴し、米軍の配備を規律する条件を規定した行政協定は、既に国会の承認を経た安全保障条約三条の委任の範囲内のものであると認められ、これにつき特に国会の承認を経なかつたからといつて、違憲無効であるとは認められない。」

 ここで書かれているのは、日米安全保障条約の実施にあたって定められた諸々の行政協定について、いずれも条約の委任の範囲内のものであるので、違憲性はない、という判断の明示である。条約の行政執行には、少なくとも当時の時点で、違憲性が認められない、ということの確認である。

 「原判決(伊達判決)が、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条二項前段に違反し許すべからざるものと判断したのは、裁判所の司法審査権の範囲を逸脱し同条項および憲法前文の解釈を誤つたものであり、従つて、これを前提として本件刑事特別法二条を違憲無効としたことも失当であつて、この点に関する論旨は結局理由あるに帰し、原判決はその他の論旨につき判断するまでもなく、破棄を免かれない。・・・この判決は、・・・裁判官全員一致の意見によるものである。」

  最後に書かれているのは、日米安保条約を違憲と判断した地方裁判所判決(伊達判決)の否認という結論であり、その判断が最高裁判所裁判官全員の一致した意見として決せられたものだ、ということである。

 最高裁判決の論理の筋道は明確であり、判断をせずに統治行為論に逃げ込んでいるというのは、かなりうがった読み方ではないだろうか。
 日米安保条約が、「平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認している」ことに基づいているという最高裁判所の論理は、明晰だろう。
 もちろん、そのうえでなお2015年安保法案の合憲性に関する議論はあってもいいだろう。しかし少なくとも国会で集団的自衛権は違憲だ、と高らかに宣言した立憲民主党の枝野幸男代表の断言は、論証不要なまでに自明とまでは言えない。
 枝野代表は、他人の議論を完全否定するのであれば、その理由を明示する、という公人として最低限の責務を果たすべきだ。


先日、「米大統領が横田基地を使ったと言って怒る昭和の人々」という題名のブログ記事を書いた後、読者から、「付記」の部分に関する問い合わせをいただいた。http://agora-web.jp/archives/2029459.html 私が、『知ってはいけない:隠された日本支配の構造』(2017年)の著者である矢部宏治氏のことを「非常に高く評価」していると書きながら、「話の骨子は、普通に安全保障問題に関心を持っていれば、誰でも知っている事」、と書いたことについてであった。
  矢部氏の真摯な調査努力には敬意を持っている。ただ、誇張と扇動があまりに多い*。矢部氏の著書のメッセージは、アメリカが日本を支配していて日本は属国なので、主権回復のために立ち上がろう、という反米ナショナリズムのアジテーションである。私はこの大雑把なメッセージそのものには同調しない。地位協定の改善などの具体的な論点の検証だけであれば、私は本当に賛同したいのだが。
 「知ってはいけない」衝撃的な事実とは、憲法典と憲法学の間には、大きな乖離がある、ということだ。この点について、矢部氏を引用しよう。 

「『日本国憲法の草案は、占領下で占領軍によって書かれたものである』まずこの明白な事実を、いかなるあいまいな言い訳もなく、真正面から受け入れる必要があります。たしかに厳しい現実です。大きな心の痛みも伴います。でも、そこから出発するしかありません。事実にもとづかない主観的な議論には、いくらやっても着地点というものがないからです。」(167頁)
 「憲法9条や憲法前文について少しでも論じようとするなら、それらの条文が、国連憲章のどの条文にツールがあるのか、さらにその国連憲章の条文はそれぞれどこにルーツをもっているかについて、まず調べる必要があります。・・・すべてのスタート地点となった『大西洋憲章』は、日本ではあまり知られていませんが、非常に重要な文書なのです。現在、私たちが暮らす第二次世界大戦の世界は、・・・大西洋憲章で示された枠組みの上にあります。・・・そこには憲法9条の持つ、A「平和に対する人類究極の夢(=戦争放棄)B「邪悪な敗戦国への懲罰条項」(=武装解除)というふたつのルーツが、はっきりと書かれている・・・。憲法9条が国連軍を前提として書かれた条文であることに、疑いの余地はありません。そしてその背景にはいま見たように、一九四一年の大西洋憲章にはじまる、国際的な安全保障体制についての長い議論の積み重ねがあったのです。・・・『平和を愛する諸国民』とは、・・・本来、『第二次世界大戦に勝利した連合国(およびその国民)』を意味する言葉だからです。」(169171174-175178180頁)
 「自分もふくめ大多数の日本人にとってこの『反戦・護憲平和主義者』という立場は、基本的になんの義務も負わず、しかも心理的には他者より高みにいられる非常に都合のいいポジションなのです。・・・議論も許さない『絶対護憲主義』は、しょせん戦術論でしかありません。」(矢部宏治『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』[集英社、2014年]40181頁)

このように書いて、矢部氏は憲法学者から、「三流蓑田胸喜だ!」、と非難されたりしないのだろうか?もちろん、されない。なぜだろう。矢部氏が、反米ナショナリズムを掲げ、対米従属体制からの脱却を唱えるからだろう。たとえば篠田英朗であれば、同じような観察から、国際法に調和した憲法典の復権を唱え、米国との同盟関係もその中で位置づける。解釈姿勢が篠田と同じでも、結論が反米・反国際法の提唱であればOKで、そうでなければダメなのだ。
 矢部氏は、アメリカによって憲法9条が破壊される、といったことを語る。正しくは、現実が、憲法学の通説的解釈の虚偽性を頻繁に露呈する、ということだろう。
 現行の日本国憲法が、占領期に作られたものであることは、一つの端的な事実である。憲法が1907年ハーグ陸戦法規43条への抵触を免除する「絶対的な支障」があって作られたものであるかどうかには、議論があっていいだろう。矢部氏が、日本国憲法がアメリカ人が起草したものでしかないことを深刻に捉えるのは、一つのスタンスである。矢部氏の立場は、押しつけ憲法否定・自主憲法提唱者と同じなのである。ただあからさまに自主憲法制定を唱えることはしない。自らが洞察している国際法・日米同盟とつながっている日本国憲法典を拒絶しながら、何とかひとまず主流の憲法学者とは同盟を組んでおこうとする。
 矢部氏は、2015年の安保法案反対デモに参加した際、「『安倍はやめろ』といったコールは連日繰り返して」いたそうだが、「『集団的自衛権はいらない』というコールだけは、一緒に言えませんでした」と告白する。「なぜなら一九五一年一月末から始まった日米交渉のなかで、旧安保条約をなんとか国連憲章の集団的自衛権にもとづく条約にしようと、必死で交渉していたのが日本側のほうで、それを一貫して拒否し続けていたのがアメリカ側だったことを、私はよく知っていたからです」(『知ってはいけない』236頁)と述べる。矢部氏は、集団的自衛権に反対せず、安保法案に反対していた。
 矢部氏は、日米安保条約においては、アメリカに日本を防衛する義務がない、と強調する。だが、「義務」ではないことが「権利」の否定にならないことは、言うまでもない。現実の日米同盟体制は、双方の努力により、「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認」(安保条約前文)する体制で、運用されている。「権利」の運用に不可欠とされているのが、日本国憲法前文にも謳われている「信頼」であることも、双方が了解している。
 矢部氏は続ける。
「アメリカの公文書を読んでいつも感じるのは、『戦後世界の歴史は、法的支配の歴史である』ということです。・・・戦後世界においては、軍事力ではなく、国際法こそが最大の武器だというわけです。」(240頁)
 こうして、矢部氏は、対米従属への抵抗を唱え強調しながら、現代国際法と危うい関係に立つ。現代国際法は、アメリカが中心になって作ったものなので、国際法に従い続ける限り、アメリカの支配を受け入れなければならないからだ。
 実は、矢部氏が洞察するとおり、国際法/日米同盟と、日本国憲法もつながっている。とすれば、それらをセットで受け入れるのでなければ、セットで拒絶するしかないのはないか?矢部氏は、「憲法を守れ」と叫ぶ代わりに、「憲法を変えろ」と言わなければいけなかったのではないか?
 矢部氏は、以前の著作では、「前項の目的を達するため、日本国民は広く認められた国際法の原則を自国の法の一部として取り入れ」るという内容の憲法92項修正案を提案していた。(『日本はなぜ・・・』273頁)
 私としては、国際法を強調する改正に、大賛成だ。憲法解釈の揺らぎによる弊害を今、そして将来も防ぐためには、憲法は国際法と調和するものとして存在する、という原則を思い出すようにしておけばいい。(ちなみに私の拙著『ほんとうの憲法』での提案は、「前二項の規定は、本条の目的にそった軍隊を含む組織の活動を禁止しない。」というものである。)
 ところが、矢部氏は、もう一つの案として、個別的自衛権だけを明示的に憲法に挿入する案も提示し、これでいいならこれでもいい、といった言い方でまとめた。デモをしたときの迷いを見せながら、最後は通説的な憲法学に合わせようとした。矢部氏は、長谷部恭男教授を称賛する。そして、集団的自衛権を敵視することに合意し、日米安保体制の解消のために、大同団結する。
 矢部氏は、昨年の著書では、加憲式の憲法改正を提案し、「憲法の条文の削除は、歴史そのものの削除である」と訴え、「日本の憲法改正はアメリカ型の追加条項方式でやるしかない」、と訴えていた。(『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか[集英社、2016年]302-304頁)
 ところが、今年の著書では、安倍首相の加憲案はダメだ、と主張した(『知ってはいけない』259頁)。駐留米軍を完全撤退させず、日米安保体制を残存させながら、加憲するのではダメなのだという。
 基地のない安保条約は、少なくとも現在の形ではありえない(第6条)。そもそも日米安保条約とは、「ヒト(米軍)とモノ(基地)」の交換を骨格とするものだ。条約改正に先立って憲法改正で事実上の条約の無効化を狙うのは、まさに反米ナショナリストの革命的な挑戦だと言ってよい。
 日本国憲法98条は、「条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と定めている。日本も含め大多数の諸国が加入している「条約法条約」26条は、「効力を有するすべての条約は、当事国を拘束し、当事国は、これらの条約を誠実に履行しなければならない」と定め、同条約27条は、「当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することができない」と定めている。矢部改憲が成立したら、大混乱が訪れ、恐らく誰も収拾することができないだろう。 
 果たして、矢部氏のような態度は、論理的に可能だろうか。日本自らを含む193ヶ国が批准している国連憲章で明記されている条項を、アメリカの軍事支配の邪悪な道具だと断定して拒絶しながら、国際法は全て遵守します、などと説明する態度が、国際的に通用するだろうか。通説の憲法学の政治的イデオロギーを排し、集団的自衛権を含めて国際法の原則を認めたときにこそ初めて、本来の正しい集団的自衛権の原則的解釈に従って、違法な軍事行動を審査して批判することが可能となるのではないか。
 頻繁に矢部氏は、ヨーロッパ人が、アメリカを批判することを参照する。しかし彼らがアメリカを批判するのは、国際法の原則を認めており、それにしたがってアメリカを批判できるからだ。
 日本がアメリカを批判できないのは、日本のガラパゴス憲法論の殻にこもり、国際法の原則にしたがった議論ができないからだ。
 とにかくアメリカはダメだから集団的自衛権は邪悪なもの・・・、などと言っている限り、国際的に通用する精緻なアメリカの批判はできない。
 私は、もちろん日米地位協定が万全だとは思っていない。沖縄に過剰な負担がかかっていることは疑いのない事実だ。その改善に努力するのは、素晴らしい事だ。しかしそうした事実を隠ぺいする役割を果たしてきたのは、日米安保体制を語る事ができない偏った憲法解釈である。作り上げた美しい憲法のイメージを守るために、現実を汚らわしいものとして避ける態度が、裏・表の二枚舌構造を作り出し、裏側を隠ぺいし、表だけを語り続ける人々を大量生産してきた。
 安全保障体制と憲法体制をしっかりと整理して体系的に位置付けた上で、現実の個々の問題の改善に専心するべきではないか?その際に普遍主義的な規範を参照し、国際法の諸原則に沿った形で、事態の改善策を追求していくべきではないか?日本は属国だから立ち上がろう、という反米主義のスローガンを掲げている限り、「革命」が成就するまで事態の改善が果たせないのではないか?
 憲法91項は、現代国際法では国連憲章24項に結実している国際法原則の国内法化の規定である。憲法92項は、戦後処理の一環として行われた侵略国家である大日本帝国の陸海空軍の武装解除/解体の国内法上の根拠を定めたものである。「戦力(war potential)」ではない自衛権の行使を目的にした軍隊の存在を将来にわたって禁止するための規定ではない。(矢部氏は、多くの憲法学者と同じように「マッカーサー三原則」を強調するが、将来にわたる軍隊の保持の禁止は、GHQ内部での議論の段階ですでに削除された考え方だ。)
 「戦後世界の歴史は、法的支配の歴史である」という「現実」を見すえて生きていくのであれば、日本国憲法典を反米ナショナリズムの政治的イデオロギーにしたがって解釈するのではなく、憲法典が調和することを予定している国際法の原則にしたがって解釈すべきだ。矢部氏の著書の実質部分を、誇張と扇動を切り落として読み込めば、本当は、そのような見解が出てくるはずである。

*****

<追記> 矢部氏は、「密約」という言葉を繰り返し使って、センセーショナルな演出を繰り返す。しかし矢部氏の「密約」は、どこまでが本当に「密約」だろうか。「横田空域」を例に取ろう。横田基地が存在しているために、広範な周辺地域の空域に特別な管制が敷かれていることは、よく知られている事実である。私は長く広島大学に勤務していたので、航空機で頻繁に東京と広島を往復していた。横田空域は、体感として知っている。ちなみに広島から九州方面に飛ぶと、岩国空域も感じる事はできる。しかしこれは「密約」のようなものではない。国会で議論されたこともあるし、石原慎太郎都知事の時代には民間機乗り入れ提案が公約とされていたこともある。矢部氏は全くふれないが、横田空域が段階的に縮小していることや、航空自衛隊も入っていることなどは、公の情報で流通している。
 日米安保条約の運用によって、米軍は日本国内のどこにでも基地を持つ権利を持っている、と矢部氏は強調するが、本当に矢部氏が言うように「日本の空は、すべて米軍に支配されている」といったほど、その条約上の権利が行使されているわけではない。仮に矢部氏が言うように、「数十万人程度の人たちが知っていればそれでいい、という問題ではない。少なくとも数千万単位の日本人が、常識として知っていなければならない」(19頁)としても、矢部氏の本が数千万部売れるまで、日米安保に関する行政運営文書の全てが「密約」だったことになるわけではない。
 ちなみに横田基地のある土地は、旧日本帝国陸軍飛行場があった場所だ。現在の昭和記念公園から砂川エリアまで広がる広大な地域も、戦前の軍事関係施設を米軍が一度接収した後に、段階的に返還してきたものだ。沖縄とも事情が違う。米軍基地が東京都にあるからダメだ、という話ではないと感じる。
 矢部氏は、指揮権についても密約があったと言う。自衛隊が、専守防衛の原則にしたがって、数々の米軍との共同行動を前提にした仕組みを持っている事は、周知の事実である。あまり非現実的な民族主義的主張をしても、自衛隊を機能不全に陥らせるだけだ。
 かつて日本の主権回復直後、朝鮮戦争中、まだ自衛隊も創設される前の1953年だ。吉田茂首相が米軍司令官と夕食を共にして、緊急事態の統一指揮権について話した。「現状では」統一的な指揮官はアメリカが担わざるを得ないだろう、と話した。その会話の内容は、司令官から統合参謀本部に打電され、アメリカ政府側に残った。興味深い資料ではある。しかし、これは本当に「口頭密約」と呼ぶべきものなのだろうか?そうした夕食の会話があると、本当に日本は「なんの言い訳もできない完全な『属国』」(196頁)だ、というべきものになってしまうのだろうか?
 そもそも有事の指揮権の問題は、日本人のほうが議論することを拒絶している。憲法学者が、軍隊の存在を認めないので、国内法体系で指揮権を議論できないことが、はじめの一歩の問題として存在してしまっているのだ。緊急事態条項ですら話し合うこと自体を批判している。自国の中で指揮権をきちんと議論することを拒絶しておきながら、日米共同作戦の有事に米国の指揮権がありうることを糾弾するのは、陳腐である。
 ちなみに、陸上自衛隊は、国連PKOに派遣されて、外国人司令官の指揮下に置かれた経験をすでに持っている。海上自衛隊は、ソマリア沖の海賊対策作戦で、多国籍艦隊で外国人司令官の指揮下に置かれた経験と、自ら司令官の任務を遂行する経験もした。矢部氏によると、外国人が指揮官だった期間は日本は「完全な属国」だか部分的な属国だかだったかで、日本人が司令官だった期間は独立国だった、ということになるのだろうか。
 そもそも国際的な軍事活動で、統一指揮権がない、などという事態は、想像できない。「米軍を守っても、米軍に守ってもらっても、どこまでいっても、個別的自衛権だけしかありません」、というガラパゴス理論に固執する人であれば、統一指揮権を邪悪なものと考えるだろう。憲法学者が外交・安全保障問題を仕切るのが、正しい社会のあり方だ、と信じる意識的・無意識的な反米ナショナリストであれば、アメリカ人の指揮下に入ることは到底認めてはならない奴隷行為だ、と考えるだろう。だが果たしてそれは現実的に最も妥当な選択だろうか。
 ところで、矢部氏は、日米安保条約を合憲判断した「砂川事件最高裁判決」を「統治行為論」の産物と断定するだけでなく、相当なページを統治行為論の糾弾にあてている。これは矢部氏だけの責任ではないのだが、砂川事件最高裁判決を統治行為論だけで理解するのは、私は違うと思っている。矢部氏は「保守派」を糾弾するが、むしろ護憲派憲法学者こそが、砂川事件最高裁判決の意義を貶めるために、あれは統治行為論だった、という宣伝を行ってきたのではないか。
 実際の判決を読んでみれば、最高裁判決が「統治行為論」を理由にして合憲判断をしたわけではないことがわかる。合憲判決は、憲法9条が自衛の措置をとることを禁じていないという論旨が中心になされており、追加的に、国権の最高機関である国会が批准した条約に対する違憲判断には強い違憲の明白性が求められると、書かれたにすぎない。その部分だけを取り上げて、統治行為論だ、法治国家崩壊だ、米国支配の属国化だ、と騒ぐのは、読み方としておかしいと思う。
 統治行為論に与した裁判官もいたのかもしれないが、強く反対した裁判官の意見も個別意見の中で確認されている。全体として、判決それ自体が統治行為論に依拠していたとは言えない。統治行為論を拒絶した裁判官も、結局、全員一致の合憲判決に賛同したのだ。
 矢部氏の本の書評で、そうした裁判官を指して「砂川判決に対して反対意見を述べた最高裁判官」が、統治行為論を批判した、などとまとめているものがある(嶋崎史崇『哲学と現代』3220172月)。違う。裁判官たちは、全員一致で、合憲判断に賛同していた。ただ、判決の追加的な記述の書き方について懸念を表明したにすぎない。
 1960年苫米地事件、長沼事件控訴審判決(1976年札幌高裁)、百里基地訴訟第1審判決(1977年水戸地裁)などで統治行為論が採用され、それは砂川事件最高裁判決で用いられた表現が、影響を与えたのかもしれない。だがだからといって遡及的に砂川事件最高裁判決が純粋な統治行為論の判決だったと言えるようになるわけではない。
 砂川事件最高裁判決については、伝言ゲームによる誤解がひどいが、かなり政治的な操作で意図的に悪意の伝言ゲームが行われているのではないか、とも感じる。プロパガンダ本ばかりを読むのではなく、判決それ自体を読んでみるべきだ。最高裁判決は、次のように宣言していた。
 (憲法92項が)「保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。・・・(日米)安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。」(最大判昭和341216日刑集13133225頁)。<http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/816/055816_hanrei.pdf>

訪日時にトランプ大統領が横田基地に降り立ったことに、強い怒りを表明している人が結構いたようだ。(たとえばhttp://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/110900118/?P=2&nextArw http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53435*)  米大統領が横田基地を使うと、日本を属国扱いしていることになるのだという。「戦後」を生き抜いた世代の日本人のアメリカへの感情には、若い世代はもちろん、大学紛争後に育ち、大学時に冷戦が終焉してしまった私にとってすら、簡単には共有できないものがある。
 「戦後」世代の問題は、「横田基地」に象徴されていると言える。横田基地は、トランプ大統領を迎えるために新設されたものではない。終戦後、一貫して存在していた。単なる米軍基地ではない。朝鮮戦争以来、国連軍の後方司令部も置かれている。つまり戦後の日本に常に存在していた現実なのだ。朝鮮半島の歴史とも密接不可分に存在し続けていた現実なのだ。それなのにその現実を表に出す者がいると、怒る、というのは、欺瞞的だと言わざるを得ない。
 横田基地がある現実に疑問を感じ、現実の是正に必死に知恵を絞り、政策提案をしようとするのであれば、まだわかる。しかしその現実を知りながら、見て見ぬふりをして、一切考えないようにして日常生活を送っておきながら、時に誰かがその現実を表に出すと、その人に対して怒って見せたりする、というのは、全く困った態度である。
 まずは真摯に現実に向き合うべきだ。欺瞞的な常識を振りかざして、現実を表に出す人物に怒り、現実を封印することだけにエネルギーを使うのは、不健全だ。
 集団的自衛権を違憲だとする1960年代末以降の日本には、全般的に、このような欺瞞的な態度が見られる。そのため私は、集団的自衛権違憲論は、団塊の世代中心主義の産物だ、と言っている。
 立憲民主党代表の枝野幸男氏を例に取ろう。枝野氏は、「日米安全保障条約に基づき、我が国に米軍基地が存在しているという実態は、集団的自衛権の「行使」ではないにしても、ある種の集団的自衛と説明するしかありません」、と分析する。http://agora-web.jp/archives/2029309.html 
 枝野氏は、おそらくその「現実」が気に入らない。それでは、その「現実」を是正するために、新しい政策を提示する努力をするのか?しない。何もしない。考えることすらしない。結局は、ただ、集団的自衛が存在する現実を見て見ぬふりをして、「すべて個別的自衛権で説明できる」、などという言葉の上だけの解決にならない解決策のようなものを提唱するだけの誘惑に身を委ねるのである。
 横田基地にいるトランプ大統領を狙った攻撃が加えられたら、日本はそれに反撃するのか。枝野氏であれば、米艦防護と同じように、反撃は「常識」だろう、と言うだろう。ところが、枝野氏が言う「集団的自衛」の「現実」にもとづいて、集団的自衛権で反撃を正当化する者がいたら、「お前は反立憲的だ」と糾弾されることになる。反撃するとしても、それはとにかく個別的自衛権なのだ、何をやっても個別的自衛権なのだ、と強弁する者だけが、「立憲主義者」なのだという。
 「集団的自衛」の「現実」があると言いながら、その「現実」に即した議論をする者がいたら、「反立憲的だ」と叫んで封殺しようとする。「現実」にかかわらず、「横田基地を守るのはあくまでも個別的自衛権だ」と叫ぶ者だけが、憲法学者によって「立憲主義者」として認定される。「現実」を見て見ぬふりする者だけが、「立憲主義者」なのだと主張する。
 「護憲」を党派的に掲げる人々が罪深いのは、「それでは現実はどうなるのか」、という当然の疑問を、封殺するからだ。「現実はどうなるのか」という疑問を提起する者には、「戦前の復活だ」、「軍国主義だ」、「三流蓑田胸喜だ」と、思いつく限りの誹謗中傷を投げつけて、封殺しようとする。そして、結局「現実」そのものを封殺しようとする。
 「護憲派」の勝利によってもたらされるのは、改善された現実ではない。言論封殺で、現実が改善することはない。むしろ、現実を直視しようとする真摯な姿勢が、言論封殺によって、社会から抹殺される。そして「われわれは世界最先端の平和主義者だ、だからそれに反する現実は全て見て見ぬふりをしなければならない」、といった内容の主張が、「冷戦時代は良かった」のようなノスタルジアとともに、展開していく。
 横田基地は戦後一貫して日本に存在していた。集団的自衛も存在しているのだ。その現実に、少なくとも、真剣に向き合うべきだ。そして現実に向き合った上で何らかの判断をしたら、その判断に真摯に責任を負うべきだ。
 「見て見ぬふりをして欺瞞的に生きていこうじゃないか、現実を表に出す人がいたら怒って現実を封殺しようじゃないか」、という姿勢は、真面目な判断とは言えない。仮に冷戦時代後期には、そのような欺瞞が日本社会の常識になったのだとしても、その常識の方が、一時的なものでしかなかったのだ。
 いずれにしても、そのような昭和な態度を、若い世代に押し付けて、強引に未来ある若者の人生を危機にさらそうとすることだけは、やめてもらいたい。

 

******

<*付記:私は、矢部宏治氏のよく調査された仕事を、非常に高く評価している。ただ、矢部氏の仕事にふれるたら、「ああ、世界がひっくり返る衝撃だ」、と必ずなるわけではない。矢部氏の話の骨子は、普通に安全保障問題に関心を持っていれば、誰でも知っている事だ。現実を隠してきたのは、むしろ「護憲派」の運動だ。また、僭越ながら矢部氏の言説には、ときおり広告会社的な誇張が見られる。たとえば「砂川裁判最高裁判決」が「日米安保については憲法判断しない」判決で、それは「駐日アメリカ大使の政治工作」によるものだったというのは、誇張だ。砂川事件最高裁判決は、憲法9条は米軍の駐留を禁止しないという判断を示したものだ。違憲と判断しなかったことを「憲法判断しない」と言い替えるのは、間違いだ。また、田中耕太郎最高裁長官が判決前に駐日アメリカ大使に接触したことが問題行動だったとしても、「大使の政治工作」によって判決が下された、とまでは言えないだろう。もともと田中耕太郎が、「大正デモクラシー」の申し子といってよい「世界法」主義者だったことを重視すべきだ。拙稿「国際法と国内法の連動性から見た砂川事件最高裁判決」、『法律時報』2015875号、32-37頁、参照。>

トランプ大統領が北東アジア三カ国の歴訪を終えた。驚くべき成果を出していると感じる。日本では、日本の視点に立って、日米関係の堅持への安堵、韓国への苛立ち、中国における歓待ぶりへの驚き、などが話題になっているようだ。それはともかく、トランプ外交の分析という意味においては、トランプ大統領の思い通りに三カ国を手なずけ、次々と自らを歓待させた。
 私は、このブログにおいても、トランプ大統領を孤立主義者と描写するのは間違いだ、という記事を何度か書いた。http://agora-web.jp/archives/2024257-2.html わずか一年弱前に、そのような議論がありえたことに、隔世の感を覚えるほどの情勢ではないだろうか。北東アジア情勢は依然として不透明だが、一つ明らかなのは、トランプ大統領が孤立主義者ではないということだ。
 トランプ大統領は依然として、「アメリカ第一」主義者である。三カ国全てにおいて、安全保障政策を通じたアメリカの地域への関与を強調した上で、アメリカ製品の売り込みと、貿易不均衡の是正策の要請を行うことを、忘れなかった。トランプ大統領のインフレ気味の姿勢に三カ国の全てが完全に対応する事はないとしても、歓待ぶりからすれば、外交的論理にそったそれなりの対応をせざるをえないことも必至だろう。「アメリカ第一」主義が、孤立主義のことではないことを強く印象付けた北東アジア三カ国歴訪であったと言える。
 中国では、習近平国家主席が果たしうる役割を徹底的に持ち上げながら、朝鮮半島の非核化を目指す圧力強化での合意を強調した。事実上、北朝鮮というバファー国家を中国の影響圏から取り除く意図をアメリカが持っていないことと、中国主導での金正恩政権の脅威の除去に現実的な期待があることを両国が確認した形だ。
 韓国では、非核化と弾道ミサイル開発放棄のための北朝鮮に対する圧力強化という論理を徹底させ、性急な軍事力行使への警戒心が強い国内世論を配慮する韓国政府からの賛同を確保した。アメリカからの先制攻撃への懸念を払拭させながら、軍事力行使のオプションも含みこんだ上での包囲網への韓国の参加を確保した形だ。
 日本では、横田基地に到着してすぐに安倍首相とのゴルフに真っ先に向かうというパフォーマンスに象徴されるように、アメリカが最も信頼する同盟国が日本であることを示しながら、安全保障上の協力関係が軍事作戦面での協力関係を柱にしているという基本的な事実を、内外に誇示した。
 現在までのところ、トランプ大統領のツイッター上の過激な言葉使いと、時には誇張も感じられる相手国の役割の評価の言葉とが、北東アジア外交では、効果を発揮している。トランプを迎えるアジア諸国も、大統領の人格にとらわれず、ビジネス・パートナーとして迎えるという発想が徹底できているのではないか。
 日本では軍事行使があるかないか、という占いのような話に議論を持っていきがちだ。相変わらず「圧力か対話か」といった、神様になったつもりで答えてください、というような意味不明な選択肢を迫るアンケート調査も数多いようだ。
 しかしビジネスの世界もそうだと思うが、政治の世界も、自分ではコントロールできない結論だけを自分勝手に決めたうえで、独りよがりの主張をするような行為は推奨されない。自分が目指す目標について明示したうえで、選択できる手段と発生しうる事態を複数想定して比較衡量しながら、様々なアクターとの相関関係の中に自分を位置付けて、政策判断をしていくのは、当然のことである。能力が発揮されるのは、勝手な結論を独善的に宣言することによってではなく、目標達成に少しでも近づくための環境改善とプロセス管理によってである。
 今のところ、少なくとも北東アジア情勢について言えば、「公務経験のないビジネスマン」大統領トランプ氏は、極めて合理的に行動しているように見える。少なくとも、彼が「孤立主義者」ではないことだけは、はっきりしているだろう。

ソウルで国際会議に出席した。平和構築・紛争予防をテーマに、国際機関や各国政府の職員が議論する会議(主催:韓国政府・ハマーショルド財団・国連平和構築支援事務所)に、セッションの座長役で、招いてもらった。セッションでは、アフガニスタン、スリランカなども話したが、東ティモール出身の「G7+」という国際的プラットフォームの方が、東ティモールとインドネシアの関係改善を題材に、「最後は、政治的意思と国益判断だ」、と強調していたのが、耳に残った。https://www.facebook.com/hideaki.shinoda.73 
 たまたまトランプ大統領の訪韓と重なったので、会議後には、反米デモと親米デモと警察部隊が渦巻いているのを見ることができた。北朝鮮との国境から約40キロ、国民性もあると思うが、韓国の人々は、熱い。アメリカ軍とともに朝鮮戦争、そしてベトナム戦争を戦った経験を持つ。アメリカとの関係は、複雑だ。
 もちろん、日本も、負けず劣らず、アメリカとの関係は複雑である。ただちょっと違った様子で、複雑である。一緒に戦争を戦ったという記憶は、ない。ただ、敵味方に分かれて、片方が降伏して占領されるまで、戦い続けた。「東西の強者の代表」が「新世界出現のために避け難き運命」(大川周明)として 、「決勝戦」としての「最終戦争」(石原莞爾)を戦ったのが、日本にとっての「太平洋戦争」だった。
 戊辰戦争から約10年後の東北に生まれた吉野作造は、「戦後」を語ることなく、東大教授となり、普遍主義的な立憲主義を標榜していた。彼が「英雄」と呼んだウッドロー・ウィルソンは、幼少期に南北戦争を体験したヴァージニア州出身者だ。やはり「戦後」を語ることなく、プリンストン大学教授となり、普遍主義的な立憲主義を標榜した。
 太平洋戦争後の日本人は、吉野やウィルソンと、少し似ている。ただし、もう少し、屈折している。普遍主義を掲げて、あらためて勝者と対峙したい。ただし、その敵国が起草した憲法が基礎になるとしたら、敵国の文化にそって、敵国の影響下で、普遍主義を語らなければならない。そこで日本の憲法は世界に唯一で他に類例がないガラパゴスであるということにしたうえで、ガラパゴスであることこそが世界最先端だ、という理論を作り上げた。
 日本の政治を、「リベラル」「保守」といった概念で見ても、理解できるはずがない。冷戦が終わったとき、「革新」政党のアイデンティティを消し去る必要があったが、代替案がなかったので、外国から概念を借りてきただけだった。「私はリベラルで保守だ」とか「本当のリベラルとは何か」、などと語り合うのは、修辞的な効果や学問的な話としては意味があるが、日本の政党政治の分析としては、的外れだ。
 結局、政権与党の自民党を一極とし、冷戦時代から反対の立場を貫いている共産党をもう一方の極とし、その他の野党を順に並べていくには、アメリカとの距離、を尺度にするのが、一番わかりやすい。親米か、反米か。この尺度で、自民党から共産党までの政党を並べていけば、だいたい間違いない。
 現代日本に、反米の右翼政党、がないのは、あまりにも戦前復古主義に見えるからだろう。戦前の日本では、最後の大政翼賛会の地点で、反米右翼で政治が一元化された。反米右翼で一元化されたから、泥沼の戦争に陥ったのだ。
 したがって左翼的な反米主義者が、右翼的な反米主義者と大同団結するのは、全く不思議なことではない。国粋主義的と言われるか否かの相違は、反米主義的であるか否かの相違ほどには、現代日本では、重要ではないのだろう。
 集団的自衛権を合憲とするか違憲とするかに関する立場の相違も、結局、アメリカに対するスタンスに還元される。何度か指摘したように、憲法学者の集団的自衛権違憲論を支えているのも、結局は、「アメリカなんかを信用するんですか?」という情緒的訴えである。http://agora-web.jp/archives/2029141.html  
 アメリカを信用するくらいであれば、どこまでも個別的自衛権を拡大解釈していったほうが、まだマシなのだろう。絶対に認めてはならないのは、日本国憲法に登場する「平和を愛する諸国民」にアメリカを含めることなのだろう。もし含めてしまったら、「われらの安全と生存」が、アメリカへの「信頼」によって成立するものになってしまう・・・。
 アメリカ人が作った憲法を、反米主義の武器に作り替えるという壮大なプロジェクトこそが、集団的自衛権違憲論と合憲論の背後に控えているものだ。http://agora-web.jp/archives/2028302.html 確かに、冷戦時代後期には、談合政治的な操作で、実態としての集団的自衛と、建前としての集団的自衛権違憲論が併存するようになった。しかしそのような一時的な措置が、冷戦終焉と共に賞味期限を迎えたのは、やむを得ない事だったのだ。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53213 
 ところが実際の日本の国家体制は、アメリカとの同盟関係を大前提にして構築され、運用されてきている。したがって反米主義を貫くことは、革命家になることに等しい。そこで、アメリカを批判する「理想主義」を忘れてはいけないと訴えながら、アメリカと適当に仲良くなる「現実主義」も持ち合わせています、といったくらいの玉虫色の態度を正当化することに四苦八苦することになる。
 団塊の世代が去った後の時代も見据えながら、日本の野党が生き残っていくためには、「反米主義の理想を掲げながらも、現実的にアメリカとやっていくことくらいはする」、といった生半可な態度から、「親米主義の姿勢を基本にしながら、建設的にアメリカと付き合っていく」、という態度への切り替えを決断することが必要だろう。
 そのような決断さえすれば、内政面の政策に特化した政策論争で、差異や優位を見せることもできるようになる。もちろん、冷戦終焉後、四半世紀にわたって、野党はそのような決断を避け続けてきた。おそらく、今後も避け続けるのだろう。しかし結局それによって選択肢を狭められ、不利益を被るのは、次世代の日本人たちである。

↑このページのトップヘ