「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

2018年01月

一人の言論人として気ままにブログを書いているが、真面目に反応していただける方がいらっしゃるとすれば、大変にありがたい。先日、「再度言う。自衛隊は軍隊である。」という記事を書いたところ、弁護士の早川忠孝氏に「篠田氏が何を言っても、自衛隊は自衛隊でしかない」という題名の記事を書いていただいた。わざわざ言及していただき、大変に光栄である。
 
しかも「自衛隊はどこから見ても『軍隊』だ、などと断言されない方がいい」、「篠田氏は、もう少し違った切り口から問題提起をされては如何か」、という忠告もしていただいた。そのうちにまた、憲法学者・司法試験(公務員試験)受験者の方々に、「三流蓑田胸喜だ」「ホロコースト否定論者だ」と言われるぞ、というご忠告だろう。大変なご親切なお心遣いに謝意を表する。
 
だが、早川氏の文章の内容は、理解できない。
 
早川氏は、自衛隊は軍隊ではない、と断言する。そしてその理由として、次のように述べる。
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「日本の国民が期待する自衛隊の役割は、あくまで日本の国民の安全確保や国土の保全のための活動であって、自衛隊はその名称に端的に表れているように、あくまで「自衛」のための組織であって、国際平和維持活動の場合を除いて、自衛の限度を超える活動までは基本的に求められていない。」http://agora-web.jp/archives/2030718.html
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しかし、早川氏は、日本以外の世界の全ての国は、国際平和維持活動を除いた自国の防衛以外の目的で軍隊を保持している、というお考えの根拠を、全く示していない。そもそも国際平和活動や自国の防衛以外の目的だという謎の目的が、どんなものなのかも全く示していない。
 
もちろん、日本以外の全ての国が、謎の目的を掲げて軍隊を持っているという事実を、私は知らない。しかし、早川氏だけは知っているらしい。
 
そうだとすれば、早川氏は、責任をもって、日本以外の全ての国々が、今、この現代国際法が適用されている21世紀においてなお、自国の防衛や国際平和維持活動以外の何らかの謎の目的で軍隊を保持している、ということを、しっかり立証するべきだ。
 
もし立証しないで他人の言論活動を一方的に封殺する行動だけをとろうとするのであれば、無責任のそしりを免れない。
 
たとえば海外に軍事基地を置くアメリカなどは、日本よりも集団的自衛権や集団安全保障に対応する体制をよりよく整えているだろう。しかしアメリカが自衛以外の目的で軍隊を保持するに至った、などと言う話を、私は聞いたことがない。集団的自衛権は、集団で行使する自衛権であり、つまり自衛である。日本の憲法学の基本書で説明されておらず極東の島国の司法試験勉強時に国際法を習わなかった、という理由で、国際法で確立されている自衛権の論理を否定したつもりになってみせるのは、やめてもらいたい。
 
たとえば世界中の人々が、アメリカのアフガニスタン戦争は国際法上の自衛権で正当化できるか、イラク戦争は正当化できるか、という考え方で議論をしている。前者は大多数が認めるが、後者は認めない。前者が認められるのは、911テロを本土攻撃とみなし、攻撃者勢力に対する自衛権の発動として認められうるからである。いずれにせよ、「アメリカなどの世界の国々は自由気ままに他国を攻撃できる軍隊を持っている、そのような軍隊を持っていないのは日本だけだ」、などという話は聞いたことがない。日本の憲法学者/司法試験受験者だけは、それが真面目な法律論だと信じているということなのだろうか。
 
また現代国際平和活動は、国連憲章7章、つまり集団安全保障の法理で支えられている。試しに憲法学の基本書のことは忘れ、日本国憲法それ自体を素直に読んでみれば、日本は憲章7章がかかっていない国際平和活動には参加しても良いが、憲章7章がかかっている国際平和活動には参加してはいけない、などというややこしい話が存在していないことは、すぐわかる。
 
早川氏は、軍隊の存在に関する規定が憲法にはないと言うが、日本は国連憲章を批准し、自衛権に関する憲章51条を含めた国際法規を受け入れている。憲法が明示的に否定していなければ、国際法規がそのまま適用されるのが当然である。
 
早川氏は、国際海洋法に関する規定が憲法にはないので、国際海洋法は違憲だ、と主張する準備があるだろうか。異常なロマン主義的な思い入れによる「全て憲法学者に仕切らせろ」マインドを排して冷静に考えれば、国際法の概念である自衛権も、本来は同じなのだ。多くの憲法学者はそれを認めない、というのは、むしろ政治運動の話であり、「法の文理解釈」の話であるとは言えないと思う。
 
早川氏は、中国や韓国が怒るだろうから自衛隊は軍隊ではないと言っておいたほうが得策だ、といったことを滔々と述べる。しかし、果たして、このような一方的な思い込みにもとづいた政治漫談が、早川氏が誇る「法の文理解釈」のことなのだろうか。
 
1960年代に国際法学者は、連日ベトナムに向けて爆撃機が飛び立っている米軍基地がある沖縄を、「事前協議制度」を持つ日本が返還してもらったら、集団的自衛権の行使に該当してベトナム戦争に参画していることになる、と指摘した。1972年、沖縄が返還されたとき、「集団的自衛権は違憲なので行使していない」、という政府見解が公表された(拙著『集団的自衛権の思想史』)。早川氏の価値観は、このような集団的自衛権の歴史が示すものと同じに見える。「面倒なことは、存在していないことにすればいいじゃないか」、という価値観である。
 
常日頃、憲法学を信奉する方々は、「権力を制限するのが立憲主義だ」と唱えている。それでは軍事力を保持する集団を、軍法又はそれに相当する法規範で制限することを推奨するのかと言えば、それには反対する。なぜなら軍法を作ってしまうと、自衛隊が軍隊になってしまうからだという。そして軍法がないので、自衛隊は「フルスペックの軍隊」(憲法学特殊用語)ではない、といった堂々巡りの話が始まる。このようなやりとりは、本当に「法の文理解釈」だと言えるのか。特定イデオロギーにもとづく政治運動なのではないか。
 
早川氏は、著作家ではないので、残念ながら著作活動は確認できない。ただし以前のブログ記事などを見ると興味深い記述があったりする。
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「私は、自衛権は国家の自然権であり、憲法に明記されていなくても当然ある、という立場に立っている。」(早川氏のブログ:20171125日)http://agora-web.jp/archives/2029679.html
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「国家の自然権」があるという思想を持つのは自由だと思うが、法的根拠が何もない勝手な空想である。これが早川氏の言う「法の文理解釈」というものなのか。
 
憲法学会に「国家の自然権」思想がはびこっているのは、私も知っている。戦前の大日本帝国憲法時代に、プロイセンに留学した者が憲法学教授になり、ドイツ国法学の観念論こそ世界最先端だと誇っていた時代があったことの名残である。
 
アメリカ人との戦争に日本が負けてしまったため、世界最先端を誇っていた大日本帝国憲法時代の憲法学は一夜にして消滅する危機にさらされた。よほど悔しかったのだろう。日本国憲法をドイツ国法学で解釈し続けるという離れ業によって、古い憲法解釈の伝統はいくつかの点で維持され続けた。
 
実際の日本国憲法は、前文において、「国民の厳粛な信託」こそが「人類普遍の原則」であると謳い、アメリカ流の社会契約論を基盤にしていることを明らかにしている。しかし日本の憲法学では、社会契約論は軽視され、なぜかフランス革命の伝統を引き継いでいるという壮大な歴史物語を根拠にした国民主権論にもとづく有機体的国家論が残存した。(拙著『ほんとうの憲法』参照)
 
しかし、もう大日本帝国憲法は存在していない。それどころか冷戦体制も終わってしまった。「面倒なことは、存在していないことにすればいいじゃないか」、という態度は、大人の態度でも何でもない、もはや単なる時代錯誤的な態度である。面倒を惜しまず、存在していないものは存在していないと認め、存在しているものこそ存在しているものとして認めていくのが、本筋である。
 
資格試験等を通じた既得権益を持ち、特定のイデオロギーを持つ者だけが集まる「ムラ社会」の雰囲気を理由にして、「ムラ」に属さない者を一方的に軽蔑し、排除しようする行為、それを「法の文理解釈」などといった言葉で脚色しようとするのは、是非やめてもらいたい。

 9条改憲の行方は、どうなるかわからない。自民党は、3項で「自衛隊」を明記する案と、2項を削除する案の二つを軸に議論しているようだが、世論調査結果も曖昧なようだ。気になるのは、2項削除案が「自衛隊の軍隊化」で、3項加憲案がそれではないもの、と報道されていることだ。https://mainichi.jp/articles/20180124/ddm/005/010/034000c
 もしそうだとしたら、3項加憲は、いったい何なのか。そのあたりの煮え切らなさが、3項案に支持が集約されない大きな原因ではないのか。
 以前のブログで、政府見解を参照した。http://agora-web.jp/archives/2028889.html あらためて引用したい。
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国際法上、軍隊とは、一般的に、武力紛争に際して武力を行使することを任務とする国家の組織を指すものと考えられている。自衛隊は、憲法上自衛のための必要最小限度を超える実力を保持し得ない等の制約を課せられており、通常の観念で考えられる軍隊とは異なるものであると考えているが、我が国を防衛することを主たる任務とし憲法第九条の下で許容される「武力の行使」の要件に該当する場合の自衛の措置としての「武力の行使」を行う組織であることから、国際法上、一般的には、軍隊として取り扱われるものと考えられる。」(平成二十七年四月三日答弁書)www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b189168.htm
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 憲法学者が「フルスペックの軍隊」ではないとか何とか、なぞなぞのようなことを大量印刷して、司法試験と公務員試験と大学定期試験を通じて宣伝しているので、話がややこしくなっている。仮に軍法を持っていないと「フルスペックの軍隊」(ガラパゴス概念の典型例)ではないとしたら、それは単に国際法に対応した国内法措置を、憲法学者らが妨害しているという政治運動の行方の問題でしかない。しかしそんなことは何ら本質的な問題ではない。
 自衛権は国際法上の概念であり、日本国憲法上の概念ではない。国際人道法(武力紛争法)は国際法の一部であり、日本国憲法の一部ではない。武力行使を規制しているのは国際法であり、日本国憲法は後付けでそれを追認したにすぎない。憲法学者が「すべて憲法学者に仕切らせろ」といった類のことを主張している日本の現状が、異常である。
 自衛隊はどこからどう見ても軍隊である。イデオロギー的なロマン主義を介在させなければ、極めて自然にそう言えるはずだ。https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/05/post-7584.php
 自衛隊は軍隊である。そのことを、「自衛隊は国際法上の軍隊だが、憲法でいう戦力ではない」、と言い換えて表現しても、全く問題ない。(ちなみに拙著『ほんとうの憲法』では、「前二項の規定は、本条の目的にそった軍隊を含む組織の活動を禁止しない。」という3項案を提示した。)
 そこで憲法学者にならって憲法優位説だかを唱えたとしても、「自衛隊は国際法上の軍隊だが、憲法でいう戦力ではない」、ということを否定することはできないはずだ。
 国際法上の「軍隊」と憲法上の「戦力」がずれているというのは、小学生でもわかる議論とは言えないので、9条2項を削除したほうがいい、という考え方は、わかる。
 また、9条2項とともに「国際法上の軍隊」である自衛隊は半世紀以上にわたって生き続けてきたのだから、解釈を確定させる際にも、2項を維持したままでいいではないか、という議論があってもいいだろう。
 だがもし、戦力でも軍隊でもない謎の曖昧な存在を憲法で位置づけのが3項加憲案だとしたら、議論として弱いのは否めない。3項加憲案は、その点をはっきりさせるべきだろう。

民進党と希望の党の統一会派が破談になった。今後も、野党の間での比較一位を争いながら、結果としてさらなる細分化も発生していくのだろうか。
 
衆議院選挙前、小池百合子東京都都知事(当時希望の党代表)は、「安全保障、憲法観といった根幹部分の政策で一致している」ことが大事だ、と言った。そういう「根幹部分」の「一致」がないと、政党が、政党としてやっていけないのは、当然だろう。小池知事は正しかった。ただ、自分自身では、結果を出せなかった。
 
小池知事の言葉を真剣にとらえたのが、枝野幸男氏だった。小池知事の言葉にしたがって、枝野代表は、希望の党に参加せず、新しい党を作った。
 
それでは、立憲民主党は、どのような外交安全保障政策をとっているのか。小池知事とは一致しない考え方を持っているとして、それは何なのか。
 
枝野代表は、自民党が作った安保法制は立憲主義違反なので認められない、と主張する。他方で、「万が一の場合に備えて、自衛力は強化すべきであると考えています。米軍との関係も強化すべきであると。これも自民党と変わりはなく、大きな方向性としては共通です」と述べる。news.livedoor.com/article/detail/14085119/ 控えめに言って、わかりにくい。
 
枝野代表は、自分は自民党の宏池会か石橋湛山の流れだ、などと言うが、もう少し具体的な説明はないのだろうか。もう冷戦時代は終わっている、という認識はないのだろうか。
 
111日付の『読売新聞』で私のインタビュー記事を掲載していただいたが、https://www.facebook.com/hideaki.shinoda.73 そのときに取材していただいた記者の方に細かく説明したのは、次の点だった。私が以前から「立憲民主党が改憲のカギを握っている」と言っているのは、立民党を入れたコンセンサスを作るべきだ、と考えているからではない。野党第一党が、審議を拒否して運動に走ったり、国民投票の結果を否定したりしたら、まさに立憲主義の危機が起こる、と危惧しているからである。
 
・・・自分は〇〇と同じだ、自分は(自分が理解する)立憲主義を守る、自分は日米同盟を壊すとは言っていない・・・、そういった「立場」の説明は多々あるのだが、それは結局「ポジション・トーク」で、政策論にまでなっていないように思える。
 
前回の私のブログ記事に対して、民進党の小西ひろゆき参院議員がツィートし、私に対して「名誉棄損で法的措置をとることを検討する」と述べた。私の文章が大変に失礼なものであり、お気に召さなかったようである。小西議員は、私が参照した『BN政治』サイトは虚偽内容を載せているものだと述べてしまったため、『BN政治』に対して、謝罪することにまでなってしまった。www.buzznews.jp/?p=2114217 私のブログに反応していただいたがゆえに、ややこしいことになり、誠に恐縮である。
 
ただ、もともとは、私が、集団的自衛権が違憲だとは言えない、と述べたことについて、小西議員が、篠田は「ホロコースト否定論者と同じ」などと描写したことが発端だった。この国では、少しでも憲法に関係したことを言うと、「ポジション・トーク」になり、ややこしいことになる。
 
まあとにかく、お前は黙っていろ、ということのようだ。非常に重苦しい閉塞感がある。

 前回の私のブログ記事についてhttp://agora-web.jp/archives/2030362.html 、小西ひろゆき参議院議員が批判していると聞いたので、見てみた。1月4日に二回にわたり、私を名指しで糾弾している記事があった。https://twitter.com/konishihiroyuki 
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 安倍政権の解釈変更が「違憲でなく立憲主義に反しない」との主張は、科学的事実を無視する点で映画「否定と肯定」のホロコースト否定論者等と同質である。篠田氏は「教授」であるなら事実を直視すべきだ。・・・解釈変更が「違憲かつ立憲主義の破壊」である理由は憲法学者がそう言ってるからではない。この世に事実に基づく科学が存在するから、すなわち政権の合憲根拠が事実に反する虚偽だからである。篠田氏は暴論の前に東京外国語大学生のために違憲等の科学的証明を学んで頂きたい。
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 私は、「蓑田の足元にも及ばない」いわば三流「蓑田胸喜」(戦前の右翼)だ、と憲法学者の水島朝穂教授に糾弾されている。http://agora-web.jp/archives/2029005.html 今度は小西参議院議員が、「ホロコースト否定論者」だ、と糾弾する。大変に時代がかった、大げさな事態に巻き込まれてしまったものだ。
 「戦前の再来」「ナチスと同じ」・・・などのお馴染みすぎるレトリックは、教条的護憲主義者が、相手を選ばず、数十年にわたって使いまわしてきた凡庸な表現だ、と言ってるのが、私である。拙著『ほんとうの憲法』第3章では、なぜそうなってしまうのかを分析してみた。その私を否定するために、あえて「(三流)蓑田胸喜」だ、「ホロコースト否定論者」だ、という正面突破的なレトリックの糾弾を浴びせかける。大変に深刻な事態である。
 拙著『ほんとうの憲法』では、小西議員が「芦部信喜」を知らないという理由で、国会で安倍首相を糾弾したエピソードについてふれた(ちなみに芦部とは、100万部を売るベストセラーになっており、司法試験・公務員試験受験者であれば必ず暗記する憲法学の基本書の著者)。私は、小西議員の名前はあげなかったが、このエピソードを、日本の知的閉塞状況の象徴的な例としてふれた。あるいは、そのため私は小西議員に糾弾されているのかもしれないが、もう少し本の中身に即した批判をいただきたいものである。
 小西議員は、「集団的自衛権は違憲」という議論にも強い思いれがあり、そのうえでも私を「ホロコースト否定論者」と呼ぶようである。しかし拙著『集団的自衛権の思想史』もお読みいただいたうえで、それを「暴論」とお呼びになられているのであれば、凡庸なレトリックを抜きにして、しっかりと本の中身に即した批判をいただきたいものである。
 それにしても小西議員の文章で非常に特徴的なのは、「科学」という言葉の使い方だ。自然科学だけでなく、社会科学や人文科学も含めた「科学」という語には、「学問」一般を指す意味があるが、現実を科学的に見ていることを強調して他者に対する知的優越性を誇る態度は、かつてマルクス主義者によく見られたものだ。昭和時代の日本で「科学的(wissenschaftlich)」という言葉がよく用いられたのは、史的唯物論に典型的に見られるように、表層的な上部構造の出来事だけにとらわれず、歴史の運動法則を捉えて社会の本質をとらえることが「科学的」態度だとされたからだ。
 端的に言えば、小西議員の言葉遣いは、非常に「左翼っぽい」。だがそこに史的唯物論のような特殊な視点はあるだろうか。気になって小西議員が指定する論文を読んでみた。https://goo.gl/8mxuBF そして、驚いた。小西議員の議論は、むしろ過去の上部構造の虚偽意識を絶対化する議論である。
 小西議員は、「科学的事実」を、1972年政府見解を出した当時の内閣法制局長官・吉国一郎氏が何を考えていたか、ということに還元する。吉国長官が1972年見解文書の最終決裁の権限を持っていた、と強調する。そこで、もし安倍内閣の立場が1972年の吉国長官の見解と違う場合には、「科学的事実」により、安倍内閣のほうが否定されなければならないとする。
 意味不明だ。安倍首相自らが、安保法制は、1972年政府見解の「基本的な論理」は維持しているが、解釈の「一部変更」にはなる、と明言している。1972年見解との関係についても、「基本的な論理は維持するが一部変更」論について批判をするのでなければ、意味がないはずだ。それにもかかわらず、アベ首相の見解には1972年吉国一郎内閣法制局長官と違うところがある、などとあえて言ってみることに、いったい何の意味があるのだろうか。
 そもそも仮に小西議員が強調するように、「安保法制は1972年政府見解の虚偽の読み替え」だとして、それで安保法制は「違憲」だとことになるのか。小西議員の「科学」とは、アベ首相は、1972年の内閣法制局長官に従っていないので、違憲論者であり、反立憲主義者だ、という主張のことなのだが、それはいったいいかなる意味で「科学」なのか。
 小西議員の「科学」によれば、過去の(というか1972年という特定時点なのだが)内閣法制局長官の見解は、後世の総理大臣を含むすべての人々の考えを支配しなければならないようである。小西議員の文章は、内閣法制局長官の憲法解釈は憲法そのものと同じなので、過去(1972年)の内閣法制局長官の見解に少しでも違ってしまうことは自動的に「違憲」行為であり、「反立憲主義」行為になる、と主張しているようにしか読めない。 しかも小西議員によれば、これが「科学」であり、この「科学」に反することを言う者は、「ホロコースト否定論者」と同じなのだという。
 それにしても「違憲」とか「反立憲主義」とか言うのであれば、しっかりと日本国憲法典の具体的な条項を参照し、自分自身の正しい憲法理解を提示して、そう言うべきではないだろうか。内閣や国会を凌駕する権威を内閣法制局長官が1972年においては持っており、2015年には失ったことの憲法上の根拠を示すべきではないだろうか。1972年内閣法制局長官の見解と違うから、違憲だ、反立憲主義だ、ホロコースト否定論者だ、というレベルの議論で、本当に小西議員は、自分自身の国会議員としての矜持を保てるのだろうか。
 ところで私は、9条改憲の大きなメリットは、解釈を確定させ、不毛な神学論争による国力の疲弊に終止符を打つことにある、と考えている。しかし、小西議員は、仮に改憲がなされても、それは「騙され改憲」であり、違憲状態を前提にした改憲発議は無効なので、改憲も無効になる、と主張する。
 国民投票をへてもなお解釈は確定されないとか、小西議員指定「科学」に反した内容だと国民投票は無効になる、とかという主張には、嘆息せざるを得ない。
 1972年見解の最終決裁のオリジナル文書を入手した!と自慢をしていた小西議員の「科学」は、いずれにせよ、小西議員の憲法解釈の永久的な絶対的正しさを証明するらしい。「科学」に反する意見を持つ者は、「ホロコースト否定論者」として糾弾されなければならない、ということを証明するらしい。
 小西議員は、テロ等準備罪法が「成立したら本気で国外亡命を考えなければならなくなると覚悟している」、と述べたことにより、大きな話題を呼んだ人物でもある。http://www.buzznews.jp/?p=2108446 ご本人は、現在では過去の自分の発言を否定されているようだ。総理大臣にどれだけの制約を課そうとも、小西議員ご自身は、過去の自分の発言にも拘束されることがないので、いずれは文部科学大臣にでもなられるおつもりだろうか。そして独自の「科学」概念を吹聴し、その「科学」に従わない「暴論」を言う国立大学教員を「ホロコースト否定論者」として糾弾するご予定だろうか。
 物騒な世の中だ。どうやら小西議員によれば、亡命しなければならないのは、小西議員ご自身ではなく、私だということか。

丸山眞男が、1969年の東大紛争で研究室を荒らされた後、全共闘の学生たちに「君たちのような暴挙はナチスも日本の軍国主義もやらなかった」、と述べたとされることは、有名である。<ただしhttp://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/52008482.html>

 全く不謹慎な表現である。第二次世界大戦の死者は、推計5,000万人以上、ナチスによる凄惨な虐殺の被害者は推計500万人以上という規模だ。一人の大学教授の研究室の本が読めなくなったことなどが、それを上回る暴挙であるはずはない。丸山の発言は、日本の知識人がいかに世界情勢に疎く、独りよがりのレトリックに沈殿していたかを示す象徴例だ。

逆に言えば、日本の知識人が言う「戦前の復活」「ナチスの再来」などは、大学教授の研究室が荒らさられる程度にも酷いことではなく、いわば頻繁に起こっている日常的なことでしかない、ということだ。そのレトリックは、国際的には使ってはならないタブーだとしても、日本ガラパゴス島の知識人でいる限りは大した問題にはならないので、憲法学者らが毎日毎日せっせと他人を罵倒する際に使っている、それだけのことにすぎない。

「立憲主義の破壊」などといった大仰な言葉も、ふたを開ければ、東大法学部出身者ではない者を内閣法制局長官にした、といったレベルの話でしかない。このことを、たくましい想像力によるものだとみなすか、枯渇した感性によるものだとみなすかは、どちらでもいい。本来は、知識人層は、「アベ政治を許さない、と唱えれば、君も立憲主義者だ」、のような話を延々と続けるだけの態度を、恥じるべきだ。少なくとも、もう少し物事を長期的に、できれば本質的に、見た話をするべきだ。

 憲法学会の「隊長」・長谷部恭男教授は、「国民には、法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかない」と述べる。そして、社会契約論を否定する(『憲法と平和を問い直す』[2004年])。残っているのは憲法学者による独裁制だろう。拙著『ほんとうの憲法』では、このような憲法学者の独裁主義は、日本国憲法の否定である、と論じた。

 日本国憲法に「三大原理」なるものがあり、その一つが「国民主権」であるというのは、1960年代に小林直樹・東大法学部教授らによって憲法学会の通説になり、学校教科書などに入り込み、社会に浸透した。しかし憲法典を素直に読めば、そのような読解は自然ではない。憲法が「基く」「人類普遍の原理」とは、人民の人民による人民のための「国政は、国民の厳粛な信託による」という考え方である。「信託(trust)」の解釈にはニュアンスがあっていいだろうが、社会契約の論理の完全否定は、致命的な反立憲主義だ。

 現在、日本は、低経済成長が常態化する中、巨額の財政赤字を膨らませ続けながら、人口減少時代に突入しようとしている。これこそが現在の日本の立憲主義の本質的危機であることを、知識人層は、きちんと説明すべきだ。

 立憲主義は、「信託」に基づく「責任政治」によって成り立つ。社会構成員は、自分の権利を守り、安全を確保し、さらに幸福を追求するために、そのための環境の整備という任務を政府に与え、「国政」を「託す」。定期的にチェックし、不備があれば政府を取り換える仕組みを維持しつつ、責任を持った活動を行わせるための「信託」は行う。

 もしそうであれば、政府の活動に必要な経費は、社会構成員が負担するのが当然である。事業委託者は、費用負担を前提にして、事業受託者に、業務遂行を委託する。受託者(実施者)による契約不履行の場合、委託者(発注者)が契約を破棄できるのは、費用負担していればこそである。逆に、委託者(発注者)が費用を負担しないなら、受託者(実施者)は、事業の実施を拒絶する。それが契約というものだ。

 イギリスやアメリカの古典的な立憲主義体制においては、選挙権は、財産=納税の有無によって制限されていた。自治の論理を純粋に追求すれば、納税の有無が決定的な要因であってもやむをえなかった。後に民主主義的価値観の広がりにより、納税能力を選挙権の制限に適用することは廃止され、累進課税や法人税の考え方も発展したが、「契約」関係を重視する立憲主義の考え方は、英米社会では消えなかった。

 現代世界において、天然資源を豊富に持つ「レンティア国家」で立憲政治が育たないのは、税金徴収を媒介にした「契約」関係に基づく責任政治が育たないからだと考えられている。たとえば石油収入だけで政府を運営することができ、国民も石油収入のおこぼれにあずかることだけを求めているような社会では、立憲政治は非常に難しい。政府は、石油市場への責任政治を重視しがちになるからだ。

 また、国家収入のほとんどが外国からの援助で占められているような場合も、税金徴収を媒介にした「契約」関係に基づく責任政治が育たない。対外援助が恒常的なものであってはならないとされるのは、そのためである。政府は、援助提供者への責任政治を重視しがちになるからだ。

 もう一つ、立憲主義に、天然資源や対外援助と同じ効果をもたらすのは、借金である。政府が借金漬けになれば、政府は債権者への責任政治を重視しがちになる。

 日本の財政赤字をめぐっては、国債の暴落はあるか、という点に議論が収れんしがちである。そして政府保有資産額や国内債権者比率の評価の話になる。しかし立憲主義の観点から問題なのは、国債暴落の有無だけではない。そのような議論が蔓延しているということ自体が、本来の立憲主義の責任政治の観点からは問題なのだ。社会構成員が、少なくともその能力に応じて、社会を運営する活動に貢献して初めて、政府に責任政治を求める契約関係が発生する。政府資産の評価額や、国債保有者の国籍などは、関係がない。

 心ある立憲主義者は、国債発行額のさらなる圧縮を目指し、財政健全化のために、知恵を絞るべきなのである。政党間対立は、そのための政策的競争を促すための誘因とするべきなのである。政権交代は、複数の方法を試してみるための制度的な保障とするべきなのである。

 このような話をすると、9条改憲をすると軍事費が増大して、財政赤字が拡大する、といった憲法学者らの声が聞こえてきそうである。しかし9条改憲それ自体と、財政赤字には、論理的な連動性がない。「改憲はナチスの再来だ」といった自己催眠にかかる場合にのみ、連動性があるように感じられてくるだけだ。

 むしろ国会議員を不毛なイデオロギー論争やパフォーマンス競争から解放し、真摯な政策論に専心させるためには、9条解釈を確定させることが望ましい。「立憲主義とは、アベを許さないということだ」といった低次元の扇動だけを繰り返すのではなく、もっと社会的問題の本質を論じていく努力を払うべきだ。

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