「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

2018年02月

 石破茂氏が、2項維持案に賛成する意向だ、と報じられた。https://www.nikkei.com/article/DGKKZO27401440W8A220C1MM8000/ 言うまでもなく、石破氏の改憲案は9条「2項削除」案として知られてきた。そのため、2項維持案に賛成する意向、がニュースとして報じられたのであろう。しかし石破氏は、党決定には従うという立場をとっているだけで、ご自身の意見として2項削除論を放棄しているわけではない。http://blogos.com/article/280233/?p=1
 
石破私案では、自衛隊の活動目的や文民統制に関する追加条項が提案されている。現在の9条2項は、自衛隊の活動の足かせになるので削除するべきだ、というのが2項削除案の趣旨であろう。
 
ただし実は、別の言い方をすれば、条項の追加をする点では、安倍首相提案の2項維持案と石破案は、同一線上にあるとも言える。
 
安倍案が「自衛隊の存在」の合憲性を確証する改憲案だとすれば、石破案は「自衛隊の活動」範囲の合憲性も確証する改憲案だと言えよう。
 
石破氏は、2012年の自民党総裁選において、地方票で一位になり、国会議員による決選投票でも僅差で惜敗した実力者である。その石破氏が、首相提案に対抗する案を持っているということで、これまでマスコミの大きな注目を集めてきた。
 
ご本人も、2項を削除する必要性を国民に問うか問わないかの点で、ご自身の案と首相案とが大きく異なっているということを、強調している。
 
だが、だからといって、両者の案の内容が、本当に全く正反対を向いている、ということではない。国民に問うか問わないかの違いとは、改憲の程度の違いであり、方向性の違いではないと言える。
 
安倍首相提案の改憲案は、「自衛隊の存在」の合憲性を明確にする点に特化するものになるようだ。しかし残念ながら、確かに、自衛隊という名称の組織が合憲であることが確証されたとしても、自衛隊が行っている活動が合憲であるかについては、依然として争いが続くだろう。
 
安倍案の成立は、おそらくほぼ間違いなく、次なる改憲の必要性に関する議論に引き継がれる。
 
私に言わせれば、外交安全保障に関する憲法の規定が、国際法の規定との関係を曖昧にする限り、絶対に曖昧さは残る。
 
解決策は、憲法と国際法が調和するように憲法解釈を確定させること、しかない。
 
もちろん日本の憲法学の通説は、「憲法優位説」を唱え、国際法を無視するものだ。つまり憲法学通説に従う限り、外交安全保障分野で、日本は、永遠に国際社会で自由に活躍できない、ということである。
 
安倍案にしたがって「自衛隊の存在」の合憲性が明確になっても、依然として、憲法学者は、自衛隊はこれをやってはダメ、あれもやってはダメ、と言い続けるだろう。そして数十万人の司法試験・公務員試験受験者たちが、毎年毎年、大学法学部や資格試験予備校で、そのような学説を繰り返し唱和させられ続ける状況も続く。
 
そんなことになるくらいなら、「自衛隊の活動」の合憲性も、あわせて明確にしたほうがいい、という石破案の主張は、魅力的だ。不毛な論争を防いで国政の停滞を避けることができるという意味で、魅力的だ。なんといっても「活動の合憲性」を明確にしなければ、「存在の合憲性」を明確にしても、意味が乏しいという示唆は、論理的である。
 
ただし現下の政治情勢では、この3月に石破案が自民党案となる見込みはあるわけではない。仮に安倍案と石破案の違いが「程度」の問題であるならば、石破氏が代替案を示しながら党決定に従いつつ、さらに主張を続けることに、大きな矛盾はない。
 
自民党という政権党の中に有力な首相候補が複数いることは、良いことであろう。それなりの競争があるのは、むしろ健全である。マスコミがそこに注目するのも、自然なことではあるだろう。
 
だが政争が政策論を凌駕するような事態は、望ましくない。この3月で、世界の終わりが訪れるわけではない。
 
自民党の青山繁晴氏のグループは、安倍案にそって2項維持を認めながら、「自衛権の発動を妨げない」という3項の追加する案を出している。実は青山案は、石破氏が関わった自民党憲法改正案の一部だけを憲法に挿入する案である。したがって青山案は、安倍案と石破案の中間に位置し、両者が同一線上にあることを示す案だとも言えるだろう。
 
鍵となるのは、石破氏が、憲法学「通説」を相対化することができるかどうか、であろう。安倍首相は、憲法学に挑戦する目的で、自衛隊の合憲性を明確にする3項を追加したい意向を表明した。それに対して、石破氏の理解は、2項がある限り3項を入れても意味が乏しい、という主張だ。つまり石破氏の立場は、2項の理解については、憲法学通説そのままなのである。
 
中学生が読んでもわかるものにするためには、2項がない方がいい、という石破氏の主張は、全くその通りだと思う。だがそれは、単なる読み易さの問題だ。憲法学通説が絶対真理である、ということを意味しない。石破氏が、憲法学通説から解放されるかどうかが、ポイントである。
 
たとえば、石破氏は、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」という文章を、憲法学通説にしたがって、非武装中立論を唱えることが規定されている文章であるかのように解釈する。しかし果たしてアメリカ人が起草した日本国憲法の前文は、本当に、北朝鮮の善意を信じ、日米同盟を否定するために書かれたものなのか。
 
歴史的な根拠をふまえ、憲法全体の趣旨を見れば、そうではないことははっきりしている。「平和愛好国家(peace-loving peoples)」とは、アメリカが主導した「大西洋憲章」や「国際連合憲章」において、アメリカが自分たちを指すために使用していた概念だ。それらが成立した後の1946年に、日本国憲法が起草された。日米安全保障条約でも、同じロジックが用いられた。
 
―――――――
 
(日米安全保障条約)第一条   締約国は、国際連合憲章に定めるところに従い、それぞれが関係することのある国際紛争を平和的手段によつて国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決し、並びにそれぞれの国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むことを約束する。締約国は、他の平和愛好国(peace-loving countries)と協同して、国際の平和及び安全を維持する国際連合の任務が一層効果的に遂行されるように国際連合を強化することに努力する。
 
―――――――
 
アメリカ人が書いたものを曲解し、アメリカを否定するための道具としてきたのは、憲法学通説の陰謀の所産であり、憲法典及びその他の規範文書に書いてあることではない。
 
ある弁護士の方が、「日本国憲法が希求している目的が『正義と秩序を基調とする国際平和』だ、などという議論はこれまで一度も聞いたことがない。」などと書いているのを見て、ビックリした。blogos.com/article/280280/ これは憲法9条の文言の引用である。この弁護士の方は9条を読んだことがないのだろうか。日本の司法試験は、憲法典を読まず、ただ憲法学の基本書だけを唱和して対策を練るものなのか。あるいは憲法学の基本書で目的だと書かれていなければ、憲法典に何が書いてあろうとも、そんなことは知ったことではない、というのが、日本の司法試験合格者の世界観なのか。深刻な事態だと言わざるを得ない。
 
日本も、アメリカも、60年以上にわたり、北朝鮮ではなく、自分たちこそが、「平和愛好国家」であるという前提で、安全保障政策を構築してきた。憲法学通説に固執し、司法試験受験者に同情するあまり、現実に積み重ねられてきた実態のほうを否定してしまう必要はない。
 国連憲章を信じ、国連安保理決議にしたがって、粛々と制裁を実行し、北朝鮮に核放棄を求めることが、国連憲章と日本国憲法にそった行動だ。
 司法試験合格者への同情はいらない。
憲法学通説を捨て去ろう。そうすれば、3項以降の追加条項によって、2項の意味を憲法学通説にしたがって解釈する必要性がないことだけが確定する。
 
92項を憲法学通説の桎梏から解放することだけをすれば、3項追加は2項維持と容易に両立するのである。
 
ポイントは、石破氏が、憲法学通説を相対化できるかどうか、である。憲法典を読まず、過去の憲法学の基本書だけを絶対視する「法律家」たちの態度を相対化できるか、である。それができれば、安倍案にそった改憲案が実現しても、石破案が否定されなくなる。それで安倍案と石破案は一つの線の上に並んでいる、という前提が生まれ、3月以降の議論も進んでいくことになるだろう。

平昌オリンピックが閉幕した。パフォーマンスのみならず、自らの可能性を極め、お互いを尊重しあうアスリートたちの姿は美しく、胸を打った。
 
それに比べて醜悪なのは、オリンピックをめぐって駆け引きを展開させる政治だ。開会式での北朝鮮の「ほほえみ外交」は浅薄で、閉会式ではあからさまな非難の応酬になった。
 
しかしこれも人間の世界だ。政治の場にも美辞麗句はある。だが、その裏では、利益計算にもとづいた行動が進められる。
 
まだ、3月のパラリンピックがあるが、その後は、何が起こるかわからない。アメリカによる制裁措置も、パラリンピック後の時期を一つの山として、時間的な計算がなされているように見える。
 
それにしても疑問なのは、日本国内の議論の動向だ。相変わらず「圧力か対話か」の意味不明な二項対立にとらわれて、アメリカや北朝鮮の高官の発言の細部に一喜一憂している。それどころか、北朝鮮高官がオリンピックに来たと言っては、外交安全保障上の大きな事件が起こったかのように取り扱う。
 
そもそも圧力も対話も、共通の目標があれば、矛盾しない。それら二つは、単なる「手段」でしかない。とすれば、対話のための対話をしないのが正しく、圧力のための圧力もかけないのが正しい。重要なのは、目標が達成できるかどうか、である。二つの手段で目的を達成することできなければ、さらに新しい手段が導入されることも十分にありうる。
 
南北対話によって、南北朝鮮の緊張緩和が進むのは、制裁の突破口にならない限り、実はアメリカにとっても悪いことではない。南北朝鮮の緊張緩和を阻害するために、アメリカを含めた各国は、制裁を課しているわけではない。緊張緩和によって、全面的な南北間の戦争が誘発される可能性が低下するのであれば、それはむしろアメリカによる限定的な武力行使のオプションにとっては誘因要素ですらある。限定攻撃の最大のリスクは、管理できない全面戦争への発展だからだ。圧力も対話も、目的と手段の戦略的関係の中で、戦略的に評価しなければならない。
 
それにしても目的を見失ったまま、「圧力か対話か」という手段の二者択一にとらわれる姿勢は、やはり憲法学通説的な憲法9条解釈に起因しているように思われる。絶対非武装中立といった憲法9条解釈は、まさに目的を見失って、特定の手段の絶対性だけを唱える立場だからだ。
 
日本国憲法が「希求」している目的は、「正義と秩序を基調とする国際平和」である。その目的を達成するために、第二次世界大戦時の行動を反省し、国際法規範にそって武力行使の一般的禁止を国内法規範に取り入れた(91項)。そして国際法規範に挑戦した大日本帝国軍を解体して戦争を目的にした「戦力」の不保持を誓い、「交戦権」なる時代錯誤的な古い国際法概念を振り回すこともしないとも誓った(92項)。
 
現代国際秩序の維持という目的のために、世界の各国は一致団結して、武力行使の一般的禁止に合意している(国連憲章24項)。しかし違法行為に対抗する手段まで禁止してしまっては、かえって国際秩序の維持という目的が脅かされる。そこで国際秩序の維持に必要な制度として、集団安全保障と自衛権の二つが、合法化されている(国連憲章7章・51条)。日本国憲法は、本来はこうした国際法規範の考え方にそって理解されるべきものだ。
 
実際のところ、日本国憲法を起草したアメリカ人たちは、そのように日本国憲法を理解してきた。しかし日本の憲法学会だけは、絶対にそれを認めない。そして、学校教育や資格試験などを通じて、目的と手段を逆さまにした教義を普及させる運動が続けられている。
 
国際法秩序を維持するための手段である「戦力不保持」や「交戦権否認」を理由にして、国際法秩序の維持に必要な制度である「自衛権」を否定しようとするのは、あまりに倒錯している。
 
目的は何なのか。目的は「正義と秩序を基調とする国際平和」だ。その目的に役立つ手段を日本国憲法は提唱しており、役立たない手段は提唱していない。
 
自国の憲法が丁寧に説明している「目的」すら見失い、「手段」を絶対化することでしか憲法を語れないような態度が、「通説」ということになっているので、日本人の多くは、現代世界で起こっている外交安全保障政策の目的と手段も取り違えてしまうのだろう。
 憲法・外交安全保障分野において、日本人の多くがどうしても目的と手段を錯綜させてしまう悪い癖は、本当に根が深い。

フロリダ州の高校銃乱射事件で、アメリカでは銃規制の問題が、あらためて大きな議論を巻き起こしている。世論の3分の2が規制強化を支持しているというが、全米ライフル協会の影響力もあって、規制は進まない。それにしてもなぜ銃を保持する権利が認められているのか。合衆国憲法修正第2条のためである。

――――――――――――――

修正第2条[武器保有権] [1791 年成立]

規律ある民兵団は、自由な国家の安全にとって必要であるから、国民が武器を保有し携行する権利は、 侵してはならない。(A well regulated militia being necessary to the security of a free state, the right of the people to keep and bear arms, shall not be infringed.

――――――――――――

1791年当時の北米独立13州(State)は、現在のアメリカとは大きく異なり、合衆国の単位で機能している行政機構は、まさにようやく1788年合衆国憲法によって作られたばかりの貧弱なものしかなかった。安全を図る自由な国家は、州(State)のレベルで確保されるので、連邦政府が暴力の独占を図ることが非現実的だと想定された。また、西部開拓は進められ続けており、ネイティブ・インディアンとの戦いも恒常的であった。(1776年独立宣言ではイギリス国王がネイティブ・インディアンの暴虐を扇動していることが非難されていた。)
 
つまり、言うまでもなく、修正第2条が前提としていた環境は、21世紀のアメリカ合衆国の環境とは、大きく異なっていた。1791年に「規律ある民兵団は、自由な国家の安全にとって必要」という議論が、2018年に高校を襲撃する凶器の未成年に銃を与えることを合法とみなすか否かという議論とは、全く関係がないことは、明白である。
 
それでも問題を整理するための憲法改正がなされてこなかったのは、既得権益を持つ者たちの反対によってである。
 
つまり、アメリカにおける銃規制の問題は、200年以上前の時代環境の中で作られた憲法規定を、現代のアメリカ社会に既得権益を持つ者たちが利用し続けている構造に、問題がある。
 
日本国憲法9条も、同じような困難を抱えている。
 
92項が不保持を宣言しているのは、前文や91項から明らかなように、現代国際法に違反した行動で侵略行為を行う「戦力(war potential)」のことである。19462月当時、まだ進行中であった大日本帝国軍の解体に関して、国内法上の根拠を与えたのが92項であった。92項は、大日本帝国軍解体を根拠づける規定である。将来にわたって国際法にそって自衛権を行使するための組織を禁止する意図はない。
 
9条の趣旨は、ドイツ国法学特有の国家の「基本権」思想に基づいた「国権」や「交戦権」を振りかざし、国際法から逸脱した行動を、日本は二度と取ることはしない、という宣言にある。平和愛好国になって国際法規範を推進していく、という宣言だ。「憲法優越性」を唱えて、国際法を無視することを主張するために「護憲派」を名乗るのは、邪道だ。
 
しかし日本にも憲法通説で9条を解釈することに大きな既得権益を持つ者たちがいる。数十年にわたって積み重なった膨大な既得権益を持つ者たちがいる。そうした者たちは、改憲どころが、違う9条解釈が語られるだけで、感情的な反発をする。そして絶対粉砕の運動を起こす。
 
憲法9条の改正は、合衆国憲法修正2条の改正と同じくらいには、困難だろう。しかし、問題を放置し続けるのであれば、両方の場合において、人々の不安と、国力の疲弊だけが、増大していくことになる。

1993年に殉職された高田晴行警視を含むカンボジアPKOに派遣された文民警察官の方々の経験を克明につづった本の書評を書かせていただいた。blogos.com/article/277437/ 日本における国際平和協力の業界は小さいので、それなりに話題にしていただいているようだ。ありがたい。
 
ところが「官僚主義の弊害」「検証しない国」といった表現にだけとらわれる方々が、政府内にも、運動家にも、いる。もちろん、問題の核心は、そこではない。
 
憲法9条の恣意的な解釈・運用が、この国にどれだけの機能不全をもたらしているのか。私の書評は、その端的な実例を扱っているにすぎない。
 
国民投票をすると無駄なお金がかかるという人がいる。ナンセンスだ。過去70年にわたって、政治イデオロギーに染まった憲法解釈・運用によって、どれだけの無駄が積み重ねられてきたのか。
 
PKOの現場だけではない。霞が関にも、永田町にも、犠牲者はいる。憲法学者が文句を言うだろうかと悩み、相談し、仕事をやり直したりしている方々が、日夜、相当な苦労をされている。それらの方々が費やした労力と時間を計算すれば、とても800億円では足りないだろう。
 
それなのに、今後もまだ、何十年もかけて無駄な費用をかけ、国力を疲弊させ続けるのか。現場で真摯に努力し続ける方々に、矛盾を押し付け続けたうえで、「政府の邪魔をする者だけが立憲主義者だ」、などと主張し続けるのか。
 
早く憲法解釈を確定させたほうがいい。しかも、問題の先送りだけに終わらないように、国際法と調和した憲法解釈を確立させたほうがいい。
 
そして安定した外交安全保障政策を維持しながら、焦眉の課題の諸問題に本腰を入れて取り組んでいくべきだ。
 
9条に関する憲法学通説を批判する国際政治学者を見つけては、「日陰者だ」三流蓑田胸喜だ」「ホロコースト否定論者だ」、などと誹謗中傷していくために労力を払うのではなく、憲法学者の方々には、是非とも「ヘイトスピーチの規制」などの本当の憲法問題の研究に専心していただきたい。

―――――――――――――
「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」(国連憲章2条4項)
――――――――――――
 私はこのブログで何度か憲法について書いてきているが、その内容は、至極、簡単なことである。国連憲章があり、日本国憲法がある。歴史的経緯からも、文言上の連動性からも、二つのつながりは明快だ、ということだ。
 ところが、そんなことを言うと、憲法学者の方などに、「ネトウヨ」だ、「三流蓑田胸喜」だ、「ホロコースト否定論者」だ、などと糾弾される。
 私は、憲法解釈を明確化する改憲に、賛成する。これ以上、不毛な議論で国力を疲弊させる余裕は、日本にはない。いちいち「憲法学者に批判されるかなあ」と躊躇しなければならない悪弊を続けるべきではない。
 私としては、国連憲章と合致している憲法の性格を失わないようにする改憲が望ましいと考える。むしろ日本は国連憲章を中心とする国際法を守る国だ、ということがはっきりわかるようにしてほしい。
 国際法を蔑視し、日本が世界最先端論だと主張するのが「護憲派」だというなら、日本憲法典は、「護憲派」ではない。「憲章肯定派」としての「護憲章派」だ。 
 日本国が批准している国連憲章を、日本人は「誠実に遵守」する必要がある(日本国憲法98条)。憲法全体の運用は、国際法を無視せず、調和する形で、意識的に行うべきだ。
 「戦力」や「交戦権」は、国際法規範で存在していない概念である。日本国憲法典は、それらを否認しているだけである。日本国憲法典は、「戦力」や「交戦権」を否定することによって、現代国際法を「誠実に遵守」することを、日本人に求めただけである。国際法に反抗することを、求めていたわけではない。
 改憲によってかえって「実力組織」とか「専守防衛」とか「個別的自衛権だけが自衛権」などの怪しいガラパゴス概念を乱発し、日本が国際社会で孤立する要因を積み上げていこうとするのは、感心しない。
 国際法を遵守する。なぜ、これだけでは、だめなのか。それこそが本当は日本国憲法が求めているものなのではないか。
 日本はこれから激しい人口減少=少子高齢化社会に突入する。国家財政も膨張しきっている。今こそ、日本国憲法の精神に立ち返り、正当な国際社会の一員として生きる道を模索し、効率的な安全保障政策を目指していくことが必要なのではないか。
 これ以上のガラパゴスはやめてほしい。なぜ、シンプルに、国連憲章を守る「護憲章派」で、あとは一つ一つの外交安全保障政策を議論していく、ということでは、だめなのか。

↑このページのトップヘ