「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

2018年05月

日本維新の会憲法改正調査会にお招きいただき、「自由民主党の憲法改正条文イメージ(たたき台素案)」について話をさせていただいた。本年3月に提示された自民党の憲法改正条文イメージについて具体的に議論する機会をいただいたのは初めてだった。
 
実は自民党の条文イメージに関する議論は進んでいない。ほとんどの憲法学者が、「改憲反対!」「いつか来た道!」「モリカケのアベ首相に憲法を語る資格はない!」などと叫ぶ政治運動に奔走し、条文案を客観的に分析する社会的役割を遂行していないからだろう。
 
そこで恐縮であるが、せっかくなので、ブログでも書いておこうと思う。現在伝えられているところでは、自民党の9条改憲案は、以下のとおりである。

―――――――――――――――――

第9条の2 前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律の定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。

2 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。

―――――――――――――――――

 この案を見て感じる論点を拾っていくと、以下のようになる。

(1)「我が国の平和と独立」・・・「我が国」という表現は、通常の行政文書等では頻繁に使われているものだが、日本国憲法においては、前文において「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保」という表現で「わが国」への言及が一度あるだけである。したがって表現の統一性という観点から、まず「我が国」は、「わが国」と表記すべきであろう。だがもちろん問題はそれだけにとどまらない。
 憲法前文における「わが国」は、主権者である国民が憲法発布にあたって「自分たちの国」に言及したときに用いられた概念であり、憲法典における主語として具体性を持っているか、疑念の余地がある。実際、日本国憲法は、1条の天皇の地位に関する規定で、そして982項の条約順守義務に関する規定で、より客観的な「日本国」という表現を用いている。「平和と独立」の主体として国家を参照したいのであれば、より具体的に「日本国」とするほうが、適切だろう。
 
もっともより重要なのは、「平和と独立」のほうだ。「平和」と「独立」を並置するとすれば、両者は異なる概念だということになる。しかしそれは必要な措置だろうか。憲法全体の趣旨や、9条の2を追加する趣旨を考慮すれば、「平和」だけで十分であるようにも思える。この点は、(2)とも関わる。

(2)「国及び国民の安全」・・・「国と国民」が並置されているという特異な内容を持つ部分である。ここで「(日本)国の安全」が言及するのは、その前の箇所にある「我が国の平和と安全」は、重複感がある。表現を整理したうえで、どちらかだけにまとめたほうがいいのではないか。
 それにしても「国民の安全」と区別される「国の安全」とは何か。これは私が拙著『集団的自衛権の思想史』や『ほんとうの憲法』で繰り返し述べている日本憲法学特有のドイツ国法学の残滓そのものではないのか?このような「擬人法」的国家観にもとづく表現は、日本国憲法典には存在していないのではないか?このような「擬人法」を強引に挿入することは、戦前のドイツ国法学の影響に染まった憲法学の言語を、数十年遅れで日本国憲法典に挿入し、憲法典の現在の体系を破壊することにつながらないか?
 「安全」を守ってもらうのは「国民」だけで十分だろう。それで不足だと考える人がいるなら、「国土の保全」といった概念で、より具体的に無人島を含む領土の保全策を対象としていることを明記すればよい。確かに尖閣諸島などは、無人島だ。「国民の安全」だけでは不足だ、と感じる人もいるのかもしれない。しかし領土問題への対応を考えているのであれば、なおさら「国の安全」などといった時代錯誤的なドイツ観念論丸出しの概念構成は避けておくべきだろう。「国土の保全」でよい。
 それにしても現在の政府見解では、自衛権の憲法上の根拠は、13条の幸福追求権にある。ということは無人島の防衛などの国土の保全なども、結局は、「国民の安全」にとって重要なので、追求されるはずだ。だとすれば、国土の保全、といった概念も必要なく、「国民の安全」だけで十分なのではないかという気はする。

(3)「必要な自衛の措置」・・・必要な自衛の措置をとるという文言は、政局的には、集団的自衛権を認めているのか否かで話題になったりするのだろう。だが憲法典にこの文言を入れると集団的自衛権の理解が変わる、というのは、おかしい。現状は、実態として、安保法制の枠組み内では集団的自衛権の行使が可能である一方、枠組み外では実施手続きを定める通常法がないので行使できない。自衛権そのものが違憲だとする者、安保法制が違憲だとする者にとっては、この機会に改憲を潰して議論を有利に持っていくために、文句をつけたい文言であるかもしれないが、それ以外の者にとっては、特にどうということはない。「自衛の措置がとれる」というのは、これまでの政府見解から外れるものではない。
 むしろ問題なのは、「必要な自衛の措置」という文言が「自衛権の行使」と言い切っていないために、国際法との関係が不明瞭にならないかどうか、だろう。その観点からは、国際法上の自衛権の要件である「必要性と均衡性」の原則のうち、「均衡性」が言及されていないことが不都合を生まないかどうかだろう。ただし、これはやや杞憂と言ってもいい懸念だ。おそらくは、極端な解釈論が出ない限り、問題はないと思う。ただし、それにしても、あえて曖昧さを残した文言のほうがいいのか、国際法との関係をよりはっきりと明示した表現のほうがいいのではないか、という気持ちは残る。
 なお大きな問題として、憲法9条の主語の問題がある。憲法9条は、前文以外では、主語が「日本国民は」になっている唯一の条項である。9条が、特に深く前文と結びついていることを示す重要な点だ。もし9条の2が、現在伝えられているような形で挿入されると、その主語はそのまま「日本国民は」となる。したがって「必要な自衛の措置」をとる条項が入れば、「自衛の措置」をとっている者は、「日本国民」だということになる。
 
果たしてそれでいいのか?日本国憲法では、9条の禁止規定を除いて、日本国民が主語になっている条項はない。それは能動的な主体を設定したうえで、その主体に権限を委譲するという行為を、憲法制定者である日本国民が行っていることの証左である。たとえば立法する権限は、日本国民は、国会に授権している。日本国民自身が立法することはない。ところが自民党案の9条の2が入ると、憲政史上初めて、日本国民が能動的に動き、自分たち自身の安全や国の安全なるものを守るために、自衛の措置をとることになる。たとえ最高の指揮監督者が内閣総理大臣だとしても、自衛の措置をとっているのは、文章上は、日本国民である。となると、そこで規定されている「自衛隊」なりの組織は、日本国民が直接動かしているという理論構成になる。9条の2によって、日本国憲法において、主権者・国民が直接動かす唯一の組織が、「自衛隊」だということになる。この理解を発展させると、「統帥権干犯」問題に類似した、国民による直接行為の性格を確保する手段をめぐる議論が発生してしまう恐れがないとは言えない。法益がない無意味な混乱の要因なので、9条の2の主語の設定については、配慮しておいたほうがいい。

(4)「実力組織」・・・「実力組織」は、政府が長年使ってきた言葉だが、意味不明なものである。正式な憲法典の用語になると英訳も考えなければならないが、翻訳不能だろう。「ability organization」と言う人もいるらしいが、全く意味不明である。パッとみて意味不明であるだけならまだいいが、「ability organizationって何ですか?」と外国人記者に聞かれて、ピシッと答えられる日本人がいるとは思えない。つまり憲法典にこの概念を入れても、精緻に説明できない。ガラパゴス憲法学の悲惨な実情を、世界に宣伝するだけの措置に終わるだろう。
 憲法9条のように、国際的な活動を行う場面で問題になる条項は、国際法との整合性や、国際的に用いられている概念体系との関係が、非常に重要である。日本人だけで分かったような気になっていても、国際的に説明不能であれば、結局は憲法と現実の間のギャップが如実に見えた、といった状態に陥らざるを得なくなる。したがって「実力組織」概念の憲法典への挿入については、私は非常に否定的な気持ちを持っている。

(5)「内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者」・・・やたらと長い表現である。「内閣の首長たる内閣総理大臣」は憲法66条で、内閣総理大臣が行政各部を「指揮監督」するということは72条で、それぞれ定められている。9条が、これらの行政機構の仕組みを説明する必要はない。「内閣総理大臣が指揮監督する」と言えば十分ではないか。最高司令官規定を憲法に入れることは、必ずしも絶対に必要なことではない。もっとも自衛隊が行政府の一部であることを明示する文言を入れることには、意味があるだろう。

(6)「自衛隊」(Self-Defense Force)・・・「自衛隊」という名称の組織を合憲化することは、実際に存在する組織が持っている性質や活動の合憲性の保証にはならない。名前が合憲であるだけだ。しかも名称変更するだけで、憲法改正手続きを必要としてしまう不都合が発生する。組織名称が憲法典に記載されているのは、三権を代表する機関以外にはほとんどないため、自衛隊の位置付けは突出したものになる。そこまでの大きな意味を、あえて「自衛隊」という語に付与する必要があるのかは、疑問だ。つまり私には、「自衛隊」という語を憲法典に挿入することに大きな意味があるとは思えない。
 すでに何度かブログで主張していることだが、政府見解からしても、自衛隊は「憲法上の戦力」ではないが、「国際法上の軍隊」である。http://agora-web.jp/archives/2030702.html だとしたら、「国際法上の軍隊」が合憲であることを、「軍」という語を用いて、明晰化するのが、本当に必要なことだ。そうなると国際法との関係も明確になり、ジュネーブ条約(捕虜条約等)の自衛隊員への適用を拒絶する、といった自虐的な立場をとらなくてもよくなる。
 自民党は、議論の過程で、92項削除を唱える石破茂氏の主張を退けて、2項維持案を掲げていることになっている。それはそれでいい。だが今までの憲法解釈を維持した上で自衛隊の合憲性を明確化することが改憲の狙いであるとすれば、「憲法上の戦力ではなく、国際法上の軍隊である」、ということを明確化することが、本当は必要だ。つまり92項を維持して自衛隊は「憲法上の戦力ではない」という立場を維持しつつ、9条の2を追記して「国際法上の軍隊である」ことを明確化することが、最善策だ。
 拙著『ほんとうの憲法』で説明したことだが、92項が不保持を命じている「陸・海・空軍」は、「その他の戦力」とともに、「戦力(war potential)」の例示として示されているものにすぎない。「戦力」とは、政府見解のとおり、「戦争を遂行するための潜在力」である。92項が否定しているのは、「戦争」を行うための「戦力としての軍」である。「戦争(war)」は、国連憲章24項を参照するまでもなく、すでに91項によって違法化とされている行為だ。違法な「戦争(war)」という行為を行うことを目的とした組織は、大日本帝国軍のみならず、国家総動員体制の竹やり部隊であっても、92項によって、違憲になる。しかし「戦争」を目的にしていなければ、「憲法上の戦力」ではなく、軍隊であっても、合憲である。「戦力(war potential)」の違法化は、前文及び91項からの一貫性のある合理的な論理の帰結なのである。
 憲法学者は、自衛権の行使、をすぐに「自衛戦争」と言い換えたがる。陰謀論めいた概念操作であり、間違いである。1928年不戦条約以来、「戦争」は、違法である。しかし侵略者が違法な戦争行為で国際法秩序を脅かす事態が発生したら、侵略行為に対抗して国際法秩序を守ることが必要になる。その必要な行動の制度的措置として、自衛権と集団安全保障がある。
 
憲法学者風の発想によると、ずるがしこい外国人たちが、「戦争」を禁じると言いながらこっそり作った抜け穴が「自衛戦争」、である。そこで世界で唯一純朴で美しい民族である日本人だけが、全ての戦争を放棄する。しかしこれは自己陶酔的なガラパゴス論だ。
 
国際法秩序を守るために、武力行使の一般的禁止原則があり、国際法秩序を守るために、自衛権と集団安全保障の制度がある。勝手に不当な形で自衛権の趣旨を貶めたうえで、自衛権ではない「自衛戦争」なるものだけを議論していこうとするのは、日本の憲法学の悪質な概念操作の所産である。
 
なお念のため付記しておけば、「交戦権」は、現代国際法が否定している概念だ。戦前のドイツ国法学の概念構成を振り回して現代国際法を混乱させない、というのが92項「交戦権」否認の趣旨である。日本の憲法学の基本書にしか登場しない架空の「国際法上の交戦権」など、そもそも全く考慮する必要がないのだ(ただし司法試験・公務員試験受験者の方は、丸暗記しなければならない)。
 世界各国が保持しているのは、日本の自衛隊と同じで、自衛権行使の手段としての軍である。国連憲章24項で禁止されている「戦争」を行うための組織などではない。新設の9条の2は、ただ世界各国で常識とされていることを日本でも常識とするために、設定してくれればいい。何とかして「自衛権」行使を「自衛戦争」と言い換えようとするガラパゴス憲法学者に屈しないようにしてくれれば、それでいい。
 
確かに、日本政府の見解も、私の憲法理解とは異なる。まあ、政府は憲法学者には気を遣うが、憲法制定時の国会の憲法改正小委員会委員長であった芦田均の見解にも、9条の起草者と言えるダグラス・マッカーサーの見解にも気を遣わないのだから、仕方がない。だが政府が「実力組織」などの実定法上の根拠がなく説明困難な概念に固執しさえしなければ、あとの概念構成は細かい話だ。自衛隊が「戦力」でなければ、それでいい。「憲法上の戦力ではないが、国際法上の軍隊である」、という結論が共有できれば、それでいい。あとは、「憲法優越説」なるものを振りかざすガラパゴス憲法学者に屈しないようにしてくれれば、それでいい。「憲法上の戦力ではないが、国際法上の軍隊である」ならば、当然、捕虜になった自衛隊員にもジュネーブ条約が適用されるはずだ、といった論点を、一つ一つ整理していってくれれば、それでいい。

(7)「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」・・・最後に書いておきたい。憲法9条の「目的」は、冒頭で「誠実に希求する」と書かれていること、つまり「正義と秩序を基調とする国際平和」だ。9条の具体的な内容は、「手段」でしかない。それは、前文からしっかり通して9条を読めば、さらにいっそう明らかになることだ。
 日本の憲法学者は、「芦田修正説」を攻撃することには熱心だが、「正義と秩序を基調とする国際平和」については、議論しない。東大法学部時代に司法試験に合格したという弁護士の方は、「「日本国憲法が希求している目的が『正義と秩序を基調とする国際平和』だ、などという議論はこれまで一度も聞いたことがない」と証言する。blogos.com/article/280280/ 実際、日本の憲法学者が「正義と秩序を基調とする国際平和」について論じた形跡はない。せいぜい「世界最先端の9条があるから日本が世界のリーダーだ」、みたいなことを言うだけだろう。しかし、およそ正義(justice)を基調とするのなら、国際法秩序に整合した平和を求めるのが、当然だ。「正義(justice)」の確立を希求しながら国際の平和も求める「平和愛好国家」の国連憲章の「平和」の考え方と調和する形で、「国際平和」を求めて、9条を解釈運用するのが、当然だ。
 9条の2を挿入しても、9条冒頭の「目的」は残る。国会議員の方々が、憲法学の基本書よりも、日本国憲法典のほうを信頼し、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」する憲法の精神を尊重し続けることを期待する。

憲法学者の長谷部恭男教授や木村草太教授について取り上げたブログを何回か書いた。その後、ブログのコメント欄にいただいた意見を見て、少しだけ補足を書きたくなった。芦田均と田中耕太郎についてである。 
 
芦田均は、憲法改正小委員会の委員長として、国会における日本国憲法の審議に影響を与えた。有名なのが、憲法学者によって「芦田修正」と呼ばれる憲法92項の冒頭の「前項の目的を達するため」という文言だ。ここだけを切り取って「芦田修正」と呼び、それは姑息で破綻した修正だと唱え続ける態度は、「通説」憲法学者の存在証明のようなものだろう。http://agora-web.jp/archives/2032636.html  
 
田中耕太郎は、憲法学者がかつて忌み嫌い、今は利用しようとしている、在日米軍の違憲性を否定した「砂川判決」時の最高裁判所長官である。戦前の東大法学部時代に公刊した『世界法の理論』が有名で、自然法の法規範性を強く主張する立場で知られる。1961年から1970年にかけて、国際司法裁判所(ICJ)判事を務めた。「南西アフリカ事件」における田中の個別意見は、国際法の世界では有名であり、ICJ判事として輝かしい実績を持つ。http://agora-web.jp/archives/2032709.html http://agora-web.jp/archives/2032483.html  
 
芦田は1887年生まれ、田中は1890年生まれで、ほぼ同世代と言ってよいだろう。20世紀初頭の「大正デモクラシー」に代表される思潮をけん引した世代だ。私に言わせれば、国際法秩序に調和して生きる日本を理想とし、戦前の日本の失敗を、国際法秩序からの逸脱によるものと考える世代だ。
 
現代の日本の憲法学者が、芦田や田中ら「オールド・リベラリスト」と鋭く対立するのは、現代日本の憲法学が陥っているガラパゴス的性格を象徴するものだ。
 
「芦田修正」と憲法学者が呼ぶ文言は、91項冒頭の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」にかかる。手段としての9条が目指す「目的」のことだ。この「目的」は、すでに「前文」で示されているとおり、国連憲章体制を前提にした国際法秩序の中で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」し、「国際社会において、名誉ある地位を占めたい」ということだ。
 
「平和を愛する諸国民(peace-loving peoples)」とは、国連加盟国のことを指す。それらの諸国の「公正と信義(justice and faith)」を信頼するという憲法前文の文言は、憲法9条の「正義と秩序(justice and order)」という目的だけでなく、国連憲章前文の国際法に沿った「正義(justice)」の確立という目的、さらにはアメリカ合衆国憲法前文冒頭の「正義(justice)」の確立という目的と、合致する。
 
オールド・リベラリストの芦田が言いたかったのは、この憲法の国際主義のことだ。芦田を姑息で破綻した陰謀論者のように扱うのは、ガラパゴス主義宣言のようなものだろう。
―――――――

第九条の規定が戦争と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合であつて、これを実際の場合に適用すれば、侵略戦争といふことになる。従って自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたのではない。又侵略に対して制裁を加へる場合の戦争も、この条文の適用以外である。これ等の場合には戦争そのものが国際法の上から適法と認められているのであつて、一九二八年の不戦条約や国際連合憲章に於ても明白にこのことを規定しているのである。(芦田均『新憲法解釈』[ダイヤモンド社、1946年]36頁。)

―――――――――――ー

田中耕太郎が最高裁長官を務めている際の1959年「砂川判決」が「統治行為論」だといった不当な評判を受けたのは、下級審の「伊達判決」による在日米軍違憲論のほうが正しいと考えた憲法学者が、同時代には多かったからだろう。「本当は違憲だと言わなければいけないくせに統治行為論で逃げたのだろう」、という思い込みが、「統治行為論」だ!といった非難を生んだのだろう。
 
今日になって木村草太教授のように、「日米安保の合憲性を判断しただけで集団的自衛権の合憲性は関係がない」と「砂川判決」を解釈するのは、修正主義的なものだ。日米安保は合憲だが集団的自衛権は違憲だ、という議論は、最近になって作られた言い方でしかない。
 
それにしても、砂川事件最高裁判決の際の最高裁長官である田中耕太郎は、憲法学者にとって分が悪い相手であると思う。長谷部教授や木村教授のように、田中耕太郎を手なずけようとするのは、ちょっと無理筋だと思う。彼の言っていたことは、大枠で、私と同じで、国際法の論理の中で、日本国憲法を理解すべきだ、ということだ。
 
「自衛は他衛」という有名な言葉は、砂川判決における田中長官の個別意見の中で出てきた言葉だが、田中の意見の影響が色濃く残る形で、砂川事件最高裁判決の主文が書かれたことも自明であると思う。
 
田中は、著作で次のように述べていた。

―――――――――――

「根本原理、即ち民主主義の或る種の原則や基本的人権は普遍人類的性質をもっており、従って自然法的である。・・・人類普遍の原理即ち自然法による制約が存在するのである。というのは、前文が排除さるべき法規の中に『一切の憲法』を含めているからである。・・・新憲法の一つの特徴はそれが国内政治の根本原理を宣明したにとどまらず、国際政治の理想を明白に掲げた点に存する。・・・国際協調、世界の平和に対する熱意に燃えている。・・・普遍的な政治道徳の法則―この中には国際法をも包含するものと解する―は諸国家の上にあって、これ等国家の主権を制限するものである。これは諸国家の上にあるところの、国際法の基礎となる自然法の存在を確認したものと認め得られるのである。・・・今や、我々が真に世界の平和、人類の福祉に貢献しようとする熱意を有するならば、国際法に超国家的基礎を付与することが必要である。国際法は国際社会の法即ち世界法でなければならない。・・・我々は、新憲法が如何に普遍的人類的原理を強調しているか、を見た。それは国内社会と国際社会を通ずる原理である。」(田中耕太郎「新憲法に於ける普遍人類的原理」[1948年])

―――――――――――

 

軍事権のカテゴリカルな消去」は、憲法学者・木村草太教授の誇るオリジナルな学説だ。着想は、石川健治・東京大学法学部教授の言説から得ているようだ。だが石川教授の論説は、思想的な概念を使いながら色々と評論しているだけだ。とても真面目な憲法学説を展開するものには見えない(石川健治「軍隊と憲法」水島朝穂『立憲的ダイナミズム』[2014年]所収、石川健治「前衛への衝迫と正統からの離脱」[1997年])。
 
しかし木村教授は、「軍事権のカテゴリカルな消去」を、壮大な一つの憲法理論として仕立て上げようとしているように見える。http://agora-web.jp/archives/2032177.html
 
木村教授は、日本国憲法には「軍」に関する規定がないことを、「軍事権のカテゴリカルな消去」と呼ぶ。そして、それは、集団的自衛権が違憲であることの理由だと言う。しかし木村教授によれば、憲法の「軍事権のカテゴリカルな消去」は、「行政権」である個別的自衛権ならば禁止しないのだという。
 
とても理解するのが難しい学説だと感じる。たとえば憲法に「軍の最高司令官は大統領だ」といった規定があると、その国が「行政権である個別的自衛権」と「軍事権である集団的自衛権」を同時に持っていることの証明になるらしい。日本国憲法には、そのような規定がないので、「軍事権」がない。ただし「行政権」については「軍事権」と違って憲法に記載があるので、「行政権」の一つであると言える個別的自衛権は日本国憲法が認めていることになるのだという。
 
それにしてもこの「軍事権」なる耳慣れない権限は、いったい何なのだろうか。木村教授によれば、「『軍事』は、相手の主権を無視してそれを制圧するために行われます」(48頁)。軍事権とは、「相手の主権を無視してそれを制圧する」権限のことである。
  根拠も何も示されない。正直、日本の憲法学界の場合、小説と憲法学説の区別をどうやってつけているのか、不安にかられる。http://agora-web.jp/archives/2032384.html
 
木村教授によれば、この恐るべき「軍事権」なる権限を、日本以外の国々は持っているのだという。ところが日本国憲法が「軍事権のカテゴリカルな消去」を行っているので、世界で日本だけは持っていない。
 
実は、かつては日本も持っていた。なぜなら大日本帝国憲法が、以下のような「軍事」に関する規定を持っていたからである。
―――――――――

11条天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

12条天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
―――――――――――――

しかし、大日本帝国憲法には存在していたが、日本国憲法には存在していない規定や概念など、他にもたくさんある。たとえば「統治権」である。大日本帝国憲法第4条は、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ・・・」と定めていた。この「統治権」の概念は、日本国憲法にはない。ついでに言えば、「元首」の規定も日本国憲法にはない。とすれば「統治権のカテゴリカルな消去」や「元首のカテゴリカルな消去」を、日本国憲法は命じているのではないか?
 
100万部売っている憲法学の基本書の決定版である芦部信喜『憲法』は、最初のページで、次のように高らかに宣言している。
―――――――――――

 一定の限定された地域(領土)を基礎として、その地域に定住する人間が、強制力をもつ統治権のもとに法的に組織されるようになった社会を国家と呼ぶ。」芦部『憲法』3頁。

―――――――

同じく東京大学法学部で長く憲法を講じた高橋和之教授は、次のように言う。

―――――――

 国民が、近代市民革命により国王の統治権を奪取し、統治権の客体から主体へと転化するとき、国家が『一定の領土を基礎に統治権を備えた国民の団体』として観念されるようになる。・・・国家意思を形成し執行していく権力を統治権と呼ぶが、この統治権が誰に帰属し、どのように行使されるべきかを定めているのが憲法なのである。」高橋『立憲主義と日本国憲法』48頁。

―――――――――――――

芦部教授や高橋教授の言説は、「統治権のカテゴリカルな消去」をしている日本国憲法に反しているので、違憲ではないか?
 
そもそも、いったい、いつ、日本「国民が、近代市民革命により国王の統治権を奪取」したのだろうか?日本国憲法典にはそんなことは書かれていない。憲法97条が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」としているのは、基本的人権だ。統治権などという権限は関係がない。なぜ、そんな誰も知らない史実を、憲法学者だけは知っていると主張できるのか?
 
憲法学者は、「統治権」は「主権」だ、といった弁明をする。しかし、なぜ大日本帝国憲法の概念を用いた言い換えなどをしたいのか?それでは「カテゴリカルな消去」が骨抜きになってしまうではないか?よく考えてみてほしい。「統治権」には木村教授の言う「軍事権」が含まれていたのだ。そんな言い換えをしたら、「軍事権のカテゴリカルな消去」まで骨抜きになってしまうではないか。
 仮に「統治権」は「カテゴリカルな消去」をされていないとすれば、なぜ「軍事権」なる最初から実定法で登場したことのない概念が「カテゴリカルな消去」をされた、と言えるのか?
 
さらに言えば、仮に大日本帝国憲法11条・12条が日本国憲法にはないことを強調したいとして、それは端的に、日本国憲法には「統帥権」概念がない、とでも言えば済む話なのではないか?
 
さらに言えば、仮に「軍」という文字が日本国憲法に存在していないことを強調するとして、それはまさに「軍」の存在に関わる問題なのであって、「個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲」、などという話とは、全く関係がないのではないか?
 
しかし、木村教授の「軍事権」理論の恐ろしさは、これらの疑問だけにとどまらない。私には、むしろ木村教授の世界観こそが、恐ろしい。
 
木村教授の「軍事権」理論によれば、日本以外の国々は「軍事権」なる権限を持っている。つまり「相手の主権を無視してそれを制圧する」権限を持っている。日本に5万人の軍人を置くアメリカ合衆国も、日本にミサイルを放つ能力を持つ北朝鮮も持っている。日本だけが持っていない。
 
ただし戦前の日本は「軍事権」を持っていた。つまり「相手の主権を無視してそれを制圧する」ことができた。したがってもちろん満州を占領してもよかったし、中国を侵略してもよかったし、真珠湾を奇襲攻撃してもよかった。
 木村教授の「軍事権」理論は、現代国際法規範を否定し、大日本帝国の行動を肯定する。木村教授によれば、このような観察の根拠は、日本国憲法にあるのだという。
 
恐ろしい話である。
 
日本国憲法さえ世界最先端の憲法であれば、あとは国際法が崩壊しようとも、大日本帝国の侵略行為を肯定しようとも、そんなことはどうでもいいのだ。
 
呆然とする。本当に日本国憲法は、そのようなことを言っているのか。木村教授の日本国憲法の理解は、私の日本国憲法の理解の、完全に真逆である。

 「砂川事件」最高裁判決は、多くの憲法学者たちが、「統治行為」論で、駐日米軍の違憲性判断を回避した判決として紹介している。それにもかかわらず、木村草太教授が、『憲法と自衛隊』において、「砂川事件」最高裁判決を統治行為論として読んでいないことは、私は評価したい。http://agora-web.jp/archives/2029642.html もっとも木村教授の意図は、安保法制には訴訟リスクがある、「政府の側が、『裁判所はどうせ見逃してくれるだろう』と考えているとしたら、見通しが甘すぎます」(86頁)、という脅しのようなものをかけることにあったようだが。
 
しかし木村教授が、「砂川判決が集団的自衛権行使を認めているというのは明らかな誤りです」(82頁)と述べている点については、私は疑問を呈する。少なくとも、砂川事件最高裁判決が集団的自衛権を否定したところは、全くない。合憲性を前提にしていたと考えるのが自然だ。http://agora-web.jp/archives/2032483.html
 
すでに指摘したことがあるが、現代の憲法学者は、砂川判決が集団的自衛権は合憲だ、という議論を展開していないことをもって、砂川判決は集団的自衛権を認めていない、という結論の根拠にしようとしているように思う。しかしそれは典型的なアナクロニズムの陥穽である。1959年砂川判決が、1972年内閣法制局見解を明示的に否定していないことは、前者が後者と同じ立場に立っていたことの証明にはならない。なぜなら1959年の人々は、1972年の内閣法制局の見解を知らず、別の時代の思潮に生きていたからだ。明示的に集団的自衛権を合憲だと主張していなくても、当然合憲であろうと推察している場合は、ありうる。1959年当時、集団的自衛権は違憲だ、という議論それ自体がほとんど存在していなかったのだから。
 
木村教授は、砂川判決は、「日米安保条約に基づく米軍駐留の合憲性を判断したもので」、「『憲法9条の下で許される「自衛のための措置」の中には「他国に安全保障を求めること」が含まれる』と言ったのみ」だと主張する(8182頁)。木村教授は、さらに、砂川判決が憲法92項が自衛隊の合憲性を認めているか否かは事件解決とは無関係だという趣旨のことを言っていることをもって、「個別的自衛権行使の合憲性すら判断を留保しているのですから、砂川判決が集団的自衛権行使を認めているというのは明らかな誤りです」(82頁)、と、率直に言って、論理を超越して、感情に訴える印象論の話を前面に出して、自己の判決解釈の正統性の根拠にしようとする。
 
注意して、この木村教授の言説を見てみよう。砂川判決は、92項の「戦力」は、「わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しない」と述べた。米軍は、日本が指揮権・管理権を持っていないがゆえに、92項違反になりえないという論理である。木村教授は、これをもって、砂川判決は「他国に安全保障を求めること」の合憲性を示した、と解説する。
 
ところが木村教授は、日本国憲法は集団的自衛権を認めない、と主張する際に、憲法73条が定める内閣の権限に集団的自衛権が含まれえないのは、「行政権」が「国内支配作用」=「国家が国民を支配する作用」だけにかかわるものだからだ、と主張していた。つまり個別的自衛権だけは「国家が国民を支配する作用」なので合憲だが、集団的自衛権はそのように言えないので違憲になる、という主張である。
 まとめてみよう。
木村教授によれば個別的自衛権だけは「国内支配作用」である。ところで在日米軍は日本の管理権が及ばないものである。もし日本の管理権が及ばないものに対する攻撃をもって日本が個別的自衛権を発動して武力行使をするとしたら、それは「国家が国民を支配する作用」とは言えないので、木村教授にしたがえば、そのような仕方での個別的自衛権の発動は、違憲だということになる。つまり木村教授によって、日米安全保障条約にもとづいて駐留する米軍への攻撃を持って個別的自衛権を発動するのは、違憲でなければならない。つまり米軍基地への攻撃があっても、日本は何もすることができない。
 米軍は日本の管理下になくても、米軍が使っている土地は日本の領域内にあるので、個別的自衛権発動でいいのだと主張するとしたら、結局、日本にできるのは米軍が使っている土地を守ることだけで、米軍を守ることはできない、そのようなそぶりを見せたら違憲だ、ということになる。もちろん実際には、米軍を守らず、土地だけを守る、などということは、机上の空論でしかない。
 こうして木村教授は、日米安全保障条約が依拠する前提を否定しようとしているのだが、そのことは自分自身では語らない。
問題の整理すら、行わない。ただ一方的に仮想敵を侮蔑する言葉を並べるだけである。
 
砂川判決の直後に新安保条約を調印した岸内閣の閣僚は、次のように説明していた。

―――――――――――

「一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは私は言い過ぎだと、かように考えています。・・・他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点でございまして、そういうのはもちろん日本として持っている、こう思っております。」 (岸信介首相)

「例えば、現在の安保条約において、米国に対し施設区域を提供している。あるいは、米国が他の国の侵略を受けた場合に、これに対して経済的な援助を与えるということ、こういうことを集団的自衛権というような言葉で理解すれば、私は日本の憲法は否定しているとは考えない」 (林修三内閣法制局長官)

「国際的に集団的自衛権というものは持っておるが、その集団的自衛権というものは、日本の憲法の第九条において非常に制限されておる、・・・憲法第九条によって制限された集団的自衛権である、こういうふうに憲法との関連において見るのが至当であろう、こういうふうに私は考えております。」(赤城宗徳防衛庁長官)

――――――――――――――

これらの国会答弁が、前年の砂川判決をふまえたものであったことは、間違いないだろう。つまり同時代の政治家は、砂川判決を、木村教授が読むような仕方では、読まなかった。同時代の思潮の中に置かれてみれば、砂川判決が、集団的自衛権を否認していないことは明らかだったのだ。
 ただ、現代のイデオロギー対立の中で自分に都合の良い固定された結論を先においてから、推論を組み立てる者であれば、砂川判決が何か違うものであるかのように声高に言ってみたくなる、それだけのことだ。
 
木村教授は、どういうわけか砂川判決が集団的自衛権にふれた部分を全く無視する。しかし、実際の判決が言ったのは、次のようなことであった。

――――――――――――――

「右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。

――――――――――

砂川判決が参照し、承認しているのは、1951年日米安全保障条約の次のような文言である。

―――――――――――――――

平和条約は、日本国が主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章は、すべての国が個別的及び集団的自衛の固有の権利を有することを承認している。
 
これらの権利の行使として、日本国は、その防衛のための暫定措置として、日本国に対する武力攻撃を阻止するため日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する。

―――――――――――――――――――

結局、木村教授の議論が錯綜しているように見えるのは、1950年代・60年代当時の人々が素直に認めていたこと、つまり日米安全保障条約は日本の集団的自衛権の権利行使の論理がなければ成り立たない、ということを、何とかして認めないように画策しているためである。
 1950年代・60年代の
人々は、集団的自衛権を何とかして否定しなければならない、という脅迫観念にとらわれていなかったので、柔軟にその権利を行使する日本の姿について語っていくことができた。木村教授は、集団的自衛権を否定しながら、砂川判決は否定せず利用しようとする。そこで自衛権発動の仕方が混乱して見えてしまうとしても、そのことを決して自ら語ろうとはしない。
 
砂川判決の憲法解釈や、その依拠する世界観を、イデオロギー的に批判するのは自由だろう。だが砂川判決の我田引水的な読解を、多勢に無勢で強引に押し切ろうとするのは、知的に誠実な態度だとは言えない。

<続く>

 イデオロギー対立の中で他者否定の際に使う「紋切型」には、いくつかのパターンがある。たとえば「戦前の復活だ!」などが、誰でも知っているお馴染みの紋切型だ。憲法学者特有のややテクニカルな例では、「芦田修正説だ!」などの紋切型がある。http://agora-web.jp/archives/2031014.html http://agora-web.jp/archives/2030895.html 
 一般に「芦田修正説」とは、憲法92項冒頭の「前項の目的を達するため」という挿入語句が、1項の「国際紛争を解決する手段」という文言にかかるので、2項が禁止する「戦力」は、侵略戦争のための戦力だけだ、とする立場を指すことになっている。
 
ただし実際には「私は芦田修正説を支持する」などと言っている人はいない。憲法学通説に立つ者が、他者否定する際に都合がいいので、頻繁にこうした紋切型を用いるだけである。気にいらない相手を見ると、片っ端から「それは芦田修正説だ、読解が破綻している、したがってお前はもう否定されている」、と言い放つという現象である。
 
歴代の東大法学部系の憲法学者たちが推進した伝統的な憲法学通説は、「前項の目的」の文言で91項の限定を引き継ぐことはなく、だから、92項で全ての戦力は放棄される(自衛隊違憲論)、というものであった。なお、伝統的な憲法学通説は、「前項の目的を達するため」という文言を、91項冒頭の「正義と秩序を基調とする国際平和」にかける、と説明されることがある。しかしこれはレトリックの域を出ていない。もしそうならば前文にさかのぼり、国連憲章体制への信頼にさかのぼらなければならないのに、憲法学通説が「国際」社会の「正義と秩序」を語ってきた形跡はない。東大法学部在学中に司法試験に合格したという弁護士の方も、「日本国憲法が希求している目的が『正義と秩序を基調とする国際平和』だ、などという議論はこれまで一度も聞いたことがない」と証言している。http://agora-web.jp/archives/2031329.html blogos.com/article/280280/  日本の法律家の憲法9条認識は、こんなものだろう。
 
ちなみに政府見解は、2項が言う「前項の目的」は91項全体にかかり、「戦力ではない最低限の実力」の保持を否定しない(自衛隊合憲論)、というものである。政府は「芦田修正説」は採用していないという立場だが、結論はあまり変わらないので、政府見解も、伝統的には憲法学者の間で評判が悪かった。
 木村草太教授の『自衛隊と憲法』においても、この「芦田修正説」を経由した他者否定にページが割かれている。ただし特徴的なのは、木村教授が、「芦田修正説」の否定に、自説の「軍事権のカテゴリカルな消去」なるものを使う点である。
 木村教授によると、「芦田修正説を前提にすると、日本国憲法は、侵略戦争にあたらない限り、軍隊による軍事活動を行う権限を規定しているはずです」(45頁)。そして「軍事活動」は、立法でも司法でもなく、内閣の権限を定めた憲法73条にも該当がないので、「もし芦田修正説を採り、日本は軍隊を持って良いと解釈すると、軍隊を憲法でコントロールすることが全くできないことになってしまいます」(50頁)と述べる。憲法には「シビリアンコントロールの規定すらありません」(51頁)。
 そうだろうか。たとえば、木村教授の言う「軍事権」なる謎の第四の権力が、実は木村教授の想像の産物でしかない、と考えてみたらどうだろうか。そうすれば、木村教授の自作自演の懸念は、解消する。
 非常に有名なので木村教授も当然知っているはずだが、憲法改正特別委員会(芦田委員会)が9条の文言に追加を行ったのを知った連合国の極東委員会は、憲法662項「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」、という規定の挿入を求めた。一般には、将来の軍隊の創設を察知して、最低限の文民統制の仕組みを憲法に入れ込んだ、と解されているはずだ。「文民」とは軍人以外の者のことを指すので、軍人が不在の社会では「文民」規定は意味をなさない。
 
実際には、今の日本でも、たとえば自衛隊の日報問題のような事件においてすら、「シビリアンコントロール」のあり方が問われている。それに対して木村教授は、「軍事権は憲法からカテゴリカルに消去されているのだから、自衛隊の日報問題でシビリアンコントロールなどという言葉を使うのは間違いだ」、と主張しているのだろうか。
 
伝統的には、芦田修正説とは、憲法学者では、「京都学派」の佐々木惣一・元京都大学教授(滝川事件の際に辞職)や大石義男・京都大学教授が、採用していたとされる。確かに、佐々木や大石の著作を見ると、「前項の目的を達するために」という文言に着目したうえで、保持しない戦力は侵略のための戦力だけだ、とする議論が見られる。
 
しかし佐々木や大石の見解を、強引に「国際紛争を解決する手段」に「だけ」引き寄せた陰謀論的な読み方の産物だとして否定するのは、アンフェアだと思う。そもそも佐々木や大石は、自分たちは「芦田修正説」論者だ、などと言っていなかった。佐々木・大石説とは、つまり91項の内容と整合するように2項を解釈するという立場だったのであり、その議論の実質部分において、日本政府公式見解と大差がない。つまり侵略戦争を目的にしない戦力は保持できるという佐々木や大石の見解は、自衛権行使のための必要最低限の実力だけは保持できるという政府見解と、大きな違いはない。
 
むしろ疑問なのは、宮沢俊義や芦部信喜ら東大法学部系の憲法学者が採用していた、「全ての戦力が否定されているので自衛隊は違憲だ」、という伝統的な通説を、今、憲法学通説を名乗る側は、きちんと清算しているのか、ということだ。木村草太教授らは伝統的な憲法学通説とは違う立場をとっているのに、なぜ依然として芦田修正説のレッテル貼りによる他者否定を踏襲するのか。
 
冷戦が終わってしばらくして、21世紀になるころ、1995年に東大法学部教授になっていた長谷部恭男氏が、伝統を慎重に見直す動きを始めた。http://agora-web.jp/archives/2029141.html そしていまや憲法学界の頂点に君臨する長谷部教授は、自衛隊合憲論は、「良識」の問題だ、と主張するようにまでなっている。http://agora-web.jp/archives/2032313.html 21世紀の初めに東大法学部を卒業した年次の木村教授は、長谷部教授が一世を風靡した後の第一世代といった位置づけなのだろう。しかし、そうだとしたら、長谷部/木村教授は、なぜ宮沢俊義、小林直樹、芦部信喜、樋口陽一、さらには清宮四郎や佐藤功や鵜飼信成を入れてもいい、歴代の東大系の憲法学者たちが、「良識」を欠いていたことを、まず批判しないのか。
 
東大系の憲法学者らは、92項で戦力を全面否定していた。それどころか、1項で「国際紛争を解決する手段」という留保を付すことにすら意味がないと言い、自衛隊どころか自衛権行使まで否定していたのではなかったか。彼らは、そのような徹底した立場から、否定したい相手の見解を「芦田修正説」と呼んで蔑視していたのだ。はっきり言って、長谷部/木村教授の修正説は、ほんの数十年前なら、「芦田修正説」と呼ばれたようなものだろう。
 
早い時代からほぼ同じ結論を先取りしていた京都大学の教授陣の不名誉を顧みず、いまだに延々と「芦田修正説」なるレッテルについて、語っているのは、どういうことなのか。木村教授の場合、議論の内容を変えてしまっているので、「芦田修正説」という表現は、ほぼ意味を失っている。それでも延々と他者否定のためにレッテルだけを使い続けるのは、知的に誠実な態度と言えるだろうか。
 
せめてまず、長谷部/木村説をとる者は、長谷部教授の理論にしたがって、「宮沢俊義、小林直樹、芦部信喜らは、良識を欠いた人物であった、良識ある法解釈を行うという憲法学者の定義に反しているので、似非憲法学者であった」、と宣言するべきだ。http://agora-web.jp/archives/2032313.html 
 
木村教授は、憲法9条によって全ての戦力が否定されるのが本来だが、憲法13条の幸福追求権によって、個別的自衛権に関することだけは合憲になるのだ、と説明する。だが、結論を見れば、それは伝統的な憲法学通説よりも、むしろ佐々木・大石説に近づいている。
 
なお13条の援用自体は、木村教授や1972年内閣法制局見解のオリジナリティではない。憲法9条と13条を照らし合せて解釈すべきだという主張は、すでに吉田茂に仕えた内閣法制局長官の佐藤達夫の1959年の著作に見られる(『憲法講話』[立花書房])。しかしそこでは個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲だ、などという議論は出てこない。ただ憲法が許している「戦力に至らざる軍隊」の概念が説明されたりしているだけだ。92項は「戦力」不保持の規定なので、「戦力」の質か量の話をするのでなければ、92項について話していることにならない。
 
「芦田修正説」は否定したい相手を否定したかのように振る舞う際に使うレトリックだが、結果を見れば、木村教授は、政府見解の論理を踏襲しようとしており、結論部分では、佐々木・大石説に近づいている。むしろ木村教授の結論部分で否定されるのは、宮沢俊義以来の「芦田修正説」を拒絶していた伝統的な憲法学通説のほうである。
 
「芦田修正説」のレッテル貼りが間が抜けて見えるのは、結論を見ると相手方に近づいていることを誤魔化すために、「芦田修正説」なる言い方を利用して、伝統的な東大法学部系憲法学通説への忠誠心の表明だけは維持しようとしている点だ。
 
繰り返そう。かつて東大法学部系の憲法学通説は、全ての戦力を否定する結論、つまり自衛隊違憲論をもっており、同調しない人々の意見を「芦田修正説」として批判していた。現在、「長谷部恭男・木村草太修正説」は、かつての憲法学通説を骨抜きにして、自衛隊は合憲、自衛権も個別的自衛権だけは合憲、という修正した立場をとっている。結論を見れば、長谷部教授や木村教授が、憲法学通説を修正して、京都学派の立場に近づいたのである。なお長谷部/木村説では、自衛隊合憲説は、「良識ある法解釈」を行う憲法学者の結論である。したがって歴代の東大法学部憲法学者の面々には「良識がなかった」という推論こそが不可避である。だがそこはお茶を濁すために、「芦田修正説」の批判、といった都合のいいレッテル貼りの表現だけを残存させて、東大法学部系の憲法学者の相互批判の事態を避けている。
 
憲法学界ポリティクスに関わりを持たない者は、「芦田修正説」なる意味のないレッテル貼りに惑わされないことが肝要だ。中身のない軽蔑ゲームの繰り返し以上のものを何も生み出さない。
 
いずれにせよ、少なくとも最も曖昧で混乱しているのが「長谷部/木村修正説」である点には、特に注意を払っておく必要がある。

<続く>

↑このページのトップヘ