「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

2018年06月

白井聡氏の近刊『国体論:菊と星条旗』は、前著『永続敗戦論』と同様に、特に学術的に新しいという要素はないが、全体が一つの檄文であるかのような力強さを持っている。
 
日本はアメリカに支配されている! 対米従属論者に支配されている! 立ち上がれ、日本! というメッセージである。このメッセージの単純さから、大変によく売れているようだ。
 『永続敗戦論』の中で、白井氏は、次のように言っていた。

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「私は歴史学者ではないから、本書において新しい歴史的事実の提示を行うわけではない。その代わりに私は、われわれが歴史を認識する際の概念的枠組み、すなわち「戦後」という概念の吟味と内容変更を提示する。・・・それが果たされるとき、われわれはこの国の現実において何を否定し、何を拒否しなければならないのかについて、明確なヴィジョンを得ることになるであろう。」(白井聡『永続配線論―戦後日本の核心』[太田出版、2013年]、34頁)。

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 そこで白井氏は、明確に、アメリカを否定せよ、アベを否定せよ、と唱え続ける。
 白井氏自身も認めると思うが、『永続敗戦論』も『国体論』も、アジテーションの書である。未来に向けた政策的指針もない。ただ、アメリカとアベを否定することの必要性が、壮大な物語と共に、繰り返し語られる。
 白井氏は、戦前の天皇制の「国体」が、戦後はアメリカ従属の「国体」になった、と論じる。だから、アメリカとアベを否定しなければならない、と結論づけ、繰り返し煽情的な表現で補強する。
 
私も、拙著『集団的自衛権の思想史』で、戦後日本の「表の国体」が憲法9条で、「裏の国体」が日米安保だ、と論じた。ただし私は、戦後日本では日米同盟が国家体制の重要要素になった、と言っただけだ。それに対して、白井氏は、大真面目に戦前の「国体」が、戦後の対米従属「国体」になったのだ、と主張するのである。
 
アメリカが占領統治に天皇を利用したことは、周知の事実である。だがだからといって、白井氏の特異な主張が裏付けられるわけではない。しかも誇張の度合いが甚だしい。 (たとえば1959年砂川事件最高裁判決の前に、田中耕太郎最高裁長官と米国大使が接触したことをとりあげて、アメリカが田中に「圧力」をかけた、そして田中長官が「おもねった」、と白井氏は描写する[『国体論』158頁]。これは間違った記述だと言わざるを得ない。白井氏は、矢部宏治氏の本を根拠としているが、矢部氏は布川玲子・新原昭治両氏の著作を参照して脚色しているだけである。田中耕太郎に関する布川・新原両氏の研究は、布川氏とジャーナリストの末浪靖司氏が米国国立公文書館で入手した公電資料にもとづく。それは、当時の駐日米国首席公使や大使が、共通の知人宅などにおける田中長官との私的会話を通じて、公判のスケジュールを調査した結果を、報告しているものに過ぎない。判決内容の行方については、米国大使も推察をしているだけであり、田中長官が実質審理内容について私的会話でも漏らしたというほどのものではない(布川・新原『砂川事件と田中最高裁長官』[2013年])。白井氏は伝言ゲームのような形で、話を「盛って」いるのだが、孫引きならぬ孫描写のような文章で「盛りながら」本を書き進めていると言わざるを得ない。)
 白井氏の戦前の日本思想史の描写は、大学学部生向けの教科書で使えるようなオーソドックスなものである。もっともだからといって白井氏の叙述に疑念の余地がないわけではない。「国体」概念は、実際には多層的な複雑性を持っていた、と考えるのが、普通の学術的姿勢である(たとえば山口輝臣「なぜ国体だったのか?」酒井哲哉(編)『日本の外交第3巻外交思想』所収を参照)。重層的な戦前の日本の「国体論」の思想史が、実は単一ものであり、そして戦後の日本史との完全なアナロジー関係を持っているという主張は、一つの政治運動演説としては面白いが、学術的な論証をへたものだとは認められない。
 
たとえば私が「裏の国体」が日米安保だ、と言う時の意味は、戦後の国家体制の根幹の一つが日米安保だ、ということである。しかし白井氏は、真面目に戦前と戦後のアナロジーを主張したうえで、「戦前の国体が崩壊したのと同じように、戦後の国体も崩壊する」、といった予言者めいたセリフを繰り返す。理由は、明治維新から77年で1945年の戦前の国体の崩壊になったので、戦後の国体も1945年から77年目の2022年に崩壊するはずだから、だという。
 
白井氏によれば、足し算だけできれば、誰でも未来が予測できる。ただし、2022年に戦後の国体が崩壊するとき、具体的には何が起こるのかは、不明である。不親切にも、白井氏は何も教えてくれない。ただ、仰々しいアジテーションの言葉を並べていくだけである。

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「日本は独立国ではなく、そうありたいという意思すら持っておらず、かつそのような現状を否認している・・・。本物の奴隷とは、奴隷である状態をこの上なく素晴らしいものと考え、自らが奴隷であることを否認する奴隷である。さらにこの奴隷が完璧な奴隷である所以は、どれほど否認しようが、奴隷は奴隷にすぎないという不愉快な事実を思い起こさせる自由人を非難し誹謗中傷する点にある。本物の奴隷は、自分自身が哀れな存在にとどまり続けるだけでなく、その惨めな境涯を他者に対しても強要するのである。深刻な事態として指摘せねばならないのは、こうした卑しいメンタリティが、「戦後の国体」の崩壊期と目すべき第二次安倍政権が長期化するなかで、疾病のように広がってきたことである。(297-298頁)

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「お前は奴隷になっている、今すぐ反抗を開始せよ」、と言われて駆り出された人々が、政策目標もないままに現状否定の行動だけに駆られても、あまりいいことはないのではないか、という気持ちを、私は抱く。しかし、白井氏から見れば、そんな反米運動に立ち上がりもしない私のような者こそが、否定すべき「奴隷」だ、ということになるのだろう。
 
白井氏のアジテーション活動の意図を理解するためには、白井氏の遍歴を見てみることが、近道である。白井氏は、もともとレーニンの研究で博士号を取得した人物である。最初の著作も20世紀前半の思想的文脈を再現しつつ、さらに現代思想の成果も取り入れて、レーニンの唯物論を蘇らせようとするものだった。
 アジテーションを繰り返し、秋葉原駅で「アベやめろ」と叫んで首相の演説を妨害する白井聡氏とはhttp://netgeek.biz/archives/99145 、いったい誰なのか?と言えば、つまりレーニン主義者である。白井氏のアベ否定・アメリカ否定の政治運動は、レーニン理論の応用だと言える。それは白井氏の次のような記述を見ていくと、判明してくる。

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「つぎのような議論がしばしばなされる。すなわち、レーニンの致命的な欠点として、彼が自律的な道徳の尺度を持たず、すべての価値判断を革命の大義に従属させたために、さまざまな「秘密」の事業に手を染めることになった、というものである。だが、ここで指摘されるべきは、レーニンが「すべての価値判断を革命の大義に従属させた」ことは何ら「秘密」でも何でもなく、レーニンが公言しつづけたことにほかならないということである。・・・近代資本制にもとづいて成り立っている社会(それは歴史的に「ブルジョワ社会」と呼ばれ、いまわれわれが生きている社会でもある)の特徴は、階級闘争が隠蔽されるところに存する。マルクス主義が主張するところによれば、政治的なものの本質は階級闘争に存するが、それが真実ならば、ブルジョワ社会とは、この基本的真実を忘れたふりをすることによって、あるいはそのようなものは存在しないと言いつのることによって、言いかえれば、政治的なものの隠蔽によって、社会に内在する敵対性を隠蔽することによって成り立っている。まさにこのことが、通常の政治が抱えている巨大な「秘密」であり、社会に根源的敵対性が内在的に存在することを告白することとは、共同体の不可能性を告白することにほかならない。」(白井聡『未完のレーニン:<力>の思想を読む』[2007年]、2021頁)

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 白井氏は、レーニンの『国家と革命』を、「祝祭的時間性」の狂気という言い方で描写する。それは、「過去・現在・未来の連続した流れとして通常われわれが対象化するような時間ではない・・・質の違った時間性が祝祭のように其処に現前している」狂気である。(白井『未完のレーニン』216頁)
 レーニンの『国家と革命』は未完に終わった。なぜなら最終部分を執筆中に、いよいよロシア革命が勃発する情勢になったからだ。レーニンの理論は、レーニン自身が指導する革命によって実践された。白井氏は言う。「祝祭の存在を最終的に確証しているのは、あの最後の不在のページにほかならない。なぜなら、そこではテクストの作者は姿を消し、描かれてきた<力>そのものが筆を取っているからである。」(同上)
 白井氏は、さらにレーニン『国家と革命』の解説において、次のように述べる。

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 「われわれは一度でも、こう考えてみるべきなのだ。すなわち、ロシア革命の失敗は、われわれが責めを負うべき事柄なのではないか、と。あるいは、もっと正確に言えば、ロシア革命の失敗が失敗であるがままにとどまっているのは、ほかでもなくわれわれのせいなのではないか、と。・・・果たして、われわれはわれわれ自身の義務を果たした上で、レーニンの革命を批判しているのか? レーニンの革命は、いつか再び社会主義革命が世界的理念として<力>を獲得しない限り、挫折した呪わしい革命として永久にあり続けるほかない。その理想を救済することができるのは後に来る者たちだけであるとすれば、『国家と革命』に出現した革命を汚辱のなかに捨て置かれたままにしているのは、われわれ自身の仕業にほかならない。・・・自由な精神は、大いにレーニンを批判すべきである。ただしそれは、われわれが、われわれの時代が、レーニンの革命よりももっと偉大な革命を成し遂げるとき、その革命そのものによって行われるのである。・・・日本では、三・一一の地震が原発震災と化したことをきっかけに、政・官・財・学・マスコミの形づくる腐敗した支配の構造が、白日の下にさらされつつある。要するにそれは、日本における革命の必要性を突きつけた。・・・『国家と革命』はもう一世紀近くもの間待ち続けている。書かれなかったあの最終章が、われわれの手によって書かれる日を、待ち望んでいるのである。」 (白井聡「解説 われわれにとっての『国家と革命』」、レーニン(角田安正訳)『国家と革命』[講談社学術文庫、2011年]所収、277279-280283-284285-286289頁)

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白井氏は、「革命家」だ。それは「何ら「秘密」でも何でもな」い。白井氏がレーニン主義者である、ということを思い出すだけで、十分である。
 
白井氏の『国体論』は、いったいどのような「革命」に、われわれを連れていこうとしているのか? それは、全く本質的に、不明である。しかし、はっきりしていることもある。白井氏が目指しているのは、そのあたりに転がっている低次元のアベ否定のようなものではない、ということだ。白井氏が目指しているのは、本物の「革命」である。

 米朝会談について『現代ビジネス』に論評を寄稿し、http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56108 ブログにも少し書いた。http://agora-web.jp/archives/2033184.html すると「篠田さんは勇気がある」というコメントをいただいた。どういうことなのか、よくわからなかった。どうもテレビで高名な評論家諸氏が、「中身がない」、「トランプはダメだ」、「拉致問題が解決されていない」、と散々に酷評していることに、私が反論しているように見えるということらしい。
 なんのことはない。私が日本のテレビ番組をあまり見ていないだけである。
 
だが、トランプ大統領は無能だ、と言い切る自信は、私にはない。もっとも、トランプは偉大だ、と言いたいわけでもない。一回の会合で全て解決することはない、そういう方法論を採用した、それだけのことだ。発展性のあるプロセスの枠組みを作った、それがそんなに悪いことだとは思えない。
 
制裁は維持している。もっとも確かに、会談を経て、中国との国境はさらにいっそう緩くはなるだろう。米韓合同軍事演習は、いつでも再開できる。もっとも確かに、譲歩に使ったと非難されれば、否定はできないだろう。だが果たしてこれ以上のことができたのか。初回から何か別のことをするべきだったのか。
 
日本の評論家が、通常の平凡な外交交渉の基準を持ち出して、今回の米朝会談を見ているということはないか。・・・普通は官僚が全部細部を決めて、トップはサインするだけだ、常にそういうやり方をとるのが正しいことなのだ・・・、といった基準で、独裁国家を相手にした特異な会談の評価をしていないか。
 
戦争当事者同士が交渉をしているのだ。アフガニスタンや、中東や、アフリカのサヘルなどを見て、もう少し「紛争解決」の考え方に近寄った基準をとっていただければ、私のような気持ちになる人も増えるのではないかと思う(たとえば篠田の『フォーサイト』連載をご覧ください。http://www.fsight.jp/articles/-/43869 )
 
日本の世論が、当事者意識が強い韓国や米国の世論と乖離しているのも気になる。http://www.genron-npo.net/studio/2018/06/post_75.html 北朝鮮メディアも驚くほど好意的に、会談結果をとりあげているようだ。すべては金正恩氏が、自分で合意書にサインしているからだ。合意書の詳細な文言など、何度も反故にされてきた事柄だ。しかし金正恩氏自身が、米国大統領と並んで、合意書にサインをした。その場面の画像に、大きなインパクトがあることは間違いない。アメリカ国内からも、トランプ大統領の支持率が急上昇しているというニュースが流れてくる。
 
われわれ日本人が、日本人なりの視点を持つのは当然だ。それは、良い。だが、だからとって「会談は失敗だった」、などと結論づけることは、果たしてそんなに簡単にできることなのか。
 
ウルトラマンは、アメリカのメタファーだ、という広く知られた俗説がある。普段は見えないが、危機になったら、すべて解決してくれる、というわけである。ウルトラマンは、怪獣を次々となぎ倒すのが当たり前なので、もし苦戦でもしようなら、「何やってんだ!」と離れたビルの中から罵倒する、それが地球人の態度である。ウルトラマンが強い手段をとって怪獣を倒すとしても、離れたビルにも危害が及ぶようであれば、やはり「何やってんだよ、ウルトラマン」、と地球人は言うだろう。 
 しかし、言うまでもなく、アメリカは、ウルトラマンではない。巨人ではあっても、能力の限界に苦しみながら、必死に生きようとしている、同じ人間の集団である。
 日本は、なぜアメリカと同盟関係にあるのか。
 日本は、アメリカがウルトラマンだから同盟を組んでいるのか。もしアメリカがウルトラマンではなかったら、即刻、同盟関係を解消するのか。
 
親米主義者であるか、反米主義者であるかにかかわらず、あらためて、アメリカはウルトラマンではない、ということを考え直すには、今回の米朝会談は、いい機会だったかもしれない。

 米朝会談に対する観察を『現代ビジネス』に寄稿した。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56108
 
紙幅の関係で書かなかったが、トランプ大統領の1時間以上にわたる記者会見の中で、最も劇的だったのは、オットー・ワームビア氏(北朝鮮旅行中に拘束され死亡したアメリカ人学生)についてふれたところだったと思う。
 記者団のほとんどは、人権侵害を繰り返す独裁者である金正恩氏と会談したトランプ大統領の態度について、質問をした。従来のアメリカの価値観からすると、特にインテリ層の「ポリティカル・コレクトネス」の感覚からすると、金正恩氏とアメリカの大統領がにこやかに握手をする、ということ事態が、衝撃的なことだったのだ。
 記者会見における最初の質問で、NBC記者は、「あなたが今日あった人物は、たくさんの人々を殺し、オットー・ワームビアの死にも責任がある人物です、なぜあなたはその人物を才能がある人物だなどと評することができるのですか」とトランプ大統領に問いかけた。
 トランプ大統領は、金正恩氏のことをあらためて「才能ある」人物と評したうえで、オットー・ワームビア氏の事件は残虐だった、と振り返った。トランプ大統領は、今年1月の一般教書演説の際に、ワームビア氏の両親を議会に招いて、紹介していた。そのこともあり、トランプ大統領は、ワームビア氏の両親を、自分の「友人」と呼び、賞賛をした。そして、その両親に自分は次のように説明したのだ、と述べた。
 「オットーがいなかったら、今日の出来事はなかった。オットーは、無駄に死んだわけではない。彼は、今日の出来事に、多くのことをなしたのだ。」
 これは、トランプ大統領が、612日に、絶対に言わなければならなかった言葉であったと、私は思う。そして、トランプ大統領は、言わなければならなかったことを、実際に、言った。とても重要なメッセージを、アメリカ国民に伝えた。
 「オットーは、無駄に死んだわけではない。彼がいなかったら、今日はなかった。」
 多くの論者が、今回の米朝会談に新しい要素はない、と評している。具体的措置が何も明示されていないという点では、全くその通りである。しかし、それでもアメリカ大統領が北朝鮮の最高指導者と会うのは、これが初めてだ。そしてアメリカ大統領が熱っぽく北朝鮮の最高指導者の人物描写をする様子も、われわれが初めて見る光景だ。
 トランプ大統領は、米朝関係に、人間臭さを持ち込んだ。今までの米朝関係に、このような人間臭さはなかった。
 
今回の米朝会談で達成されたのは、新しい概念でも、新しい文言でもない。そこだけを見れば、中身がない、という評価は、全くその通りだ。
 
しかし、トランプ大統領は、疑いなく新しいことをやっている。もちろん、成功するのか、失敗するのか、まだわからない。しかし、それでも、とにかく、トランプ大統領は、米朝関係に新しい要素を持ち込んだ。人間臭さ、という新しい要素を持ち込んだ。これは、今までのどのアメリカ大統領もやろうとはしなかったことだ。今回の米朝会談の評価を急ぐ必要はない。それよりも、われわれはまず、トランプ大統領が何をやっているのかを、理解してみるべきだと思う。

 いよいよトランプ大統領がシンガポールに入った。アメリカの大統領が北朝鮮の最高指導者と直接会談を行うという歴史的瞬間が近づいている。
 前回のブログで「日本の団塊の世代」についてふれた。http://agora-web.jp/archives/2032999.html 「団塊の世代」とは、いわば物心つく頃には朝鮮戦争が終わっていた世代の最年長組だ。日本にも韓国にも米軍基地があることを空気のように感じているので、たまにアメリカ大統領が横田基地を使ったりすると怒りだしたりする。アメリカ軍が見えないところで、永遠にどこかにいる、という前提を誰よりも強く抱えているからこそ、薄っぺらな反米主義を気取ってみたり、従米主義なるものを糾弾してみせたりする。
 こういった特徴は、1960年代安保闘争の頃くらいでも、まだなかったように私は感じている。集団的自衛権は違憲、などといったのんきな言説も、団塊の世代が学生運動をやっている最中に、米国を空気のように感じながら適当に厄介者にしておく、という風潮の中で生まれたものだっただろう。
 
しかし、構造的要因で生まれている条件は、容易には変化しない一方、あるときに一気に変わる。612日米朝会談で全てが変わることはないだろうが、その予兆を示す重要なことが起こる可能性はあるだろう。
 戦後一貫して存在していたが、実は政治的事情で生まれている人工的な現実を相対化してみるためには、歴史を見る、地図を見る、理論を見る、といった作業をしなければならない。
 
アゴラで新たに松川るい参議院議員のブログ転載が始まったようだ。http://agora-web.jp/archives/2033015.html 松川議員は、私が自民党参議院の会合で憲法の話をした際に、熱心に質問をしてくれた方だった。松川議員のような方は、外国の大学院でも訓練を受けているから、上記のような見方ができるだろう。
 私自身も、今までに何度か様々な媒体で北朝鮮問題について書いてきており、実は会談後にも、いくつかの論考を雑誌等に送る予定になっている。このブログでは、松川議員に歩調をあわせて、ただ一つのことだけ、述べておきたい。
 アメリカは北朝鮮にCVID(完全かつ検証可能で不可逆的な非核化)を求め、北朝鮮は体制保証を求める、というのが、会談の基本構図になっている。それは「立場」として全くその通りだが、もちろん、それだけではない。
 時間をかけて段階的に行われざるを得ないCVIDには、経費負担、経済支援、開発投資の話題が、密接にかかわってくるだろう。だが北朝鮮はすでに核開発に多大な投資をしている。すべてはそれに見合う「体制保証」の枠組みがあるかどうかにかかってくる。
 
体制保証の過程は、朝鮮戦争終結宣言によって、一つの新しい段階に至るかもしれない。しかしそれは本質的問題でも、最終段階でもない。朝鮮半島の問題は、朝鮮戦争によって生まれたものではない。朝鮮戦争は、朝鮮半島の問題の一表象である。朝鮮戦争が終わっても、朝鮮半島が持つ地政学的な事情に起因するが構造的な問題が消滅するわけではない。
 
「体制保証」の本丸は、在韓米軍の(縮小)撤退である。在韓米軍の撤退こそが、現実の実質的な「体制保証」であり、それ以外のものは、そうではない。在韓米軍撤退こそが、北朝鮮という特異な国家に「体制保証」を与えるという構造的な転換に見合う事態である。
 
もちろんこのような最終カードを、トランプ大統領が612日に切ってしまうということは、とても想定できない。しかしあるいはトランプ大統領の背広の奥底に潜んでいるカードが、交渉の過程で、ほんの少し、金正恩氏の視界に入るような瞬間が作られるかどうか。それは612日が終わっても、わからないだろうが、事態の展開の中で、引き続き論じられていくだろう。
 
612日を注意深く見守るために、われわれがまず気を付けておかなければならない。社会の老齢層が生まれた時から存在している空気のように感じられることでも、それが政治的な事情で生まれたことでしかないのであれば、いつか必ず政治的な事情の変化に応じて変わってしまう時が訪れる。そのことを、肝に銘じておかなければならない。

 6月4日は天安門事件の29年目の記念日だ。1989年当時、私は大学3年生だった。偏屈者が集まることで評判だった政治思想のゼミに通いながら、天安門事件や、同じ年の秋に発生する東欧革命のニュースを見た。その年の暮れに、私は、学者になろうと思った。天安門事件のことは、当時の様子とともに、鮮明に思い出される。未完の革命だった。もちろん今も当時も、中国で革命が起こる可能性は低い。しかし天安門事件を過小評価して、現代の中国人と付き合うのは違う、と私は思っている。
 そういえば今年の5月は、1968年フランス「5月革命」50周年であった。日本ではあまり話題にならなかったようだが、研究者層では、1968年は世界史の転換点だった、という評価が固まっている。その1968年の象徴が、フランス未完の革命である「5月革命」だ。
 高校時代に私は、よく学校をさぼって東京のはずれで映画を観たりしていた。安い料金で何本も観られる映画館に行ったりしていたため、寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』や『ウッドストック』の映画は、何度も観た。「1968年」の雰囲気は、私にとって、一つの不思議だった。大学に入って、フーコーやドゥルーズなどの「68年思想」とも言われる現代思想にふれて、1968年は、いっそう関心をかきたてるものになった。
 当時は村上春樹が一世を風靡した時代だ。1968年当時を舞台にした『ノルウェーの森』がベストセラーになったのが、私が大学一年のときだった。その中に、主人公の「僕」(ワタナベトオル)が、亡くなった友人「キズキ」に次のようにつぶやく場面がある。学生運動で大学封鎖をした連中が、運動熱が冷めると、きちんと授業に出たりしているのを見た後の言葉だ。
 
「キズキ、ここはひどい世界だよ」「こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ」

アメリカでは、1990年代に、ベトナム反戦運動に熱心に参加していたビル・クリントンが、大統領になった。イギリスでは、オックスフォードで熱心に学生運動をやっていたトニー・ブレアが、首相になった。パリ5月革命時に、パリ大学医学部で運動指導者だったベルナール・クシュネルは、早くも1971年に「国境なき医師団(MSF)」を設立して世界的に有名なNGOに育てあげた後、90年代前半には保健・人道活動大臣を務めた(後に外務大臣)。
 
1990年代に、人道援助、人道介入、平和活動、人権問題の話は、大きく広がった。世界の構造的矛盾に異議を唱えた世界各国の1968年世代の人々が、そこにいた。第一線で、活躍し始めていた。ロンドンでPh.D.を取得した私は、平和構築を専門にして学者としてやっていくことを決めた。
 
それにしても、日本の団塊の世代は、何をやっているのか。
 
まさか「立憲主義は政府を制限すること」と主張し、「モリカケのアベに憲法を語る資格はない!」などと叫び、テレビを見ながら「もう詰んだ」など言って、革命ごっこの気分に浸ることが、日本では1968年世代の習慣になっていないか。
 「
キズキ」に話しかける、「ワタナベトオル」のような気持ちになる。

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