「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

2018年07月

 76日のオウム真理教死刑囚の執行後に死刑制度についてブログを書いた。日本は死刑制度を持たない国際刑事裁判所の最大資金拠出国である、という書き出しの拙稿も『フォーサイト』さんに掲載していただいた。www.fsight.jp/articles/-/44013 すると掲載の翌日に、さらに6人の元幹部の死刑が執行された。

 日本は死刑制度を終身刑で代える制度に反対しているわけではないので、国内で死刑制度を持つことと、欧州諸国が中心になって運営されているICCの最大資金拠出国であることとの間には、何も矛盾はない。
 むしろ自信をもってICCのために国際的に動いたらいいと思うのだが、お金を出しているわりには人も口も出せていないだけでなく、そもそも日本国内でICCの存在を知っている人はほとんどいないのではないかという惨状は、なんとかしたい。
 アジア諸国のICC加入率は、著しく低い。そこにフィリピンが脱退を宣言している現状である。ICCの「普遍性」は、相当程度に日本や韓国(現在ICCの締約国会議長を担っている)によっても支えられている。
 AU(アフリカ連合)がICCに加盟しているアフリカ諸国に脱退を促す決議を出したのは、2016年末だ。その後、ブルンジが脱退しただけにとどまっているが、スーダンなどの捜査対象国だけでなく、ICCの外から国力を強めるエチオピアが強くICCを攻撃する立場をとっており、締約国であるはずのケニアも批判的な声を隠そうとしない。東部アフリカは反ICCブロックである。南アフリカの態度に左右される南部アフリカのICCへの姿勢は、揺らいでいる、といったところか。
 私は今、このブログを、ナイジェリアで書いている。https://www.facebook.com/hideaki.shinoda.73 ナイジェリアは、西アフリカの覇権的な地位を持つ人口18千万の大国だ。現在ICCの裁判所長を出している。ナイジェリアが親ICCであることも手伝って、西アフリカは明白な親ICCブロックだ。西アフリカは欧州に近いことが、欧州的な価値観の共有につながっていると言える。もっともビアフラ戦争の記憶もあり、ナイジェリアに対して欧州人は一般に厳しい目を向けることが多いようにも思う。
 資源も豊富で、2015年からは原油価格下落で停滞したが、それまでは驚異的な経済成長を記録していた。すでに昨年から回復基調に入ったナイジェリアは、一人あたりGDPでは3,000ドル前後とはいえ、国単位では世界30位のGDPを誇る大国である。私が専門とする国際平和活動でも、際立った存在感を持つ。
 ナイジェリアは、華々しい経済投資攻勢をかける中国に対して、堅実な姿勢をとっている印象もある。2005年、日本が国連安保理常任理事国入りをかけて真剣な外交努力をしていたとき、中国の圧力で他のアフリカ諸国が次々と離れていく中、最後まで日本を支持し続けてくれたのが、ナイジェリアだ。
 ボコ・ハラムの問題を北部に抱え、ギニア湾に海賊問題を抱える。中国との適正な距離感を保つためにも、価値観を共有しているはずの日本への期待は小さくない。
 ・・・憲法9条があるから、日本人はアフリカ人よりも卓越している、アフリカ人は日本を模倣すべきだ・・・、などと大真面目に信じるような態度は、もはや時代遅れという言葉もあてはまらにくらいに昭和的だ。
 もはやアフリカが、日本や欧州の避暑地のように感じられる時代だ。
 
日本の戦略的なアフリカへの関与を話すことができる場所が、日本国内にももう少し欲しい。 

  私立大学の方には申し訳ないが、国立大学では春学期の授業期間が終った。私が代表を務める広島平和構築人材育成センター(HPC)が実施する「平和構築・開発のためのグローバル人材育成事業」の新しい事業期間の立ち上げも重なり、忙しくて、ブログの更新も途切れがちになってしまった。https://www.peacebuilderscenter.jp/news/2018-07-11.html 

大学での学生たちの交流は楽しい。しかし、国際政治学者などをやっているので、GW以降2カ月以上日本を離れていないことが、すっきりしない。とりあえず日本から出ないと息苦しい。
 
飛行機に長時間乗っているのは苦痛ではないですか?と聞かれることがよくある。そんなことはない。むしろ国際線は楽しい。このブログでも何回か、機内で観た映画について書いたことがある。私のような文化的野蛮人には、TVスクリーンの前で椅子に縛り付けられている時間が、時折は必要なのだろう。
 
小澤征爾氏の斎藤記念オーケストラのコンサートフィルムを観た。2016年のコンサートなので、小沢氏は81歳か。座りながら指揮をしている時間も長く、楽章と楽章の合間には、一休みして水を飲む。しかし、それにもかかわらず、ひとたび演奏が始まると、驚くべきエネルギッシュな姿で高次元の指揮をする。
 
私は高校時代までミュージシャンになりたかったのだが、小澤征爾の甥である小沢健二のおかげもあって、馬鹿な考えを引きずることなく、人生を変えることができた。その頃、小澤征爾氏にも興味を持ち、『ボクの音楽武者修行』を読んだ。まだ戦後の混乱も終息していないような日本に生まれながら、クラッシック音楽のような業界で、どのようにして小澤征爾氏は世界有数の指揮者となっていくことができたのか。パッと考えると、よくわからないところがある。小澤征爾氏が日本を飛び出していく物語の『音楽武者修行』を読んでよくわかった、ということはないのだが、一つ感じたことはあった。
 
人生には刺激が必要だ、ということだ。自分の知らない世界に行き、知らない人と接し、知らないことについて考えてみたりしないと、人間は衰える。
 
あるいは将来が見通せないような状況、あるいは世界が一夜で一変してしまったような状況に置かれると、人間は疲労困憊してしまうかもしれないが、逆に恐るべき底力を発揮することもある。戦後直後の日本も、そういう環境にあった。
 
広島出身のミュージシャンが多いと言われる。統計処理をした研究を見たことがないので、本当にそうなのかは知らない。しかし被爆二世で壮絶な幼少期を過ごした矢沢永吉氏の『成り上がり』を読んだことがある人であれば、それは不思議ではないのかな、という気がするのではないか。
 
現代日本でも才能ある若者がたくさんいる。彼らに十二分な刺激が注ぎ込まれれば、次々と天才が生まれ、たとえ人口が減っても、日本は衰退しないだろう。
 
だが、本当に大丈夫か?と考えてしまう実情がある。「内向き」日本に閉塞感が蔓延している。ムラ社会のいざこざのようなケンカが続いている。毎日毎日、別のムラの住人の悪口を言って罵りあうだけの生活を送っているような人もたくさんいる。
 
みな時折は、椅子に縛り付けてもらって、無理やりにでも「天才」のパフォーマンスを見て、新しい刺激を受けたほうがいいのではないか。

 この週末は荒れたものになった。豪雨の被害のニュースは胸が痛む。特に私は広島に長く住んだことがあり、今でも愛着があるため、いっそうそうだ。
 また、豪雨の中、オウム真理教の死刑囚たちの刑の執行が行われた。これも大きなニュースになった。1995年の地下鉄サリン事件当時、私は留学先のイギリスにいたが、欧州のメディアでも大きく取り上げられていたことは鮮明に覚えている。そのため欧州の人々も、今でも事件をよく覚えているだろう。
 そこでEU諸国は、死刑執行の報に接し、被害者への同情を表明しつつ、死刑制度への反対を表明し、つまり死刑執行を批判した。
 
違和感が残るのは、EU諸国の動向を伝える記事に「戦後最大規模の死刑執行、世界に衝撃 非人道的と批判も」という題名をつけるときの「世界」という概念の使い方だ。https://www.asahi.com/articles/ASL766R87L76UTIL055.html?iref=com_rnavi_srank

 「世界」ではなくて、「欧州諸国」だろう。
 76日、大雨災害とオウム事件死刑囚の死刑執行と同じ日、「リンちゃん事件」の犯人に「無期懲役」の判決が出された。ベトナム人のご両親は、死刑判決を求めて署名運動をしている。http://partime.biz/shike/ 欧州諸国が「世界」であって、ベトナムや日本は「世界」ではない、ということはない。
 もちろん世界の半数の国々で死刑制度は廃止されている。それに加えて、心情的に廃止に近く、事実上の執行停止をしている国々も多い。とはいえ、欧州以外の地域では、対応は分かれている、という言い方もできる。イスラム圏で死刑制度が廃止になる見込みはない。
 
私自身、平均的な日本人とともに、死刑制度を容認する気持ちを持っている。だが「世界」に反しているとまでは思わない。そういうふうに単純に世界を「白黒」で分けるような問題ではないのだ。
 欧州に行けば、死刑制度廃止は、常識である。私は、そういう欧州人が嫌いかと言えば、そんなことはない。欧州人は付き合いやすいし、欧州は住みやすいし、今は日本より豊かだ。欧州には、実力がある。ワールドカップもベスト8から欧州勢だけになってしまった。寛大な移民政策と自由主義社会の魅力のなせるわざだ。価値観の共有は、統合力のある欧州の強さの源泉だと言ってもいい。
 私は死刑廃止論者ではないが、アムネスティの会員である。死刑廃止の点だけをとって、アムネスティの行っている素晴らしい活動を否定するのは、馬鹿げている。というか、死刑を容認するからといって、死刑廃止論者の意見を劣ったものとみなすのは、馬鹿げている。人間の命を奪う行為に、単純な黒白があるはずがない。
 死刑廃止論というのは、実は、「終身刑」導入論のことである。「死刑」の代わりに「終身刑」を課すべきだ、というのが、実は欧州諸国における死刑廃止論と呼ばれている思想のことである。どちらがいいのか。よくわからない難しい問いだと思う。
 
問題なのは、議論の構図そのものが日本ではよく理解されていないことだ。日本の「法律家共同体」は、議論を深めるために、努力を払っているだろうか。「世界」は死刑廃止なのに、日本は「世界」から外れている、ただし「法律家共同体」だけは「世界」と一緒にいる、といった話になっていないだろうか。
 
日本国憲法はフランス革命によって成立した、護憲派であれば「世界」と一緒だ、改憲派ならナチスの再来だぞ、みたいな話に持っていこうとしていないだろうか。
 
日本には「終身刑」がない。結果として、大きな矛盾を作り出していることは、周知の事実だ。「無期懲役刑」では、実際には、30年くらいすると、仮釈放されてしまう可能性がある。理論上は、更生の可能性があるから「無期懲役」なのだが、実態としては一人の殺人だけだと死刑にならずに「無期懲役」になる、という習慣になってしまっている。
 
殺したのが一人か、二人か、という機械的な算術で、「無期懲役」と「死刑」の差に振り分けるのが、日本の「法律家共同体」の「良識」となっているのだ。はっきり言って、優れた習慣だという気はしない。
 憲法9条をめぐる「法律家共同体」の「良識」と同じである。何のことはない。同業者だけの内輪で談合のように習慣を決め、その習慣から逸脱する者には人事上の不利益という制裁を加えるという仕組みで、司法界だか学界だかの権力構造を維持し、権力者が権力者のままでいられるようになっているだけだ。
 だが実態としてそういう習慣もあり、日本で死刑制度を廃止するのは、難しい。まずは終身刑を導入してみたら、大きく変わるところもあるだろう。「無期懲役」が減るだけでなく、「死刑」も減るはずだ。死刑制度を廃止する前に、実態として死刑判決を減らすことができる。とすれば、「死刑廃止」と叫ばず、「終身刑導入」を着実に説明してみたらどうか。
 
実は憲法9条も同じだ。まずは9条を廃止にしなくても、「世論に沿った良識」を働かせて、憲法制定趣旨にそった運用または解釈確定のための改憲をすればいい。つまり自衛権の行使を認め、その行使主体の合憲性を明示する国際法に沿った憲法の運用または解釈確定をすればいいのだ。
 
しかし、「法律家共同体」の「良識」は、そういうふうには働かない。「法律家共同体の良識」は、そういう柔軟対応を認めない。「護憲派」ではないとなれば、もう即座に「ナチスの再来」「ヒトラーに酷似」「戦前の復活」「いつか来た道」、要するに「軍国主義者」か「三流蓑田胸喜」、せいぜい「従米主義者」だと糾弾し、全否定を加えなければならない。
 
以前にも書いたことがあるが、法律家の方が率先して「I respectfully disagree」と言ってくれる社会にはならないものか。http://agora-web.jp/archives/2029005.html

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