「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

2019年05月

 川崎市登戸の殺傷事件に大きなショックを受けた。私は、高校まで、川崎市多摩区の学校に通っていた。登戸駅は数限りなく使ってきた。しかも、亡くなられた小山智史さんは、私が勤める東京外大の卒業生だ。他人事とは思えない。あまりに悲しい。

 事故現場に行って、献花し、ご冥福をお祈りした。他にも沢山の人が花を捧げ、合掌していた。https://www.facebook.com/photo.php?fbid=2289045054543577&set=pcb.2289048127876603&type=3&theater

 そこで感じたことがある。他のコメンテーターが言っていないようなので、声を大にして言いたい。亡くなられた小山智史さんは、「英雄」と呼ぶべき存在なのではないか。

小山さんは、たとえば911のときに、テロリストに抵抗し、4機目の攻撃を防いだユナイテッド航空93便の乗客たちのように、アメリカなどだったら、「英雄(hero)」と呼ばれるだろう人物なのではないか。https://www.afpbb.com/articles/-/2826130?pid=7750512

小山さんは、犯人から、まずまっ先に刺されたという。犯人は、子どもたちの列を狙っていたにもかかわらず、小山さんから襲った。犯人は、抵抗されると厄介な男性の保護者から狙ったのだ。

現場で死亡した小山さんには、4か所もの刺し傷があったという。複数回刺されたのは小山さんだけだったようだ。まず真っ先に背中から刺されたにもかかわらず、さらに3か所もの刺し傷があったのは、小山さんが、犯人を止めようとしたからではないか。「子供を必死に守っていたことがうかがえます」、という証言も報道されている。少なくとも小山さんの存在が、数秒間の間、盾となった。瞬間の違いであったかもしれない。それにしても、子どもたちが逃げ始めることができるように、小山さんが、犯人を引き寄せた時間帯があった。傷を負ったが、致命傷は避けられた16人の子どもたちにとって、その時間帯は、大きな意味があったかもしれない。犯人による19人に対する22回の攻撃のうち、最初の4回までが小山さんに対するものだった。攻撃の18%までを、小山さん一人が受け止めたのだ。

小山さんの娘さんは無傷で助かっているという。それを知って、小山さんは、天国で安堵していることだろう。霞が関に出勤する前に、世田谷の自宅から反対方向の川崎市まで来て通学に付き添って良かった、娘を守ることができた、そう天国で思っていることだろう。

栗林華子さんが犠牲になってしまったことは、小山さんにとっては痛恨の極みではあるだろう。しかし、もし小山さんがいなかったら、もっと恐ろしい事態になっていたはずだ。

小山さんのお嬢様に申し上げたい。

「お父様は英雄です。もしお父様があの場にいなったら、もっと犠牲者がたくさん出ていたと思います。お父様の英雄的な行動が、たくさんの命を救ったと思います。もしお父様が、スクールバスを一緒に待って並んでくれていなかったら、そして貴方を守り、多くの人々を逃がすために、素手で盾になって犯人に時間を使わせていなかったら、もっと沢山の命が失われていました。多くの人々が、貴方のお父様を決して忘れず、感謝し続けていきます。お父様を誇りに思い続けてください。貴方のお父様は素晴らしい英雄です。」

安倍首相は、子どもの通学路の安全確保を点検するように指示したという。それを受けた官僚たちが、一人で登下校しているケースがないかチェックした、などという報道もあった。

情けない。

なぜ集団でバスを待っていて列を作っていた子どもたちが襲われたのに、一人で登下校している子どもがいないかチェックして、「私は仕事をしました」などと言おうとしている官僚がいるのか。同じ官僚の仲間が、4か所もの刺し傷を受けながら、捨て身で子どもたちを守ろうとしたというのに。

欧米と比して、日本の子どもたちは脆弱な状態で登下校している。日本では集団登下校が推奨されている反面、保護者の送り迎えがほとんど行われていない。https://www.kiritachiakari.com/children-walking-to-school-with-parents-or-alone/ 

むしろカリタス学園は、素晴らしかった。最後に犯人を立ち去らせたのは、勇気あるバスの運転手の行動だった。また、小山さんと、もう一人の重傷を負った女性の方の二人の保護者で、攻撃の最初の23%を受け止めた。

保護者による子どもたちの送り迎えの体制を整え、奨励するべきだ。そして、できる限り子どもの保護者からの引き渡し及び保護者への受け渡しを、確証していくべきだ。「働き方改革」の議論の中にも入れ込んでいくべきだ。

そう言うと、「保護者が送り迎えできない子どもがいたら可哀そう」、「ローテ制になって一部の親だけに負担がかかるのではないか」、などと言う人が現れるのだろう。

しかし、それは悪平等を基準にした間違った考え方だ。

4か所も刺されて犯人の攻撃の最初の18%を受け止めてから遂に倒れた小山さんという一人の保護者が、ぎりぎりの状況の中でも救った命があったことを、よく想像してみるべきだ。

仮に保護者が迎えに来てくれない子どもがいるとしても、その他の子どもの保護者がいる方が、誰もいないより良い。

小山さんの英雄的行動を、無駄にしてはいけない。

 トランプ大統領が令和最初の国賓として来日中だ。「おもてなし」の度合いが話題になっているようだ。「属国論者」がこの機会を喜んでいるはずがないのは、想像するまでもない。

昨今は「日本は米国の属国だ」をテーマにした本が何冊も出ていて、プチブームのようになっている。米国を特別待遇することを感情的に許すことができない層の人々が、高齢者層であるかどうかは知らないが、日本に一定数いるのは確かなようだ。トランプ大統領の来日とは無関係に、とにかく日本はアメリカの属国、と主張する「属国論者」の方々である。

 だが日本にとってアメリカが特別な国であることは、誰でも知っている端的な事実だ。ほとんどの国民は、それを知っている。それが嫌なら、中国にお世辞を使って上海協力機構に入れてもらったり、欧州人にお世辞を使ってEUやNATOにでも入れてもらったりするなどの代替案を考えければならない。それらがいずれも現実離れした代替案でしかないことを、国民のほとんどは知っている。

 トランプ大統領は、日米の「特別な関係」を発信し、「歴史的時期に唯一の主賓」などと語ってくれている。アメリカ人の多くが、米中間の「新冷戦」の不可避性を語る緊張した時期に、そのように言っているのである。国力が停滞し、未曽有の人口減少時代に突入し始め、韓国との間の深刻な関係悪化を抱える日本に、アメリカの大統領がそう言っているのである。それが日本にとっていいことか、悪いことかと言えば、シンプルに、いいことだ、と考えざるを得ない。

ついでに日本への外国人観光客が増えるような見せ場を作って副次的な効果を狙うのも、理にかなっている。

 安倍首相は、トランプ大統領との長時間のゴルフについて「きつくなかったですか」と聞かれ、「アメリカの大統領からもうハーフやろうって言われたら断れないよ。別にそこまでゴルフが好きじゃない。日本のために必死でやったんだよ」と答えたという。https://www.fnn.jp/posts/00046112HDK

 シンプルすぎる発想だろうが、間違ってはいない。

 やはり物事は最後にはシンプルに考えるのが、とりあえずは一番強い。

野党側も、数が限られた特定の投票者層だけではなく、国民の大半に届くシンプルなメッセージを持っていくことを、もう少し考えてみるべきだろう。

 丸山穂高議員の「戦争」発言が大問題になっているか、私が見たコメントの中では、自民党の石破茂・元幹事長だけが、国連憲章24項の武力行使禁止に言及した評価を書いていた。http://agora-web.jp/archives/2039087.html 大変に適切な態度だと思ったので、私もコメントしておく。

 丸山議員の発言を、「憲法違反」として断ずるコメントが多い。しかし丸山議員の発言は、「憲法を変えて戦争ができる国にするしか北方領土は奪回できないと思いませんか」、という趣旨の質問だったようにも見える。「憲法を変えると戦争ができる国になる」という護憲派・野党系の主張を、そのまま使った考え方だ。

 しかし憲法を変えたからといって、日本だけが戦争ができる国になることはない。他国と同様、国際法における武力行使禁止原則を守り続けなければならない。

 それでは国連から脱退したらどうなるかというと、憲章24項はすでに慣習法化していて一般国際法原則になっていると考えられるから、無駄だ。戦争は国際法違反である。

 石破氏は、「(丸山議員)のような人が国家公務員として経産省に奉職し、国会議員を務めていたことにも驚きを禁じ得ません」と書いているが、私に言わせれば、こういう経歴の人が、一番の国際法音痴である。なぜなら公務員試験や司法試験を勉強した時代に、芦部信喜『憲法』のような憲法学通説を盲目的に信じてしまっているからである。「国際法では戦争が許されているが、憲法9条だけが戦争を否定している」などと、覚えこまされてしまっている。芦部『憲法』における似非国際法の記述で、国際法を知っていると主張する厄介な人々である。

 それでも最近では公務員試験では国際法の比重が高まってきていると聞くが、司法試験では相変わらず選択率が1%ちょっとで、次の改革では廃止されるらしい。国際法学会が反対声明を出しているが、ニュースにはなっていないだろう。https://jsil.jp/wp-content/uploads/2019/02/statement20190131.pdf

 国際法については、日本では法律家・公務員(出身者)は信用できない、ということを、この機会に付記しておきたい。

 池袋老人暴走事件の遺族の方の会見があった。事件から一カ月たち、「生き地獄」と描写した状況を伝えてくれた。https://www.youtube.com/watch?v=lwwu59i9TTI

 会見を開いた遺族の方の勇気に感銘を受ける。悲しいことだが、こうした現実が、この事件の不条理を物語っている。こうした現実も知られていくべきだ。敬意を表する。

 俳優の風見しんごさんのように、継続して事故と向き合って伝え続けてる方もいらっしゃる。https://gozzip.jp/28755/ だが突然の事故に遭遇した一般の方には、こうした方法もとれない場合が多いだろう。

 裁判も終わらないどころか、うっかりすると始まらないうちに、加害者のほうはこの世界から去る。https://www.daily.co.jp/gossip/2019/05/16/0012335710.shtml それなのに被害者のほうが取り残され続ける。  https://blogos.com/article/376643/  数多くの戦争、犯罪、災害、事故の不条理の度合いに程度の違いがあるとは言えないが、老人暴走事件にわれわれが受ける不条理感は、半端ではない。http://agora-web.jp/archives/2038727.html

 大津市の園児殺傷事件の際の記者会見のあり方をめぐって、マスコミ批判が巻き起こった。「国民の知る権利」なるものを持ち出す識者の方々もいた。正しくは「伝える義務」のことだろう。権利あるところに、義務がある。マスコミは権利行使の代行者というよりも、社会的に意義あることを伝える「義務」の遂行者のはずだ。「国民」などといった集合的な他人の権利の代行を言うのであれば、マスコミの「伝える義務」をどう継続的に果たしていくか、メディア関係者には、そういう正しい「義務」の遂行方法を、考えていってほしい。

 少子高齢化社会では、統計的には、相当程度の蓋然性で、類似の事故が増えていくのだ。池袋暴走事件の一度の報道で、日本全国の老人たちが、事故を起こさない人間に生まれ変わっていく、などいうことは、決してない。継続的に「伝える義務」を果たす方法を考えていかなければならない。

 遺族の方々は、人生の意味を見出すために苦闘していく。https://inochi-museum.or.jp/information もちろん遺族の方々の迷惑になることについて「知る権利」も「伝える義務」もない。しかし遺族の方にとって意味があることについては、今後も継続して伝えていく「義務」が、事件を報道した者には、今後も存在し続けるのではないか。 

 池袋の老人暴走殺傷事故や、大津市の園児殺傷事故などを見て、それらに反応する文章を書いた。http://agora-web.jp/archives/2038517.html http://agora-web.jp/archives/2038727.html http://agora-web.jp/archives/2038898.html 

 専門外の素人の文章だ。ただ、人に見せる文章であるからには単なる感情論だけではよくないと思い、老人暴走にはどういう特有の問題があるのかを考えながら書いてみた。大津市の事件では、被害者を尊重するための記憶の継承について書いてみた。

 もちろん私の文章は、素人の話だ。それ以上のものではない。

 しかし正直、唖然とするのは、専門家と思われる「識者」の人々のコメントを見るときだ。

 「暴走した老人を責めるだけではダメだ」

 「高齢者全員から免許取り上げろというのはダメだ」

 「マスコミを責めるだけではダメだ」

 「マスコミの人間が全部ダメだと言うのはダメだ」

 「ネットに感情的なコメントをするだけではダメだ」

 ダメ、ダメ、ダメ、・・・とにかく突き放して見ていなければ、君はネトウヨだ、私は違うよ、だから私は専門家だ。

 これって、少子高齢化社会の日本を停滞させるために繁殖しているという、あのダメ出し上司の姿ではないか。

 「解決策は、自動運転車の開発を待って普及させることだ!(・・・どれくらいの時間が開発にかかるか、普及するのか、そんなことを考えるのは私の仕事ではないし、それについて私には何も責任がない)」

 「対応策は、交通事故には十分に気を付けるように保育園に通達を出すことだ!(・・・気を付けると何をすればいいのか、そんなことを考えるのは私の仕事ではないし、それについて私には何も責任がない)」

 こういう発想だけで生きている人こそが、「若者よ、もっと政治に怒れ」、みたいなことを言いながら、いつも周囲にカリカリした雰囲気をまき散らしているのではないか?と疑わざるを得ない。

 いつから日本は、こういう緊張感も責任感もない紋切り型だけの人物のことを、わざわざ専門家だとか識者だとかと呼ぶようになってしまったのだろうか。閉塞感が漂う。


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