「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

2019年09月

  石破茂氏による「国際法における『軍』など」と題された記事を見た。http://agora-web.jp/archives/2041771.html?fbclid=IwAR3eGDB0mdJKmcH3Fi2v84iNviJZA09H0qWKKyuxrauAX7CQH5SGwPP7px4 憲法改正をめぐる議論もかなり行き詰まってきたな、と感じる。自民党の中ですらこの状況なのだから、憲法改正の可能性は低いと見積もらざるを得ない。

 石破氏は、「自民党総務会において正式に党議決定された自民党案」に固執する。正直、この野党時代の自民党の「自民党案」こそが、改憲反対派に勢いを与えてしまっている代物である。

石破氏は、次のように述べる。

――――――――――――――――――

「『軍』は本来、三権以前の自然的権利である自衛権を体現する。よって、国内法執行組織である行政と同一ではない。ゆえに「文民統制」と言われる、国民主権に依拠した司法・立法・行政による厳格な統制に服さなければならない」

これが国際的な常識であり、国際社会においては至極当然のことなのです。我が国の憲法はこの国際的な原則をまったく無視して作られています。「自民党案」が提起しているのは、すでに我が国に定着している「自衛隊」のあり方を、このような国際的な原則に合致できるように改正しよう、ということなのです。

―――――――――――――――

石破氏は、「三権以前の自然権的権利である自衛権」という特異な概念が「国際的な常識」だと主張する。大変な主張である。これは少なくとも説明を施すべきである。しかし石破氏は何も根拠を示さない。

国連憲章51条は「個別的又は集団的自衛の固有の権利(inherent right)」を定めている。しかし国連憲章制定以前から存在した権利としての自衛権の存在については、「慣習法」を言えば足りる。そもそも「条約」と「慣習」だけが国際法の二大法源である。果たしてその二つの法源で成り立っている国際法のどこに「三権以前の自然権的権利である自衛権」が「国際的な常識」であると断言するための根拠があるのか。

石破氏によれば、「軍」は「三権以前の自然権的権利」を行使するがゆえに「文民統制」に服さなけばならないのだという。自民党憲法改正案は、内閣総理大臣を「国防軍」の「最高指揮官」とする。https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf 石破氏によれば、「軍」は「行政権」の一部ではないが、「文民統制」をかける必要から、やむをえず行政府の長である内閣総理大臣を借りてきて「最高指揮官」に据えておく、ということであるらしい。内閣総理大臣は、いわば借り物の「最高指揮官」だ。石破氏によれば、「行政権」と「軍」は別のものだが、「軍」を統制するためには、別組織の長を借りてきて、「最高指揮官」と名乗らせなければならない、ということであるらしい。「軍」にとって「最高指揮官」は借り物でよそ者なのである!

ということは、防衛大臣もよそ者の行政権からの借り物なのだろうか。となると防衛省という組織も行政権からの借り物なのだろうか。大変な事態だ。

これはどう考えても、石破氏は、戦前の大日本帝国憲法の「統帥権」時代の発想で「軍」を考えている。つまり大日本帝国憲法こそが、「国際的な常識」だ、と主張しているのである。大変な事態である。

自民党改正案は、様々な面から様々な批判を浴びている。石破氏の主張する「国際的な常識」の観点から、自民党改正案の特徴を一つ指摘するならば、「国」の概念の斬新な導入である。たとえば自民党憲法改正案の「9条の3」は、次のように定める。

―――――――――――

国 は 、 主 権 と 独 立 を 守 る た め 、 国 民 と 協 力 し て 、 領 土 、

領 海 及 び 領 空 を 保 全 し・・・

――――――――――――

「国」という存在が、「国民」と切り離され、全く別の存在として、「国民」と「協力」して、自衛権を行使するのだと言う。

主権者である「国民」と切り離され、別個の存在として並置される、この「国」というのは、いったい誰のことなのか?

自民党憲法改正案は、「国」が誰なのかについて、明確には説明していない。石破氏も、説明しない。ただ主権者である「国民」と併存関係にある「国」こそが、「三権以前の自然権的権利である自衛権」を行使する、それが「国際的な常識」だ、と石破氏は主張する。全く根拠を示さないまま、石破氏はそのように主張する。

なお現行の日本国憲法には、「国民」と並列関係にあり、「三権以前の自然権的権利である自衛権」なるものを保有する、謎の神秘的存在である「国」は、存在していない。

石破氏の主張は、現行の日本国憲法の概念枠組みを根底からひっくり返す革命的な主張である。ところが根拠が不明なのである。

石破氏は、一部の憲法学者のガラパゴスな議論に騙されて、日本の憲法学通説が依拠している時代遅れの19世紀ドイツ国法学の枠組みを「国際的な常識」と誤認してしまい、大日本帝国憲法時代の「統帥権」や「統治権」の概念を復活させることこそが「国際的な常識」だと考えてしまっているのではないか?

石破氏は、ガラパゴス憲法学通説の絶対無謬を信じる者だけが憲法改正を主張することができる、と思いつめてしまい、日本国憲法を大日本帝国憲法に戻すことが「国際的な常識」にそうことだ、などという誤解をしているのではないか?

自民党の有力議員が、こうした「ちゃぶ台返し」的な憲法論を主張しているのだとすれば、これはやはり憲法改正は困難を極める。これでは現行憲法の解釈論の混乱すら、収拾できない。

石破氏に、日本の憲法学の通説=絶対無謬、という世界観から離れるように働きける方法はないものだろうか。

 

https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=sr_1_1?qid=1569690919&s=books&sr=1-1

 先日、「安倍・ロウハニ会談こそが、日韓対立克服の試金石」という題名の記事を書いた。日本にとっても意義があるということを書いた。http://agora-web.jp/archives/2041587.html 

だが、それでは、ロウハニ大統領との会談それ自体に何らかの突破口があると言えるのか?本当はそこが問題だ。

 「イランさん、もう少しアメリカの言うことを聞いてくれませんか?」と誘っても、のってくるはずはない。イランは制裁対象となって経済的には苦しいとされているが、そんなことは通常の選挙民主主義国とは違って、政治指導者層には大した問題ではない。制裁解除がレバレッジになると考えるのは無理だろう。

 おそらく重要なのは、イエメンである。安倍首相は、どうやって効果的に「イエメン」という単語を口にするか、よく考えるべきだ。

イエメンの「フーシー派」の名前は現在、サウジアラビア東部州石油施設攻撃の主体であったかどうかだけで日本のニュースで言及されている。極めて視野が狭い。

イランを糾弾するアメリカのポンペオ国務長官の糾弾に対して、ザリフ・イラン外相は、イエメンの窮状の写真を掲載して対抗した。https://twitter.com/JZarif/status/1174002704483520514 イエメン情勢に関心を払わないアメリカが、サウジアラビア石油施設への攻撃でオロオロしてイランを批判しているのは茶番だ、という指摘である。イエメンではアメリカを後ろ盾とするサウジアラビア主導の連合軍が軍事介入し、イランを後ろ盾とするフーシー派がそれに対抗して、サウジアラビアに攻撃をし続けている。

実はアメリカでも民主党主導の議会は、イエメン情勢を憂い、サウジアラビアに対する武器供与をトランプ政権にやめさせる決議を出している。トランプ大統領が拒否権を発動しているだけだ。イランの立場には説得力がある。

もちろんイランは人道的な理由だけでイエメンを見ているわけではないだろう。だがそれも含めて、イエメンの重要性を、ロウハニ大統領との会談にあたっては、まず強調すべきだろう。

フーシー派が、事実上の停戦提案を、サウジアラビア側に対して出した。極めて注目すべき動きだ。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190921-00000027-reut-asia 

湾岸諸国がフーシー派の駆逐を、もはや非現実的な目標だとして断念するかどうかが問われている。フーシー派の存在の認知こそがサウジアラビアを含めた湾岸諸国の安全を保障する措置である、イランに圧力をかけても何も進まないぞ、という示唆は、強力だ。

サウジアラビアとイランの関係に関して言えば、シリアよりも、イエメンのほうが、重要である。イエメンにおけるフーシー派の存在を認める国際社会の流れは、イランに対する大きなレバレッジになる。

もちろんムハンマド・ビン・サルマン皇太子(MBS)が主導する形で引き起こされたサウジアラビア主導のイエメンへの軍事介入は、簡単には終わらないだろう。日本がMBSを説得できるはずもない。しかし、MBSがイエメンでフーシー派を完全駆逐できると今でも信じているとも思えない。日本がイランと対話できるのは、イエメンに関して中立的であるからだ、とも言える点を、よく認識するべきだ。

アメリカとイランを直接対話させるなら、イエメン和平の国際会議を開き、両者が参加する形をつくるしかない。もともとイエメン情勢を度外視して、アメリカがサウジアラビアと対立するイランと交渉して成果を出す状況など、想像できないのである。

 安倍首相が、今月下旬にニューヨークで行われる国連総会に合わせてイランのロウハニ大統領と会談するという。極めて勇気ある行動だ。事の重要性は認識しているだろう。それでもあえて挑戦しようとする意気込みは、率直に評価したい。

 現在、日本は韓国との緊張関係を強めている。しかし中東情勢の緊迫度と比べたら、比較の対象にならない低次元の対立である。

重要なのは、日本が国際社会の重大問題を理解している国であるか、低次元の身の回りの出来事だけしか目に入らない国であるか、だ。世界の国々が、日本を前者の国だと思うか、後者の国だと思うか、が重要だ。それが結局、日韓対立の主戦場である国際世論対策にも、大きな意味を持ってくることになる。

もし日本が前者であることが明らかであれば、つまり世界平和への貢献を常に考えている国であることが明らかであれば、世界の国々は、必ず20世紀前半の歴史の問題などで日本を責めることなどしなくなる。もし日本が後者の国であるとすれば、世界の国々は、日本の主張に対して、関心を持たないだろう。

安倍・ロウハニ会談は、日本が前者の国であることを世界にアピールする絶好の機会になる。つまり近隣諸国との低次元の争いのみを他国に訴えるような国ではなく、世界の深刻な問題について苦悩し、改善に努力している国であることを示す、絶好の機会になる。

成果を出すのは、簡単ではない。

914日にサウジアラビア東部州の国営石油会社サウジ・アラムコの石油施設が攻撃を受けた事件は、日本では「原油価格の上昇がどれくらいか」、といったレベルでしか受け止められなかったようだ。あるいは、「テロ攻撃でドローンが使われるなんて新しい時代の到来だ!」などといった時代錯誤な観察まである。「イエメンのフーシー派」って何?のような、そもそも論も見受けられるようだ。

原油価格の上昇は、今後の中東情勢の進展次第だ。今どきはソマリアのアルシャバブでもドローンを保有している。「フーシー派」は、軍事用ドローンを大量保有しているし、繰り返しサウジアラビアを攻撃しているし、バブ・エル・マンデブ海峡を航行する船舶への攻撃も繰り返している。「フーシー派」の後ろ盾はイランであり、イラン製の武器でサウジアラビアをはじめとする連合軍と戦い続けている。実行犯が「フーシー派」であるかイランであるかという問いは、決して簡単に答えが出せるものではない。

米国は、今回の事件を通じて、イランへの圧力を強めようとしている。圧力の強化が、事態の打開に必要だと信じているからだ。しかしマティスもボルトンもいないトランプ政権は、ツィッターで脅かすだけで何も行動しない弱虫だと見なされ始めている。

欧州諸国は、今回の事件への対応の重要性を強調しながら、2015年核合意の状態に戻すことこそが事態の鎮静化のカギだという認識を持ち続けている。しかしアメリカを説得する方法は全く見出せていない。

イランは、事件への関与を否定しつつ、イエメン戦争における甚大な被害を容認し続けているアメリカの偽善を国際世論に訴えている。アメリカとの直接交渉に臨むことは、ありえない。だが制裁から抜け出す手立てを知っているわけではない。

ロシアのプーチン大統領が「サウジアラビア政府もロシア製のS-400地対空ミサイルシステムを購入すべきだ」という強烈な皮肉を述べたのは、米国製の兵器群が、今回の攻撃では無力であったことを揶揄してのことだが、近年のロシアの中東における影響力の高まりは目覚ましい。中国も同様に浸透を深めている。

さらに中東情勢は、イスラエルの総選挙の結果や、サウジアラビアのイエメン軍事介入の態度の如何によって、情勢は大きく変化していく。

それぞれが、自らの国際情勢分析を基盤にして、外交政策を構築しようとしている。

そこに日本はどう食い込むのか。

アメリカの同盟国であり、イランの友好国でもあることを自任する日本は、国際情勢の好転に、どう貢献するのか。

もし日本の首相が、イランのロウハニ大統領と会談した後、中東情勢については全く無知で関心を持っていないような態度を示したら、破滅的だ。

もし日本の首相が、頓珍漢なアメリカ寄りの態度や、的外れなイランへの懐柔姿勢を見せたら、破滅的だ。

もちろん起こりそうもない机上の空論を述べるわけにはいかない。そこまでは誰も日本に期待しない。しかし何も考えていない国であるかのように見せるわけにはいかない。

アメリカかイランのどちらかが譲歩したら、事態が打開できる、といった子どもじみた発想だけは、禁物である。アメリカもイランも、簡単に相手に譲歩できる状態にはない。

それでも日本は、双方の最低限の利益を計算して、最悪の事態を避けるための有効な一手を打つことができるのか。

誇張でもなんでもなく、会談の成果によって、日韓関係の緊張問題にも、大きな影響が及ぶだろう。注視したい。

 いま欧州に来ているため、イギリス政治の混乱を間近で感じる。この混乱はブレグジットに関する国民投票から発生したのだが、改めて思うのはむしろ、首相解散権の持つ機能だ。イギリスは、首相から解散権を奪うという実験を行った。そのため失敗しているのだ。
  2011年議会任期固定法は、内閣不信任決議に対する解散権行使か、下院の3分の2以上の賛成による自主解散によってしか、議会が解散されないことを定めた。つまり首相から議会の解散権を事実上取り上げた。 2010年のイギリス下院選挙において、どの政党も過半数の議席を獲得することができず、「ハング・パーラメント」の事態が起こったとき、保守党が自由民主党に譲歩して連立政権をつくるために実施を約束した措置だ。
 首相に解散権がない場合、首相は議会に妥協し続けるしかない。素朴な単純理論では、首相は議会の多数派の信任を得て首相になっているはずではある。しかし実際には、議会の多数派が、個別の政策では首相に反対するかもしれない。最悪の場合、今回のブレグジット騒動が劇的に示したように、首相に反対する点で大同団結する議会の多数派が、実際には政策的な統一性を全く持っていない場合すら起こりうる。その場合、どこにも政策を調整する原理が働かないままの状態が続く。政策の実効性を確保するために「議会を解散して民意を問う」という手段がとれないために、何も決められない状態が延々と続いてしまうのである。
 ブレグジットに関する2016年国民投票は、2011年の議会任期固定法の一つの論理的帰結であった。2015年に行われた総選挙の際、デービッド・キャメロン首相は、EU離脱の是非を問う国民投票を行うことを公約してしまった。理由は単純で、保守党内部のEU離脱派の支持がなければ、保守党もバラバラで、政権維持ができなかったからである。
 伝統的なイギリス政治の考え方に沿って言えば、国民投票ではなく、EU残留の是非を問い直す解散総選挙を行うべきであった。しかし解散権を奪われたキャメロン首相には、それができなかった。そこで首相が首相としての議会の信任を確保するためには、重要事項の決定を国民投票に回して誤魔化すしかなかったのである。
 2011年議会任期固定法によって生じた国制(憲法)改革は、実際には残存する議会主権や議院内閣制の考え方と整合性のないものだった。そのため矛盾が顕在化したのが、2016年国民投票であり、それに引き続く収拾不能な混乱であった。
 日本においても改憲論議の中で、立憲民主党が首相解散権の制約を提案している。首相解散権は、議院内閣制の枠組みの中で三権分立を図るために、近代議会政治の中で培われて発展してきたものだ。「アベ政治を許さない」勢力の支持固めの発想だけでなく、各国の様々な実例をふまえた慎重な検討をしてほしい。(そもそも本来は、野党第一党には政権交代を目指してもらうのが王道であり、あたかも第三党のように首相解散権を制約して議会の現有勢力の確保を優先する関心を持っているだけでいいのかも、問い直してほしい。)
 日本国憲法は、その前文において、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」するという文言から始まる。憲法学者系の方々は、やたらと「国民主権」「国民主権」「国民主権」と強調する。しかしそれは困った態度だ。
 拙著『憲法学の病』でも指摘したが、日本国憲法の「一大原理」は、「国政は、国民の厳粛な信託(trust)によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者 がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」という、国民と政府との間の「信託」原理である。実体性のない「国民」の「主権」ばかりを強調して全ての議論を押し切ろうとする憲法学者によく見られる発想は、日本国憲法の原理ではない。実際の日本国憲法典は、議会を通じた政治の調整を求めており、今回のイギリスの国民投票以降の混乱を避けることを要請している。
 GHQは、英米法の考え方にそって憲法草案を起草した。しかしアメリカ流の大統領制にもとづいた三権分立の導入を避けた。そのため、日本国憲法は、イギリス政治を模した制度設計を取り入れている。 「国会が国権の最高機関」で、首相が「議会の議決」で決められる制度をとりながらも、「三権分立」も確保されるのは、首相に「解散権」があればこそだ。解散権がなければ、三権分立は溶解し、議会の独裁に陥るのでなければ、「何も決められない政治」が引き起こされる。
 イギリスは日本国憲法がモデルとしている国だ。そのイギリスが解散権を変更したことで、どれだけの混乱を経験する羽目になったかは、日本人はよく見ておくべきだ。

https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=sr_1_1?qid=1568277962&s=books&sr=1-1

 井上達夫・東大教授の憲法に関するインタビュー記事を読んだ。https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019083000002.html 複雑な心境を抱いた。

私がまだ修士課程の大学院生だった頃、井上教授に、早稲田で開かれた研究会に来ていただいたことがある。私が23歳頃の1992年頃だ。非常に力強くも落ちづいた報告と受け答えに、感銘を受けた。井上教授は、30歳代前半でサントリー学芸賞を受賞され、名声を確立されていた。自信に裏付けられた静かな凄みに、新進気鋭の若手学者とは、こういう方のことか、と胸に残った。

 その時から比べると、井上教授は、変わってしまった。60歳代半ばで、もう怖くて誰も何も言えない存在だ。すっかり、いつも怒って説教をしている人、になってしまった。

 井上教授は、「修正的護憲派」・「原理的護憲派」と呼ぶ人々を批判し続ける。だがその批判の根拠は、何やら特殊な倫理的な姿勢を問うものだ。「欺瞞的」、といった言葉を、繰り返し繰り返し、他者の糾弾のために使う。

 木村草太・首都大学東京教授への糾弾の例をとろう。「私の授業を聴いていた元学生」の「木村君」が、「お話にならない暴説」を述べている、と井上教授は激怒する(『脱属国論』62-63頁)。木村教授が、集団的自衛権は違憲だが個別的自衛権は合憲だ、と主張する際の根拠に、憲法13条「幸福追求権」を使った、という理由で、井上教授は激怒するのである。憲法9条で戦争は否定されるが、国民の幸福は守らなければならないので、個別的な自衛権の行使だけは13条で認められる、という議論をするのは、人権を理由に9条を骨抜きにする、許してはいけない態度だ、と井上教授は主張する。

 しかし井上教授の木村批判は、いささか的外れである。13条の参照を思いついたのは、木村教授ではない。そもそも集団的自衛権は違憲だが個別的自衛権は合憲だ、という政府見解を初めて文書で出した1972年に内閣法制局が、正式な論拠として採用したのが、13条根拠説だった。木村教授は、72年の政府見解のままでいい、という話をしているに過ぎない。

 仮に井上教授が、72年政府見解に依拠すること自体が、憲法学者として欺瞞的な態度だ、と言いたいのだとしたら、72年以前に著作活動で13条を参照した者たちにふれるべきだ。佐藤達夫は1953年・1960年の著作で、13条を参照して自衛隊の創設を正当化していた。もっとも佐藤は、個別的自衛権は良いが集団的自衛権はダメだ、などとは言わなかった。自衛権一般を13条で正当化した(拙著『集団的自衛権の思想史』25178頁参照)。

 井上教授は、13条を援用したら「安倍政権の集団的自衛権行使だって容認されてしまう」という理由で、木村教授を否定する。安保法制懇のメンバーや、私を含めて多くの国際政治学者なら、「だから最初から集団的自衛権の合憲だと言っているのに・・・」と思う。しかし井上教授は、われわれのような者については、存在すら認めない。井上教授の頭の中では集団的自衛権は絶対に違憲だということは論証の必要もない宇宙の運動法則のようなものとして決まってしまっているので、集団的自衛権合憲論者は、ふれるに値しない地球外生物の扱いである。したがって井上教授は堂々と、「それでは集団的自衛権まで合憲になってしまうではないか!」という理由で、木村教授を否定する。

 ここまで徹底した他者「欺瞞性」糾弾の根拠は何か。井上教授の憲法9条解釈である。井上教授によれば、9条は全ての自衛権の行使を否定している絶対平和主義であり、それ以外の解釈の余地は全く一切ないと主張する。なぜそこまで強く言えるのか?

 驚くべきことに、井上教授は、憲法9条解釈論を示したことがない。憲法を論じている者については相当に論じているが、実は井上教授はまだ、自らの憲法解釈の正しさを説明したことがない。

せいぜい、「文理の制約上、原理主義的護憲派の見解が正しいことは、日本語を解する者なら否定できない」と手短に断定し、宣言するだけなのである(井上達夫『立憲主義という企て』226頁)。

 井上教授とは違うふうに憲法9条を解釈する者は、「日本語を解しない者」である。そのような烙印を押された者は、議論から排除される。この仕組みがある限り、当然、どこまでいっても必ず井上教授だけが正しい。

つまり、井上教授の議論の絶対的な正しさは、「日本語を解する者であるかどうか」という基準にかかっているのだが、この「日本語を解する」能力の認定権限の全ては井上教授のみに委ねられている。しかも井上教授は「日本語を解する者であるかどうか」という審査基準の内容を説明することはしない。説明不要の審査基準が、井上教授の専管的裁量事項として、運用される。だから、どこまでいっても必ず井上教授だけが正しいのである。

 井上教授によれば、憲法9条が絶対平和主義の条項であることは、一切の論証の必要のない「日本語を解するかどうか」の問題である。およそ「日本語を解する者」であれば、憲法9条を絶対平和主義として読むしかない。もしそのような解釈をしない者がいたら、それはその者が「日本語を解する者」でないか、嘘をついている「欺瞞的」な者であるかのどちらかである。

 しかし、「日本語を解する者」であるかどうかという審査基準を、一切説明を施すこともなく振り回すだけで、本当に学者の議論を終わりにしてしまっていいのか。それで、憲法学者や法哲学者が社会に存在していいのか、不安になったりしないのだろうか。

 たとえば普通の人は、読売巨人軍の「戦力」は充実している、などといった会話をする。テレビの解説者なども頻繁に「戦力が充実していますねえ」などと言う。とすると、普通の人の感覚にしたがうなら、プロ野球選手は違憲だ、と言わなければ、「欺瞞的」である。

 井上教授は、「日本語を解する者」は当然、プロ野球選手は違憲ではない、と主張するかもしれない。つまり「日本語を解する者」なら当然、「戦力」という言葉を使っていても、それは憲法の「戦力」ではない、と井上教授は言うのかもしれない。

 しかしそれでは日本国民のほとんどが自衛隊を合憲だと感じているというアンケート調査はどうか。現代日本において、大多数の国民は、自衛隊を合憲だと考えている。大多数の国民の言語感覚では、自衛隊は憲法が禁じている「戦力」ではないのである。

 ところが井上教授は、自衛隊を「戦力ではないと言い張るのは、詭弁以外の何物でもない」と一方的に断定する。
 結局のところ、井上教授によれば、大多数の国民は、「日本語を解する者」でないか、嘘をついている「欺瞞的」な者であるかのどちらかでしかないわけである。(ちなみに井上教授は、「日本人のマジョリティが『不感症』になっている」[井上達夫『立憲主義という企て』299頁]と述べるが、要するに日本人の大多数は「不感症」で「自己欺瞞的」であるようである。)

 井上教授は、自衛隊の合憲性を認める「修正主義的護憲派」も「欺瞞的」だが、自衛隊の存在を認めない「原理主義的護憲派」の「欺瞞は修正主義的護憲派よりもなおひどい」と述べる。「原理主義的護憲派」が「欺瞞的」なのは、自衛隊を違憲だと思っているのに、違憲だという立場を貫かず、自衛隊が存在している現実を受け入れているからだという。「自衛隊廃止や安保破棄を主張しなければならない」のにやっていない、というわけである。

 井上教授は、自衛隊違憲論者である。そこで井上教授は、9条削除論を主張する。9条の文言と現実との乖離があまりに激しいので削除したうえで、国民が自ら安全保障政策を選択していくべきなのだとする。(もっとも井上教授が、「日本語を解しない者」と「不感症/欺瞞的である者」から成り立っている国民の大多数に安全保障政策を考えさせたいのか、ただ「日本語を解する者」だけを真正な国民として扱うのかは、判然としない。)

 さらに判然としないのは、井上教授が、「9条の2」の追加を提案する山尾志桜里(立憲民主党)衆議院議員を激賞し、繰り返し褒めちぎることである。

 井上教授によれば、山尾議員は、9条の2を挿入して、「専守枠内で戦力の保有・行使を認める」と定める改憲を行うことを提唱しているから良いのだという。しかしなぜ山尾議員だけは「欺瞞的」ではないのか?山尾議員は、まず、自衛隊の違憲性を明言し、「自衛隊廃止や安保破棄を主張」しているのか?山尾議員は、立憲民主党の指導部の「欺瞞」を糾弾し、共産党ですら「欺瞞的」だと糾弾しているのか?もし糾弾してもいないのに、違憲状態があるかのように語って、それを解消する自分の案が素晴らしいと説明しているのだとしたら、それこそ最も「欺瞞的」なのではないのか?なぜ井上教授は、山尾議員にだけは、「自衛隊廃止や安保破棄を主張」していないという理由で「欺瞞的」だ、と糾弾しないのか?なぜせめて「改憲案が達成されなければ、違憲状態が続いてしまうので、自衛隊廃止や安保破棄を主張」せよ、と山尾議員に言わないのか?

 判然としない。

判然としないのは、私が「日本語を解しない者」であるか、「欺瞞的な者」であるかだからだという。しかし、そんなことを言われても、やはり判然としない。

 まあ井上教授のような大教授が、私などを、「日本語を解しない者」以下で、ほとんど存在していない等しい塵だとみなし、視界の片隅にも入れないのは、まあ、仕方がないとしよう。だが政府見解なども、完全に存在していないかのように振るまっていて、本当にそれでいいのだろうか。

 井上教授は、繰り返し繰り返し、自衛隊は戦力で軍隊だから、違憲だ、と主張している。しかし政府見解は、「自衛隊は憲法上の戦力ではないが、国際法上の軍隊だ」、というものである。http://agora-web.jp/archives/2030702.html 

そういう政府見解は、「日本語を解しない者」の戯言でしかないか、単なる「欺瞞」だとして、井上教授は、議論の視野には入れないのだろう。確かに、井上教授ほどの権威ある崇高な学者であれば、そのような立場もとれるのだろう。しかしほとんどの平凡な学者の場合には、政府見解を存在していないものとして取り扱ったら、不勉強を指摘される。せめて政府見解の間違いを指摘し、その論拠を示さなければならない。

学界の重鎮が、60歳代半ばになって、「日本語を解する者であるかどうか」を論証不要な絶対基準として振り回し、お前は欺瞞的だ、あいつも欺瞞的だ、こいつも欺瞞的だ、と怒鳴り続けるとしたら、日本の学界も、言論界全体も、萎縮する。いや、おそらく日本それ自体が、萎縮する。

しかも、井上教授の「日本語を解する者であるかどうか」なる絶対基準にしたがうと、特定の女性野党議員だけは激賞しなければならず、その特定の女性野党議員だけは「欺瞞的」ではない、という認定をしなければならない。判然としない気持ちを抱いても、「それはお前が日本語を解さない者であるか、欺瞞的な者であるからだ」、とだけ言われる。

大学院生だった23歳頃の私が見た井上教授は、そういうことは言っていなかった。井上教授は変わってしまった。もっとも時代も変わってしまったのかもしれない。


https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=sr_1_1?qid=1567924535&s=books&sr=1-1

↑このページのトップヘ