「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

2019年11月

  現在、極左右の大同団結が強くみられるのは、改憲反対論であるかもしれない。安保法制の時以来、マスコミに頻繁に登場し、2016年には参議院選挙に立候補までした、いわゆる「憲法学者」を代表する小林節氏が、右派系雑誌の『月間日本』に寄稿しているのを、最近は極左とまで言われている『Harbor Business Online』(https://www.j-cast.com/2016/05/10266398.html?p=all )が取り上げて記事にしているのを見た。 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191124-00207060-hbolz-soci&p=1 

 日本の政治闘争図において小林氏が果たしうる役割については、まあどうでもいい。しかし小林氏がいつも「法学者」などの肩書を持って現れるので、その点は気になるので、コメントしておきたい。

 小林氏は、現在進行中の自民党の改憲案に反対する。必要最小限の自衛権を持つ、と言う考え方がおかしいからだという。なぜなら、それでは「必要な自衛の措置ならば、何でもできるということです。極端に言えば、自衛隊は地球の裏側にも行けるということです」、ということだからだという。

 ところが結論部分で小林氏は、次のように主張する。

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「国際情勢が厳しくなる中で、左派の平和主義が説得力を持ちにくくなってきているのも確かです。安倍政権による改憲を阻止するためには、専守防衛によってわが国の安全保障を維持できることを明確に示すことが重要です。わが国には、世界有数の経済力と技術力があります。その力によって、9条の範囲内で「専守防衛」の能力を高めることができます。」
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現代世界の日本の現状で、「わが国には、世界有数の経済力と技術力があります。」なる主観的な断定を、法律論の根拠にしている「法学者」については、まずは年齢をチェックせする。それはともかくとしても、必要な自衛権を持つのはダメだが、「専守防衛」ならいいのだ、という主張は、全くわかりにくい。

ちなみに「必要性」に、「均衡性」の原則を重ねて自衛権を制約するのが「国際法」の原理である。「憲法学者」小林氏は、こうした現存する法規範を無視する。

そして「憲法学者」小林氏は、「専守防衛」などといった、実定法上の根拠がなく、内容も曖昧模糊とした概念を振り回す。

日本では「憲法学者」とは、存在している法規範を無視し、実定法上の根拠のない概念を信奉することを主張する者のことになってしまっている。ちなみに小林氏の集団的自衛権違憲論は、実定法上の裏付けのないドイツ国法学の怪しい国家の自然権論に依拠した「憲法学者」特有の主張の典型例だが、学術書における説明がないので、私は自分の著書では小林氏を取り上げたことはない。

小林氏のような「憲法学者」によって、憲法論は政争の一部となり、真面目な学術的議論が全く考慮されない状態に陥ってしまっている。

野党勢力と一緒で、自らへの信頼性を犠牲にしてでも、あらゆる手段を使って改憲を阻止する、という捨て身の戦法である。

実際に現在の混乱状況では、改憲は果たされないだろう。それで彼らは満足をするのだろう。だが長期的に損をするのは、真剣な憲法論を求めているはずの普通の国民ではないだろうか。非常に嘆かわしい。
https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=sr_1_2?qid=1574571046&s=books&sr=1-2

  今週初め18日に「人権問題くらいでは、左右の大同団結はできないのか」、という題名の文章を書いた。http://agora-web.jp/archives/2042728.html 他国での人権侵害の問題に憂慮の念を示すのに、国内政治における左右の立場の違いは関係がないはずだ、という趣旨で書いた。自民党の中には、憂慮を表明する勢力があるのだから、野党側が黙っているというのはおかしいのではないか、という趣旨であった。

 正確を期するために言っておけば、共産党は、中国における人権侵害の実情に憂慮する声明を14日に出していた。https://www.jcp.or.jp/web_policy/2019/11/post-821.html 立憲民主党は代表談話を21日に出した。礼儀の問題として、私としてもそのことについて触れておきたい。

 現在進行中の「桜を見る会」の話題では、他の野党の政治家たちのほうが騒いでいる印象があるが、もともと調査をして問題提起をしたのは、共産党の田村智子議員であった。いわゆる調査能力において、共産党が、支持政党層をこえて高く評価されていることは、周知の通りである。選挙法がらみの問題や不倫などの生活に関する問題などの「身辺問題」や、個人情報をさらす文書の公開や的外れの失言などの失態について、共産党議員の話は、あまり聞かない。国民の多くが必要だと考えている日米安保体制に真っ向から反対を唱えているため、国政において大きな勢力を築いたことはない。しかし日米安保体制の評価が関係ない地方議会においては、共産党が巨大な勢力を持っていることも、よく知られている。地方議員数は2,800人以上で、特に市区町村レベルでは自民党より多い(公明党にわずかに及ばず2位)。

 テリー伊藤氏が執筆した『お笑い革命日本共産党』(1994年)という本を読んだことがある。テリー伊藤氏が、冷戦が終焉したときこそ、最も注目すべき躍進が期待される政党は共産党だ、という主張をされていたと記憶している。テリー伊藤氏の主張(もともと少しおどけたトーンが含まれていたわけだが)は、必ずしも現実のものになったとは言えない。しかし共産党が依然として日本の国政で独特の存在感を持っていることは、否定できない。

 日本共産党の歴史には、裏話としてしか語られない様々な暗部がある。「代々木」と呼ばれていた時代を体感として知っている世代には、特にそうだろう。鉄の結束のようなものを感じさせる反面、個人プレーがなく、長期に渡る同一党首の君臨とスター議員の不在が、構造的な問題ではある。最近では、政党交付金拒絶の伝統を、『赤旗』購読者激減の時代の中で、どう維持していくか、と言った問題に直面しているとも言われる。だが何と言ってももったいないのは、共産党の外交政策観だ。

しかしひとたび改憲がなされてしまったら、どうだろうか。自衛隊の合憲性のみならず、日米安保体制の合憲性も明確になる改憲がなされてしまったら、どうだろうか。共産党も、改憲の暁には、新憲法に従うしかないのではないだろうか。その時は、共産党にも、新しい時代が訪れるだろう。

 あやふやな憲法学通説の怪しい権威に訴えて自らの政治勢力の温存を図る勢力によって、日本の政治は停滞している。改憲が果たされれば、国政に新しい構図がもたらされるだろう。

 2年ほど前に、「改憲の鍵を握るのは、枝野幸男氏だ」http://agora-web.jp/archives/2029204.html という文章を書いたことがある。野党勢力は、軍国主義を防ぎたいというのであれば、私の本でも読んで国際法による自衛権の制約をよく勉強していただいたうえで、むやみに改憲反対だけを唱えないことが得策だと思う。

https://www.amazon.co.jp/憲法学の病-新潮新書-篠田-英朗/dp/4106108224/ref=sr_1_2?qid=1574423318&s=books&sr=1-2 

  この週末は、「桜を見る会」と「沢尻エリカ」のどちらがTVのワイドショーの枠を多くとるかが、大きな関心事だったという。時事通信の「思いやり予算4倍増要求」(河野大臣が週末の間に否定)報道をそこにぶつけたい、という意見もあったという。

 私個人は、日頃から日本のテレビは扱わないニュースを追っている人間なので、「テレビのワイドショーは何に時間を使うべきか」は、苦手なテーマである。

もっとも、文字媒体で見る限り、少しは取り上げられたニュースが、取り上げられなくなっているように感じるのは、気になる。

 中国当局に拘束されていた北大教授が解放された。

中国問題の専門家ではない私ですら、国際平和活動を扱う中国における会議に招待されたことはある。同業者として関心を持っていた。まずは無事な解放に安堵したい。

しかし、状況に関する情報が全く出てこないのは、歯がゆい。

中国当局への配慮もあるのだろう。関係者は、騒がないでほしい、と思っていることだろう。だがそれでいいのか。

もちろん、中国は、日本の約3倍の経済力を持ち、アメリカに匹敵し始めた軍事力を持つ超大国だ。ワイドショーを見ない私も、それを知らないわけではない。

しかし、だからといって、香港、チベット、新疆ウイグルといった問題をとにかく徹底的に封印し、満面の笑みで国賓来日の習主席を迎える、といった態度を世界中のニュースメディアに流すことが、日本外交の長期的な利益になるだろうか。

日本のテレビのワイドショーは、そういう話題は取り上げていないのかもしれないが、世界的には取り上げられている。https://www.nytimes.com/interactive/2019/11/16/world/asia/china-xinjiang-documents.html?smid=nytcore-ios-share&fbclid=IwAR12HnXhAWH1fQgXrxxHJgXcrSQ1wWmomMXFU2D9tAKgdkGcL7es4Jx-Zuw 

できれば、せめて「ロヒンギャ問題の解決に向けて日中で一緒にミャンマー政府に働きかけよう」、といった提案でもして、その点をインドやバングラデシュでのニュースで取り上げられるようにもしてもらえないだろうか。

アムネスティを通じて、「林鄭月娥・香港特別行政区行政長官」宛のアピール文に署名をした。

https://www.amnesty.or.jp/get-involved/action/hk_201910.html?fbclid=IwAR3lkzOjoUG4AiKzxv-nrpctSI2yeaI8GtlcfeWvF-5jsHfX0t1eT0shU_8 だが私のような人間が署名をしているくらいでは、全く足りない。こういう国際的なリベラルの訴えは、日本では響いていない。

自民党の有志議員のグループ「日本の尊厳と国益を護(まも)る会」が、習近平・国家主席の国賓来日に反対する決議を出し、岡田直樹官房副長官に決議文を手渡したという。青山繁晴・参院議員を代表幹事とするグループは、自民党の中でも保守派で知られる。だが他の論点に関する彼らの個々の政策的立場は、ここではどうでもいい。

岡田官房副長官が、決議文の内容を安倍晋三首相と菅義偉官房長官に伝えるとした上で、「自民党の反対論や国民の中にある賛成できないという気持ちを無くせるよう、官邸一体となって努力する」と語った、というのが重要だと思う。

今から国賓来日を中止するとなれば、相当な判断になる。簡単にはできないだろう。だがこうした意見を、国会議員やその他の人々が表明することは、当然ではないのか。決議文に書かれていることは、至極真っ当である。https://www.sankei.com/politics/news/191113/plt1911130018-n1.html  

日本のいわゆる「知識人」たちも、もう少し他国の人権問題などに目を向けてみたらどうだろうか。世界の人権問題のために、「リベラル」派も時には保守派と意見を一致させてみたりする度量を見せたらどうだろうか。

野党勢力も、「桜を見る会」が「沢尻エリカ」に負けることを心配する層だけではなく、ワイドショーを見てない国民からも応援してもらうことを、もう少しくらいは考えてみてもらえないだろうか。

「桜を見る会」は巨大な疑獄だ!と叫んだりするだけでなく、「タレントと桜を見て人気取りをする暇があったら、首相にも、国益をもっと真剣に考える時間を作ってほしい」、とでも述べて、支持層を広げてみようとする野党党首はいないのだろうか。

  1112日、警視庁が、旧通産省工業技術院の元院長・飯塚幸三容疑者(88)を、自動車運転処罰法違反(過失運転致死傷)の疑いで書類送検した。これにあわせて遺族の松永さんが会見を開いた。「本日、スタートラインに立った。2人や今後の社会のためにも、事故が軽い罪で終わらないよう自分にできることをやります」と語ったという。本当に痛ましい事件だった。それなのに前を向いて行動する松永さんの呼びかけで、39万人の署名が集まった。人並みに子どもを持つ私自身も、署名した。

 当日の記者会見では、元通産省官僚である飯塚容疑者が、「メーカーには安全な車を開発して高齢者が安心して運転できるようにしてほしい」、と発言したらしいことが、話題になった。

「見た時は体が震え出して、怒りというよりはむなしくなってしまった」、という松永さんの言葉を借りるまでもない。88歳の老人の認識力に、問題があるとしか言いようがない。

前日、東京八王子でも60代ドライバーが園児の列に突入する事故が起きていた。http://agora-web.jp/archives/2042615.html 12日には、大津園児死傷事故の裁判が始まった報道も見られただけではない。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191112-00000069-ytv-l25 さらには80歳老人の駐車場内での暴走事件も報道されている。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191112-00025290-tokaiv-soci 

これがハイパー高齢化社会を迎えた現代日本の日常風景だろう。

人間の命に差はないという。だが本当に3歳の未来ある子どもと、88歳の老人の間にも、何も差がないのか。超高齢化社会の日本では、手続き的な平等と、実質的な平等との間に、巨大なギャップが存在している。

気になるのは、問題を矮小化しようとする識者が多いことだ。39万人の署名が集まっても。「司法判断に影響はない」とか、「逮捕されないのは逃亡の恐れがないからだ」とか、「手続き」面の話に終始している場合が多すぎる。

飯塚容疑者の厳罰が必要だと考える人が多いのは、感情的に任せて私刑を求めているからではない。「手続き」の話ばかりをしていて、実質的な平等や正義を忘れてしまってはいけない、と考えるから、署名が集まるのだ。

「高齢者で足が悪かったが、高齢者でそのことを深刻に考える余裕がなかった、ということは故意に暴走したわけではないので、危険運転とは見なせない。」

「高齢者で収監に耐えられないので、逮捕はできない、裁判中に寿命が来て裁判が途中で終わってしまっても、それは警察・検察・裁判所の誰の責任でもない。」

これらの話は全て「手続き」的には正しい。だが果たしてこのようなロジックだけを語って何かを説明したかのような気分になっていて、それで本当にこの社会を今後何十年も維持していけると言うのだろうか。

政治家は高齢者の票のことを考えるのは仕方がないのかもしれないが、放置していれば、少数者に不利な政治が延々と続いていくことは間違いない。http://agora-web.jp/archives/2039894.html 

抑止力が必要なのである。

わかっているはずなのに、気づかないふりをするのは、他の様々な問題と同じように、私には日本社会の隅々にまで浸透した停滞に対する諦念のようなものであると感じる。

これまでの憲法学通説では日本は行きづまるしかないのに、「憲法学通説だから仕方がない」と受けいれてしまうのと同じような社会構造の問題を、暴走老人の問題にも感じる。

対策が必要だ。

第一に、免許制度の充実が必要である。確かに、メーカーが自動運転車を開発したら、高齢者には自動運転車限定免許を前提にした審査を課すべきだろう。しかしその前に、まず認知症の進展を警戒した免許証の毎年更新制度や追加更新料を導入するべきだ。それによって、本当に免許の更新が必要か、を考え直させる機会を与えることが必要だ。免許にかかるコストが安いままでは、どんなに高齢者向けのバスなどを提供しても、全く利用されないままで終わってしまう。経済力のない老人に配慮することは大切だが、だからといって安易に運転を許すわけにはいかない。むしろそれをふまえて公共サービスの利用へと誘導していく措置が必要だ。

第二に、「任意保険」にあたる保険を、高齢者については強制加入させる制度が必要ではないか。理由は、認知能力の是非ではない。寿命の問題だ。保険加入していなければ、確実に、民事訴訟における損害賠償負担に対応できない。対応する前に、寿命が来る。その際、理論的には相続人が責任を負うが、相続放棄されたら終わりだ。今回の飯塚容疑者の事件でも、任意保険加入があったのか、それで全面的にまかなえるのか、全く報道されていないが、非常に気になる。

第三に、相続人に対する抑止力を視野に入れるべきだ。老人の運転を止めるのは周囲にいる家族だが、結局は他人ごとであると、真剣に運転を止めてくれない。上記二つの措置は、比較的経済力のない高齢者には効果を持つだろうが、経済的に余裕のある老人には、効果を持たないかもしれない。痛くもなんともない額面を払ってしまえば暴走できる、あとは暴走した上で寿命を全うするだけだ、というのが最も「合理的」な選択であれば、そのような「合理的」な選択に多くの裕福な老人が流れていくことになってしまう。経済的に余裕のある老人の暴走を防ぐには、相続にメスを入れるしかない。つまり自分が寿命を全うした後も生き続けるだろう家族に損害が出る仕組みをつくらなければ、抑止力は発揮されない。

「手続き」に時間をかけていれば、加害者は、必ず資産移動を画策する。生前贈与などをしたうえで寿命を全うし、資産を極小化させた後で、相続人が相続放棄をするという段取りを進める。加害者にとって可愛いのは、被害者ではなく、自分の子どもであり、自分の孫だ。放っておけば、必ず自分の相続人を守るための資産移動を図る。もし、そのような資産移動は容易に行える、という社会通念を高齢者層に与えてしまうと、暴走への強力なインセンティブ(誘引材料)になる。

それを防ぐには、被害者が、事故後の資産移動に関する情報を簡単に入手し、不当な生前贈与があったことを訴えることができるようにすることを、制度的に助けなければならない。任意保険に入っていない場合はもちろん、任意保険があってもカバーできない慰謝料に対しては、事故被害者・遺族のイニシアチブによる資産凍結が発動される事例を、実際に作っていく必要があると思われる。そうでなければ抑止力が期待できない。

日本は、人類の歴史でも未曽有の高齢化社会に突入している。一部の人たちは、高齢化社会に対応する先例を作ることによって、日本は他国に模範を示すことができる、などと主張している。しかし、もしこうした人たちの主張が正しいとすれば、一つ踏み込んだ高齢者暴走交通事故対策が必要だ。そうでなければ、日本はただの平凡な停滞した社会として、衰退していくしかない。

 緒方貞子・元国連難民高等弁務官が10月29日に他界した。緒方氏の業績について、私がここで書く必要はないだろう。私は学生時代に難民を助ける会というNGOに出入りしていた。そのつながりで1991年湾岸戦争後のクルド難民支援の現場に行ったのは、最初に体験した国際的な緊急人道援助の現場だった。その当時、UNHCRの存在感は、圧倒的だった。国連機関の中でも圧倒的だった。大学を卒業する頃の私には、UNHCR職員の全てが格好良く見えた。そのUNHCRを指導する緒方氏は、テレビ等で見るたびにほれぼれするほど、格好が良かった。
 今、SNSでも緒方氏を悼むメッセージが多数見られる。いずれももっともな気持ちの表現になっている。ただ、しかし、私自身は、なぜかそうしたメッセージを出す気にならない。自分が多感な20歳代を緒方氏のUNHCR時代で過ごした人物であるだけに、私は、SNSで「緒方氏を悼む」などと書く気になれない。
 緒方氏は、不遇の境遇にあった難民・避難民のために心を砕いていた。疑いのない事実だ。だが、そのことだけを描写し続けるのは、足りないと思う。
 現代世界の難民・避難民数は7000万人をこえており、緒方氏の時代の数をはるかに上回る。どうなっているのか。緒方氏を悼む際には、そのことにもふれるべきだろう。 しかも、それだけではない。
 むしろ私にとって、一番印象に残っているのは、UNHCR職員の現場での殉職に直面し、怒りの声を上げていた緒方氏の姿だ。追悼集会で「Enough is Enough(もう十分だ)」と叫んでいた緒方氏の姿だ。最高責任者が職員の殉職に対して見せた、あの真剣な怒りに接すればこそ、UNHCR職員は、またあらためて危険地での職務に向かって行った。
 2018年に殺害された援助関係者の数は、131人を数えた。140人が負傷し、130人が誘拐された。2017年の殉職者数も139人だった。2019年も、それ以上のハイペースで、犠牲者が出続けている。緒方氏がUNHCRを率いていた時代よりも犠牲者数はさらに増えているのだ。だが、以前ほど注目されていない。実は国連PKO要員も年間100人近くという高い水準で毎年殉職者が出ているのだが、日本では特に、全く報道もされていない。世界的な武力紛争数・犠牲者数の増加と、対テロ戦争の拡大の情勢を見ながら、日本に暮らす者の感覚は、世界の現実から、さらにいっそう離れてきている。
 たとえば、緒方氏が他界したその翌日の10月30日、南スーダンでは、エボラ出血熱の拡大予防に従事していたIOMという国連機関の援助関係者が、政府軍と武装勢力の間の交戦に巻き込まれ、3人が死亡した。しかも、もう1人の職員だけでなく、殉職した職員の4歳の息子が誘拐されるという衝撃的な事態も起こった(*犠牲になったのは南スーダン人スタッフである可能性が高い)。解放を訴える国際的アピールがなされている。 https://news.un.org/en/story/2019/11/1050421?utm_source=UN+News+-+Newsletter&utm_campaign=81f03345a3-EMAIL_CAMPAIGN_2019_11_01_05_05&utm_medium=email&utm_term=0_fdbf1af606-81f03345a3-105785473     
 今、この瞬間、人道援助の現場で殉職し続けている援助関係者がいるにもかかわらず、それらに注意を払うことなど全くなく、ただ、「ああ、緒方さんは素晴らしい日本人だったなあ、緒方さんの死を悼もう」、などといったことだけをのんびりと言い続けるのは、もっとも緒方氏的ではない姿勢だ。職員の殉職に心の底からの怒りの叫びをあげた緒方氏の姿勢から、もっとかけ離れた態度だ。
 現代世界に紛争犠牲者があふれているが、終息していく見込みがあるわけではない。その現実に目を向けて、「緒方氏は偉大な日本人だ、緒方氏の死を悼もう」、とだけ言い続けるのは、あまりにも緒方氏的ではない。
 「憲法9条は交戦権を否認している、交戦状態に巻き込まれたら、憲法違反だ!、われわれ日本人は一切絶対に交戦状態に関わってはいけない!」、とデモ行進し続ける狂信的9条主義者が、緒方さんの死を悼む、などと言っているのを見ると、正直、心の底から陰鬱な気持ちになる。
 緒方氏は、日本人も世界に目を向けよう、と言い続けていた。世界の趨勢から目をそらし続けながら、ただ緒方氏を悼むことだけに専心するのが、日本人のあるべき姿なのだとしたら、私は緒方氏に申し訳ない気持ちになる。 

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