「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

2020年03月

  私は、2015年安保法制の後、憲法問題について集中的に勉強し、日本の「憲法学通説」を批判する本を何冊か書いた。「通説」の形成メカニズムを意識し、芦部信喜、長谷部恭男、石川健治、木村草太、といった具体的な憲法学者の名前に踏み込んだ批判をした。個人名をあげて批判をしたのは、集合的に運営されている学説は、それを支えている個々の学者によって構成されている学会の動向のようなものも押さえておかないと、見えてこない、ということを、強く感じたからだ。

 今、日本の新型コロナ対策では、北海道大学・西浦博教授の存在が決定的だ。私が「日本モデル」のコロナ対策と呼んでいるものにおいて、西浦教授ほど重要な存在はないように見える。

昨日330日夜の小池・東京都知事の会見は、「不要不急」なものだったが、要するに厚労省クラスター対策班の肩書で登壇した西浦教授(新型コロナウイルス感染症対策専門家会議メンバーでもある)の都庁訪問にあわせて行われたような会合であった。

 西浦教授については、私は以前に次のように書いたことがある。

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西浦教授の専門は、「感染症数理モデルを利用した流行データの分析」であり、日本でも稀有な研究者である・・・・。今、日本において、西浦教授ほど重要な人物は他にいないのではないか。私が政治家なら、即座に巨額の研究資金を西浦教授に預けるために奔走する。間違っても来年度の研究費の申請書作りなどのような事柄に、西浦研究室のメンバーを従事させてはいけない。http://agora-web.jp/archives/2045006.html 

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それはそうとして、しかし昨日の小池都知事の会見が、あたかも小池都知事が「不要不急」の長い司会をしただけで、あとは西浦教授の報告会のようなものだったことは、小池知事のリーダーシップについて、いささか疑念を抱かせるものであった。専門家は尊重されなければならない。しかし学者は学者だ。政治家は学者の意見に耳を傾け、その見解を全て吸収したうえで、責任を持った政策判断をし、それを一般市民によくわかる言葉で伝えていくのが、仕事だ。専門家の意見を聞かない政治家も困るが、専門家の意見を吸収して責任ある判断を自分自身で熟考して判断しているように見えない政治家も困る。

ダイヤモンド・プリンセス号で隔離措置の不備を訴えた動画で有名になった岩田健太郎・神戸大学教授(臨床経験もある感染症専門家)は、次のように書いている。

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西浦博先生は日本で数少ない感染症数理モデルのプロであり、その能力が傑出しているのは関係諸氏の知るところだ。しかし、多くの人達が数理モデルそのものを理解していないこともあって(ぼくも数理モデルのプロではないので、その知見のすべてを把握しているとは言えないと白状せねばならない)、彼の知見やコメントは神格化されやすい。数理モデルの中身が多くの人には完全にブラックボックスなために、まるで神社のおみくじのような神託が出てくるように見えてしまうのだ。日本の感染対策のポリシーの多くが西浦理論に依存している。それで概ね間違いはないのだが、日本あるあるの問題として、プランAが破綻したときのプランBがないことにある。西浦先生は優れた学者である。神ではない。故に間違える可能性とそのプランBを持っている必要がある。無謬主義に陥りやすい官僚や政治家が科学を神託と勘違いしないか、大いに心配である。反証可能性が担保されてこそ科学は科学的でありつづけることができるのだ。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200329-00033332-forbes-hlth&p=3 

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昨日の都庁での会見で、西浦教授と岩田教授の立場の違いが鮮明になったのは、ある記者が西浦教授に、抗体検査の是非について質問をしたときだ。

西浦教授は、抗体検査は爆発的拡大を予測するためのものではない、という理由で、(クラスター対策班としては、そして感染症数理モデルの専門家としては、という意味であったと思われるが、)抗体検査実施の必要性を否定した。

これに対して、岩田教授は、次のように言っている。

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感染者数の実態が掴めていないため、人口をもとにした抗体検査で感染者数を出すべきだ。(編集部注:現在、新型コロナウイルス検査に用いられているPCR検査は、鼻や口の奥の粘膜細胞を採取し、ウイルスのDNAの断片を増幅させて陽性か陰性かを判定する。抗体検査は、一度かかった人が獲得した免疫の抗体が血液中にあるかどうかを探す)。

現在、感染爆発がすでに起きているという人と起きていないという人の間で論争になっているが、(数を把握するための)検査はしていないので実際のところはわからない。水掛け論をしても仕方がないし、これほど感染者が増えている段階なので、(数を把握するための)人口をもとにした抗体検査をすべきだと考える。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200330-00033340-forbes-soci 

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恐らく、現在の「日本モデル」は西浦教授のクラスター対策班/感染症数理モデルにもとづいて進められてきており、現在までのところ、国民の努力もあり、「日本モデル」は悪くない成績を収めている。私自身も、むしろもっと意識的に「日本モデル」の可能性を追求してもらいたい、と書いてきている。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71284 

しかし「日本モデル」は完璧で盤石だ、とまでは言えない。「ぎりぎり」で「踏みとどまっている」ような状態だ。岩田教授のような方が、「プランAが破綻したときのプランBがない」のが問題なので、抗体検査をやりたい、と言ったら、それはやっていただいてもいいのではないだろうか。(ただし回復者が免疫保持者であることはまだ科学的に証明されていないので、抗体検査を集団免疫の道具として使いたいという武見敬三・参議院議員らの議論は、岩田教授の立場とは違う次元の話だ。)

欧米諸国は、油断していた時期もあり、こうした議論をする時間を全く持てないまま、緊急措置の対応に追われている。日本は、まだ幸いにも、「プランA」に賭けながら、「プランB」を用意する、といった議論をする時間的猶予を持てている。この時間的余裕をどう活かすか。そこに日本の命運がかかっている。

  「ロックダウン」というカタカナ言葉が人を惑わせている。この様子を見ると、一昔前まで「日本の社会科学者は横文字を縦にしているだけ」と揶揄する人が多かったことを思い出す。欧米人が使っている言葉を、カタカナ日本語にして、それを解説するだけでメシを食っている学者がいる、という話である。

 今回の「ロックダウン」もそれと似ている。一昔前に、大学でカタカナ日本語が羅列されているだけの内容の授業を受けた人たちがジャーナリストになり、今、マスメディアに入り込んで、このような事態を引き起こしているのだとしたら、社会科学者にも責任がある。

 「ロックダウンとは何か」、「ロックダウンの定義は何か」、「ロックダウンはいつ発生するのか」、「ロックダウンになると我が町の橋は封鎖されるのか」といった、要領を得ない議論が噴出している。

 「マルクスにおけるアウフヘーベンと何だかわかるか?・・・え、お前、ダメだ、そんな理解じゃ!だいたい、そんな簡単にマルクスが分かったような顔で喋るな!」

 といった一昔前の「学術的」与太話と大差がない。

 最近、新型コロナのせいで、理科系の学者が書いた文章をいくつか読んでみたが、理論疫学の分野の学術論文などでは、lockdownという概念を使うようだ。感染症数理モデルを作る時に仮説的に「city lockdown」の概念を使ったりする。たとえば、有名になったイギリスのインペリアル・カレッジのレポートでは、「social distancing of the entire population, case isolation, household quarantine and school and university closure」という「4つの介入措置」を上回る次元の措置として日常的な就業も止める「a complete lockdown」という概念が使われている。https://www.imperial.ac.uk/media/imperial-college/medicine/sph/ide/gida-fellowships/Imperial-College-COVID19-NPI-modelling-16-03-2020.pdf#search=%27imperial+college+report%27 だがこれは一般論としての抽象的な用語法の域を出ていない。

 アメリカで新型コロナウィルスの感染が爆発的に拡大し始めた2週間ほど前、サンフランシスコ市長が「shelter in place」という概念で、外出禁止措置を説明した。このときはアメリカのマスコミが、「ニューヨークもshelter in place措置をとるか?」といった質いを投げかけ始めた。これに対してクオモNY州知事は、「買い物にも散歩にもジョギングにも行けるのに、核戦争が起こったようなときに使うshelter in placeという概念を使うのは人を惑わすだけだ、道路が封鎖される等のデマ情報を流すのはやめろ」、と説明したうえで、「stay at home」(家にいてください)というメッセージでくくりながら、「就業者の50%の自宅待機を求める」「全員の自宅待機を求める」といった具体的な要請内容を毎日の説明で段階的に付け加えていくやり方をとった。
 こうしたやりとりをへて、世界のメディアは各国の異なる状況を一般的な総称でくくる便利な概念として、「lockdown」を学者にならって使い始めるようになっている。

 このことが何を意味しているのかと言えば、今回の状況は、世界的に初めての出来事なので、そもそも厳密に確立された法概念のようなものはない、ということである。
 「ロックウダウン」は、地理的に限定された範囲で何らかの移動の禁止措置が取られた場合に、一般的総称として使えることが判明してきたので使っているだけだ。現在、イタリア、ケニア、ニューヨークといった無数の場所で「ロックダウン」が導入されていると言えるが、全ての場合で、状況が違う。だが、だからこそ一般総称の概念がほしいので、「ロックダウン」という概念でくくっている。それだけだ。

 したがってある時に日本のどこかで「ロックダウン」がどういう内容を持つのかは、日本の法的・社会的状況をふまえて、しかも段階に応じた感染症の状況をふまえて、為政者が設定していくべきものだ。「ロックダウン」という名の実体を持った怪物が、空から降臨してきて、都知事か誰かの口を借りてその存在が宣言される、といったものではない。

 たとえば気象庁は「大雨警報(土砂災害)の危険度」を4段階に分けて設定し、それぞれに「避難指示」「避難勧告」「避難準備」といった避難レベルを対応させている。実はこの4段階だけでは判断に困るところもあるので、実際の災害にあたっては問題になることが多々あるが、それでも4段階あるのは、1段階しかない場合よりもマシだ。

 たとえば「ロックダウン」にも4段階くらいある、と仮定すればいい。現在すでに東京では、「自発的な外出の自粛の要請」という事実上の初期段階の「ロックダウン」が断続的に導入され始めている、と考えるべきだ。この後、非常事態宣言に基づく措置をとる段階の初期レベル、それがさらに発達したレベル、といった段階的措置を、どのような状況で、どのような具体的な内容で、導入していることが最も適切であるか、が検討されることになる。

 しかし間違っても、「ロックダウン」なる怪物によって、一夜にして世界が変わる、といったイメージを持ちすぎないほうがいい。世界を変えるのは、あくまでも人間であり、重要なのは「ロックダウンとは何か?」と問い続けることではなく、「いつ、どのように、どのレベルのロックダウンを導入していくことが最も妥当か」を検討することである。

 昭恵夫人の「私的花を見る会」は、残念な事件だったが、それに対応した安倍首相も、非常に残念だった。「東京都が自粛を要請している公園での花見の宴会ではない」と釈明したうえで、「レストランに行ってはいけないのか」と反論したという。

 この首相は、自分が国民に「お願い」していることの内容を、理解していないのだ。そう思うと、本当に悲しくなる。

 日本人は、今、「密閉・密集・密接の回避」を中心としたコロナ対策を求められている。首相がそう説明しているはずだ。「東京都が自粛を要請している公園」であるかどうか、「レストランに行ってはいけない」のかどうかは、二次的な問題だ。今、国民一人一人が、ある行為が「密閉・密集・密接の回避」に該当するかどうかを、自分でよく考えたうえで、責任ある判断をすることを求められている。求めているのは、首相だ。ところがその首相が、ある行為が「密閉・密集・密接の回避」にあたるかどうかを考える発想方法を放棄している。そのような態度を、国会中継を通じて大々的に宣伝している。悲しい。

 もっとも立憲民主党の杉尾秀哉氏が「予算委で大きい声を出しちゃいけない決まりはない」と指摘したとき、「大きな声で唾が出るようなことは避けなければいけないと言われている。お互いに気を付ける必要がある」と首相が述べたのは良かった。

 日本の国会議員や東京都知事の会見は、いつも「密閉・密集・密接」の状態で行われる。ところが政治家の先生方だけは、和牛商品券や内閣支持率の低下だけにとらわれて、自分が言っていることを自分で破ってみせるという行為を繰り返している。

 政治家の先生方は、自分たちにはウイルスも遠慮すると信じているのか、あるいは自分たちがウイルスで倒れたら国民は勇敢だったと拍手喝采すると信じてるのか。
 そんなことだから、テレビでも「密閉・密集・密接」空間の中で「若者は外出するな!」と大声で説教する老人であふれてしまうのではないか。

 クオモNY州知事が、コロナ対策で人気をあげている。そのクオモNY州知事の会見の様子を見てほしい。まずは席の配置だ。これがコロナ危機下で国民に政治家が見せなければならない「密閉・密集・密接の回避」のビジュアル模範だ。https://www.youtube.com/watch?v=WUmmqVb1dGk&fbclid=IwAR2r78lUq2hIZgumc9qUSf2m9BxwCKNlCpkKY92brDQTD7fIkkBCD3mY27g 余裕があったら、クオモ州知事の話し方にも気を付けてほしい。危機管理リーダーの模範とされている要素がつまっている。

 クオモ州知事が政治家の責任を語るところなどが注目されているが、私が一番強調したいのは、クオモ州知事が、繰り返し繰り返し、努力する米国市民に感謝をし、いかに一般の市民の活躍が素晴らしく、国家に貢献しているかを強調しているところだ。

クオモは今年の大統領選挙には出馬しなかったが、民主党は、4年後の大統領選挙に強力な候補を獲得した。アメリカは、今回の危機で沈没しそうだが、長期的には復活してくるだろう。

日本の政治家は、恵まれている。日本の感染者数が少ないのは、医療関係者の努力に加えて、一般市民の努力も大きいと言われている。しかし日本の政治家がそういう国民の努力を称賛することもなく、感謝することもなく、模範を示すどころか自分の言葉と食い違う行動を見せ、和牛商品券を配布することがコロナ危機対策だと信じ込むだけで、指導者気取りになっているのだ。

果たして日本は、この状態で、本当にやっていけるのだろうか。

政治家はもっと謙虚になり、国民が見たいものを見せることを心掛けてほしい。そして努力する人を称賛し、感謝をする、という人としての基本の大切さを考え直してほしい。危機の時代だからこそ、まず政治家が率先して国民に見せなければいけない態度を何なのかを、考え直してほしい。

  『現代ビジネス』さんに、「『日本モデル』は成功するのか」という拙稿を掲載していたいだいた。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71284?fbclid=IwAR0KBfHiCCVJ9Nerm5lpO7TJpkNzaoiiP2IpN5Wn-5ie5mAHggo_wddkXoE その趣旨は、「密閉・密集・密接の回避」を強調する戦略を意識化することと、最前線で努力する人々を支援することの重要性だった。医療関係者、保健所職員、学校教員、そして蔓延を防ぐ努力をしている国民が、最前線の「英雄」であり、日本の戦略の可否は、彼らにかかっている、ということを言いたかった。

 ちなみに私はその前には、「私が政治家なら、即座に巨額の研究資金を(「感染症の理論疫学」を専門にする北海道大学の)西浦教授に預けるために奔走する」と書いたこともある。http://agora-web.jp/archives/2045006.html?fbclid=IwAR1xLTqn2mN0VT8rtEj7fPzJTV0Ixy2VfvWZOy-vT5Xrn6T1IKAMBetu58g 

その後、現実では、日本の政治家たちが、和牛商品券や旅行特待券を国民に配るために奔走しているという報道を見た。

奇抜な発想すぎる。日本はユートピアなのか。

もっとも吉村洋文・大阪府知事は、「和牛券の前に、各自治体の病床確保策に財政支援してくれ」とツィートした。私の発想に近い。和牛の話は、単に現場感覚の有無というだけの話なのではないか。

「日本モデル」については、松川るい参議院議員が、「検査数の少なさが、日本のクラスター対策と重症者への適切な医療提供が死亡者数抑制につながっている日本の対コロナ戦略をもっと世界に発信すべき」と国会で議論している。意識化のためには、こうした議論が望ましい。

ただ、それなら日本政府は、本当にクラスター対策従事者と医療関係者に対して戦略的な支援を重点的に行っているのか?という質問が出てくるだろう。行っていないのであれば、言っているだけ、になってしまう。説得力がない。やがてクラスター対策班が疲弊し、重症死亡者が急増すれば、説明が前提にしている現実も崩壊する。

「日本モデル」の最大の論点は、検査数の少なさだ。これについて多い方がいい、少ない方がいい、といった議論がなされすぎて、本質が見えなくなっていると感じる。問題は、医療崩壊を起こさないような検査数の適正管理だ。医療側と検査側の能力向上との相対的な関係で、妥当な検査数は求められてくるはずだ。

さらに誤解を払しょくするために日本が強調するべきなのは、検査をクラスター対策の効率的運用のために戦略的に使っている、というものだ。検査体制に余力がないと、クラスター対策班が、感染ルートの識別のために集中的に検査を行いたいときに機動力を発揮できない。

「クラスター対策のための検査能力の確保が戦略的に必要だ」、という説明の方が、「検査数は少なくてもいい」という説明よりも、少なくとも海外向けには、理解されやすいと思う。

ところが、検査数の抑制的管理が、クラスター対策の戦略の一環として行われている、という説明は、実は日本国内でもまだあまり聞かない。それでは外国人に理解されるはずがない。もっと意識化を図らないと、戦略的運用の進化も果たせないのではないか?

「日本モデル」では、「自粛」に重きが置かれる。逸脱者が現れると、「自粛を、繰り返し強く要請する!!!」といった冗談のような話が、為政者の口から飛び出してくる。「自粛せよ、強く繰り返す要請する!!!」のほうが法的措置による移動の規制より望ましいのは、為政者が自分では何の責任もとりたくないことが理由であるのは、確かであるように思う。

それならせめて「自粛」した人を支援するべきだ。「自粛」なのだから、税金は投入しない、感謝もしないということになっているらしいが、法的規制による「自粛」は責任が発生するので避けたいが、繰り返し強く要請する「自粛」は法的責任が発生しないので使い勝手がいい、という為政者中心主義の目線は、長続きしないように思う。

日本は現場の人の努力によって支えられている。だがそれだけに依存しているのでは、長期戦は戦えない。補給物資が必要だ。和牛商品券は、現場の人を助けない。長期戦を戦うためには、戦略的な発想にもとづいた支援を現場に提供する政治家が必要だ。

 遅かった印象はあるが、まだ遅すぎない。オリンピック延期が一斉に関係者の口から出た323日、小池百合子東京都知事が、「今後3週間が『オーバーシュート』が発生するかどうかの大変重要な分かれ道」だと語った。そのうえで小池知事は、(1)換気の悪い密閉空間(2)多くの人の密集する場所(3)近距離での会話、の3条件が重なる場所を避けるよう都民に呼び掛けた。そのうえで無発症の若者層が無自覚のうちにウイルスを拡散させる危険を回避するように呼び掛けた。

 これは「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」が打ち出してきており、319日の「状況分析・提言」でいっそう強調した指針にそった内容の呼びかけだ。「密閉・密集・密接」の回避と略され始めた「3条件が重なる場所を避ける」呼びかけは、専門家会議が重視するデータに基づいている。
 若者への呼びかけは「クラスター発生」防止戦略と呼ぶべきもので、完全封じ込めではなく、大規模な飛沫感染の発生を防ぐ戦略だ。ウイルスの拡散には、もう一つ接触感染があるはずだが、こちらはクラスター発生にはつながらないという考え方なのだろう。

この飛沫感染クラスターの発生防止に一点集中的な焦点をあてる戦略は、日本独自のものではないか。もちろん諸外国で警戒されていないわけではないが、外出禁止・渡航禁止・商店閉鎖などが相次いで導入されている欧米諸国には、「3条件が重なる場所を避ける」ことに人々に意識を一点集中させるほどの戦略は見られない。

したがって日本の「専門家会議」の提唱は、実は思い切った戦略なのである。

3条件が重なる場所を避ける」だけなら、経済活動その他の日常生活を全面的にストップさせる必要がない。もちろん大きな影響を受ける業界はあるが、欧米諸国が導入している措置と比べたら、その狙いと性格が全く異なっていると言ってよい。この戦略の前提は、完全封じ込めではなく、クラスター防止だけを目指す、という考え方だが、それはクラスターさえ防止すれば、医療崩壊を回避する範囲内で拡散を抑え込んでコントロールできる、という考え方でもあるのだろう。ある種の社会実験の様相はぬぐいえない。しかし、この前提を共有するということにも、今や日本社会において広範なコンセンサスがあると考えていいのだろう。

「密閉・密集・密接」の回避戦略は、これまで謎とされてきた満員の通勤電車がなぜクラスター化しないのか、といった素朴な問いにも答える含意を持っている。答えは、駅に停まるごとに換気がなされるだけでなく、乗客は接近しても決して会話をせず無言のままで、万が一咳やくしゃみをしてもマスクで拡散防止するなどのエチケットを守っているから、になる。したがって、この戦略の採用は、日本の満員通勤電車を止めないまま、コロナ対策を行う、という決意表明でもある。

万が一、この戦略が間違っていたら、大変だ。しかし安倍首相がこれに賛同し、地方自治体も同じ考え方にそった対策をとることがはっきりしてきた。日本全体が「専門家会議」の戦略にそった対応をとろうとしている。関係者が、一つの共通戦略にもとづいた協調行動がとれるようになっているのは、良いことだ。

「密閉・密集・密接」の回避戦略は、今や日本のコロナ対策の原則であるだけでなく、国際的な比較の意味で象徴でもある。日本の国運がこの戦略にかかっている、といっても過言ではないだろう。

この戦略を導き出すデータは、北海道大学大学院医学研究院の西浦博教授の研究にもとづいているようだ。西浦教授は、専門家会議の委員であるだけでなく、最初に感染者の拡大が見られた北海道において、助言者として貴重な役割も演じたようである。西浦教授の専門は、「感染症数理モデルを利用した流行データの分析」であり、日本でも稀有な研究者であるようだ。この西浦教授が北海道庁のすぐ近くに研究室を持っていたのは、日本にとって幸運であった。西浦教授自身の言葉によれば、現在の日本で「医学部に同専門(感染症の理論疫学[数理疫学])を中心的課題として掲げる教室は私たちが知る限り自身らだけ」なのだという。http://hygiene.med.hokudai.ac.jp/greeting/ 

今、日本において、西浦教授ほど重要な人物は他にいないのではないか。私が政治家なら、即座に巨額の研究資金を西浦教授に預けるために奔走する。間違っても来年度の研究費の申請書作りなどのような事柄に、西浦研究室のメンバーを従事させてはいけない。

今や自由主義を標榜する欧米の資本主義国は、かつてない激震の中で沈滞しようとしている。

日本が「日本モデル」で成功するかどうかは、世界史的な意味を持っている。そして、その日本の運命は、この「密閉・密集・密接の回避」と簡明に題された戦略に、かかってきていることが明らかになってきた。

 

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