「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

2020年06月

 今回の新型コロナをめぐる議論を見ていて痛感したことの一つが、日本にはびこる欧米偏重主義だ。科学者の間で「世界の中心は欧米」の考え方がはびこっているだけではない。一般人の間でも「新興国で感染拡大」のように、経済規模の進展度に応じて感染が順々に広がるのが世の中の必然であるかのような思い込みが根強い。

 「今の東京は2週間前のニューヨーク」論は記憶に新しいが、「アフリカはやがて感染拡大する、3カ月してヨーロッパのようになっていないとしてもそれはアフリカが後進的だからで、いつか必ずアフリカはヨーロッパのように感染拡大する」という根拠のない思い込みに辟易とする場合が多い。ひどい場合には「アフリカのデータは信用できないだろう」という偏見で一刀両断である。

 確かにアフリカに限らず、紛争中の国などでデータの収集に限界があるのは確かだろう。しかしそういう国にこそWHO等の国際機関が入って、少なくとも国家行政への指導を入れている。大陸全域のデータは、アフリカ連合(AU)のアフリカ疾病予防管理センター(Africa CDC)が監督している。「世界にアフリカは存在していないに等しい」という偏見を振りかざして、「日本の死者数が欧米より少ない理由は・・・」などの医学理論などを正当化しようとする姿勢は、医学界では当然なのかもしれないが、国際政治学者の私は大きな疑問を感じざるを得ない。

 527日の記事で世界各地域の比較を示してみたが、http://agora-web.jp/archives/2046302.html 3週間たったところで、あらためて示してみたい。各地域の人口比率を把握されていない方も多いと思うので、比較を目的にして、100万人当たりの感染者数、100万人あたりの死者数、そして死者数の感染者に対する割合=致死率を示してみた。感染者の数については検査能力によって左右されるのは事実だろう。その意味では、判明した陽性者の中から死者がどれくらい出たかを示す致死率は、最も重要なデータになると思う。(出典:worldometer https://www.worldometers.info/coronavirus/#countries )(各国の地域分類は国連公式地域分類に依拠)

 

(6月15)

地域

準地域

感染者数(/mil

死者数(/mil

致死率(%)

アフリカ

 

184.89

4.93

2.66

 

北アフリカ

297.43

12.50

4.20

 

東アフリカ

57.36

0.95

1.65

 

中部アフリカ

134.31

3.04

2.26

 

南部アフリカ

1,047.09

22.02

2.10

 

西アフリカ

134.31

2.64

1.96

米州

 

3,837.07

201.55

5.25

 

北米

6,150.57

341.97

5.56

 

カリビアン

783.18

21.09

2.69

 

中米

1,076.38

102.58

9.53

 

南米

3,294.55

139.56

4.24

アジア

 

355.73

8.82

2.48

 

中央アジア

401.99

2.59

0.65

 

東アジア

69.32

3.54

5.11

 

東南アジア

178.19

5.25

2.95

 

南アジア

410.99

11.86

2.89

 

西アジア

1,993.77

28.03

1.41

ヨーロッパ

 

2,824.89

233.14

8.25

 

東欧

2,410.86

42.63

1.77

 

北欧

2,845.24

345.06

12.13

 

南欧

3,913.74

421.49

10.77

 

西欧

2,583.41

289.33

11.20

オセアニア

 

218.83

3.03

1.39

 

なお世界平均の致死率は5.43%である。前回も指摘したが、日本に蔓延している偏見に反し、「欧米よりも・・・」論に意味がないのは、世界の中で突出して欧米の致死率が高いからである。あらためて強調するが、むしろ問うべきなのは、「なぜ欧米でここまで被害が広がったのか」である。

参考までに3週間前の数字も示しておこう。「アフリカはまだ感染拡大していないが、いつか必ずきっと被害を広げる、だってアフリカなんだから」論を裏付ける動きが見られないことは付記しておきたい。

 

(526)

地域

準地域

感染者数(/mil

死者数(/mil

致死率(%)

アフリカ

 

88.10

2.61

2.97

 

北アフリカ

158.51

7.36

4.64

 

東アフリカ

27.50

0.48

1.76

 

中部アフリカ

70.16

1.96

2.79

 

南部アフリカ

354.95

7.18

2.02

 

西アフリカ

75.62

1.60

2.12

米州

 

2,510.62

144.90

5.77

 

北米

4,861.26

288.51

5.93

 

カリビアン

486.61

16.30

3.35

 

中米

503.78

44.61

8.86

 

南米

1,524.66

75.83

4.97

アジア

 

213.27

6.04

2.83

 

中央アジア

238.31

1.61

0.68

 

東アジア

68.06

3.48

5.11

 

東南アジア

120.26

3.69

3.07

 

南アジア

200.74

6.98

3.48

 

西アジア

1,373.76

21.29

1.55

ヨーロッパ

 

2,563.15

225.41

8.79

 

東欧

1,622.84

26.95

1.66

 

北欧

3,327.95

413.17

12.42

 

南欧

3,738.60

407.66

10.90

 

西欧

2,641.58

278.81

10.55

オセアニア

 

214.51

3.02

1.41

 

 

 6月11日の大阪府の専門家会議に招かれたオブザーバーたちの発言が話題を呼んでいる。「コロナ収束に自粛は関係なかった」といった見出しで取り上げられているからだ。 https://news.yahoo.co.jp/articles/1a9df6b807e91ef984441413aca7dee82f620766  
 私はこれまで吉村府知事の「大阪モデル」の方向性を絶賛し続けてきている。そのため「自粛が必要だったか否か」を検討しているかのように扱って様子を矮小化する無責任で悪意あるマスコミによって、吉村府知事の行動の意味が誤解されてしまうことを懸念する。そのことについて少し書いてみたい。
  自粛の意味は、政策論で判断すべきであり、その効果の度合いだけで評価するものではない。緊急事態宣言は、「医療崩壊を防ぐ」ために実施された。マスコミが真面目に報道していないだけで、4月7日宣言発出記者会見の冒頭から安倍首相もそのことを明言していた。したがって緊急事態宣言の意味は、4月上旬時点における「医療崩壊を防ぐ」目的設定の妥当性と、その目的のためにとられた手段との相関関係において評価されなければならない。http://agora-web.jp/archives/2046391.html
  4月10日に国際政治学者の私が「増加率の鈍化が見られる」と書いていたのに、4月15日に「42万人死ぬ!」を三大主要紙を通じて広報するといった「西浦モデル」は、明らかに過剰であったが、目的の切迫性を鑑みて、我が身を捨てて運動家として行動した、という意図があったということなのだろう。
 6月11日の大阪府専門家会議における発言が大きく取り上げられた大阪大学核物理研究センター長の中野貴志教授が唱える「K値」の考え方の基本は、7日移動平均でトレンドを見よう、ということだと思うが、それは私が緊急事態宣言中の「検証」シリーズでやっていたことだ。普通に数字を見ていた人は皆、4月上旬から私と同じように考えていた、ということである。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda
 大阪府は、医療施設における重篤患者の収容能力を高めて、「医療崩壊」点を上方移動させようとしている。正しい行動である。「医療崩壊を防ぐ」は政策論の話なので、医療能力の量的向上によって、決壊地点が変わるのである。 もちろん重篤患者の発生を抑制することも、「医療崩壊」を防ぐための大きな手立てである。しかし初期段階にとった緊急全面自粛措置を繰り返しとらなければならないとしたら、それはあまりにも芸がない。「医療崩壊を防ぐ」ために要領を踏まえた対策が講じられるべきだ。それが吉村大阪府知事がやろうとしていることだろう。
 吉村府知事は、特に奇異なことをしようとしているわけではない。この「大阪モデル」路線は、むしろ2月からの「日本モデル」路線の基本に回帰する方向性である。
 「西浦モデル」が「日本モデル」に対する「クーデター」だった。しかしそれは過去の事件である。私が以前に書いたように、5月になってからの「大阪モデル」の提唱が、「日本モデル」の崩壊を防いだのである。
 なぜ「西浦モデル」は「クーデター」なのか?それは「感染者数をゼロにする」という達成不可能な目標のために、国民を脅かすだけ脅かし、自粛するだけ自粛させて、終わりなき自滅行動に駆り立てるものだからである。
 それとは逆に、「日本モデル」の参謀役である押谷仁・東北大学教授は、厚労省がクラスター対策班を招集するよりも早い2月上旬の段階ですでに、「我々は現時点でこのウイルスを封じ込める手段を持っていないということが最大の問題である」と述べ、その理由も明快に論理的に説明していた。そして、「封じ込めが現実的な目的として考えられない以上、対策の目的はいかにして被害を抑えるかということにシフトさせざるを得ない」と洞察していた。https://www.med.tohoku.ac.jp/feature/pages/topics_214.html
 このいわば「押谷モデル」の延長線上に、2月25日に発出された「新型コロナウイルス感染症対策本部」の最初の「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」において、次のような目的が設定されたのである。
――――――――――――――
・感染拡大防止策で、まずは流行の早期終息を目指しつつ、患者の増加のスピードを可能な限り抑制し、流行の規模を抑える。
・重症者の発生を最小限に食い止めるべく万全を尽くす。
・社会・経済へのインパクトを最小限にとどめる。https://www.kantei.go.jp/jp/singi/novel_coronavirus/th_siryou/kihonhousin.pdf  ――――――――――――――
 「封じ込め」は不可能だが、「医療崩壊を防ぐ」措置をとりながらも、「社会・経済へのインパクトを最小限にとどめる」措置をとっていくのが、「日本モデル」の基本的流れだ。「三密の回避」などのクラスター発生予防のための行動変容呼びかけなどに大きな特徴を持つ「日本モデル」は、2月初旬からの「押谷モデル」の洞察に基盤を持っている。
 「欧米が世界の中心であり、欧米を模倣しないのは、日本特殊論だ」といった根拠のない偏見に毒された人たちにとっては、「三密の回避」などは、中途半端で曖昧なユルユル政策のことでしかなく、日本人がダメであることの証左でしかなかった。 しかし「日本はすでに感染爆発を起こしている」といった主張を繰り返していた産婦人科医の渋谷健司氏のような人物が、その主張の根拠を示す義務から未だに逃げ続けているというのが、この3カ月で実際に起こった現実である。
 6月11日の専門家会議で、宮沢孝幸・京都大学ウイルス・再生医科学研究所准教授は、「夜の町や飲み会、カラオケで騒ぐと唾液が飛んで感染するため、その行為をやめさせるのが一番有効」、「満員電車でも、1人ひとりが黙っていたり、マスクをしていればまったく問題ない。接触機会よりも感染機会を減らすべき」と述べた。これは新奇な発言というよりも、むしろ「常識」論であると言うべきだろう。われわれが「欧米を模倣しなければ日本特殊論だ」とか、「インペリアル・カレッジに行ったことがある者だけが世界の真理を知っている」といった恫喝に屈することなく、自分自身で普通に推論を働かせれば、わかることだ。
 これからも「日本モデル」では、基本方針にしたがい、理性的な推論を働かせて、必要な政策をとっていくことが望ましい。万が一にも、怪しい肩書を振りかざす人物たちに惑わされてはいけない。
 日本の幸運は、尾身茂・専門家会議副座長や、クラスター対策班の押谷教授ら、WHOやJICAでの公衆衛生の政策実施の実務経験を持つ人物が、政策決定の要所を固めていたことだった。そして吉村大阪府知事が5月になってから全国をけん引するリーダーシップを発揮したことだった。
 この「日本モデル」=「大阪モデル」路線の重要性を、いい加減にマスコミの人たちにも気づいてもらいたい。
 そして、無責任な発言に終始した人々に対しては、「俺は偉大な専門家だ、どんなに間違ったことを言っても許されるし、いつでも発言内容を変えても咎められない」といった居直りをさせず、厳しく自分自身を見つめ直すように、問い詰めてほしい。

 「感染者 110人の入国で3か月後に大規模流行専門家」という記事が、少し前にあった。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200602/k10012455371000.html 特に大きな波風も立てずにやり過ごされてしまったのだが、この記事で相変わらず「日本のミスター専門家」という位置づけになっていたのが、西浦博・北海道大学教授であった。

 最も国民を脅かした者が、最もコロナ対策に貢献した者だ、という信念を持つ人々の間では、西浦教授はカリスマ教祖のように扱われている。しかし、「42万人死ぬ!」の効果は、続けては使えない。オオカミ少年のように扱われてしまうからだ。

 無論、国境を越えた人の移動の回復にリスクが伴うことは当然であり、相当な準備を施しておくことが必要である。私自身も繰り返してそのことを書いてきている。http://agora-web.jp/archives/2046078.html

 しかしそれにしても西浦教授の「入国」問題に関する「予言」は、意味がよくわからないものだった。その理由を三つ挙げてみよう。

 第一に、「大規模流行が起こる」というのが殺し文句になっているのだが、何をもって「大規模流行」とするのかが、まったく説明されていない。「42万人死ぬ!」のときに数字を使って脅かして、後で議論になったという経験を踏まえて、「大規模流行が起こる!」という抽象的な言い方だけにとどめる作戦のようだ。だがそれは、科学者らしからぬ態度ではないだろうか。

 西浦教授は、515日、小池都知事とともに東京都の動画に出演し、緊急事態宣言が解除されて元の生活に戻ったら、その2週間後から感染者数が激増し始め、一日200人の新規感染者数を超え、さらに指数関数的に激増し続けると、断言口調で、予言した。http://agora-web.jp/archives/2046174.html この「西浦モデル2.0」の「予言」は、6月も中旬になってきた今、現実によって検証されなければならない。西浦教授の「予言」によれば、人と人との接触の2~3割減くらいでは、結果はほとんど変わらない。この人と人との接触の削減は、かつての西浦教授の専門家会議記者会見での熱弁によれば、渋谷駅と難波駅の人の移動のデータによって測定される。6月になってからの駅での人の移動はせいぜい平時の2~3割減程度のレベルにまで戻ってきているので、全東京都都民に「さらにいっそう人と人との接触を減らしてください!」のアピールの根拠となった「西浦モデル2.0」の「予言」は、6月も中旬になってきた今、現実によって検証されなければならない。

 もっとも実は西浦教授は非常に意地悪な方で、あるいは舌足らずな方であるかもしれない。「西浦モデル2.0」の中に、誰も言っていなかった「海外からの入国の全面的な回復」といった意味を勝手に含みこませていたのだという可能性もあるのかもしれない。そうすると、「西浦モデル2.0」の解釈の幅は大きく変わってくる。515日の動画の目的は、今一度東京都民を震え上がらせて家から出れないようにすることだったので、わざとそのことにはふれなかった、という事情があったのかもしれない。

 しかしもしそうだとすれば、一日10人の感染者の入国措置による「大規模流行」とは、せいぜい3月末に見た新規感染者数の増加が再び見られるようになる、というだけの話で、つまり感染者の入国者を止める前の状態に戻すと、感染者の入国者を止める前の状態に戻る、という恐ろしく平凡な話であっただけに終わってしまう。

 いずれにせよ科学者であれば、「大規模流行が起こる」、といった抽象的で中身が全く不明瞭な言葉を使って、マスコミの露出度を高めることだけを狙った行動をとるのは、控えるべきだ。

 第二に、西浦教授は、相変わらず自分の計算式の条件を全く語らない。たとえば入国想定する10人の感染者が、入国後にどのような行動をとるか、どれくらいの期間日本に滞在するか、どれくらいの感染率がある地域から入ってくるか、等によって、試算結果が変わるはずであるのは、言うまでもない。何をもって平均値の根拠とするかによって、試算結果は全く異なるものになる。その根拠の妥当性を議論するのが、科学というものだろう。ところが西浦教授は、常に一貫して、計算根拠を明らかにしない。

かつて西浦教授は、記者会見の場で、データ開示を求めるメディアに対して、忙しいのでできない、と答えたこともあった。SNSを通じた自らの主張の発信に熱を入れながら、そう答えていたことがあった。

 通常は、将来の予測モデルは、妥当と言える変数の範囲を定めて、現実的に予測される範囲で最悪の場合に・・・、といった言い方で、結果を示すものだ。しかし、西浦教授は、あたかも世界の真理を知っているかのように、常に断言調で、ただ一つの結果の可能性だけを告げる。

 西浦教授が付け加えるのは、「125百万人の国民の生活の全てにおける人と人の接触の8割の削減」といった絶対に測定不可能な抽象理念だけであり、その抽象理念に付属する数字だけである。「入国感染者10人の場合」というのも実は同じで、決まりきった行動しかしない「ミスター感染者」といったロボットが次々と入国してくるわけではない現実からすれば、極度に抽象化された話である。

 「42万人死ぬ!」の時には、415日の感染者増加率が明らかに鈍化していた時期になってもなお基本再生産数2.5という現実から乖離した条件に固執していたため、議論を呼んだ。そこで最近では基本再生産数を下方修正して計算しているようだが、「ミスター専門家」西浦教授がその時々の気分や決断で判断した計算式が、絶対に正しいなどという保証は、もちろんどこにもない。科学者として真摯に行動するのであれば、自らの計算の根拠やデータを、すべて公に明らかにして、公平な精査を仰ぐべきではないか。

 ちなみに基本再生産数2.5は欧州において記録されたことがあるというが、欧州の被害が世界的に見て高すぎるのである。数多くの日本の科学者は、「欧米が世界の中心です」、という価値観に染まっており、せいぜい「アジアに日本以外にも国があることは知っています」程度の世界観で生きている。しかし、西浦教授が研究滞在したイギリスのインペリアル・カレッジの有名教授でも、見込み違いの見解で批判されいるのが現実だ。「世界の中心は欧米だ、俺は世界の中心を知っている」という態度ではなく、目の前の現実を真摯に見据えて、自分の見解の根拠を常に公にさらしていく態度が、研究者としてのあるべき姿ではないだろうか。http://agora-web.jp/archives/2046302.html 

 第三に、西浦教授は、いつも根拠不明な踏み込んだ主張をしすぎる。入国感染者による「大規模感染」の件でも、「多数の感染者が入国すると検疫で食い止めるのは限界があるので、入国者そのものを制限する必要がある」と主張している。だが、検疫体制がどうなるかは、まだ将来にわたって整備される話であり、そもそも感染症数理モデルによって証明できる話ではない。それにもかかわらず、西浦教授は、単なる個人的な憶測だけを振り回して、断定的な結論を正当化するだけでなく、他人の糾弾までするのである。

 西浦教授は、「制限の緩和については政府が判断をしているが、感染リスクをどこまで踏まえているのか、透明性をもって明確に語られていない状態だ」と語り、「検疫や入国制限は省庁の管轄がそれぞれ異なり、縦割りの状態にある。政府が一体となって、感染者が入国するリスクを分析し、制限を掛けたり緩和したりする仕組みを急いで作らなければならない」とも述べる。https://blog.goo.ne.jp/jp280/e/a9edc9edd8117c8cfce624942338ce16 

 しかし不透明なのは、西浦教授のこうした断定的な発言の根拠のほうだ。政府はまだ入国について何も目立った判断をしていない。ただ西浦教授が「大規模感染起こる!」と脅かしているだけの状態である。それなのになぜ西浦教授ではなく、政府のほうが、「制限の緩和については政府が判断をしているが、透明性をもって明確に語られていない状態だ」などと言われなければならないのか。西浦教授は、政府批判に熱を入れる前に、まず科学者として真摯な態度で、自らの「制限の緩和モデル」の判断の根拠を、公の議論にさらしていくべきだ。

 SNSでは、西浦教授が、クラスター対策班に入ってからの報酬の辞退を希望したということが、英雄的な美談として扱われている。https://twitter.com/ShinodaHideaki/status/1271295772412112896 西浦教授としては、妻の柏木知子氏が小樽検疫所勤務の厚労省医系技官であり、その上司の石川直子厚労省医系技官が専門家会議副座長を務める尾身茂氏が理事長を務める地域医療機能推進機構の理事であり、その人的関係が「厚労科研」の流れに関する議論の対象になったりすることもあるため、自重したという背景もあるのかもしれない。https://www.fsight.jp/articles/-/46916

 だが西浦教授が、毎日厚労省に通勤してデータを独占していたにもかかわらず、しかし「独立性」を主張して、正規のメンバーではない専門家会議の記者会見に現れて座長の発言と一致しない内容を断定的に述べたり、「クーデター」を起こして「42万人死ぬ!」を一斉にマスコミに流したり、政府の方針に真っ向から挑戦して「感染者ゼロ」を目指す国民運動を厚労省の中から主導していた事態は、果たして「報酬をもらわなかった」ということによって、全て綺麗さっぱりと清算される事柄なのか。

 独立した研究がしたいなら、大学で研究に専念し、一人の在野の研究者として発言をすればいい。

報酬さえもらわなければ、厚労省内部にべったりくっつきながら、その一方で一切責任をとることもなく国民を脅かす発言をし続けてもいいのか。それが真摯な研究者のあるべき理想の姿なのか。あらためて疑問が残る。

 緊急事態宣言はそもそも必要だったのか、という議論がなされている。これについて一言述べてみたい。

私自身は、「緊急事態宣言の検証」という題名の文章を13回書き、その他の文章も書く中で、47日に宣言が発出された直後から「増加率の鈍化」が起こっていたことを指摘していた。その後、4月中旬からは、新規感染者数は減少に転じたことも指摘し続けた。単純に数字を見ればわかることだった。しかし、それを無視した言説ばかりがあふれていることに苛立ったこともあった。https://twitter.com/ShinodaHideaki/status/1267465784235708416

 5月の「延長」決定後に、ようやく専門家層の発言も変わり始めた。そして緊急事態宣言終了後の529日「新型コロナウイルス感染症対策の状況分析・提言」において、「新規感染の『感染時期』のピークについては、4 1 日頃であったと考えられており、4 1 日頃までには実効再生産数が 1 を下回ったことが確認されている」(15頁)と記されたことにより、「ピーク」が緊急事態宣言発出前に過ぎていたことが公式見解として確立された。file:///C:/Users/H.Shinoda/Documents/%E7%AF%A0%E7%94%B0Works/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0/%E7%8A%B6%E6%B3%81%E5%88%86%E6%9E%90%E6%8F%90%E8%A8%80.pdf 

 そこで「もしピークが47日より前だったとしたら、本当に緊急事態宣言を発する必要があったのか?」という問いが出てきた、というわけである。

 だがこれについては、529日の専門家会議記者会見で尾身茂・副座長が繰り返し説明していたことに尽きると思う。https://www.youtube.com/watch?v=dTyYkV_lYco&fbclid=IwAR1dqLHpLNShWyJAAxzsWG0h0R_rEgQ4FAsCwEFuuOht0dnixz6_0GdvxvI 

 結局、緊急事態宣言は、「医療崩壊を防ぐ」ために行われたのである。実は47日の緊急事態宣言発出にあたって安倍首相は、そのことを自らの会見の冒頭で強調した。なぜ誰もそのことを思い出さないのか、安倍首相の説明の仕方が悪かったのか、メディアが常に話題作りのことだけを考えて他人の話に耳を傾けないのが悪いのか、私にはわからない。しかし安倍首相は47日の記者会見で、緊急事態宣言の目的が「医療崩壊を防ぐ」である点を、はっきり述べていた。

「医療崩壊を防ぐ」を政策目標とする考え方とは、つまり感染者(重症者)と医療提供体制との相関関係を重要な政策判断ポイントとする考え方である。「医療崩壊を防ぐ」という目標に照らして政策を評価するということは、常に医療提供体制と照らし合わせて、感染のピーク時期や増加スピードを評価するということである。

そこで他国との比較における日本の感染状況の評価などは、「医療崩壊を防ぐ」という目標にてらせば、無関係である。重要なのは、日本(の各地域)の感染状況と日本(の各地域)の医療提供体制との関係だけである。

47日の時点で「医療提供体制も逼迫してきていた」(『状況分析・提言』2頁)ことが事実であれば、緊急事態宣言は首尾一貫したものとして正当化できる。なぜならいずれにせよ「医療崩壊」を防ぐためには追加的な感染者数の減少化措置が望ましかったと言えるからである。

この評価は5月になって行われた「延長」に対しては、より微妙なものになる。なぜなら感染者数の減少がすでに顕著に進展し、医療提供体制も持ち直し始めていたからである。

その状況を見た吉村府知事が、「医療崩壊を防ぐ」ことが確認できれば自粛を解除すると定めた「大阪モデル」が注目され、歓迎されることになった。結果として、「大阪モデル」がけん引する形で、「日本モデル」の「医療崩壊を防ぐ」ための緊急事態宣言は早期に終了していった。

現在は、緊急事態宣言の再発出の恐れがないか、といったことが、感染者数の日々の増減に応じてささやかれてもいる。しかし再発出は、「医療崩壊を防ぐ」という目的にそって行われるのでなければ、論理一貫性がない。たとえば大阪ではICU病床数の拡充といった医療提供体制の充実を図っているということなので、こうした地域では将来の「医療崩壊を防ぐ」の敷居は上がることになる。http://agora-web.jp/archives/2045885.html 日々の新規感染者が前日より多いとか少ないとかだけで、緊急事態宣言を決定すべきではないのである。

「第一波」「第二波」といった言葉が独り歩きしている場合もあるが、現実の社会状況を見て「第二波」を言うのでなければ、机上の空論である。

なお529日の専門家会議記者会見では、相変わらず本旨に沿ったやり取りが少なく、質疑応答の大半が「議事録を公開しないのか」といった質問をめぐるやり取りにあてられていた。おなじみのような光景とはいえ、残念であった。座長・副座長が、「とにかく『状況分析・提言』を読んでほしい」とどんなに訴えても、なお「専門家会議として議事録を出すように政府に訴えないのか」といったことだけを言い続ける記者たちがいた。

こんな記者たちに議事録を見せると、記者たちが『状況分析・提言』をますます読まなくなることは間違いないだろう。そして「何か政府批判になる種はないかな?」といった関心だけに引き寄せて議事録を渉猟し、混乱した話を盛り上げようとするに違いない。議事録は、残すべきだが、公開しなくていい。

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