「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

2020年10月

 日本学術会議の問題をめぐり、日本の恥部がいくつか露呈したように感じている。その一つが、「憲法学者」なるものの存在だ。

 日本学術会議は、文系学者が会員の3分の1を占めているだけでも不思議なのだが、そのうちの2割以上が法学者にあてられてきたことも不思議である。さらにその法学者のうちの少なくとも3分の1程度が共産党系の民主主義科学者協会法律部会の元理事などで占められてきたのは非常に不思議である。

 従来から共産党に近い学者が多いとされる「憲法学者」集団は、日本学術会議の既得権益に深く入り込んだ集団である。ひょっとしたら、ここはあえて黙っておこうという配慮が働くのかと思えば、全く逆になっていることに茫然とする。

 「憲法学者」は、極めて統制の取れた運動家ロボット集団のように「学問の自由を守れ」といったことを叫び、何か人類史に残る弾圧でも起こったかのような仰々しい言葉を並べて自らの不幸を嘆き続けている。

 多少なりとも関心がある者には自明であったことが、今回の事件でさらに広く露呈したのではないだろうか。日本社会における「憲法学者」なる存在が、単なる党派的運動家たちの集団でしかない、ということが。

なぜそう言えるのか、三つの観点から説明しよう。

 第一に、憲法学者は、議論よりも運動を重んじる。百歩譲って、日本学術会議問題に学問の自由の論点が関わる点があるとしよう。しかし世間一般では、多くの人々が、私も含めて、学問の自由の論点は関係がないと公に述べている。学者ではないが、日本の内閣総理大臣も、内閣法制局の確認を得て、そう述べている。それなのに、「これが学問の自由の侵害であることに一切異論の余地はない、憲法学者の間に一切の異論はない、だから菅政権は退陣せよ!」といったことを記者会見を開いて集団で主張することに余念がないのが、憲法学者なる極めて特殊な社会集団である。百歩譲って憲法学者であれば必ず100%そのように信じている人以外には存在していないのだとして、一切何ら異論を唱える議論の余地がなく、それを認める機運も絶対にない、としたら、本来であれば運動ではなく議論を尊重するはずの学術専門家の集団として、相当に異常である。

 第二に、全体主義カルチャーが半端ではない。憲法学者と名乗るのであれば全員が同じ意見でなければならない、という統制がすさまじい。しかもその内実は一握りの東大出身の人物の発言によって左右されている。学会内に争いがあるとすれば、その全体主義集団のボスの跡目争いで「俺が」「いや俺だ」がある程度で、果てしない「マウント」競争があるだけだ。このような異様なレベルの権威主義に全体主義を組み合わせた学界は、日本でも相当に特異で異常だと言わざるを得ない。

 第三に、学会の全体主義的総意として運動方針とされる内容のイデオロギー性が常にあまりにも明らかすぎる。世間一般で言うところの左翼系である。共産党系である。それ以外の意見に学界の総意がまとまる可能性がない。あらゆる社会問題について、左翼系の意見以外に憲法学者の集団から何らかの意見が聞かされることはない。恐らく異論は、認知される前に、学界から排除されるだけなのだろう。そもそも鋼鉄の人事システムのために、異論を公にしながら、大学のポストを得て憲法学者なるものになる可能性は乏しい、ということだろう。恐るべきは、「憲法学者」と特定の左翼系メディアの結びつきが完全に固定化されていることだ。「憲法学者」は特定メディアだけが真のメディアであるかのように語り、特定メディアは憲法学者の全体主義的に統制された意見だけが「学者の意見」であるかのように語る。団塊世代がまだ存在している間だけの時限付きビジネスに一つの学科に属する人々全員が群がる様子には、非常に強い印象を受ける。

 木村草太・東京都立大学教授の例を取ろう。固定ファンに向けて、自らの絶対無謬性を語り、自らが「ミスター憲法学者」であるかのように振る舞うことに余念がない。そして、自らと違う意見を表明する者を徹底的に見下して卑下する攻撃的な言葉を羅列することに異様な執念を見せる。https://news.yahoo.co.jp/articles/1605950bb99596e6c6546634826c64713f033b4e 

 木村教授は、学術的に言って、何の専門家なのか。学会報告と称して、三国志の登場人物になぞらえて自分の意見と違う者を揶揄する冗談のような報告などを、堂々と公にしているのを見ると、真剣な疑問を感じざるを得ない。(木村草太「集団的自衛権の三国志」全国憲法研究会(編)『憲法問題28』[2017年])。

 十分な数の固定ファンがいるだろう。木村草太教授には、早く大学を辞めて、手ごろな政党から立候補し、堂々と政治家に転身してほしい。

 日本学術会議会員の任命拒否問題が大きな話題となっている。率直に言って、過去に数々のスキャンダルを人工的な操作で作ってきたグループの特定メディアが、日ごろから政権批判を繰り返している学者たちと、お馴染みのキャンペーンをするために、新しい題材を見つけてきた、という印象は拭えない。当初は、私はたいして関心を持っていなかった。

もちろん論点がたくさんあるのは確かだろう。いずれも日本社会に深く根差す深刻な問題だ。議論は数多くすればいい。私自身は、そのすべてに関わるつもりはない。ただ、ここでは法的問題についてだけ、少し書いておきたい。

 というのは、菅首相によって任命拒否された6名の方々の中心が法律分野の方々であるのに対して、当事者の方々を含めた法律家の方々が真っ向から一斉に反政府運動を行い始めた、という構図が見え始めているからだ。任命拒否された6名の中でも、政治学者の宇野重規教授が「何も語ることはありません」というコメントを出しているのに対して、法学者の当事者の方々は一斉に自ら政権批判を展開している。鮮明なコントラストだ。

 背景に、2015年安保法制の際の憲法学者を中心とする方々の集団的な反政府運動の経験がある。法学者の方々自身が、党派的対立の当事者だ。そうだとすれば、まず心配しなければならないのは、果たして客観的な法律論が行われるかどうか、だろう。このような党派的対立の中で最も損をするのは、健全な情報にもとづいて考える機会を与えられるべき一般国民だ。

この点については、私自身もある種の思い入れがある。集団自衛権の合憲性を論じ、日本の憲法学の批判を行った一連の著作を通じて(『集団的自衛権の思想史』『ほんとうの憲法』『憲法学の病』『はじめての憲法』)、日本の憲法学の憲法解釈の問題性を、人事制度の慣行まで視野に入れて議論しようとした。しかし、「篠田は三流蓑田胸喜(戦前の右翼)だ」「法律家でない者が法律を語るな」といった類の批判を例外として、数名の良心的な方々を除けば、法律家の方々からは完全無視を貫かれている。今回のこの文章も同じように扱われるのだろう。だがそう思うからこそ、やはり一言書いておかざるをえないという気持ちがしてきている。

 

「学問の自由」と「統帥権」

 

日本国憲法23条は「学問の自由は、これを保障する。」と定める。これは一連の基本的人権の保障の規定の中で定められている条項である。学問の「自由」の保障は、思想・良心・信教・表現・職業選択の「自由」と列挙され、いわゆる「自由権」規定群の日本国憲法が定める基本的人権の一つを形成している。ここで憲法が保護している法的利益は、個人の尊厳である。学問を自由な追求が許されなければ、個人の尊厳は守れない。この人権規定によって保護されている「学問」とは、大学でお給料をもらっている人々の特権的地位を保障する何ものかではなく、もっと広く全ての国民の個人の尊厳を形成する精神的活動のことを指しているはずだ。

そのように保護法益が個人の尊厳である人権規定を根拠にして、ある組織体の完全独立性を主張することは、果たして可能だろうか。

その組織が人権保障に不可欠である場合、可能だろう。そうでなければ、不可能だ。

内閣総理大臣が、自らが「所轄」する組織(日本学術会議法1条2)の自らが任命権を持つ(同法17条)会員の任命にあたって、推薦を拒絶してはならないという主張が、基本的人権によって論証されるという主張は、控えめに言って、理解が困難だ。高度な論証責任は、むしろ内閣総理大臣の裁量を禁じる側の方にあると言っていい。

かつて大日本帝国憲法(明治憲法)をめぐって、「統帥権」と呼ばれた概念をめぐる議論があった。その根拠は、「第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という短い規定であった。これは、本来は、明治憲法における天皇を最高指揮官とする軍隊の指揮命令系統を法的に定めたものだ。ところが、米英に譲歩をして1930年ロンドン海軍軍縮条約の締結にこぎつけた浜口雄幸内閣を拒絶し、軍部の超然性を主張するために、軍部指導者層が持ち出したのが11条を根拠にした「内閣は統帥権を干犯できない」という主張であった。明らかに、当時の軍部指導者層は、11条を拡大解釈して、自らの特権確保に都合の良いように濫用したのである。これについて、野党やメディアは、浜口内閣を攻撃するのに好都合と考え、「統帥権干犯」を非難する論陣に加わった。

戦前の日本を破綻させた大きなきっかけは、独善的な軍部指導者層と、日和見的な野党政治家とメディアの「統帥権干犯問題」をめぐる無責任な態度だった。

今回の事件で菅内閣を批判する論者の中に、「このままでは戦前の復活だ」といった昭和に使い古された議論を用いる方が目立つ。しかし「学問の自由干犯」の主張が、「統帥権干犯」の主張と同じ党派的な憲法の拡大解釈の精神構造によって生まれていないか、よく考えてみるべきだ。

 

学問の自由と制度的保障論

 

安保法制違憲論の急先鋒の一人であった憲法学者の木村草太教授は、今回の問題について、次のように主張して、政府を批判している。「憲法23条が保障する学問の自由には、『個人が国家から介入を受けずに学問ができること』と、『公私を問わず研究職や学術機関が、政治的な介入を受けず自律すること』の二つが含まれる。学術の観点から提言をする日本学術会議は、学術機関の一種だ。憲法23条は『公的学術機関による人選の自律』も保障しており、今回の人事介入は学術会議の自律を侵害している。学問の自由に、公的研究職や学術機関の自律が含まれるのは、一般的な解釈だ。」https://www.asahi.com/articles/ASNB27V60NB2UTIL04Q.html?fbclid=IwAR1uI3p1InAGalP5XiRTeQr7kTkCsOSnL23VwWAwPEIbO316FGKKLgaN1ZM

私にとっては久しぶりの木村節だ。教科書レベルの一般論の陳述の後に、根拠不明な「日本学術会議は、学術機関の一種だ」という断定と、「一般的な解釈だ」という多数派・通説の側にいるのが自分だという権威主義を織り交ぜて、結論が自明であるかのような印象を作り出す。いつもの木村教授の議論の方法である。

しかし、「わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし」、「科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする」(日本学術会議法前文・2条)という政治的性格を持つがゆえに「内閣総理大臣の所轄」(同法12)となっている日本学術会議は、果たして言葉の正確な意味での学術機関であろうか。果たして基本的人権としての「学問の自由」を根拠にして、不可侵の独立性を憲法によって保障されている組織だと言えるだろうか。相当に怪しいように思わざるを得ない。

次に「学問の自由に、公的研究職や学術機関の自律が含まれるのは、一般的な解釈だ」という点を見てみよう。ここで木村教授が言及しているのは、いわゆる「制度的保障論」のことであると思われる。これは、基本的人権の主体はあくまで個人だが、制度を保障しないと個人の権利が保障できない場合には、制度の保障が人権保障の観点から正当化される、という議論である。大学の自治が学問の自由の観点から保障されるのは、大学などの学術機関の制度的存在が保障されなければ、学問の自由という基本的人権の保障も、絵に描いた餅に終わってしまう、という制度的保障論の考え方による。

制度的保障論は、伝統的にドイツ法学の影響が根強い日本の憲法学で、数多くの議論がなされてきた分野だ。私は、この問題に精通した専門家を気取るつもりはない。しかし制度的保障論が、カール・シュミットの名と深く結びついていたり、ナチス・ドイツにも利用された経緯を持っていたりする概念であることくらいは、法律家ではない私でも、もちろん知っているくらいだ。法律家の方々が知らないはずはない。制度的保障論の濫用を通じた不必要な制度保障は、かえって基本的人権を阻害する。これについては数多くの議論を行ってきた憲法学者の方々が、誰よりもよく知っていることのはずだ。

制度的保障論を取り入れた憲法23条解釈を行って、いわゆる大学の自治といった制度的保障を認めていく「一般的な解釈」を根拠にして、「内閣総理大臣は推薦された日本学術会議会員候補の任命を拒絶することはできない」、という結論を導き出そうとする態度には、明らかに論理の飛躍があると言わざるを得ない。

 

素直な日本学術会議法の解釈

 

今回の事件があって、私も初めて日本学術会議法なる法律を読んでみた。結果、素直な日本学術法の解釈は、次のようなものではないかと思わざるを得ない気がしている。

日本学術会議とは、「科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし」、「わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的と」した組織だ(同法前文・2条)。したがってこの組織の使命と目的は、学術活動を行うこと自体ではない。基本的人権を守ることでもない。日本の国家政策としての学術振興に寄与することが、この会議の使命・目的だ。

この政治的性格のために、「内閣総理大臣の所轄」とされ、構成員の任命も内閣総理大臣が行うことになっている。ただ内閣総理大臣が法律の目的に沿って「優れた研究又は業績がある科学者」を適切に任命するために、同会議は新規の会員の推薦を行う(同法7条2、17条)。内閣総理大臣による適切な任命に寄与することが、会議に会員を推薦させることの法的趣旨だ。

この際、任命者である内閣総理大臣は、推薦という寄与を受けながら、会員候補者が適切であるかどうかを審査する責任を持つ。内閣総理大臣は、当然、候補者一人一人の「研究又は業績」だけでなく、法の趣旨にしたがって、日本学術会議の使命と目的にも照らして、任命責任を遂行しなければならない。そうでなければ「経費は、国庫の負担」(同法1条3)である日本学術会議を「所轄」する者としての責任を、納税者や国民に対して負うことができない。そこに一定の裁量の余地が発生することは、当然だろう。

なお日本学術会議法は、その前文と第2条で、「科学者の総意」や「わが国の科学者の内外に対する代表機関」といった文言を用いている。しかしこれらは「使命」と「目的」の一部として用いられている概念である。そもそもどこにも「総意」や「代表」を確保する手続きがない。会議は「総意」を反映するように行動する使命を遂行し、「代表機関」として行動することを目的としなければならない、というのが法律の趣旨である。わかりやすく言えば、努力目標にすぎない。「学者の国会」というのは、その努力目標の観点から述べられる比喩にすぎない。

「総意」を反映し、「代表」として行動するために不断の自省を含めた努力をせよ、という指針ではあっても、万が一にも「学問の自由」の不可侵を旗印にして「所轄」責任を持つ者に対しても絶対独立を主張する根拠を与えるのが、この法律の趣旨であるとは思えない。

たとえば、もし会議が法の趣旨を逸脱し、「科学者の総意」を受けて「わが国の科学者の内外に対する代表機関」として行動しているか疑問が残る会員候補を推薦してきた場合には、内閣総理大臣が任免拒否権を行使して、「使命」と「目的」を守ることを期待するのが、法の趣旨だと考えるべきだ。

「学問の自由」と「研究又は業績」だけが内閣総理大臣の判断基準ではない。もしそうだとしたら、内閣総理大臣を任命者に定めている日本学術会議法は、的外れで欠陥のある法律だということになる。「使命」と「目的」に照らした政策判断を行う責任を内閣総理大臣に求めているからこそ、任命の権限を内閣総理大臣に与えているのが、この法律の法体系の素直な理解だ。

 

政策論をせよ

 

結論としては、内閣総理大臣の任命拒否権の行使が違憲だとか違法だとかという糾弾は、控えめに言って根拠薄弱だと言わざるを得ない。

ただし、この指摘は、政策論における結論を先取りするものではない。政治的重要性を鑑みて、内閣総理大臣は説明責任を果たすべきだ、任命拒絶の理由は政策論的観点から議論の対象にするべきだ、といった意見には、私も全面的に賛同する。尊敬すべき政治学者である宇野重規教授が「優れた研究又は業績がある科学者」である点には、いくぶんかの疑念の余地もない。疑う見方には断固として反対する。

ただし仮に内閣総理大臣の行動に問題があるというのが議論の結論になる場合には、最終的には選挙を通じた民主的な審判を通じて、内閣総理大臣の行動の是正が図られるべきだ。それが民主主義国家のルールであり、日本国憲法を頂点とする日本の立憲主義の仕組みだ。

いやあ実は選挙では勝てそうもないので、民主主義のルールを回避し、「学問の自由」云々といった話を持ち出して問答無用の攻撃をして、印象操作でとりあえず内閣支持率の低下を目標としよう・・・、といった態度は、邪道であり、有権者に対する裏切り行為である。

 新型コロナ危機が発生し、世界各国に瞬く間に広がっていってから、半年以上の時間が過ぎた。半年間の間で、各国・各地域で様々な動きがあるが、かなり大きなグループ分けをすることができるようになってきたと思える。

 第1グループは、「封じ込め」タイプで、初期対応が迅速で、ほぼ封じ込めに成功した国々である。中国、台湾、ベトナム、ニュージーランドなどが成功例として頻繁に参照されてきた。これらの諸国は、基本的には、極めて迅速に国境を閉じてウイルスの流入を遮断することによって、封じ込めに持ち込んだ。その背景には、迅速な政策的判断とそれを指示する国民意識の基盤があったわけだが、それができた理由は、SARSなどの過去の感染症の経験の記憶であった。旧専門家会議・現分科会のキーパーソンである押谷仁・東北大学教授は、これらの東アジアからオセアニアにかけての成功事例の諸国の多くが、「SARSの感染を体験した」という特徴を持っていることを指摘している(押谷他『ウイルスVS人類』6566頁)。感染症の流行を警戒する一般国民の自然な感情が、初期段階における迅速な対応を可能にしていた。

 第2グループは、「危機」継続中のタイプで、甚大な被害を出している国々である。初期段階では欧州・北米諸国が典型例だったが、その後に南米諸国がこのグループの典型例となっている。初期段階の失敗は、封じ込めの失敗だったと言ってよいだろう。感染症対応の準備が不足したまま、封じ込め政策をとろうとしたために、かえって医療崩壊などの現象を起こして被害を広げてしまった。後に、そもそも対応策をとることに意欲的ではなかったか、不備のある対応しかとれなかった国々が現れた。

 時系列で「封じ込め」第1グループと「危機」第2グループの諸国の動きを見ていくと、いくつかの目立った変化を見ることもできる。ネパールやミャンマーは、初期段階では、「封じ込め」政策が奏功した第1グループの国々であるように見えた。ところが最近になって感染者と死者の拡大を経験することになり、今やほとんど第1グループから脱落し始めていると言わざるをえない状態だ。こうした国は局所的に存在しており、たとえばアフリカではガンビアなどが、オセアニアではパプアニューギニアなどが、このようなパターンの典型例を提供している。7月中旬までは「封じ込め」派に見えたが、その後、急激な感染拡大を経験しているのである。なおオーストラリア、韓国、シンガポールなどは、当初は第1グループの代表例であるかのように扱われながら、感染拡大・死者数増加の局面を経験しつつ、何とか乗り切ってきた、微妙な位置づけの諸国である。

もともと第1グループを成り立たせた一番の要因は、初期段階でのウイルスの流入の遮断であった。したがって、逆に言えば、第1グループの諸国においても、今後もいつでも感染が流行する潜在的危険があることは当然である。

 第2グループの諸国も、最悪の時期を半年間にわたって継続的に経験しているわけではなく、時間的な変化を見せてきた。世界最大の陽性者数と死者数を持つアメリカ合衆国ですら、3月・4月の最悪の時期と比べれば、現在は改善を見せている。とはいえ、新規陽性者数は3月時の2倍程度の水準(一日あたり4万人強)、新規死者数は3月時の2分の1ほどの水準(一日あたり800人前後)が続いてしまっており、まだ高止まり状態だと言わざるを得ない。

ブラジルを代表とする多くの中南米諸国も、高い感染拡大の水準を続けている。一貫して右肩上がりの新規陽性者数と新規死者数の増加を経験し続けてしまっているか、あるいは少なくとも新規陽性者数や新規死者数の抑え込みができずに高い水準を続けてしまっている例としては、ロシア、インド、バングラデシュ、インドネシア、イラン、イラク、トルコなど、アジアから中東にかけての地域にも、多数ある。

 これら二つのグループとは異なる特徴を持つ第3グループとして、「抑制」タイプがある。小規模な感染拡大を経験しながらも、抑制された新規感染者数と新規死者数の範囲にふみとどまっている日本は、このグループの代表例だろう。

押谷教授が、「もし日本がSARSを経験し、それを踏まえて感染症に対する準備を徹底していれば、もう少しきちんとこのウイルスに対処できていた可能性はあります」(『ウイルスVS人類』66頁)と述べたように、日本でも初期対応に混乱が見られた。だが旧専門家会議が招集された2月中旬以降は、重症者への対応を主眼にしつつ、大規模感染を防ぐ国民の行動変容で、事態の制御に努めてきている。

 第3グループの「抑制」アプローチの特徴として指摘すべきは、死者数の抑制であろう。押谷教授は、新型コロナウイルスが高い感染力と低い致死力という特徴を持っていることを、初期段階から洞察していた。

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 「病原性=症状の重さは肺のウイルス量で決まり、感染性=うつりやすさはのどのウイルス量で決まっている。感染性と病原性がまったくリンクしていないところが、このウイルス対策の難しいところなのです。・・・実は2003年にSARSが流行したときに、私たち研究者の間では、もしSARSウイルスがもっと感染性を増したらどうなるだろうか、という議論をしていたんです。そうなると、病原性は下がるだろうけれども、そのために、かえって広がりやすくなる。非常に制御しにくいウイルスになるだろうという議論になったのですが、今回の新型コロナウイルスは、まさにそういうウイルスが出現してしまったことになります。」(『ウイルスVS人類』4244頁)

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 この洞察から成り立つ推論は、新型コロナの感染流行を止めることは著しく難しいが、医療崩壊を防ぎ、医療基盤の高さを活かし、高齢者保護を確保していくことで、死者を減らすことは可能である、ということだ。

さらに押谷教授らは、限られた数の感染者だけが感染拡大を引き起こす新型コロナの特性に対する洞察にもとづき、「三密の回避」で知られる大規模クラスター発生予防のための行動変容の方向性も示した。

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「そもそも都市を封鎖したり、住民の外出を禁じたりするロックダウンは、基本的には感染の可能性のある者をすべて隔離するという、19世紀的な考え方なんですね。・・・そこでわれわれが考えているのは、すべての社会機能を止めるのではなく、その制限を最小限にしながら、ウイルスの拡散するスピードをいかに制御していくかという対策なんです。」(『ウイルスVS人類』99100頁)

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「日本モデル」という言葉は、私自身が、3月頃に意識的に使い始めたものだが、この押谷教授の洞察の上に成り立つ日本の新型コロナ対策の基本姿勢を言い表すための概念として導入したものである。

この「日本モデル」の成果に一定の手ごたえを感じることができているため、尾身茂・分科会会長は826日に次のように発言していたる。

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「このウイルスには弱さがある。当初、多くの人が恐ろしいウイルスだと印象を持ったと思いますけど、ここに来てこのウイルスはある程度、マネージできる、コントロールできると言うのがわかってきた。」http://japanmorningpost.info/archives/2394 

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 私は、先日、「欧州諸国は新型コロナ対応「日本モデル」を踏襲するか~日本人はもう少し「日本モデル」を誇りに思うべきだ~」という題名の文章を書いたが、http://agora-web.jp/archives/2048273.html 「日本モデル」が代表する「抑制」第3グループに欧州諸国が加わってきたかもしれないことは、注目したい点である。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59793200Q0A530C2EAF000/

欧州では、日本の7月・8月頃と同じように、8月以降に新規陽性者数の目立った拡大が見られている。ところが死者の絶対数は抑制され続けている。感染拡大に直面しても、大規模ロックダウンの再導入はまだ行っていない。欧州では、意識的に封じ込めを目指すアプローチが放棄され、「抑制」路線に移行しているのである。「抑制」派の今後の世界的潮流を占うのは、EU諸国だと言える。

7月・8月に、私は「日本モデルVS西浦モデル2.0」という題名の文章をシリーズで書きながら、日本の状況を観察した。そして、最後は、ロックダウンをへることなく重症者の発生を抑制し続けながら感染拡大も止めた「日本モデル」の勝利を宣した。http://agora-web.jp/archives/2047913.html 現在の欧州が目指しているのも、同じ路線だと言えるだろう。

EU域内の優等生であるドイツは、死者数のみならず、新規陽性者数の抑制にも成功し続けている。フランスやオランダなどの他のEU主要国は、死者数の相対的抑制は維持しながらも、感染拡大はまだ歯止めを見いだせていない。その他の国々の一部は、さらにもう少し憂慮すべき状況にあるように見える。

日本自身がそうであるように、EU諸国は、「日本モデル」の方向性での新型コロナ対策を確立するために、苦闘している。だが、今のところ、完全に悲観しなければならないほどの事態にまでは至っていない。

日本人から見ると警戒意識や衛生観念に不足が見られるかもしれないが、欧州では、高齢者と基礎疾患保持者だけは特別に保護しなければならないという社会意識は浸透している。全国民が享受できる医療制度も整っている。医療崩壊を防ぐことが最重要課題だという政策意識も確立されているため、PCR検査も盲目的に実施するのではなく、「戦略的」に実施すべきだと理解されている。「三密の回避」という言葉こそ用いられていないものの、換気の重要性を含めて、その基本メッセージが広く受け止められている。一部で抵抗があるものの、マスク使用率も高い。日本との違いは、むしろ、屋外ではマスクをしない、レストランではなるべく屋外テラスで食事をする、といった「戦術」レベルの実践方法にあるようにも思われる。

 「抑制」グループの困難は、国内世論対策にもある。「抑制」派は、新型コロナの致死力の低さに攻め入るアプローチをとる反面、感染力の強さは受け入れて、無理な封じ込めを目指さず、大規模感染の抑止に努める。残念ながら、この「日本モデル」型のアプローチは、不当にも抽象的で非現実的な「ゼロリスク」を求める扇動的なポピュリストたちからの誹謗中傷を浴びがちである。

 だが突如として現れた感染力の高い新型コロナを撲滅できていないのは、日本政府の責任でも、私が「国民の英雄」と呼ぶ尾身会長や押谷教授の責任でもない。問われているのは、その都度その都度の現実的に対応可能な範囲で、最善に近い対応を遂行できているかどうか、である。「日本モデル」は、現実的に可能な範囲での良好な政策として、善戦している。

 今後の日本の外交的な課題は、比較優位にある「日本モデル」を日本人自身が深化させながら、「封じ込めグループ」との交流を開拓しつつ、「抑制グループ」諸国相互の連携をとっていく道筋を作るかどうか、であろう。

 いずれにせよ、はっきりしているのは、日本は、今さら「封じ込めグループ」とともに、非現実的で的外れな願望を持つべきではない、ということだ。ただし、同時に、日本は、「抑制グループ」の代表としての地位を固めるための努力は惜しむべきではない。

 

 

101日(GMT)の陽性者数・死者数・致死率

<カッコ内は615日の数値と比べた時の増加率>

地域

準地域

感染者数(/mil

死者数(/mil

致死率(%)

アフリカ

 

1,121.93

6.06倍)

27.44

5.56倍)

2.45

0.92倍)

北アフリカ

1,415.82

4.76倍)

47.01

3.76倍)

3.32

0.79倍)

東アフリカ

457.96

7.98倍)

7.56

7.95倍)

1.65

1倍)

中部アフリカ

348.63

2.59倍)

7.05

2.31倍)

2.02

0.89倍)

南部アフリカ

10,345.29

9.88倍)

254.33

11.54倍)

2.46

1.17倍)

西アフリカ

465.18

3.46倍)

8.22

3.11倍)

1.77

0.90倍)

米州

 

16,706.95

4.35倍)

554.91

2.75倍)

3.32

0.63倍)

北米

20,734.88

3.37倍)

601.35

1.75倍)

2.90

0.52倍)

カリビアン

3,859.76

4.92倍)

71.47

3.38倍)

1.85

0.68倍)

中米

6,340.07

5.89倍)

487.64

4.75倍)

7.69

0.80倍)

南米

18,790.32

5.70倍)

588.72

4.21倍)

3.13

0.73倍)

アジア

 

2,326.36

6.53倍)

42.45

4.81倍)

1.82

0.73倍)

中央アジア

3,250.59

8.08倍)

43.61

16.83倍)

1.34

2.06倍)

東アジア

120.34

1.73倍)

4.07

1.14倍)

3.39

0.66倍)

(日本)

661

4.78倍)

 

12

1.71倍)

1.81

0.35倍)

 

東南アジア

1,038.67

5.82倍)

25.44

4.84倍)

2.45

0.83倍)

南アジア

3,952.54

9.61倍)

72.18

6.08倍)

1.83

0.63倍)

西アジア

6,712.17

3.36倍)

100.40

3.58倍)

1.50

1.06倍)

ヨーロッパ

 

6,466.24

2.28倍)

283.76

1.21倍)

4.39

0.53倍)

東欧

6,393.88

2.65倍)

125.18

2.93倍)

1.96

1.10倍)

北欧

4,558.78

1.60倍)

356.80

1.03倍)

7.83

0.64倍)

南欧

8,701.62

2.22倍)

484.40

1.14倍)

5.57

0.51倍)

西欧

6,241.60

2.41倍)

311.28

1.07倍)

4.99

0.44倍)

オセアニア

 

767.93

3.50倍)

22.72

7.49倍)

2.96

2.12倍)

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