「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

2021年03月

 ミャンマー軍が国軍記念日を迎え、首都ネピドー郊外で開かれた式典で国軍が軍事パレードを行った327日、判明しているだけで市民114人が亡くなった。21日クーデター以降の死者数は判明しているだけで423人、拘束されて消息不明になっているのが2428人だ。たまらず日本を含む12カ国の軍のトップがミャンマー軍を強い言葉で非難する声明を出した。

 これまで軍への批判を曖昧にしてきた日本だが、28日、国際的な共同声明の発出にあわせて、防衛省と外務省で、これまでより踏み込んだ強い内容の非難声明を出した。日本では、統合幕僚長山崎幸二陸将の名前を出した声明が出た。https://www.mod.go.jp/js/Press/press2021/press_pdf/p20210328_01.pdf 

「民間人に対する軍事力の行使を非難する。およそプロフェッショナルな軍隊(professional military)は、行動の国際基準に従うべきであり、自らの国民を害するのではなく保護する責任を有する。」

という職業軍人の国際基準の倫理観に訴える内容が、自衛官の胸に響いたことは想像に難くない。

大変に素晴らしいことである。

平素から、日本の憲法学通説の破綻した憲法9条解釈の誤謬を糾弾し、自衛隊は「憲法が言う『戦力(war potential)』ではなく、国際法上の軍隊(military)である」、と主張し続けている私としても、https://agora-web.jp/archives/2030702.html 国際規範に沿い、日本が尊重すべき同盟国と共同歩調をとった、山崎統合幕僚長の毅然とした判断の表明を、全面的に称賛したい。

日本での統合幕僚長の声明発出に続いて、外務省がミャンマー軍を非難(condemn)する茂木外務大臣談話を出した。https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/page6_000537.html これまでの外務省の対これまでの対応からすれば、一歩進んだ内容だ。統合幕僚長の12カ国声明への参加を支援するタイミングで、「軍隊は国民の生命を国外の脅威から守るための組織であることを、ミャンマー国軍指導部は想起すべき」、と強調した声明を発出したことを、高く評価したい。

この茂木外相談話の二段落目は、外務省の気持ちが滲む文章だと感じる。

「ミャンマー国軍・警察による市民への発砲や被拘束者に対する非人道的な扱い、報道活動に対する厳しい取締りは、民主主義の重要性を唱えるミャンマー国軍の公式発表と矛盾する行動です。」

日本はミャンマーの民主化を支援する立場から、ミャンマー軍と緊密な関係を続けてきた。自衛隊はミャンマー軍に対する能力構築支援を続けてきたし、 https://www.mod.go.jp/j/approach/exchange/cap_build/myanmar/index.html 外務省はミャンマー支援を熱心に行ってきた笹川陽平・公益財団法人日本財団会長・笹川平和財団名誉会長をミャンマー国民和解担当日本政府代表に任命しながら、外交支援も行ってきた。防衛省がミン・アウン・フライン司令官を日本に招いた時に会談した茂木外相の写真などが、日本の対応に批判的な人々のSNSでやり取りされたりしていた。https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_007908.html

だからこそ、今回の声明には意味がある。

民主化支援の一環としてミャンマー軍を支援していたことに、何ら恥ずべき点はない。むしろ誇るべきである。だが、だからこそクーデターに失望し、市民に銃を向けたミン・アウン・フライン司令官に怒りを表明する瞬間が、絶対に必要だ。

日本がミャンマーを見捨てるのではない。ミン・アウン・フライン司令官が、日本を裏切ったのである。

裏切りに対する怒りの表明は、日本が引き続きミャンマーの人々ともに歩むことの表明と、不可分一体だ。

日本が安全保障政策で協調する重要な同盟国及びその主要なパートナー国は、ミャンマー軍幹部の非難で団結している。長期的かつ大局的な視野で見て、日本が曖昧な立場をとり続けなければならない合理的な理由はない。

「ミャンマー軍を非難するとミャンマーが中国寄りになる、日本はミャンマー軍にパイプがある(、まあ普通の人たちはミャンマーのことなんか何にも知らないだろうから、一切心配もせず忘れて遊んでおいてください)」、といったもっともらしいことをテレビ等で吹聴し続けている「外交専門家」の方々がいらっしゃる。さぞかし奥深い予見と洞察力に裏付けられた素晴らしい見解なのだろう。だが私のような三流国際政治学者には、そのような見解は、全く近視眼的かつ無責任なものにしか感じられない。

ミン・アウン・フラインを非難しないでおけば、ミャンマーが中国を捨てて日本に走り寄ってくるなどとは到底想像できない。中国も事態の推移を見て喜んでいるわけではなく、手放しでミャンマー軍を支援できるわけでもない。もっと苦しいのはクアッドのパートナーのインドだ。非難すべきは、ミン・アウン・フラインで、中国やインドではない。日本は自らの立ち位置をはっきりさせたうえで、むしろミン・アウン・フライン司令官を追い詰める国際外交交渉の可能性こそ研究するべきだ。

国際刑事裁判所(ICC)はすでにロヒンギャ問題でミャンマー軍幹部の「人道に対する罪」の捜査をしている。今回の市民に対する暴虐も、SNS等で画像・動画証拠が山のようにあふれているし、インドに逃れて「上官命令」を証言している元警官もいる。日本はICCの最大資金拠出国である。事態を甘く見すぎず、大局的かつ長期的な視点もふまえて、確かな方向性を定めたうえで、外交努力を払うべきだ。


 昨日「日本を覆う「気の緩み」狩りの地獄への道」という文章を書いたが、それは「誤字・欠落…政府提出法案にミス続く「前代未聞の緩み」」という題名の新聞記事を見たからだった。

https://digital.asahi.com/articles/ASP39677VP39UTFK011.html

 日本の官僚機構の疲弊を見て、「気の緩み」という言葉しか思いつかないのであれば、ちょっと問題だと思った。

私は国際政治学者として、外務省本省職員の残業を減らしてほしいと思っている。毎日深夜まで国内業務で残業していたら、長期的な構想を練ったり、新しい大胆な交渉に出たりする気概や心の余裕が失われるのは止められないと思うからだ。

アラスカで開かれた米朝協議の冒頭部分が一般公開された。その厳しい言葉と駆け引きを見て「日本外交もこういう風にいかないのか」という意見が、ヤフコメなどに殺到している。https://news.yahoo.co.jp/articles/0f63d7bfdb011f5b959f5b2ae23cae0171eafdbc 

行政文書作成と国会要人対策で毎日深夜まで残業している官僚の方々に、それを言う気にならない。「勘弁してほしい、とにかく面倒はできるだけ少なくしてほしい」という表情をされるだろう、と思うからである。真面目に働いている役所の方を困らせるのは忍びない。(と言いながらミャンマー問題を何とかしてほしいと書いているが・・・・。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81323 )

日本の国家公務員数は過去と比べて低水準に抑えられてある。一般職国家公務員数の推移のグラフを見てみよう。郵政民営化の影響が出た15年前の水準と比較して、10万人近く減少している。

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しかし予算は上昇傾向だ。15年前は80兆円程度の規模だったが、現在は100兆円を超えている。
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 大雑把に言って、2割減った人数で、2割増えた仕事を扱っている、ということだ。

この状況で細かな人的ミスが見え始めたとしたら、一般企業の経営者なら人的負担を軽減する策を講じる必要がある、と認識するのではないだろうか。

しかし国家運営では、政治家や幹部官僚が「全ては末端職員の気の緩みのせいだ!」と叫んで、檄を飛ばして綱紀粛正を図って、マスコミ向けのポーズをとることしか考えない。

その場限りの大変に危険な対応だ。

もともと日本の公務員数は国際的に見て少ないとされている。特に少ないのは地方公務員だが、連邦制国家との比較などは単純ではなく、国際比較は簡単には言えないところはある。しかし上記の事情から、少なくとも過去よりも負担が増えていることは明らかだと思う。したがって「昔は違った」とつぶやく高齢者や官僚出身政治家の意見には意味がない。

そもそも日本政府の歳入の半分は国債だ。私に言わせれば、日本は税収に見合った実力の二倍の仕事を国家公務員に課している。

中央省庁と高級官僚OBがいる半官半民企業が、「随意契約」「97%再委託」「幽霊法人」「中抜き」といった行為を常態化させていくのは、毎日深夜まで残業している官僚の心情からすると「そんなことを言われてもこうしないと無理です・・・」という行為なのだろう。心情的にはそうなので、改革はなされないだろう。だがそれでは、組織は溶解する。

 アカウンタビリティを確保しながら、現実的な人事管理を行っていくためには、おそらく制度化された民間人導入を含めた思い切った制度改革が必要である。残業費の支給額を増加させたりすることなどは、関係がないどころか、逆効果だろう。

 人口が減り続けている社会で、国家予算だけを増やし続けているのだ。構造的な改革を導入する発想の転換が必要であることは、火を見るより明らかである。

 しかし人事改革となったら、猛烈に反対するのは、むしろ各省庁の高級官僚だろう。その上にいる経営者である政治家がしっかりしなければならないのだが、高級官僚と一緒になって「気の緩みを正せ」と一般職員を叱責しているだけでお茶を濁し続けようとするのであれば、危機は増幅していくだけだろう。

 新型コロナ禍の日本を覆う病理の一つは、「気の緩み」なるものを批判する風潮だろう。世の中の問題は、誰かの「気の緩み」で引き起こされている、という安易な紋切り型で、何かを考えているかのようなふりをする風潮だ。

社会の構造的な問題から目を背け、ただ都合よく他人を批判することで、自分だけは問題に対応したかのような気になる病理だと言える。

 これは社会を内側から破壊する危険な病理である。人の上に立つ人物にとっては、「俺の会社の成績が悪いのは部下の気の緩みのせいだ」、と言うのは、ほとんど生活習慣病のように断ち切ることが難しい甘い誘惑だ。したがって本来は、これを言わないことこそが、指導者としての資質の第一歩である。

 ところが実際には、日本のように国民の平均的能力が高いのに、指導者層の能力が低い社会では、この病理への誘惑の力はあまりに強い。日本のような社会では、指導者は、無能であればあるほど、部下を脅かすことを通じて成績を上げようということしか思いつけなくなる。

日本の新型コロナへの取り組みがそれなりの成績を収めている背景に、真面目な国民の日々の取り組みがある。ところがそれを見た無能な指導者は、ニヤリと笑って、「ウィルスがゼロにならないのは、国民の気が緩んでいるからだ、もっとしっかりやれ」、とだけ言って、自分は仕事をしたかのように気になる。

 万が一、「気の緩み」なるものが問題の背景にあると分析するなら、少なくとも「緩み」とは何なのか具体的に定義する必要がある。なぜ緩んだのかという問題分析を抜きにして、「緩みが原因だ」といった抽象的な表現で何かを言った気になるのは、最低である。もし仕事のモラルが低下したのなら、それは経営者の責任だ。

「勝て、と言ったのに、なぜ勝たないんだ、気が緩んでいる、腕立て伏せ100回だ」、と叫ぶ大日本帝国軍の高級将校や、中学校の部活動コーチの理不尽と同じである。多くの日本人は、この理不尽を体感でよく知っているはずなのだが、それ以外の指導者をよく知らないものだから、自分が指導者になったとき、どう振る舞っていいかわからず、つい同じように振る舞ってしまう。

 この病理は、技術的には、日本におけるリーダーシップ研修の不足、指導者育成制度の不足、といった問題に行き当たる。ただし社会的認知の文化的事情に根差しているだけに、社会全体の風潮を変えていくのは、大変なことではあるだろう。

残念ながら、新型コロナで復活してしまったようだ。

公務員が作成した法案に不備が多数見つかったことをもって「気の緩み」だとしか分析できないのは、こうした病理が深刻な事態に至っていることを示しているように感じる。

https://digital.asahi.com/articles/ASP39677VP39UTFK011.html

 民間ならダメ経営者しかいない組織は、自然に淘汰されていくだけだろう。だが国家運営だとどうなるのだろうか。心配な気持ちにならざるを得ない。

 米国のブリンケン国務長官とオースティン国防長官の初外遊による日米の2+2会合が終わった。その直前の12日には、「クアッド」4カ国の首脳会議が開催された。これらの会談の成功は、大変に素晴らしい。
 ただし気になることがある。ブリンケン長官が、ミャンマー問題への懸念の表明を、価値を共有する日米両国、という文脈で述べたことが、日本国内では報道されなかったことだ。
 日本の報道では、中国、中国、中国、と、アメリカの高官が中国について何を言ったか、だけが大々的に扱われる。しかし、日米同盟を、反中同盟に仕立て上げようとする風潮は、望ましくない。日本が重視して強化すべきなのは、第二次安倍政権時代に頻繁に語られたような「価値観外交」である。
 言うまでもなく、バイデン政権は人権を重んじる外交を標榜している。そのバイデン政権が心掛けているのは、「民主主義vs.権威主義」という世界観にそって米中対立を世界に説明することである。
 バイデン政権時代においても日米同盟を堅持するのであれば、ミャンマー問題を軽視してはいけない。
 外国で起きた重大な人権侵害に制裁を科す日本版「マグニツキー法」の議員立法をめざす動きが高まっている。世界各地での人権侵害行為に対する制裁を可能にする法案である。「マグニツキー法」という名称は、ロシア当局による汚職を告発後に逮捕された後に獄中死したロシア人弁護士の名前に由来する。甚大な人権侵害に関わった外国の個人や団体に、資産凍結や入国禁止といった制裁を科す法律は、アメリカがオバマ政権時代の2012年に対ロ制裁法として制定し、その後対象を全世界に拡大した。ウイグル問題をめぐり中国政府高官らに適用している。同趣旨の法律を、イギリスやカナダなどは制定済みで、EUも昨年12月に導入を決めた。
 しかし日本版「マグニツキー法」=対中強硬路線と解釈する外務省は、警戒しているという。親中派と言われる自民党の二階幹事長や公明党も警戒しているとされる。しかし本来の「マグニツキー法」は、中国と敵対することを目的にした法案ではない。
 私は、日本版「マグニツキー法」の制定を強く支持する。その立場から申し上げれば、できれば議員立法を目指す方々には、ウイグル、チベットについて述べたら、次に必ずミャンマーについてふれてほしい。
 ミャンマー問題については、「ミャンマー軍幹部に強硬姿勢をとったらミャンマーがいっそう中国に近寄ってしまう」といった中国に対する過剰意識の主張がまかり通っている。近視眼的だと言わざるをえない。日本は軍政に親和的で、ミャンマー軍幹部に気を使いすぎているという印象を、これ以上世界に喧伝したら、国際的な評判だけでなく、軍政に対して勇敢に立ち向かっているミャンマーの一般の人々からも日本が嫌悪される対象になることは必至である。日米同盟も脆弱化する。何もいいことはない。
 ミャンマーという国への制裁は議題ではない。マグニツキー法のような「標的制裁」が対象にするのは、軍幹部と資産分配を受けている家族ら関係者、そしてその資産の源泉になっている軍系列企業だけだ。
 ただ「何もできない」という言い訳を維持するためだけに法律の制定に反対する人々は、日米同盟やFOIPの価値観外交の基盤も脅かし、日本外交を袋小路に追いやろうとしていることに、早く気づいてほしい。

 米国のブリンケン国務長官とオースティン国防長官が今月15日から来日するという。コロナ禍での22(両国の外務・防衛大臣)会合は、画期的である。 

折しもバイデン政権が、『Interim National Security Strategic Guidance(暫定的な国家安全保障戦略の指針)』と題された文書を発表したばかりの時期である。日本にとって重要であるだけではない。バイデン政権にとっても重要な会談になるだろう。成功が強く期待される。

 バイデン大統領は国内での融和を唱えて大統領に就任した。もちろん民主党リベラル色が強い方向性を打ち出しているとはいえ、保守派やトランプ前政権を刺激するような発言や行動は、控えているように見える。そのバイデン政権が国際会議等で強調しているメッセージは、「アメリカは戻った(America is Back)」である。多国間協調主義に戻った、と言いたいわけだが、それは、アメリカが民主主義諸国の指導者として復活する、というメッセージでもある。国内の団結と、国際的な指導国としての復活が、一体のものとして、語られている。

 その世界観の中で、「権威主義国家」の代表としての中国の挑戦が理解されている。アメリカは中国との競争に勝ち抜くつもりだが、それは民主主義諸国が権威主義諸国からの挑戦に勝ち抜くことでもある。

”There are those who argue that, given all the challenges we face, autocracy is the best way forward. And there are those who understand that democracy is essential to meeting all the challenges of our changing world. I firmly believe that democracy holds the key to freedom, prosperity, peace, and dignity. We must now demonstrate — with a clarity that dispels any doubt — that democracy can still deliver for our people and for people around the world.”(p.3)

 ただし現状は、民主主義が世界的に退潮傾向に入っている。( “democracies across the globe, including our own, are increasingly under siege.”(p.7)この民主主義が権威主義に押され気味になっている傾向を逆転させることこそが、アメリカの対外的な安全保障にも、国内的な団結にも、合致する目標だとみなされる。(“Reversing these trends is essential to our national security. The United States must lead by the power of our example, and that will require hard work at home” “we must remain committed to realizing and defending the democratic values at the heart of the American way of life.”)(p.7, p.9

この目標は、同盟国・パートナー国との協働によって成し遂げられる。(“Authoritarianism is on the global march, and we must join with likeminded allies and partners to revitalize democracy the world over“)(p.19)そのようにして、アメリカは中国との競争に勝ち、国際社会の指導国として踏みとどまり続ける。(“this agenda will strengthen our enduring advantages, and allow us to prevail in strategic competition with China or any other nation. …By restoring U.S. credibility and reasserting forward-looking global leadership, we will ensure that America, not China, sets the international agenda, working alongside others to shape new global norms and agreements that advance our interests and reflect our values.”)(p.20

  日本が、アメリカとの関係を良好に維持したいと思うのであれば、この世界観の中で、日米同盟を、そして「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」を位置づけることが、重要である。

 「まあ、まあ、抽象的なことは置いておいて、とりあえず尖閣守ってください」といった態度だけを日本側が見せるならば、円滑な日米同盟の発展を見込めないだろう。

 一つの試金石となる具体的な問題は、ミャンマーだ。日本では「ミャンマーをいっそう中国に近づけるので制裁はダメだ」(日本はミャンマーに相当に投資した、とにかく回収しなければならない)といった発言を、訳知り顔で繰り返す近視眼的なエセ外交通がはびこっている。バイデン政権の方針に真っ向からぶつかる態度だ。

 「まあ、まあ、ミャンマーのことなんか置いておいて、とりあえず尖閣だけ守ってください」、といった態度を貫くとしたら、日米同盟は漂流し始めるだろう。

 ミャンマーの軍政は、大量の死者を出すことを辞さず国内反対派を鎮圧しており、中国とインドにはさまれたインド洋に面する場所で、アメリカの制裁をバカにした態度をとり続けている。日本がミャンマー情勢の緊迫度は過小評価するならば、足元をすくわれるだろう。

日本は、「制裁はダメだ、ミャンマーをさらにいっそう中国に近寄らせる」、という立場でバイデン政権を説得しようとするのか。

あるいは人権と民主主義の理念をともに語って、ミャンマー軍幹部や国軍系企業に対する標的制裁の実効性を高めるための協力をする態度をとるのか。

二つの立場は、両立しない。二つに一つだ。

全てを曖昧にして判断を避け続けることは不可能ではないかもしれない。だが、それが何らかの望ましい方向に向かっていく態度だとは思えない。

日米同盟と、自由で開かれたアジア太平洋を、外交の基軸に据える覚悟があるのなら、迷う必要はない。私はそう考える。

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