「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

2021年10月

昨日、「眞子さま問題で考える憲法学者独裁主義の陥穽」という題名の文章を書いた。眞子さま問題で考える憲法学者独裁主義の陥穽 | アゴラ 言論プラットフォーム (agora-web.jp)私は憲法9条の「ガラパゴス解釈」で一貫して日本の憲法学通説を批判し続けている。その流れで、こういう題名にしてみた。だが、ちょっとややこしい言い方だったかもしれない。

もう少し一般論としての言い方に近づけてみると、眞子さま(眞子内親王殿下)問題で問われているのは、「憲法の国民主権」と「国際法上の人権」の相克だ、ということである。

「天皇制」は、日本国憲法で定められた日本の国家制度の一部である。皇室典範で定められた「天皇制」を支えるものとしての「皇族」も、憲法第2条で皇室典範の存在が参照されていることを鑑みると、憲法で定められている「天皇制」と不可分の関係にある制度だと言える。

日本国憲法は、その第1条で、天皇の「地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と定めている。最高の権威・権力を持つ「主権者」が国民で、「天皇」はその主権者たる国民の意思に依存して存在している国家制度だ、という意味である。

この観点から、皇室のあり方について、多くの国民が他人事ではなく意見を持つのは、おかしなことではない。皇室に対する税金の支出のあり方について国民が関心を持つのも、奇異なことではない。なんといっても、その「地位は、国民の総意に基く」と憲法で定められているのだから。

だが歴史的な経緯もあって誕生した「日本国憲法下の天皇制」という制度の特殊性は、主権者・国民の意思に服する国家制度が、出生による世襲を前提にして成立している点にある。

たとえば内閣総理大臣が、ヤフコメ欄の誹謗中傷で悩んでいても、たいていの人は、「そんなに総理の地位が嫌なら辞めたら?だいたい貴方が自分で好んで立候補したんでしょう」という気持ちをまず抱くだろう。

ところが出生の事情によって世襲した地位にいるがゆえに悩んでいる皇族の方に対しては、少なくとも内閣総理大臣と同じ感慨を抱くことはできない。自らが望んでその「地位」に就いた、という、自由主義社会の隅々にまで適用されているはずの大原則が、「日本国憲法下の天皇制」についてだけは適用されていないからである。そこで、多くの人々が、ヤフコメ欄の誹謗中傷について、違和感を持つことになる。「他者の人格をもっと尊重すべきだ、木村花さんの事件の教訓が生かされていない」という感慨は、人権論の観点からは、全く正当な態度であろう。

憲法学だけの観点から言えば、「国民が主権者だ、主権者は絶対権力者だ、主権者の命令は絶対服従だ」という論理構成で、あとは「皇族は国民ではない」とさえ付け加えれば、話を終わりにできる。皇族の方が、ヤフコメ欄の誹謗中傷で悩んでいたとしても、「絶対権力者としての主権者・国民がそういう制度を作ったのだから仕方がない、ちなみに皇族は国民ではない」、と言ってしまえば済むことになる。

だが国際人権法の観点から言えば、皇族の方々も同じ人間であるので、出生による差別待遇に起因する不当な誹謗中傷は許されない。いくら日本の憲法学者が、「日本の憲法学会では憲法優位説を通説としているので国際法が何を言おうが、そんなことは知ったことではない、ちなみに憲法学者が作り出した憲法三原則なるものの一つは国民主権で、憲法学者としては主権とは絶対的な権力だと決議している」、と主張したとしても、国際法上は、そのようなガラパゴスな主張は認められない。

欧米諸国の立憲主義では、主権と人権は、調和させるべきものだと理解されている。本来は、日本国憲法も、第982項で国際法を誠実に遵守することを要請しているので、憲法上の主権と国際法上の人権の調和を求めていると理解するほうが正しい。ただ、日本の憲法学者が、「国民だけに基本的人権が保障されている、そして皇族は国民ではない」、といったことを主張するので、国際法にも合致した正しい憲法典の解釈ができなくなっている。

「主権は絶対的な権力だ」、「基本的人権があるのは国民だからだ」、と主張したうえで、「ちなみに主権者・国民が何を望んでいるかについては至高の解釈者である憲法学者が解説いたします」、と付け加えるので、適切な条文解釈ができなくなるのは、憲法9条解釈をめぐる問題と同じ「ガラパゴス憲法学」の弊害の構図である。

眞子さま問題については、理論的な図式と、政治イデオロギーに起因する日本国内の人間的な対立構造がずれていることも、大きな特徴である。

日頃は皇室に好意的な意見を持つ右派層が、適正と信じる制度の維持の観点から、眞子さまの婚約者ら当事者に批判的な態度をとりがちになっている。これに対して、日頃は皇室に批判的な意見を持つ左派層が、制度不信の観点から、あるいは積年の政治的対立者をあらためて非難するために、当事者を擁護する態度をとっている。

日本の憲法学者は、実態として日本の左派層の中核を形成しているので、眞子さま問題のような場面では、憲法理論と政治イデオロギーが又裂き状態になり、沈黙せざるをえなくなる。

昨日も書いたが、素朴な私見では、自由意思の範囲を広げて人権保障を確証しつつ、皇族の定義を調整して制度維持を図ることが必要になってきているように思われる。

いずれにせよ、この問題は、憲法学者に任せていても、解決されない。主権者を代弁する「正当に選挙された国会における代表者」が、憲法と国際法を調和させる適切な措置を導入するしかない時期が近付いていると思う。
 折しもアフガニスタンの混乱を見て、2001年に王制を復活させることができていれば・・・という議論を見かける。実際には、アフガニスタンの場合には、2001年の時点で王制が廃止されてしまってから28年もたっていたので、復活は難しかった。
 日本の歴史を見るならば、戦後に天皇制が日本国憲法体制と両立する形で維持されたことの意義は計り知れない。日本の平和構築の成功の鍵の一つだったと言ってよい。「日本国憲法下での天皇制」は、今後も維持していくべき大事な国家制度だろう。だがすでに70年以上が経過している。制度面での検討が必要になっているとしたら、そういうこともあるかもしれない。一連の騒動をふまえた「日本国憲法下での天皇制」を維持発展させるための努力を、前向きにとらえていきたい。

秋篠宮家の長女・眞子さまが1026日に、婚約が内定している小室圭氏との婚姻届を提出して結婚し、記者会見を行われることが発表された。同時に、眞子さまが「複雑性PTSD」の状態にあることも発表された。

この問題は数年にわたって多くの人々の関心を集めて、生半可な知識や関心で簡単に立ち入れるような問題ではなくなってきている。ただ私は、今回の事態が、日本の国家制度に一つの問題提起をしているのではないか、ということは感じている。

全部で103条しかない日本国憲法の冒頭から第1条から第8条までを占めているのが、天皇制に関する条項だ。日本国憲法制定当時の日本人にとって、そして連合国関係者にとって、天皇制の位置づけは巨大な問題であった。その結果として、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」という規定が第1条として置かれた。

この憲法第1条は、「象徴天皇制」を定めたものとして知られるが、極めて権力的な意味も含みこまれている。「天皇」の存在が、「主権者・国民の総意」に依拠しているためである。

憲法に見られない「皇族」の存在は、皇室典範で定められている。皇室典範は、憲法第2条でその存在が明記されており、通常法の一つでありながら、憲法体系の事実上の不可分の一部をなしている特殊な法律である。したがって「皇族」にもまた、事実上「主権の存する日本国民の総意に基」いている性格があると言える。

こうした点を鑑みて、日本の憲法学の有力な学説は、「天皇」のみならず「皇族」を「国民」ではないとみなし、「基本的人権の享有主体」とも認めない。なぜなら日本国憲法において、「基本的人権」は「国民」だけが享受するものだとされているからである。(佐藤幸治『日本国憲法論』第2161頁)政治家層でも、この有力説は、広く浸透している。https://news.yahoo.co.jp/byline/saorii/20201207-00211167 

これは特異な仕組みである。たとえばイギリスの場合であれば、皇族と臣民との区別はなされるが、同時に、たとえ大きな制限が課せられているとしても、依然として「主権者」が国王・女王であるという擬制は維持されたままだ。マグナ・カルタや権利章典によって成り立つイギリスの立憲主義の歴史において、諸個人の権利は、臣民が王に認めさせたものだ。18世紀のアメリカ合衆国(北米13植民州)の独立宣言も、イギリス王の社会契約違反に伴う臣民の権利としての革命権の行使、という論理で正当化された文書だった。

ところが日本では、「国民」のほうが「主権者」である。フランス革命思想の影響を受けた明治時代の自由民権運動の考え方である「主権在民」を唱える民間パンフレットの議論を、日本国憲法の起草者が取り入れたことによる「ねじれ」だ。「主権在民」の本家本元のフランスは、共和制に移行してしまっているので、日本のような悩みはない。

この悩みを、いわば折衷説で乗り切ろうとする学説もある。「天皇」及び「皇族」は「国民」であるが、その権利の行使には制約がかかる、という説である。特に「皇族」の場合には、憲法で定められた基本的人権の適用に、皇室典範が制約をかけるという落ち着かない仕組みすらあえて是認して、芦部信喜ら有力な憲法学者たちは、天皇及び皇族に課せられる人権の制約を選択的に明示していく。政府の説明によれば、この選択的な人権条項の適用は、憲法が予定しているものだとするが、明文化された文言上の根拠があるわけではない。憲法9条による自衛隊違憲論の場合と全く同じで、「芦部先生ら有力な憲法学者がそう言っている」という正当化事由、つまり一部憲法学者には至高の解釈者の特別な権能が宿っている、という固定観念に依拠した主張である。https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi013.pdf/$File/shukenshi013.pdf 

この事情は、日本国が批准している国際人権法を構成する条約が、憲法第982項によって誠実遵守義務の対象となっていることによって、いっそう複雑になる。「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(以下「自由権規約」)第2条は、「出生又は他の地位等によるいかなる差別もなしにこの規約において認められる権利を尊重し及び確保すること」を定めている。「自由権規約」第14条「すべての者は、裁判所の前に平等とする」や、「表現の自由」(第19条)、「婚姻の自由」(第23条)などとあわせて、日本国憲法第982項によって誠実に遵守することが要請されている規定である。

つまり国際法上は、「日本では絶対的な権力を持つ主権者は『国民』なので、『国民』は非『国民』に対して『自由権規約』で定められた権利の行使の制限も行うことができる」、と主張することはできない。したがって憲法上も、少なくとも第982項と第1章諸条項及び皇室典範との整合性が問われる。

日本政府は、1980年以来、自由権規約の規定にもとづき、国内の立法措置の状況などに関する報告書を作成している。日本の自由権規約加入以来、審査機関である「自由権規約委員会」は、日本国憲法が定める「公共の福祉」の概念が、人権を不当に制約することはないか、という質問を出している。これに対して日本政府は一貫して、ない、と答えている(ちなみにこの40年間にわたるやりとりは新型コロナ対策としてのロックダウン措置の合憲性にも大きく関わる)。

幸いなことに、「自由権規約委員会」は、皇室典範による「皇族」に対する人権保障の制約について質問を出してきたことはないようである。だがもし質問されたら、日本政府はどう答えるのか。「偉~い芦部先生がそうおっしゃっていることですから」といった主張は、国際社会では通用しない。

皇室典範第11条は、「年齢十五年以上の内親王、王及び女王は、その意思に基き、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる」と定めるが、三権の長ら10名で構成される「皇室会議の議」を経なければならない以上、自由意思だけで簡単に皇族から離脱できるとみなすことはできない。

日本の「天皇制」は、「主権の存する日本国民の総意に基」いて維持されている一つの国家制度である。そこに「国民の総意」が反映されるべきであることは確かだ。他方、人権保障の観点からは、絶対主権論一辺倒で乗り切ろうとする法解釈論には、限界がある。自由権規約第23項は、「権利又は自由を侵害された者」に対する「司法上の救済措置」の必要性を定めている。皇室典範と自由権規約、日本国憲法と国際人権法の間の繊細な関係は、皇室の方々の善意の努力によって支えられているとも言える。

憲法制定から70年以上の月日が流れている。素朴な私見では、自由意思の範囲を広げて人権保障を確証しつつ、「皇族」の定義を調整して制度維持を図ることが必要になってきているように思われる。私のような素人には、それ以上のことは言えない。しかし人権保障の観点からも、制度維持の観点からも、今回の眞子さまの一件は、矮小化して理解すべきではないように感じる。

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