「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

2021年11月

岸田文雄首相が打ち出している「新しい資本主義」については、「成長と分配」が注目される傾向があるが、実はより切実なのは「コロナ後の新しい社会の開拓」のほうではないだろうか。https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/atarashii_sihonsyugi/index.html

「成長と分配」については、「新自由主義」の対抗軸となるスローガンとして意味があるのだろうが、政策概念としてどこまで真新しいのかは、よくわからない。そもそも「新自由主義」という語を内容不明な形で使い回しながら、とにかく世の中の悪い現象は全て(彼らが言うところの)「新自由主義のせいである」と結論づけて何か言った気になってみせる左翼系評論家の悪弊は、政策論として意味のあるものではなかった。

これに対してコロナ後の経済の行方は、目の前の直近の切実な課題だ。ただ、「コロナ後」、という概念設定は、気になる。「コロナが完全に収束した後に、経済をコロナ前の状態に戻していくには」といったニュアンスがそこに込められているとしたら、それが妥当であるかは怪しい。

昨年初めに新型コロナが流行し始めた頃から、私だけでなく、多くの論者が、言葉の正確な意味で社会が元に戻ることは、少なくとも相当期間にわたっては、想像できない、と書いていた。

現在、日本の新型コロナの感染状況は低水準に入っている。だが根絶が視野に入っているわけではない。そのため人々は、一人で路上を散歩するときですら、マスクをつけたままだ。旅行業界や観光業界はもちろん、飲食業界のビジネスも、近い将来に「コロナ前」に完全に戻ることは、想定できない状態だ。

ちなみに大学では、私費留学生の来日がようやく再開されたが、一日当たりの入国者数の上限が設定されている状態が続いており、2020年入学者の渡航から順次進められていくので、来年4月までに2022年度入学者の渡航が可能となるかは不明な状況だ。キャンパスでマスクをつけていない者はいないし、対面式授業は一部のみで、講義はオンライン授業のままだ。

ワクチン普及率が人口の大半を占めるまでに至っている欧州諸国は、レストラン入店時にワクチン接種証明を示すことを求める規制などを導入して平時に戻すような措置をとったが、規制の度合いが緩かった国から順番に感染が再拡大し始めた。

もっともそれらの欧州諸国でも、相対的に死者数は抑えられているので、ワクチンの効果や社会的対応策の効果はあがってはいると考えるべきだ。ただ、感染者をゼロにすることができないし、緩めれば感染も広がる、という事情を変えられていないだけだ。

われわれは今後もまだ新型コロナ対策が続く社会で生きていかなければならず、社会経済活動もその前提で進めていかなければならないのである。

「新しい資本主義」は、「新型コロナ禍の社会」における最大限の経済活動の円滑な進展、という意味で、考えてみなければならないだろう。

本来の自由主義社会の資本主義経済では、不定期だが頻繁に飲食店が夜8時以降に営業することを禁止されたり、自粛することを求められたりするなどという状態は、想定していなかった。人の移動が数年にわたって大きく制限されるといった事態も、想定していなかった。各国政府が巨額の財政出動を通じた経済刺激策をとり続ける状態も、新型コロナ危機以前では考えれない水準で、全世界的に継続している。

もちろんワクチンの普及と、日常的な対策の浸透を通じて、できる限りロックダウンや緊急事態宣言などの措置を避けようとする努力は、それなりの効果をあげている。感染拡大期になると繁茂してくる「いわゆる専門家」の人々の盲目的で過剰な対策の主張には、引き続き警戒をしていかなければならない。

だがだからこそ、平時からの対策が意味を持つ。期間限定で踏み込んだ対策を取らなければならない時期が訪れる可能性も、常に念頭に置いておかなければならない。

まさに「新しい資本主義」の時代だ。

過激な政策を強権的にとることができる権威主義国家のほうが、民主主義国家よりも新型コロナ対策において優れた成績をあげている、といった評論家めいた感想を吐露していればいい時期は、とっくに過ぎ去っている。

自由主義社会の資本主義は、生き残りをかけて、「新しい資本主義」を追求しなければならないのだ。

岸田政権が、公明党からの要請を受ける形で実施する「ばらまき政策」の評判は芳しくない。ビジョンが感じられないからだろう。「新しい資本主義」には、付け焼刃的ではない、ビジョンが必要だ。

やはり権威主義体制の挑戦を受け止めるものとしての「経済安全保障」とあわせて、岸田政権が厳しい現実をふまえ、長期的かつ体系的なビジョンをもって、「新しい資本主義」を進めていくことを願う。

11月8日月曜日から、新型コロナに対する「水際対策強化に係る新たな措置」(19)が実施される。これを政府が発表した後、マスコミ各社が一斉に「水際対策を緩和!」と報じた。案の定、ヤフコメなどでは「なぜ緩和するんだ!」とのコメントが殺到している。いわゆる「専門家」たちも「これで来月は感染爆発だ!」と久しぶりに派手な予言を競い合っている。https://news.yahoo.co.jp/articles/891a86bf1507992a77876c51a857d3478a9faeae

「生命か経済か」「厳しいか緩いか」「科学か非科学か」・・・といった二項対立の図式で世界を単純化し、他者を否定して自分を慰める議論が、過去1年半にわたり、新型コロナをめぐって進められてきた。お馴染みの光景ではある。だがいい加減になんとかこの安易で非生産的な構図から抜け出す方法はないものか。

確かに、新型コロナが蔓延し始めた昨年3月の時点で、日本が入国規制を導入するタイミングは遅かった。だがその後に自衛隊を投入して行われた水際対策の整備で、何とか最悪の事態は防いだ。https://agora-web.jp/archives/2046238.html

それなのに!と多くの人が、今回の「水際対策を緩和!」の見出しを見て、思ったのだろう。多くの人々が「昨年3月の時点に戻します」と政府が言っているかのように感じたのだろう。マスコミが意図的に「緩和、緩和、緩和」とだけ連呼して内容を伝えないお馴染みの印象操作に終始しているので、記事を読んだ人が事情を考えることができないのも無理はない。

しかし実際の「水際対策強化に係る新たな措置」(19)は、マスコミが必死の印象操作で誘導しているような「水際対策を緩和して昨年3月の時点に戻して来月に感染爆発を再び起こします」と言うようなものではない。むしろ非常にややこしい制度的仕組みを伴うものだ。

まず原則14日間の自己隔離期間を3日に短縮できるのは、入国日前14日以内に感染状況が悪い指定国に滞在したことがなく、日本政府が有効と認めるワクチン接種証明書を持つ者だけだ。しかもさらに3回のPCR検査を受けなければならない。日本行きの航空機に搭乗する72時間前以内に受けたPCR検査の陰性証明書がないと、搭乗できない。さらに日本到着時に空港でPCR検査がある。この検査の結果を数時間待って陰性が証明されないと、入国審査に進めない。それで公共交通機関を使わない移動で隔離場所で待機した後、3日目以降にもう一度PCR検査を受けて陰性証明を発行してもらうまでは、隔離が解除にならない。外国人については、これらの過程を監督する受け入れ責任者が事前審査を経るのでなければ、ビザが発給されない。https://www.mhlw.go.jp/content/000851831.pdf 

こうした措置は、昨年には存在していなかった。そもそもワクチンの開発・普及が大きな違いを作り出しているわけだが、欧米諸国ではワクチン接種証明をもって入国条件としている場合が多い。日本は3回に及ぶPCR検査を課している点で、より厳しい。

本来、これは「水際対策」の内容の妥当性の問題であり、「緩くすべきか否か」の問題ではない。果たして外国人に14日間自宅待機をお願いしているだけのほうが、3回目のPCR検査を受けさせるよりも、絶対に厳しいので圧倒的に安全だ、と言えるかについては、疑問の余地があると思う。新型コロナは2週間の潜伏期間があるとされるが、ほとんどの場合には5日間以内で発症する。PCR検査は万能ではないと言われるが、5日程度の期間にわたって3回ものPCR検査を行ってもなお陽性が識別できない可能性は、非常に低い。そもそも感染の度合いが比較的低い国からの入国しか許可せず、しかもワクチン接種者であることが前提条件だ。それでもなお、とにかく外国人であるだけで、絶対に感染している可能性が日本人よりも高いと推定すべきだ、と主張するのは、かなり無理がある。海外から帰国してくる日本人も、ビザなしで入国できるだけで、やはり同じ措置が取られるので、事情は同じである。

もちろんワクチンを接種し、PCR検査を何度受けても、感染している可能性が確率論的にはゼロにはならない、と言えば、それはそうなのだろう。仮に極度に低い確率でも、ゼロではないと言えば、ゼロではない。

だがそのような理由で争うのであれば、「どこまでもゼロコロナを目指す」という立場をとっていることを明言すべきだろう。もし「ゼロコロナ」主義者ではないのなら、いたずらに「緩めるのはダメだ!」に持ち込もうとするべきではない。より具体的な論証を踏まえて、政策の内容が妥当であるかどうかについて、議論をするべきだろう。つまり今回の措置が「来月の感染爆発」につながることを、きちんと論証する責任を負って、議論すべきだろう。

それにしても、政府の側も、新型コロナでは「煽り」系のマスコミの言説が蔓延していることを、痛いほどよくわかっているはずだ。なぜもう少し真面目に先回りした対応をとっていかないのか。

「政府としては官僚文章を淡々と読み上げるだけだ、それをどう解釈して見出しを付けて商業的に売り込めるセンセーショナルなものにしていくかは全てマスメディアの皆さんに全面的にお任せする」、といった態度をとり続けるのは、むしろ無責任ではないか。

重要な政策課題であれば、むしろマスコミの見出しに影響を与えるような売り込み方で説明をしていくような積極性があってもいいのではないか。今回の事例で言えば、「水際対策」の政策的内容の変更または発展であり、決して「緩和して昨年3月の状態に戻す」ようなものではない、ということを先回りしてプレゼンテーションしていくべきではないか。

日本政府では、官房長官や官房副長官が、事実上の広報官の役柄を担っている。新型コロナで露呈しているのは、このやり方の限界ではないか、という気がする。高位の政治家が直接話したほうが国民へのメッセージを発する際に重みを持たせることができる、といった狙いがあるのかもしれない。だが実際には、裏目に出ている。

しっかり広報を専門にする広報官を配置し、どうやったら伝えたいことを国民にしっかりと伝えられるかをしっかりと考えてもらってから、広報すべきではないか。

広報官を前面に出すのを躊躇する日本の政治文化と、電通や博報堂が表に出ないところで大型契約を受注して再委託先下請け企業を牛耳りながら裏でイベントを仕切ってしまうのを当然だとする日本の政治文化は、表裏一体の関係にあるような気がする。これは、是正すべき奇妙な文化だと思う。

専門の広報官を配置してしっかり表で国民とのコミュニケーションを担当させることこそが、政治主導の広報につながる道だと思う。

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