「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

2022年03月

 ロシア・ウクライナ戦争の深刻さが増している。そのニュースを見ながら、日本では頓珍漢な議論が横行している。

おそらく危機になればなるほど、日本社会に根差した平時の思考では対応できなくなる。それを率直にふまえた上で、冷静な情勢分析や、重要な判断の検討をするのが、当然であるはずだ。ところが「もうこういうややこしいことは終わりにしてほしい」というお茶の間のテレビ視聴者の要望に応えようとする文化人などが、小学校あたりで習ったかのような紋切り型の世界観を振り回して、「こうしろ、ああしろ」、という独断に満ち満ちた説教をするので、話はややこしくなる。

 紋切り型の第一は、「侵略者が来たら降伏しよう」論である。降伏さえすれば、世界の問題は全て解決する、といった話は、全く現実とかけ離れている。ところが日本では、憲法学者の書いた教科書に書いてあるだけでなく、学校教育などにも相当入り込んでいるので、厄介である。

 個人の思想信条として非暴力主義を貫いたりするなら、まだよい。しかし評論家の橋下徹氏のように、日本のテレビで日本のお茶の間の視聴者のために、「ウクライナは降伏せよ」と主張してみたりするのは、また別次元の問題だ。「ウクライナは勝てない」とか、専門家になればなるほど絶対に口にしない未来の予言を断定調で吹聴し、あたかも問題が解決されないのはウクライナが降伏しないからであるかのように主張するのは、本当に困った話である。極端に問題を単純化して理解できるかのように振る舞ったうえで、極端に解決策を単純化できるかのように振る舞って、テレビのお茶の間の視聴者にアピールするのは、憲法学者独裁主義体制下の日本の学校教育の弊害をあらためて痛感せざるを得ない。

 紋切り型の第二は、「世界に問題があるのはアメリカが解決していないからだ」、という極度のアメリカの神格化にもとづく意味不明の糾弾である。プーチンが侵略戦争をしかけるたびに、「防げなかったアメリカが悪い、アメリカは早く問題を解決しろ」、と日本のテレビで叫ぶ評論家が現れるという仕組みは、いかにも不健康である。

 紋切り型の第三は、「プーチンにはプーチンの正義がある」論である。タレントの太田光氏のテレビの発言が話題になった。プーチンにも利害や野心がある。だがそれは正義と呼べるようなものではないだろう。ロシア人でプーチンを支持している者ですら、事実を客観的に描写して、それを正義と呼んでいるわけではない。虚偽の取り繕いを、正当化の口実に使っているだけだ。それなのに日本のテレビタレントだけが、お茶の間の視聴者向けに、「プーチンにはプーチンの正義があるはずだ、もちろんそれが何なのか知らないし説明もできないが、誰にでも正義はあると日本の小学校で習った」、といったことだけを語ってみても、全く現実から乖離したお喋りでしかない。

紋切り型の第四は、「人間には誰でも欠点はある」論である。鈴木宗男議員が、「ウクライナにも責任はある、喧嘩両成敗がよい」といったことを国会で発言して、話題になった。「清濁併せ呑む」「長いものに巻かれろ」「見ざる聞かざる言わざる」・・・、なんでもいいが、弱者が強者に屈服しさえすれば、問題は解決し、世界は平和になる、という思想は、日本社会に根深い。その紋切り型の思考から導き出される結論を強引に正当化するために、「ウクライナ人の全員が聖人君子だというわけではない」といった話を持ち出すので、厄介である。百歩譲って、日本社会の中だけであれば、「いじめられる方も悪い」と呟いて事なかれ主義を貫くこともできるかもしれない。だが、国際社会でそれをやったら、日本は孤立する。

紋切り型の第五は、「紛争当事者の一方に肩入れしてはいけない、中立が常に一番正しい」という思想である。鳥越俊太郎氏らが、ゼレンスキー大統領の国会演説に反対するために、中立こそが常に絶対善、といった議論を展開して話題になった。端的な事実として、日本政府は、はっきりとロシアの違法行為を非難し、ウクライナを支援しているので、今さら国会演説だけ拒絶しても、中立的などにはならない。ただ問題が根深いのは、「中立こそが常に正しい」という思想が、憲法学者独裁主義体制下の日本の学校教育を通じて、日本のテレビのお茶の間視聴者の間に深くはびこっていることである。

実際には、日本国憲法も国連憲章も「正義(justice)」を追求し、そのために日本社会/国際社会全体が標榜すべき目的や原則も明らかにしている。それを一気にひっくり返して、「どれだけ悪い奴が原則や規則を蹂躙しようとも、とにかく常に中立を心掛けることだけが絶対的な善だ」と主張してみせるのは、反憲法的・反国際法的な困った態度である。

確かに司法試験受験生・公務員試験受験生がバイブルとして信奉しなければならず、学校教育もその前提で信奉してしまっている思想の源と言える芦部信喜『憲法』を見ると、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」という憲法の文言に強引な解釈を施して、「公正だから非武装中立でなければならない」といった主張がなされているのを見ることができる。しかしこの憲法前文に登場する「公正」は、もともとは「justice」であり、憲法9条冒頭に登場する「正義」と同じである。「平和を愛する諸国民」とは、大西洋憲章や国連憲章を見れば、連合国や国連加盟国を指すことが明らかである。つまり日本国憲法は、国際法に従った正義を追求することを宣言しているのである。芦部信喜ら憲法学者たちがイデオロギー的立場にそって陰謀論のような話を広めただけなのである。この話は、私にとっては何度も書いてきたことではある。だが、ウクライナ危機に対する日本のタレント層の反応などを見ると、問題の根深い深刻さに、あらためて嘆息せざるをえない。

 評論家の橋下徹氏がウクライナ危機に関する発言が物議を醸しだしている。ウクライナ人は国を捨てて逃亡するべきだ、といった趣旨のことを主張している。キャスターの玉川徹氏も、ウクライナは早く降伏して命を守るべきだ、と主張している。

 日本のテレビ界は怖いところだ。このようなウクライナ人の決死の努力を馬鹿にするかのような主張が「命を最優先にすべきだ」といった原理的な文言とあわせて流通してしまうのだから。

 すでに多くの人々が批判をしているが、現代日本の閉塞を象徴しているようにも思われるので、あえて書いてしまう。説明は不要とも思われるが、ロシアよる占領では、多くの人々が粛清される。命を守る、といっても、降伏さえすれば全員が生き残れるという保証があるわけではない。逃亡すればいいと言われても、逃亡中に命を落としているウクライナ人も多数出ている。降伏後も逃亡後も、抑圧・困窮は必至で、命がけの生活だ。ロシア支配下では、ウクライナという国の実質的あるいは形式的な存続も危うい。

 また、侵略者が侵略によって利益を得ることを被侵略者が積極的に許してしまったら、国際社会全体の秩序が壊れ、日本人を含めた世界中の人々が損失を受ける。ウクライナは国際社会の秩序の維持のためにも戦っている。

「生命よりも大事なものはない」という。だが「生命を守る」というのは、簡単なことではない。ただ降伏したり逃亡したりすれば、万人の生命が長期にわたり保障される、などといったことが言えるわけではない。ガニ大統領が国外逃亡した後に残されたアフガニスタン人の多くは、現在のタリバン支配の状況下で、苛烈な状況に置かれている。旧政府の治安関係部門で働いていたとわかれば、確実に粛清対象である。公開処刑されている者も多数いるし、失踪したままの者も多数だ。女性の権利のために運動しているだけで、深夜に自宅のドアをぶち破られ、連れ去られて行方不明にされてしまうくらいである。なんといっても無数の若者の夢や人生設計が大幅に狂わされた。国外逃亡したガニ大統領は、外国メディア関係者に向かって「私はアフガニスタン人の生命を救った」などと主張するのだが、実際には、確実に救ったのは、ただ自分の生命だけだ。

日本のテレビ番組で、日本のお茶の間の視聴者向けに、自由と独立のために戦うウクライナ人など馬鹿げている、といった趣旨のことを言うのは、せいぜい個人的な信条としては可能であろう。だがそのような個人的価値観をウクライナ人に押し付けることが倫理的に許されるかどうかは、公の議論のレベルで検討されるべきだろう。

万が一にも、「日本のお茶の間でテレビをつけてウクライナ情勢のニュースを見ると気分が悪いんだ、降伏でも逃亡でもなんでもいいから、早く終わりにして、我々日本人がもうウクライナのことなんか忘れ去って考えなくてもいいようにしてくれないか」、といわんばかりの態度であるとしたら、少なくともウクライナ人に対して極めて失礼である。
 現実がいかに困難であっても、安易な結論をテレビ番組などに求めることなく、現実に向き合っていきたい。

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