「平和構築」を専門にする国際政治学者

篠田英朗(東京外国語大学教授)のブログです。篠田が自分自身で著作・論文に関する情報や、時々の意見・解説を書いています。過去のブログ記事は、転載してくださっている『アゴラ』さんが、一覧をまとめてくださっています。http://agora-web.jp/archives/author/hideakishinoda なお『BLOGOS』さんも時折は転載してくださっていますが、『BLOGOS』さんが拾い上げる一部記事のみだけです。ブログ記事が連続している場合でも『BLOGOS』では途中が掲載されていない場合などもありますので、ご注意ください。

2022年04月

 橋下徹氏のウクライナをめぐる言説は、橋下氏が大きな影響を受けた大学時代に通った司法試験予備校主宰の伊藤真氏とのつながりを考えるとよくわかる。その見通しで、前回まで4回の記事を書いた。

 伊藤真氏は有名な護憲派の運動家の方で、言論活動のみならず、「安保法制違憲訴訟の会」などの活動も精力的に行っている。https://sakisiru.jp/25798

 伊藤氏があまりに有名な方で、橋本氏との思想的つながりが明確に見えたので、逆に最近の伊藤氏の言説のチェックを怠っていた。池田信夫氏のツィッターを見ていて、伊藤氏がすでに41日にウクライナについて文章を書いていたことを知った。https://www.itojuku.co.jp/jukucho_zakkan/articles/20220401.html

 私が繰り返し強調しているように、橋下氏は自治体首長時代に「改憲派」のイメージを売っていたが、実はその思想の根っこは憲法学通説にあるようで、外交問題などになれば、そのことが完全に白日の下にさらされる。それで伊藤氏と完全に合体する。そのことについて半信半疑の方もいらっしゃるようだが、41日に伊藤氏自身が既に明確に証言されていた。

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今回のウクライナ戦争において、民間人も含めて最後まで戦うべきだという意見もありますが、逆に早急に逃げるか白旗を上げて民間人の被害を最小限に食い止めるべきだという意見もあります。・・・ 元大阪府知事の橋下徹弁護士は、テレビで「交渉のためにはプーチンの考えは何なのかっていうことを的確に把握しなければない」「これはあくまでNATOとロシアのプーチンのつばぜり合いの話だっていうことを把握しないと」と発言したそうです。伝聞で申し訳ないのですが、的確な指摘と考えます。橋下氏とは意見が違う点もいくつかあるのですが、立憲主義を堅持する立場を明確にしていて賛同することも多く、私もいろいろ学ばせてもらっている論客です。

彼はツイッターでも「いざ戦争になった場合に、戦う一択の戦争指導がいかに危険かということを今回痛感した。停戦協議の中身を見ればこの戦争は政治で回避できた。」と述べています。この戦争が外交の失敗の結果であり、本来はこうした戦争状態に引き込まないことが政治家の職責であることを、府民を守るために私などは想像もつかない政治の修羅場をくぐってきた橋下氏は理解しているのだと思います。

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橋下氏と伊藤氏は違うどころか、全く異論なく全面賛同という関係である。橋下氏も喜びに満ち溢れ、自信を持って、篠田は「アホ」「心底頭悪い」「頭がおかしくなった」と、繰り返しツィートしたくなったのも、無理はない。

伊藤氏は、「私は、何もウクライナ国民に逃げろと強要したり説教しようとしているわけではありません。」と書く。だがその説明として、延々と書き連ねるのは、ただひたすら日本の太平洋戦争終結時のエピソードのみである。日本の歴史だけである。日本の話を延々と書き連ねるだけである。ウクライナはもちろんロシアの話などは決してしない。

「説教はしない、しかしウクライナ人は私の日本史の講義を傾聴しなければならない、そして日本史だけを根拠にした私の勧告に従うべきだ!」、ということである。伊藤氏によれば、もしウクラナイ人が従わなければ、NATOが現れてウクライナ人を従わせなければならない。

橋下氏は、深く感銘を受けていることだろう。

伊藤氏は、「首都キエフはロシア語発音ではなくウクライナ語に近いキーフと呼ばれるようになりました」と堂々と書いている。日本政府が公式に採用するようになったのは、「キーフ」ではなく、「キーウ」であることなど、伊藤氏にとっては本当にどうでもいい些末なことなのだろう。ウクライナ人がそんなことを気にするかどうかなどは、あるいはウクライナ問題に関心を持つ日本人の読者が気にするかどうかなどは、伊藤氏にとっては、全くどうでもいいことである。人類が進むべき真理は、1945年の日本にだけある。ただそれだけが重要である。

タイトルなし

 そして伊藤氏は主張する。

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ウクライナにはNATOの基地もロシアの基地も作らないで中立の立場を選択し、緩衝国として生きていくという選択肢もあるのです。今回のウクライナ戦争の原因の一つがNATOの東方拡大にあるという評価は、けっしてロシア擁護という一方的な見方ではないことは、時間がたてば理解されることでしょう。また、日本の安全保障のあり方としても、勇ましい軍事国家や核共有を目指すのではなく、憲法の理念に従って、周辺国に脅威ではなく「安心を供与」する緩衝国として軍縮や核廃絶を目指すことも選択肢として捨ててはいけません。

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伊藤氏によれば、これは「説教」ではない。ただ日本の歴史に、普遍的な人類の生きるべき道しるべが記されていることを教えているだけである。ウクライナ人に日本史を講義し、日本の1945年のエピソードだけを根拠にしてウクライナ人に未来に進む道を示す伊藤氏は、全く「説教」などはしていない。ただ人類の歩むべき普遍的真理を示しているだけである。

その伊藤氏の啓示的な教えによれば、ウクライナは「中立」化し、「緩衝国として生きていく」べきである。言い換えれば、プーチン大統領の要求を全部呑んで生きていけ、ということである。

ただし、伊藤氏によれば、これは「降伏」ではない。伊藤氏によれば、これは「説教」でもない。なぜなら伊藤氏は、ウクライナ人が従うべき普遍的な真理を、日本の1945年の歴史を知っているがゆえに、誰よりもよく知っているからである。「キーウ」を「キーフ」と思っているとか、そんな些末なことは、全く取るに足らないどうでもいいことである。

残念ながら、国際政治学者としては、このような橋本氏=伊藤氏の世界観は、受け入れられない。この世界観では、国際政治学者などは存在理由を失い、粛清されるだけではないか! もちろん国際政治学者を国際政治学者であるという理由で、あるいはそもそも学者であるという理由で、激しく罵倒する
橋下氏にしてみれば、まさにそれこそが重要課題だ、ということになるのかもしれない。

となると、いずれにせよ、次のようには言わざるをえないようだ。国際政治学者の私が、ウクライナ人とともに、橋下氏=伊藤氏に抵抗を試みるのも、理由のないことではない、と。

 橋下徹氏によるウクライナのゼレンスキー大統領への批判は、当初の「なぜ降伏しないのか」から、最近は「なぜ市民を逃がさなかったのか」に変わってきているようだ。状況が変化したためだろう。ウクライナ軍が首都キーウを攻略しようとしたロシア軍を撃退し、同時に占領地域におけるロシア軍による一般市民への残虐行為が明らかになった。この状況変化に伴って、当初の「降伏」論が、「逃走」論に変わったものと思われる。

 この「逃走」論の妥当性について考えるために、橋下氏の言説を分析する際に私が参照してきている司法試験対策予備校の伊藤塾の伊藤真氏の著作を見てみよう(伊藤真・神原元・布施祐仁『9条の挑戦:非軍事中立戦略のリアリズム』[2018年]伊藤真「第1章 憲法9条の防衛戦略」)。

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私は攻められたら戦わずに白旗をあげるべきだと考えています。・・・私は国家が国を守る ために戦うことによってかえって国民の被害が拡大すると考えています。・・・反撃して大きな被害を招くよりも武力による反撃をせずに白旗をあげるほうが、被害が少なくて済む という判断です。

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 伊藤氏が、攻められたら必ず白旗をあげて降伏することを勧めるのは、戦うと「国民の被害が拡大する」と想定されるためである。言うまでもなく、ウクライナの占領地域におけるロシア軍の残虐行為が白日の下にさらされた今日では、人命だけを考えても、この伊藤氏の主張の妥当性は疑わしくなってしまった。さらに国家の存在など、人命以外の価値の存在も考えれば、伊藤氏の主張の信ぴょう性はさらに減る。

 これは私が戦争初期に書いた文章ですでに指摘していたことである。https://agora-web.jp/archives/2055421.html 橋下氏が怒りを顕わにして、ツィッター上での篠田への攻撃を開始した契機となった文章である。https://news.nifty.com/article/domestic/society/12184-1550471/ https://agora-web.jp/archives/2055546.html 橋下氏にとっては、今さら篠田のような学者の存在価値を認めることなどは、絶対にできない相談だろう。したがって橋下氏は、「降伏」論はなかったことにして、別の話に移行していかなければならない。

どうすればいいか。そこで浮上してきたのが、「逃走」論である。

伊藤氏の説明で顕著なのは、侵略戦争にさらされたときに政策決定者が行うべきなのは、予測される人命損失数の算術的計算だ、という発想方法である。伊藤氏が降伏を勧めるのは、失われる人命の数が、戦闘を行う場合よりも常に少ない、と仮定しているからである。したがって、降伏が妥当ではなくなるのは、降伏しなかった場合に失われる人命の数が、降伏した場合に失われる人命の数を下回る場合だけだ、ということになる。伊藤氏や橋下氏にしてみれば、そのような(彼らにとってはいわば)「例外的な」事態であることが証明されれば、降伏しなくてもいいぞと譲歩してもいいことになる。そこで橋下氏は、ゼレンスキー大統領に、降伏しないことでより多くの人命が救われたことの証明を求める。

当初は、橋下氏は、大挙して侵略してきたロシア軍の前にしてウクライナは反撃すれば「大きな被害を招く」と考えて、降伏すべきことを主張していた。ところが橋下氏の主張に、ゼレンスキー大統領は従わなかった。そのうちに状況が変わってしまった。そこで橋下氏は主張を変えた。降伏せず、戦い続けるのであれば、せめて一般市民を逃がしてやるべきだったのに、なぜそうしなかったのか、と主張し始めた。ロシア軍の残虐行為の責任の一端を、自らの降伏の勧めに従わなかったゼレンスキー大統領にも背負わせよう、という主張である。もしゼレンスキー大統領がこの主張に対応した証明ができなければ、篠田に怒りを顕わにした橋下氏自身の立場も守れる。

 「逃走」論の主張において、橋下氏が繰り返し述べているのは、開戦当初、ゼレンスキー大統領が市民が国外に逃げるのを禁止した、それが問題だ、といったことである。本当だろうか。

 時系列を追いながら、実際に起こったことを確認してみよう。224日の開戦の直前である23日、ゼレンスキー大統領は予備役の招集をかけた。言うまでもなく、ロシア軍の攻撃が間近に迫っている可能性を鑑みてのことであった。その際、ゼレンスキー大統領は、国民総動員令はまだ出さない、と述べていたhttps://www.voanews.com/a/ukrainian-president-drafts-reservists-rules-out-general-mobilization-for-now-/6454514.html 。まだその段階ではない、と判断したためである。そのような判断をせよ、という圧力にさらされていたにもかかわらず、あえて自重していたくらいだった。https://www.voanews.com/a/zelenskyy-under-pressure-to-mobilize-ukrainians-start-serious-defense-planning-/6455275.html 

 そもそもウクライナでは、ゼレンスキー大統領が就任するだいぶ前の2014年の危機の際に、国家総動員体制の整備が必要だ、という議論が巻き起こっていたhttps://www.businessinsider.com/ukraine-army-mobilize-2014-3 。人的資源において圧倒的な優位にあるロシアによる侵略の脅威にさらされているウクライナを防衛するためには、そのような体制をとることが不可避だ、という厳しい認識に基づく議論であったhttps://krytyka.com/en/articles/national-mobilization 。国家総動員体制は、ゼレンスキーの突然の思いつきで導入されたものではない。あるいは全体主義者たちのイデオロギー的野望で導入されたものでもない。クリミア併合・東部地域の分離主義運動の背景にロシアの侵略の脅威を見たウクライナ人たちが、ぎりぎりの状況で検討し始めた措置である。ゼレンスキー大統領は、その8年後に、まぎれもない危機の到来にあたって、この措置を導入する際に大統領の職にあったに過ぎない。

 224日に実際にロシア軍による攻撃が始まると、ウクライナ軍のみならず国家全体が戦争体制に入った。ゼレンスキー大統領は、ここで初めて、手控えていた国民総動員令を出した。その目的は、兵力においてロシア軍に劣るウクライナ軍の不足を補いつつ、戦時体制であらゆる場面で必要になる人的資源を国家が計画的に確保して配分していくことだhttps://www.president.gov.ua/documents/692022-41413 。これにともなって国境管理庁が動員対象者の出国を認めない措置をとることになった。https://www.businessinsider.com/ukrainian-president-announces-general-mobilization-2022-2 「逃がさない」ことが目的の措置がとられたのではなく、関係省庁が、国民総動員令の実施に矛盾する措置を取らないようにし始めただけだ。

そもそも攻撃を受けるまで発令を控えていたわけだから、ゼレンスキー大統領にとっても決して望んだ決定ではなかった。しかしウクライナを防衛するために必要な人員を確保するために、一度広範な層の国民を動員する体制を宣言しておく必要がある、と開戦にあたって判断した。実際に必要な人員は、軍関係組織等が順次決定していく。https://globalnews.ca/news/8641948/ukraine-russia-putin-war/ いきなり全員が戦場に送り込まれるわけではない。事実、4月になった今もまだほとんどが実際には動員されていないと言われる。しかし緊急事態において、志願者を募ったり名簿を作り直したりしている暇はない。敵の侵略攻撃によって戦時体制に突入したことを受けて、人員を確保する体制を即時に導入しておく必要があった。そこでまず90日間の時限付きで、非常事態に対応する措置を導入した。https://www.aa.com.tr/en/russia-ukraine-crisis/ukraine-declares-general-mobilization-as-russian-attacks-continue/2513959 

この措置が、日本で「ウクライナの1860歳男性は出国を禁止された」という点を強調されて報道された。そのため、橋下氏は、ウクライナの全国民が武器を与えられて一斉にロシア軍に攻め込んでいくような姿を思い浮かべたのだろう。「戦う一択」なる謎の概念を振り回す一連のゼレンスキー大統領批判は、日本の報道を見た時に橋下氏が受けた個人的な印象から生まれたものだと思われる。

日本には徴兵制がない。それを裏付ける法律もない。したがって国民に動員令がかかるという事態が起こりえない。日本人が知っているのは、悲惨な結末を迎えた太平洋戦争中の国家総動員令だけだ。そのため多くの日本人が、そのような重たい判断をゼレンスキー大統領が開戦初日に迅速に行ったことに衝撃を受けた。特に橋下氏のような50歳代の中年男性が、自分の年齢でも総動員令の対象になることに強い衝撃を受けたかもしれないことは、想像するに難くない。この頃、橋下氏は「俺なら逃げる」という内容のツィッターを連続投稿している。

SNS上で、橋下氏が執拗にゼレンスキー大統領の批判をするのは嫉妬しているからではないか、というツィートが話題になったことがある。そうかもしれないが、私はちょっと異なるニュアンスも感じている。橋下氏は、50歳代の中年男性にまでを、総動員令の対象にしたゼレンスキー大統領を、その一点において、絶対に否定したいのではないか。橋下氏は、逃げたいのである。まず自分が、逃げたいのである。そのためこの問題に異様な感情移入をする自分を止められなくなるのである。

しかしほとんどのウクライナ人は、橋下氏とは違った。2014年から一貫して戦時体制にあり、戦争に対応する体制を整えていた。国民総動員令は、悲しい事態だが、ウクライナでは法律違反ではないはずだ。ゼレンスキー大統領は、戦争が始めれば導入せざるをえないと計画していた措置を、戦争が始まったときに導入した、ということである。

ウクライナ憲法第83条は、大統領に、非常事態に戒厳令を敷く権限を付与している。大統領は、国家元首であり、軍の最高司令官であり、国家安全保障・防衛委員会の議長であり、同委員会の決定の公布者である(83102106107条)。https://www.refworld.org/pdfid/44a280124.pdf

欧州では、フランス革命以降、国民皆兵の伝統がある。国民国家の創設にあたって国民皆兵は正当であるという考えが、根深く存在している。日本の憲法学通説を地球の絶対真理と信じている人々にとっては、ウクライナの法体系は異様に映るかもしれない。だが、これは少なくともヨーロッパの国民国家の思想の伝統では、それほど異様ではない。民主主義国だからこそ、国民全員で国家を守る義務がある、という思想が根強いのだ。アジアでも、韓国のように緊急事態が日常生活と併存しているような社会では、徴兵制が存在する。徴兵制があることを、あるいは緊急事態に特別な動員体制を導入することを、ゼレンスキー大統領の個人的な性癖に還元して理解しようとするのは、あまりにもガラパゴスな思い込みである。

日本の憲法学者の多くは、憲法18条の「奴隷的拘束・苦役の禁止」によって、日本では徴兵制が禁じられると考える。GHQ起草者は想像もできなかったガラパゴスな文言解釈である。まあ、ここではその解釈の是非は問わない。百歩譲って、この日本の憲法学者の日本国憲法解釈を採用するとしよう。しかし、それでも、「ゼレンスキー大統領は日本国憲法第18条に違反している」と叫んでみることには、何も意味はない。どんなに橋下氏が悔しがろうと、仕方がない。

国際法はどうか。国際人権法の中核を占める「市民的及び政治的権利に関する国際規約(B規約)」は、第41項で、「国民の生存を脅かす公の緊急事態の場合においてその緊急事態の存在が公式に宣言されているときは、この規約の締約国は、事態の緊急性が真に必要とする限度において、この規約に基づく義務に違反する措置をとることができる。」と定め、「公の緊急事態」における人権規定の一定の制約を認めている。ただし同条2項は、「公の緊急事態」においても制約してはいけない条項を列挙し、いかなる場合にも「逸脱不可能」な中核的な人権規範の存在も明示している。生命に対する権利の保障、拷問・奴隷・不当拘禁の禁止、罪刑法定主義、法の前の平等、思想・良心・宗教の自由の保障である。

この国際人権法の体系にそって考えると、ロシアの侵略戦争にさらされた際に国民総動員令をかけることが、国際法違反だとは言えない。橋下氏のような者まで潜在的な動員対象になったからと言って、いきなり生命を奪われるわけではなく、そもそも戦場に送り込まれる可能性も低いのだから、どんなに橋下氏が悔しがろうとも、仕方がない。

橋下徹氏は50歳代の中年男性である。学者の私のような社会的に無価値な50歳代の人間はともかく、橋下氏のような高位の公職をお持ちだった元権力者の方が50歳代の中年男性であることを最大限に考慮すれば、ゼレンスキー大統領は、1860歳ではなく、せめて1840歳くらいにして、橋下氏の同世代の者も逃亡していい対象にするべきだった、という主張も成り立つのかもしれない。

だがそこはより具体的な政策論だ。それくらいに人が足りないのであれば、この政策が破綻しているとまでは言えない。必要な人間の数が足りなければ、結局は逃げることができる人間の数も減る。敵を食い止めたる戦闘行為に従事する者だけでなく、その他の緊急事態対応の職務に当たる者がいなければ、逃げることができたはずの者も逃げることができない。

ウクライナからは国外に大阪市の人口の1.6倍以上の450万人以上の難民が流出し、710万人以上の国内避難民をあわせると大阪府の人口の1.3倍以上の1160万人である。https://data2.unhcr.org/en/situations/ukraine https://reliefweb.int/report/ukraine/update-idp-figures-ukraine-5-april-2022-enuk これだけの数の人間の避難が、わずか1.5カ月で発生している。ロシア軍の攻撃を防ぐ防衛措置のみならず、その他の環境整備に相当な労力が必要である。

橋下氏くらいの大人物になると「たったのこれだけしか避難させてないのか、これじゃ誰も避難させていないに等しい」と言って、ゼレンスキー大統領を叱責できるのかもしれない。しかし、客観的には、そんな叱責は、現実離れしていると評さざるを得ない。

橋下氏は、あるいは自分でも気づいていないのかもしれないが、日本の憲法学通説の色眼鏡で国際情勢を語り、他国の大統領を叱責している。日本国内の学者の知能の低さを罵倒しているくらいであれば、社会的に無害である。しかしウクライナ情勢それ自体を、隠れた憲法学通説信奉者として、歪曲した形で論じ続けるのは、社会的に有害である。
 私が、一連の橋下徹氏に関する記事を書いているのは、あくまでもそのことを痛切に感じているがゆえである。橋下氏が、学者などとは比較の対象にできない偉大な人物であること自体には、何も疑問を持っていない。

 橋下徹氏のウクライナ情勢をめぐる発言が、次々と物議を醸しだした。ウクライナは降伏せよ! NATOは「妥結」を達成せよ! ウクライナ人は津波から逃げるようにジェノサイドから逃亡せよ! と無理筋の指示を次々と出し続ける。そのあげく、やみくもに他者を罵倒し始める。

発言が変転し続けて一貫性がないだけではない。過去の発言の責任を引き受けようとする姿勢を全く見せない。「降伏」論はどうなったのか? 軍事同盟であるNATOがいきなり政治交渉を始めて成立させる「妥結」とはつまり何なのか? どうやったら一般のウクライナの住民が暴虐な外国占領軍の虐殺行為から逃れることができるというのか? 全くわからない。

橋下徹氏は、なぜこのように振る舞うのか。その理由を、前回は、橋下氏の思想傾向の面から考えてみた。そして「ケーキを切る人になる」という本来は方法論でしかない話が、自己目的化しているのではないか、という示唆を行った。この手段の目的化がはらむ内在的限界が、橋下氏の一貫性のない態度の根源的な要因だろう。

端的に言えば、橋下氏に一貫性がないのは、原則がないからである。国内行政では、まだ憲法に従うという原則があったのかもしれない。しかし、国際問題については、無原則になる。国際社会に憲法がないからだ。

憲法学通説を信奉する者に特徴的な思想傾向である。

橋下氏であっても、日本社会における犯罪被害者に、殺人者に降伏しろ! 殺人者と「妥結」をしろ! 津波から逃げるように殺人者から逃亡しろ! といった主張をしてきたわけではないだろう。それなのに、橋下氏は、ウクライナ人には、これらを要求する。なぜか。橋下氏が、国際秩序の存在を信じていないからだ。

なぜ橋下氏のような憲法を信奉する方に限って、国際秩序を軽視するのか。

 伝統的な日本の憲法学では、憲法は権力を縛るためにある、と理解されている。立憲主義とは、権力を制限することである、と理解されている。行政府の首長を務めたことのある橋下氏は、権力を憲法に従って行使することも立憲主義の一部だ、とは付け加える。しかしいずれにせよ、憲法とは、国家と市民との間の「関係」の事柄だ、というのが、伝統的な日本の憲法学の考え方である。

 この国家と市民の二元的な「関係」の図式を国際社会にあてはめることはできない。そこで伝統的な日本の憲法学通説の発想方法からは、国際社会では立憲主義や法の支配は不可能だ、という結論しか出てこない。そのとき橋下氏に残るのは、「ケーキを切る人」のむき出しの「妥結」の要求だけである。

 原則なき「妥結」を求めるから、即時の結果だけを求める。時間をかけた戦略的・戦術的な行動を通じて進展させる交渉術などが検討される余地などは全くない。一か月後の戦況の動きの可能性をにらんで体系的かつ段階的な交渉の進展を目指す、という発想は、皆無である。ただただ、その場限りの「妥結せよ」を繰り返すだけだ。そのため、状況の変化に応じて自分の言っていることのほうも一貫性なく変更させる。体系なき日替わり「妥結」要求の羅列である。

 原則なき「妥結」を求めるから、ウクライナは降伏せよ、NATOがケーキを切れ、ウクライナ人はジェノサイドからきちんと逃げろ、といった類のことをツィートし続ける。しかも、痛すぎることに、その連続ツィートを、「理屈」とか「議論」とかと呼んでしまう。もし自らの支離滅裂な内容を批判されるとすれば、そのときに用いることができる武器は、権威主義だけである。「俺は元権力者だ、権力を知っているのは俺だ」、といったことをやみくもにツィートし続けるだけである。

このようなパフォーマンスに、論理的な交渉術などはない。あるのはただ、ウクライナは降伏せよ、NATOが妥結を持ってこい、ウクライナ人はジェノサイドからちゃんと逃げろ、といった、実現可能性がなく、したがって誰も従うことのない空しい命令だけである。

 日本の憲法学通説は、権力関係のことばかりにこだわり、権力関係について命令を下すことだけを立憲主義と呼ぶ誤謬を犯している。

立憲主義(constitutionalism)とは、本来の意味であれば、立憲的=構成的(constitutional)であろうとする主義である。社会を「構成している原則」の存在を信じ、その原則に忠実であろうとする態度のことである。

おそらく橋下氏のような日本の憲法学通説の徒は認めないだろうが、この意味での立憲主義(constitutionalism)は、国内社会でも、国際社会でも、見出すことができる。国際社会にも、侵略者や虐殺者を違法とする社会構成原則がある。法の支配(rule of law)とは、そのような社会構成原則を遵守する「constitutionalism」としての立憲主義のことである。

 ウクライナで起こっている戦争は、国際的な法の支配の重要性を信じて守ろうとする人々と、それを否定して破壊しようとする橋下氏やプーチンのような人々との間の戦いである。

 私は、父親が弁護士であった。そのため、弁護士とは何か、ということについて、父と話をしたり、父を見て感じたりしたことが、多々ある。そのため、大阪で、橋下徹氏の弁護士界隈での評判を聞いたときには、非常に残念だった。

弁護士が日々ツィッターで他者に罵詈雑言を浴びせ続けている姿は、私にとっては、異様なものだ。

https://twitter.com/hashimoto_lo/status/1510045040005230593

https://twitter.com/hashimoto_lo/status/1510045040005230593 

 しかも、自分に都合の悪いことは、絶対にふれようとはしない。

https://twitter.com/rockfish31/status/1510839571633696769 

 さらには相手が一度も使っていない単語を並べ、相手の名前を自分が作り出した物語にのせて罵倒して見せるのも厭わない。

https://twitter.com/hashimoto_lo/status/1510458219268874243 

 弁護士という仕事は、本来、他者から信頼されなければ成立しない仕事だと考えていた。しかし最近は、このタイプの方こそが「実践的交渉力」の証明であるらしい。

https://twitter.com/onoderamasaru/status/1508378665587208194/photo/1 

 私は、一カ月ほど前に橋下氏のウクライナ降伏論について批判的な文章を書いたため、橋下氏の逆鱗に触れ、執拗に扇動的な言葉を投げかけられることになった。 https://twitter.com/Sata17221/status/1510491456997556224?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1510491456997556224%7Ctwgr%5E%7Ctwcon%5Es1_&ref_url=https%3A%2F%2Fagora-web.jp%2Farchives%2F2055856.html

 橋下氏が、私の知能の低さを何万回ツィッターで連呼しようとも、特に社会的な害悪はない。私自身も、何ら関心がない。単に関わりたくないと思うだけだ。それはいい。

 ただ、繰り返しウクライナ情勢について奇妙なことを主張し続けるのは、困った話だ。非常に社会的な害悪が大きい。

 なぜ橋下氏は、このような人物なのだろうか?

 数日前、私は、この問いに答えるカギは、橋下氏が信奉する司法試験予備校経営者の伊藤真氏にあるのではないか、と示唆した。橋下氏と「憲法学通説」のつながりこそが、なぜ橋下氏があのような人物であるかを解き明かすカギなのではないか、と示唆した。

 https://agora-web.jp/archives/2055848.html

 この指摘について、橋下氏は、自分が改憲論者であることは篠田は知らないのか、といったレベルでの反論をしたようだ。だが私が指摘しているのは、そういう表層的なことではない。思考のパターンが伊藤真氏に影響されているのではないか、ということだ。

https://twitter.com/ikedanob/status/1510610955331579904 

改憲論や新自由主義をふりかけにしながら、「機会主義的に行動する伊藤真氏の弟子」、というのが、私の橋下氏の印象である。

 憲法学者の木村草太氏との対談集『憲法問答』の中の一節(232頁)を引用してみよう。

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 ・・・司法試験受験予備校でカリスマ講師として人気を博していた伊藤真さんの授業を、ビデオテープやカセットテープで聴いていた。僕が当時抱いた感想は「伊藤さんは、今の日本国憲法、憲法9条にほれ込んでいるな」というものだった。そして「ひとつのケーキをふたりで分ける際にケーキを完全に真っ二つに割ることはできない。そこでふたりのうち、ケーキを切らなかった者から先に選ばせる、すなわちケーキを切った者が後から選ぶというプロセスにする。そういうルールにすればケーキを切る者は、自分のケーキが小さくならないように真っ二つに割ろうと限界まで努力するし、ふたりはこのケーキの分け方に納得する。これが適切手続きという考え方だ」という伊藤さんの話に、僕は衝撃を受けた。そこから・・・自分の憲法論を確立し、政治家時代の僕の政治論や選挙論に繋がっていく。・・・僕がこれまでにやってきた政治や、今も持っている政治思想の背骨は、この伊藤さんからの教えに拠っている。

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 確かに、橋下氏は改憲を論じるし、機会主義的だ。しかしそれでも、橋下氏は、「伊藤さんの話」を人生の指針としている。橋下氏は、機会主義的な伊藤真氏の弟子なのである。

 橋下氏の言う「伊藤氏の話」について、よく見てみよう。そうすると、この話の実際のポイントが、誰がケーキを切るか、という点にあることがわかってくる。

 本当に適正なプロセスを確保するなら、自らはケーキをとらない公平な第三者が、最大限の努力で半分に切り分けなければならないはずだ。しかし橋下氏の「伊藤氏の話」では、ケーキを食べる者の一方が、ケーキを切る。ケーキを切らない側は、オファーを拒絶することはできるかもしれないが、常に受け身である。「ケーキを切る者」には、大きな裁量の余地と、圧倒的な主導権がある。

 「君は、頭が悪いな、ケーキはひとかけらもあれば十分だな、なに?それでは嫌だ?そうか、それならもう少し多く切り分けてやろう」、といった「実践的交渉力」を、「ケーキを切る者」は発揮することができる。

 橋下氏が法律家を目指すようになったのは、学生ビジネスで不渡手形をつかまされ、訴訟を起こしたときだったという。確かに法律というルールに習熟すれば、訴訟を通じて自分が「ケーキを切る者」になって、「実践的交渉力」を発揮していくことができる。

 自分に有利なルールのある場所でケーキを切る機会を設定することが、自分が「ケーキを切る者」になることである。

 万が一、ケーキを切るルールが「学術論文を書くこと」だったら、学者が「ケーキを切る者」になってしまう。それどころか、140文字以上の文章で勝負するルールにするだけで、橋下氏は不利だ。他方、260万人のフォロワー数を持つ橋下氏にとってみれば、相手を「ツィッターでの論争」に引き込んでしまうことが、圧倒的に有利である。時には汚い言葉を使って相手を挑発してでも、自分の得意領域に引き込むことが「ケーキを切る者」になる術だろう。

 もちろんテレビや選挙も、橋下氏の得意領域である。

https://twitter.com/JDWorldBriefing/status/1510819900478033921

 まず相手をどうやって自分に有利なルールがある場所に引き込むか。それが橋下氏の「実践的交渉力」のポイントである。

 通説にこだわる憲法学者と話をしていると、憲法の解釈を決めるのは憲法学者の多数説だ、というルーにこだわっていることに気付く。逆に言えば、このルールが通用しない場に出ることを非常に警戒しているし、このルールが崩されることを極度に嫌う。彼らは自分たちが「ケーキを切る者」であることに、非常に意識的である。

 だが残念ながら、国際社会のルールは、日本の法律ではなく、国際法によって成り立っている。国際問題は、国際法にしたがって理解し、解決するのがルールである。憲法学者は手を出せない。橋下氏にとっても、得意領域ではない。そこで橋下氏は、どうするか。国際法のルールにしたがってケーキを切るやり方を唱えるだろうか?

 唱えない。むしろ憲法学者にならって、国際法の法的性格に疑念を投げかける。

 https://twitter.com/hashimoto_lo/status/1498594654173814786 

 そこで橋下氏は、やみくもに、力関係で、「ケーキを切る者」を決めていくやり方を主張する。ロシアとウクライナの関係であれば、ロシアが「ケーキを切る」。ウクライナは降伏のオファーを受け入れるしかない。もっとも、「伊藤さんの話」理論にしたがえば、「ケーキを切る者」であるロシアも、最大限の努力で適切に占領しようとはするだろう。古典的9条論に依拠した空想的な仮説である。

もし、この「妥結」を避けるというのであれば、NATOが出てきて「ケーキを切る」しかない。そこでNATOは、ヨーロッパというケーキを切るにあたり、ロシアに対して最大限の努力で適切に東方拡大を調整しようとするだろう。この勝手な空想の見取り図に、東欧の複雑な政治事情はもちろん、東欧の人々の気持ちも、何ら視野に入ってこない。

これが橋下氏の「妥結」の国際社会である。もし、NATOが橋下氏に逆らって、「妥結」を持ってこないのであれば、橋下氏は苛立つ。

https://twitter.com/hashimoto_lo/status/1498596620614574080 

憲法学の発想方法は、単一の主権者を求める。そしてその主権論にしたがって「ケーキを切る者」を決める。橋下氏も同じだ。この発想にもとづいて紛争調停を図り、問題解決を狙う。ところがこの発想方法は、主権者が200近くある社会の法である国際法では同じようには適用できない。そこで橋下氏は、だったら国際法を参照するな、と命じる。ところが、それにもかかわらず、「ケーキを切る者」を決めて「妥結」を図れ、と錯綜した命令も下す。

客観的に言って、これは橋下氏の世界観にもとづく一方的な無理筋の命令にすぎない。現実に国際社会の実務に携わる人々は、国際法をそんなに簡単に消去することはできないし、ウクライナの存在をそんなに簡単に消去することもできない。一方、現実のNATOは、橋下氏のために自由自在にケーキを切って、ロシアとの「妥結」を簡単に持ってくるような存在ではない。

そもそも橋下氏が、頼まれてもいないのに、「お前がこうなるようにケーキを切れ」と指図し続ける必要がない。しかし、「ケーキを切る人」として生きていくことが橋下氏の人生の目標であり、あるいは人生そのものになっているので、評論家として行動する際にも、どうしても「お前がこうなるようにケーキを切れ」、と仕切り屋になる以外の評論の仕方を知らない。本来の当事者の意向や、利益や、気持ちを汲み取るといった姿勢などは微塵もない。ただ「俺に仕切らせろ」だけが前面に出てくる。

この橋下氏の「俺に仕切らせろ」の考え方に染まった目からは、こうした現実や国際政治学者の態度は、全く理解できないものだ。妥結せよ、妥結せよ、妥結せよ。そう唱えながら、結果として、橋下氏は、日々いら立ちを募らせていく。

国際政治の厳しい現実の中では、紛争当事者たちは、橋下氏の言うことを聞かないどころか、「ケーキの切れない人」や、「ケーキを切ると嘘を言う人」であったりするかもしれないくらいなのだ。しかし、そんなことは、橋下氏の「伊藤さんの話」だけの世界観では、一切考慮の対象外である。橋下氏は、ただひたすら「俺にケーキの切り方を仕切らせろ」を声高に主張し続ける。

ああ、その結果、何が起こるか。ウクライナ情勢は、橋下氏の説教とは全く別に進んでいく。そして橋下氏は、今日もまた、国際政治学者あたりを題材にして、ツィッターやテレビを通じた罵倒を続けていくことだろう。

 大阪府庁のすぐ近く、大阪城正面の大手前交差点にある公益社団法人國民會館で、武藤記念講座の講演をさせていただいた。「憲法と安全保障:国軍としての自衛隊を憲法は禁止していない~悪いのは憲法ではなく憲法学通説~」という内容だったが、冒頭では「橋下徹氏のウクライナ降伏論」について語らせていただいた。

 私は、評論家としての彼の活動には関心がなく、橋下徹氏のツィッターをフォローしてもいない。ただウクライナ情勢をめぐる「降伏」論については、大きな話題になったので、ニュース媒体を通じて見た。そして、不愉快になり、拙文を書いた。一カ月ほど前のことだ。https://agora-web.jp/archives/2055421.html 

これが橋下氏の逆鱗に触れ、その後、かなり頻繁に私についてツィッターで言及しているようである。

https://news.nifty.com/article/domestic/society/12184-1550471/ 

https://agora-web.jp/archives/2055546.html 

 橋下氏自身をフォローしていない私でも繰り返し気づくくらいに、様々な方々にリツィートされている。私が見る限りだが、多くの方々が橋下氏に否定的なコメントを寄せているようだ。そのため私自身が追加することもないように思っていた。だが、あまり他人任せにしているのも申し訳ないような気もしてきたので、そのうちにもう一つ書いてみようとは思う。

とりあえずまずここでは、公益社団法人國民會館でお話させていただいたことを文字にしておこうかと思う(ウェブ用講演録の作成公開は、しばらく先になるかと思うので)。

橋下徹氏の経歴をウェブ媒体で確認すると、私と一つしか年齢が違わず、同じ早稲田大学の政経学部で二年ほど重なっていたようだ(学科は違うが)。橋下氏は、そこから司法試験の勉強を始め、弁護士になられた。司法試験対策で伊藤真氏の授業を受けており、「橋下徹の憲法観の基礎は護憲派の伊藤真の授業にある」と言うほど、かなりの影響を受けたようである。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E4%B8%8B%E5%BE%B9#%E5%BC%81%E8%AD%B7%E5%A3%AB%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6 橋下氏の世界観において、伊藤真氏への憧憬が、対比をなす大学教員一般への蔑視と結びついているところは、非常に興味深い。

https://twitter.com/hashimoto_lo/status/1231116869207085057?ref_src=twsrc%5Etfw%7Ctwcamp%5Etweetembed%7Ctwterm%5E1231116869207085057%7Ctwgr%5E%7Ctwcon%5Es1_&ref_url=http%3A%2F%2Fblog.livedoor.jp%2Fschulze%2Farchives%2F52250353.html 

私は、父親が弁護士であったため、親戚に「お父さんの事務所を継がないのか」とよく言われていた。強い関心はなく、大学でも政治を学んだのだが、それでも社会勉強と思い、一年ほど司法試験対策用の大学のセミナーに出席してみたことがある。自分の職業にするような魅力を感じることができなかったため、結局やめた。つまり橋下氏とは異なり、伊藤真氏の伊藤塾に通うほどのことはしなかったのだが、それでも伊藤真氏がどういう人物であるかは知っている。端的に言えば、バリバリの「護憲派」である。私が通常「憲法学通説」と呼んでいるものを、どの憲法学者よりもより強く体現しているような方である。

ここで私が「憲法学通説」と呼ぶものは何か。

司法試験受験者のみならず公務員試験受験者にとっては神のような存在である(より正確には、試験に合格するためには神のようにみなさないといけない存在である)元東京大法学部第一憲法学講座担当教授・芦部信喜を、代表例として見てみよう。たとえば、芦部は、自衛権の行使も、自衛隊の存在も、違憲だと断定している。

これに対して、私は、芦部「憲法学通説」を、根拠薄弱のイデオロギー的な偏見に満ちた間違った憲法解釈である、と主張している(拙著『ほんとうの憲法』『憲法学の病』『はじめての憲法』などを参照いただきたい)。芦部ら「憲法学通説」の国際法の誤解と蔑視は、憲法前文が謳う国際協調主義および憲法98条の条約遵守義務から逸脱していると考えている。イデオロギー的な曇り眼鏡を取り払えば、文言において、そして制定趣旨において、本当の日本国憲法は、国際法との調和を目指したものであることは明らかである。それにもかかわらず、「憲法学通説」論者は、イデオロギー的な動機から、本当の憲法を見ないようにする政治運動を繰り広げている。

私と、橋下氏は、かなり根本的な世界観のところで、真逆なのだと言える。

「(憲法解釈は憲法学者の多数決で決定すべきだ、という主張を前提にした)「憲法は国際法に優越する」というドクトリンを振りかざす「憲法学通説」論者は、憲法9条のように、不戦条約や国連憲章の引用と言ってもいい文言から成立している条文についてすら、徹底的に国際法の介入を拒絶する。日本を迷走させてきた大問題の態度である。

憲法前文に、「平和を愛する諸国民の公正(justice)と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という言葉がある。これについて、芦部は、「冷戦中の二極対立構図から距離をおき、中立外交を目指すことを憲法が命じているものだ」、などという政治漫談的な解説を加えている。日本の主権回復を果たしたサンフランシスコ講和条約の際の議論に照らして言えば、現実の「片面講和」は違憲で、ソ連も含めた「全面講和」だけが合憲だ、というイデオロギー運動の話である。

実際には、「平和を愛する諸国民(peace-loving peoples)」は、第二次世界大戦中の「大西洋憲章」及び「国連憲章」第4条を見れば、「United Nations(連合国/国連加盟国)」のことを指していることは当然なのである。そのため、現実の日本は、憲法前文の文言にのっとり、連合国/国連加盟国の筆頭国であるアメリカ合衆国との間に国連憲章第51条の集団的自衛権を根拠にした安全保障条約を結んで「生存と安全を保持する」仕組みをとった。

ところが、芦部ら憲法学通説は、この素直な憲法典の読解、憲法制定の趣旨の理解、および日本の現行法制度の仕組みを、「憲法は、冷戦中の二極対立構図から距離をおき、中立外交を目指すことを憲法が命じている」などという空想だけで否定しようとする。せいぜい、われわれ憲法学者の多数(及び伊藤塾の塾長と受講生)は、そのように信じているのだから、それが絶対だ!といったことを、言うだけである。全国の大学法学部に張り巡らされた明治期からの人事制度と、司法試験・公務員試験の仕組みを背景にして、そう言うだけである。

私と、橋下氏は、かなり根本的な世界観のところで、真逆なのであろう。

もし日本人が、憲法によって、非武装・中立を絶対義務として命じられている国民なのであれば、日本人がウクライナ人に対してもそれを説教してしまうのも、ありがちなことである。

プーチン大統領は、ウクライナに対して「非武装・中立化」を強要しようとしている。その根拠は、プーチンの個人的な歪なイデオロギー的信念である。日本の「憲法学通説」論者たちも、日本人に「非武装・中立化」を強要しようとしてきた。その根拠は、「憲法学者の間の多数説=憲法学通説」によってのみ決定される憲法解釈に依拠した「国際法に対する憲法の優越」説なるものだが、実はやはりイデオロギー的な自作自演の理由でしかない。

橋下氏は、憲法改正論者とされるが、基本的な憲法理解・世界観は、伊藤真氏のそれなのであろう。そうだとすれば、橋下氏の現実離れしたウクライナ降伏論も、橋下氏なりの世界観にもとづくものであることがわかってくる。

若い時分に憲法学の教科書に書かれている嘘の国際法の説明を本物だと誤認してしまい、ついつい憲法学通説の曇り眼鏡を通して国際情勢を語る癖をつけてしまうと、橋下徹氏のようにしかウクライナ情勢を見ることもできなくなってしまう。

しかしウクライナ人は、芦部信喜や伊藤真氏を信奉していないし、そもそも知りもしない。私に言わせれば、日本国憲法を、芦部・伊藤説で解釈すること自体が、根拠薄弱なイデオロギー的偏見でしかない。実は、日本人にとっても、迷惑な話でしかない。

私は、憲法学通説をこれ以上信奉し続けると、日本は取り返しのつかないガラパゴス国家になってしまう、と言い続けている。同じように、橋下氏のウクライナ論は、日本をガラパゴス国家化する道である。

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