朝日新聞の読書欄「ひもとく」で、ロシア・ウクライナ戦争に触発された読書案内を書かせていただいた。「自分自身の政治信条に根差した見解を主張する前に、まずは困難な境遇にあるウクライナの人々のことを理解したい」という書き出しで、最近公刊されている良質の文献にふれさせていただいた。https://digital.asahi.com/articles/DA3S15398762.html

私自身が、「自分自身の政治信条に根差した見解を主張する前に、まずは困難な境遇にあるウクライナの人々のことを理解したい」という問題意識で、この半年でだいぶウクライナそのものに関する本を、関連する地域情勢に関する本とあわせて読んだ。危機に直面して、まずは当然の自然な態度であるはずだろう。ウクライナについて語れる識者の方々は、より一般的な視聴者が対象のテレビなどのマスメディアでも、頻繁に登場している。

だが「自分自身の政治信条に根差した見解を主張する前に、まずは困難な境遇にあるウクライナの人々のことを理解したい」というのは、意外にも簡単なことではない。日本では「ウクライナ戦争」という概念が流通してしまっているが、これによってかえってウクライナからの視点が欠落しがちになっている。https://agora-web.jp/archives/220531200520.html

「ウクライナ戦争」という概念の背景には、「これは大国間政治の局地戦争」、「ウクライナ人はアメリカの代理戦争を戦っているに過ぎない」、「ロシアのような大国が侵略をしても手を出せないのでウクライナ人はいずれ降伏するしかない存在」、といった世界観が存在していることが多いからだ。

折しも、日本学術会議の公開シンポジウム「アジアから見たウクライナ戦争-世界の視線の多様性と日本の選択-」の告知が出ているのを見た。https://www.scj.go.jp/ja/event/2022/328-s-0918.html?fbclid=IwAR3h9AeHLjRr5cVA6AQS7ARUyJTmaakPg-1Gz9D8KmIM-dYfdmiTTBjUJPo 

非常に印象深いのは、「ウクライナ戦争」を論じるにあたって多数のパネリストを配置して「世界の視線の多様性」を強調しようとしているようだが、「ウクライナの視点」を語る専門家は配置していないことだ。

第2セッション「ロシアの視点・ウクライナの視点」と、ロシアとウクライナを一くくりにしたうえで、「ロシアのナショナリズム」と、「黒海から見たウクライナ戦争」がテーマ設定されているだけだ。これではセッションの題名「ウクライナの視点」に対応する報告が見つからない構成になってしまっているように見える。

なぜこうなるのか。全体の趣旨の紹介文を見てみよう。

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ウクライナ戦争は、現在、そして今後、どのような影響を世界や東アジアの秩序、日本の進路に影響を与えるのか。この問いに答えるためには、世界の多様な視線、考え方を踏まえなければならないだろう。先進国の視点だけでこの問題が捉えられるわけではないことは重要であり、日本との関わりを考えるならばアジアの視点を理解することが必要となろう。これは、先進国でも喫緊の課題とされている、新興国、グローバルサウスとの意思疎通という点にも関わる。

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焦点が「アジア」に向けられつつ、「アジア」に目を向けることが「先進国の視点」から脱却することだと規定されているのが、ポイントだ。「アジア」が、「新興国」であり、「グローバルサウス」だ、という「世界観」のようだ。

そうなると、どうやらウクライナを支援している欧米諸国が、「先進国」と定義されるようである。
 キーウを首都とするウクライナ国家からの視点や大多数のウクライナ国民の視点が、慎重に回避されているのは、その「ウクライナ」が「先進国の視点」に立っているからであろう。EU加盟国報告になったり、NATO加盟を目指したりするのは、「先進国の視点」を採用しようとすることであり、「新興国」あるいは「グローバルサウス」の視点から離れていってしまうことなのだ。

その点、ロシアは、EUNATO加盟諸国という「先進国」に敵対している点で、まだ相当に「新興国」や「グローバルサウス」に近い視点を持っている、という評価になるのかもしれない。

日本学術会議をめぐっては、2年ほど前に、会員候補6人の任命を、当時の菅首相が拒否したことで、話題になったことがある。その背景に、軍事関連とみなせる研究を禁止したい日本学術会議の過去の動きがあり、その中心に共産党に近い方の勢力があったことは、公然の秘密であったと言える。私も、いくつかの文章を書いた。

https://president.jp/articles/-/39545

https://gendai.media/articles/-/76423?page=6

 マルクス・レーニン主義的な世界観をあてはめると、ロシア・ウクライナ戦争は、「先進国」と「新興国/グローバルサウス」の間で繰り広げられている戦争だ、という規定になりがちだろう。マルクス・レーニン主義的な世界観に立てば、キーウを首都とするウクライナ政府を支持している大多数の「ウクライナ人の視点」も、「先進国」によって作り出された「虚偽意識」に翻弄されているだけの存在とみなされるだろう。

 日本共産党は、マルクス・レーニン主義の世界観を保持している政党であるとみなされることを恐れて、積極的にロシア批判を展開している。だが、「ウクライナは降伏するべきだ」、「ウクライナは領土を割譲して停戦を実現させていないので非難すべきだ」、「ウクライナ人はアメリカの帝国主義の犠牲になっているだけだ」、といった声は、実態として、主に左派系の言論人から噴出してきている。(あとは反米主義的な国粋主義者が、同じ主張している。)

 ロシア・ウクライナ戦争をめぐる対立の構図を、「先進国vs新興国」という世界観でまとめようとすること自体が、かなり独特な「一つの世界観」である。

 正直、私自身は、2022年になって「先進国」といった概念で、欧米諸国をくくろうという試みには、疑問を感じざるを得ない。世界の安全保障の中心的課題は、米国に対抗する軍事力と経済力を備える中国の位置づけであり、やむをえず中国を「新興国/グローバルサウス」の側に立つ国、とみなしているのだとしたら、現実政治の安全保障の専門家との対話は困難になるだろう。中立的な立場をとっているインドのGDPは、今やほとんどの欧米諸国のGDPより大きく、近い将来に全ての欧州諸国のGDPを抜き去ることは確実だ。

欧米諸国だけが「先進国」だ、という世界観を自明の前提にできる時代は、現代政治を扱う研究者層の間では、すでに終わっている。したがってロシア・ウクライナ戦争をめぐる議論の中で、専門家層が「先進国」という概念を用いて、対立の構図を説明する、という場面もほとんどないように思われる。

ロシア・ウクライナ戦争をめぐって、かなり錯綜した議論が見られるのは、このあたりの根源的な世界観のところで、論者によって「自明の前提」が異なっていることが、大きな要因だろう。