麻生大臣の「武装難民」発言が波紋を呼んでいる。
 麻生大臣特有の故意に問題を荒削りにみせる言い方が、しばしば「失言」を生み出してきた。単語の選択のレベルで政治家の物言いとして適切だったか否か、という話であれば、麻生大臣の姿勢に品がなかった事は間違いない。言葉遣いが違っていれば、難民保護の原則に反する、といった原則論を掲げた韓国政府の反応もなかっただろう。
 ただ、内容それ自体は、それほどスキャンダラスなことではない。整理して考えてみよう。
 難民とは、迫害から逃れて避難所を求めている人のことだ。しかしそのような人々に、政治的目的を持って武装している人々が紛れ込むことは、世界の紛争地のほとんどの場所で頻繁に見られることだ。難民とは、みすぼらしい姿で、可哀そうな格好で助けを求めてくる人のことなので、悪人であったとしても、難民は難民・・・、なのだろうか?そんなことはない。敵の攻撃から一時的に逃れながら、攻撃の機会をうかがっているような人々は、難民条約で保護対象とすべき難民ではない。
 朝鮮半島有事の際、歴史的に深いつながりを持つ北朝鮮から日本に、難民を偽装した不穏分子がれてこむことは、十分にありうる。コンゴ、アフガニスタン、南スーダン、世界の多くの地域と同じように、十分にありうる。もちろん、だからといって(避)難民を保護するのをやめるべきだ、ということにはならない。紛争に起因する世界の難民支援の現場では、常にこの種の問題がある。その現実を冷静に受け止めながら、なお本当の難民を保護しようとする人たちこそが、難民支援のプロだ。難民といえば、みすぼらしくて可哀そうな人のことだから、何があってもとにかく保護しなければならない・・・、というのは、難民問題ボケである。
 日本人が、難民問題を遠い世界の出来事としてしか受け止めてこなかったからこそ、かえってそうしたロマン主義も生まれてしまうのだろう。「もし可哀そうな難民が攻撃をしてきたら、絶対平和主義の精神で甘んじて皆で殺されよう」・・・などと主張するのであれば、プロの態度ではない。
 戦時中に海洋から入ってくる<偽装>(避)難民を管理・保護するのが、著しく困難な作戦になることは、間違いない。政治家が、その対応策の検討の必要を強調する事は、なんらおかしなことではないように思う。
 それにしても気になるのは、自衛隊は軍法を持たないから、南スーダンに送ると殺人者になる、と主張していた人たちのことである。南スーダンで避難民を偽装した武装勢力に任務遂行のためだからといって発砲すると、自衛隊員は殺人者になってしまう、だから自衛隊を早く南スーダンから撤退させるべきだ、といった議論が多く見られた。となると朝鮮半島から難民を偽装してやってきて日本に攻撃を仕掛ける武装勢力に対して発砲してしまうと、自衛隊員は殺人者になってしまうのだろうか。
 そこで「自衛隊員を武装勢力に対抗する作戦から撤退させよう」ということになるのだろうか。殺人は警察官にやらせておけばいいじゃないか、ということになるのだろうか。
 「いや、日本国の個別的自衛権の行使なら殺人罪にならないが、南スーダンで集団安全保障にもとづいた国連の命令で業務をしていると殺人罪になるのですよ」、ということなのだろうか?「あ、日本の領域内だと殺人罪ではないですが、もし1メートルでもはみ出していると殺人罪ですよ」、ということなのだろうか?「国家には集合的人格を持った生きる有機体として自分自身を守る自然権的な基本権がある」といったドイツ観念論万能論が「憲法学会の通説多数説ですから」、ということなのだろうか?
 私は、警察官であっても自衛官であっても、そして日本国内に於いても国外においても、業務命令にもとづいて正当に行動した行為の結果として不測の事態が発生しても、それはせいぜい業務上過失致死の話であり、殺人罪の話ではない、と考えている。命令した者については、自衛権にもとづいた正当な根拠があるかどうかが、犯罪対策のために警察官に厳重対応を命令する者の場合と同じで、違法性阻却の基盤になると考えている。そしてそのような考え方の基本は、南スーダンでも、日本国内でも、同じだと考えている。
 そもそも自衛隊は国際法上の軍隊であることを政府も認めているのだから、それに対応した軍法を国内法で作っても、憲法違反に該当するはずがないとも思っている。
 しかし私の意見は、少なくとも憲法学界に何ら影響を与えない。だとしたら、結局どういうことなのか?私にはよくわからない。
 「難民は可哀そうな人たちなのだから、発砲されたら、平和主義を掲げて殺されよう」ということなのか。私にはよくわからない。ただ、政治家が、「困難な状況でどのような対応をとるべきか、よく考えて準備しなければ」といった指示をするのは、当然至極のことであるように思える。