10月2日付のブログで、「希望の党に排除されたのは、『リベラル派』ではなく、『冷戦時代からの改憲反対派』なのではないか」という文章を書いた。
その後、10月3日に、「立憲民主党」の届け出を済ませた枝野幸男代表は、次のように述べた。
「上からか、草の根からか。これが21世紀の本当の対立軸なんです。・・・保守とリベラルがなんで対立するんですか。保守とリベラルは対立概念ではありません。・・・リベラル、そのことによって、おそらくここにお集まりいただいている多くの皆さんが育ってきた時代、日本が輝いていたと言われていた時代の、あの一億総中流と言われていた時代の、社会がこんなにぎすぎすしていなかった時代の、みんなが安心して暮らせていた時代の、日本社会を取り戻す。私はリベラルであり、保守であります。」
枝野代表は、私がブログで書いたことに対応した発言をしてくれたと思う。マスコミが持ち込む「保守vsリベラル」という図式を拒絶し、国際的な「リベラル」「保守」という言葉の使用方法も拒絶し、「私はリベラルであり、保守であります」、と枝野代表は宣言した。なぜかと言えば、枝野代表の言う「リベラル」は、まさに冷戦時代の「日本社会を取り戻す」態度のことなので、「リベラル」は復古主義的で「保守」であるからである。
この枝野代表の「リベラル保守」主義宣言が、アメリカ政治における「リベラルvs保守」とは全く異なった言葉の使い方によって成り立っており、言葉の本来の意味である「リベラリズム」とも無関係であることは、言うまでもない。もっともそのような指摘は、批判にはならない。ご本人が堂々と、「リベラル保守」とは、外国の出来事とは関係がない、かつての一億総中流社会の日本の復活のことだ、と主張しているからだ。
たとえ「リベラル」「保守」といった、ややバタ臭い概念を使うとしても、日本人が日本独自のやり方で日本の歴史を参照しながら日本的な新しい「リベラル保守」という概念を作り出すことを、禁止はできない。私が「冷戦時代からの改憲反対派」と言ったものを、枝野代表はわざと「リベラル保守」と言っているのだが、それはレトリックであり、政治家としてのセンスの問題だろう。枝野代表が「リベラル保守」と表現しているものが、日本の政治文化の一つの伝統であること自体は、全く正しい認識だと思う。
枝野代表は、立憲民主党の設立を決意した際にも、前原代表に対するあからさまな批判や愚痴は述べなかった。悲愴な顔付きで愚直に自分の信じる事を今後も信じていくと述べた。その姿勢は、一人の「排除された」政治家のあり方として、共感を呼ぶものであっただろう。自分が何を信じているかを語る事ができる政治家は、自分が誰に支持されるかを知っている政治家だ。レトロ感にあふれる党名ロゴの設定からして、枝野代表の立憲民主党は、支持者層を的確に把握し、それに対応した一貫性のあるアピール戦略を持っていると言える。
しかし、残念ながら、私は、「リベラル」「保守」という言葉だけでなく、「立憲主義」という言葉の使い方も、枝野代表と共有しない。枝野代表の「立憲主義」の理解は、まさに「リベラル保守」なるものの理解である。
枝野代表は、次のように述べる。
「立憲という言葉は、古めかしい、分かりにくいという意見もあります。しかし、どんな権力でも、憲法によって制約をされる、憲法によって一人ひとりの自由と人権を守る。この立憲主義というのは、近代社会において、あまりにも当たり前のことだから、特に戦後70年、私たちの国では、あまり言われませんでした。残念ながらというべきかもしれません。ここ数年、立憲主義という言葉をもう一度思い出さなければならない、そんな状況になっている。それが、今の日本です。立憲主義は、確保されなければならないというのは、明治憲法の下でさえ前提でした。少なくとも、大正デモクラシーの頃までの日本では、立憲主義は確保されていました。戦前の主要政党、時期によって色々名前若干変化しているんですが、民政党と政友会という二大政党と言われていたそれぞれ、頭に「立憲」が付いていた。立憲主義は、あの戦前でさえ、ある時期まで前提だったのです。」
枝野代表によれば、明治時代ですら存在していた立憲主義の文化が、現在の日本では失われた。枝野代表の「リベラル保守」とは、いわば「今ほどひどい時代はない、昔を取り戻そう」、と主張する立場のことのようだ。「戦前の軍国主義の復活だ」論は、実は「明治時代か冷戦時代の日本を取り戻そう」論のことだったのである。
こうした枝野代表の話が、一つの一貫した物語性を持つことは確かだ。ただし、なぜ、「モリ・カケ」問題のみならず、安保法制が導入されたり、憲法9条が改正されたりすると、「憲法によって一人ひとりの自由と人権を守る」という「立憲主義」が脅かされるのか、という点に関する論理的な説明は、枝野代表は施さない。そのあたりは「今はひどい、昔は良かった」、という話の流れの中で、曖昧にしてしまう。
枝野代表は、安保法制を支持する多くの国民を反立憲主義者と断定し、安保法制は違憲ではないと考える数多くの学者や市民を反立憲主義者と断定し、集団的自衛権それ自体も違憲とは言えないと考える国際政治学者や国際法学者も反立憲主義者だと断定し、立憲主義者のカテゴリーからは「排除」しようとする。武骨な表情で、一本気な姿勢で、特定の憲法解釈以外の学術的見解を持つ者は、立憲主義者ではない、と断定するのである。
大変に残念でならない。「憲法によって一人ひとりの自由と人権を守る」立憲主義を、どのような政策によってよりよく達成するのかについて、多様な意見があり、議論が生まれるのは、当然ではないだろうか。だがだからと言って、どちらか一方だけが「立憲主義」者で、反対側は「立憲主義」者ではない、ということまでは、言えないはずだ。
「リベラル保守」が「立憲主義」的なら、「保守」も「リベラル」もともに、それぞれが「立憲主義」的でありうる。集団的自衛権は違憲だと主張する者も立憲主義を信じているつもりなのかもしれないが、集団的自衛権は合憲だと考える者も立憲主義を信じているつもりなのだ。
立憲民主党が、少数者のための政党にとどまらず、政権党になることを狙うのであれば、是非ともより包括的な立憲主義の考え方を採用することも検討してもらいたい。
その後、10月3日に、「立憲民主党」の届け出を済ませた枝野幸男代表は、次のように述べた。
「上からか、草の根からか。これが21世紀の本当の対立軸なんです。・・・保守とリベラルがなんで対立するんですか。保守とリベラルは対立概念ではありません。・・・リベラル、そのことによって、おそらくここにお集まりいただいている多くの皆さんが育ってきた時代、日本が輝いていたと言われていた時代の、あの一億総中流と言われていた時代の、社会がこんなにぎすぎすしていなかった時代の、みんなが安心して暮らせていた時代の、日本社会を取り戻す。私はリベラルであり、保守であります。」
枝野代表は、私がブログで書いたことに対応した発言をしてくれたと思う。マスコミが持ち込む「保守vsリベラル」という図式を拒絶し、国際的な「リベラル」「保守」という言葉の使用方法も拒絶し、「私はリベラルであり、保守であります」、と枝野代表は宣言した。なぜかと言えば、枝野代表の言う「リベラル」は、まさに冷戦時代の「日本社会を取り戻す」態度のことなので、「リベラル」は復古主義的で「保守」であるからである。
この枝野代表の「リベラル保守」主義宣言が、アメリカ政治における「リベラルvs保守」とは全く異なった言葉の使い方によって成り立っており、言葉の本来の意味である「リベラリズム」とも無関係であることは、言うまでもない。もっともそのような指摘は、批判にはならない。ご本人が堂々と、「リベラル保守」とは、外国の出来事とは関係がない、かつての一億総中流社会の日本の復活のことだ、と主張しているからだ。
たとえ「リベラル」「保守」といった、ややバタ臭い概念を使うとしても、日本人が日本独自のやり方で日本の歴史を参照しながら日本的な新しい「リベラル保守」という概念を作り出すことを、禁止はできない。私が「冷戦時代からの改憲反対派」と言ったものを、枝野代表はわざと「リベラル保守」と言っているのだが、それはレトリックであり、政治家としてのセンスの問題だろう。枝野代表が「リベラル保守」と表現しているものが、日本の政治文化の一つの伝統であること自体は、全く正しい認識だと思う。
枝野代表は、立憲民主党の設立を決意した際にも、前原代表に対するあからさまな批判や愚痴は述べなかった。悲愴な顔付きで愚直に自分の信じる事を今後も信じていくと述べた。その姿勢は、一人の「排除された」政治家のあり方として、共感を呼ぶものであっただろう。自分が何を信じているかを語る事ができる政治家は、自分が誰に支持されるかを知っている政治家だ。レトロ感にあふれる党名ロゴの設定からして、枝野代表の立憲民主党は、支持者層を的確に把握し、それに対応した一貫性のあるアピール戦略を持っていると言える。
しかし、残念ながら、私は、「リベラル」「保守」という言葉だけでなく、「立憲主義」という言葉の使い方も、枝野代表と共有しない。枝野代表の「立憲主義」の理解は、まさに「リベラル保守」なるものの理解である。
枝野代表は、次のように述べる。
「立憲という言葉は、古めかしい、分かりにくいという意見もあります。しかし、どんな権力でも、憲法によって制約をされる、憲法によって一人ひとりの自由と人権を守る。この立憲主義というのは、近代社会において、あまりにも当たり前のことだから、特に戦後70年、私たちの国では、あまり言われませんでした。残念ながらというべきかもしれません。ここ数年、立憲主義という言葉をもう一度思い出さなければならない、そんな状況になっている。それが、今の日本です。立憲主義は、確保されなければならないというのは、明治憲法の下でさえ前提でした。少なくとも、大正デモクラシーの頃までの日本では、立憲主義は確保されていました。戦前の主要政党、時期によって色々名前若干変化しているんですが、民政党と政友会という二大政党と言われていたそれぞれ、頭に「立憲」が付いていた。立憲主義は、あの戦前でさえ、ある時期まで前提だったのです。」
枝野代表によれば、明治時代ですら存在していた立憲主義の文化が、現在の日本では失われた。枝野代表の「リベラル保守」とは、いわば「今ほどひどい時代はない、昔を取り戻そう」、と主張する立場のことのようだ。「戦前の軍国主義の復活だ」論は、実は「明治時代か冷戦時代の日本を取り戻そう」論のことだったのである。
こうした枝野代表の話が、一つの一貫した物語性を持つことは確かだ。ただし、なぜ、「モリ・カケ」問題のみならず、安保法制が導入されたり、憲法9条が改正されたりすると、「憲法によって一人ひとりの自由と人権を守る」という「立憲主義」が脅かされるのか、という点に関する論理的な説明は、枝野代表は施さない。そのあたりは「今はひどい、昔は良かった」、という話の流れの中で、曖昧にしてしまう。
枝野代表は、安保法制を支持する多くの国民を反立憲主義者と断定し、安保法制は違憲ではないと考える数多くの学者や市民を反立憲主義者と断定し、集団的自衛権それ自体も違憲とは言えないと考える国際政治学者や国際法学者も反立憲主義者だと断定し、立憲主義者のカテゴリーからは「排除」しようとする。武骨な表情で、一本気な姿勢で、特定の憲法解釈以外の学術的見解を持つ者は、立憲主義者ではない、と断定するのである。
大変に残念でならない。「憲法によって一人ひとりの自由と人権を守る」立憲主義を、どのような政策によってよりよく達成するのかについて、多様な意見があり、議論が生まれるのは、当然ではないだろうか。だがだからと言って、どちらか一方だけが「立憲主義」者で、反対側は「立憲主義」者ではない、ということまでは、言えないはずだ。
「リベラル保守」が「立憲主義」的なら、「保守」も「リベラル」もともに、それぞれが「立憲主義」的でありうる。集団的自衛権は違憲だと主張する者も立憲主義を信じているつもりなのかもしれないが、集団的自衛権は合憲だと考える者も立憲主義を信じているつもりなのだ。
立憲民主党が、少数者のための政党にとどまらず、政権党になることを狙うのであれば、是非ともより包括的な立憲主義の考え方を採用することも検討してもらいたい。
コメント
コメント一覧 (5)
志位氏が「自衛隊はしばらく合憲」と言い出したりと左派はアイデンティティクライシスに陥ってますね
私個人も、9条改憲はなんら立憲主義に反しないが、解釈改憲には違和感を感じざるを得ませんでした。人事慣行に介入して、内閣法制局を基本的に尊重するという慣習の矩を超えて解釈を変更したことに違和感を感じたゆえです。
もちろん、制度上は法制局も一官僚組織で、人事慣行も所詮は慣行。でも制度を担保するのはしばしばそういった慣習的な部分でもあります。
2つに、結局憲法の実態とは長年の解釈の積み重ねでは?と感じるからです。どんな文章も解釈の余地はありますから、文言だけではどういう意味か一意的には導けない。となると、何が憲法の条文の意味を決定するかというのは、政治による長年の解釈の積み重ねではないか、と思うわけです。解釈の堆積物が、伝統として国の形を示唆するものではないかと。
9条を読んで、集団的自衛権を否定し、個別自衛は否定しないとすぐに理解する人は少数でしょうし、憲法学者の姿勢に聖職者がごとしの姿勢は見受けられる。
にもかかわらず、国民が9条ということで理解してきたのが集団的自衛権の否定で、それが4~30年と続いて定着してきたというならば、それを変えるという事にはフォーマルな手続きがいるし、解釈で済ましてしまうのはサイドスキップということになるんじゃないか、、とモヤモヤします。個人的には改憲して自衛隊を明記するのは穏当だし現実的とも思います。ただ9条について従来の見解が(ガラパゴスであっても)根づいていたならば、憲法規定についてそういうサイドスキップで内実を変えていいもんだろうか、というのがぬぐい難くあります。それが立憲主義という言葉の範疇かどうかはわかりません。
雑文を失礼しました。
ご丁寧にお返事ありがとうございます。
「集団的自衛権の思想史」など御著書を大変興味深く読ませていただきました。
とりわけ「英米風の立憲主義をドイツ風に(ヘーゲリアンの方法で?)理解する」という下りが響きました。
>万が一にも憲法学者のアンケートを国会に優越させることが「フォーマルな手続き」とは言えないと思いますので
これは諸手を挙げて同感です。長谷部教授がいった「法律家共同体」に聖職者さながらの独善の響きがあったのは事実と思います。
>内閣法制局が出した一枚の紙切れの内容を変更するのに、いちいち国民投票が必要だと断言できる法的根拠はないのではないかと思います。
法的根拠はないと思います。
ただ、自分が「フォーマルさ」にとらわれるのは、以下のような理由です。
前回の衆院選の解散の時、安倍総理は「消費増税延期」を掲げテレビで「税への同意は議会の基礎」ということを朗々と述べ(それ自体は教科書的に正しいと思いますが)、解散のちょっと前に目立たぬように解釈変更を閣議決定していたと記憶します(間違いがあったらすみません)。ここで解釈変更について、正式な国民投票とまではいかなくても選挙の洗礼を受け、mandateをとりつけてほしかったと、「sneaking」な印象を受けてたからです。これはフォーマルというより政治的な権威づけだとは思うのですが、私が考えていた「フォーマル」はせめて選挙で旗印にしておく位の重みは解釈変更にもあっていいと思ったゆえです。
もちろん、これは主観的なものです。
「ほんとうの憲法」222ページ後ろから3行目の「国際社会」は「(権力政治と定義された)国際政治」ではないでしょうか。
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。