読売吉野作造賞をいただいたご縁で、宮城県古川(吉野作造の生誕地)の吉野作造記念館にお招きいただき、講演をする機会をいただいた。せっかくなので「民本主義と立憲主義」という題名で、吉野について考えながら、話をさせていただいた。
 吉野作造と言えば、1916年に『中央公論』に掲載された「憲政の本義を説いて其有終の美を濟すの途を論ず」における「民本主義」の主張が有名だ。今日の日本では、「アベ政治を許さない」の憲法学者が「立憲主義」者の代表であるかのように語られることが多い。だが、それとは異なる「憲政の精神的根底」である「民本主義」の思想は、非常に重要な意味を持っている。
 「立憲」民主党の枝野幸男代表は、2017年衆議院選挙にあたって、次のように演説した。「立憲主義は、確保されなければならないというのは、明治憲法の下でさえ前提でした。少なくとも、大正デモクラシーの頃までの日本では、立憲主義は確保されていました。戦前の主要政党、時期によって色々名前若干変化しているんですが、民政党と政友会という二大政党と言われていたそれぞれ、頭に「立憲」が付いていた。」(2017103日)こうした野党第一党党首の発言を見ても、「大正デモクラシー」に大きな影響を与えた吉野作造について考え直すことは、今日的な意味を持っていると言える。
 戦後の日本では、吉野の「民本主義」は、ある種の苦肉の策であったかのように語られることが多い。戦前の日本では完全な人民主権の民主主義を唱えることができなかったので、妥協を図りながら、民主化を進める事を画策したのが「民本主義」だった、という解釈である。「八月革命」説を通過して「国民主権」を強調する憲法学のみならず、民主主義の「永久革命」を標榜する丸山眞男の政治学の流れでは、国民主権の完成が理想として追い求められるので、そのような「民本主義」解釈が戦後の日本で広まったのではないか。
 しかし、実際に吉野が言ったのは、それとは少し違うことであった。吉野が言ったのは、「デモクラシー」には二つの区別される意味があり、一つが「民主主義」、もう一つが「民本主義」だ、ということであった。「民主主義」とは、主権の「所在」に関わる主義で、「国家の主権は人民にあり」、という考え方によって説明される。これに対して、「民本主義」とは、主権の「運用」に関わる主義で、「主権を行用するに当って、主権者は須らく一般民衆の利福ならびに意嚮を重んずるを方針とすべきという主義」である。
 これは、ジョン・ロックら、17世紀革命期前後のイギリスで、多くの著述家が言っていたことと重なる。ロックの『統治二論』に引用されている「Salus Populi Suprema Lex(人民の安寧が最高の法)」は、同時代の人々が重ねて引用していた成句だ。イギリスの古典的な立憲主義の精神を表現していると言っていい。法律の不備や解釈の困難が生まれたら、そもそも法律とは人々の生活を安全にするために存在しているものだ、という基本に立ち返る、という精神である。社会契約論の根本的な思想的基盤だと言ってもよいだろう。吉野作造の「民本主義」の「憲政」とは、イギリスの立憲主義と重なるものであった。
 吉野作造は、同時代の米国大統領ウッドロー・ウィルソンを、「曠生の英雄」と称した。そのウィルソンは、政治学者だった時期の著作で、「政治的自由とは、統治される者たちが、彼ら自身の必要性や利益に政府を適合させる権利」が尊重され。そして「安全や幸福」を確保するために立憲政治(constitutional government)が形成されるのだ、と説明した。(Woodrow Wilson, Constitutional Government in the United States [1908]) 吉野作造の「民本主義」の「憲政」は、アメリカの立憲主義とも重なるものであった。
 ウィルソンは、国際連盟の創設を通じて、民族自決だけではなく、集団安全保障の仕組みを、ヨーロッパにも持ち込んだ人物であった。そして20世紀後半以降では集団的自衛権と呼ばれる「地域に関する了解にして平和の確保を目的とするもの」(連盟規約21条)も、国際法秩序の中に取り込んだ。吉野は、1918年に初めて設置された東京帝国大学のアメリカ研究講座を担当し、アメリカの外交政策を講義した。
 三谷太一郎は、大正デモクラシーはアメリカの影響によって起こったと述べる。(三谷『大正デモクラシー論』)吉野は、三谷の議論の証左だ。「吉野作造は、ウィルソン主義の普遍主義的側面を強調し、それが指示する『世界の大勢』に日本もまた順応すべきことを説いた日本における典型的なウィルソン主義者であった。吉野によれば、アメリカは憲政の運用にもっとも成功した国家であり、『憲政の本義』たる民本主義の最良の範例であった。」実際、吉野は、「ウィルソンの説を行はれしむる事が大体に於て世界共同の利益であり、又世界の一員としての日本の利益であると信じて疑はざるが故である」と述べていた。(三谷79-80頁)
 吉野の「憲政」への期待は、1924年~31年の「憲政の常道」たる二大政党制の実現で実を結ぶはずだった。しかし実際の政党政治家は、金権政治に陥り、国民の信頼を失っていった。やがて吉野も、現実の政党政治への失望を言い表すようになる。そのような気運の中で軍部が政治権力を握っていくのも批判しながら、吉野は1933年に没した。
 ただし吉野の期待は、完全に消滅したわけではなかった。1945年に日本の占領統治が始まった際、米国の了解を得て日本政府側の要職に就いた人々の多くは、幣原喜重郎や吉田茂ら、吉野作造と同じ1870年代生まれの大正デモクラシーの信奉者たちであった。アメリカ人は、アメリカを信奉した大正デモクラシーを、重視した。当時の米国内の知日派は、大正デモクラシーの経験を、日本が民主国として再生できる可能性を示す歴史とみなしていた。日本国憲法は、大正デモクラシーの未完の可能性を信じる人々によって起草され、整備されたのだ。日本国憲法が目指したのは、ある意味で、頓挫した大正デモクラシーの復活であった。
 中国の独立運動に強い関心を寄せ、豊富な留学経験から欧州情勢にも精通していた吉野は、普遍主義と立憲主義が重なり合う大正デモクラシーの時代の思潮を代表する人物であった。その吉野は、ウィルソンを信奉し、英米流の政治思想にそった立憲主義を標榜する民本主義を唱えた人物であった。吉野と思いを同じくする人々は、世界大戦の惨禍をへて、日本国憲法に大正デモクラシーの希望を託した。彼らが目指した立憲主義は、民族自決だけでなく、集団安全保障や集団的自衛権などの国連憲章にも結実したウィルソンの国際秩序構想と、当然、整合する立憲主義であるはずだった。
 なぜ今日の日本では、憲法の優越を唱えて国際法規範を軽視し、アメリカを権力政治の世界の悪の権化のようにみなし、憲法典に書いてなくても憲法学者がアンケート調査で違憲だと言えば違憲だという考え方を立憲主義などと呼ぶ風潮がまかり通るようになってしまったのだろうか。
 われわれは、吉野作造から、もっと「憲政の精神的根底」について、学ぶべきではないか。