前回のブログで、「立憲主義違反」を国会で叫ぶ枝野幸男代表について書き、公人の責任として、きちんと議論をしてほしい、と書いた。http://agora-web.jp/archives/2029642.html
その後、山尾志桜里衆議院議員が、関連したことを語っているインタビュー記事を見つけた。 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/071000146/112100013/?n_cid=nbpnbo_fbbn 山尾議員は、立憲民主党員ではないが、同党の会派を代表して衆議院憲法審査会に参加するという。そこで記事を読んでみた。そして、呆れた。
自衛権に歯止めをかけることが必要だと強調している。そして自衛権を個別的自衛権だけに限定することが歯止めになるのだという。山尾議員によれば、「自衛権は今、透明人間のような存在で実態がない」ので、今は歯止めがないのだという。自衛権を個別的自衛権に限定する改憲を行うと、初めて自衛権に「実態」が生まれるのだという。
意味不明だ。
自衛権は、国連憲章51条に記載されている国際法上の国家の権利である。日本は国連憲章を批准し、日本国憲法98条の条約遵守義務にしたがって、それを遵守している。日本国憲法に自衛権の記載がないからと言って、それを不思議に思うほうがどうかしている。まして制限がなく「透明人間」になっているというのは、理解不可能な話だ。
自衛権の行使に対する制限は、国際法にしたがって行うのが当然であり、本来それ以外の方法などない。国際法では、自衛権は必要性と均衡性の原則によって制約されており、慣習国際法にもしたがった厳密な運用規範が国際的に成立している。自衛権が「透明人間」であるというのは、国際法の存在に対する冒涜である。
自衛権が「透明人間」になっているのではない。山尾議員が、国際法を知らないか、無視しているだけだ。
憲法で自衛権という国際法上の概念を制限するというのは、本来、「民法に殺人罪の規定がないので、民法に殺人罪を入れよう」と言うようなものなのである。百歩譲ってそれをやるとしても、実現するまでは「殺人罪は透明人間のようだ」などと言うのは、滑稽である。
山尾議員には、しっかりと国際法規範もふまえたうえで、あらためて個別的自衛権を徹底的に擁護することが、なぜ「歯止め」になるのかを、きちんと説明してもらいたい。
個別的自衛権性善説に立って、集団的自衛権だけを違法にして、自衛権を制限したつもりになるというのは、うちの日本村ではリンゴは果物だが、バナナは果物ではない、と主張してみせるようなものなのである。百歩譲ってそれを言うとしても、言わない者を「反立憲主義だ」と糾弾するというのは、滑稽である。
山尾議員は、過去の特定の時代の内閣法制局見解を永遠の憲法規範とみなしつつ、国際法は無視する。もはや、なぜ集団的自衛権が違憲で、個別的自衛権だけが合憲なのか、ということを議論するつもりもないようである。・・・昔、内閣法制局がそう言っていたから。そのほうが首相の権限を制限できるから。だって権力を制限するのが立憲主義だから・・・。驚くべきことに、それ以上の議論がない。
山尾議員は言う。「私は個別的自衛権を深化させるべきという考えです。これによって自衛権の行使に明確な歯止めをかけることができる。」この盲目的な個別的自衛権=絶対善、集団的自衛権=絶対悪の信仰はいったい何なのか。なぜ、そのような法的裏付けを欠いた信仰を持つに至ったのか、きちんと説明すべきだ。
個別的自衛権だけでも、たとえば日本の艦船などがあれば、「地球の裏側」であっても、自衛権の主張をすることができ、濫用の危険性も残る。集団的自衛権として違法な行動は、地球の裏側でも、日本近海でも、違法だ。こうした国際法規範の枠組みを無視し、どこまでもガラパゴス憲法論を貫き通すことの意味は何なのか。個別的自衛権=絶対善、集団的自衛権=絶対悪、という今や内閣法制局ですら放棄した法的根拠を欠いた盲目的な信仰を振りかざしたうえで、「自衛権に歯止めがかけられる」、などという壮大な物語を披露するのは、間違っているだけでなく、極めて危険なものではないか?
戦後しばらくの間は、日本でも、山尾議員のような議論はなかった。満州事変からの泥沼が、集団的自衛権などではなく、個別的自衛権の濫用によって起こったことを、日本人の誰もがよく知っていたからだ。冷戦時代特有の環境の中で、1960年代末に集団的自衛権違憲論が生まれた(拙著『集団的自衛権の思想史』参照)。
もっとも、司法試験業界には冷戦終焉の余波などなかったのだろう。そこで憲法学の基本書を手掛かりに国際社会を見る癖がついている方々は、いまでも「団塊の世代中心主義」に陥る。その特徴は、国際感覚の欠如である。山尾議員の国際法を無視するガラパゴス主義は、その典型だ。自分自身を律することを忘れ、国際的な規範を無視し、ただ「権力を批判する者が立憲主義者」と唱え、平和主義者は必然的に反米主義者だ、と信じる安直な態度が、それなのである。
今の日本に本当に必要なのは、国際社会の常識を取り戻し、国際法に従って、まずはすでに自衛権に制約があることを理解することではないだろうか。つまり山尾議員に、国際法を勉強して、実践してもらうことではないだろうか。
憲法が、海洋法や難民法の規定を持っていないからといって、不思議に思う人はいない。それらの法規が「透明人間になっている」と主張する人はいない。ではなぜ自衛権(武力行使に関する法=jus ad bellum)についてだけ、「国際法などは透明人間だ、すべて憲法学に仕切らせろ」、といった態度をとるのか。
本当に特異なのは、9条ではない。9条に異常なロマン主義を投影する人たちのメンタリティである。「国際法は黙っておけ、すべて憲法学に仕切らせろ」、といった態度を「立憲主義」などと言いかえて正当化する日本の法律家たちの態度が、異常なのだ。
山尾議員は、山尾議員が理想とする行動をとる憲法裁判所を設置して、首相の独断専行を防ぐと言う。立憲民主党の憲法調査会が第1回会合で最初に講師として招いたのは、あの長谷部恭男教授だ。https://cdp-japan.jp/news/385 http://agora-web.jp/archives/2029309.html http://agora-web.jp/archives/2029141.html http://agora-web.jp/archives/2027653.html 長谷部教授は、初代憲法裁判所長に内定なのか。その他、憲法学者たちが続々と裁判官として名前を連ねることになるのかもしれない。
山尾議員が理想とする憲法裁判所が設置されると、安保法制は即廃止、その他、国際法にしたがった立法措置や条約批准なども、次々と違憲になっていくのだろう。
山尾議員は、どうやら砂川事件最高裁判所判決も「統治行為論」だと考えているようだ(前回ブログ記事で書いたように、私に言わせればこれはイデオロギー的なデマなのだが http://agora-web.jp/archives/2029642.html)。そうなると山尾議員が夢見る憲法裁判所とは、日米安全保障条約に違憲判断を下すようなものかもしれない。山尾改憲は、外交安全保障政策などの大改造計画になり、国政には大混乱が訪れるだろう。
もちろんそうなっても、山尾議員だけは、「首相権限を制限したので立憲主義が発展しましたね」、と喜ぶ、という筋書きになっている。
山尾議員も、山尾議員の倉持麟太郎政策顧問も、枝野幸男立憲民主党代表も、弁護士である。山尾議員の改憲案は、いわば弁護士・憲法学者の連合体による日本の外交安全保障政策の大改造計画である。
司法試験受験者で、国際法を受験科目で選択する者は、わずか1.6%であるという。勉強が大変な割には点数が伸びない科目なので、予備校ではこぞって選択しないことを勧めているようだ。
日本の法律家の約99%は、「国際関係法(公法系)」を、受験科目レベルですら、勉強していないのである。受験に役立たないため、大学で国際法の授業に出ることもしない。実務についてからも、日本では国際情勢から縁遠い。国際機関の法務部に、日本人は驚くべきほどに存在しないため、外国に留学しなければ、国際公法に詳しい知り合いもできない。
つまり、国際法の話を、憲法の基本書を引っ張り出してきて解説してしまうガラパゴスな方々の代表が、司法試験受験組の方々なのである。山尾議員は、そして山尾議員の倉持麟太郎政策顧問も、枝野幸男立憲民主党代表も、そんな日本の法律家の純粋な典型例なのであろう。
もちろん、弁護士なら、それでもいい。しかし国政を預かる政治家は、それでは困る。
コメント
コメント一覧 (21)
>満州事変からの泥沼が、集団的自衛権などではなく、個別的自衛権の濫用によって起こった
これはほんと同感です、なんでこんな当たり前のことを忘れてしまうのか。一般論として孤立主義より、集団的安全保障のほうが勝手に突っ走る危険性は当然低くなるでしょうに。
でも思ったんですが彼らの考えは、悪のアメリカの戦争に巻き込まれる(集団的自衛権)のを否定し、かつ日本の個別的自衛権は軍事力自体を弱めておけば侵略しなくなるから、日本はずっと戦争に関わることなくいられる、という発想なのかもしれません(無意識的にせよ)。だから彼らは孤立主義的な主張をするにも関わらず、一方で自衛隊を拡充して自主防衛を積極的に進めるような主張はしませんよね。
集団的自衛権のほうの反米トラウマは篠田さんも国際法の枠組みを挙げるなどして指摘してきました。一方で個別的自衛権のほうのトラウマは、これまで主として保守派が「平和を愛する諸国民なんて現実どこにいるんだ!」という指摘の仕方で指弾してきたものです。このままで組み合わせると両者のロジックはバッティングする気がします。本来は当然ながら、双方は補い合うものなのですが・・・当然が見えなくなったトラウマを克服するためには、うまく説明しないといけないのかも。
国際法で日本が縛られる理由を理解してから言って頂きたい。
国際情勢がどうのこうの言う前に、手続きをキチンと踏む必要があります。
手続きなき統治は独裁以外の何者でもありません。
私はロースクールを目指して不合格となった程度の法律知識しかありませんが、
憲法と条約・国際法の何れが優位に立つかという点は、
実益に乏しい議論ではあるものの憲法学の基本論点であったと記憶しています。
通説としては憲法の方が一般には優位であると覚えた気がします。
判例も、砂川事件において旧日米安保条約の合憲性判断を統治行為論で回避しましたが、これは憲法が条約に対して優位に立つことを前提としていると考えられます。
条約優位説というのもありますが、少なくとも国際法が主権国家の憲法に優先することは自明の理ではないはずです。
さらに言えば、国連憲章第51条の文言は、憲法によって自国の集団的自衛権を放棄・制限することと矛盾するものではありません。
集団的自衛権を認めるか否かというのは政策に関する問題です。
集団的自衛権が認められているか否かというのは法律に関する問題です。
(相互に関連し合うこともありますが・・・)
右から左に至るまで、多くの論客の方々は自身の政策論に関するイデオロギーに引っ張られて法律論を不当に捻じ曲げてしまっているように思えますが、
これはとても残念なことだと思います(こなみ)
5. 私の著書はもちろん、ブログも読んでいらっしゃらないのかと思いますが、私は戦後日本の憲法学が偏向している、と批判しているのです。その私に、学会通説が違うから、間違っているのではないか、というコメントを送っても、何にも意味がないのですよ。砂川事件は学会通説で統治行為論とされている、って、そのことをなども私は批判しているわけだから、もう一度「でも学会通説です」と言ってみても、私への批判にはならないと思うのですが。試験に必要な勉強と、実社会で必要なことは、違うのです。
ちなみに、日弁連のサイトでお名前(名の「しおり」)を検索しても出てこないので、弁護士登録されていないのではないでしょうか。「弁護士政治家」とは言えないです。
丁寧なご返答ありがととうございます。
しかしながら、いまいち合点がいきません。
私が本ブログにたどり着いたのは、yahooニュースに記事として上がっていたのを目に留めたからです。
特定のその記事に対する意見や感想を述べるのに、著者が別の機会で主張した内容を把握しておかなければならないというのはいささか横暴ではないでしょうか。
また、憲法の通説に対して批判的である旨、本記事にて充分理解しました。
しかし、憲法が国家の最高法規である以上、憲法と国際法が抵触する可能性がある場合にいずれが優越するのかという問題は憲法学が関与せざるを得ないと思います。
特定の時代の雰囲気や流行で後世を拘束すべきではないと言う点は理解できますし同意見です。(個人的には、国家に対する制約を含むあらゆる国際規範はその国家にとって望ましいものではないと思いますが)
もっともこれは政策的な意見であって法理論とは厳密には無関係ではないでしょうか。
国際規範を合憲的に解釈することにより可能な限り普遍的な国際規範を取り入れるべきである、というのが篠田様の最終的な主張なら特段文句はありません。
しかし、篠田様の主張が、憲法が国際規範と矛盾するのであれば国際規範を優先的に考えるべきである、というものであるのならば、本記事は通説に対する反論が不充分であり適切では無いように思います。
少なくとも、①国際規範の遵守が憲法第98条を根拠としている一方で憲法よりも国際規範を優越とすることの自己矛盾、②憲法改正よりも国際規範の受容が容易であることに対する危険性、への説明が必要になるのではないでしょうか。
これらはいずれも憲法優位論の条約優位論に対する攻撃材料です。
現状かなりもやもやしているので、篠田様のご見解を伺いたいです。
憲法優位論をとったとしても、国際法上の義務を負わないと憲法によって定めた場合は、そのような規定は憲法98条2項に反する背理の規定となるでしょう。しかし、集団的自衛権のように国連憲章51条で規定されている国際法上の権利を憲法によって自己制約すること自体は、(憲法上はもちろん国際法上も)法律論として全く問題がありません。今回、問題になっているのは国際法上の義務ではなく権利の方なので、篠田氏の指摘は、その点を混同しているように感じます。
ご丁寧な返信、ありがとうございます。
私としても、集団的自衛権の自制は少なくとも法律的な次元では問題はならないと考えていましたが、誤解を招く表現でした。
失礼いたしました。
「どこで私が「国際法上の権利を憲法で制約することができない」と言っているのか、具体的に示していただきたい。」とのことですが、確かに、制約することが不可能とは述べておりませんでしたので、その点は撤回し訂正いたします。正しくは、このブログ記事の本文中で、「憲法で自衛権という国際法上の概念を制限するというのは、本来、「民法に殺人罪の規定がないので、民法に殺人罪を入れよう」と言うようなものなのである。」とあり、この記載から、憲法によって、国際法により許容されている範囲よりも制限をすることが的外れであるという趣旨を述べたと解釈した次第です。
また、山尾議員の「透明人間論」という表現については、国際法上の制約(自衛権行使の場合の必要性・均衡性)が憲法98条2項によって課されているにもかかわらず、全くの無制約かのような誤解を生じる点で不適切であるという点は同感です。しかし、国際法上の許容された範囲よりも憲法であえて厳しい制約を課す選択をするという趣旨ということであれば、政策論としては様々な考えがあるかと思いますが、立憲主義という観点からは、合理的な自己拘束の一種として、あり得る議論だとは思います。
主権の優越性一本槍では議論として矮小だと思います。あるいは、主権の裏側にある民主コントロールというなら、憲法自体民主コントロールに預けてはいけない人権という普遍的概念を保証するはずのもので、前国家的なものなはずです。して、人権を保証する自衛権のあり方も、前国家的な、普遍的な指向性がある気がするのですが。
http://verfassung-jp.webnode.jp/news/%E9%87%91%E6%9B%9C%E6%97%A51/
https://tohoku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=85932&file_id=18&file_no=1
私は「篠田氏が「国際法上の権利を憲法で制約することができない」と主張した」と述べたことはありません。
ですので私としては撤回すべき主張は無いと認識しております。
私が提起したのは、国際規範が憲法に優越することに関する疑問です。
少なくとも篠田様は条約優位説に立っておられるように見受けられました。
もちろん条約優位説の一つとしては、「国際法上の権利を憲法で制約することができない」というのもあるとは思いますが、私は篠田様がその見解を有すると断言していません。
研究や大学での講義等ご多忙とは存じますが、時間のとれるときに8に対する回答をいただければ幸いです。
主権が前国家的というのはいささか飛躍しているような気がします。
前国家的な権利、即ち自然権は、人間のみが独占的に保有している権利です。
国家が保有しているものではありません。
それを見越しての「指向性」という言葉選びだとは推察します。
国連憲章の文言は確かに国家の普遍的な権利を定めているように読み取れます。
しかし、これを人権の前国家性と結びつけるのは論理的に難しいように感じます。
国家が普遍的な権利を有するのか否か、有するとすればそれはいかなるものか、という議論は、単なる法律や政治という範疇を超えた更に壮大な哲学的な観点が必要になるように思います。
>私が提起したのは、国際規範が憲法に優越することに関する疑問です
>少なくとも篠田様は条約優位説に立っておられるように見受けられました
横からですけど、僕にはこのエントリが条約優位説に立ってるようには見受けられません。「国際規範が憲法に優越する」なんてこともどこにも書いてるようには見えません。
あなたは二つの次元を混同してる。山尾氏は「自衛権は透明人間だ」という上位の前提に基づいて、「集団的自衛権を制限しよう」と主張したわけです。篠田氏がオカシイと指摘したのは上位の前提(透明人間)のほうで、前提が変わればそれに基づく下位の主張も再考されるのが当然です。
前提いかんに関係なく、集団的自衛権が制限できるかどうか(その根拠は国際法)、という議論はまったくされていない。
また透明人間の前提が訂正されても、それでも集団的自衛権を制限すべしという主張が起こりうる余地もちゃんと言及されてる。ただしその理由は篠田には不明だし説明がいるだろう、と言っている。国際的に一般的であり、また現行憲法もきちんと読めば踏まえられてるはずの国際的な自衛権の概念を、あえて我々は変えねばならないと主張するのなら、そちらのほうに説明が必要だというのはごく普通の見解だと思います。
あなたは人の意見を、勝手に自分の知ってる議論に当てはめようとするのではなく、きちんと文章を読むべきです。でないと単なる時間泥棒です。
「主権の裏側にある民主コントロールというなら、憲法自体民主コントロールに預けてはいけない人権という普遍的概念を保証するはずのもので、前国家的なものなはずです。」
この文言から、主権が人権と同じく前国家的という主張であると理解していました。
勘違いしていたようなので謝罪します。
※19
「憲法で自衛権という国際法上の概念を制限するというのは、本来、「民法に殺人罪の規定がないので、民法に殺人罪を入れよう」と言うようなものなのである。」
少なくとも私にはこの文言が条約優位説を前提にしているようにしか見えないのですが、いかがでしょうか。
私は、山尾氏の自衛権に関する見解が個人的なイデオロギーにより捻じ曲げられていると批判すること自体に物申しているのではありません。
>この文言が条約優位説を前提にしているようにしか見えない
あなた、早とちりによる勘違いで振り上げた拳を下ろせなくなってやしませんか?
「『民法に殺人罪の規定がないので、民法に殺人罪を入れよう』なんてナンセンスだ」と主張する<以下「ナンセンス主張」>と、それは刑法が民法より優位だと前提としているように見えますか?
まあ「刑法が民法より優位だ」という前提<以下「優位前提」>の持ち主が仮にいるとしたら、その人もその「ナンセンス主張」をし得るだろうが、しかし他の前提でも「ナンセンス主張」をし得ますよね、当然ながら。
つまりあなたは十分条件と必要条件をごっちゃにして、篠田氏に自分の知ってる議論のレッテルを貼ろうとしてる。
「優位前提」を持ってることは、「ナンセンス主張」をし得る十分条件だが、必要条件ではない。
同様に、もし「条約優位説」を持っているなら、それは「憲法で自衛権という国際法上の概念を制限」することに疑問を呈する十分条件であり得るが、必要条件ではない。そして実際にも篠田氏が疑問を呈してるのは、山尾氏の主張の前提が正しくないから再考が必要、という意味でだ。
というわけであなたの挙げた一文は篠田氏が条約優位説を前提にしている根拠にも証明にもなっていない。アディオス、時間泥棒さん。
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