フロリダ州の高校銃乱射事件で、アメリカでは銃規制の問題が、あらためて大きな議論を巻き起こしている。世論の3分の2が規制強化を支持しているというが、全米ライフル協会の影響力もあって、規制は進まない。それにしてもなぜ銃を保持する権利が認められているのか。合衆国憲法修正第2条のためである。
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修正第2条[武器保有権] [1791 年成立]
規律ある民兵団は、自由な国家の安全にとって必要であるから、国民が武器を保有し携行する権利は、 侵してはならない。(A well regulated militia being necessary to the security of a free state, the right of the people to keep and bear arms, shall not be infringed.)
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1791年当時の北米独立13州(State)は、現在のアメリカとは大きく異なり、合衆国の単位で機能している行政機構は、まさにようやく1788年合衆国憲法によって作られたばかりの貧弱なものしかなかった。安全を図る自由な国家は、州(State)のレベルで確保されるので、連邦政府が暴力の独占を図ることが非現実的だと想定された。また、西部開拓は進められ続けており、ネイティブ・インディアンとの戦いも恒常的であった。(1776年独立宣言ではイギリス国王がネイティブ・インディアンの暴虐を扇動していることが非難されていた。)
つまり、言うまでもなく、修正第2条が前提としていた環境は、21世紀のアメリカ合衆国の環境とは、大きく異なっていた。1791年に「規律ある民兵団は、自由な国家の安全にとって必要」という議論が、2018年に高校を襲撃する凶器の未成年に銃を与えることを合法とみなすか否かという議論とは、全く関係がないことは、明白である。
それでも問題を整理するための憲法改正がなされてこなかったのは、既得権益を持つ者たちの反対によってである。
つまり、アメリカにおける銃規制の問題は、200年以上前の時代環境の中で作られた憲法規定を、現代のアメリカ社会に既得権益を持つ者たちが利用し続けている構造に、問題がある。
日本国憲法9条も、同じような困難を抱えている。
9条2項が不保持を宣言しているのは、前文や9条1項から明らかなように、現代国際法に違反した行動で侵略行為を行う「戦力(war potential)」のことである。1946年2月当時、まだ進行中であった大日本帝国軍の解体に関して、国内法上の根拠を与えたのが9条2項であった。9条2項は、大日本帝国軍解体を根拠づける規定である。将来にわたって国際法にそって自衛権を行使するための組織を禁止する意図はない。
9条の趣旨は、ドイツ国法学特有の国家の「基本権」思想に基づいた「国権」や「交戦権」を振りかざし、国際法から逸脱した行動を、日本は二度と取ることはしない、という宣言にある。平和愛好国になって国際法規範を推進していく、という宣言だ。「憲法優越性」を唱えて、国際法を無視することを主張するために「護憲派」を名乗るのは、邪道だ。
しかし日本にも憲法通説で9条を解釈することに大きな既得権益を持つ者たちがいる。数十年にわたって積み重なった膨大な既得権益を持つ者たちがいる。そうした者たちは、改憲どころが、違う9条解釈が語られるだけで、感情的な反発をする。そして絶対粉砕の運動を起こす。
憲法9条の改正は、合衆国憲法修正2条の改正と同じくらいには、困難だろう。しかし、問題を放置し続けるのであれば、両方の場合において、人々の不安と、国力の疲弊だけが、増大していくことになる。
コメント
コメント一覧 (6)
ふと、1985年米国滞在時の事件を思い出した。ニューヨークの地下鉄でポケットに手を入れた人物に、殺されるのでは、という恐怖から護身用の銃でその人を撃って死亡させてしまった事件である。驚いたことに、ニューヨークの市民たちは、その気持ちが、わかる、とインタビューに答えていた。
日本の場合は、その逆で、東京でサリン事件が起こったのに、攻撃される、侵略される、という不安がなさすぎる。
ドイツは、プロイセン憲法下でヒトラーが政治をした訳ではない。敗戦後革命政府が作った世界で一番民主的なワイマール憲法下に民主的な手続きを経て彼は権力を握るのであるが、それは、革命政府が結んだ不公正なベルサイユ条約に端を発している。ドイツは、負けたから、という理由で一方的に植民地を取り上げられ、莫大に賠償金を支払わせられることになった結果、市民生活は立ち行かなくなり、英仏への恨みがつのった。そこで、自分たちの不満を代弁してくれる、自分たちの自尊心を満足させ、英仏をやっつけてくれるヒトラーなら、自分たちを救ってくれる、と信じたせいだ、と思う。
また、日本の吉田茂さんは、パリ講和会議に随員として参加され、世界の外交交渉を実地でみられる地位におられたら、敗戦後、ドイツの轍をふまず、米国と外交交渉をし、その上で西側につき、警察予備隊を作り、日米安保条約を締結する、という賢明な知恵で、戦後の日本を平和で、繁栄する国にする礎を作ってくだされたのだと思う。
「会社員」の方も書いておられたが、その事実をいつまでたっても認めようとしない、学者や偏向マスコミが、日本の健全な世論をつくる弊害になっているのではないかと、私は思う。
アメリカの銃規制問題は、アメリカの法体系や文化にも深く根ざした問題なので、外からあれこれ論じるのは難しそう。
BBCの記事によれば、修正第二条が仮になくなっても、州憲法は44州が武装する権利を認めているとのこと。そして日本の9条のような禁止の憲法を廃止するのと違って、権利を認める条文が廃止されるだけならそれで禁止されるわけではない。全廃を求めるならともかく、「適切な規制」なら、進まない原因が修正第二条が根拠とされてるのかは疑問符。
そして適切な規制強化は不可避だと思いますが、どんな方法でもリスクとなる抜け道は存在していて100%は防げないので、その国状にもっとも適して効果ある方法を選択していくしかないでしょうね。
合衆国修正2条を護持し、銃規制に反対する人達はたしかに既得権のゆえに主張していることが明らかですね。
教師にまで銃を買わせようと主張する恥知らず。その教師が生徒をうたない保証はどこにもないのに。こんなことをいうと警察官もですが。
ただ、憲法9 条を変えないことにより守られる既得権とは何かがよくわからないのです。
私の素人考えによれば、既得権というのは今あるシステムによる非合理的に儲けることと認識しており、国際的な危機をあおって、軍備を増強する方が儲かる気がするのですが。憲法9条をまもるとこにより儲かることがあれば教えていただきたいです。そもそも既得権の定義が間違っているのでしょうか?
また、誰かがポケットの中に手を入れることを見て銃を打って人をあやめたことを、共感するアメリカの感覚こそが銃規制を妨害していると思う。銃をもってなければ人を殺すことは無かったのに。そのことがそのまま国防にも拡大できると考えるのは幼稚な考えなのでしょうか?
つまり、銃をもっていなければ暗い夜道ひとりで歩く時にできるだけ人通りのおおい安全な道をとおっていたのに、銃をもって強くなった気分になってひとりで危険な道を歩いて暴漢におそわれ、射殺した、正当防衛でよかったねとおもったら、相手のナイフが目に刺さって片目失明。銃をもたなければよかったのに。
国際社会の中で暗がりを歩かなければならない時もあるでしょう。明るい道を歩いていても襲われる理不尽もあるでしょう。
ただ、銃、軍隊が身を守る最大唯一の手段かはあまり議論していないように思います。少なくとも最近のテレビやネットの報道を見る限り。
外国が、米国だけなら、今のままの米国批判でいいでしょう。けれども、世界にはいろんな国、地域があります。
東西冷戦の頃、東ヨーロッパで、チトー政権の元、一番豊かであったユーゴスラビア、ところが冷戦終結後、民族対立で内戦が始まり、どうしても解決がつかず、結局、NATOの空爆によって、セルビアの政治指導者ミロシェビッチさんが失脚して、ようやく平和が戻りました。
今のシリア情勢、ロシアに後押しされたアサド政権による反体制運動の拠点東グータへの大規模な爆撃で、今週1週間で515人死亡し、2300人の負傷者が出ています。その惨状を食い止めるための、国連の安保理でシリアでの30日間の停戦協定を結ぶ決議が、ロシアの反対で、3日延びました。これは、そうすることで、難民がまた増え、Brexitなど難民の受け入れ問題で、結束が乱れているEUの結束をもっと乱そうとしている、或いは、戦争当事国に武器を売りつけようとしているロシアの思惑から派生しているものだと思いますが、そんな理由で、無益に何百人もの人々を空爆で殺し、彼らの平穏無事な日常を奪うやり方に怒りを覚えます。そして、その難民の発生が、ヨーロッパで、深刻な難民問題、政治問題を引き起こしているのです。
やはり、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去する」ためには、残念ながら、武器をもった警察組織、が国際社会には必要なのではないのでしょうか。
以上が、キリスト教左派?で、違憲判決に貢献した教授の漫談でした。機会がありましたら「日本国憲法の世界史的意義」について、1970年当時の世界史の教授の講義の一部を書きます。
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