日本は死刑制度を終身刑で代える制度に反対しているわけではないので、国内で死刑制度を持つことと、欧州諸国が中心になって運営されているICCの最大資金拠出国であることとの間には、何も矛盾はない。
むしろ自信をもってICCのために国際的に動いたらいいと思うのだが、お金を出しているわりには人も口も出せていないだけでなく、そもそも日本国内でICCの存在を知っている人はほとんどいないのではないかという惨状は、なんとかしたい。
アジア諸国のICC加入率は、著しく低い。そこにフィリピンが脱退を宣言している現状である。ICCの「普遍性」は、相当程度に日本や韓国(現在ICCの締約国会議長を担っている)によっても支えられている。
AU(アフリカ連合)がICCに加盟しているアフリカ諸国に脱退を促す決議を出したのは、2016年末だ。その後、ブルンジが脱退しただけにとどまっているが、スーダンなどの捜査対象国だけでなく、ICCの外から国力を強めるエチオピアが強くICCを攻撃する立場をとっており、締約国であるはずのケニアも批判的な声を隠そうとしない。東部アフリカは反ICCブロックである。南アフリカの態度に左右される南部アフリカのICCへの姿勢は、揺らいでいる、といったところか。
私は今、このブログを、ナイジェリアで書いている。https://www.facebook.com/hideaki.shinoda.73 ナイジェリアは、西アフリカの覇権的な地位を持つ人口1億8千万の大国だ。現在ICCの裁判所長を出している。ナイジェリアが親ICCであることも手伝って、西アフリカは明白な親ICCブロックだ。西アフリカは欧州に近いことが、欧州的な価値観の共有につながっていると言える。もっともビアフラ戦争の記憶もあり、ナイジェリアに対して欧州人は一般に厳しい目を向けることが多いようにも思う。
資源も豊富で、2015年からは原油価格下落で停滞したが、それまでは驚異的な経済成長を記録していた。すでに昨年から回復基調に入ったナイジェリアは、一人あたりGDPでは3,000ドル前後とはいえ、国単位では世界30位のGDPを誇る大国である。私が専門とする国際平和活動でも、際立った存在感を持つ。
ナイジェリアは、華々しい経済投資攻勢をかける中国に対して、堅実な姿勢をとっている印象もある。2005年、日本が国連安保理常任理事国入りをかけて真剣な外交努力をしていたとき、中国の圧力で他のアフリカ諸国が次々と離れていく中、最後まで日本を支持し続けてくれたのが、ナイジェリアだ。
ボコ・ハラムの問題を北部に抱え、ギニア湾に海賊問題を抱える。中国との適正な距離感を保つためにも、価値観を共有しているはずの日本への期待は小さくない。
・・・憲法9条があるから、日本人はアフリカ人よりも卓越している、アフリカ人は日本を模倣すべきだ・・・、などと大真面目に信じるような態度は、もはや時代遅れという言葉もあてはまらにくらいに昭和的だ。
もはやアフリカが、日本や欧州の避暑地のように感じられる時代だ。
日本の戦略的なアフリカへの関与を話すことができる場所が、日本国内にももう少し欲しい。
アフリカ人と価値観を共有する
7月6日のオウム真理教死刑囚の執行後に死刑制度についてブログを書いた。日本は死刑制度を持たない国際刑事裁判所の最大資金拠出国である、という書き出しの拙稿も『フォーサイト』さんに掲載していただいた。www.fsight.jp/articles/-/44013 すると掲載の翌日に、さらに6人の元幹部の死刑が執行された。
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コメント一覧 (21)
日本の人道的犯罪の最たるものは、地下鉄サリン事件であり、その実行者が死刑であった、ということは、私を含めて「普通の日本人」の国民感情からすれば当然、だと思います。そして、日本人は欧米人ではないのだから、日本人的な価値観を加味して、個人として「国際刑事裁判所」活動に参加することが、むしろ、必要だと思います。それでこその国際協調だと思うからです。
この前、JICAに勤務されていたご主人に付き合って主に、アフリカ、中近東回っておられた方とお話しした時、「アフリカへの中国の進出が心配。日本は、アフリカの人々の希望を丁寧にきいて、対応するのと違って、中国は資金力にものを言わせて、根こそぎ取っていこうとするから。」という言葉をきいて、知らなかったアフリカの現実、世界の現実を知った。反時流的古典学徒さんも、いつまでも古代ギリシャに耽溺するのをやめて、現代社会の問題を解決する努力をされてはどうだろう。本当に、うんざりだ。
日本人のアフリカへの関心は、過去にはエイズの異常な感染率など中心の話題だった。数年前にナイロビ宣言採択で安倍首相がアフリカ経済協力の官民総額3兆円投資を表明して再度関心が高まったが、その後は日本人の関心が薄れてきたようだ。当時も「アフリカ在住の日本人は1万人以下なのだから(中国人は100万人以上)経済協力しようにも人的基盤がない」という悲観的声が聞かれた。でも悲観してばかりいてもしょうがないので精選された日本人が現地訪問して現状を生で伝えたり意思疎通をはかるのは価値がある。
こんな日本の間抜けな「敗戦利得者」が仮にアフリカにおしかけても迷惑きわまりないだけだ。国際平和などと何の関係もない。またアフリカ連合がめざす平和維持の連合軍も集団的安全保障や集団的自衛権の枠組みで構想されたものだろう。アフリカに「集団的自衛権は他国の戦争に巻き込まれる」などというバカはおそらく大陸内でも数人くらいしかいないだろう。そんなことやれば重武装が必要になりいくら軍事費をだしてもきりがない。実際にナイジェリアは南アフリカに並ぶ軍事大国らしいが、PKO・PKFなどにも積極的に関与する。自衛隊のPKO派遣にもヒステリックに反対し続けた日本の「敗戦利得者」はどんなバカげた過去の主張でも憲法9条が守ってくれるので「憲法9条さまさま」だろう。
昨日、毎日新聞で、村上春樹氏のオウム13人死刑執行の寄稿文を読んだ。私は、全共闘の世代でもないし、ハルキストでもない。だから、丸山真男さんという名前にカリスマ性をまるで感じないのと同じに、村上春樹さんの名前にもまるでカリスマ性を感じない。だからかもしれないが、マスコミで盛んに発言されているコメンテーターを含めて、彼らへの素朴な疑問は、どうして、サリンテロの実行犯、林泰男さんに対しては、それだけの人権意識、思い入れがあるのに、地下鉄に乗って、サリンテロにあった被害者の人権に、まるで関心がないのか、ということである。この人権、という言葉は、亡くなった人の人権だけではない。重いサリンの後遺症で苦しむ患者とその家族も含む。私は、この悲惨さに関して、自分が2か月の入院生活を余儀なくされるまで、まるで気づかなかった。自分が入院患者を体験し、植物人間同様な人が、同じ病室におられ、毎日看病に来られるご両親の気持ちを知って、はじめて、そういう状態で生きていること、それを介護することが心身両面において、いかに大変なことかわかったのである。
要するに、この事件は、地下鉄サリン事件、ではなくて、「オウムに所属する実行犯による地下鉄無差別サリンテロ事件」なのである。「オウムに所属する」というのは、その人の判断が加味されているが、そのテロ行為の犠牲者に、誰がなるかはまるでわからない。また、この判決は、自白だけではなくて、状況証拠を積み重ねて、有罪が立証された結果の裁判官の判決なのではないのだろうか?
弁護士は、依頼者の利益、を考えて弁護活動を行うのだから、被告人、オウム信者の利益になるように法律的に代弁をするのは、正しい。ただ、普通の人々の利益、を考えなければならないマスコミが、同じ主張をしているところに問題があるのである。マスコミの人々は、本当に、公共の福祉のために、報道の自由を、使っているのだろうか?
アフリカについても国益追求をめぐって激動する国際情報への一般の日本人の無思慮は想定されることで、憲法問題とは別の意味で、より深刻なのは確かだろう。ナイジェリアの場合、言語は確か英語と雑多な各民族語、宗教はイスラム教とキリスト教に、伝統的なアニミズム宗教が混在するという程度の基礎知識を、世界有数の石油資源が経済を支えている一方で、依然農業国である事情を、サッカー強国との認識と同程度に持ちたいものだと思う。
目下、避暑地の山荘滞在の徒然なるままに書き出したコメントなので、手元に資料や辞書を欠く感想表明は無意味なので避け、話題を変えたい。
作家の村上春樹氏が「胸の中の鈍いおもり」と題する全国紙への寄稿で、今回のオウム死刑囚13人に対する刑執行について、それに対して正邪いずれの立場に身をおくにせよ、単純には割り切れない複雑な胸の内や、裁判の印象、残された課題等について率直な思いを綴っている(「毎日」29日)。
村上氏の主張自体に特に新しさや際立って特異な見解の表明はない。むしろ、抑制的で静かな調子で現時点での感想を述べ、最終的な結論を留保している。かつて熱心に傍聴した林泰男死刑囚の判決について、「判決文も要を得て、静謐な人の情に溢れたものだった」とするように、全体的に自らの主張のトーンを抑え、改めて静かに事件と向き合い、事件を生む人間の神性と獣性(怪物性)、人間性の不可解さについて、熟考を促している。
そうした作家の観察は「およそ師を誤るほど不幸なことはなく、この意味において、林被告もまた、不幸かつ不運であった(中略)林被告のために酌むべき事情を最大限に考慮しても、極刑をもって臨むほかない」と述べた木村烈裁判官への共感にとどまらず、息子である林被告の法廷を判決公判以外、終始見守っていた母親への目配りにも顕著だ。そのうえで、「今回の死刑執行の報を耳にしてどのように感じておられるのか、それを思うと胸が痛む」と思い遣る柔らかな人間性が滲む。そこに被害者感情への配慮に名を借りた発言回避という怯懦や思考停止とはおよそ対蹠的な作家の態度がある。そこに際立っているのは、「非政治性」だ。投稿自体、近年のノーベル賞待望論に幻惑された世論や一部のハルキストとは全く無縁の作家による‘‘Betrachtungen eines Unpolitischen’’ なのだろう。
私はこの高名な世界的作家の支持者でも心酔者でもないが、主張自体は穏当なものだろうと思う。唯一不満が残るとするなら、人間の神性と獣性、善と同時に内在する悪の可能性への根源的洞察の不在だ。しかし、本領の創作ではない今回の投稿の主たる動機や背景を考えると、それは無理な注文かもしれない。
事件で被害者となった遺族の処罰感情と法的公正性の関係性という古くて新しい厄介な問題について、「「遺族感情」で一人の人間の命が左右されるというのは、果たして公正なことだろうか? 僕としてはその部分がどうしても割り切れないでいる」と率直に疑問を呈する一方で、持論は控え「みなさんはどのようにお考えになるだろう?」と省察を促している。この作家の広範な読者層を思うと、メディアなどを通じた問題提起より、遥かに確実に人々の胸に届くかもしれない。
われわれ日本人は、法治国家に生きている。国際人であろうと国外に一歩も出たことがないdomestic な凡庸な人間であろうと。遺族感情であれ、被害者救済であれ、基本的には法的に処理されるしかない。政治や文学の出番はもっと別の場所にある。
「林泰男さんに対しては、それだけの人権意識、思い入れがあるのに、地下鉄に乗って、サリンテロにあった被害者の人権に、まるで関心がない」(コメント6)と、メディアに登場するコメンテーターの発言を真に受け、「木村烈裁判官が、判決で述べられている意味が……」と「大雑把」に言い切る「普通の人」は、「この事件は、地下鉄サリン事件、ではなくて、「オウムに所属する実行犯による地下鉄無差別サリンテロ事件」」と断じる。結論部分は形容を重ねても論理学的に無意味な述定なので論じる意味がないが、相変わらず意気盛んで、呆れるのを通り越して、感心する。放言は健康や長生きの秘訣かもしれない。
依頼者の法的利益を擁護する弁護士などに比べ、「普通の人々の利益、を考えなければならないマスコミが、同じ主張をしているところに問題があるのである。マスコミの人々は、本当に、公共の福祉のために、報道の自由を、使っているのだろうか?」と毒づく。
一部のメディアの傾向をもってすべであるかのように極論する粗雑な論点先取の詐欺的議論を嗤いつつ、まるで「知的誠実さが伴わない」(水準については平均レベル)当の人物が公共の言語空間で行う気ままな大言壮語に、目眩がする。
批判、批評の自由は批判した相手側の反論を想定しなくては、あまりにご都合主義だ。天に唾する無謀さに驚嘆するのは、文脈を無視して、「いつまでも古代ギリシャに耽溺するのをやめて、現代社会の問題を解決する努力をされてはどうだろう。本当に、うんざりだ」(コメント2)といった剥きだしの感情を吐露する不用意さ、無邪気さにも通じる。金正恩を二度も「金日恩」とするような粗忽さは一日も早く卒業されたらよい。
「古代ギリシャに耽溺……」などという、余計なお世話を口にする前に、不確かな思い込みや雑多な知識を組み立てて、知りもしないソクラテスやソフィストについて云々して大恥をかく無思慮さを遠慮されたらどうかと、こちらもつい余計な心配をしてしまう。世間は無責任で酷薄だとご存知ない齢でもあるまいと推察するが……。
それにしても、著作を一切遺さなかったソクラテスはともかく、プラトンもアリストテレスも歴史家のトゥーキュディデーズも、時代こそ違え思考の次元ではわれわれより、ずっと先を歩いてると痛感する。彼らは民主制の先達でもある。伊達や酔狂で苦労してギリシア語やラテン語を修得したわけではない。二十世紀初頭、トゥーキュディデーズに注目した歴史家のトインビーは、埃を被った単なる過去の事蹟ではない歴史をペロポネソス戦争とアテーナイの興亡とにみていたことを、指摘しておく。
自由と責任、他を語る前に銘記しなくてはならぬものがあるのではないか?
反論はご自由に。ただし、具体的な根拠、資料を提示したうえで、事実確認と誤記とに充分留意して。(完)
このような価値観は、アフリカのテロリストにもあるのだろうか?
「首席で卒業総代…、だから何?」という反応だってこの世には厳然としてあること、しかもそうした素朴な見解にもそれなりの根拠があることを、経験を通じて受容していくのもまた人生だという、基本的な心得を欠いた人物として広瀬死刑囚のような人物がいたのだろう。その類の秀才は珍しくない。オルテガ・イ・ガセット流に言えば、「エリートの姿をした大衆」にすぎない。
優等生的な、何事にもお勉強の結果に対するご褒美として得られる、どこでも通用する「正しい答え」などないことを知るのもまた、エリートへの階梯であり、人生である。察するに、彼には何らかの挫折体験があったと想定される。彼には深刻だけれど、世間にはよくありがちな種類の。平凡な事実だが、彼には強迫観念的で、ナイーヴな迷妄の隘路でひたすら苛立ちを募らせていたのではないか。
学業優秀で周囲の期待を背負い、それなりに成功体験の連続だった人生に訪れた躓き、挫折。それを何とか突破して再び成功の軌道に戻るはずだったのに叶わなかった。人生の現実という一筋縄ではゆかない壁に跳ね返され、その前で佇む卑小な自分。「治療」には醒めた哲学的思考もあったろうが、即効性はないから、精神分析か宗教の出番になる。
問題は、宗教が整合的な神学体系を備え、歴史の風雪に耐えた(その分、偽善的でもある)キリスト教やイスラム教、仏教のような世界宗教ではなく、特異な擬似的宗教であるオウムのようなカルト的秘儀だったことだ。そこに救い、魂の安住の地はなかったようだ。
NHKや大手通信社に友人がいたから、その後の政財界の動きは逐一確認できたし、楽屋話めいたものも種々聞かされ、人や立場は変わっても政治の実態は変わらないな、と痛感した。外部の視点に立つとそれが一層際立って見えたものだ。卒業後もギリシア哲学の研究は細々続ける(さらに日本近代哲学史も)という、ある種の二足の草鞋を履くことは負担にならないでもなかったが、必要な文献は何でも買えたから、条件はそれほど悪かったとも思えない。
哲学、とりわけ専門とする西洋古代哲学はテキストと辞書が確保できれば、どんな立場でも基本的に研究の持続は可能だ。後はヤル気と根気だけで、大学など第一線の研究者のように学生指導の義務もないので、収入や研究の自由度の点で、かえって都合がよいこともある。
時折、蟲が騒いである研究者(早稲田大名誉教授)が訳し、著名な哲学専門出版社から上梓されたギリシア哲学史の代表的概説書の翻訳があまりに杜撰なのに憤慨して、前半部分を訳して藤澤令夫先生の閲読を請うたことがある。
当時、藤澤氏は京都国立博物館館長で、折からの阪神淡路大震災で京博でも被害が出て、阪神地区の職員の安否確認に追われ「混乱収拾まで苦労した」と返信にあった。そんな多忙を極めるなかでも丁寧に訳稿を閲読いただき、厳しい指摘を賜ったわけで、感謝を通り越して恐縮した。震災発生から、半月もたたぬ返信だった。
仮令大震災が起ころうとも哲学…、破壊は瞬時の出来事だが研鑽や創造は状況変化にかかわらぬ継続が必要、ということを身をもって教えられた気がする。
恩師は生前、毎年夏を家族と離れ長野県・富士見町の別荘で暮らすのが習慣だった。師の田中美知太郎氏も夏は酷暑の京都を抜け出し、北軽井沢(群馬県嬬恋村)で研究生活を送っていたから、それに倣ったのだろう。2001年6月、全7巻の著作集(岩波書店刊)の刊行を終え、「6月末から当地にこもって仕事をしています」と、ある端書が京都から転送された私の書簡への返信として届いたこともある。
著作集の完結は仕事の完了を意味せず、「今後もたゆみなく続けなければならない思想の営為」に没頭している。「自分の哲学思想と言いうるものを、身に託する最強の<λόγος >へと鍛え上げる」ために。当時76歳。
藤澤氏は以前、なぜ山荘に一人でこもるのかについて、現代社会が管理化と効率主義によって大らかさを失ったのに伴い、大学も純粋に学問研究の場ではなくなったことを挙げた。自分の学問と時間を守るためには、山荘に退避することがどうしても必要になる。「安逸な多忙」を回避するために。
そうして初秋まで研究に明け暮れる。一日の仕事を終え、一人コトコト野菜を刻んで夕食を作り、一人酒を酌む。人生の確かな手ごたえ、喜びはそうした瞬間にある。17年前の端書をみて改めて思った。
翻って、われら篠田さんの国外脱出は必ずしも、研究のための退避ではなさそうだが、より精神に磨きをかけて帰国してほしい、と願わずにはいられない。
現在のように、高原の避暑地で、炊事以外(昼夜二食とも私が担当)は、日がな一日、一見優雅にのんびりと(出先なのを幸いに、文献や辞書を気にせず)好きな本を読んでいると、日頃は見えにくいものもぼんやりと全体像が浮かび上がってくる。
「安逸なる多忙」は人を疲労困憊させ荒廃させるから、山荘では閑暇(スコレー,σχολή)を愉しむことにしている。schoolの語源であるσχολή は、文字通り無学だった学生時代のようなことはないとしても、学問に目覚めた頃の初心を大切にしたいという思いと今もつながっている。
篠田さんが滞在中のナイジェリアとの関連で、国際刑事裁判所(ICC)へのより一段の関与を含め、アフリカをはじめ世界中において日本は一層の自発的関与を進めないと、世界各地で膨張を続ける中国を筆頭に、国益をめぐって各国が角逐を繰り広げる国際社会から取り残されてしまうという危機感を感じる。長年にわたり平和構築の現場で奮闘されてきた篠田さんならではの危機意識だろう。
それは国力に見合った日本独自の国際貢献と外交の推進という文脈ではなく、トランプ政権が徐々に従来の国際社会における米国の立ち位置とは異なる外交的選択を明確にしようとしていることにどう対処すべきか、という問題設定でもあり、外交分野に留まらない優れて政治的な認識、判断が求められているということを意味している。
それは、冷戦後の外交指針として、今なお全方位(特にアジア重視)の「独自外交」と「日米同盟基軸」とをめぐって国会でも空疎な議論を展開し、特に野党寄りの識者に混乱が目立つのとは別の次元で、米国と今後どう向き合うかは、本格的な人口減少社会の劈頭に立たされ、国力維持への多様な課題を抱える日本が避けて通れない選択だし、歴史的な必然だからだ。
幸い、まだ時間がある。人口減少を食い止める有効な方策は、どんな条件を付するにせよ移民の受け入れ以外にはないのと事情が異なる。今こそ冷徹に、現実に追従するのではなく、現実を見極める真のリアリズムとしての現実感覚を研ぎ澄ませる外はない。
私など時代遅れの「遅れてきたギリシア人」=古典学徒として、認識以外は社会的に最も弱劣な存在だが、所謂 ‘sub specie bienni’ (須臾の相の下に) の皮相な考察ではない、哲学本来の「永遠の相の下に」(‘sub specie aeternitatis ’)ものごとを考えたいと常に心掛けている。過去の歴史が示すように近視眼的な早呑みこみの世界史的考察は危うい。
そうした醒めた眼は、政治家でなくとも、哲学者や歴史家の最も大事な資質だと思う。ネット空間という「現代の騒音」の中にあえて身を置くのは、篠田さんを応援したいという当初の動機に加え、世捨て人にはなりきれぬ「日本人」としての私なりの愛郷心(patriotism)だと言える。
私が説く哲学の勧め(προτρεπτικός)も、プラトンやアリストテレスの思考の表面的な結果を、現代にそのまま通用すると信じる悪しきオプティミズムとは無縁であることは言うまでもないが、議論の徹底的深化には現代流行の「似而非哲学」より役立つと考えている。
論理実証主義(価値情緒説)や批判的合理主義(価値相対主義批判)にみられる、現代の研ぎ澄まされた論理的意識を反映した倫理的(道徳的)判断や言明(陳述,statement)の本質が何かを論じる際に、倫理的言明は「話し手個人の意思決定の表現であるという」見解を一応承認する形で議論を進めると、必ず行きつくのが、ソクラテス(実態はプラトン)にとって真の知識とは、何よりも人間の不幸の原因となるような意図と判断との不一致、齟齬であることが分かる。
倫理的判断が想定する行為の目的相互間の、所謂 ‘implicational meaning’ (含意)に係る知識は、それだけでは倫理的判断の本質である意志的態度 ‘volitional attitude’ を変更させるものではなく、ソクラテス流に言えば ‘implicational meaning’ に関する知識であれ何であれ、それが真に知識の名に値するものなら、まさしく「それだけで」当の人物の意志的態度を変更させるだけの力があることになる。
この倫理的言明の性格をめぐる問題は、例えば一例として、倫理的言明を命令法に還元(書き換える=直接法で表現される内容を規範的であるのを特質とする命令法に転換)するという手法についても、直ちに倫理的言明の非認識性(non-cognitive,不可知性)の見解につながるとは一概に言えない。
むしろ、命令文の論理的構造を仔細に吟味すれば、そこから倫理的言明の認識的または知性的性格を再確認し、知性への信頼回復を目指す方向さえあることが看守される(藤澤令夫「現代における哲学の課題」を参照、1969年『実在と価値』所収。『藤澤令夫著作集』第1巻)。
人間の生き方に関する「事実」と「価値」(ギリシア的には自然=ピュシス,φύσιςと、人為・法=ノモス,νόμος)をめぐる問題があると仮定して、それと密接不可分な知識、即ちソクラテス(プラトン)的な「知」の役割を、価値判断を含むという理由だけで厳密な論理的処理になじまないと捨象してしまうなら、およそ一切の「形而上学的」命題(proposition)のみならず、倫理的、政治的領域の公共的思索について、没価値論的分析的命題(事実の直截な「記述的」言明=論理的命題と、意志や態度に係る価値判断を含まない「規範的」ではない言明=経験的命題の二つ)でなければ学問的追究を断念せざるを得なくなる。
これを回避するには、知識の客観的合理性を保持しつつ、善や倫理的問題についても客観的妥当性を問い得る「知識」=学問的検討の領域を確保することを可能にするのが、ソクラテス・プラトン由来の哲学本来の総合的視野(シュノプシス,σύνοψις)、総観的思考である。
前置きが長くなった。本論の導入部として必要だったので了とされたい。如上の「思った」ことと「望んでいる」こととの不一致、断絶という構図(意図と結果の齟齬)は、憲法問題と日米同盟を構造的に考える際、とても参考になる。
安保改定後の1961年当時、「主権国家から国際国家への先駆的な転行のテコとして、憲法九条を逆用しながら、現存の防衛体制をそうした過渡的な国家形態にふさわしい防衛体制に転化させて行く過程で憲法と軍備の現状との矛盾の克服を期す」と説いた上山春平や、やや抽象的ながら「安全保障力」という概念を導入して、日本に対する直接及び間接的侵略の可能性や抑止戦略論を論じ「三段防禦」の仮説を構想した衛藤瀋吉らが論壇で注目された。
その上で、「コレラ菌のもつ法則性や属性を知らずして、コレラの征圧はできない。研究者には国際政治の法則を見きわめる義務がある。それをおこたって民衆の心情に迎合するような道義論を持ち出して説得にかかる」似而非学者、識者がメディアに横溢する現状は、「人間の自然の本性が変わらない限り、またこれからも同じことが起きるだろう」との冷厳な認識からペロポネソス戦争の『歴史』に遺したトゥーキュディデースを想起させる。
このことは、同じ『潮』の通常5月号で護憲派憲法学者の小林直樹が、非武装中立の立場から、日米安保を捨てて共産主義陣営との安保体制を採るという構想を、衛藤の説く日米安保体制の強化への「論理的な対極」として臆面もなく掲げる極端な観念性、党派性に通じる(「第九条と防衛問題の新状況」)。
しかし、小林は宮澤俊義の後継者であり構想の「非現実性」は百も承知で、如上の持論の前提として「ただし書」を付することを忘れない。曰く「即時に安保を廃棄し自衛隊を解散することは、事実上不可能……廃棄・解消を目標として確認しながら……米軍の常時駐留と基地をやめて<有事駐留>に切り替える」。
この程度の虫のよい到底代替案とは呼べない偽善的かつ感傷的姿勢は、護憲陣営に今なお健在である。<完>
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