『現代ビジネス』さんに、自民党総裁選と沖縄県知事選で何か書いてくれと依頼を受けて書かせていただいた拙稿を、2本とも掲載していただいた。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57664  https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57810
改憲問題や、1972年内閣法制局の集団的自衛権違憲論と、どうそれぞれの選挙がかかわっているのかを書くことができ、よかった。
 
もちろん学者の書いたものを政治家の方が読む、などと思って書いているわけではない。それでも書く機会があるのは、ありがたいことだ。もちろん政治家は学者の仕事など無視するのだが。
 
山尾志桜里・衆議院議員の『立憲的改憲』という本を手に取ってみた。冒頭から、私の仕事内容の完全否定で文章が推し進められている。別に私の意見を聞く必要はないと思うが、せっかく本にして紹介しているのに、その存在すら無視されているように扱われるのは、もちろん面白いことではない。
 
山尾議員によれば、

「第二次安倍政権をのぞく全ての歴代政権が、・・・一部であれ集団的自衛権を認めることはできないと一貫して解釈してきたのです。」(『立憲的改憲』20頁)」

私は、読売吉野作造賞をとって新聞等でも紹介していただいている『集団的自衛権の思想史』で、そんなことはないことを2016年に、なるべく丁寧に、書いた。一部を紹介しよう。

 「・・・(1960年の日米安全保障条約改定にあたって)日本政府は、この集団的自衛権の論理によってアメリカの関与を確保することには真剣であった。安保条約改定をめぐる時期の審議において、岸首相をはじめとする政府関係者が、概念的に集団的自衛権を広く解釈していたと言われるのは 、そうした文脈で理解すべきだろう。岸信介首相は、次のように述べていた。

『集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということでございますけれども、それに尽きるものではないとわれわれは考えておるのでございます。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは私は言い過ぎだと、かように考えています。しかしながら、その問題になる他国に行って日本が防衛するということは、これは持てない。しかし、他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点でございまして、そういうのはもちろん日本として持っている、こう思っております。』

鳩山に続いて岸にも仕えた林修三内閣法制局長官は、海外派兵以外の如何なる集団的自衛権があるのかと問われ、次のように答弁した。

『例えば、現在の安保条約において、米国に対し施設区域を提供している。あるいは、米国が他の国の侵略を受けた場合に、これに対して経済的な援助を与えるということ、こういうことを集団的自衛権というような言葉で理解すれば、私は日本の憲法は否定しているとは考えない』(『集団的自衛権の思想史』110-111頁)」

 
 憲法学者らの中に、岸内閣の集団的自衛権の概念は、後に否定された集団的自衛権とは違う、とか欺瞞的なことを真面目に主張する方がいらっしゃるが、そんなことをしたら、何万人が集団的自衛権の合憲性を唱えようとも、「それはわれわれが言う集団的自衛権とは違うので、集団的自衛権は違憲です」と憲法学者が唱えれば、それで憲法学者が正しいということになってしまう。
 
憲法学者が言う本物の集団的自衛権とは何かというと、アメリカに命令されるまま世界中で戦争を仕掛けることなのだという。馬鹿馬鹿しい話である。
 
山尾議員は、「必要最小限度の実力の行使」は、「個別的自衛権の行使」と同じなのだと決めつける。しかし、それを論証しようとはしない。ただ「「第二次安倍政権をのぞく全ての歴代政権が、・・・一部であれ集団的自衛権を認めることはできないと一貫して解釈してきたのです」、といった虚偽の他人任せの断定を繰り返すだけである。
 山尾議員によれば、「権力をしばるのが立憲主義」であると主張する。そこで前提とされているのは、国家権力を制限することが立憲主義だということであり、しかも野党議員が安倍首相を攻撃するのが立憲主義と同じであるかのように扱われている。
 フーコーでも読んでほしい、とは言わないが、世の中の権力は安倍首相の手中にしか存在していないというのは、あまりにも歪な世界観である。野党に属していれば、国会議員には権力は全くないのか。野党に属していれば、自己節制のある生活をしなくていいのか。学者の仕事など社会から抹殺し、ただ安倍首相を批判する者だけが賞賛されればそれでいいのか。
 そんなのは、
あまり気分の良い世界観だという気がしない。