『現代ビジネス』さんに、自民党総裁選と沖縄県知事選で何か書いてくれと依頼を受けて書かせていただいた拙稿を、2本とも掲載していただいた。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57664 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57810
改憲問題や、1972年内閣法制局の集団的自衛権違憲論と、どうそれぞれの選挙がかかわっているのかを書くことができ、よかった。
もちろん学者の書いたものを政治家の方が読む、などと思って書いているわけではない。それでも書く機会があるのは、ありがたいことだ。もちろん政治家は学者の仕事など無視するのだが。
山尾志桜里・衆議院議員の『立憲的改憲』という本を手に取ってみた。冒頭から、私の仕事内容の完全否定で文章が推し進められている。別に私の意見を聞く必要はないと思うが、せっかく本にして紹介しているのに、その存在すら無視されているように扱われるのは、もちろん面白いことではない。
山尾議員によれば、
「第二次安倍政権をのぞく全ての歴代政権が、・・・一部であれ集団的自衛権を認めることはできないと一貫して解釈してきたのです。」(『立憲的改憲』20頁)」
私は、読売吉野作造賞をとって新聞等でも紹介していただいている『集団的自衛権の思想史』で、そんなことはないことを2016年に、なるべく丁寧に、書いた。一部を紹介しよう。
「・・・(1960年の日米安全保障条約改定にあたって)日本政府は、この集団的自衛権の論理によってアメリカの関与を確保することには真剣であった。安保条約改定をめぐる時期の審議において、岸首相をはじめとする政府関係者が、概念的に集団的自衛権を広く解釈していたと言われるのは 、そうした文脈で理解すべきだろう。岸信介首相は、次のように述べていた。
『集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということでございますけれども、それに尽きるものではないとわれわれは考えておるのでございます。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは私は言い過ぎだと、かように考えています。しかしながら、その問題になる他国に行って日本が防衛するということは、これは持てない。しかし、他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点でございまして、そういうのはもちろん日本として持っている、こう思っております。』
鳩山に続いて岸にも仕えた林修三内閣法制局長官は、海外派兵以外の如何なる集団的自衛権があるのかと問われ、次のように答弁した。
『例えば、現在の安保条約において、米国に対し施設区域を提供している。あるいは、米国が他の国の侵略を受けた場合に、これに対して経済的な援助を与えるということ、こういうことを集団的自衛権というような言葉で理解すれば、私は日本の憲法は否定しているとは考えない』(『集団的自衛権の思想史』110-111頁)」
憲法学者らの中に、岸内閣の集団的自衛権の概念は、後に否定された集団的自衛権とは違う、とか欺瞞的なことを真面目に主張する方がいらっしゃるが、そんなことをしたら、何万人が集団的自衛権の合憲性を唱えようとも、「それはわれわれが言う集団的自衛権とは違うので、集団的自衛権は違憲です」と憲法学者が唱えれば、それで憲法学者が正しいということになってしまう。
憲法学者が言う本物の集団的自衛権とは何かというと、アメリカに命令されるまま世界中で戦争を仕掛けることなのだという。馬鹿馬鹿しい話である。
山尾議員は、「必要最小限度の実力の行使」は、「個別的自衛権の行使」と同じなのだと決めつける。しかし、それを論証しようとはしない。ただ「「第二次安倍政権をのぞく全ての歴代政権が、・・・一部であれ集団的自衛権を認めることはできないと一貫して解釈してきたのです」、といった虚偽の他人任せの断定を繰り返すだけである。
山尾議員によれば、「権力をしばるのが立憲主義」であると主張する。そこで前提とされているのは、国家権力を制限することが立憲主義だということであり、しかも野党議員が安倍首相を攻撃するのが立憲主義と同じであるかのように扱われている。
フーコーでも読んでほしい、とは言わないが、世の中の権力は安倍首相の手中にしか存在していないというのは、あまりにも歪な世界観である。野党に属していれば、国会議員には権力は全くないのか。野党に属していれば、自己節制のある生活をしなくていいのか。学者の仕事など社会から抹殺し、ただ安倍首相を批判する者だけが賞賛されればそれでいいのか。
そんなのは、あまり気分の良い世界観だという気がしない。
コメント
コメント一覧 (29)
「民主政治」でも同じである、芦田均さんは、日本国憲法を法制化するにあたり、封建的残滓を取り除いて民主的な(みんなで決めて、みんなが参加して、みんなで作るしくみ)で、国会制度、内閣制度、司法制度、を確立しようとされたが、反氏などは、この仕組みを、まるで幼稚園か小学校の授業を齢70近い老媼から受けている趣で、と否定する。
私の目から見えれば、政治家が学者を無視する、というのではなくて、専門の学者がいろいろ正反対のことを主張されるから、また、マスコミが野党側の主張があたかも正論のように報道するから、主権者である国民が、なにを信じ、どう考えていいかわからなくなるのである。前回のブログのコメント189に書いたように、プライムニュースで、平和維持活動に実際に携わっておられるらしい、東京外語大学総合国際学研究院教授の伊勢崎賢治が、憲法第9条第2項を残して、自衛隊を明記することは、日本国憲法の自殺行為である、と主張され、山尾志桜里案に賛成されていることを知って、惨憺たる気持ちになった。
ノーベル賞受賞が決まった本庶佑氏の令室ではないが、家庭の安定と平穏は学問的探究のためにも侮れない要素だ。
生涯独身を貫いたプラトンやカントと異なり、穏和で満ち足りた家庭生活を享受したアリストテレスの方が、逆に冷厳なリアリストであったことは、人と人生について種々の想念を誘う。忙中閑ありも良いが、多忙極める篠田さんにもお薦めしたい。
閑話休題。篠田さんの「お座敷」である本ブログに久しぶりに新稿を迎えるにあたり特段の用意も気の利いた措辞もなく芸不足を憾むが、山尾志桜里氏の「あまりにも歪な世界観」、権力観を揶揄して「フーコーでも読んでほしい」とする気持ちはよく理解できる。
本音の所在はともかく、昨年秋メディアを賑わした倉持麟太郎弁護士との公務と「婚外交際」をめぐる醜聞騒動への対応の際に見せた山尾氏のソフィスト顔負けの「弱論強弁」と総選挙後に入党した立憲民主党の憲法問題担当の私見と、独自の偏頗で独善的な「立憲主義」を標榜する党見解との齟齬や党の立ち位置自体の胡散臭さを勘案すれば、山尾氏の立論のご都合主義と偽善は、その玉虫色のトーンと相俟ってしばらくは様子見するに越したことはない。
篠田さんは例外だとして、山尾氏に限らず、政治家は学者ほど気楽な商売ではない。有能であれば常在戦場だし、生存競争の渦中だからだ。
どうか瞋恚を諫め、真意を託せる政治家を見つけてほしいし、そのうち出庵の要請があるやもしれない。贅言と知りつつ敢えて直言すれば、焦慮は禁物だ。
「羹に懲りて膾を吹く」の譬えもあるように、ヒトラーの『わが闘争』を禁書にした戦後ドイツの「戦う民主主義」の標榜も、よく考えれば、習近平体制下の中国共産党政権並みに民主主義の根幹をなす「自由」への熟慮を欠いた、見え透いた周到な政治的ご都合主義が支配する、真の自由人にとっては風通しの悪い体制だろう。
「非ナチス化」という戦後ドイツの国是は、先の大戦を引き起こした政治思想、指導理念への訣別の誓いであり、さまざまな事情と思惑からそれに「騙され」、挙げ句の果てにユダヤ人大量殺戮という歴史上、空前絶後の犯罪に加担する結果になった、各種のナチス関連「法に従わざるを得なかった」国民の深甚な反省と悔悟の当然の表明なのだろう。
同時に、欧州大陸の中原の工業国家として生存を確保するための否応なしの政治的、外交的選択であって、「背に腹は代えられない」事情があっただけの話だ。
そこにあるのは、真の意味での自由や正義を重視する民主義的な価値観への信奉とは異なる。政治的、経済的実利を優先した、偽善的で必然的な政治的選択にすぎない。戦後の冷戦構造がそれを後押しした側面も大きい。ドイツと朝鮮半島はその最前線だった。
同じヴェルサイユ=ワシントン体制に反逆し、一敗地にまみれた両国であっても、旧領土の朝鮮を手放した結果、幸運にも戦争の惨禍を免れたうえに経済復興への飛躍台として抜け目なく利用した日本と、共産主義ファシズムというソ連の脅威に直接さらされたドイツとの危機感の差が、カ氏には容易に呑み込めぬらしい彼我の安全保障政策、憲法(基本法)上の対応の違いを生み出したのであって、疑問の入り込む余地がない。
しかも、戦後長らく「朝日」や進歩主義陣営の安全保障観である非武装中立、全方位外交を支持していたらしいから、西独留学で遅きに失した迷妄が覚めるまで、それと対蹠的な政策を推進した吉田茂や岸信介、敬愛する佐藤栄作らへの、岸を除いた無類の支持、信頼との折り合いを自らどうつけていたのか、得と弁明でも聞きたいものだ。
ドイツに限らず、そこには戦後の日本人特有の甘えがある。戦前と戦後とで一貫して変わらない。昨今の野党勢力の児戯に等しい対応を観察していると、政府=お上への反撥は却ってその根深いお上依存体質にあることが透けて見える。
片や、ヴァイツゼッカー大統領演説は政治的欺瞞と偽善の産物にすぎない「政治的構築物」ではあっても、見苦しい理屈なりによく練られており、思想的脆弱性を抱えるわが日本より役者が一枚違うようだ。
それは、それぞれ難点を抱えつつ強靭な思考の申し子であるカントやヘーゲル、ニーチェやハイデガーを生んだ哲学的伝統をもつドイツと近代日本の違いであり、彼我の置かれた歴史的、地政学的状況が異なるためで、「欧州の一員」として大陸の中原に生存を維持しなくてはならないキリスト教国家特有の気質と、極東の穏和な島国気質の違いかもしれない。
いずれにしても、我々は政治的にはみな偽善の塊であって、問題は偽善を免れるための認識と作法だ。‘naiv’な理想主義の迷妄に堕して判断を誤らないために、現実を直視し見抜く知性を磨く必要がある。
「無学の女王」カ氏こそ、格好の「反面教師」たる所以だ。
私は、大学時代法学部でもなかったし、職業として、法律家にも、行政官にも興味がなかったので、一般教養として「日本国憲法」の単位は取ったが、熱心に「憲法学」を勉強しなかった。そんな私でも、マスコミの影響で、日本国憲法9条は「非武装中立」を定めた法律である、と思っていたのだから、司法試験や行政官試験を受けた人は、その分野で高得点をあげなければならなかったのだから、熱心に勉強をし、その刷り込みがもっと激しいのではないのだろうか?
国会で憲法改正(日本国憲法制定)を審議した「憲法改正小委員会」の委員長であった芦田均は、次のように書いていた。「第九条の規定が戦争と武力行使と武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合であつて、これを実際の場合に適用すれば、侵略戦争といふことになる。従って自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたのではない。又侵略に対して制裁を加へる場合の戦争も、この条文の適用以外である。と。
本来、これが正しいのである。その為に、それを知った時、「真理の翼の羽ばたき」に老女の瞳は輝き、興奮したのであるが、大事なのは、「真理の探究」である。言い換えるなら、今まで、日本国民は、東大系憲法学者によって、虚妄を信じさせられていたのである。真相を「主権をもつ日本国民」が知って初めて、民主制の元、「正しい判断」ができるのだと、私は思う。
憲法学界の淘汰というのは過激かもしれないが、上記の水島氏は(著書のなかで)「憲法9条では戦力や軍隊は不保持とされているのだから自衛隊は解体して自衛隊法なども廃止する。いったん自衛隊を解散させた後に災害救助等に活用すべきである」といった事を主張している。もちろん思想の自由はあるだろうが、これでは国民の安全保障に身命を賭して国内や国際社会で昼夜活動している自衛隊の存立基盤自体が危ういのである。
https://news.yahoo.co.jp/byline/minaminoshigeru/20140304-00033189/
重要なのは「個別的自衛権であれば合憲」、「集団的自衛権であれば違憲」といった国際法上の定義に左右される議論ではなく、日本国憲法9条で許容される行為がいかなるものなのかを議論することかと思います。
【集団的自衛権解釈の再考と日本国憲法】参照
http://rdarc.rds.toyo.ac.jp/webdav/frds/public/kiyou/0708/tiiki/0803/nisikawa.pdf
「学説においては、集団的自衛権の概念を広く解し、武力行使に狭く限定せず、武力行使以外の他国に対する協力支援行為もこの概念に含ましめる立場もあるが、通説及び政府解釈が示すように自衛権概念の中核は武力の行使にあり、他の権利行使でも説明がつく非武力的な行為を敢えて集団的自衛権の概念で議論する意義は乏しい。」
「集団的自衛権の行使とは「国家による実力(武力)の行使」と解するから、政府は情報の提供や交換、共同訓練への参加、経費負担等は集団的自衛権に抵触する行為には該らずとの立場を取っている。」
戦後の日本の行動を厳密に振り返ると、史実は上記に反しています。少なくとも、一度、「他国に行ってこれを守る」ことを実行している。
朝鮮戦争における海上保安庁掃海隊の派遣がそれであって、日本掃海隊は国連軍の上陸作戦と一体となってこれを支援しています。
間違いなく、集団的自衛権の行使です。戦後の日本は、集団的自衛権を行使済みです。
下記の政府見解で、GHQ占領下の当時の日本が憲法違反をしていたことを認めているようです。
「お尋ねについては、昭和二十九年三月二十七日の衆議院外務委員会において下田武三外務省条約局長(当時)が「日本は憲法違反をもつてこれを争い得ない地位にあつたわけであります。・・・連合国最高司令官の命令が、憲法を含むあらゆる日本の法律に優先しておつたわけであります。」と答弁し、また、平成三年四月十八日の参議院内閣委員会において大森政輔内閣法制局第一部長(当時)が「我が国が当時連合国の管理下にあったということでございまして、我が国としてはこの指令に従わざるを得ない法的状況にあったということであろうと思います。」と答弁したとおりである。」
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/189/touh/t189175.htm
このような答弁とは別に、朝鮮戦争当時、我が国が主権国家であったことを忘れてはなりません。戦艦ミズーリ上で連合国との間で調印された降伏文書においては、日本国政府と天皇は連合軍総司令官の「制限の下」に置かれると記述されています。日本国は主権国家のまま降伏し、その政体を維持したまま、ただ制限を受けたに過ぎない法的状態で占領統治を受けたのです。従わざるを得なかった状況にあろうと、主権国家であるまま派遣を行ったのは疑いなく、派遣の法的効果は我が国に属します。GHQにではなく。
水島朝穂は、日本の国家・国民の生存や安全に全く無関心な人物ですので、このようなことを指摘しても、何も感じないでしょう。
水島を含む日本の憲法学者の大半は、日本国憲法解釈業者であり、日本国憲法真理教の出家信者です。憲法、特に9条を崇め奉ることを既得権益とする売文業者であって、カルト宗教の徒そのものです。
もっとも、だからといって、占領統治下の日本が国際法上の「主権国家」と評価できるかというと疑問があります。
更に重要なのは、かかる集団的自衛権の行使が、我が国の主権の回復を早めこそすれ、決して国家国民の不幸にはつながらなかったということです。集団的自衛権の行使が、国家国民の利益にかなう実例があるということで、集団的自衛権の行使を違憲とする護憲派の主張は、根拠を失います。
また、朝鮮戦争時の日本の掃海隊派遣の国際法上の性質は、米国に対する「集団的自衛権」の行使ではありません。米国は、朝鮮戦争の際、北朝鮮に対して自衛権行使をしていたわけではなく、集団安全保障を行う「国連軍」に参加していたのです。国連憲章が予定する本来の国連軍ではないという批判はありますが、集団的自衛権行使ではなく国連安保理決議を根拠とする武力行為とすれば「集団安全保障」と法的性質決定するのが適当です。
「集団安全保障」として行われた「国連軍」の掃海活動に協力したものです(下記参照)。
http://www.ndl.go.jp/jp/diet/publication/issue/0453.pdf
「朝鮮国連軍の任務は、北朝鮮からの武力攻撃を撃退し、その地域の平和と安全を回復するための必要な援助を大韓民国に与えることであった。安保理は、朝鮮での軍事行動の指揮権を韓国援助のイニシアティブをとった米国に委ねることにし、決議で米国軍に統一司令部の司令官の任命を要請し、他の加盟国に対してその軍隊を「合衆国の下にある統一司令部に提供することを勧告」(外務省による邦訳)した。」
http://www.mod.go.jp/msdf/mf/other/history/img/002.pdf
「朝鮮戦争に於ける日本の掃海活動は、国連軍の作戦監督下で行われた。」
http://www.mod.go.jp/msdf/mf/other/history/img/004.pdf
「 9 日には、吉田総理から特別掃海隊全般宛、「我が国の平和と独立のため、日本政府として国連軍の朝鮮水域に於ける掃海作業に協力する」旨の電報が届けられ、10 日元山着、翌日から掃海作業に着手している。」
(誤)米国に対する「集団的自衛権」の行使
(正)米国を被援助国とする「集団的自衛権」の行使
なお、降伏文書の文言を見ると、
http://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/docs/19450902.O1J.html
「天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス 」
とあり、連合国は明文によって日本国家の主権の存続を認め、ただ制限するに留まることを示しています。
ドイツのように国家主権が喪失した状態に置かれたなら、統治の権限が消滅しますが、日本の降伏文書は明らかに違っております。
→初めて聞く珍説です。
「朝鮮国連軍は,1950年6月25日の朝鮮戦争の勃発に伴い,同月27日の国連安保理決議第83号及び7月7日の同決議第84号に基づき,「武力攻撃を撃退し,かつ,この地域における国際の平和と安全を回復する」ことを目的として7月に創設され」ました。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/na/fa/page23_001541.html
確かに特別協定は締結されていないという意味で国連憲章が予定する本来の軍事的措置ではありませんが、国連安保理決議に基づく国際の平和と安全を回復するための集団安全保障である点に異論はなく、「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間」(国連憲章51条)に暫定的に行う自衛の措置とは異なります。
https://kotobank.jp/word/集団安全保障-77176
http://www.rengo-hokkaido.gr.jp/archive/2009/siryou/rengo_const_3.htm
占領下の日本の統治権が制限されたという事実自体に異議があるわけではありません。「一般に、国際法上、主権とは、国家が自国の領域において有する他の権力に従属することのない最高の統治権のことをいい、国家の基本的地位を表す権利を意味する」ので、統治権を制限された占領下の日本は「他の権力に従属することのない最高の統治権」を有しておらず「主権国家」とは言えないという趣旨です。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b183039.htm
集団的自衛権的な側面があることを否定するものではありませんが、下記に引用のとおり、やはり、国連決議以降の軍事行動は、「集団安全保障」として捉えるのが国際法的に一致した見方ではないかと思います。
「在日米軍は、この決議より前に、集団的自衛権に基づき、朝鮮半島で南支援に従事していたから、一連の理事会決議は、この自衛権の正当性を追認し、以後の米軍行動を国連の集団的措置に切り替える機能を果たしたのである。」(国際法講義(新版増補)<有斐閣大学双書>438頁)
ならば、議論はそこで終わりでしょう。
もし、「制限の下」が主権の喪失を意味するなら、現行憲法は、やはり民定憲法ではなく、マッカーサー欽定憲法ということです。降伏を決定する段階でポツダム宣言の「subject to」を「服従する」と訳した陸軍と、「制限する」と訳した外務省との間に深刻な意見の相違がありましたが、何の意味もなかったということになります。その意味で、引用の答弁書は史実に対する逃げがあると言わなければなりません。
占領下の日本の主権の有無や日本国憲法が民定憲法といえるかについては、篠田先生の下記のブログ記事が参考になります。
http://blog.livedoor.jp/masaoka2010/archives/12354448.html
(引用始)
日本国憲法が審議された時代、わが国民は主権を有したわけではない。わが国民はわが政府を通じてGHQの支配に服する状態にあったのだ(いわゆる間接支配)。それ故、わが国民はGHQによって検閲をされても公職を追放されても服従するより外になかったのだ。わが国が主権を回復し、わが国民が主権者となったのは昭和27年のことである。
「国民主権主義に基づき、国民が直接にまたは代表者をつうじて間接に制定した憲法」が民定憲法であれば、日本国憲法が制定された時期とわが国および我が国民が主権を有するようになった時について無視してはならない。被占領国家では占領者が最高権力者であって、被占領者に真の主権などあり得なかったし、真の主権者など存在しなかったのだ。主権を持たなかった国民が自由な思想や言論の下で制定したわけではない日本国憲法は真の民定憲法とはいえないのだ。
(引用終)
(誤)篠田先生の下記のブログ記事
(正)下記のブログ記事
「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび」
もし、降伏文書調印からサンフランシスコ講和条約発効までの間、我が国に主権が存在しないとすれば、それは昭和天皇が嘘を吐かれたことになります。主権の存在しない国においては、「国民の総意」が集められることは事実上あり得ないからです。「制限の下」とは、制限されつつも主権は存続したと、国際法上は解釈されなければなりません。
>下記の政府見解で、GHQ占領下の当時の日本が憲法違反をしていたことを認めているようです。
上記の政府見解は、日本国憲法の条文も、国連憲章も読んでいない人物が書いたものと考えざるを得ません。
日本国憲法9条が禁じた武力行使等は「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と条文にある通り、「国際紛争を解決する手段」という地位を有するものに限定されています。逆に、国際紛争を解決する目的を有さない武力行使等は、憲法の禁ずるところではありません。
しかるに、同様に国連憲章も、武力による国際紛争の解決は禁ずるところであり、その例外として許される武力行使等が、個別的自衛権・集団的自衛権の行使及び集団安全保障の3要領です。
もし、朝鮮戦争における掃海隊派遣が憲法違反であれば、それは当該派遣が「国際紛争を解決する手段」であったことを意味し、同時に国連憲章違反である、つまり同時に協力した朝鮮国連軍の行動も国連憲章違反であることを意味します。
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/3664/1/horitsuronso_24_1-2_116.pdf
憲法違反という政府見解は、憲法9条1項違反という趣旨ではなく、憲法9条2項(あるいは2項を含む憲法9条全体)に反するという趣旨と思われます。つまり、憲法9条1項は侵略戦争を禁止したもので自衛戦争及び制裁戦争を放棄したものではなく、物的手段としての戦力不保持と法的手段としての交戦権を否認する憲法9条2項の結果として全ての戦争が放棄されたという解釈です(政府解釈では、必要最小限度の自衛権行使は許されますが、「自衛戦争」は禁止されているという前提かと思います)。もちろん、このような政府解釈は、篠田先生の解釈や芦田修正説とは異なる解釈となりますが・・・
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/anzenhosyou2/dai5/siryou.pdf
それでは第1項と第2項の意味に食い違いが発生して、立法技術的に稚拙ということになります(実際、GHQは1週間のやっつけ仕事で起案したのですから、結果として稚拙で当然ですが)。
第1項で、放棄する戦争や武力行使等を「国際紛争を解決する手段」の地位を有するものに限定するという条文の趣旨を、第2項でひっくり返すとすれば、稚拙というより矛盾です。第1項の趣旨を生かすためには、第2項で自衛戦争を遂行できるだけの実効ある手段を放棄の対象から外さなければなりません。つまり、保持しないとする「陸海空軍その他の戦力」には、自衛戦争を遂行するに足る実力たる「自衛力」を、含めないとすることです。このように解釈すれば、第1項と第2項の矛盾は解消されます。
私は護憲派でなく、改憲派です。マッカーサー欽定憲法を捨てて、我が国の主権を完全な形で保持する状態で、本当の憲法を持たなければならないと考えております。しかし、現時点で日本国憲法が存在するからには、現状に支障のない解釈を最大限求めなければならないとも考えております。
によれば、
「限定放棄説の法解釈に対しては、戦力不保持を定めた9条2項の存在理由がなくなるもしくは極めて不明確になるとの批判があり、また、自衛戦争のための「戦力」と侵略戦争のための「戦力」を区別しうるのか、あるいは自衛戦力の保持が可能であるとすれば軍隊の設置や戦争の遂行についての規定が憲法に規定されていて然るべきはずであるといった批判があります。」
とあります。
結局、いずれの学説(峻別不能(1項全面放棄)説、遂行不能(2項全面放棄)説、限定放棄説)についても一長一短なところがあり、その原因は立法技術的に瑕疵のある9条自体にあり、憲法改正が急務です。
なお、上記引用のウィキペディアによれば、
「政府見解は憲法制定時より憲法9条第1項では自衛戦争は放棄されていないが、第2項の戦力不保持と交戦権の否認の結果として全ての戦争が放棄されているとする遂行不能説に立ちつつ、交戦権を伴う自衛戦争と自衛権に基づく自衛行動とは異なる概念であるとし、このうち自衛権に基づく自衛行動については憲法上許容されているとの解釈のもと、その自衛行動のための「戦力」に至らない程度の実力についてのみ保持しうるとしている。」
とあり、遂行不能説に立った上で「自衛力」を肯定しています。
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