安田純平氏が記者会見を開いた。安田氏についてブログ記事を書いた直後だったので、http://agora-web.jp/archives/2035452-2.html 私も会見の内容を見てみた。いくつか興味深い点があった。
私が「三つの謎」とブログで書いたことのうち、一つ目の拘束の目的に関する謎については、示唆があった。 やはり政治的主張や経済的利潤が当初の拘束の目的ではなかったようで、スパイの疑いも持たれたうえ身柄を拘束され、一か月してから初めて「正式に人質であると言われ」たことが、語られた。
安田氏は、自分が拘束されていた場所が「ジャバル・ザウイーヤ」であることを聞いていた。これによってかねてから言われていたとおり、拘束場所が反政府勢力の最後の砦となっているイドリブ周辺地域であることが、確かになった。
安田氏を拘束した勢力は「新興」アル・カイダ系勢力の「フッラース・アル・ディーン」だといった話があったが、安田氏の証言から、その可能性が高まった。リーダーの様子や、トルキスタン部隊との関係についても、明らかになった。トルキスタンとは、新疆ウイグル系の人々の存在を意味する。ちなみに中国政府は、シリア領内のウイグル系の勢力の除去に動いており、アサド政権を強く支援している。安田氏の発言の詳細に、中国政府も注目していることだろう。
驚いたのは、安田氏が、シリアに入国してすぐに拘束された経緯だ。武装勢力系の有力者に身をゆだねるような画策をして武装勢力に拘束された安田氏の経験には、目を見張る。
どのような人々が反政府武装勢力の中で戦っているか知りたかった、と言う安田氏の取材の目的は、単なる戦地の取材ではない。いわば武装勢力の構成員の身辺調査だ。戦争被害の現場を見るといったレベルの戦地の取材とは、次元が違う。スパイだと疑われても仕方がない。
おそらくフリージャーナリストとしての境遇では、本当の大々的な準備を要する戦地取材は、できない。少なくとも国際的な競争に耐えられるような取材はできない。そこでフリージャーナリストは、武装勢力内部への潜伏取材のような行為に及ぶのではないか。
いわゆる自己責任論では、フリージャーナリストがこうした危険な取材をすることの是非が議論されたようだ。安田氏は、自らの自己責任について肯定をする発言をして、お詫びと感謝の念を表明した。
違和感を抱くのは、自己責任論を批判する人々が、実際には日本政府の怠慢を批判するだけであったことだ。政府は、渡航制限をかけ、情報収集を怠らないという、邦人保護の面での努力は払った。
何もしていないのは、フリージャーナリストが危険極まりない形でシリアに入っているのに何も組織的な支援をせず、ただ後で情報を買おうとしているだけの人々なのではないか。そしてフリージャーナリストが拘束されると、ただ日本政府批判だけを繰り返して、手ごろな日本国内の論争をけしかけて何かやっている気分にだけなる人々なのではないか。
今さら安田氏を非難するのは、気乗りしない。日本政府を批判することも、違う、という気がする。
安田氏拘束事件の教訓として問題視すべきは、フリージャーナリストにだけ危険な取材をさせ、あとは日本政府の批判をすることだけで何かしているような気持になっている人々の存在なのではないか。
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今回の安田純平氏の拘束や解放劇、自己責任論をめぐるメディアの論調の不毛というか、喧しい割には議論が一向に成熟しない理由は、メディア人なら誰でも胸に手を当ててみれば思い当たることで、平和主義とか人命最優先で手を拱いていては、所詮足手まといになるだけで、紛争地報道など十年早い、ということだ。
資金も人材も自ずと限界があるフリーランスという立場の半素人集団に頼らざるを得ないのは、彼らが同胞、つまり日本人初の情報発信を期待できるからだろう。歴史的に多くの移民や難民を受け入れ、現地に人脈も情報網も豊富な欧米各国のメディアに比べ、特段の優位性を欠く日本人ジャーナリストが歓迎され、人畜無害とお客様扱いされ、お土産を期待できる時代ではなくなった。研究者のフィールドワークにも劣るジャーナリストの個人技や使命感で、何らかの戦場の真実に際会できると浅慮すること自体が幻想にすぎない。
安田氏が一山当てようと功を焦った訳ではなさそうだが、本人も「凡ミス」と認めざるを得ないように、取材仲介者の問題を含め、見通しが甘すぎた。そして、それを安易に許し、自らの憐むべき体たらくを糊塗して愧じる気配もない大手メディアの欺瞞に満ちた自己認識こそ、唾棄すべき退嬰化だと私の目には映る。今回の記者会見そのものが茶番に見える。
いつまでこの程度のお粗末な「田舎芝居」を続けるつもりか、と。日本人の命だけが特別視されなくてはならない理由がどこにあるのか、と。
「人命優先」は当たり前であるが、不可抗力も起こりうる。それは、民間人も、Jicaで仕事をしている人も同じである。外国のジャーナリストは、「自分の使命」がよくわかっているから、リスクを意識しながら、真実を報道するために仕事をしているのではないのか、と私は思う。
では、さほど人脈も装備も警備もない日本のフリージャーナリストに(「危険手当」ということなのか)多額の報酬を日本メディアがだすということはどういうことなのだろうか。そこがしっくり来なかったが、篠田氏の解説を読んで違和感は強くなった。
また取材対象として、一定の地歩を固めた政治勢力と追い詰められて孤立した政治勢力があるが、前者の場合は、一方的な情報を植え付けられてただの広報マンになってしまうことが多いし、後者は窮地にたっている相手なので何をされるかわからない。取材方法は難しいだろうが、現地に乗り込んで一編の写真でもとればそれが大きな貢献と考えているのかもしれない。(ただそれも微妙だ。「現地の写真はネットで出回る時代になった。シリアの東グータの少年もツイートで写真をアップしたではないか」というのは言い過ぎなのだろうか・・)
戦後日本のマスコミは、GHQが日本を占領しやすくするための下請けであり、道具に過ぎなかった。そこから発祥しているが、看板だけは戦前から引きついでいるせいか、大衆を先導する義務があると思い込んでおり、プライドだけはひときわ高い。
渡瀬裕哉氏が「インテリンチ(インテリの大衆へのリンチ)」という言葉をつくられたそうだが、マスコミのインテリンチこそが集団洗脳のようなやり方でくるので極めて悪質である。特に日本マスコミは、かつての銀行業界のようにシンジケートを組んだ護送船団方式であり、記者クラブや電波行政のもとで君臨しているため、異様に害が大きい。
でも彼らにとっては、お得意さんであるお年寄りにどう見せるかというのが一番の関心事である。そうすれば「ジャーナリストってすごいねー」という自画自賛の論点しか残らなくなり、結局は「俺たちジャーナリストはどこまで自己責任を背負ってこの崇高な職務を全うすべきなのか」という(仰々しい自己責任論を大きな見出しにして)自己演出をやるくらいしか他に手がないのである。
覚めている人々は「マスコミ。ばっかじゃないの」とさらに冷たい視線をあびせているが、彼らにとってはそんなものは眼中にない。使命感にまいあがって、ますます没落の道を転げ落ちるというわけである。
あれを知れば、安田氏はどういう人物かわかるはずだ。屈折したジャーナリスト(もっといえば自称ジャーナリスト)だとわかるはずだ。いくら公平そうな記事を他で書いていてもお里が知れるというものだ。ところが、意図的に巨大マスコミは隠蔽した。マスコミの手先として彼を利用したいがために「自己責任論」のような空虚な論点ずらしで、偶像化しようとしたのではないか。
例えば、ベトナム戦争、日本にいた私たちは、マスコミ報道の結果、アメリカ軍が一方的に悪い、撤退して、ベトナムの人々にとってよかった、という印象をもったが、西ドイツに移民した南ベトナム出身者からは、そうとばかりは言えない、事実を色々きかされた。また、今日のサンデーモーニングで、世界が右傾化している、ということが脅威のように報じられ、右翼が政権を握ると、思想弾圧され、自由がなくなるように報道され、たしかに、日本の戦前はそうであったが、東西の壁のあった頃の左翼政権の東ドイツでは思想統制があり、秘密警察がいて、彼らに目をつけられたらアウトだし、60歳以下の人びとには、旅行の自由もなかった。西側の学生は、プラハに行けたが、東側の学生はパリには行けなかったのである。本来、その両方を報道してはじめて客観的な報道になる、と思う。
外国人労働者の問題についても言えるが、影響力の大きい日本のマスコミの人には、世界の現実をよく知った上で、発言してほしい。
ドイツ語はいざ知らず、まともに日本文が読めず、粗笨な読解に基づく、充分論証されざる誤謬だらけの妄説を本コメント欄で撒き散らすしか能がない「無学の女王=マダム瑕疵」(カ氏)のような老媼には見えない風景がある、ということである。
戦後になって、カ氏が敬愛する元「毎日」記者で卓越したジャーナリストらしい楠山義太郎氏が、何も知らないカ氏に向かって、陸軍大学入試を二度続けて落ちた東條英樹を称して、東條が「トップの成績」などといい加減なことを口走っていたとカ氏が書いているのをみて、困ったものだと思ったものだが、実際に取材もしないで周囲の東條嫌いの悪口を真に受けた楠山氏のお目出度たさ(旧加賀藩主=前田家当主の侯爵で陸軍軍人の前田利為は、東條を「頭が悪く先の見えない男」と評したのは有名)といい、大手メディアには影響力の大きさに伴う組織人特有の特権意識が根強く(エリート意識の源泉)、「看板」を外せば、ただの凡庸な市民というのが至当な評価だと、身体感覚で思う。
メディアはよく世論を操作するとして批判されるが、制度化されたメディア自身がまた権力機構の操作対象であることを見落とした議論は、一知半解の典型だろう。自由と民主主義を掲げる法治国家として、わが国にもメディアが存在する以上、国民の水準以上のメディアなど望みようもないし、生まれようもない。
メディア批判の趣旨は了として、そこには民主制自体を自ら突き崩す落とし穴が潜むことを知らなくてはならない。メディアが洗脳できる範囲と程度など、たかが知れている。ナチスとオーバーラップさせたカ氏の戦前のメディア認識は誇大妄想にすぎない。
そこで1で述べた雑感めいた総論ではどうも伝わりにくいと判断したので、篠田さんの問題提起の一部に応え、少々縷説する。
今回の安田純平氏の拘束や解放劇、自己責任論をめぐるメディアの論調の不毛というか、喧しい割には議論が一向に成熟せず、問題の外縁をめぐって堂々巡りを繰り返し、異なる立場、平和観(戦争観)、安全保障観をめぐる擬似イデオロギー(虚偽意識性)対立の陣取り合戦に終始している理由は自ずと明らかで、メディア人なら誰でも胸に手を当ててみれば思い当たることであり、憲法九条に基づく平和主義とか人命最優先で手を拱いていては、所詮足手まといになるだけで、紛争地報道など十年、いや二十年早い、ということだ。
資金も人材も自ずと限界があるフリーランスという立場の半素人集団に頼らざるを得ないのは、彼らが同胞、つまり日本人「発」の情報発信を期待できるからだろう。身も蓋もない侘しい現実ではあるが、単独行動にそれ以外の取り柄はないし、可能性も限られている。
酷な言い方をするなら、奇妙で不条理な「ぬるま湯」に生存していた。それでもいつ訪れるか分からない極限状況の中で安田氏自身、もはやジャーナリストではない、ジャーナリストという美名(κάλλος)=使命をかなぐり捨てて一個の生存と安寧を願うちっぽけな魂でしかなかった、ということだろう。
安田氏自身がそれを最も痛切に自覚しているはずで、今後、今回の特異な経験をどう生かすかが、問われよう。批判はそれからでも遅くない。
従来のように、「人畜無害」(「腰抜け」の異名)とお客様扱いされ、あわよくば、お土産(瑣末な「情報」という名の感傷的な事実らしきものの断片)を期待できる時代状況ではなくなった。SNSで虚実取り混ぜて様々な情報が交錯する現代のメディア環境で、単なる古風な、昔堅気の現場主義は再検証されてよい。私が繰り返し指摘するように、人は現場で現実に容易に出会う=向き合うことは難しいのだ。
哲学的に、というか問題を原理的に考察するなら、不断の生成過程にあり転変極まりない現実(τὸ γιγνόμενον)を、自己にとって最も確実な(「現にあるもの」=παρὸν πάθος)としての現実(ἔργον γιγνόμενον=Wirklichkeit)」と便宜的に措定するとして、この「自己にとって最も確実な対象である「事態」(=事実、tatsachen=facts)」を真の現実=真相と取り違える危険性か常につきまとう、ということだ。
人はたやすく現実を、現実の単なる影像(虚像=εἴδωλον)である幻影(φάντασις)と読み違え、虚偽や虚構(μῦθος)、極端な場合、希望(ἐλπίς)や理想(παράδειγμα)、イデア(ἰδεα, εἶδος)が真実の姿だと取り違えることさえある。
結局、見せかけの現実に欺かれないために、より広い総観的視野(σύνοψις)、問題意識と研ぎ澄まされた論理感覚、直観力により事態を正確に捉えることしかない。
歴史上、ものごとの最も原理的な考察を担ってきた哲学に限らず、それは学問を離れてジャーナリストにとっても歴史家にとっても最も肝心な心掛けだ、ということだ。
それは同時に、ロゴス(λόγος)の重圧に耐えきれない、パトス(πάθος)偏重の偏狭な思考、論理の当然の帰結であって、カ氏が激しく批判してやまない知識人=現代の「ソフィスト」(Σοφιστής)やメディアによって繰り返される現実認識を欠くが故の時局認識、状況判断の過誤という悲喜劇に重なる。
如何にも迂遠な考察にみえるかもしれないが、有能なジャーナリストならそれを瞬時に実行している、ということだ。そのために、事前の息の長い準備期間があり、蓄積された知見がものをいう訳で、人生は一瞬たりとも無駄にできない。カ氏のようにわざわざ東独に行かなくても、現実は認識できるのだ。むしろ、現場は事前に突き詰めた認識と事態との差異を確認するためにこそ必要で、「発見」と見えたものは、真の識者にはどこか既視感(‘déjà vu’)が漂うものだ。
「本書はおそらく、ここに表明されている思考を――ないしそれに相似した思考――をすでに自ら一度は考えたことのある人だけに理解されるだろう」(‘Dieses Buch wird vielleicht nur der verstehen, der die Gedanken, die darin ausgedrückt sind―oder doch ähnliche Gedanken―schon selbst einmal gedacht hat.’=Routledge & Kegan Paul., 1971, p. 2)と書いたのと同じ文脈だ。
人は同じ対象、現実を見ているようで、実際は見ていない。そこには経験と学識の差があり、実態は現実に「幻惑される」場合も少なくない。現地取材の他愛なさがそこにある。安田氏はその典型かどうか、即断は慎むが、その観察眼が本物かどうかは、今後次第に明らかになろう。
ただ、安田氏にとって幸か不幸か、たぶん幸いなのは、大手メディア人の大半のような現実という名の空理空論(ἀδολεσχία)から解放されたことだろう。そこで開けてきた地平をどう今後の活動に生かすか、ということだろう。
「民主主義を擁護」するため、ジャーナリストの使命として、多くのメディア人が「必ず腐敗する」と信じて疑う気配もない政治を監視するというお題目について言えば、政治は権力の所在(存在)より、運用過程(機能)が重要だと考える私には、同じ日本人、戦前だろうと戦後だろうと、そう変わる訳はないと観念している。
戦後の日本人を良くも悪くも支配した日本国憲法は美名であって、護憲派改憲派を問わず、日本人の思想的脆弱性も手伝って、真の政治的現実に日本人は向き合ってこなかった、というのが、32歳で出遅れて出立した、当時は「新米記者」にすぎなかった時代から私の変わらぬ信念であった。
安田氏をめぐる凡庸な争論は、戦後の日本および日本人の自画像そのものであって、それを政府批判に転嫁している大手メディアの姿勢は戯画というほかない。
ΜΗΛ:Χαλεπὸν μὲν καὶ ἡμεῖς (εὖ ἴστε) νομίζομεν πρὸς δύναμίν τε τὴν ὑμετέραν καὶ τὴν τύχην, εἰ μὴ ἀπὸ τοῦ ἴσου ἔσται, ἀγωνίζεσθαι· ὅμως δὲ πιστεύομεν τῇ μὲν τύχῃ ἐκ τοῦ θείου μὴ ἐλασσώσεσθαι, ὅτι ὅσιοι πρὸς οὐ δικαίους ἱστάμεθα, τῆς δὲ δυνάμεως τῷ ἐλλείποντι τὴν Λακεδαιμονίων ἡμῖν ξυμμαχίαν προσέσεσθαι, ἀνάγκην ἔχουσαν, καὶ εἰ μή του ἄλλου, τῆς γε ξυγγενείας ἕνεκα καὶ αἰσχύνῃ βοηθεῖν. καὶ οὐ παντάπασιν οὕτως ἀλόγως θρασυνόμεθα.〔Θουκυδίδης;Ἱστορίαι, Ε.104.〕
メーロス委員団「諸君もよく知っているように、諸君の兵力と幸運の前には、同じような兵力と幸運に恵まれない限り、到底対抗できないことを知っている。しかし、我々は清廉潔白で不義に直面しているのだから,天佑の有無に関しては諸君に劣るとは感じていない。また、我々の軍兵の不足は,盟邦であるラケダイモーン人が補ってくれると信じる。つまり、ラケダイモーン人は我々が彼らと同じ系族である誼と廉恥心から、何を措いても必ず我々を救援すべき立場だからだ。希望には根拠があり、我々の大胆さには理屈が通っている」(『歴史』5巻104節)
周知のようにメーロスは国運を希望に託して滅ぶ。[完]
あの時にも書いたことであるが、楠山義太郎さんが言われたのは、「東条英機は、陸軍大学をトップででたそう(伝聞とはっきりわかる表現)だが、単純な男でね。」なのであって、力点は、トップで卒業したということではなくて、いくらトップで卒業しても、単純な男は、日本のかじ取りはできない、だから、日本をおかしな方向に導いたのだ、ということを言われたかったと私は、解釈する。反氏にとっては、陸軍大学をトップで出たか、出ないか、が非常に重要なのであって、入試を二度続けて落ちた人を、トップで卒業したかのように他人に言う人は、ジャーナリストに向かない、と解釈されるのだ。私は、学校をトップで出たか、出ないか、入試がトップの成績であったか、などということはどうでもいいし、キャリア官僚の試験でも、各省庁でトップで合格した人が、各省庁の次官になれるわけでもない。要するに、その職業への適性が大事だと考えているので、楠山義太郎さんが、早稲田大学をどのような成績で卒業されたかは全く知らないが、それよりも、リットン調査団のスクープ記事、ルーズベルト大統領との単独会見に成功されていることからみて、国際ジャーナリストの適性を十二分にもっておられた方だと思っている。伯父様の思う方向に、日本の世論を動かせなっただけである。
コメント12の拘束後の比較的早い段階で生命の安全が保証され、安田氏自身、「早く放り出して」もらえると期待する環境下にあった。 酷な言い方をするなら、奇妙で不条理な「ぬるま湯」に生存していた。という反氏の認識も承服しない。日本政府が、身代金を払わない、という姿勢を明白にしてから、安田さんに対する待遇が変わり、暴力や虐待を受けるようになり、安田氏自身、「解放してもらえるかどうか」わからない状況に置かれたのではないのだろうか?要するに、問題は、戦場に侵入する日本人ジャーナリストは、身代金目的で、誘拐される場合があり、日本政府がそれに応じると、日本国民の税金がその為に使われるだけではなくて、その資金が武器購入に使われ、紛争を長引かせ、現地住民の犠牲者が増える、という悪循環に拍車をかけるのである。けれども、身の危険があるから、という理由で、デスクに座り、配信をフリージャーナリストや外国の情報に頼って、説得力をもった報道ができるのか、という問題もある。少なくとも、現在テレビで専門家という肩書で解説されている方々の解説に、私は、納得できることが少ない。
ただ本来、この役目は、戦後、日本国憲法の元、自由に報道することを保証されているジャーナリストの役割ではないのか、と私は主張しているのである。その自由を、日本のマスコミの人は、自民党政権打倒、現在は安倍政権打倒、に使っているのである。
人物評価の問題なのです。
なぜ、小池百合子さん、貴乃花、前川喜平さんが、ヒーロー視され、石原慎太郎さんや浜渦さん、八角理事長や日馬富士、安倍晋三さんが、信用できない人、或いは、悪人であるかのように、評価されるのか、という面を言っているのです。
特に日馬富士は、暴力をふるったことは、本当にいけないことだし、刑法上も罪があることですが、その後の対応は、罪を犯してしまった人間として、立派な態度なのではないのでしょうか?
一見して健康状態は問題なさそうに見えたが、解放から間もないこともあってか、心労は相当のものだろうし、言いたくても言えない部分があることを窺わせる歯切れの悪さ、ぎこちなさの印象が否定できない。
大手メディアが、揚言する割には日常のルーティンワークに忙殺されて見失いがちな「本来そうあるべき」とされる「ジャーナリスト魂」は安田氏の場合も影を潜めていたが、今回の失態というか予期せざるアクシデントに茫然自失して落胆した様子も見えなかった。
そうした渦中の人物をめぐって喧しい、まさに外野席の「自己責任論」など、あまり関心がないように見えた。よく考えれば、「自己責任」問題は、篠田さんも指摘するように、「渡航制限をかけ、情報収集を怠らないという、邦人保護の面での努力は」怠らなかった政府に向けられるのは筋違いで、「フリージャーナリストが危険極まりない形でシリアに入っているのに何も組織的な支援をせず、ただ後で情報を買おうとしているだけ」の大手メディアにこそ向けられるべきで、少なくともメディアはそのことを自覚すべきだという指摘は、正論だろう。
私が一定の留保をつけた上で指摘した12=【奇妙で不条理な「ぬるま湯」に生存】という認識について、カ氏が「承服できない」と異議を唱えている。しかし、繰り返し指摘するなら、安田氏は彼の証言も含めて判断すると、たとえ長期に及んだ拘禁中、極限状態のなかで暴力行為の被害に遭うことはあったとしても「身代金」目的の「ゲスト」=人質であったということだ。
一日二回らしい食事も欠けることはなく(健康状態を維持しているのでも分かる)、拘束場所を十カ所以上も転々としたのは紛争当事者である相手側の事情で、安田氏に選べるはずもないから、それが長期化に加え、生命の安全が保証されてもいつ解放されるか分からない中で、安田氏が心理的に追い詰められ、死さえ願う局面につながったにしても、長期拘禁にはありがちなことで、反政府組織側にも「お荷物」になったのだろう。
解放される際、組織側の人間から、非人道的な虐待などなく、全体として「紳士的な」対応だったと説明してほしいと要請されたという。
そうした拘束状態を、「奇妙で」という形容詞を付したうえで、【不条理な「ぬるま湯」に生存していた】とすることが、学問的議論の上では如何に「殺伐非情で血も涙もない」私であっても、酷薄かどうかは各自が考えればよく、その程度のリスクにたじろぐようでは、ジャーナリストの使命を喋喋しない方がよい、ということだ。
私にとってジャーナリストとは、カ氏が敬愛する「伯父様」=楠山義太郎氏であっても、美名(κάλλος=「カロス」は、ギリシア語で美しく「立派な」という意味)で語られるようなご大層な存在ではなく、所詮は定期刊行物の職業的執筆者、取材者の総体にすぎない。
そもそも、元毎日新聞記者・楠山氏が満州事変に関する国際連盟のリットン調査団の報告書をスクープしたとか、ルーズヴェルト米国大統領と単独会見をしたなどと、如何にも、自覚せざる事大主義者らしいカ氏は所詮は門外漢の悲しさで特筆大書するが、当時の政治状況をみれば、別の見方も可能だ。
それは、戦後の占領下、東大法学部憲法学講座の主宰者であった宮澤俊義が、占領統治を円滑に進めようとするGHQにとってどうしても抑えておかなくてはならない「戦略目標」であり、メディアが戦後の民主的改革の「伝声管」=宣伝媒体としてそうであったように、巧みな間接統治の装置として組み込まれていたということだ。
ジャーナリズムとの関係で言えば、メディアが「民主主義の守護神」のように喧伝され、メディア自身がそれを自認していることは、それ以外に取り柄も拠り処もないという意味では確かに一面の真実だろうが、戦後の帰趨を決した保守政治家の代表的存在である吉田茂と岸信介は、いずれも反共主義者、親米路線の推進者で、吉田に至っては熱烈な天皇主義者、岸は冷徹な政策テクノクラート(革新官僚)であって、民主主義的価値観を少しも奉じてはいないという逆説を想起させる。彼らにとって、国益を保守するために民主主義という美名を利用し、巧みに政敵を繰ったにすぎない。
それは、戦後日本を規定した二大要因である日本国憲法と日米同盟と伴走する役割を二人がリアリストとして自覚的に選び、メディアや進歩主義陣営が理想主義者として、心ならずも選んだという「落差」に通じる。
政治的現実というのは、戦前も戦後もそうしたものである。
なお、東條の成績云々の話は、「戦後」の発言であり、多数の証言を職務柄確認できる立場にいた楠山氏による誤伝であってみれば、「伝聞」で誤魔化せる話ではなく、カ氏の弁明は自殺行為に等しい。[完]
静岡県立大学国際関係学部教授 前坂 俊之さんの「ジャーナリストから見た日米戦争」を読むと、楠山義太郎さんは、一貫して、日本の国際連盟脱退反対、日米開戦反対、だということがわかる。吉田茂さんも同じである。それは、お二人ともが、英国に長く住み、親英派だからである。
反氏の説によれば、吉田に至っては熱烈な天皇主義者であり、民主主義的価値観を少しも奉じてはいないそうであるが、イギリスは、立憲君主国であって、国王もおられるが、同時に民主主義国家なのである。芦田均さんの「新憲法解釈」の引用をなんどもしてきたが、ソヴィエト連邦の政治の背景にある共産主義は、国境も階級もなき労働者の「一つの世界」を理想として描いている、ナチスとファシストの世界観は、優秀な民族による劣等な民族の指導であり、アングロサクソンの共通な理念は、民主主義による国際協調と国家平等の原則を基調とするものである、とあるが、どうして、その違いが、反氏にはいつまでたっても理解できないのだろう。国王がおられること、天皇陛下がおられること、と民主主義は、立憲君主主義の場合は、両立するのである。明治生まれの私の祖父も、吉田茂さん、楠山義太郎さんと同じ思想の持ち主でだった。
どこが、吉田茂さんは、民主主義的価値観を少しも奉じていないのだろう?
67歳で終戦を迎えた吉田茂にとって最大の懸念は、日本でも敗戦による混乱が極度に進行して「革命」に発展することだったという。その結果天皇(制)が廃され、革命政権や共和制に移行することは、「皇室の藩屏」として絶対阻止しなくてはならない、というのが吉田が戦後に政界進出する最大の動機だった。
惨憺たる敗北で終わった戦争は、主導した軍部への憎悪のみならず、政治的指導層の責任追及を招き、権威失墜を不可避にする危機であって、その頂点に位置するのが天皇だった。混乱に乗じて革命を仕掛けたり、別種の意図をもって混乱を画策するのを狙った革命家にとっては、格好の標的だった。敗戦初期は、連合国内部でも、ソ連、シナ、豪などを中心に天皇の戦争責任を問う声があり、米国でも反天皇感情が強かった。
第一次世界大戦後のドイツのヴァイアール体制も、擬似的「革命」による政体の変更だった。吉田や近衛文麿ら宮中政治家はもとより、穏健派、リベラル派も「国體の護持」にこだわったのはそのためだ。迫る憲法改正に向け、絶対に死守しなくてはならない目標だった。
占領体制を主導した米国が占領政策の基本「初期対日方針」(降伏後ニ於ケル米國初期ノ対日方針=SWNCC150/4)に、「米國カ日本ノ國際共産主義ニ依リ蘇聯ノ支配下ニ陥ルコトヲ好マサルヘキハ當然ニシテ本文書ニ於ケルモ「革命」(Revolution)ナル語ハ避ケラレ居ル他蘇聯「エイヂエンシー」(共産黨ニ非ス)ノ暗躍ハ各種口實ヲ設ケ彈壓シ行クヘキハ勿論ナルヘシ」とある。
GHQ側の民主化要求のレベルは吉田の予想を遥かに上回るものだったが、憲法に限れば、「戦争放棄」という九条の規定より国體護持=天皇の存続こそが当時の政府の第一の関心事だった。戦争放棄は、天皇制存続の唯一の政治的選択肢であるとのGHQ草案のメッセージを吉田は読み取り、「臣茂」として耐え難い苦衷を押し殺し呑み込んだ、ということだろう。
戦後の新たな再生への出立に、民主主義を選んだのは、後付けの「正当化の論理」にすぎない。
吉田が憲法改正の国会論議の中で、主権の所在と国體、天皇の象徴性をめぐって「国體は新憲法によって毫も変更せられないのであります」(1946年6月25日、衆議院本会議答弁)と強弁したのもそのためだ。
憲法改正を成し遂げ、一旦政権を離れた後、芦田内閣の崩壊を受け再び政権に復帰、第二次吉田内閣が発足するが、時を同じくして米国国家安全保障会議にG. ケナンの建策で採択された対日新政策(48年10月、NSC13-2)、日本社会の政治的、経済的、思想的脆弱性を危ぶんだ米国側が、所謂「事実上の講和」と呼んだ政策で、日本の早期の国際社会への復帰を躊躇ったうえ、厳しい政策転換を強いた時期、吉田「反動」内閣という謗りをものともせずそれを実施し、遂に「おのれが最善と思う選択が世論に受け入れられるとは限らないのが外交交渉の責任者」であることを熟知した末に51年4月、日米同盟と事実上のセットである講和条約に調印し、独立を回復する。
そこにあるのは一人の有能なリアリストの姿であって、民主主義という美名ではない。
67歳で終戦を迎えた吉田茂にとって最大の懸念は、日本でも敗戦による混乱が極度に進行して「革命」に発展することだったという。そこまでは私も同意する。
第一次世界大戦中に「共産主義」を理想とする革命がロシアでおこり、ソ連はスターリン体制の国になった、ドイツのヴァイアール体制も、擬似的「革命」による政体の変更だった、これも事実だ。ドイツは、第一次世界大戦後、国王のいない共和国性の国になり、当初は、「社会主義」の色合いの強い社会民主党が政権を握り、大統領が大きな権限をもつ、「議会制民主主義の国」だったのである。
吉田茂が恐れたのは、「共産主義」を理想とする革命なのであって、彼は、「民主主義の擁護者」なのである。それは、芦田均も同じである。
吉田茂の敵は、共産主義者、具体的には、「曲学阿世の徒」と名指しされた東京帝国大学の総長を務めた南原繁や、名指しこそしないがその弟子、丸山真男や「八月革命説」の東大法学部憲法学講座の主宰者であった宮澤俊義なのである。また、娘麻生和子さんの書かれた、「父吉田茂」には、吉田茂がマスコミ、特に新聞記者がいかに嫌いであったか、ということも書かれている。そして、吉田茂は、政治家も、外交官も、新聞を利用したり、新聞に利用されたりしてはいけない、という信念をもっておられた、とある。つまり、吉田茂は、近衛文麿、白鳥敏夫、小泉純一郎さん、小池百合子さんのように、マスコミの力を利用して、ということを考えない政治家で、新聞記者に努めなかった政治家なのである。逆にマスコミを利用しようとしたのが、丸山真男さんや宮沢俊義さんだったのではないのだろうか?
要するに、マスコミに努め、マスコミを利用しようとした宮澤解釈を、吉田茂に反発をいだく当時の日本の巨大マスコミが「真実」のように普及させ続けたから、現在の日本国憲法の解釈が「ガラパゴス的解釈」、になってしまったのではないのか、というのが、私の見方である。
大衆は圧倒的な多数派であって、大半の場合、学識にほとんど関心を示さないのは事の本性上当然だから(圧倒的な学識を有する「大衆」も存在するが)、私は「無学」を論難している訳ではない。
むしろ、マダム瑕疵=カ氏のような、自覚されざる圧倒的無知を「常識」、しかも誤謬だらけの俗説の集成でしかない雑識に依拠して、滑稽にもソクラテスを騙り、「無知の知」を僭称しながら、一知半解のナイーヴな憲法観、民主主義観に「精神の惰眠」を貪っているからである。醜悪な知的頽廃そのもので、言うべき言葉を知らない。
カ氏は謂わば、倨傲にも「無学」に居直って、批判的姿勢を欠落させたナイーヴな自らの幻影にすぎない、偏頗で凡庸かつ陳腐であり、退屈極まる価値観に盤踞しているにすぎない。
だから、芦田均を莫迦の一つ覚えのように繰り返すのみで、大日本帝国憲法の改正案に反対した美濃部達吉が「虚偽」(ψεῦδος)と批判した宮澤俊義の「八月革命説」のような日本国憲法にまつわる虚構(μῦθος)が、カ氏のような極端なケースでは、別種の虚構となり、希望(ἐλπίς)や理想(παράδειγμα)と取り違える物語思考に行き着く。
偽善的な宮澤は虚偽の自覚がある分、どんなに欺瞞に満ちていようとも愚鈍に陥る懸念はないが、カ氏は自覚を欠く分、☆鈍そのものである。
カ氏にみられる気儘な日記の一節のような情緒的コメントの背後には、そうした憐れむべき心性にありがちな、一知半解のナイーヴな憲法観、民主主義観がある。社会心理学的な政治意識の分析を施せば、「慷慨型」(indignants)に近似性がある所以だ。
私は別に大衆を軽蔑してはいない。しかし、多数派の論理は政治の論理であって、学問的議論の規準(criterium)ではないということを繰り返しているにすぎない。
カ氏がしばしば繰り返すゲーテの「学問を研究する場合の自分の立場は、哲学から距離をおく、常識の立場」(3日・54)も、「哲学音痴」というしかない、何事にも一家言を有する自意識過剰(大家気取り)の文豪の繰り言であって、哲学とはそうした無批判に受け止められている「常識」の根拠そのものを疑い、批判的に検証する原理的で根源的な思考の営みである。
ヴィトゲンシュタインが晩年の断片で、「哲学者はいかなる観念の共同体の市民でもない、それが将に彼を哲学者にする=‘The Philosopher is not a citizen of any community of Idea, That is what makes him into a Philosopher.’’(from L. Wittgenstein, ‘‘Zettel[1945~1948]’’, 1967.)と書いた。集団的思考を排して何ものにも囚われずにものをみることが真意で、ゲーテのような安直な知恵ではない。
ゲーテの物言いは大方、年下(39歳下)のヘーゲルの盛名への嫉妬心もあるのかもしれない。女々しい限りで、所詮は「文士」だから他愛がない。「女々しさ」は繊細さに通じ、文学者の大切な資質だが、学問には有害だ。
批判の対象であるニュートンの『光学』にみられる、近代科学的分析の手本のような、実験に基づく着実な観察と、数学的分析を全く欠いており、色彩の心理学的分析にみるべき側面があったとしても、その観念性、即ちゲーテが嫌った思弁性が顕著なのは、天に唾する行為の典型だろう。その根底には、パラケルススをはじめとする「汎知学」(‘Pansophie’)と呼ばれる16世紀以来の神秘主義的、擬似宗教的世界観、宇宙観が色濃い。
『色彩論』にみられる、ニュートンに対する罵詈雑言に近い執拗な攻撃(そこに明朗闊達で悠揚たる大家の面影はない)をみる限り、よほど低水準だが、200歳以上年下の極東の島国の盲目的信奉者である「無学の女王」の口吻を髣髴とさせ、滑稽である。まあ、「哲学音痴」同士、勝手にやってもらいたい。
吉田の人物像と戦後の彼を取り巻く状況については、岸信介との関係を含め以前にも書いたので繰り返さない。南原繁を「共産主義者」とするカ氏の無知蒙昧は底がなく、見境がない。ほとんど、「☆人」の域だ。
宮澤と芦田の関係についても同様。楠山氏を「伝説の国際記者」と持ち上げた「ジャーナリストからみた日米戦争」をネット上にアップした前坂俊之静岡県立大教授の所論は読んだが、いかにも凡庸だ。インタビューの返礼をおべっかで返したのだろう。本気で称賛しているのかもしれないが。
別枠だが、昨日の投稿60は見ものだ。従前は独独辞典を慫慂しておいて今度はちゃちな学習辞典で意趣返し。
老媼の妄執は凄まじい[完]
▼30①=【憲法の普及委員長は、芦田均……理事の宮沢……ではない】⇒⇒So What? という話。
▼同②=【どうして、「日本国憲法」を解釈する時…普及委員長…芦田均さんの解釈を無視して、宮澤……の説で解釈しなければならない…?】⇒⇒「事大主義者」らしい見解。芦田修正は筋が悪い、謂わば「楽屋裏話」の密教的解釈。篠田説には無用の長物。
▼同③=【反氏は、世界の諸国と交わりはあつくする必要がない、という論者】⇒⇒粗笨な読み、日本語の読解力の程度を窺わせる言いがかり。私は感傷的な国際協調主義者ではないだけ。
▼29①=【26,27,28を読んで、反氏の歴史認識も、人物認識もおかしい、と断言する】⇒⇒「マダム瑕疵」の、とんだ御託宣。26はカ氏のもので私は無関係。吉田が「民主主義の擁護者」である具体的な論拠を示していない。親英米派や駐英大使であったことは、「民主主義の擁護者」であることを論証しない。例えばチャーチルは民主主義の原理に根深い疑念を抱いていたのは周知の事実。吉田の「マスコミ、特に新聞記者嫌い」も「擁護者」であることを含意しない。
▼同②=【宮澤解釈を……日本の巨大マスコミが「真実」のように普及させ続け……日本国憲法の解釈が「ガラパゴス的解釈」、に】⇒⇒篠田さんが説く憲法学通説の「ガラパゴス化」は、確立した国際法規範に照らして英米法的文脈で解釈されるべき条文を、ドイツ国(公)法学の概念を援用して解釈しているのが最大の要因。メディアは役不足。
ご大層なことを言う前に、29末尾「新聞記者に努めなかった政治家」、30「要するに、マスコミに努め」の如き意味不明の文章しか書けぬ醜態を改めるべき。
‘μηδὲν ἄγαν’(「分を弁えよ」=デルポイの神託)
33で、【ゲーテより106歳上で、誕生の6年前に死んだニュートン】と書いたが、【107歳上で、誕生の22年前】の誤り。
批判の対象であるニュートン(1642~1727)の著作は『光学――すなわち、光の反射、屈折、回分析及び色彩に関する論考』(‘‘Optics, or a Treatice of the Refractions, Inflections and Colours of Light’’, 1704)。ニュートン没年は1727年、ゲーテ誕生は1749年。
広汎な自然研究を試みた中でのゲーテ最大の著作で、隠れた主著的な存在でもある『色彩論』の第二部は「ニュートン光学理論を暴く」。
光粒子説を説き、近代的光学理論を確立した物理学の権威にかみつく執拗な記述が、同著のみならず、エッカーマン著『ゲーテとの対話』に目立つ。自然科学的には無意味だが、「眼の人」の意地なのだろう。
一方の『光学』は、光粒子説を唱えた円熟期の代表作の一つで、独断を避け、実証を重要視したことから、実験と思索の模範的著述として、科学史上高く評価される。
そうした精神を表した「われ仮説をつくらず」(‘hypotheses non fingo’=主著の『自然哲学の数学的原理』=‘‘Philosophiae naturalis principia mathematica’’, 1687.)はあまりに著名。
思弁的、つまり哲学的、観念的な思索を軽視するゲーテが、実際は自然現象を素朴に受け止める汎神論者で、ニュートンのような、如何なるものでも、現象から導き出せないものは「仮説」として、思弁によらず自然現象を機械的、数学的(デカルト的合理主義)に解明すべきだと説いているのと対蹠的。ゲーテの有機体的世界認識とは次元を異にする。『色彩論』は心理学で科学ではない所以。
生前のニュートンのドイツ人との論争では対ライプニッツ間の微積分法の基本定理をめぐる優先権論争が著名だが、実質は弟子同士の論争であって、しかも双方が違う手法で微積分法の基本定理に到達したのと異なり、ゲーテの場合は執拗な論難で実質がない。
無謀なのはカ氏に似ている。
▼【私の一知半解のナイーヴな憲法観、民主主義観は、反氏と同じ学歴をもつ、勉強好きで、学識のある、父から習ったものに私の……勉強、経験知、を付け加えたもので……「ナイーブ」などと言われる筋合いのものではない】⇒⇒一見して奇妙な文章であることに気づかないのが、粗雑な文章を書き散らして愧じるところのない、カ氏の面目躍如で、救いようがない。
いくらなんでも、主語(ὑποκείμενον)が【私の一知半解のナイーヴな憲法観、民主主義観】では困るだろう。それを受ける述語(κατηγορία)が、【言われる筋合いのものではない】になる訳だが、これなど全くの意味不明の「珍妙」な文章で、一旦は「一知半解でナイーヴ」な形容(叙述)を措定=認めたことになる。
それを、京大哲学卒でマルクス主義理論の信奉者という、カ氏とは何やら確執のあるらしい父親から習ったらしい。父親は「勉強好きで、学識のある」人物らしいが、娘であるカ氏の憐むべき「無学」ぶりをみる限り、余程教え方が悪いのか、カ氏が救いようのない劣等学生、要するに出来損ないなのか、いずれかだろう。
勉強は学識の前提ではあっても、必ずしも学識を保証しない(生まない)。勉強は研究とは異なる。研究には一定水準以上の基礎知識と訓練を伴うが、「お勉強」は主観的な満足をもたらすにすぎない。
カ氏の父親に学識の欠ける所がないとすれば、問題はカ氏の怠惰であろう。ドイツ国(公)法学を論じながらG. Jellineckさえ読まず、ソフィストを語りながら、彼らがアテーナイ市民ではなく、外国人教師であることも知らず(『ソクラテスの弁明』19E~20B)、齢70近くになってしまった体たらく。
確かに、‘idiot’=「大莫迦」の【バ】と脳みそ「パ~」の【パ】は、そのいずれかかもしれぬカ氏にとって、大差はなく、大した問題ではないのかもしれない。
「経験知」というのは、ギリシア語で相当する言葉を探せば、単なる「無学」(ἀπαιδευσία)の憐むべき経験(ἐμπειρία, ἔμπειρος)ではないとすれば、一定の実践知(実践的な智慧=φρόνησις)、思慮分別(σωφροσύνη)を指すのであろうが、カ氏が性懲りもなく繰り返す目の眩むような誤謬と、驚天動地の妄説(米国島国論もありました)、圧倒的な無知(朝鮮王朝の仏教弾圧さえ知らず、古代のストア派と中世のスコラ哲学を混同、ストア派が「スコア派」になったりする)、不都合な真実への頬被り(ドイツの「歴史家論争」さえ知らず、指摘すると、「それは嘘」と逆切れ)する不誠実さは数知れない。
それを、言うに事欠いて、【「ナイーブ」などと言われる筋合いのものではない】と居直る厚顔無恥は、頻りに揚言するソクラテスの無知(ἀμαθία=不知)の知(σοφία)、無知の自覚(εἰδέναι)より、まず、破廉恥=無恥(αίδεια)の知の方が先決だろう。
もはや病癖となった弱論強弁は、カ氏の臆面のなさと特異なキャラクターを強烈に印象づける。批判に懲りて収まるどころか、ますます意気盛んという狂態を呈しているのは読者も周知の事実。
居直りはもはや鉄面皮の域に達して、頬被りとともに、論点ずらしの詐術的議論は、如何にも姑息で見え透いた低水準ながら、なりふり構わぬ粗暴さで一段と悪質さを増した。
アウシュヴィッツに象徴されるユダヤ人大量虐殺の位置づけ、即ちナチスの犯罪は「相対化」しうるか、保守思想家(「歴史像」修正主義者たち)による第三帝国の大胆な見直し論を契機に巻き起こった「過ぎ去ろうとしない過去」をめぐる歴史家論争の実態を突きつけ、ヴァイツゼッカー大統領演説を楯に党派的な議論と言い逃れを図るカ氏を改めて追及すると、カ氏はフランクフルト学派による言いがかりと嘯き、アドルノを全面否定。それも無駄だとなると、持論の正当性を強弁して居直る。
その後はなし崩しに、‘Der Spiegel’や‘Die Frankfurter Allgemeine’の偏向性を強弁し、フランクフルト学派「謀略説」(【「特定なイデオロギー」とは……演説を激しく批判したアドルノを中心とするフランクフルト学派】)へ逆戻り。1968年8月6日に死んだアドルノがどうやって85年の大統領演説を批判できるのか問うと、なしのつぶて。そして、ほとぼりが冷めた頃、再び妄説と誤謬を再生産する「ドイツ教」狂想曲。
最近でも「クラシック」(独語は‘Klassik’)の本来の意味をめぐって見苦しい対応と無学ぶりを発揮。5日・59のはしゃぎようは滑稽を通り越してシュール。
▼36=【独独辞典のDuden、と三修社の独和辞典……反氏の主張が、誤謬だらけか……はっきりと示すため】⇒⇒‘Klassik’がラテン語(‘classicus’)の借入語で、「第一級の(作品)」の意味であり、それが歴史上必然的にギリシア・ローマ(ラテン)の古典作品と同一視される事情を論証したのに対抗できず、‘Klassiker’をめぐる見解の対立だと突然言い出して議論を矮小化するも、結局無理だと悟った? 末の最後の悪あがき。ギリシア語もラテン語も知らぬ「無学」の悲惨。
頼みのドイツ語の実力も今やカルチャー教室並み?
▼35=【圧倒的多数の日本人は、教養人】⇒⇒ならば、メディアに洗脳される懸念もあるまいに。[完]
反氏によると「プラトン」、「アリストテレス」は民主主義を信奉していないそうであるが、歴史を見ると、その後に、貴族制である封建制、独裁である絶対王政が続いているのであって、市民革命を経て、第二次世界大戦前は、国家社会主義と共産主義と民主主義の3つの政治体制があった。第二次世界大戦で(優秀な民族が劣等な民族を指導する)という「国家社会主義」が、ベルリンの壁が崩れたことで、国境も階級もなき労働者の「一つの世界」を理想とした「共産主義」が、間違いとわかり、現在は、民主主義による国際協調と国家平等の原則を基調する政治の在り方が、正しい、ということになっている。
反氏の民主主義に不信をもつとするチャーチル、という主張であるが、チャーチルの言葉は、正確には、
、It has been said that democracy is the worst form of government except all the others that have been tried.
民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。
カ氏が救い難いのは、思慮分別(σωφροσύνη, φρόνιμος)など語るに値しない妄執と、そうした自覚を欠いた夜郎自大、俗物根性に加えて、思い上がった驕慢な姿勢であって、「投稿ための投稿」に現を抜かす姿は児戯に等しく、デマゴーグ(δημηγόρος)紛いの言辞は、ほとんど戯画でさえある。
齢70近くになると、老人は我儘だし、相当過激である。粗暴の一語で、品性(ἦθος)の欠片もない。落ち着いた気分がもたらす風格もユーモアもないようだ。気の毒だが、それもこれも身から出たサビであろう。
閑話休題。
▼41=【民主主義に不信をもつとするチャーチル……の言葉は、正確には、It has been said that democracy is the worst form of government except all the others that have been tried. 民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが】⇒⇒先の「ミネルヴァの梟」の際に問題となったヘーゲルの『法哲学要綱』からの場合と同じく、カ氏の引用と解釈は不正確だ。
そこで、コメント欄読者が確認しやすいように、日本版Wikipedia「チャーチル」から当該箇所を引用する。注意深く比較してほしいが、正確には、チャーチルの言は以下のようなもので、カ氏の引用は何時も「正確ではない」。
“Many forms of Government have been tried, and will be tried in this world of sin and woe. No one pretends that democracy is perfect or all-wise. Indeed, it has been said that democracy is the worst form of government except all those other forms that have been tried from time to time.”=下院演説(House of Commons, November 11, 1947.)
▼42=【楠山義太郎さんと同じように、伝聞話法……民主制は、これまで試された貴族制、独裁制、……国家社会主義や、共産主義よりは、マシ、ということなのであって、要するに、アングロサクソン風の「民主主義」の政治体制が、最善である、という意味】などと余計な冗語(「伝聞話法」云々)を交えて見当違いで稚拙な解釈を披露しているが、笑止である。
まず、「伝聞話法」云々はカ氏の誤解であろう。それは、チャーチルの発言(「民主制は最悪の政治形態」=‘democracy is the worst form of government’)が、‘but he was quoting an unknown predecessor.’、つまり彼の独創ではなく、未知(未確認)の先行者からの引用であることを示したものにすぎないからだ。先行者はプラトンまたはアリストテレスであり、E. バークであろう。あるいは、英国貴族階級の通念だろう。
チャーチルが忠誠を誓い、如何なる犠牲を払ってでも守りたかったのは民主主義などではなく、英国という国柄=国制(‘πολιτεία’)、即ち統治の伝統(的価値観)であり、支配の「正統性」だった(彼自身がブレナム宮に住むマールボロ公爵)という意味で、峻厳な英国の国益=「英国の権利」の守護神だった。
それは、アテーナイの民主制=公民統治という政治制度は、民衆(δῆμος)の支配(κρατία)という、直接統治上の一切の権能を個々の市民に委ねるという画期的な国制だった一方で、単なる人民支配ではない運用の智慧を求められる体制で、ペリクレスを14年続けて将軍(最高指導者)に選んだように、事実上の「独裁」だったのを想起させる。
アテーナイの啓蒙された中産階級の存在も手伝って未曾有の繁栄を遂げたことは、民主制が単なる人民主権ではうまく機能しないという、伝統的支配層の見解を彼も受け継ぎ、熟知していたことを物語っており、チャーチルには民主主義信仰はない。
チャーチルは、フランス革命的な人民支配も、それをより徹底させた鬼子的存在であるボルシェヴィズムによる共産主義体制も拒否した。自由と秩序と伝統を重視し、熱狂を伴う急進的改革を拒む心性だ。
そうした価値観を保守する以外は特定の硬直した価値観をもたないが故に柔軟な発想をもたらし、ケインズが説く英国精神特有の散文的健全性(‘prosaic soundness’) という意味での経験主義と、何ごとも極端を嫌う平衡感覚に行き着く。
思うに、感傷的ではなく徹底した闊達な議論を好む古代ギリシアと並んで(「人工国家」米国を除く)、英国人が漸進主義的な民主的改革を最も成功させた背景には、経験主義に根差した人間性への周到な観察と智慧がある。
それは、フランス人のように合理主義的で鋭利にすぎず、ドイツ人のように体系的だが鈍重でもなく、イタリア人のように楽天家でも激情家でもない資質、一言で言えば英国人特有の、退屈さと同居した鈍感さ、愚鈍さ(‘stupidity’)と散文精神的退屈さだろう。
英国の保守的自由主義の源流で、近代保守思想の先駆者的存在であるバークは、政党政治家として活躍する一方で、『フランス革命の考察』(1790)を著して仮借ない批判を加え、革命ではない「保守するための改革」説いたが、チャーチルへの影響は顕著だ。政治的理想主義が革命に至る、近代の合理主義思想が内蔵する陥穽を見逃さなかった健全な懐疑主義の持ち主で、日本人に最も欠けているタイプの思想家かもしれない。
理想を真に受けない、例えば憲法九条に「絶対平和主義」を読み込むナイーヴな発想から、これほど遠い人物はいない。チャーチルはノーベル文学賞を受賞したほどの卓越した文才をもつ歴史家であり、優れた政論家だが、一方で極めて決断力に富んだ政治家、実務家であって、その平衡感覚が、両大戦において最も難しい決断を迫られた英国を救った。
第二次大戦中、チェンバレン首相が対独宥和でチェコを犠牲にした際、「全面的な、真の敗北」と批判し、挙国内閣の首相として行った最初の演説で、
「私には血と労苦と涙と汗以外に差し出すべきものは何もない……如何なる代価を支払おうとも、どのような恐怖が待ち受けていようとも勝つ。如何にその道が長く険しくとも、勝利なくして生き残ることはない(降伏しない)」
‘I have nothing to offer but blood, toil, tears, and sweat.……victory at all costs, victory in spite of all terror, victory, however long and hard the road may be; for without victory, there is no survival.’(下院演説=1940年5月13日)
と国民を奮い立たせ、そしてかつての仇敵ソ連と、反共主義にも拘わらず手を結んで対ドイツ戦線を立て直す。
カ氏の凡庸かつnaivな42、43は論評に値しない。[完]
どう考えられるのか、興味深い、
間もなく30年を迎える冷戦構造の崩壊後の米国の独り勝ちの構図は、新たな段階を迎えつつある。
中国の急速で持続的な民族的膨張や、国際政治の主たるプレーヤーとしての地位確保に余念がないロシアの動向、英国の離脱決定と移民・難民問題で、政治統合への道程が遠のきつつあるEU、シリアやイランに加え、新たな波乱要因を積み増ししている中東――国益の衝突は当然絶えないわけで、協調的な競合と、覇権争いとの境界線は、常に相互に侵潤しあっている。
新たな開国を企図して動き出しつつある政府の意図とは異なり、急速に進む高齢化と不可逆的な人口減に伴う経済的停滞、地位の低下への懸念と社会政策上のさまざまな課題の深刻化、持続可能な社会への脱皮を見通せないなかで将来不安を払拭できず、安定という名の「停滞」=現状維持を脱却する新たな展望も戦略も欠いたまま、憲法一つ変えられず内訌し、精神的な退嬰化を深め、元気なのは「世代間闘争の勝ち組」である年寄りばかりなりという、相次ぐ自然災害の脅威に見舞われ、深刻さを増す予期せぬカタストロフィー前の寒々として風景――。
憲法解釈にも透けて見える、戦後的な欺瞞と偽善の制度疲労を前に佇む日本人の思想的脆弱性としての知的頽廃はそこかしこに顕在化している。
我々は今、将来に向け何を問い、何をなすべきか、出口は見えない。
ΑΘ:Τῆς μὲν τοίνυν πρὸς τὸ θεῖον εὐμενείας οὐδ᾽ ἡμεῖς οἰόμεθα λελείψεσθαι· οὐδὲν γὰρ ἔξω τῆς ἀνθρωπείας τῶν μὲν ἐς τὸ θεῖον νομίσεως, τῶν δ᾽ ἐς σφᾶς αὐτοὺς βουλήσεως δικαιοῦμεν ἢ πράσσομεν. ἡγούμεθα γὰρ τό τε θεῖον δόξῃ τὸ ἀνθρώπειόν τε σαφῶς διὰ παντὸς ὑπὸ φύσεως ἀναγκαίας, οὗ ἂν κρατῇ, ἄρχειν· καὶ ἡμεῖς οὔτε θέντες τὸν νόμον οὔτε κειμένῳ πρῶτοι χρησάμενοι, ὄντα δὲ παραλαβόντες καὶ ἐσόμενον ἐς αἰεὶ καταλείψοντες χρώμεθα αὐτῷ, εἰδότες καὶ ὑμᾶς ἂν καὶ ἄλλους ἐν τῇ αὐτῇ δυνάμει ἡμῖν γενομένους δρῶντας ἂν ταὐτό. καὶ πρὸς μὲν τὸ θεῖον οὕτως ἐκ τοῦ εἰκότος οὐ φοβούμεθα ἐλασσώσεσθαι· τῆς δὲ ἐς Λακεδαιμονίους δόξης, ἣν διὰ τὸ αἰσχρὸν δὴ βοηθήσειν ὑμῖν πιστεύετε αὐτούς, μακαρίσαντες ὑμῶν τὸ ἀπειρόκακον οὐ ζηλοῦμεν τὸ ἄφρον. Λακεδαιμόνιοι γὰρ πρὸς σφᾶς μὲν αὐτοὺς καὶ τὰ ἐπιχώρια νόμιμα πλεῖστα ἀρετῇ χρῶνται· πρὸς δὲ τοὺς ἄλλους πολλὰ ἄν τις ἔχων εἰπεῖν ὡς προσφέρονται, ξυνελὼν μάλιστ᾽ ἂν δηλώσειεν ὅτι ἐπιφανέστατα ὧν ἴσμεν τὰ μὲν ἡδέα καλὰ νομίζουσι, τὰ δὲ ξυμφέροντα δίκαια. καίτοι οὐ πρὸς τῆς ὑμετέρας νῦν ἀλόγου σωτηρίας ἡ τοιαύτη διάνοια.〔Θουκυδίδης;Ἱστορίαι, Ε.105.〕
「人間自然の性向に基づく限り、このようなことやこれに近いことが将来もまた起こるだろう」(『歴史』3巻82節)――重い問いが喉元に突き刺さった棘のように、癒えない傷のように疼き、「飢餓の恐怖」から解放された時代の、新たな道理と徳を求め精神的な飢餓感に苛まれている。[完]
initium ut esset, creatus est homo(「始まりが存在せんがために人は創られた」=Augustinus, “De Civitate Dei.” XII, 20.)
https://twitter.com/uzw1978/status/1060097799927123968
https://twitter.com/uzw1978/status/1060097980349304834
https://twitter.com/uzw1978/status/1060098454297300992
「結局、国際感覚が全く欠如していたんです。軍部が強硬になっていく過程で、 社内でも支那(中国)派が勢力を握り、英米派は冷や飯をくわされた。 支那問題を連盟で論じていると、『欧米に支那のことがわかるか』と反発をくい ましてね。私は『支那通の支那知らず』とことあるごとに言ったんだがね。とにかく、新聞を含めて、日本人全体が井の中の蛙になっていた」、と結論づけておられるように、「満州事変」以降の日本の愚行は、丸山真男さんの主張されるような、「教育勅語」や、「明治憲法」のせいではなくて、例えば、近衛文麿、松岡洋右、白鳥敏夫など、学歴も高く、英語も流ちょうにしゃべれる人々に、国際感覚、世界がどういう方向に進んでいるか、という認識が欠如していた、ということに尽きるのである。ナカさん勧めで読み始めた細谷雄一さんの「歴史認識とは何か」、を読んでみても、その印象を深くする。楠山義太郎さんは、「松岡にはずいぶん言ったんだけれど、きいてもらえなかった。」とおっしゃっていたが、日本を悲惨な状況に導いた後、「日本の為に、と思ってしたことだった。」と悔いながら、亡くなったそうであるが、軍事力で脅し、強く出れば、米国は日本の主張を理解してくれるだろう、などという妄想、その意見に追従する日本のマスコミがどうかしていたのである。
アドルノが亡くなっているのに、と反氏は反論されるが、美濃部理論が糾弾されるのは、上杉慎吉が亡くなってからなのであって、神がかり的な「絶対君主制」、「国際法」を信じず、「軍事力」を基盤とする力の政治である「上杉理論」を信奉する人が、軍人にも官僚にも、政治家にも多かったから、美濃部理論が、すべての大学、政治の表舞台から駆逐されてしまったのではないのだろうか?
この楠山義太郎さんの「ジャーナリストへの遺言」には、もう一つ、今日的な問題が含まれている。それは、今日国際的に大きな問題になっている移民問題である。
1924(大正13)年7月1日に施行された排日条項を含む「外 国移民制限法」である。
これが日米を引き裂き、真珠湾攻撃の一つの引き金になったといわれる。 徳富蘇峰はこの日を〝国辱の日″とせよと叫び、国民は激昂した。 日本は、英米指向からこれを転機に大アジア主義が台頭しナショナリズムが昂揚した、とある。日本人移民たちは白人労働者の賃金の半分で人一倍熱心でていねいな仕事を した。その優秀な労働力が白人労働者を失業へと追い込み、反発とウラミを買 ったのである。 つまり、米国には二面性があるのである。 現在は、その対象は、日本ではなくて、中国や中南米からの人びとであるが、その軋轢が紛争の原因になりかねない、ことをよく我々は考えなければならない、と思う。
その唾棄すべき見え透いた論点ずらしの詐術や言い逃れ、誤謬の承認に対する頬被りとでも称すべき居直りと欺瞞に加え、見え透いた、もはや弱論強弁(‘τὸν ἥττω λόγον κρείττω ποιῶν[ποιεῖν]’=一知半解の立論の論拠とするため、カ氏が熱心に読んだという『ソクラテスの弁明』18B、19B、23Dに、ソクラテスが如何にそれを戒めていたか述べられている)にさえ値しないカ氏の無駄なおしゃべり(ἀδολεσχία)が、議論(λόγος)が真の対話(διάλογος)に至らない最大の要因になっている。
もとより、カ氏はまじめに論争する気はない。日頃の揚言とは全く逆に、真実(τὸ ἀληθές)に対する驚くべき無関心が透けて見える。無学も手伝って、具体的論拠を挙げた論証ができず、その技術も根気もないからだ。ひたすら、「公共の言論空間」で妄論を重ねて「無学」呼ばわりされた汚名を雪ぐことに躍起になっている。そのためには、「説得も論破もされなかった」という外観、いわば印象を残すことが自己目的化している所以だ。
今回の【(1985年のヴァイツゼッカー西独大統領演説について=筆者註)アドルノが亡くなっているのに、と反氏は反論されるが、美濃部理論が糾弾されるのは、上杉慎吉が亡くなってから…】はその典型で、この際だから過去の経緯に遡ってそれが如何に不当で、愚にもつかない反論であるか論証したい。
救いようのない「無学」と「無恥」は先刻お見通し、今さら、ソクラテス流の‘εἰρωνεία’ (しらばっくれ、皮肉)でもあるまいに。
証拠物件として当該のカ氏の投稿を提示する。
▼「なんどもコメント欄で指摘したが、ワイツゼッカー氏はこの演説をした人物だということで、無投票で、西ドイツ国民から大統領として再選されていること一つをとってみても、「特定なイデオロギー」とは、その演説を激しく批判したアドルノを中心とするフランクフルト学派であることは、明らか」(9月16日07:58・60)
この前後は仏首相クレマンソーの対ドイツ観や芦田修正、篠田さん=「スフィンクス」という私の謎かけなどをめぐって応酬があり、憲法の授権規範をめぐるカ氏の杜撰な解釈に「カロリーネさんの瑕疵」氏(09月15日 22:17)が【39にある「当時、芦田均さんには、憲法調査会の委員長として、日本国憲法を修正する授権規範が与えられていた」には、驚くべき誤謬があり……マスコミを批判する姿勢も聞いて呆れる】(カ氏のピント外れな応答は同日56)も加わって、カ氏は徒に迷妄と焦慮を深める(「反氏のコメント欄で、なにが主張されたいのだろうか?……私のイメージをダウンさせることだけにやっき」=9月15日・59)。
従って、美濃部達吉や上杉愼吉は何の関係もなく、カ氏の悪質な論点ずらし。
‘ὁ γέρων δὶς παῖς γίγνεται’ =「老媼は二度子供になる」
私は本欄で、単なる俗説や粗笨な読解、留学体験に基づく偏頗な信条を基に妄説を撒き散らす「無学の女王」カ氏について、よくデマゴーグ(δημηγόρος, δημηγορεῖν=ギリシア語の元の意味は「大衆演説家」、転じて「民衆煽動家」=プラトン『ゴルギアス』502C~D、『プロタゴラス』329A(政治演説家)、『ソクラテスの弁明』36B、『ソピステス』268B=〔δημολογικός〕、『テアイテトス』162D=[俗受けする、俗耳に訴える議論]を参照)紛いのアジ演説家扱いで、具体的根拠を提示しては批判してきた。
特にゲーテやヴァイツゼッカー、芦田均、楠山義太郎氏を擁護するためだったら手段を選ばず、行き当たりばったりのご都合主義者である所以は、各々批判箇所を参照されれば一目瞭然だろう。
その上で、コメント54のいかにも悪質で姑息な論点ずらしの詐術的議論をみるにつけ、そもそもカ氏がその度し難い驕慢さ故の負け惜しみでしかない見境のない「意趣返し」に狂奔する一方、憲法論議やメディアの頽廃に対する憂慮や反感を募らせ、過激な言辞に走る所以を、個々の議論を通じて心理的にも分析してきた。
丸山眞男ふうに言えば、将に「カロリーネ氏の投稿行動における論理と心理」だろう。
カ氏がいかにも一知半解でソフィストを引き合いに、ペロポネソス戦争前後のアテーナイの政治状況にふれ、ソクラテスとの対比でデマゴーグを槍玉に挙げ、そのまま日本のメディアと同一視して檄語を募らせる姿は滑稽至極で、それがそのまま自らにブーメランの如く撥ね返ってくるのを知らぬかのようだ。
ペロポネソス戦争を描いたトゥーキュディデースの『歴史』で、デマゴーグ(δημαγωγὸς, δημαγωγίας)という文言が出てくるのは、わずか二カ所。それは、ペリクレス没後のアテーナイ政治が混迷を深めたことを否定しないが、アテーナイ民衆制に内在する多彩な問題を示唆する。
もう一つは【καὶ αὐτὸν κατ᾽ ἀμφότερα, τῆς τε δημαγωγίας ἕνεκα⇒「彼を暗殺した理由は、第一に彼(民衆指導者のアンドロクレース=筆者註)が煽動家であったこと」(8巻65節)】だ。
トゥーキュディデースがデーマゴーグを、ソクラテスのように槍玉に上げる形で論駁するのに抑制的なのは、【ἐπειδὴ δὲ ἔγνωσαν, χαλεποὶ μὲν ἦσαν τοῖς ξυμπροθυμηθεῖσι τῶν ῥητόρων τὸν ἔκπλουν, ὥσπερ οὐκ αὐτοὶ ψηφισάμενοι, ⇒「しかし、事実(シチリア遠征軍の潰滅=筆者註)が確認されると、自らが支持して議決の投票をした主体であることを忘れたかのように、この遠征を声を揃えて積極的に支持した政治家たちに対して非難を露わに…」(8巻1節)】した民衆を、歴史家として冷徹に観察していたからだろう。
カ氏も憲法学通説による護憲派の憲法学者を糾弾する目的で【「憲法学教科書排斥」(9月7日・6)⇒「…憲法の9条に関する憲法の教科書を疑え。」運動を起こしてはどうだろう?】を訴えたり、、ノーベル賞受賞の本庶佑氏の言に便乗して【「産婆術」(10月10日・34)⇒「善く生きるために必要な知の探究は、教科書に書かれている知識を丸暗記するような……受動的な学習によって得られるものではなく」】と言い張る。
日頃は、「学校で習った」俗説を「(国際)常識」と後生大事に言い募り、私への反論の楯としている同じ人物とも思えない。
正視にたえない、というか、醜悪だ。
そして、その説を信奉し、ワイツゼッカー演説を批判しているフランクフルト学派の人々と見解を共にしないのである。
私の見解は、ワイツゼッカー氏と同じである。
ユダヤ民族は、今もアウシュビッツ事件を心に刻み、これからも忘れないでしょう。だから、私たち、ドイツ人もアウシュビッツでの虐殺の罪を心に刻んだ上で、ユダヤ人に和解を求めなければならないのです。ワイツゼッカーさんは、この事件を忘れるべきでも、なかったことにするべきでもなく、あった真実を受け止めた上で、和解を求める努力をすべきだ、と言われているのであるが、その罪を許す、と考えている良識あるユダヤ人の方が、現在の国際社会ではおおいのではないか、というのが、私の分析である。
許し合うことがなければ、人類の進歩もないし、いつまでも、平和は達成されない。
また、教科書に書かれている知識を丸暗記するような……受動的な学習によって得られるものではない、ということと、「学校で習った」ことを真理とする、ことは、同じではない。一度書いたと思うが、私が卒業した国立大学の付属中学校では、教師の問う質問に対して、4人単位のグループで話し合って、結論を導き出して、その理由もつけて、グループ単位で発表したのである。つまり、教科書に書かれた知識を丸暗記した結果の答えではなくて、4人でその問いについて、論理的に究明しあい、導き出した解答、を答えたのである。だから、教科書に書かれてあることでも、おかしい、と思えば、それも同時に発表することができた。
そういう意味で、学校で習うことは、決して俗説ではないし、1947年文部省が教科書として採用した文部省の「あたらしい憲法の話」は、1950年に副読本に格下げされ、1951年から使われなくなったということから判断しても、「あたらしい憲法の話」の日本国憲法9条の解釈は、現在の日本では、「あたかも真理」であるように受け継がれているが、それが俗説ではないのか、と私は、思う。
以上、如何にも長い文章で666字もある。論理構造が明晰だから長文でも言わんとする趣旨が不分明なことはないだろう。古代ギリシア語の文の特質である。
カ氏の主張とは異なり、私のコメントに「はじめてアドルノの名」が登場したのは8月25日・95ではなく、【07月17日 11:29・103】だ。
ちょうど、このところ話の枕に原文を引用、訳述しているトゥーキュディデースの『歴史』の文章の特質である、古代ギリシア語のアッティカ方言(プラトンもアリストテレスも同じ)の擬古文で表現される文章の息の長さと難解に親しんでいたので、古代の「かつて存在した中でもっとも政治的な歴史家」(ホッブス=『歴史』の名訳もある)に倣って試してみた。
閑話休題。初出の次の8月6日・18で私は、こう書いた(その後にさらに08月24日 01:21・75があり、カ氏指摘の95は4番目だ。カ氏の脳みその中はどうなっているのやら)
【世界史に刻まれた「8月6日」=ヒロシマ(Hiroshima)の象徴性は、ナチスドイツのユダヤ人大量虐殺の象徴であるアウシュヴィッツ(Auschwitz=オシュフェンツィムというポーランド南西部の都市のドイツ語名)と双璧をなす。そこにあるのは、アドルノ流に言えば、人類の背負わざるを得ない、取り返しのつかない「文明の野蛮」であり、永遠に消えない墓碑銘、ドイツ人が恐らく永遠に背負い続けなければならない十字架である。】と
時あたかも、広島の「原爆忌」である。多くのドイツ人と同じようにナチス・ドイツ、つまり第三帝国の蛮行は糾弾しても、ドイツ人(民族)の名誉は守りたいらしいカ氏のように、私は欧州大陸のユダヤ人を計画的に周到に殺戮したドイツ人の犯罪をアウシュヴィッツの名とともに胸に刻んでいる。つまり、
【ナチスの蛮行(人種絶滅政策)は確かに表向きは断罪された。言い逃れができない規模と周到な計画性、「ガス室」に象徴される身の毛もよだつ残虐性が計算と管理、技術的冷淡さ、官僚機構特有の無機質な目的合理性と同居する圧倒的現実として厳存するからだ。それは戦争犯罪の域を超えている】と。
むしろ、人類がドイツ人とともに胸に刻まなくてはならない問題だろう。そしてこの異次元の、まさに「合法的な政策」としての人種絶滅行為という問題に真正面から向き合い、苦しい思索を続けたのは、意気阻喪して戦後の生存の渦中で余念のなかった「犯罪の当事者」であるドイツ人(民族)などではなく、大半は亡命したか生き地獄の責め苦を辛うじて生き延びた同化ユダヤ人であった。H. アーレント、アドルノ、P. ツェラン、P. レーヴィ、P. アメリー、G. アンダース(シュテルン)――。
ナチへの協力を断固として拒絶し「国内亡命状態」だったヤスパースや、海外からドイツの同胞にナチスへの抵抗を呼び掛けたトーマス・マンは例外的な存在だった。亡命先で1940年10月からBBCが放送した彼の「ドイツの聴講者諸君」の中で、ナチスによる「ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅」計画を厳しく告発した最初の一人になる。ドイツの戦後の言い逃れ(「知らなかった」)が許されない所以だ。
マンは同胞への違和感から結局戦後も故国に戻らなかった。その事情と胸中は1945年の公開書簡への返書として雑誌に掲載された「私はなぜドイツに帰らないか」(‘‘Warum ich nicht nach Deutschland zurückgebe’’=Thomas Mann Gesammelte Werke in dreizehn Bänden, Bd. 12, Reden und Aufsätze 4, S. Fischer Verlag, 1974. pp. 953~962)に詳しい。
そのマンを指して、個人的な好悪と、私がマンを敬愛していることへの意趣返しから、悪意に満ちた見解を付して「投稿のための投稿」に狂奔するのがカ氏である。
マンが第一次大戦中、長大なドイツの「自己弁護」のエッセー『非政治的人間の考察』(1918年)を書き、英米仏流の民主主義的価値観の信奉者ではなかった事情を偏向的に解釈し、自己の姑息な立論に利用したのだろうが、その後のマンには一切言及せず、ご都合主義に徹している。真実(τὸ ἀληθές)を「騙る」だけで、真理への探究心など欠片もない、呆れ果てた心性だ。
第一次大戦の敗戦後の混乱期、ドイツ人のもつ官僚体質と「非政治性」の孕む危うさについて説いたM. ウェーバーは既に世にはなかった(ユダヤ系の公法学者のプロイス〔H. Preuss〕とともにヴァイマール共和国憲法の草案作成作業の中心的役割を果たした)。
ウェーバーの早すぎた死(1920年6月14日)によって断ち切られるまで続けた預言者的洞察の意味を考えるなら、それは将に戦後のドイツ人の性格(エートス=ἦθος)への愛憎相半ばする覆いがたい違和感だったことが分かる。
ウェーバー自身は第二次大戦もヨーロッパのユダヤ民族の大量虐殺も知りようもなかったが、彼こそ、近代世界の合理化、啓蒙のもたらす文明の進展とない交ぜになった、近代性(Moderne)のもつもう一つの側面、合理化に伴う非人間性を誰よりも明確に意識し、批判的な視線を投げ掛けた最初の人物だったからだ。ナチスはその典型だ。それを、近代化過程に固有な脅威に対する「カッサンドラの叫び」(予言)と評する研究者もいる。
社会(民主)主義者でも唯物論者でもない私が、仮借なき近代文明の告発者、比類なき弁証家、アドルノに着目するのはそのためだ。ある意味ハイデガーより鋭い。
「所謂ディアスポラ以降の欧州でのユダヤ人の置かれた立場と苦難の歴史は充分承知している」。つまり、各時代、各国で間歇的に起きたユダヤ人に対する殺害を含む、主にキリスト教徒による集団的な、無軌道で没義道な「ポグロム」と呼ばれる「残虐行為」については、充分理解している、釈迦に説法の類だ、という意味だ。
欧州大陸から五百万人のユダヤ人を消し去った大量虐殺、それを「ジェノサイド」(génocide=民族大量虐殺、ギリシア語で種族、人種の意味のゲノス[γένος]とラテン語の接尾辞[coedes]の合成語。フランス語ではjudéocide=ユダヤ人虐殺とも)と呼ぼうと、あるいは「ホロコースト」(holocauste=「丸焼き」、50年代末に生まれた造語。ギリシア語起源の12世紀のラテン語‘holocaustum’によるもので、ユダヤ人には生贄となる犠牲者が集団儀式中に焼かれる、神への供物を意味。神罰とかユダヤ民族の殉教による贖罪の概念を含む)と呼ぼうと、「ショアー」(Shoah=ヘブライ語で「破壊」)だろうと、その罪業の根源性は、断じて他の戦争犯罪と並べて「相対化」できない、ということだ。
スターリンやポル・ポト、毛沢東などという道徳的レベルでは比類なき「人でなしの犯罪」と比べ、比較考量の対象にしたり矮小化できる水準の、つまり「戦争犯罪」として一般化し、「相対化」できる次元の問題ではない――ということの真意は、カ氏のケチ臭い自尊心や平和友好、民主主義へのナイーヴな信仰など、その前では吹き飛んでしまう態の重い問題だということだ。
アドルノが説く「文明の野蛮」とは、それに正面から向き合った深刻な認識であって、ニーチェが抱いたヨーロッパ文明の危機感にも通じる。哲学的にはアドルノと立場を異にするハイデガーにも共通する。
「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の新しい野蛮状態に落ち込んでいくのか」という、文明の進展自体が野蛮への退行である、という危機意識をユダヤ人大量虐殺にみている。
ナチスの蛮行と一見相反する印象を受ける、「ホロコースト」の周到な計画性、それを「業務」として淡々と実行に移す市民の日常性、「ガス室」での最終処理が計算と管理、技術的冷淡さ、官僚機構特有の無機質な目的合理性と同居する、如何にも近代的な「啓蒙的性格」を抉り出しており、そこには一切の感傷の入り込む余地はない。
「感傷」は時に詩藻を育むが、人類の文明化の果てに深淵として口を開けていたのが、文明化の進展の故の野蛮への退行だとすれば、それと真正面から対峙することなしに、詩など作っている場合ではない、という人類への警告こそ、著名な惹句、
「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」(「文化批判と社会」=『プリズメン』所収、ちくま学芸文庫36頁)に込めたアドルノの本意で、それ以上でも以下でもない。そうした文脈への顧慮を欠いた拡大解釈は無意味で、当の人物の凡庸さの何よりの表徴(しるし)だろう。アドルノぐらい感傷から遠い人物はいない。
その一つの兆候が、保守派主導の見え透いた大統領演説(戦後40周年の総括)の翌1986年から起きた「過ぎ去ろうとしない過去」をめぐる「歴史家論争」であった。
ドイツ事情通であるはずのカ氏の見解は極めて偏頗なもので、その狂信的性格と相まって、日本の事情にも昏いことを考慮すると、話半分で聞き流せばよい程度だ。
むしろ「ホロコースト」と第三帝国の位置づけを歴史「修正主義的」な文脈で総括して「相対化」を促し、「未来志向」の美名の下に素早く決着をつけてしまおうとする意図が透けてみえる、ヴァイツゼッカー大統領もその一員である保守派の思惑こそ、戦後ドイツの新たな「宿業」なのだろう。
論争自体を知らないカ氏の無知蒙昧に基づく愚にもつかない冗語も唾棄すべき事態だが、それは「もうそろそろ悪夢から解放されたい」という民衆の素朴な感情の反映でもある。カ氏の見解と肌感覚はドイツの現実を正確には反映しておらず、「共に苦しんだ」わけではない「局外者」の外国人にはなかなか本音を明かさない事情もあろう。
最後に、カ氏には改めてまともな、論理的思考を慫慂したい。それに従えば、カ氏の杜撰な立論は、論理学的には①論点先取または論点回避の誤謬であり、②推論における論証の構造が誤っている不当立論(invalid argumentation)に相当し、さらに用いた資料(概念、情報)が誤っている不当資料(invalid documentation)という二重の形式的誤謬を犯している。
61、62は、手前みその回想を含め論評に値するレベルではない。61の「主客が逆転」は用法と意味を間違えており、滑稽というより悲惨だ。
カ氏は「無学」である以上にナイーヴなのである。[完]
59の【「…ユダヤ人虐殺」も一つのイデオロギー闘争……スターリンやポルポトや、毛沢東がイデオロギー……で虐殺した……キリスト教文明の中……ユダヤ人が迫害された歴史……フェリックスメンデルスゾーンのおじいさんは、そのユダヤ教のラビとして生きる……レッシングも、ゲーテも、それを認め、ゲーテは、その孫……の才能を認め……レッシングもゲーテも、ユダヤ人差別論者ではなかった】――「イデオロギー」について、「哲学音痴」のカ氏は、いつもの大風呂敷の議論=妄説を展開している。「イデオロギー闘争」などという左翼用語を平気で使うのは、マルクス主義思想の信奉者らしい父親の影響かどうか分からないが、莫迦莫迦しくて相手にしない。
「レッシングもゲーテも、ユダヤ人差別論者ではなかった」という条、私を含め、だれも本欄で彼らがユダヤ人差別論者云々の指摘はなく、この場所で言及する意味が不明だ。論証に用いた資料=根拠が誤っているという意味で不当資料に基づく不当な立論という誤謬に相当する。
著名な同化ユダヤ人音楽家メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)の祖父で、レッシングの友人にしてカントと親交のあった哲学者、モーゼス・メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn, 1729~86)は、東欧に多数存在したアシュケナージ系のユダヤ人とドイツ社会の関係を考える上で興味深いので補説する。
モーゼスは、ユダヤ人は固有の生活様式を捨てて、ドイツ文化とユダヤ文化の融合すべきと説くユダヤ人エリートの啓蒙運動、所謂「ハスカラ運動」の提唱者。そうしたからといって、ユダヤ人の本来の尊厳、ユダヤ性は損なわれたりはしない、という柔軟な考えのもち主だった。
ベルリンのユダヤ人社会の中心的存在で、事業家としても成功した。サロン文化の主宰者であり、社会全体の啓蒙教化におけるユダヤ知識人の指導的役割を疑わなかった。
ゲーテがユダヤ人差別主義者でないことは疑いないとして、当時のゲーテ協会会員の半数以上がユダヤ人であることは象徴的な事実だ。それを示す『ゲーテ年鑑』の創刊者で、ルネサンス文化の研究者であるベルリン大学教授ガイガー(L. Geiger, 1848~1919)は同化主義の文学者。詩人ハイネもユダヤ人だ。
ベルリンで始まったハスカラ主義運動は中・東欧に広がっていき、影響も大きかった。その人脈は広汎で、伊藤博文が明治憲法起草の指南役に仰いだドイツ行政法学界の泰斗グナイスト(H. R. F. von Gneist,)もサロンの常連だった。トーマス・マン夫人の通称カーチャ=Kathrinaはメンデルスゾーン家の遠縁プリングスハイム家出身。シレジア(現在のポーランド・シロンスク)の鉱山開発で成功した名家であることは以前に紹介した通り(8月31日・170)。
ユダヤ人が一般的なイメージと異なり、社会の有力層(医師、弁護士、学者、銀行家など)を形成していたことが分かる。根強い差別意識とともに、ドイツの中下層階級の羨望と憎悪の的となっていた所以だ。
ところで、スターリンや毛沢東、ポル・ポトの三者のうち、多大な被害を被った国民からヒトラーやナチスのように糾弾され、歴史上評価の定まった人物は、カンボジアの厄病神ポル・ポトぐらいだろう。彼らの犯罪とナチスの犯罪を比較することは到底困難な、外形的理由だ。
この問題はユダヤ人思想家ベンヤミンの言葉を藉りるなら、「歴史を逆撫でする」ことを意味し、「見なかった、知らなかった」ことにしておきたい、素朴で無自覚な人々を、近代の恐るべき「深淵」の入り口に誘わずにはおかない、重い問いだ。
こちらも、憲法学者の真摯な反応を強く求めたいと思いました。
つまり、個人の思想・信条、信念、嗜好にかかわらず、自らが帰属する共同体の「言論の公共性」ということを充分深く考えるなら、それは自ずと明らかだとも書いた。
「無学の女王」カ氏の投稿72、74、75を眺めてその観を一段と深くした。カ氏は如何にも一知半解で誤謬、誤記と自身の偏頗な信条に基づき、愚にもつかない妄説を撒き散らして改める気配もない困った老媼だが、「トーマス・マンが人間として嫌い」(75)などという個人的な好悪を理由に、見境なく立論を行って恥とも思わないらしい。私怨、私情に流れ、本欄が正式な学問的議論の場とは、いくら私でもそう堅苦しくは考えていないが、軽々しく真実(τὸ ἀληθές)などという言葉を日頃から喋喋する割には、心得違いというか、無思慮にも程があるというものだ。
ご大層に「経験知」などを語るその同じ口で、いやしくも齢70近く、「七十而從心所欲、不踰矩」(『論語』為政第二)という程度の規矩の自覚も良識もない体たらく、得と反省すべきだろう。つける薬はない、というか見下げ果てた心魂だ。
しかも、72末尾で「つまり、私の目から見れば、反氏も相当、往生際が悪い」などという捨て台詞を吐いて溜飲を下げているようだが、日本語の意味を分かって使っているとも思えない。往生際が悪いの「往生」とは、【諦めて、じたばたしない】ことだ。【思い切り】(が悪い)の謂いで、即ち日本人の美徳である潔さ、廉恥心につながる。
(「…」は本当だろうか】、【私は「…」とは思わない】、【「…」は私と反氏の見解の相違】、【「…」は学校では習わなかった】、【「…」は「常識」に反する】、【私は、ワイツゼッカー氏の主張を支持する】――のようなものは反論でも何でもない。
カ氏が一度でも、私の個々の指摘にまともに応えたことがあるだろうか。大半は頬被りか無視して遣り過ごすか論点ずらしの詐術的議論で誤魔化し、ほとぼりが冷めたころに性懲りもなくまた繰り返す。
「無学」だから無理なのは承知している。それに、調べ物もWikipediaを濫用し、コピペで水増しして当座を間に合わせ、投稿に現を抜かすしか能がないことも承知している。少しは工夫したらいい。
私との遣り取りが、【篠田教授と、東大系憲法学者の主張の場合にもあてはまる……論議が、進まないのだな、と悲しく思います】――思い上がるのも大概にした方がいい。自分を篠田さんに比定して、猿芝居の真似をして勘違いすることの滑稽さくらい、そろそろ気づいてもいい。世間知らずの娘でもあるまいに。それこそ、「経験知」も何もあったものではない。「悲しい」とか(「空しい」とか)、泣き言を並べるくらいなら、身分不相応の言論の「火遊び」などしないことだ。
幼稚園児の意見交換会ではないのだし、そもそも建設的な議論などという「甘え」は捨て、よく考えた上で臨んだらよい。私とカ氏とは論争でも何でもないが、論争は負けたら「お仕舞い」。「絶対負けない」という不屈の闘志、つまり相手の息の根を止めるくらいの気迫をもって、それに相応しい準備を充分調え、条理を尽して(懇切丁寧に=相手の息の根を止める訳だから、せめては非礼のないように)、相手が殲滅するまで徹底的にやるものだ。
▼73【ユダヤ人の虐殺方法をドイツ人が民主的な方法で多数決で決めたのなら、つまり、「合法的な政策」としての人種絶滅行為をドイツ人が行った、という反氏の主張は正しい。けれども……ほとんどのドイツ人が推測したと思うが……収容所に送られたユダヤ人たちが計画的に大量虐殺された、などと想像したドイツ人はほとんどいなかったと思う】⇒⇒臆測に基づいて、何らの具体的な論拠も示さず、不用意な弁解をドイツ人のためにするものではない。「民主的な方法で多数決で決めた」ら、民族大量虐殺は「法的」に正当化されるのか、真面目に考えてから、立論すべきで、幼稚園児並みの見解は相手にしない。
統合されたオーストリアを含め殺戮=「最終処分」の対象となったユダヤ人(ユダヤ系市民)は、ナチスが制定した一連の人種法(ニュルンベルク法=1935年)で、両親とその一世代遡る四人の親の中にユダヤ系血族がいるかどうかを判断基準に厳格に実施され、同時に公布された婚姻法では、ユダヤ系とドイツ人との婚姻が禁止された。殺戮に毒ガス(シアン化化合物の殺虫剤ツィクロンB=Zyklon B)を使うか否か、その他の手法、日程、場所などの運用方法は何も「民主的」に決めるものではあるまい。
ドイツの一般国民はそれを政府に委任したことになる訳で、有責者だろう。ただ、当時の国民全部を刑事上の罪に問うことは事実上不可能で意味もなく、線引きが必要になる。
しかし、合法的に制定された法に従って、その帰結として虐殺が法的に正当化されたのは紛れもない事実で、だから、「私は当時の法に従ったまで」という法実証主義的な正当化の弁明が、ナチス高官に至るまで行われることになる。
そんなことが、英国人やフランス人、なかんずくイタリア人にできるとも思えない。官僚制的な徹底性こそドイツの特質であり、マックス・ウェーバーが詳細に分析している。
ハンナ・アーレントがエルサレムで裁かれたナチスの高官アイヒマン(中佐)について語った、「自分がなにをしているのか決して理解していなかった」単なる組織の歯車にすぎなかった(「命令に従っただけ」)官僚の「悪の凡庸性」を想起させる。
ユダヤ人大量殺戮という計画された罪(ユダヤ人問題の最終解決)は、残酷でも悲劇的でもなかった「普通の人々」によって粛々と実行に移され、聊かの内面的葛藤も呼び覚まさなかった、という驚くべき「健全性」と言う名の居直り、倨傲(ὕβρις)がドイツ人の中にある。
しかも、カ氏はよく考えもせず、「ヒトラーはドイツ語を母国語とするが、学校教育を含めて、ドイツ人ではない…」(8月23日・70)としたり、
▼【「私は、アウシュビッツよりも広島よりも、もっとショックを受けた場所がある。それは、鹿児島……「知覧の特攻隊の基地」】(8月8日・61)⇒⇒気ままな個人レベルでの感想に終始して、結局問題を相対化してすり替える知的退行、換言すれば、結局、自らや身内、知己など卑近な人の経験や話題でないと考えが及ばず、想像力も働かない。カ氏の典型的な「田舎者」の心理に溜息が出る。
ましてや、カ氏が別の場所で行ったように、オウムの誇大妄想的なテロ行為などと比較して矮小化している場合ではない。
大統領演説は、ヨーロッパとの共生可能なドイツ像を模索し、再確認するなかで、国力を回復して自信を取り戻し、ともすれば「過去の栄光」への無批判な憧憬から文化的なethnocentrism(自民族中心主義)に流れがちな自国民の自尊心と紐帯を維持しながら、固有の政治的歴史的要請を充分に意識して、両者が融合するような一種の「政治的構築物」として、共生と自己確認の物語を提示したにすぎない。
そうした、いかにも見え透いた政治性を没却して、そこに拠るべき道徳的指針や良心の前提となる共通認識を求めることにはそもそも無理があり、理想主義者にありがちな形式主義的態度や甘え、パリサイ的偽善と感傷を捨てる必要がある。
本当は一番厄介で聞きたくもない、目を塞ぎたい「真理」の迷宮に国民を誘い込んで惑わせなかった点で極めて抑制的で、戦後四十年を期に、政治家として言うべきことを言った「政治的作品」だったと言える。
ヴァイツゼッカー氏は政治家として周到に役割を果たしただけで、そこには真実より「真理らしきもの」=「代替可能な偽善」=虚構(μῦθος)の説得が意図されている。
忘れてはならないのは、戦後のドイツ人が絶対譲れない政治的立脚点、歴代大統領とも一貫している「公式見解」、即ち、ドイツ国民はナチスドイツ、第三帝国の「被害者」であって、悪いのはみんなヒトラーと傘下の強権的犯罪者集団という断定がすべての政治的発言の前提になっていることだ。
そうした無理の綻びは、演説の翌年から起きた「歴史家論争」に寄せられた個々の論考のタイトルを見るだけで、一目瞭然だ。
▼想定家たちの不毛なやり口――ナチスによる犯罪の唯一性は否定し得ない▼ヒトラーの記憶は、スターリンとポル・ポトを持ち出すことで抑圧・排除されてはならない▼新しい歴史意識とナチズムの相対化▼各人の立場はどこで分かれるのか――国民宗教の代用としての歴史を持ち出しても無駄である▼歴史には禁じられた問いはないはずである▼歴史の公的使用について――ドイツ連邦共和国の公式の自己理解が壊れつつある
重要なのは、戦争目的を度外視した、国家による計画的かつ日常的に行われた特定人種への究極の殺戮行為(一民族の大量殺戮を国家システムの中に組み込んだ緻密な計画性、官僚性と徹底した記録保存、無機質な工業化された死、非人道的思想の徹底性)が、他の戦争犯罪との比較によって「相対化」しうるか、という点だ。アウシュヴィッツと原爆投下はその「矩」を遥かに越えている。
ヒトラーという未曽有の「悪の化身」と彼が率いた強権的犯罪者集団によって、かくも有能で名誉と道義を重んじる誇り高きドイツ人が洗脳され、否応なく加担させられた、などという愚劣な「物語」や戯言で、問題の本質を覆い隠してはならないということだ(大統領演説は政治的禊にすぎない)。
それは、国民性と同居するドイツ的特異性が深くかかわっており、一般市民の関与と罪の所在の確定という問題をひとまず措いて、文明的に開化したドイツ級の民族には類例をみない残虐性が際立っており、ドイツ政府の公式見解である、一人の独裁者、特異な強権的組織の所業=犯罪と限定することにはそもそも無理がある。
それほど、ユダヤ人を標的にして猖獗を極めた残虐行為である「ポグロム」とは比較を絶した民族大量虐殺が人類に投げ掛けられた比較を絶した重大な問題=難問(ἀπορία)なのだという認識は、われら日本人にHiroshimaの悲劇=核兵器に真に向き合うことを促す端緒にもなろう。[完]
官僚制的な徹底性こそドイツの特質である、ということを私は否定しない。そして、イタリア人と違って、ドイツ人やオランダ人や日本人は、組織立った活動ができる国民性をもっている、ということも否定しない。けれども、そのことは、ドイツ人の大多数がユダヤ人をアウシュビッツで毒ガスによって虐殺すべきだ、せん滅すべきだ、と考えていた、ということを意味しない。
人間の罪には露見したものもあれば、隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば、否認し通した罪もあります。・・・その人たちは今日、一人ひとり自分がどうかかわり合っていたか、静かに自問していただきたいのであります、と求めておられるが、ナチスの幹部で実際に携わりながら、アウシュビッツでの自分の罪と向き合おうとしない人々が多かったから、そういう発言をされたのだと思うのである。つまり、アイヒマンもその一人で、自分の実行したこと、アウシュビッツでの虐殺に正面から向き合わず、自分の罪を軽くするために、命令されたからそのとおりした、と証言し、ふるまったのだと私は思う。それは、「我が闘争」が愛読書であった松本智津夫にしろ、オウムの幹部にしろ、林郁夫さんを除いて、地下鉄での化学テロ、「サリン事件」において果たした自分の果たした役割、その動機、について法廷で真面目に証言をしなかった人が多かったことでも、明らかなのではないのだろうか?このようなものは、国民性ではなくて、その人個人の人間性の問題だと私は思う。
私は、子供時代からそのような教育を受けてきたし、父や高校の教師からそう習ったことも相まって、私の解釈する「ソクラテスの産婆術」の真理の探究の姿勢が、正しいと信じているし、反氏は、京都大学哲学科での知見を元に、「私には学識がないから、そういう解釈になる。」と主張される。これも、いくら論争をしても、水掛け論にしかならない、と私は思う。
今未曾有の国家挙げての極悪犯罪=ベルトコンベアー式に、計画的に生真面目に行政機構を通じてユダヤ人を最終処分(大量殺戮)し、膨大な記録を残した。ユダヤ人大量殺戮という計画された罪(ユダヤ人問題の最終解決)は、残酷でも悲劇的でもなかった「普通の人々」によって粛々と実行に移され、聊かの内面的葛藤も呼び覚まさなかった、という驚くべき「健全性」と言う名の居直り、倨傲(ὕβρις)がドイツ人の中にある・・そんなことを主張している 国際派が他にいるのだろうか?反氏は、カルチャーセンターにでもいって、ユダヤの文化、キリスト教、中世ヨーロッパでユダヤ人がどうみられていたか、などの基礎をきちんと勉強されたらいいと思う。
「多くのドイツ人と付き合った」ことが前提条件らしいが、「多く」は自ずと限度、制約があり、過去の厖大な学識の積み重ねがある当該分野について、カ氏のような素人(だから「無学」という)に何が分かるのだろう。
「UNESCO憲章違反」かどうか、それこそ読者の「常識」に任せたい。特段の良識を必要としまい。カ氏のような、独善的で偏狭に満ちた、しかも無学で粗野な割には、自負心だけ異様に肥大した憐れむべき心性(政治意識の社会心理学的分析では「慷慨型」=indignants)だろう。
所詮は素人の稚拙な文章で、せめて【「憲章の“精神”に違反」】と書いたらいいのに、と思う。
「慷慨型」の特質で、性癖ともみえる場当たり的な、反射的な、発作的な反撥(悲憤慷慨)を動機とする投稿にみられる、熟慮を欠く単純な対応は、「慷慨型」について分析した著名な政治学者(永井陽之助)の言を藉りるなら、【近代の内面志向型が大衆世界に適応しえず、フラストレーションに陥り、それを異常な道徳的公憤というスタイルで、その攻撃性と憎悪の情動を政治に投射するタイプ、旧中間層(中小企業者、銀行家、小売商人)によくみられる。異常な公憤、病的な不安懊悩、そねみ、憎悪などをもち、彼らの放出する政治的エネルギーは極めて高い。その異常性が亢進すると、「血も凍るような悲憤型」(curdled indignants)が生まれる。かつてドイツの下層中産階級によく見られ、政治に対する憎悪は底なしであり、ナチズムの破壊的エネルギーの主要な根源となった】(『政治意識の研究』)だろう。
トーマス・マンへの反撥でも明らかなように、カ氏は個人的な好悪を何より重要視する。「敵・味方」識別の政治主義的思考だ。本欄のような比較的客観的な見解が要請される領域、テーマでこうしたパトス(πάθος)偏重、情動過多の偏狭な思考と論理、いかにも過激な直情径行型の言辞は、「狂信」の一歩手前まで行っている感がある。自己認識が足りないようだ。憲法問題や国際協調を論じたり、焦慮を募らせていきり立つ前に、もっと他にすべきことがあるように思う。所詮ナイーブなのだ。その政治認識は、幼稚園生レベルを出ておらず、「☆迦丸出し」、現代の一奇観である。
一事が万事同じという訳ではないが、海外留学体験など、カ氏の場合に限っては、実に他愛もないことが分かる。親族を含め国際派らしいから、カ氏こそが「例外的」存在、即ち成熟しない自然児=「劣悪学生」なのかもしれない。毒にも薬にもならない認識の実態を投稿を重ねるごとに見せつけられ、痛感する。
「孫引きの孫引き」による素人編集者の雑識の寄せ集めである「日本版Wikipedia」の唾棄すべき実態といい、争論の過程で思わぬ発見もあり、気儘に無学のもたらす「投稿慷慨=公害」の惨状を冷ややかに観察し(θεωρεῖν)続けている。余碌というものだろう。
京大哲学科卒の父親の影響は、カ氏自身が告白する確執にも拘わらず、陰に陽に色濃いようだ。昭和6年(1931年=現存なら87歳)以前の生まれなら、旧制中学四年修了で旧制高校に進学できた世代だが、恐らくカ氏が齢70近いことを考えれば戦前に京都帝大哲学科に進んだ組だろう。
大方、三木清に心酔した哲学的マルクス主義思想の心酔者か、それ以外なら心情的な社会主義思想の信奉者かもしれない。
その点で以前、故竹田篤司氏の名著とされる『物語「京都学派」』(中公叢書、2001年)に散見される誤謬を直接指摘して感謝されたことがある。西田幾多郎の弟子で竹田氏の恩師である下村寅太郎の書簡や日記を精査した竹田氏(筑波大名誉教授=西田幾多郎に関する複数の伝記的著作もある)と、例えば、所詮は教育学部卒の「外様」である竹内洋氏の知見など、比較にも問題にもならない水準で、戦前戦後の知識人を論じながら、竹内氏が雑識に基づく問題の「外回り」をめぐって瑣末な議論ばかり繰り返すしかできない所以だ。
京大で哲学を講じても、教養課程や総合人間学部在籍の哲学教師など、たとえ同じ京大哲学科卒であっても、哲学科の正式メンバーとは見なされないのが、京大の「常識」だ。それぐらい、後継者の選定は厳しい。私はそうした習わし、しきたり(ノモス=νόμος)を必ずしも是認せず、「悪弊」と言えば一面の真理だが、アカデミズムの世界はそうした論理と心理で構成されている。
九州、大阪、台北の各旧帝大、東京文理科大やそれを継ぐ旧東京教育大(現筑波大)、広島文理科大(現広島大)、さらに東大と共同の東北大は、京大哲学科の事実上の「植民地」だった。教授人事をめぐる凄まじい競争(闘争)があり、路線をめぐる確執、抗争も当然あった。
しかし、初代哲学科主任教授の桑木嚴翼が後継者に選科出身の西田幾多郎を選んだように、概ね実力主義を貫いてきた歴史が厳存する。
京大哲学科は1996年の制度改革に伴って、京都大学大学院文学研究科・思想文化学系に改組され、1906年(明治39年)9月の京都帝大文科大学哲学科開設から起算して90年の歴史に終止符を打ったが、現在も事情は同じだろう。
いずれにしても、人生は学問の世界といえども、所詮は「生存競争」である。多くは有能な人物が勝ち残っていくシステムであれば長年のしきたり=秩序にも弊害が少なければ贅沢は言えない。
いずれにしても、学問的研究と政治、民主制は別個の原理で成り立っている。学問的思考に「UNESCO憲章」も何もない。自由があるだけだ。カ氏のコメント83の如き懦弱な精神は、学問的思考、本来の意味での真理の探究に道を閉ざす唾棄すべき偏狭な政治の論理であって、本来の「UNESCO精神」に悖るものだろう。
カ氏にかかっては、民衆政(民主制=δημοκρατία)を原理的に批判したプラトンもアリストテレスも「憲章違反」になる。C. シュミットにも学問の、精神の自由がある。晩年の断片に、「哲学者はいかなる観念の共同体の市民でもない、それが将に彼を哲学者にする」=‘The Philosopher is not a citizen of any community of Idea, That is what makes him into a Philosopher.’(from L. Wittgenstein, ‘‘Zettel[1945~1948]’’, 1967.)と書き遺して、集団的思考を排して何ものにも囚われずにものをみることを説いた哲学者のヴィトゲンシュタインなども「憲章精神」の敵対者ということになる。莫迦莫迦しくて、相手にならない。「UNESCO」はカ氏が内実も分からず毛嫌いするカトリック教会並みになってしまうことになる。
それにしても、「無学」というのは、浅ましいものである。83は「無学」故の偏狭さ以外の何物でもない。ほとんど、愚鈍と隣合わせである。
それにしても、ドイツ人は憐れで、あまりにご都合主義的。ヒトラーの『わが闘争』(‘‘Mein Kampf ’’, 1925~1927)を「禁書」にすることで頬被りしている偽善的な姿勢は、スターリンや毛沢東が自由に読めるロシアや中国にも、この点に関する限り劣るということだ。
それほど、ユダヤ人大量虐殺は「相対化」できない未曾有の犯罪であることの証左だろう。
愚鈍さについて考察する前に、ほとんど狂態と言っても差し支えない84,86~91について概観する。
①▼83【フランス人もフランス革命のおり、多くの自分と「思想的に違うフランス人」をギロチンで殺したのではなかったのだろうか?】⇒⇒フランス人が聞いたら、お前たちドイツ人にだけは言われたくない、と言うだろう。フランスは、国家単位で、民族浄化の名の下に、合法的、組織的にユダヤ人を虐殺してない。
②▼84【アーレントが……アイヒマン(中佐)について語った、「自分がなにをしているのか決して理解していなかった」単なる組織の歯車……官僚の「悪の凡庸性」…という主張……法廷戦略上、そうふるまっただけ……ナチスの幹部で実際に携わりながら、アウシュビッツでの自分の罪と向き合おうとしない人々が多かったから、そういう発言……個人の人間性の問題だと私は思う】⇒⇒アイヒマン(Eichmann, K.A.)はユダヤ人大量虐殺の責任者の親衛隊将校。国家秘密警察のユダヤ人担当課長。強制移住、収容政策の立案者。1942年1月20日にヴァンゼー会議でユダヤ人絶滅の方針を決定し、責任者に。終戦時は親衛隊中佐。「個人の人間性」など入り込む余地がない世界で職務を忠実にこなした凡庸な人物。妄説に基づく御託を並べる前にアーレントの当該著書でも読んだらいい。
③▼86【(憲法の国際法に対する優位性の主張=筆者註)丸山真男さん、「超国家主義の論理と心理」の影響が大きい……カール・シュミットは、「政党政治」、「議会制民主主義」を否定し、ナチスドイツ独裁に道を開いた法学者なのであって、良識ある学者などとは、認識されていない……丸山論文は1946年に書かれたものであって、70年以上たって、検証もせず、それを後生大事に「真理だと信じている方」がどうかしている】⇒⇒最近になって漸く丸山眞男の論文「超国家主義の論理と心理」を読んだらしい幼稚園児並みの無学がいい気になって喋喋しており、愚の骨頂。ついでに、シュミットの『現代議会主義の精神史的地位』(1923)でも読んでから御託を並べたらいい。虚勢に終始した憐むべき驕慢(ὕβρις)、唾棄すべき俗物根性(‘Philistertum’)。
知識人批判は著書を読んだ上での話。吉田茂が「曲学阿世」と批判した南原繁を、それだけで共産主義者呼ばわりするのと同じ、デマゴーグ体質。
④▼88【私の解釈する「ソクラテスの産婆術」の真理の探究の姿勢が、正しいと信じているし、反氏は、京都大学哲学科での知見を元に、「私には学識がないから、そういう解釈になる。」と主張……いくら論争をしても、水掛け論】⇒⇒産婆術(μαιευτική)について語られたプラトンの対話篇を一切読まず、「私の解釈する真理」も何もないものだ。それは、「無学」ゆえの無謀な独善という。「産婆術」ついて書かれた解説書や日本版Wikipediaを基にした憐れな素人論議は、カ氏のソクラテスの「産婆術」物語にすぎない。田中美知太郎『ソクラテス』の読解も誤読だらけ。私が原文の該当箇所をすべて示して説いた世界の哲学、古典学会の共通認識である「良識」への、ドン・キホーテさながらの狂信的突進。具体的反論は全くない。カ氏の主張は空理空論の典型で、つける薬がない。こういうのを「往生際が悪い」という。
⑤▼89【反氏のコメント80……これほどドイツ人を侮辱する人を許せない……未曾有の国家挙げての極悪犯罪=ベルトコンベアー式に、計画的に生真面目に行政機構を通じてユダヤ人を最終処分(大量殺戮)し、膨大な記録を残した……残酷でも悲劇的でもなかった「普通の人々」によって粛々と実行に移され、聊かの内面的葛藤も呼び覚まさなかった、という驚くべき「健全性」と言う名の居直り……がドイツ人の中にある……そんなことを主張している 国際派が他にいるのだろうか?】⇒⇒私の見解というより、「悪の凡庸性」はアーレントの主張。その他多くの同化ユダヤ人知識人の見解を、マックス・ウェーバーなどを引証しながら展開した。ドイツの保守派以外の良心的知識人の見解と英仏の研究者の見解も参照。私はドイツに借りはない。商売相手でもない。「国際派」云々はこの際、無関係。ドイツの「無学」な民衆の見え透いた自民族中心主義など相手にしない。
⑥▼89【反氏は、カルチャーセンターにでもいって、ユダヤの文化、キリスト教、中世ヨーロッパでユダヤ人がどうみられていたか、などの基礎をきちんと勉強されたらいい】⇒⇒自分で英独仏、ギリシア語やラテン語で文献を読めない暇な高齢者は「カルチャーセンター」にでも行って、他愛ないお勉強をすればよい。私とは関係ない。講師役の小遣い稼ぎの研究者らと論争になるだけ。素人相手の商売を邪魔する気もない。無駄なことだし、それほど酔狂でもない。
⑦▼90【「ヒトラーはドイツ語を母国語とするが、学校教育を含めて、ドイツ人ではない…」……は歴史上の事実】⇒⇒ヒトラーがオーストリア国籍であることをいくら強調しても無駄。
ナチスや第三帝国の蛮行は、ヒトラーの狂信的、カリスマ的人格からだけでは充分説得力をもって論証できないというのが政治学者の「常識」。それをカ氏が認めたくないだけ。
だから「無学」という[完]
愚鈍さ(‘Dummheit’)ということを考える時、私はこの数日来、再読しているホルクハイマーとアドルノとの共著『啓蒙の弁証法――哲学的断想』(Max Horkheimer und Theodor W. Adorno; “Dialektik der Aufklärung:Philosophische Fragmente.”, 1947年)で、面白い「発見」をした。
啓蒙が、単に無知を啓発するという教育的な文脈や、歴史上の特定の時代を示すものではなく、一般に対立的概念と捉えられがちな「文明と野蛮」に共通する人類の宿痾的な矛盾状態(「文明がその反対の野蛮に転化する」)の表象として位置づけられていることは先に縷説した通りで改めて繰り返さないが、フランクフルト学派として今日知られる批判理論を主導した両者による「完全な共著」であるこの著作には、欧州の反ユダヤ主義について示唆に富むだけでなく、そうした文脈を離れても、啓発に満ちた記述があちこちに散見される。
本書は1933年のナチスの政権獲得後に故国を追われて米国に亡命、曲折を経てカリフォルニアに落ち着いた二人が1939年から44年にかけて執筆したとされる。正確には39年以降に書き留められたメモを基に、42年以降に共同討議が行われ、44年までに脱稿していたと推定される(日本語訳に付された徳永恂氏の「訳者あとがき」)。
「自然を支配することによって自己を確立してきた主体性が、再び「自然へ頽落する」以外の何ものでもない」、弁証法的構造を解き明かすなかで、五つの独立した論文の後に、「手記と草案」(“Aufzeichnugen und Entwünfe”)と題された二十四の断章がある。
その中に「愚鈍さの発生史のために」(‘Zur Genese der Dummheit’)という、まるで、「無学の女王」カ氏のために書かれたような最終章がある。
手持ちのS. Fischer 書店版の『ホルクハイマー全集』第5巻収録の『啓蒙の弁証法』(Max Horkheimer Gesammelte Schriften., Bd. 5, “Dialektik der Aufklärung und Schriften 1940~1950.”, S. Fischer Verlag, 1987. pp. 12~290.)から引用する。
‘Dummheit ist ein Wundmal. Sie kann sich auf eine Leistung unter vielen oder auf alle, praktische und geistige, beziehen. Jede partielle Dummheit eines Menschen bezeichnet eine Stelle, wo das Spiel der Muskelm beim Erwachen gehemmt anstatt gefördert wurde. Mit der Hemmung setzte ursprünglich die vergebliche Wiederholung der unorganisierten und täppischen Versuche ein. Die endlosen Fragen des Kindes sind je schon Zeichn eines geheimen Schmerzes, einer ersten Frage, auf die es keine Antwort fand und die es nicht in rechter Form zu stellen weiß.’(p. 289.)
「愚鈍さはある傷痕なのだ。愚鈍さは多くの行為の一つにかかわることもあれば、実践的・精神的を問わず、すべての行為にかかわることもある。ある人がある点で愚鈍だとすれば、それはいずれも、筋肉の働きが始動に際して促進されずに阻止された、その箇所を示しているのである。もともと組織立てられていないぎこちない試みは、阻止されることによって始ったのだ。子供が際限なく質問を繰り返すのも、いつだって密かな痛みの徴しなのであり、子供にとっては答えも見つからず、正しい形で問いを立てることもできなかった最初の問いの名残りなのである。」(徳永恂訳、408頁、1990年、岩波書店)
「手記と草案」は本文がホルクハイマー、補論(‘Zusatz’)はアドルノの執筆。無学の故に、「正しい形で問いを立てることもできなかった」子供=幼稚園児がカ氏の姿そのものだと考えると、穿っていて興味深い。
本書とは直接関係はないが、1948年夏の世界的学者8人による討議結果をまとめたユネスコ声明(「平和のために社会科学者はかく訴える──戦争をひきおこす緊迫の原因に関して、ユネスコの8人の社会科学者によってなされた声明」)の執筆者の一人がホルクハイマーだ。
「UNESCO憲章」違反を言い募る老媼を泉下で嘲笑しているであろう。
quid pro quo.
‘ὁ γέρων δὶς παῖς γίγνεται’=「老媼は二度子供になる」
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