『現代ビジネス』さんに「日本の憲法学は本当に大丈夫か?韓国・徴用工判決から見えてきたこと」という拙稿を掲載していただいた。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58305
日本国内では韓国大法院の判断に批判的な論調が大半だが、日ごろから日本政府に批判的な弁護士や学者の方々は、日韓請求権協定を見直すべきだ、と主張する。一貫性を保つためには、仕方がないのだろう。
今回の事件は、いい機会だ。日本の憲法学で通説であり、日本の法曹界では絶対的真理のように信じられている「憲法優位説」について考え直してみるのに、いい機会だ。
『現代ビジネス』拙稿では芦部信喜・元東大法学部教授を引用したが、ここでは樋口陽一・元東大法学部教授を引用してみたい。樋口教授は、憲法と条約の関係について、次のように述べた。
――――――――――――
「A説は、憲法の国際協調主義的側面をより強調して、「主権」を国際的制約をかぶったものとして理解し、憲法と条約の形式的効力関係につき、条約優位説をとるにいたる。B説は、「主権の維持」の側面を強調し、憲法と条約の関係について憲法優位説をとる。C説は、さらにすすんで、「主権」の標識として形式上の自己決定の保障だけでなく、実質的な独立性までを要求し、日米安全保障条約のもとで日本国の「主権」が侵されている、と考える。A説の背景には、つきつめていくと、国際法すなわち西洋「文明」社会の法が、「野蛮」な国内法に対して「文明のための干渉」をすることはゆるされる、とする西欧的国際法観がある。それに対し、C説の背景には、国際法すなわち「帝国主義」の支配が、「民族自決」に基づく国内法を侵すことはゆるされない、とする第三世界的な国際法観がある。B説は、その中間に位置する。」(樋口陽一執筆部分『注釈日本国憲法』[1984年]45頁。)
――――――――――――――
樋口によれば、憲法と条約の関係の理解には、三つのパターンしかない。一つは、「西洋文明」を支持し、「野蛮な国内法」を否定し、「文明のための干渉」をする、「西欧的国際法観」の立場だという。もう一つは、「民族自決」を標榜し、「帝国主義」の産物である日米安全保障条約を否定し、「実質的な独立性」を要求する立場である。両者の「中間に位置する」のが、「憲法優位説」なのだという。
言うまでもなく、「憲法優位説」以外の二つの説には、あまりに悲惨な描写しか施されていない。こんな嫌味な描写を見てからもなお、「僕は西欧的国際法観を支持します!」とか「僕は帝国主義たる日米安保条約を否定します!」と叫ぶ者は、それほど多くはないだろう。
もっとも、憲法学のムラ社会の中では、日米安保を否定するかどうかは、学会を二分する大きな踏み絵だったのかもしれない。まして国際社会について語るような連中は、国際法の一方的な優位を唱える異星人のようなものだったのかもしれない。いずれにしても、せまいムラ社会の話だ。
もっとも、司法試験受験を志していれば、ムラ社会の動向にも気を使わなければならない。「憲法優位説」が「中間に位置する」説だと聞けば、なおさら安心して、日本の憲法学会の通説を支持することを誓うのだろう。
だが「憲法優位説」が、「中間に位置する」という説明は、本当に説得力のある議論だろうか。結局、国内法と国際法の関係について、前者の優位を一方的に主張するという点で、全く「中間に位置する」ものだとは言えない立場なのではないだろうか?
樋口教授の見え見えの操作的レトリックに騙されず、冷静に考えてみよう。本当に対立関係にあるのは、国際法優位の説と、国内法優位の説だ。とすれば、憲法優位説が「中間に位置する」ものだとは、認めがたい。両者の二元論的な有効性を認める「等位理論」=「調整理論」こそが、本当に「中間に位置する」立場だ。
日本人にとって今回の韓国大法院の事件は、国際法の重要性を思い出す、いい機会になった。一方的に「憲法優位説」を唱えることの危険性と、「中間に位置する」立場から「調整」をすることの重要性を思い出す、いい機会になった。
憲法9条をめぐるイデオロギー闘争も、こうした事情と無関係ではない。本来、前文にしたがった解釈を施し、国際法との調和を前提にした解釈を施していれば、憲法9条は、争いの種になるようなものではなかった。
憲法優位説は、「中間に位置する」ものではない。憲法学会通説は、「中間に位置する」ものではない。
国際法を尊重し、憲法と国際法の調和を前提にする立場こそが、「中間に位置する」ものだ。国際法も、「ほんとうの憲法」も、そうした「中間に位置する」ものだ。中間に位置していないのは、憲法学通説である。
コメント
コメント一覧 (60)
式典はフランスで、100年前に休戦協定が発効した午前11時に始まった。フランスのマクロン大統領が演説し、「第1次大戦は1千万人の死者を生んだ。戦後、我々の先達は国際協調による平和をめざしたが、復讐(ふくしゅう)心や経済危機がその後のナショナリズムと全体主義を生んでしまった」と強調。そのうえで「自国の利益が第一で、他国は構わないというナショナリズムに陥るのは背信行為だ。いま一度、平和を最優先にすると誓おう」と呼びかけられた。
つまり、第一次世界大戦後、ヨーロッパの国々は、国際協調と平和を目指して軍事力をもたない国際機関「国際連盟」を作り上げたのであるが、「極東の島国」日本は、その戦争の悲惨さを経験しなかったから、プロイセン風の軍国主義に裏打ちされた自国の利益優先のナショナリズムを持ち続け、満州事変という戦争への導火線に火をつけ、連盟の裁定を不服として、国際連盟を脱退し、戦勝国に対する復讐心をもつドイツと手を結んで、第二次世界大戦へと突入してしまった。
篠田教授の、本来、前文にしたがった解釈を施し、国際法との調和を前提にした解釈を施していれば、憲法9条は、争いの種になるようなものではなかった、という主張は本当にそのとおりだと思う。
父は、私が母のお腹の中にいたころは、表立った活動をしていたみたいであるが、会社で左遷されて、私が生まれた後は、表面だっては活動をしていないが、シンパだった。マルクス主義が、いいことか、どうかということではなくて、長崎のキリシタン的に、本来はそうであるのに、そうではないかのようにみせて、あたかも、客観的なふりをされるから、おかしな主張になるのだと思う。
そのために、憲法と条約の関係は、一つは、「西洋文明」を支持し、「野蛮な国内法」を否定し、「文明のための干渉」をする「西欧的国際法観」の立場。もう一つは、「民族自決」を標榜し、「帝国主義」の産物である日米安全保障条約を否定し、「実質的な独立性」を要求する立場、両者の「中間に位置する」、「憲法優位説」の3つの立場しかなくなるのだと思う。どうして、民主的に、お互いの立場を尊重する「国際協調の立場」、というものがないのだろう?これも、「福島瑞穂」さんなど左翼系の人々が率いるデモに参加する人だけが、「市民団体」である、と報道されるのと、同じ現象なのではないのだろうか?
https://blog.goo.ne.jp/kimkimlr/e/58eba9ff23f6746787635c4a51a6e4eb
ケルゼン研究で有名な法哲学者の長尾龍一教授は、等位理論は、異なる次元の問題を混同して議論をしていると批判をしているようです。
http://book.geocities.jp/ruichi_nagao/fitzmaurice.html
https://www.douban.com/group/topic/13248640/
なお、砂川事件最高裁大法廷判決は条約が違憲審査の対象になり得る立場であり日本の判例の立場も憲法優位説を前提にしており、アメリカ最高裁も、Reid v. Covert, 354 U.S. 1 (1957)で憲法優位説をとっており、世界的な趨勢としては憲法優位説が多いとされており、条約優位説をとっているのはオランダやオーストリア等の少数の国のようです。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi050.pdf/$File/shukenshi050.pdf
樋口氏によれば、憲法と条約の関係の理解には「三つのパターンしかない」ということになり、空理空論とまでは言わないまでも、牽強附会な解釈であり、一言で言えば、無駄なおしゃべり(ἀδολεσχία)だろう。
そのうえで検討すると、
▽A説=【憲法の国際協調主義的側面をより強調して、「主権」を国際的制約をかぶったものものとして理解……憲法と条約の形式的効力関係につき、条約優位説をとる】
▽B説=【(国家の=筆者註】「主権の維持」の側面を強調し、憲法と条約の関係について憲法優位説をとる】
▽C説=【「主権」の標識として形式上の自己決定の保障だけでなく、実質的な独立性までを要求し、日米安全保障条約のもとで日本国の「主権」が侵されている、と考える】――と単純に三分法の論理で片付ける。
そうした分類の正当性はひとまず措いて、あたかもB説=「憲法優位説」は、「その中間に位置する」として、特段の詮議もなく巧みにその中立、公正性が刷り込まれる。
その根底には被占領下、連合軍の強制力の下で旧憲法改正草案を提示され、否応なく従わざるを得なかった新憲法制定過程の屈辱(戦争に負けることでしか、明治憲法体制と一線を画する民主的な憲法を自力では構想できなかった)から、事実上「押しつけられた」ことへの、正面からは決して是認したくない隠微な認識が燻ぶる。
篠田さんも指摘するように、見え透いた、しかも出来の悪い誘導=「操作的レトリック」で、唾棄すべき偏向が看て取れる。「法律家共同体のコンセンサス」(暗黙の共通認識)と宣揚される「憲法学界の通説」(「虚義意識性」としてのイデオロギー=イデオロギーがかえって現実〔認識〕を隠蔽する機能をもつという謂い=筆者註)とは所詮、その程度の、子供騙しの「ムラ社会」の論理なのかもしれない。
それが、この国において官僚制的支配構造の淵源にして頂点の象徴的存在である東大法学部憲法学講座の「権威」の名分で制度化されたヒエラルキーとして現存し、その下で学界の多数派を形成して、司法試験制度の「審問官」としての独自の役割を通じて支配構造を確立したのが、今日の憲法学界ということになるようだ。
猿山の餌付けされた=飼い馴らされたニホンザルを観察すると、似た風景が見えるかもしれない。司法試験制度は厳格な資格認定制度であると同時に、教化馴致の装置でもあることになる。啓蒙、啓発とはそういう意味を含む。
そして、国際法、条約の優位性に対抗する“quid pro quo”としての、A説とC説の「中間に位置する」、「ヌエ」的なB説=「憲法優位説」というからくりだ。
そこあるのは、A説とC説を否定的に媒介して正鵠を射ることを期するという態のまっとうな議論ではなく、日米安保条約に対する意思表示が、ムラ社会の住民たる憲法学者にとって「踏み絵だったのかもしれない」と篠田さんが揶揄するような事態を招くに至る。
いずれにしても、「憲法優位説」「条約優位説」双方の二元論的な緊張と対立のなかから本来の正当な解釈の筋道が見えてくるはずで、「中間に位置する」こと自体に何ら積極的な意味はなく、「等位理論」=「調整理論」こそが、客観的で妥当な、しかも立法の趣旨に即した「解」の方向性を示しているように思う。
別な観点から考えるなら、樋口氏の議論は、カントなら「仮象の論理」(Logik des Scheins)、つまり誤った推論として否定的にとらえた弁証論(dialektik)に通じる。つまり、見せかけの虚偽の立論ということだ。
弁証論(dialektik)は、プラトンが特有の論理的区分に基づく概念形成の観点からソクラテスの問答(ディアロゴス=διάλογος)を発展させた概念問答法(ディアレクティケー=‘διαλεκτική’)、即ち‘dialektik’に由来するが,カントが厳しく戒め対象を限定しているのは、プラトンの鋭利な概念分析ではなく、逆に、終始‘dialektik’を悪い意味に捉えて、本来の正しい推論法の対象である分析論(‘ἀναλυτικά’)とは異なる対象、領域の蓋然的推論として捉えていたアリストテレスの問題意識、論証法としての‘διαλεκτική’を指している。
要するに、問題の立て方が間違っている、ということ。哲学的には、客観的認識はカテゴリー(対象を構成)及び悟性(Verstand)の原則である構成的原理(konstitutive Prinzipien)、理念(Idee)は単に統制的原理(regulative Prinzipien)であって、理念は悟性を導き、認識に望ましい方向性を与えるが、事物の本質、実体に関して悟性を指導する資格はなく、認識の限界を示すにとどまる。
悟性は判断の能力であり、理性は推論の能力として機能が異なる訳だ。
心、世界、神という理念は、信仰や課題ではあっても、けっして「認識」の対象ではない、ということだ。理念は客観的実在=現実の避けがたい仮象(Schein)だということである。だから、理念を客観的対象、実在とみる限り、理念は仮象ということになる。つまり、経験的な認識の領域では、統制的原理を構成的原理として使用、混同してはならない訳だ。
この統制的原理と構成的原理をどう誤解したのか分からないが、ある政治学の研究者(中島岳志氏)は、憲法は構成的原理だけでは不充分で、「九条」という統制的原理(規制的原理)が外せないなどと、妙な力点を置いて地上波テレビ番組でコメントしていたのに、「おやおや」と首を捻ったものだ。一致半解の冗語(ἀδολεσχία)は「無学の女王」カ氏だけではないようだ。
ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法』を読むと、その影響という訳でもないが、どことなく人間観察が苛烈になる(プラトンはより根源的だが)。樋口陽一氏が憲法学界という「猿山」の古参格で、長谷部恭男氏をボス猿に譬えるのは不謹慎かもしれないが、誠に人間臭い日本的な風景として興醒めする。
しかし、アドルノは、その完膚なきまでの徹底した大衆文化批判にみられるが如き酷薄な感じがどことはなく軽佻浮薄に流れる気配もあり、文明の自己保存能力の根底さえ掘り崩してしまいかねない否定的弁証法は妖刀の趣がある。
畢竟、矛盾の対立が止揚され、総合的認識に移行しない憾みがある。もっとも、そうした弁証法の捉え方が一面的すぎる訳だが。[完]
遅ればせながら、『現代ビジネス』(11月8日)に投稿された篠田さんの「日本の憲法学は本当に大丈夫か? 韓国・徴用工判決から見えてきたこと」――いま日本政府が追求すべきことは何か」を読んだ。
今回の韓国の最高裁、韓国大法院判決の意味、【司法府は、法理論上、二国間の請求権協定では個人請求権を対象にできない、と判断する】という議論を、いかにも本家のシナ以上に宋学(朱子学)の伝統を継承,重視する彼の「理と情」の国らしい論理立てだと感じた。
篠田さんの指摘するように、韓国大法院は判決で、「請求権協定自体を否定してはおらず、ただその適用範囲に関する新しい考え方を補強した」以上、問題は、文在寅政権側の対応で、【韓国大法院が「植民地支配と直結した不法行為」について語ること自体は、少なくとも国内憲法との関係で言えば、ありうる】との論点は、客観的認識として首肯に値する。日本政府は韓国政府の出方を注視して、努めて冷静に対応すべきだというのも、国際政治的にはその通りだろう。
ここでも「憲法優位説」と「条約優位説」との、所詮は「仮象の論理」でしかない不毛な対立が横たわっているが、【声高に「憲法優位説」を主張し、いわば日本の憲法学通説の国際法に対する優越を主張する】日本の憲法学者の退嬰性、とりわけ、憲法学の基本書を根拠とするような「教条的」な態度は愚鈍にすぎるし、曲がり角に来ているようだ。
確立した国際法規範を踏まえた「法の支配」を少しでも実効的なものにするうえで、本来憲法学者が果たすべき役割を自覚しないどころか、放棄した不作為だろう。
そこにいう「憲法学の基本書」、宮澤俊義の後継者である芦部信喜『憲法』を、引用されている箇所以外の前後を含め再読したが、如何にも表面をなぞった程度のつまらない教科書的記述に終始し、何らの開明も与えない(手持ちの改訂第三版、2002年、岩波書店、354~355頁)。
こちらは、旧法及び外国憲法との比較を含め、樋口氏のような無駄な観念的で図式的な議論はない。芦部氏の教科書のような隔靴掻痒のもどかしさは感じないで済む。
98条の当初の改正草案要綱第93に(【此ノ憲法竝ニ之ニ基キテ制定セラレタル法律及絛約ハ國ノ最高法規トシテ其ノ絛規ニ矛盾スル法律、命令、詔勅及其ノ他ノ政府ノ行為ハ全部又ハ一部ハ其ノ効力ヲ失フ】)、とあり
国会に提出された改正草案、即ち原案94条は(【この憲法並びにこれに基いて制定された法律及び絛約は、國の最高法規とし、その絛規に反する法律、命令、詔勅及び國務に關するその他の行爲の全部又は一部は、その効力を有しない】)、とあった。当初案は、条約は憲法と並んで「最高法規」だったことが分かる。
こうした異同を含め無駄なく記述されており、98条の規定が、米合衆国憲法第6条第2項の、所謂「連邦優越」の規定をほとんどそのままの形で取り入れたものであることが了解できる。
改正論議の過程で、「条約」の文言について「衆議院の修正は、原案の絛約を國の最高法規とする旨の記述を削り、その代わりに98絛第2項を新設して、絛約を誠実に遵守することを必要とする旨を明らかにするとともに、絛約のみならず、確立した國際法規についてもこれを誠實に遵守することを必要とした」とある。
戦前の不戦条約、九カ国条約等の諸条約に違反して、国際法を尊重しなかった反省、教訓を強調するが、特段、「憲法優位説」を強弁していない。
憲法と条約との関係については、条約については、「本項〔98条2項〕は規定上明らかではないが、絛約及び國際法規の國内法的効力を認めているものと解すべきである」(1481頁)とする。
結論として「要するにこの問題は、本項の解釋だけでは解決されず、……」と留保しつつ、「國際協調主義と國民主權主義ないし民主主義のいずれかを重視するかに歸着するが、現在の段階においては國際協調主義は、國際的民主主義にほかならず、眞の意味における國内の民主主義が國際民主主義の成立なくしては、成立しないという新憲法の基本觀念及びその制定の由來からするならば、むしろ國際協調主義を重視して、絛約優位説を採るべきであると考える」(1481~1482頁)と結論づけている。ML氏・5も指摘するように、学説史的には「条約優位説」(国際法優位説)が従前の通説であったことを裏付ける。
どこか、肩透かしに遭ったような気分だが、結局は、「ガラパゴス化」の進展に伴い、通説に依拠する学界主流派が、この点に関する限り、往時より遥かに「偏向」したようだ。この点で、篠田さんの見解は、むしろ古風で、健全なことが了解できる。
いずれにしても、国際標準から隔絶され、独自に進化した日本の憲法学通説の憲法観、九条観は、所詮は、司法とは異なる意味で解釈の通詞であるしかない憲法学者が、過酷な現実と日本の「国家的自立」への真の意味での「対抗重量」とはならず、冷戦後、というか昨今は特に、形を変えた反米主義の隠れ蓑に転化しているようだ(政治的には進歩的でも、思考自体は凡庸で陳腐で保守的)。
米国はよくも悪くも、戦後日本の歪んだ自画像を映す鏡だ。
「(日本人の)生命最優先」、「戦争に巻き込まれなければ大概の事は度外視」という検証されざる国是が、退嬰的価値観の温床になっているとする私の戦後観は、そう見当違いな見立てでもないような気がする。[完]
ただ、現在の問題は、韓国の最高裁にあたる韓国大法院があのような、日本側から見れば常軌を逸したような判断をしたことで、それは、どういう理由によるものか、ということがよくわからない。韓国の憲法上、そのような規定があるのだろうか?それとも、憲法とは全く関係ない反日感情の為だけなのだろうか?
日本の砂川事件の最高裁大法廷判決は、東大系憲法学者には批判されてはいるが、条約が違憲審査の対象になり得るが、砂川事件の場合は、違憲にあたらない、という結論が出た。それを評して、高村正彦氏が、「100の学説より1つの判例」、と主張されているが、韓国の場合、最高裁の判例が、「徴用工に、日本企業が支払わなければならない。」と出ているのであって、日本にとっては深刻なのである。そういう場合はどうなるのだろう?
ふと、宮澤俊義さんがまとめられ、毎日新聞にスクープされて、GHQの反発を受けた松本試案、のどこが日本の憲法として不適格だとGHQにみなされたのか、という点に興味がわいた。
http://justice.skr.jp/koreajudgements/12-5.pdf
それを要約すると、日韓請求権協定の交渉過程で日本政府は植民支配の不法性を認めないまま、強制動員被害の法的賠償を基本的に否認し、これによって日韓両政府は当時の日本の朝鮮半島支配の性格に関して合意に至ることができなかったとした上で、このような状況で、原告らの被告新日鉄住金に対する強制動員慰謝料請求権が日韓請求権協定の適用対象に含まれたとするのは難しいという論理のようです。
したがって、ざっと見た限りでは、日本の確定判決の既判力に関する議論において韓国憲法の議論も関係していますが、基本的には、日韓請求権協定の解釈問題のように思います。今回の事態は、包括的な日韓請求権協定を不当に狭く誤った解釈をした結果、日韓請求権協定に反する国際法違反の判決を確定させてしまったという問題です。これを是正する手段として、日本政府は国際裁判(国際司法裁判所に対する提訴)も視野に入れていると報道されていますが、強制管轄受諾宣言をしていない韓国は応訴に応じないことも可能であり、国際法に関する裁定制度の不備も改善を望みたいところです。竹島問題、中国との尖閣問題、ロシアとの北方領土問題等の領土問題も、国際司法裁判所の管轄権拡大が実現すれば、国際法によって紛争解決をできるのではないかと思います。もっとも、国際裁判の判決を履行しない場合に、判決を実現するための執行措置も整備されないと実効性が乏しいかもしれません。
当時、憲法学者にアンケートでもとったら多くの割合で日本国憲法に違反すると回答したかもしれない。ところが、当たり前だが、先進国ではほぼどこでも国民IDは存在する。英米もそうだし、フランス等も生まれたときから台帳に登録されて管理される。
ドイツでは論争もあってやっと立ち上がったが、個人の福祉や犯罪防止や公共の治安維持のため絶対に必要なものである。納税者番号という形で始まった国もあるが、イタリアのようにその後、出生のときから割り振るように変更された国もある。
将来は、テロリズム対策や移民対策で国家間でやりとりされる可能性が高いと思われる。ところが、極左はスウェーデンなど北欧諸国の福祉制度を常に称賛しながらも、それらの先進的で円滑な福祉制度の基礎に国民を効果的に管理するための国民ID制度があることは黙殺した。
そのようにして世界の真実をろくに伝えずに、メディアを支配下において国民に恐怖感だけ煽って一方的な反対キャンペーンを繰り広げた。個人の権利とか個人の自由などを一見建て前にしてはいるが、ただの無政府主義的な反国家的イデオロギーの押し付けであった。国民は悪質な専門バカに騙されないように見抜かなければならない。
対立または異なる国益(変数、変項)と国益との函数として、変数の値である連立方程式の「解」を求めるように事態に対処することはそれほど困難ではないにしても、国益は一筋縄ではいかない変数であり、これに正義や法、政治的な思惑、権力ゲームが絡むと一層錯綜し、見通しが立たなくなる。
国際協調という美名の衣に包まれようとも、所詮は国益と国益の調整プロセスにすぎない国際政治の現実だからだ。そこに、さらに民意という攪乱要因も加わるのが民主制の宿命で、合理的で妥当な合意形成を困難にする。
以前にも増して、このところ頻りに「人間の所業」(τὰ γενόμενα ἐξ ἀνθρώπων)ということを考える。目下、続けて読んでいる古代ギリシアの歴史家トゥーキュディデースの『歴史』の影響もあるだろうし、ホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法』を久しぶりに精読した影響もあるかもしれない。
私は現在、仕事から解放され、昨秋から「離群索居」の気儘な生活を送っている。長年、在野の研究者(学徒)として会社勤務やフリーランスの傍ら細々と続けてきた西洋古代哲学の研究――主たる対象はプラトンとアリストテレス――の影響で、西洋の哲学的思考の歴史を貫く課題と枠組、論理形式と概念を構築して、今なお支配的影響力を及ぼしている二人に長年親しんできたことからでもあろう、人間(性)は基本的に変わらず、つまり、その性情においてほとんど進歩せず、性懲りもなく過ちを繰り返す救いようのない存在だと考えている。
死ななければ治らない、という意味でギリシア人が人間を称して「死すべきもの」(「トネートス」=θνητός)と呼んでいたことを肝に銘じている。それは単に、不死的存在である神々との対比で可死的存在だとされた以上の含みがあると。
ただ、人生は学問を含め、基本的に楽しむものだと考え、現役時代は人様の何倍も働いたという実感があるせいか、早めにリタイアした。夢も見ない。なにせ、3~4時間寝れば充分で、夢を見ている暇がない。寝ている暇もない(‼)。テレビなど観ている暇もない篠田さんの状況はよく理解できる。
以前にも書いたが、「日出でて耕し、日暮れて止む、帝王の力、我において何をかあらんや」(『十八史略』)という昔日の庶民の心境は私も同じだ。世が少々騒がしくなっても変わらぬ思いであり、焦慮を募らせることもない。
ポール・ヴァレリーが『海辺の墓地』の中で、La sainte impatiene meurt aussi!(「神聖なる不滅の焦慮も、また死ぬ」=P. Valéry, ‘‘Le cimetière marin’’)と詠ったように、思い煩うこともない。
新聞記者だった頃から、自分勝手な人間だったが、ジャーナリストという職業を美名(κάλλος)と考えたことは一度もない。しかし、特権は確かにあって、それに愧じることのない水準の仕事を心掛けた。メディア、特に新聞は社会の木鐸だと思ったこともない。
カトリック作家の曽野綾子氏が、何ごとも「時とともに状況は必ず変わって」いくのだし、それが「現にあるもの」(παρὸν πάθος)という意味でのギリシア語の現実(τὸ γιγνόμενον)ということの原義(アリストテレスの現実態=エネルゲイア[ἐνέργεία]も)と観念している。
「答えを出すのは、人間ではなく、時間である」(曽野『幸福という名の不幸』)というのは正鵠を射ており、経験と成熟がもたらす知慧(φρόνησις)だろう。
ヘーゲルの『法哲学要綱』の「序文」にみえる著名なテーゼ=‘Was vernünftig ist, das ist wirklich;und was wirklich ist, das ist vernünftig.’(「理性的なものこそ現実的であり、現実的なものこそ理性的である」)は、哲学上の真理は「現実の成熟の中で初めて」現れることを示すというヘーゲルの中核思想だ。
哲学ないし知性のメタファーである「ミネルヴァの梟」(‘die Eule der Minerva’)が意味するのもそうした知的な働きの謂いで、現実とは理性との生ぬるい接近や和解、野合ではなく、現実の「構造」を原理的に見抜く「洞察」に宿るということだろう。
しばしば誤解されるが、洞察や認識は事態や世界を直ちに変えはしない。その意味では誠に無力だし、役に立たない。
しかし、洞察や認識に達した人物に不可逆的な変化を迫る。世にいう覚醒である。その意味でなら、人を変え、その人物を通じて間接的に社会を変える持続的な影響力を及ぼす根源的な力を内蔵している。間接的で微弱な性質のもの、しかし、根源的なものだ。そして、哲学も。
その意味で、ヘーゲルの指摘した通り、「存在するところのものを概念によって把握するのが哲学の課題であり、というのも、存在するところのものは理性(die Vernunft)だからである。個人に関して言えば、誰でも元来その時代の子だが、哲学もまたその時代を思想のうちに捉えたものである」からだ(‘Das was ist zu begreifen, ist die Aufgabe der Philosophie, denn das was ist, ist die Vernunft. Was das Individuum betrifft, so ist ohnehin jedes ein Sohn seiner Zeit, so ist auch die Philosophie ihre Zeit in Gedanken erfaßt.’=Suhrkamp社版全集G. W. F. Hegels Werke in zwanzig Bänden auf der Grundlage der Werke won 1832-1845, Bd. 7=‘‘Grundlinien der Philosophie des Rechts, oder Naturrecht und Staatswissenschaft im Staatswissenschaft im Grundrisse.’’[1821], 1970, S. 25.)。
英国政府全権団の大蔵省首席代表として翌1919年のパリ講和会議に出席したのが経済学者ケインズで、連合国側、特に米国のドイツへの政策に憤慨して条約調印(6月18日)を待たずに職を辞し、ドイツから取り立てるべき膨大な賠償金の額がいかに実効性の点で非現実的であるばかりか、将来に必ず禍根を残す内容であり有害でさえあることを著書『平和の経済的帰結』で説いて論争になる。
ケインズの抗議と論争は、ドイツに対する同情や浅薄な正義感からでは全くない。ケインズこそ、「全く夢をみない人」の典型で、その後の展開を経済学者として恐ろしいほど的確に読んでいた。賠償金の原資になるドイツの経済的復興どころか、世界経済に対する深甚な不安材料になることも。
米国はそうした合理的な不安に対する代替可能な妥協策(ドイツの賠償金を可能な限りの減額、英仏の戦債の支払い条件の緩和)を拒否したばかりか、ウィルソン米大統領が提示した国際連盟の創設や、クレマンソー仏首相が「イデオロギーに基づく」と揶揄した十四箇条の講和条件を、実際の条約に具体化させるための戦略を欠いていた。
ケインズの観察によれば、「ワシントンを出発した時には、歴史上、比類ない威望と道義的影響力をもっていた」大統領は所詮は「人生の大半を大学で過ごした人間」で、「ワシントンで効果のあった孤高な態度」は功を奏さず、「運命の予定された生贄として」挫折せざるを得ない鈍重な人物でしかなかった。
勝者はその間隙を縫って抜け目なく立ち回り、「愚鈍」な米国人と「偽善的」な英国人との「理想」に対し、聊かでも惑わされなかったクレマンソーだった。
そうした大国間の角逐と思惑のずれ、ケインズの表現を藉りれば、「審美的にいって最も気品の高いクレマンソー、道義的に最も嘆賞すべき大統領、知性の点で最も鋭敏なロイド・ジョージ。彼らの間の不釣り合いと弱点から絛約は生まれた。それは生みの親のそれぞれ一番下らない特質をもった子供で、気高さも、徳性も、知性も、何ひとつ具えていなかった」(大野忠訳『人物評伝』を一部)出来損ない。
それはやがて世界恐慌を経て、ヨーロッパを新たな破滅の危機に引きずり込む構造的火だねとなる。案の定、ドイツはソ連を西側自由主義陣営で最初に承認する。明白な条約違反だ。ドイツの政治的敗北の証左で、破綻の予兆だ。それは同時に、西側民主主義陣営に対する重大な裏切りとなる(「ラッパロの悪夢」)。
あれから百年、EU政府的官僚支配への反撥や財政問題、現状への不満から各国で簇生し勢力を拡大しつつある右派勢力、難民問題などをめぐって激化した新たなナショナリズムの擡頭や足並みの乱れ、主導権争い、忍び寄るロシアの影など、英国の離脱決定を含めヨーロッパは新たな試練と転機を迎えようとしている。
頼みとする独仏の指導力も神通力は消え失せ、危うさを抱える。
そこにあるのは古くて新しい問題、つまり、トゥーキュディデースの説く「人間自然の性情〔性向〕=‘ἡ φύσις ἀνθρώπων’に基づく限り、このようなことやこれに近いことが将来もまた起こるだろう」(『歴史』3巻82節)ということなのだろう。[完]
この前、BSTBSを見ていたら、「天皇制」と関連して、関東大震災の時は、中国人、朝鮮人に対する流言飛語が飛び交ったが、阪神大震災の時は飛び交わなかった、ことが日本人の救いだ、などと主張している評論家がおられて、びっくりしたが、実家が全壊した私のような者にとって、その人の関心が、神戸の人びとへの同情ではなくて、中国人、朝鮮人の流言飛語だけに向いているということに正直びっくりした。なんども書くが、神戸は国際都市、西洋人もいれば、中国、朝鮮の人もいるが、国籍で差別をしたことは一度もない。高校には、中華学校出身のバイリンガルの方もおられたし、朝鮮出身の人もおられたが、普通の仲間として付き合っていた。
日本の教育は、私が受けたような教育が、典型的だと思うが、韓国では、どのような教育が戦後行われたのか、それが問題なのだと私は思う。反氏には、ワイツゼッカーの狂信的信者と指摘されそうだが、彼の演説には、すばらしい哲学がたくさん含まれているので、つい引用してしまう。彼は、歴史の真実を冷静に、公平に見つめること、そして、人間はなにをしかねないか(この例として、アウシュビッツのユダヤ人虐殺や原爆投下が入ると思うが)、ということを学ぶことが大事だと主張し、ヒトラーのように、偏見と敵意と憎悪をかきたててはいけない、ということを、主張しておられるが、それを韓国の人々や彼らを応援する日本の学者やマスコミの人びとに広く理解していただきたい、と私は思う。
καὶ ἐπέπεσε πολλὰ καὶ χαλεπὰ κατὰ στάσιν ταῖς πόλεσι, γιγνόμενα μὲν καὶ αἰεὶ ἐσόμενα, ἕως ἂν ἡ αὐτὴ φύσις ἀνθρώπων ᾖ, μᾶλλον δὲ καὶ ἡσυχαίτερα καὶ τοῖς εἴδεσι διηλλαγμένα, ὡς ἂν ἕκασται αἱ μεταβολαὶ τῶν ξυντυχιῶν ἐφιστῶνται. ἐν μὲν γὰρ εἰρήνῃ καὶ ἀγαθοῖς πράγμασιν αἵ τε πόλεις καὶ οἱ ἰδιῶται ἀμείνους τὰς γνώμας ἔχουσι διὰ τὸ μὴ ἐς ἀκουσίους ἀνάγκας πίπτειν· ὁ δὲ πόλεμος ὑφελὼν τὴν εὐπορίαν τοῦ καθ᾽ ἡμέραν βίαιος διδάσκαλος καὶ πρὸς τὰ παρόντα τὰς ὀργὰς τῶν πολλῶν ὁμοιοῖ. 〔Θουκυδίδης; “Ιστορίαι”, Γ. 82.2〕
「内乱のために国家も国民も数多くの苦難に見舞われることになった。それは人間の性情(自然的条件=φύσις)が同じである限り、始終起こっていることであり、これからもいつも起こるだろう。たまたま一緒に起こることが、それぞれ変化することによって、程度はもっとひどいこともあるし、またもっと緩やかなこともあり、形態もいろいろ変化するにしても。というのは、平和で事がうまくいっている時には、国家も個人も不本意な仕方で強制に屈服させられるというようなことはないから、その考え方も比較的よい状態にある。しかし戦争は、不自由のなかった日常生活を知らぬ間に取り崩し、手荒な教師となって、現在の状況に合わせて大衆の感情を同化させるからである。」(トゥーキュディデース『歴史』第3巻82節2)
「人間自然の性情〔性向〕=‘ἡ αὐτὴ φύσις ἀνθρώπων’に基づく限り、このようなことやこれに近いことが将来もまた起こるだろう」という歴史家の主張は、ヘーゲル以降の歴史主義史観に慣れた身には、歴史の「繰り返し」を主張した循環史観とみられがちだ。
それは、トゥーキュディデースの二世紀後の歴史家ポルビュオスの循環史観とも異なる。だから、そこに込められた冷厳な認識は、単に「歴史は繰り返す」という程度の凡庸な知慧や今日的な歴史法則、歴史主義を意図したものではない。そこにいう、「法則」に相当するギリシア語ノモス(νόμος)はまた、法、風習,習わし、しきたりという人為的なもので、循環史観が想定する恒常的な必然性(ἀνάγκη)とは逆であり、自然(φύσις)に対立するものだからだ。
トゥーキュディデースは執筆の動機も明かす。
καὶ ἐς μὲν ἀκρόασιν ἴσως τὸ μὴ μυθῶδες αὐτῶν ἀτερπέστερον φανεῖται· ὅσοι δὲ βουλήσονται τῶν τε γενομένων τὸ σαφὲς σκοπεῖν καὶ τῶν μελλόντων ποτὲ αὖθις κατὰ τὸ ἀνθρώπινον τοιούτων καὶ παραπλησίων ἔσεσθαι, ὠφέλιμα κρίνειν αὐτὰ ἀρκούντως ἕξει.〔“Ιστορίαι”, Α. 22.4〕
「それでこの朗読を聞いても、そこには物語めいた要素がないので(興味本位の話が皆無であることは)、恐らく聴衆を楽しませるところが少ないだろう。しかしながら、過去の出来事や、これに似たことは人間普通のやり方(人間性の導くところ=‘τὸ ἀνθρώπινον τοιούτων’)に従って再び将来にも起こるものだということを明確に知ろうとする人が将来出てくるとして、この本を有益と認めてくれるなら、それで充分だろう。」(『歴史』1巻22節4)
ἁπλῶς τε ἀδύνατον καὶ πολλῆς εὐηθείας, ὅστις οἴεται τῆς ἀνθρωπείας φύσεως ὁρμωμένης προθύμως τι πρᾶξαι ἀποτροπήν τινα ἔχειν ἢ νόμων ἰσχύι ἢ ἄλλῳ τῳ δεινῷ.〔“Ιστορίαι”, Γ. 45.7〕
「人間の自然的条件(‘τῆς ἀνθρωπείας φύσεως’)が作用して、何かをしようと心が傾く時は、法の拘束力や威嚇をもって、これをやめさせることができると考える人は、よほど単純でおめでたい。」(『歴史』3巻45節7)
ξυνταραχθέντος τε τοῦ βίου ἐς τὸν καιρὸν τοῦτον τῇ πόλει καὶ τῶν νόμων κρατήσασα ἡ ἀνθρωπεία φύσις, εἰωθυῖα καὶ παρὰ τοὺς νόμους ἀδικεῖν, ἀσμένη ἐδήλωσεν ἀκρατὴς μὲν ὀργῆς οὖσα, κρείσσων δὲ τοῦ δικαίου, πολεμία δὲ τοῦ προύχοντος· οὐ γὰρ ἂν τοῦ τε ὁσίου τὸ τιμωρεῖσθαι προυτίθεσαν τοῦ τε μὴ ἀδικεῖν τὸ κερδαίνειν, ἐν ᾧ μὴ βλάπτουσαν ἰσχὺν εἶχε τὸ φθονεῖν.〔“Ιστορίαι”, Γ. 84.2〕
「危機がこの時点に達し、国内の生活がひどく混乱すると、人間の自然的条件(ἡ ἀνθρωπεία φύσις)が法や習慣の外に出ても不正を行うのが日常になり、感情には流されても正義には従わず、およそ優越するものを敵視するという正体を、好んで人前にさらすようになる。」(『歴史』3巻84節2)
あるいは、こうも訳せる。
「このような危機に臨むと、生活は社会とともに混乱に陥り、人間の自然の性情が人の世の法に勝ち、法に逆らって不正を犯すのが日常となり、激情には負けても正義には譲らず、およそ自分の上に立つもの、自分より優れているものを憎むという正体を、好んで人前にさらすようになる。」
日本国憲法の前文及び第九条に盛られた恒久平和の理想と戦争放棄の思想は理想主義、つまり「美名」の典型だが、それだけで自足し自立し得るものではない。
「戦前は国家の名において、戦後は平和の名において、国家的エゴイズムだけではなく、個人的エゴイズムをも美名をもって正当化し、両者の露骨な対立抗争を避けてきた」(福田恆存)とされるように、よく言えば現実主義的、悪く言えば偽善的な(必然的選択の)日米同盟によって破綻を免れてきた微温的性格は否定できない。それが、護憲派改憲派を問わない戦後の欺瞞的思考の実態だった。
所謂「現実主義」とリアルな現実認識とは必ずしも同じではない。現にあるものだけを頼みとするのが現実的だとするなら、結局刹那主義に行き着く。「ただ現にあるものだけを信じ、希望によって欺かれるな」という思想は、それだけでは正確な現実認識を生まない。
民主主義を機能させるという視点に立てば、民主主義「信仰」は不要なのである。必要なのはリアルな現実認識と、自由以上に戦後の日本人に欠落した正義(δικαιοσύνη)の感覚だろう。日本人の生命だけが尊重されなくてはならない、という戦後的価値観=「共同幻想」からは速やかに脱却すべきなのだろう。
およそ感傷性から遠い点では人後に落ちない古代ギリシア人は、民衆政(民主制)の発案者であると同時に、民衆政への厳しい内在的批判者でもあった。
内乱(στάσις)に伴って民衆(デーモス=δημος)の行った残虐行為を分析するなか、歴史家は民主派にとってデーモクラティアー(δημοκρατία)は「デーモスの勝ち」という意味で、「愚衆の勝手罷り通る」に等しい悪名(δισβολή)だったことを明らかにする。
民主制を生かす原理が民主制自体の中にないことを熟知していたようだ。[完]
https://blog.goo.ne.jp/kimkimlr/e/58eba9ff23f6746787635c4a51a6e4eb」を見て、該当の木村教授の「憲法と国際法」を読んだところ、1点、疑問を感じた。
木村教授は、大学が内部規則でバイク通学を禁止した場合を例にとり、大学規則が法律に優先する(憲法が国内法に優先する)と説く。
すなわち、
「法律ではバイクに乗れても(国際法ではバイクに乗れても)うちの大学の規則ではバイク通学は禁止(その国の憲法ではバイクは禁止)という話と一緒ですね。・・・この場合、バイク通学をすると法律には違反しないが、大学規則違反になる(国際法違反にはならんが、憲法違反になるということになるでしょう。)」
しかし、たとえば、大学規則が「〇〇教徒のバイク通学を禁止する」という内容であったら、どうだろう。
それでも、大学規則が優先すると単純に言えるのだろうか?
この問題は、本来、そういう類の問題であるような気がする。
国際法上の権利がある場合の当該権利主体は国家であり、当該国家の最高法規である憲法で国際法上の権利行使を禁止することは合理的自己拘束として可能なのは理屈として理解できます。
それに対して、法律で国民の権利とされている事項について、大学が大学規則を制定して大学に所属する者の権利を制約することは他者の権利を制約するものなので次元が異なる問題です。同じ次元の設例を作るとすると、例えば、法律上、学部新設認可申請の権利が大学にあるところ、大学の内部規則等で、新規の学部申請をしないことを学部新設認可申請権の権利主体である大学が機関決定した場合があります。
コメント26で紹介した『歴史』3巻84節の「内乱」(スタシス=στάσις)の一般的考察に関する引用箇所、即ち
〔ξυνταραχθέντος τε……δὲ τοῦ προύχοντος·〕の後に続く、84節2の後半部分(οὐ γὰρ ἂν…以下)を字数の都合で脱落させており、読者には不親切なので当該部分の訳文を補足する(立論趣旨には一切影響ない)。
οὐ γὰρ ἂν τοῦ τε ὁσίου τὸ τιμωρεῖσθαι προυτίθεσαν τοῦ τε μὴ ἀδικεῖν τὸ κερδαίνειν, ἐν ᾧ μὴ βλάπτουσαν ἰσχὺν εἶχε τὸ φθονεῖν.
「なぜなら、敬神(τε ὁσίου)より復讐(τιμωρεῖσθαι)を先にして、不正(ἀδικεῖν=ἀδικία)を犯しても利益を先にするというようなことは、妬み嫉みが少しも損なわれることなしに、かくも破壊的な支配力をもっているのでなかったら、起こり得なかったに違いないからだ。」
さらに84節3は、
ἀξιοῦσί τε τοὺς κοινοὺς περὶ τῶν τοιούτων οἱ ἄνθρωποι νόμους, ἀφ᾽ ὧν ἅπασιν ἐλπὶς ὑπόκειται σφαλεῖσι κἂν αὐτοὺς διασῴζεσθαι, ἐν ἄλλων τιμωρίαις προκαταλύειν καὶ μὴ ὑπολείπεσθαι, εἴ ποτε ἄρα τις κινδυνεύσας τινὸς δεήσεται αὐτῶν.
「人間はこれらの事柄について共通普遍の法(掟=νόμους)を求めるのであって、そのような法があれば、万人誰でも自分が躓いた時、自分を救ってもらえる望み(ἐλπὶς)が残っている訳だが、相手に仕返しをするとなると。もしかしたらまたいつか、自分が危険に見舞われ時、その法の援けを必要とするかもしれないのに法を忘れ、予めほかに跡形も残さぬような仕儀に至るのだ。」
いずれも、公共の言論を装いながら、美名を語り(騙り)、実際は嫉妬心,私怨や対抗心、支配欲から、目的のためには手段を選ばない人間性の一面を炙り出している。
第二次世界大戦後、ドイツは50回以上改正したのであって、西ドイツが再軍備をし、NATO軍に参加することを決めた際も、ドイツの憲法、当時の西ドイツ基本法は改正されたのである。それは、東西冷戦下、当時のアデナウアー首相が、再軍備が必要である、と主張され、NATO軍に参加する、ヨーロッパ域内の参加に限る、という歯止めをかけた西ドイツ軍なら、ということで再軍備を英米仏が認めた。そしてそれを実現するためには、当時の西ドイツの基本法を改正しなければ、ならなかったからである。どうしてこの常識的な原則が、最高学府である東京大学の憲法学の教授には理解されないのか、私には、よくわからない。憲法は、キリスト教の聖書、と違って、改正可能なものなのである。 また、70年の積み重ねで独仏間の関係がうまく機能し、クレマンソーのような対独観をフランス大統領がもたれないから、国を超えたヨーロッパ軍構想にまで発展している。きっと、ロシアやイスラム圏の国々が仮想敵国なのだと思うが。
このような主張を「現実感のない夢のような主張」というのだと思う。日本の左翼系憲法学者の主張、日本国憲法9条を死守すれば、日米安全保障条約を破棄すれば、自衛隊をなくせば、日本は戦争に巻き込まれない、というのも、同じで、現実は、日本は韓国と共に、北朝鮮に侵略されてしまうのではないか、と私は危惧する。
そして、木村教授の「憲法と国際法」の文脈でいえば、集団的自衛権の行使を禁止する憲法の規定は、集団的自衛権の行使を許容するに過ぎない国際法に優先するという主張につながります。
その場合、問題になるのは、①現行憲法は、本当に集団的自衛権の行使を禁止しているのか、と、②国際法上許容される集団的自衛権の行使を憲法で禁止することは、日本国として賢明・妥当な行為なのか、ということだと思います。
今日「ガラパゴス化した日本」、井上武史さん、篠田英朗さん、細谷雄一さんの討論を聴いた。素人は、「法律共同体」の解釈に従えばいい、という長谷部恭男教授の説を討論されていたが、司法の世界、立法の世界も法律共同体から成り立っているし、三権分立、の権力者の中に、憲法学者は入っていないのである。国会議員と内閣の閣僚と最高裁の裁判官、彼らに権力があり、罷免権は国民にある。憲法学者の罷免権は国民にはない。また、憲法学者、という名前だけきくと、憲法に対して一番見識があり、公正で、中立な人、というイメージがあるが、憲法学者には、学問の自由、政治思想信条の自由があるから、そうとも言い切れない。それぞれ、その使命として、自分が真理だと思うものを追及しているが、客観的に見た場合、或いは、後世から見た場合、それが必ずしも真理とは言えない、のである。
現在の日本の法律は、「集団的自衛権一部容認」で運用されていて、それは、東大系憲法学者と、解釈も政策論も違う、内閣の法制局長官であった、小松一郎さんがまとめられたもので、彼は、内閣の一員だから、その権力をもっておられるし、法制化された、ということは、最高権力者の国会議員が、総意としてそれを承認した、ということなのではないのだろうか?
戦争は良くない、という場合の「よく」ない、には「善く」ないと「良く」ないの二つの異なる含意があり、「よい」の日常的用法には利害得失=結果としての「善い」(利得)と、「正しい」という意味での「良い」(正邪の正)があって、双方が区別されず不分明な結果、多大の犠牲(利得面で「善く」ない=害失)を払っても行使しなくてはならない「正しい(正当な)」=「良い」武力行使があることが分かり辛くなるのだ、と。
換言すれば、正・邪・善・悪の四項は入り組んでいるから、善・悪(ἀγαθόν-κακόν)を利害得失(利と得[=ὠφέλιμον]・害と失[=βλαβερόν]))のような実質的利得(幸福[=εὐδαιμονία]と害悪(不幸[=ἄθλιος]はその典型)にかかわるX軸、正・邪を正義・不正義(δικαιοσύνη- ἀδικία)のような形相的判断にかかわるY軸ととらえて、意識的に使い分けることが必要になる。実例として、対ファシズム戦争を例に挙げた。
集団的自衛権の行使をめぐる憲法論議は、「法律論―政策論」という地平以前に仮象の論理(Logik des Scheins)と同じ構造であって、譬えて言えば、法律家がよく指摘する事実問題(quid facti, quaestio facti)と権利問題(quid juris, quaestio juris)との混同に伴う論点の相違に帰着するのではないか。
ところで、以前篠田さんが、戦後の日本人が一貫して答えることを避けてきた、端的に言えば、「平和主義」の名の下に正面から向き合うことを避けて常に回答を先延ばしにしてきた問いである「正義」について、【「正義」とは何か――「日本人であっても、時には考えてみたい】という趣旨の問いかけをした。
それは、先の大戦でヴェルサイユ=ワシントン体制に反逆して一敗地にまみれ、惨憺たる被害と屈辱を味わった末の、条件反射とも称するべき過酷な現実(τὸ γιγνόμενον)との邂逅の結果もたらされたものであって、憲法改正を経て戦後は民主制国家として再生を遂げ、首尾よく成功体験を重ねてきたわけだが、二重三重の欺瞞と偽善に禍され、国民レベルという意味で、真の安全保障論議を等閑にしてきたのが戦後の歴史だ。
しかし、それが果たして冷静沈着な認識(ἐπισθήμη)であったかどうかと考えると甚だ疑問で、敗れてにわかに反省して旧軍を断罪しても、同じ日本人である。徹底的に武装解除され、出自が占領軍という事実上の「押しつけ憲法」である日本国憲法で如何に民主主義を鼓吹され、さまざまな民主的改革が進んだとしても、当然のことながら、根っこに燻ぶり続けたものはそう変わるわけはない。
占領軍の初期対日占領方針で不可避となった明治憲法の改正案作成作業は、幣原喜重郎内閣の松本烝治国務大臣を首班とする憲法問題調査委員会に託された。その実質的責任者として松本試案を起草したのが、東京帝大法学部教授の宮澤俊義だったが、それは旧憲法の微温的修正の域を出ない内容だった。骨子が明らかになるやGHQ指導部を失望させ、その結果、GHQ民政局が急遽作成したアメリカ製原案(草案)がその後、日本政府に手交され憲法改正作業の「原点」になる
日本国憲法はそうした出自を含め、普遍的道徳と進歩を信奉する極めて民主的、近代主義的内容を盛り込んでおり、日本の憲法学者の見識と構想力では容易に生み出せない水準の急進的な民主的改革を迫るものだった。
価値相対主義を貫く比類なきケルゼン主義者であった宮澤のような卓抜な学識をもってしても、新時代に適合した憲法案が構想できなかったように、「戦争に負け、占領されることなしに、自分たちの権利を守る憲法も、自分たちに責任を負う政府も、つくることができなかった」(『戦争を記憶する』154頁)のが、この国の傷つき自信喪失した政府と国民の実態だったことを、仮令屈辱的だったとしても、忘れてはならない。
事実上の「押しつけ」憲法への反撥は保守も革新(進歩派)も位相は異なるが同じだ。それは、日本人の心理をさまざまな領域で規定して、自己正当化と否定、自信喪失と居直りを同時に生み出す形で、日本人の自画像を見えづらくした。
「鬼畜米英」から「親米」に無節操に寝返った国粋主義者の自己瞞着、他方で進歩主義陣営は、戦後民主主義を無条件降伏の屈辱を過去への反省と「ゼロからの出発」に変換して消去するもう一つの受け身の反動へと退行した。
唾棄すべき議論で、我々は、とても正義(δικαιοσύνη)など語る水準に達していないことになる。
トゥキュディデースの冷徹な人間観察=(日本人ならずとも)人間性は容易に変わるものではなく、「人間自然の性情〔性向〕=‘ἡ αὐτὴ φύσις ἀνθρώπων’に基づく限り、このようなことやこれに近いことが将来もまた起こるだろう」(『歴史』第3巻82節2)と比較して、今日における「この国」をさまざまな閉塞状況への日本人の向き合い方を眺める限り、問題は新しいようで本質的には変わらない、永遠のテーマであるように思う。
現象面では、安全保障環境の質的変化をはじめ、不可逆的な人口減少や超高齢化社会の進展、生産性の低下に伴う国際競争力の長期逓減化のような構造的な実体的難題に加え、思想=思考レベルでの難題を突きつけられた結果であるのは目に見えている。いつまでも、国際標準から懸け離れたガラパゴス=「愚者の楽園」で観念論議に遊弋していて良いわけがない。思想的に成熟しなくてはならない所以だ。
そこには戦後の日本人特有の甘えがあり、戦前戦後で一貫して変わらない。昨今の野党勢力の児戯に等しい対応を観察していると、政府=お上への反撥は却ってその根深い「お上依存体質」にあることが透けて見える。
片やカ氏が心酔する、旧西独のヴァイツゼッカー大統領演説は、政治的欺瞞と偽善の産物である見え透いた「政治的構築物」ではあっても、見苦しい理屈なりによく練られており、思想的脆弱性を抱えるわが日本より役者が一枚上かもしれない。
我々は政治的にはみな偽善の塊であって、問題は偽善を免れるための認識と作法だろう。‘naiv’な理想主義の迷妄に堕して判断を誤らないよう現実を直視し見抜く知性を磨く必要がある。その意味で、ドイツを「第二の祖国」とするカ氏こそ、格好の「反面教師」かもしれない。
ところで、実際の行為において私たちは、必ず自分がこれでよいと「思った」こと(ἃ δοκεῖ αὐτῷ)をするけれども、それは必ずしも、その人が本当に「望んでいる」こと(ἃ βούλεται)と一致しないし、その違いは無知な者ほど著しいのが実情だ。
論理実証主義(価値情緒説)や批判的合理主義(価値相対主義批判)にみられる、現代の研ぎ澄まされた論理的意識を反映した倫理的(道徳的)判断や言明(陳述=statement)の本質が何かを論じる際に、倫理的言明は「話し手個人の意思決定の表現」という見解を前提に議論を進めるとして、必ず行きつくのが、ソクラテス(実態はプラトン)にとって真の知識とは、何よりも人間の不幸の原因となるような意図と判断との不一致、齟齬であったことだ。
倫理的判断が想定する行為の目的相互間の、所謂 ‘implicational meaning’(含意)に係る知識は、それだけでは倫理的判断の本質である意志的態度(‘volitional attitude’)を変更させるものではなく、ソクラテス流に言えば ‘implicational meaning’ に関する知識であれ何であれ、それが真に知識の名に値するものなら、まさしく「それだけで」当の人物の意志的態度を変更させるだけの力を生む。
むしろ、命令文の論理的構造を仔細に吟味すれば、そこから倫理的言明の認識的または知性的性格を再確認し、知性への信頼回復を目指す方向さえあることが看守される(藤澤令夫「現代における哲学の課題」〔『実在と価値』=『藤澤令夫著作集』第1巻所収〕参照)。
少々込み入った議論なので、以前にも紹介したが、改めて説明する。
人間の生き方に関する「事実」(Tatsache)と「価値」(Wert=ギリシア的には自然=ピュシス,φύσιςと、人為・法=ノモス,νόμος)をめぐる問題があるとして、それと密接不可分な知識、即ちソクラテス(プラトン)的な「知」の役割を、価値判断(Werturteil)を含むという理由だけで厳密な論理的処理になじまないと捨象してしまうなら、およそ一切の「形而上学的」命題(proposition)のみならず、倫理的、政治的領域の公共的思索について、没価値論的分析的命題(事実の直截な「記述的」言明=論理的命題と、意志や態度に係る価値判断〔Werturteil〕を含まぬ没価値的〔Wertfreiheit〕で、「規範的」(normative)ではない言明=経験的命題の二種)以外は、学問的追究を断念せざるを得なくなる。
これを回避するには、知識の客観的合理性を保持しつつ、善や倫理的問題についても客観的妥当性(Objektivegültigkeit)を問い得る「知識」=学問的検討の領域を確保することを目指すというのが、ソクラテス・プラトン由来の哲学本来の総合的視野(σύνοψις)、総観的思考になる。
以上の「思った」ことと「望んでいる」こととの不一致、断絶という構図(意図と結果の齟齬)は、憲法問題と日米同盟を構造的に考える際、とても参考になる。
衛藤は国家が「複雑多岐な目標を追う巨大なレバイアサンであり、ゲゼルシャフト(利益社会)」である限り、その手段の選択について、あらゆる可能性と利害得失を想定する必要性を説くという、今日からみても「正気なあまりに正気な」認識を示している(「安全保障力と国際政治の法則」、1966年、別冊『潮』[『日本の将来』])。
学者の任務は自己の先入見や希望的観測、情緒を排して、目的と集団の関係を冷徹に分析し、「長期的視野から慎重かつ確実な判断」を一般国民に提供することだ、と。その背景には、当時国会で沖縄防衛論争が展開されていた事情がある。
その上で、「コレラ菌のもつ法則性や属性を知らずして、コレラの征圧はできない。研究者には国際政治の法則を見きわめる義務がある。それをおこたって民衆の心情に迎合するような道義論を持ち出して説得にかかる」似而非学者、識者がメディアに横溢する現状は、「人間自然の本性が変わらない限り、またこれからも同じことが起きるだろう」との冷厳な認識からペロポネソス戦争の『歴史』に遺したトゥーキュディデースを想起させる。
このことは、同じ『潮』の通常4月号で護憲派憲法学者の小林直樹が、非武装中立の立場から、日米安保を捨てて共産主義陣営との安保体制を採るという構想を、衛藤の説く日米安保体制の強化への「論理的な対極」として臆面もなく掲げる極端な観念性、党派性に通じる(「第九条と防衛問題の新状況」)。
この程度の虫のよい到底代替案とも呼べない偽善的かつ感傷的姿勢は、護憲陣営に今なお健在だ。
愚にもつかない主観的な信条表明で事を済ませ愧じる気配もいないカ氏が考えるほど、何ごとも、そう簡単な問題ではない。私も、伊達や酔狂でトゥーキュディデースやヘーゲル等を態々原文で引証し、至極厄介な議論(専門的にはごく初歩レベル)を試みているわけではない。
32で【現実性をもつ、ということは、ツキデイデス(?)やヘーゲルの主張を信じることではなくて……】のような、如何にも「無学の女王」に相応しい冗語を並べるが、カ氏の説く現実の観念性は否定しがたい。異論があれば具体的根拠を示し、個々に立論すればよい。
「学識」への憎悪は粗野なドイツの大衆さながら。ヒトラーが憎悪したドイツ特有の教養市民層の存在も知らない、高邁な心(μεγαλοψυχία)を欠いたデマゴーグ。議論の赴くままに殺伐非情に処してきた結果、「激情には負けても正義には譲らず、およそ自分の上に立つもの、自分より優れているものを憎むという正体を、好んで人前にさらすようになる」(トゥーキュディデース『歴史』3巻84節2)老媼を炙り出した。もって、冥とすべきかもしれない。
事実の冷静で学問的な探究をもたらしたことが古代ギリシア人の最大の貢献だとすれば、何が善であり、何が正しいか、二元論の緊張に堪える知性こそ現代人に必須の教養と嗜みだろう。事実と価値の峻別はその前提となる。
「大体において、憤激の程度は、攻撃(者)の知性の程度に反比例する」(M. Warnock)[完]
米国ウィルソン大統領についての評価も違う。米国大統領ウィルソンは、当初の米国の中立姿勢を放棄して戦争を終わらせるための戦争として第一次世界大戦への参戦を決断し、大戦末期にはウラジーミル・レーニンの「平和に関する布告」に対抗して「十四か条の平和原則」を発表、新世界秩序を掲げてパリ講和会議を主宰、国際連盟の創設に尽力した大統領であり、ベルサイユ条約問題では、にドイツへの苛酷な賠償を求めるフランスのクレマンソー首相と鋭く対立した大統領でもある。その国際連盟への米国加盟を、モンロー主義を掲げるアメリカの中立主義に抵触する、と米国の上院が認めなかったのである、と高校の世界史で習った。反氏は、それも、大学で習ったことではないから、俗説、と主張されるのだろうが、反氏の、大学以外の小中高校での教育を「俗説」とされる主張も私の主張とは違う。
第二次世界大戦後の、「ルーズベルトの4人の警察官構想」も、ブッシュ大統領のアメリカは世界の警察官になる、という発言も、明らかに、「ウィルソン主義」の影響で、それを否定する東大系憲法学者、左翼知識人の、「日米安保条約」が日本を戦争に巻き込む、という主張も、私の認識とは違う。逆なのではないのか、と思うのである。
「植民地」についてもそうで、この日本の「植民地」主義がいけない、と韓国の主張は、国際法、歴史から見てどうなのだろう。日本が韓国を併合したのは、1910年なのであって、第一次世界大戦前は、国の交戦権も、侵略戦争も認められていた。問題になったのは、第一次世界大戦後。1918年1月8日、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが、アメリカ連邦議会での演説のなかで発表した平和原則の中で述べた主張からしても、植民地問題の公正な措置、を述べてはいるが、植民地主義がいけない、とは述べていない。本当に、日本の朝鮮統治は、公正ではなかったのだろうか?また、第一次世界大戦の戦勝国英米仏は、植民地を持ち続けたのであって、世界大恐慌の時、ブロック経済をとったから、恐慌の被害をそれほど受けずに済んだのではないのだろうか?
私は、学識を憎悪しているわけではない。単に、反氏とは、学識、それから生ずる主張がまるで違うだけである。
母が晩年よく、「本物を見極めなさいね。」とアドバイスしてくれたが、芸術作品、音楽や絵、詩でも、或いは、政治家でも、思想家でも、本物とまがい物があるのである。statesmanの定義は、やはり、理想をもちつつ、国際感覚ももち、現実の過酷さわきまえながら、我々国民より少し前をゆく、先見性のある人、だと思うが、歴代や現在の世界や日本の政治家の中で、それがだれなのか、と見極める力が我々国民には、求められているのではないのだろうか?
それどころか、【反氏は……大学で習ったことではないから、俗説、と主張される……大学以外の小中高校での教育を「俗説」とされる主張も私の主張とは違う】というのは、カ氏一流の粗笨な読解の典型で、私は一度も大学(しかも入学者の偏差値がかなり高い)で習得した知識云々を根拠に議論を進めたことはない。私の投稿のどこにも、カ氏の主張する「大学優位説」はない。「小中高校での教育優位説」もないが…。
そもそも、大学教育は、平均レベルの知識の水準を上げるために行われるものではない。むしろ、問題の根底を掘り下げていくと、従来は定説とされ、それに基づいて世間的には「常識」とされてきたものが、実際は充分な検証を受けず、無批判に継承されてきたことを、具体的な事例に即して提示するだけである。それを、自分で見極めるための技術(語学も)を伝授し、厳しい訓練を課す場である。カ氏もそれを西独留学で経験したはずだ。幼少のみぎり、実験校である国立大附属校で「批判精神」とやらを学んだはずではないか。今に始まったことではないが、カ氏の立論はご都合主義がすぎる。
例えば、カ氏がそれについて、「右も左も分からない」無知を曝け出す「ソフィスト」(Σοφιστής=sophistēs)についての場合が典型だった。
☆傲慢は、何があろうとどこかで元を取る。虚栄を棄てる時ですら、何ものをも失わない。(ラ・ロシュフコー『箴言』33)
ソフィストのヒッピアスを始原とし、これまた著名なソフィスト・ゴルギアスの弟子で、プラトンと同時代のアテーナイの令名高い教育家イソクラテスが、その学校を通じて普及させた普遍的教養の理念として、歴史上、ヨーロッパにおける正統的な教育理念(παιδεία=‘humanitas’)の一つの源流になっていく。その教育理念はキケロに継承され、ルネサンス期のぺトラルカに引き継がれていく。
要するにソフィストも「単なる」詭弁家ではない、ということだ。そして、ソフィストに悪名を着せたソクラテスやプラトン、ややトーンダウンするが同調者のアリストテレスは、むしろ例外的存在だということになる。しかし、彼らはソフィストの実力を充分認識しており、ソフィストの弁論術をソフィスト自身がより発展させた争論術(ἐριστική)、所謂、問答競技の術は、プラトンの精密な概念分析である分割法(διαίρεσις)を通じて、アリストテレスの完成された推論の技術の集成である論理学(三段論法)に発展していくことになる。
それを日本の「無学」(ἀπαιδευσία=‘sine litteris’〔中世ラテン語だと‘sine literis’〕)な辞書編集者が、プラトンその他、古代の著作や具体的な証言に基づくものではなく、後世の伝承や根拠なき訛伝、即ち間違った風説の寄せ集めにすぎない。検証されざる辞書的「常識」を基に、辞書から辞書を作る形で、誤った「ソフィスト像」を伝播しているのが、カ氏が頼みとする辞書的「常識」の他愛のなさで、それにしがみつくカ氏の☆鈍さだ。
俗説や訛伝よりも古代ギリシアの実態に近づいた定義を試みており、カ氏のような「学校のお勉強」の水準にとどまって居直る愚を免れている。日本の辞書編集者の「教養の質」も問われよう。
閑話休題。カ氏の持論である、ゲーテ流の【「哲学」から距離をおいた、つまり「常識」の立場】の他愛のなさは以前も指摘した(11月3日・54)のでここでは繰り返さないが、【歴史の追及の立場、つまり、ヘーゲル、ヴィトゲンシュタインから離れた学問の追究が必要……宗教戦争や第二次世界大戦を語る場合、なぜ、それを専門に研究した後世の歴史家の説ではなくて、ツキデユデスの説のみを珍重しなければならないのか】とカ氏は主張するが、ヘーゲル解釈は以前のヘーゲルの『歴史哲学』の肩車に乗った議論を批判した白井聡氏のケースと、カ氏が一致半解で滑稽にも‘aufheben’を喋喋したり、「ミネルヴァの梟」について、学識に基づかない無残な議論を展開しているのをみて、原文を引用したのが主たる趣旨だ。
ヴィトゲンシュタインに至っては、何事にも囚われない学問的討議の自由な精神(哲学はその極致)と、自由検討が放恣に流れるのを戒める「禁欲」に言及したわけで、歴史認識の金科玉条、つまり規準(κριτήριον=ギリシア語の[κριτής]=判定者、審判官に基づく語。元々は[κρῖτέος]=判断、ラテン文字表記は‘criterium’、英語の‘criterion’)ではない。
現代の優位性が無批判に信じられているのは、「現にあるもの」(παρὸν πάθος)という意味での現実(τὸ γιγνόμενον)を反映しているにすぎず、大半は書き換えられ、忘却されてしまう暫定的認識を示すものであって、それに観察的興味はあっても、真に学ぶべき価値は少ない。読んで知っていればよい程度に止まる。
プラトンやアリストテレス、トーマス・アクィナス、デカルトやヘーゲルより、原理的思考において現代の哲学研究者が優位性を主張できないのと同じだ。トゥーキュディデースが歴史研究の古典中の古典たる所以だ。
ところで、46の4行目の【ツキデユデス】とは誰のことだろうか。【月で茹です】とか【月で湯です】とでも解読すればよいのだろうか? 流石はマダム瑕疵、つける薬がない。
大方、ヴァイツゼッカー演説にでも酔って、未明からどうにかしているのであろう。
‘οἶνος ἦν ἀληθής’(「酒中に真あり」)とはいうものの、何やら強い酒でも呷って酩酊したような議論である。それほど心酔する「強い酒」を求める動機や心性が何かは、言わぬが花だろう。
だから、46末尾の【私は、学識を憎悪しているわけではない。単に、反氏とは、学識、それから生ずる主張がまるで違うだけ】は、相手にするレベルではない。
少しは齢70近くに相応しい「自制心」(σωφροσύνη)をもって、正真正銘の「無学」が学識を語ることの愚かしさを、身に沁みて反省したらよい。[完]
‘μηδὲν ἄγαν’=「分を弁えよ」(デルポイ神殿の銘文)
昨日15日・44で書いたように、つまり、【学識への憎悪は粗野なドイツの大衆さながら。ヒトラーが憎悪したドイツ特有の教養市民層の存在も知らない、高邁な心(μεγαλοψυχία)を欠いたデマゴーグ。それに対して議論の赴くままに殺伐非情に処してきた結果、「激情には負けても正義には譲らず、およそ自分の上に立つもの、自分より優れているものを憎むという正体を、好んで人前にさらすようになる」】という、カ氏の否定しがたい心性を剔抉してみせたが、相も変わらぬ論点ずらしの見苦しい抗弁を繰り返し、あまつさえ、無謀にも「学識」(μάθημα)さえ誇示している。そうした老媼について、さらに分析を進める。
「酒中に真あり」(‘οἶνος ἦν ἀληθής’)は、プラトンの対話篇『饗宴』(217E)にみえる著名な句だが、ホルクハイマー、アドルノ共著『啓蒙の弁証法』にも興味深い記述がある。これも学識を騙る老デマゴーグ(δημαγωγίας)=「無学の女王」カ氏と、ファシズムの温床となった無学で粗暴な往年のドイツの中下層階級について、理解するうえで格好の参考材料になるだろう。煩を厭わず紹介する。
それというのも、前回の安田純平氏に関するトピックスの中で(11日・91)で、カ氏が語るに落ちる態の次のようなコメントを寄せたからだ。即ち、
【第一次世界大戦に負け……ベルサイユ条約に憤るミュンヘンの人々に、その彼(ヒトラー=筆者註)の主張が……受け入れられ、ミュンヘンの人々の賛同を得る……ミュンヘンは、私も住んだが、よそ者をすぐに受け入れてくれる。ビールなどを飲んで一緒に踊ると、一体感を感じ、本当に楽しくなる……条約に不満を抱くミュンヘンの人々が、ビールの影響もあり、天才的に弁論の上手なヒトラーと一体感を感じ、巧みに騙されてしまった結果、ヒトラーが同調者を増やした】
何気なく飛び出した軽はずみな冗語は案外、意味深長だ。
‘‘Zu den Lehren der Hitlerzeit gehört die von der Dummheit des Gescheitseins. Aus wie vielen sachverständigen Gründen haben ihm die Juden noch die Chancen des Aufstiegs bestritten, als dieser so klar war wie der Tag. Mir ist ein Gespräche in Erinnerung, in welchem ein Nationalökonom aus den Interssen der bayrischen Bierbrauer die Unmöglichkeit der Uniformierung Deutschlands bewies. Dann sollte nach den Gescheiten der Faschismus im Westen ünmöglich sein. Die Gescheiten haben es den Barbaren überall leicht gemacht, weil sie so dumm sind.……Hitler war gegen den Geist und widermenschlich. Es gibt aber auch einem Geist, der widermenschlich ist: sein Merkmal ist wohlorientierte Überlegenheit.’(p. 239)
「ヒトラー時代がもたらした教訓の一つに、賢明な識者の愚かさについての教訓がある。ヒトラーの台頭が火を見るより明らかになった時でさえ。まだユダヤ人たちは、いかに多くのもっともらしい理由をあげて、そのおそれはないと言い張っていたか。私はある経済学者がバイエルンのビール醸造業者たちの利害関係を基に、ドイツの画一化の不可能性を証明してみせた談話を忘れることができない。もしそうなら、賢明な識者たちによれば、西側ではファシズムは不可能だということになろう。賢明な識者たちは至る所で無知な輩を手軽に片づけてきたものだが、それは彼ら自身が愚かだったからなのだ。……ヒトラーは知性(Geist)に反し、反人間的であった。しかし反人間的な知性というものもある。我こそは卓越した事情通、というのが、その目印しなのだ。」(徳永恂訳、333頁、1990年、岩波書店)
‘Daß Gescheitsein zur Dummheit wird, liegt in der historischen Tedenz.……Die in Deutschland zur Macht kamen, waren gescheiter als die Liberalen und dümmer. Der Fortschritt zur neuen Ordnung wurd weithin von denen getragen, deren Bewußtsein biem Fortschritt nicht mitkam, von Bankkrotteuren, Sektierern, Narren. Gegen das Fehlermachen sind sie gefeit, solange ihre Macht jegliche Konkurrenz verhindert. In der Konkurrenz der Staaten aber sind die Faschisten nicht nur ebenso fähig, Fehler zu machen, sondern treiben mit Eigenschaften wie Kurzsichtigkeit, Verbohrtheit, Unkenntnis der ökonomischen Kräfte, vor allem aber durch die Unfähigkeit, das Negative zu sehen und in die Einschätzung der Gesamtlage aufzunehmen, auch subjektiv zur Katastrophe, die sie im innersten stets erwartet haben.’ (p. 239~240)
「賢明な識者が愚かさに通じるケースは、歴史の動きのうちにもみられる。……ドイツで権力を握った連中は、リベラリストよりも賢明であったし、かつ愚かでもあった。新秩序への進歩を主として担ったのは、進歩から落ちこぼれたという意識を持った人々、破産者や異端者や馬鹿者たちだった。彼らは自分たちを支配する権力が、すべての自由競争をさしとめてくれるかぎり、どんな誤りを犯そうと、それによって大した損害を受けるわけではない。しかし、国家間の競争においては、ファシストたちは、単に同様に誤りを犯しかねないというだけではない。浅慮、頑迷、経済的諸関係への無知といった特性のために、そしてとりわけ、マイナス面をも目に入れて全体状況の評価に資するという能力に欠けているため、彼らは主観的にも、心ひそかにいつも予期していた破局へと突き進んでいくのである。」(徳永訳、333~334頁)
ファシストに限らず、「浅慮、頑迷、経済的諸関係への無知……とりわけ……全体状況の評価に資するという能力に欠けている」のが、ファシズムを支えたドイツの民衆のようだ。
頑迷と浅慮、カ氏も撰ぶところはない。
‘Als Hitlers Wahlziffen stiegen, bescheiden zurest aber insistent, war es schon klar, daß es die Bewegung der Lawine war.…… In Deutschland hat der Fashisums gesiegt unter kraß xenophober, kulturfeindlicher, kollektivistischer Ideologie. Jetzt, da er die Erde verwüstet, müssen die Völker gegen ihm kämpfen, es bleibt kein Ausweg. Aber wenn alles vorüber ist, braucht keine freiheitlich Gesinnung über Europa sich auszubreiten, seine Nationen können so xenophob, kurturfeindlich und pseudkollektivistisch werden, wie der Fashismus war, gegen den sie sich wehren mußten. Auch seine Niederlage bricht nicht notwendig die Bewegung der Lawine.’ (p. 251)
「ヒトラーの票数が。初めこそ緩やかでも、着実に伸びを示した時、それが雪崩の胎動であることは、すでに明らかだった。……ドイツではファシズムは、どぎつい外国人憎悪と文化敵視に充ちた集団主義的イデオロギーのもとで勝利を得た。そのファシズムが地表の全体を荒廃させつつある今、諸国民はファシズムと戦わねばならない。他に逃げ道は残されていない。しかし、すべてが過ぎ去ったとき、自由を求める心情が、ヨーロッパ中に拡がるとはかぎらない。ヨーロッパの諸国民が、かつて抵抗せざるを得なかったファシズムと同様に、外国人憎悪に燃え、反文化的、擬似集団主義的になるということも、ありえないわけではない。ファシズムの敗北さえ、必ずしも雪崩の動きを食い止めるとはかぎらないのである。」(徳永訳、351頁)
言うまでもないが、アドルノもホルクハイマーもドイツ人だ。カ氏のドイツ観は一面的すぎる。
欧州で現在起きていることは、古代の歴史家が抉り出した「人間自然の性情」が如何に牢固としたものかを物語る。
ヴァイツゼッカー演説に心酔したナイーブな魂には現実を衝き動かす底流が何も見えていないようだ。
そのどこが「経験知」か、知れたものではない。[完]
また、玉井克哉東京大学教授・信州大学教授(知的財産法、行政法)は、ツィッター上で「「憲法優位説」は国内法として憲法が条約より優越するというもので、その結果として条約を履行しなかったときに国際法上責任を問われる可能性は別にある」とされています。
https://twitter.com/tamai1961/status/819220936633118720
これに対して、条約優位説をとった場合は、国内法的にも条約が憲法に優越し執行されることになるので、国内法と国際法の抵触問題は生じず両者を調整する必要が生じないことになるので、全くの私見ですが、「等位理論」は、抵触の余地が生じ得る憲法優位説を前提にした国際法上の理論のような気もします。
https://kumagaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=695&item_no=1&page_id=33&block_id=47
最近の国際法学の議論では、国際法と国内法の関係についての国内法平面(条約の国内法的効力)では国内法優位で、国際法平面(条約の国際法的効力)では国際法優位ということで二元説的に分析した上で双方の調整を図る「新二元説」とも評される「等位理論」が通説的地位を占めています。現在、韓国政府内で今回の大法院判決を受けた対応を検討中のようですが、韓国は、①判決を無効化する措置をとるか、②司法権の独立の関係で①が難しい場合は民事強制執行手続がされることによって新日鉄住金に生じた損害を賠償すべきです。
植民地支配に直結する慰謝料請求権であることを理由に日韓請求権協定の範囲外とした大法院の多数意見(7名)の判断が論外なのはもちろんですが、原告らの請求が請求権協定の範囲内とした上で外交保護権のみが放棄されたという結論同意意見(3名)も妥当ではありません。大法院反対意見(2名)が述べるとおり、実体法上の請求権は消滅していないとしても、裁判上訴求すべき権能を失った「自然債務」化した権利にすぎない(日本の最高裁平成19年4月27日第二小法廷判決の調査官解説参照)「救済なき権利論」(日本政府の主張)が国際法実務です(別件のICJ判決でも傍論ながら、その点を是認する判断をしています。)。
ワイツゼッカー演説にあるとおり、1985年の時点ですでに、西独は国際社会で尊敬され、信頼に足りる国だ、と思われていた。ナチス時代の反省をし、国際協調、自由と民主主義を国是とするということを鮮明にした西ドイツ、その西ドイツ人が信頼できる、と思われていたからこそ、東西のドイツの統一を、英仏米、ソ連のゴルバチョフ大統領も認めた。戦後すぐ、ナチスを思い出す時代なら、あのような統一は認められなかったろう。ドイツが地理的に見ても、人工的に見ても、大国化するわけなので。
私が西独に留学した最初の頃、母が、あるパーテイーで西ドイツの領事の方とお話しした時、「娘がお世話になっています。」とお礼を言ったら、その領事の方は、「ドイツ人には悪い人がおおいでしょう。」と答えられたそうで、母は、「そんなことはないと娘は言っています。本当に親切にしていただいているって。」と答えたと手紙にあって、とても不思議な気がしたが、ワイツゼッカー演説を聴いて、ドイツのドキュメンタリーを見て、戦後すぐは、ドイツ人はそのような目で外国の人々に見られていたんだな、と理由がわかった。反氏のドイツ人観というのは、その時のままである。あれから、何十年たったのだろう?
本当に、そういう当たり前のことを、当たり前に受け止めることが、日本のマスコミ関係者には求められている、と私は思う
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。