先日、ゴーン事件をめぐる東京地検の態度に、プレゼン力の欠如を感じるという内容のブログを書いた。http://agora-web.jp/archives/2035966.html
順天堂大学医学部が「コミュ力の高さ」を理由に女子受験生の一律減点をしていたという事件を見ても、日本社会が抱える問題の根の深さを感じる。
私自身は、家族や知人の入院・出産等をへた経験からは、欧米諸国の医者と日本の医者では、圧倒的に欧米諸国の医者のコミュニケ―ション能力が高いと感じている。そもそも根本的な態度のところで、決定的な差があると感じている。
医者のような人間を相手にした仕事で、人間とコミュニケーションをとる能力は、職業能力の中核を占めるはずだ。欧米社会では、そういう価値観が当然視されていると思う。日本では違うらしい。
日本の法律家の間でも、司法試験対策で憲法学の基本書を丸覚えしたペーパー答案を書く能力だけを競い合い、基本的なコミュニケーション能力、あるいはそもそも物事を丁寧に議論する態度を軽視したりする傾向が生まれていないか。
「篠田の言っていることは芦部信喜『憲法』と違っている、したがって篠田は間違っている」といった思考態度が蔓延していないか。
12月10日発売の雑誌『VOICE』に元徴用工問題を論じた拙稿を掲載していただいた。編集側で、「教条的な国内法学者の異常さ」という題名をつけていただいた。
日本政府は韓国大法院判決を、「国際法違反だ」という立場をとっている。それはそれでいいと思うが、東大法学部の憲法学者の権威に訴えるペーパー答案作成技術のようなものだけで、この状況を乗り切れると思ったら、痛い目にあるだろう。国際社会に効果的に訴え、韓国とも上手に対峙していくコミュニケーション能力が必要だ。
受験で不利な立場に置かれた者たちにこそ、活躍の機会を与えなければ、今後ますます日本社会は立ち行かなくなっていく危機感を感じる。
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韓国のことである。所謂「元徴用工」による賠償請求訴訟の韓国大法院判決と憲法優位説に関するトピックス(11月12日・11)の中で、【いかにも本家のシナ以上に宋学(朱子学)の伝統を継承、重視する彼の「理と情」の国らしい論理立て】と書いた問題だ。つまり、日韓のコミュニケーションの齟齬と、それに伴い問題になってくる相手または第三者(例えば国際社会)へのプレゼンテーション能力の巧拙の問題ということになる。
韓国は日本の面積の約26.38%、北海道の約1.2倍10万平方㌔弱の国土に4,833万人がひしめき合う、激烈な競争社会だ。人口密度は1平方㌔当たり485人で、台湾(637人)には届かないが、日本(336人)の1.44倍になる。学歴社会で、おまけに高齢化のスピードは日本を上回る。極めてせっかちな国民性とされ、歯磨きに3分を割く国民は少数派だという。
「情」(チョン)の国と言われる。「恨」(ハン)と称される負の情動の迸りがしばしば指摘され、朴僅恵(박근혜)政権を倒したロウソクデモや政権交代で法の支配の重点がしばしば移動し、報復合戦が絶えない、前近代的な激情性が顕著で情緒的な国民気質と思われがちだが、庶民はともかく、エリート層はそうでもない。極めて理詰めで、情とは対蹠的な「理」の側面を覗かせる。
この一見相反し、矛盾する外貌を見せる対照的な国民気質を根底で支えるのが、先のコメントで示した、【本家のシナ以上に宋学(朱子学)の伝統を継承、重視する……論理立て】の趣旨だ。
要は、彼の国なりの緻密な論理がある、ということだ。日本による所謂、植民地支配、日本側からみたら当時の国際ルールに沿った合法的なもので、心情的には激動期に統治能力を具えた同胞指導者を欠いたことを同情しこそすれ、「併合」について国家間の合意の結果であって、国際法上、特段の瑕疵はない。
韓国人の心性に深く根をおろしているのが朱子学的な「心性論」だと言われる。心的構造の二重性を「性=理」と「情=気」とに分け、心統性情、つまり「心ハ性ト情トヲ統ベル」として性と情は一体化することを理想にとことん追求するのが、彼の国の国民性の根底にある民族性だということだ。
朱子学の故国中国でももはやお目にかからなくなった精神的資質。それが朝貢関係を通じて長らく隣接する大国シナと、屈辱を押し殺してつき合わざるを得なかった歴史の根底に蠢いている。
シナが、つまり明朝が腐敗堕落を極め、謂わば「耐用年数」が過ぎた末に、人口一億人超の帝国が北狄の百万人程度の女真族の一部族に征服された無様さを内心蔑み、孔子が「周の文化=文明=華(中原の文明=中華)」としたのを受け、本家シナ以上に文化的自民族中心主義(ethnocentrism)の自負心を高ぶらせる。
仏教擁護の前王朝高麗を滅ぼし儒学を国是とした李氏朝鮮の建国精神に連なり、以後五百年余にわたり、シナ文明の正当な継承者として「小中華」を任じる朝鮮民族の矜持であり、文化的アイデンティティーになった。
儒教文化の故国シナが、周縁の夷荻に征服されるなかでも一貫して伝統を守り抜いたという「自負」だ。
その点で、周縁の夷狄=非文明圏である日本の下風に立つことに抵抗があるのは否めない。その存立根拠を突き崩したのが、ほかならぬ日本統治だった。近代化を促進させた側面さえ忘却させる「悪夢」になる。
今日に繋がる、半島の歴史の論理で、物語思考とばかり黙殺できない所以だ。
日本にいると、あまり報道されないが、香港で、テレビを見ると、英国のBrexitの問題と、フランスのマクロン大統領のデモ、の問題が最初に来る。日本では、どうして、この西欧のニュースの扱いが低いのかよくわからないが、その様子を見ると、英仏の政治指導者が、必ずしも、説明が上手である、とも思えない。メイ首相の不信任決議案が否決されたが、この英国のBrexit離脱案が、英国の議会で承認されるかどうかは不透明である。英国のこの状況は、「反イスラム」が原因だということが、BBC放送でよくわかったが、日本のマスコミは、そのような報道をまるでしてくれない。その為に、日本人の国際理解が進まないのだと、私は思う。
また、ワイツゼッカー演説に戻るが、我々にとって大事なことは、他の人びとに敵意や憎悪を書きたてることをやめることだと思う。ドイツの場合だと、ロシア人やアメリカ人、ユダヤ人やトルコ人、オールタナテイブを唱える人々や保守主義者、黒人や白人に対するものだそうであるが、日本の場合は、米国人やロシア人、韓国人や中国人、になるのかもしれないが、我々は、敵意や憎悪に駆り立てられることなく、デイベートのような討論の手法ではなくて、互いに理解し合って生きていくことを学ばなければならない、のではないのだろうか?そうすれば、元徴用工問題も、従軍慰安婦問題もいい方向に解決する、と私は思う。
憲法解釈に限れば、しかも安全保障環境に特定すると、それは憲法9条が想定する「静的状態」を遥かに越えて激しく動く国際情勢や、法が法律外の事項として明文化しなかった政治過程から取り残された、日本独自の形態である、所謂「ガラパゴス化」的な進化、その実は退化、退嬰化に堕していることは篠田さんが正当にも指摘した通りだ。
しかしその一方で、当然ながら憲法は9条だけでなく他の条文もあり、一言で憲法学者と言っても各々固有の専門分野に分かれるのが現代アカデミズムの習い(時に通弊)だから、現実は現実として受け入れざるを得ない。
それが仮令、自由と民主主義を奉ずる民主制国家であったとしても、代議制を前提として制度化された官僚制機構を基盤に運用されている以上、容易には変更できないのが現実だし、権力の運用過程、その一形態である「法の支配」の安定と秩序と信頼性、規範性を維持するために、専門知を有するエリート層の制度的選抜措置(国家試験制度)によって確立された「優越的支配」を招かざるを得ないのは理の当然であって、マックス・ウェーバーの根源的問題提起をまつまでもなく、他により良き、つまり代替可能な制度的保障措置があるとも思えない。
法の恣意的解釈に基づく運用は、「法の支配」自体の正統性にかかわる問題を惹起しかねないからだ。問題は、制度化以前の所にある。
論理的‘consistent’に、つまり前件‘antecedens’から後件‘consequens’が正当に導出されたか、と言えばそうとは言えない現実がある。
つまり、‘non sequitur’=前提と合致しない不合理な論証、即ち虚偽の推論なのだ。この点で、憲法学の最も標準的な教科書として推奨される芦部信喜『憲法』に代表される9条解釈以外の解釈を排除する点に至っては、聖書のラテン語訳「ウルガータ」(“Vulgata”)によって聖書解釈を独占した、宗教改革以前のローマ・カトリック教会にも劣る、前時代的退嬰性を抱えていると言わざるを得ない。
余談だが、“Vulgata”はルターのドイツ語訳聖書よりも学術的には遥かに正確なものだが、カトリック教会の制度的頽廃によって、4世紀末にそれをブライ語とギリシア語からラテン語に翻訳したヒエロニムス(Hieronymus, Sophronius Eusebius, c. 346~419/20)の解釈の水準を維持できず、特に末端の司教、司祭には学識水準低下に伴う解釈の混乱もあって、改めて残る写本を比較検討して(“Vulgata”は一冊の確定した書物として伝承されていた訳ではない)、テキストを確定する必要に迫られた。
プロテスタント諸派による各国語訳が相次いだのに対抗して、反宗教改革の宣戦布告でもあった1546年のトレント公会議で、教会公認版“Vulgata”の作成が決まり、実際に完成したのがほぼ半世紀後の1592年だったことは銘記されてよい。
偏狭で旧弊とされる宗教、とりわけカトリック教会だって日本の憲法学界より進取の姿勢があることだ。
あたかも、東大系憲法学者の意見が、正論であるかのように報道するマスコミ、の責任も免れない。日本国憲法の三権分立の精神から言えば、最高裁判所の判事には、それを判断する権力が与えられているが、東京大学の憲法学の教授には与えられていない、という原則が、法律の専門家であるはずの弁護士会の人びと、に無視されている、ということも、致命的だと思う。また、我々国民が与党に選んでいる、自民党の政治家を、権力のチェック、という名の元に、利権主義者、信用のできない人々であるかのようなイメージを植え付けている日本のマスコミ政治部の記者、それによって、世論は動かされ、なんとなく、日本国憲法9条を改正すると、日本は戦争に巻き込まれる、というイメージが日本国民に広がるのである。
ドイツについても、カロリーネドクトリン、などと反氏は主張されるが、これが、標準的なドイツ文化の解釈である。ドイツ文化センターは、Goethe Institutであり、Adorno Institutではないし、ドイツ文学史の本を読めば、ルターが聖書をドイツ語に訳したことから、ラテン語ではなくて、ドイツ語で自分たちの文化を表現しようとしたことは一目瞭然だし、アカデミー賞をとった映画「アマデウス」を見ても、モーツァルトがその趣旨で、「魔笛」の台本をドイツ語の台本にしていることがわかる。
明治維新以降、ある一時代を除けば、日本のやり方の方が、よほど優れているのではないのだろうか?
その「根拠如何」を問う前に、この救い難い妄想に狂奔する心性こそ、錯乱して神がかり状態(ἐνθυσιασμός)の巫女(προφῆτις)の戯言にも等しい誇大妄想的プロパガンダを生む訳で、まさに文学的政治主義の極致のような「ドイツ教(狂)」の「お告げ」(μαντεία)を見せられた印象だ。
一体どうやって、60年安保のイデオローグでもあるまいに、三権分立や【最高裁判所の判事】云々の粗雑な論理で、憲法学が【教育界、司法界、言論界……に、反米、反資本主義、親マルクス主義の思想傾向】に拠ることを論証するのだろう。吉田茂に「曲学阿世」と揶揄されただけで、日米開戦阻止に奔走したキリスト教徒の南原繁が「共産主義者」と言い張る、カ氏の粗雑極まる立論は狂気の沙汰だ。
典型的な虚偽の前提(少なくとも検証も証明も不可能な命題)に基づく虚偽的議論、即ち前提と結びつかない不合理な論証、即ち非「妥当な推論」(‘non sequitur’)=であり、「不当理由の虚偽」(παραλογισμός)ということになる。
前提が虚偽か検証不能だからそもそも真の結論は導きようがなく、意図的に行っているのだとすれば、将に見境ない政治的攻撃を躊躇しないデマゴーグ(δημαγωγίας)気質の「左翼的」心性こそ、カ氏の正体らしい。
研ぎ澄まされた論理意識で神学や哲学的テーマを論じ、法律論を展開した中世の「優れた人々」(βελτιοι)の足許にも及ばない「無学」たる所以だ。
☆傲慢は借りをつくることを望まず、自己愛は支払うことを望まない。(ラ・ロシュフコー『箴言』228)
だから、出来の悪い作り話(μῦθος=虚構であり神話)めいたご気楽な物語思考に浸れるわけで、自身がお告げ⇒神託を仲介する巫女=女祭司(προφῆτις)気取りなのか、神託を取りもつ託宣師(χρησμῳδός)なのかは知らないが、私以外が批判したり、からかったりすると怒り(ὀργή)に触れ、思わぬ祟り(ἀθλιότης)があるかもしれない。
前回のトピックスでプラトンの対話篇『饗宴』を取り上げた際、他の名立たる参会者と並んで演説し、エロース讃美の「奥義」を説いたマンティネイアの婦人「ディオティマ」(Διοτίμα)なる架空の人物がいて、その内容を極めて不正確ながらカ氏も言及していたから、この「ゼウスの名誉に与る女性」という意味をもつ知的な女性にあやかって、トピックスが変わっても酩酊したような議論に現を抜かしているのかもしれない。
女性の故国「マンティネイア」(Μαντίνεια)は何やら預言的な(女性)=マンティケー[μάντική]という託宣師を髣髴とさせる響きもあり、誇大妄想癖のあるカ氏にお似合いかもしれない。
いずれにしても酔いが醒めぬのか、「別の信心」に逆上せ上がっているのか、一向に迷妄から覚めぬようだ。
そうでもなければ、11⇒【アデナウアー→ブラント→シュミット→コール(ワイツゼッカー)路線】のような見え透いた小細工で、お飾りの大統領を持ち上げることもあるまい。
カ氏に相応しいのは、御託宣中の御託宣であるデルポイの巫女(Πυσία)が告げる神託、「汝自らを知れ」(γνῶθι σαυτόν)であり、「分を越えるな」(μηδὲν ἄγαν)だろう。
そもそも、ドイツ連邦共和国基本法(所謂ボン基本法)をみれば明らかなように、連邦大統領の地位と権限は、中立的権力(pouvoir neutre)に制限されている。主な職務は、基本法に関する副署、交付、告知を官報を通じて行い、各級の行政行為に関与するものの、大統領の命令及び処分は、連邦首相及び、各事項を所掌する連邦大臣の副署があって初めて有効となるケースが多く、権威は極めて形式的で、外交的には儀礼的な存在にすぎない。
それを「1985年のワイツゼッカー演説は、私にとっては、リンカーン演説以上に価値のあるもの」(6月15日・14)と無邪気に舞い上がる心性を、つくづくお目出度い、というか単純極まる思う。
大統領演説の翌86年から始まった「歴史家論争」のテーマは、何も最大の焦点である「ホロコースト」が他の戦争犯罪と「相対化」可能か否かを含めた第三帝国の位置づけに関する問題ばかりではなく、広範なテーマ、即ちドイツの「跛行的」な近代化に及ぶ。「歴史の公的使用について――ドイツ連邦共和国の公式の自己理解が壊れつつある」という刺激的な表題の論文(ハーバーマス)もあった。
大論争となった論争自体は戦後ドイツの自己認識に関するテーマであって、直ちに決着がつくような性質のものではないが、カ氏のような事大主義的で、しかも文化的自民族中心主義(ethnocentrism)の色濃い「単細胞思考」をみせつけられて、未だ歪んだ事大主義の裏返しである「小中華」意識を拭えない韓国や、独自基準の大国意識剥き出しの中国と大差ない、と嗤わずにはいられない。[完]
ドイツ連邦共和国基本法(所謂ボン基本法)で、なぜ、西ドイツの連邦大統領の地位と権限は、中立的権力(pouvoir neutre)に制限されたかといえば、ワイマール憲法時、大統領の権限を大きくしすぎて、ヒンデンブルグ大統領が大統領の権限で、ナチスの「全権委任法」を成立させてしまい、ドイツがナチス一党独裁になり、ヒトラーがドイツの政治を独裁する権限をもってしまったからである。その為に、戦後の西ドイツ大統領は政治的には権限のない外交的には儀礼的な存在になったが、国家的には元首であり、国民に民主的な選挙で選出され、自分の権限で、演説をすることができる特権をもっている。
戦後40年の1985年5月8日の「荒れ野の40年」のワイツゼッカー演説もその一つであるが、その演説が、中立的で、すばらしいものだ、と西ドイツ国民が判断したから、次の大統領選で、対抗馬なしで、再選され、「東西ドイツ統合の式典」で、ユダヤ系アメリカ人レナード・バーンスタインによる指揮による第9の演奏と共に、ドイツ大統領として、演説された。この意味は大きいし、その象徴的な意味合いを理解しなければならない、と私は思う。
「国家元首」ではあるドイツ連邦共和国の現大統領(第16代、Frank-Walter Steinmeier⇒フランク=ヴァルター・シュタインマイアー=2017年3月就任)さんとは失礼ながら、格が違う。
「1985年のワイツゼッカー演説」は、私にとっては、リンカーン演説以上に価値のあるもの」(6月15日・14)
というのは、そういう意味だし、それは終生変わらない。
ドイツ連邦共和国基本法(所謂ボン基本法)で、なぜ、西ドイツの連邦大統領の地位と権限は、中立的権力(pouvoir neutre)に制限されたかといえば、ワイマール憲法時、大統領の権限を大きくしすぎて、ヒンデンブルグ大統領が大統領の権限で、ナチスの「全権委任法」を成立させてしまい、ドイツがナチス一党独裁になり、ヒトラーがドイツの政治を独裁する権限をもってしまったからである。その為に、戦後の西ドイツ大統領は政治的には権限のない外交的には儀礼的な存在になったが、国家的には元首であり、国民に民主的な選挙で選出され、自分の権限で、演説をすることができる特権をもっている。
戦後40年の1985年5月8日の「荒れ野の40年」のワイツゼッカー演説もその一つであるが、その演説が、中立的で、すばらしいものだ、と西ドイツ国民が判断したから、次の大統領選で、対抗馬なしで、再選され、「東西ドイツ統合の式典」で、ユダヤ系アメリカ人レナード・バーンスタインによる指揮による第9の演奏と共に、ドイツ大統領として、演説された。この意味は大きいし、その象徴的な意味合いを理解しなければならない、と私は思う。
「国家元首」ではあるドイツ連邦共和国の現大統領(第16代、Frank-Walter Steinmeier⇒フランク=ヴァルター・シュタインマイアー=2017年3月就任)さんとは失礼ながら、格が違う。
「1985年のワイツゼッカー演説」は、私にとっては、リンカーン演説以上に価値のあるもの」(6月15日・14)
というのは、そういう意味だし、それは終生変わらない。
「京都大学卒」云々のような下らない問題は無視するとして、【戦後の西ドイツ大統領は……国民に民主的な選挙で選出され、自分の権限で、演説をすることができる特権】は、端的に誤謬である。ドイツは共和制の連邦国家であるが、政治上の最高権力者は、米国やフランス、ロシアなどとは異なり、連邦参議院を上院とすれば実質的下院の連邦議会多数党から選ばれる。大統領は「国家元首」ではあるが、特段の政治的権限を有せず、外交上は儀礼的に元首として遇されるだけだ。
問題は、何を勘違いしているのか、【国民に民主的な選挙で選出され】とカ氏が繰り返していることだ。
大統領候補者とその選出方法について、カ氏が濫用している日本版Wikipediaにも記述があるが、国民の直接投票で選ばれる訳ではない。連邦議会と州代表の間接投票だ。問題の選出方法は連邦議会と16の州議会から比例代表で選出された代表からなる連邦会議(Bundesversammlung)によって行われる。
国民の関心と関与の程度では、選挙戦を通じて国民に直接政策や支持を訴え、激烈な選挙戦を展開する米国やフランスはもとより、一応国民が直接投票をするロシアにも劣る。「お飾り」で名誉職程度に考えておけばよいのが、実態だろう。
それくらいだから、大統領候補は、各政党の勢力を反映して、政党間協議によって人選が左右されるケースが多く、メディアを中心に直接投票制への移行を求める向きも皆無とは言えないが2010年以降、連邦議会での正式提案はない。
こうした実態をみる限り、とても【国民に民主的な選挙で選出】とは言えず、無投票で再選されたことを特筆大書するカ氏の「政治音痴」を裏書きするだけで、「だから何なの?」という程度の話だ。
だから、現職の第16代、Frank-Walter Steinmeierの影も薄く、名前さえ記憶されないような「軽い」名誉職と考えても、大きな間違いはなかろう。カ氏は「我仏尊し」で、「格が違う」と力んでいるが、それもまた「唯我独尊」の見当違いな料簡で、20世紀中は無理だと言われた東西ドイツ統一にこぎつけたH. コール首相とは、明らかに「格が違う」に訂正すべきだろう。
それにしても、選出機関は連邦議会ではなく、連邦基本法第54条に規定された連邦会議だという。選出のための投票を行うだけで実態は集会に近く、討論などは一切ない。
2010年の大統領選挙時の場合だと、選挙人は合計1244人で、50%が連邦議会議員622人(法定定数598 と超過議席24)、残りの50%が各州議会代表622人(ドイツ連邦議会議員と同数)。
「羹に懲りて膾を吹く」の譬え通り、ドイツの連邦大統領とは第三帝国の罪業、所謂「悪夢」の経験から、極めて異形の日蔭者的な制度なのかもしれない。戦後40周年の「安全地帯」から如何に和解と赦しを説き、過去に学ぶ重要性を力説しても、演説それ自体が、コール政権下で首相主導でCDU・CSUという「保守派」の論理から、戦後の憲法patoriotismの軛を逸脱しない形で新しい「国民的プライド」の形成を促そうとした流れの一環であるわけで、カ氏が説く【自分の権限で、演説……特権】など笑止千万で、実態はないに等しい。毒にも薬にもならない、政治的対立がない問題なら可能でも、という話だろう。
現に、コール首相らの戦略は、当時の首都ボン在留の米国大使リチャード・ハートの支持を取り付けた上での「政治的構築物」だったことは、「歴史家論争」でも取り上げられている周知の動きである。ただ、米国側が政治的思惑、というか配慮で、明からさまに「暴露」したりはしなかったようだが。
「無学」にも困ったものだ。
滑稽だし憐れなのは、ことヴァイツゼッカーとゲーテ、「第二の祖国」ドイツの問題になると、日頃盛んに喋喋するトピックスのテーマなどそっちのけで、見境なく、愚にもつかない「投稿公害」(慷慨)に狂奔することで、実に粗野で粗雑だ。その点でもカ氏は戦前のナチスを支持したドイツの民衆と似た心性のもち主で、ドイツの悪い面ばかり慫慂しているようだ。
それもこれも「無学」だからだろう。
閑話休題。以上は、書いていて、実に下らないと思うような議論以前の前提に関する議論で、少し趣向を変えたい。
私はカ氏を比類のない「無学」であると確信しており、単なる無知蒙昧との違いを含め、これまで縷説してきた。無知どころか、厚顔無恥に加え、別種の唾棄すべき醜悪さ(αἰσχρός)についても繰り返し指摘してきた。
年末の習慣で目下、ホメーロスを読んでいる。哲学書や歴史書、政治学書や経済学書ばかり読んでいる訳ではないのは、師の慫慂でもあり、この18日が祥月命日の田中美知太郎氏の教えでもある。あれから33年になる。京都は雪の舞う寒い日の午後2時だった。
ともかく、『イーリアス』(“Ἰλιάς”)の第6巻までを繰り返し読んでいる。ホメーロスを一度でも読んだことのある読者なら周知の事実だが、そこには、繰り返し現われる特定の形容詞、修飾語(句)がある。その中でも特に目立つのが「エピテトン」(ἐπίθετον=epitheton, epitheta)と呼ばれるもので、繰り返し頻繁に現われる。
西洋文学史上最古の叙事詩である『イーリアス』の主人公英雄アキレウスには56の「修飾語」がある。叙事詩に用いられる定型句(formula)で、同じか乃至はよく似た場面を叙述する際、同じ韻律の場合に繰り返し使用されるお定まりの語句だ。叙事詩の文体上の特質をなし、必ずしも古代ギリシア特有のものではない。
「両眼(ὄσσε)を闇(σκότος)が蔽う(κάλυψεν)」‘τὸν δὲ σκότος ὄσσε κάλυψεν, ἤριπε δ᾽ ὡς ὅτε πύργος ἐνὶ κρατερῇ ὑσμίνῃ.’=「撃たれた男の両眼を闇が蔽い、彼は激戦のさなかに、櫓の崩れるが如く倒れ伏した」(“Ἰλιάς”Δ l. 461~62)は、死ぬ時を表す常套句だ。
トロイアの英雄ヘクトール(Ἕκτωρ)なら、「輝ける兜(κορῦθάίϊξ)の」=‘Τὴν δ᾽ ἠμείβετ᾽ ἔπειτα μέγας κορυθαίολος Ἕκτωρ’、一方で、トロイアを攻め立てるアカイア勢は「青銅の武具を鎧う」(χαλκοχιτώνων)アカイア人=‘Ἀχαιῶν χαλκοχιτώνων’という訳だ。アテーナイの守護神アテーネー(Ἀθήνη)は「眼光輝く」=‘γλαυκῶπις Ἀθήνη’になる。ἀλλά μοι ἀμφ' Ὀδυσῆϊ δαΐφρονι δαίεται ἦτορ
智略に富むオデュセウス(Ὀδυσσεὺς)は、「賢明な(δαΐφρον=δαῆναι)」‘Ὀδυσῆϊ δαΐφρονι’、堅忍不抜の勇士オデュセウス=‘πολύτλας δῖος Ὀδυσσεὺς’(πολύτλας=much-enduring〔H. G. Liddelle & R. Scott(ed.); “A Greek-English Lexicon”, rev. by H. S. Jones, 1978., p. 1444)だ。
オデュセウスが帰国途中で出会うナウシカー(Ναυσικάα)は、「白い腕の」=‘Ναυσικάα λευκώλενος’(‘τὸν δ’ αὖ Ναυσικάα λευκώλενος ἀντίον ηὔδα•’, “Ὀδύσσεια” Ζ l. 186)になる。
夜明けを述べる場合の決まり文句は、「バラ色の指(ῥοδοδάκτυλος)もてる」曙(φᾶνή)⇒‘Ἦμος δ’ ἠριγένεια φάνη ῥοδοδάκτυλος Ἠώς,’=「朝のまだきに生まれ指ばら色の曙の女神が姿を現わすと(朝早くバラ色の指をした曙が現われると)」(“Ὀδύσσεια”Β l. 1⇒οδοδάκτῦλος=rosy-fingered, Liddelle & R. Scott., p. 1573)だし、「葡萄(酒)色(οἴνοπα)なせる」海(πόντος)=‘οἴνοπα πόντον’は、海の決まり文句。
遥か東洋の歌謡曲の歌詞のモチーフを提供しているくらいだ(「♪海の色にそまるギリシャのワイン…」=作詞康珍化、歌高橋真梨子『桃色吐息』)。
日本で似た事例を探せば、枕詞だろう。「あしびきの山鳥の尾の」、「青丹よし奈良の都」、「飛ぶ鳥の明日香」、「日の本の日下(くさか)」といった具合で、飛鳥や日下は、修飾語の慣用的使用が上代以来続いた影響で、本体の明日香より形容句の「飛鳥」が定着し、日下は「日の本」との関連が没却されるまでになった。
それに倣えば、「無学」と言えば直ちに頻繁に誤謬、誤記、論点ずらし、頬被り、居直りを続けるカ氏が、単なる瑕疵を越えて「無学」の代名詞=エピテトンとなって本体を乗り越え、独り歩きする日が訪れるやもしれない。愚にもつかない妄説‘Karoline Doctrine’が、誤謬の代名詞として。
京都・東山、円山公園の奥、東本願寺大谷廟にある田中氏の墓所を随分、詣でていない。カ氏が田中氏の『ソクラテス』の誤読を繰り返すのをみて、泉下の著者ならどう遇するだろうと思った。弟子や専門家以外には鷹揚だったから、苦笑するだけかもしれない。
「たった一人」で二千年の歴史をもつ西洋古典学の厚い壁に挑み、この国に哲学研究の正統を示した随一の先覚者だった。[完]
日本がドイツに比べて、共産主義者の強い影響を受けざるを得なかった理由を以下に挙げてみる。
1)西ドイツは最高裁判所で共産党の結党を禁じるなど、法曹界への共産主義者の浸透を拒絶した。そのため学界等の言論界では共産主義思想が流行したかもしれないが、体制の中枢への侵入を防いだ。
2)GHQが大規模な公職追放と当時に社会の中枢に共産主義者を注入した。ドイツでは占領軍の影響を限定的にとどめることができた。
3)ドイツでは占領軍により、戦前のメディアがほぼ廃止されたが、日本では戦争を煽った戦前のマスコミが温存され、戦前の反動で逆方向に極端化した。しかも日本では、新聞の大衆への影響は甚大だった。戦前から啓蒙の中枢をマスコミに担わせる社会であったから。
4)西ドイツでは、東ドイツと接していて、共産主義国家の恐怖を身近に観察していて、しかも日本マスコミのように共産主義を美化して負の情報を遮断されることもなかったので脅威に関して正しい情報をもっていた。
5)日本の知識層特有の観念的で空想的な思想傾向により、世界の共産主義流行に過剰に日本人に注入された。
6)吉田茂はすぐれた反共の政治家だったが、後に続いた政治家はそこまでの教養とか信念がなかった。たとえば自民党は旧憲法復活が党是などで教条的となり、共産主義者と知的に格闘したり左傾化マスコミ対策もおろそかだった。
南原茂などクリスチャンは共産主義者ではないとのご指摘を拝見したが、こういった共産主義者どころか共産主義に批判的なクリスチャンの層においても、かなり共産主義者の甚大な影響を日本では受けていた。
では、共産主義に批判的な日本人は何をやっていたかというと、経済成長やビジネスに精をだしていた。
資本主義の粗探しだけは天才という共産主義者が相手では、実際に経済を成長させて社会を豊かにするしか、反論してもほとんど意味はないと悟っていたのだ。(その人たちが、いわゆる岸信介の有名なセリフ「国会周辺の安保闘争に大勢きているが、後楽園球場のジャイアンツ戦は今日も満員だ」でいうところの球場に観戦にきていた老若男女の人達である。この善良な人達の思想信条は有名な雑誌や新聞よりも、各企業の社内誌などに膨大に残されてきたが、ほとんど一般人の目に触れないのである)
21の2行目以下の文章中、4行目【οδοδάκτῦλος】の語頭の[ῥ]が脱落していたので補う。字数の都合で削除した箇所をさらに補うと、以下のようになる。
夜明けを述べる決まり文句は、「バラ色の指(ῥοδοδάκτυλος)もてる」曙(φᾶνή)⇒‘Ἦμος δ’ ἠριγένεια φάνη ῥοδοδάκτυλος Ἠώς,’=「朝のまだきに生まれ指ばら色の曙の女神が姿を現わすと」(“Ὀδύσσεια”Β l. 1,『オデュッセイアー』第2巻1行; ῥοδοδάκτῦλος=rosy-fingered, ῥοδοβᾶφης=rose-coloured,〔H. G. Liddelle & R. Scott(ed.); “A Greek-English Lexicon”, p. 1573)。
エピテトンの問題は、守護神アテーネーの例=「眼光輝く」(‘γλαυκῶπις Ἀθήνη’)も元来は「梟の眼をした」という意味だったと想定され、転じて、「碧い(輝ける)眼をした」「鋭い眼の」となるが、次第にそれが没却され(ホメーロスの時代に元の意味は既に忘れ去られていたらしい)、単に「美貌」を示す語に変わって行った。口誦詩(口演)に基づく文学である古代の叙事詩の特質だ。
ホメーロスの叙事詩は、詩的な想像力の豊かさと表現法の多様性において比類ないものだが、一定の条件下で規則的な定型の決まり文句と形式を交えて技巧的に構築され、エピテトンのような譬喩的表現も繰り返し同型の型が多少違った形で織りなされ、完成度が高い。
『イーリアス』の最初の25行の中に25の決まりの形式があり、『オデュッセイアー』の方はさらに最初の25行中に33の形式があるとされる(高津春繁)。
従って、ホメーロスを読むということは全体の三分の一は同一の詩形の反復、重複であって、繰り返しを恐れず厳重に型を墨守することによるリズムの躍動感が生命観につながっていること感得することだ。
私のカ氏に対する「無学」の指摘は、既に500例を超えたが、ホメーロスには及ばない。
極端にいえば、もし日本が共産主義国家になっていたら、共産党検閲の日本の公的な歴史学(日本史)はこうなっていただろうというものに近いものだったと思う。それほど日本の共産主義者は歴史を偽造した。その後遺症は相当に甚大である。
そして共産主義者は、世界の共産主義流行の時期が終わったときに、何事もなかったように悪びれず「開き直った」。彼らの開き直りを「さほど問題でなかった」ように見せるために、さかんに喧伝され利用されたのが「日本人は過去の歴史を反省せずに無責任に開き直っている」というテーゼだった。
共産主義者の開き直りを目立たなくするために、戦争反省しなかったという開き直りを狂ったように糾弾していた。もちろん、日本人は過去の歴史を反省したり分析したりしていたが、そんなものを木っ端みじんにするほど、共産主義者の寄ってたかって糾弾する「日本人開き直り説」は100紙ほどの大衆マスコミの宣伝効果があり破壊的だった。そして、中国人や韓国人が「日本人が反省してないで開き直っているというのなら我々も言わしてもらうわ」と時代を経るごとに強硬となり、歴史認識が毎日のように新聞の話題となった。ほとんどが共産主義者のしわざであった。
あまりに反共になりすぎてもバランス感覚がおかしくなってしまうかもしれないが、とにかく共産主義者は最悪だったというのが個人の感覚。
ヒトラーが出現してしまったのは、ドイツを巨額の賠償金で吊るし上げ天文学的インフレを招来させたイギリス等の責任も少しはあったと思われるが、世界中に(子供がはしかでもかかるように)流行した共産主義イデオロギーは何とかできなかったかという印象である。
根本は、本でも読んで上辺で議論して、それで世の中がわかった気になっている自称インテリの病理である。汗水ながして、こつこつと地道な仕事をするしか世の中が豊かにする方法はないのだが、そういった労苦をいやがり、読みかじった知識を振り回して空虚な「地上の楽園」を大衆に夢想させ、社会に号令をかけようとする怠け者たちで、まともな日本人なら相手にする必要はなかったが、そんな連中がこぞってマスコミや教育界に巣食うったのが日本の悲運だった。
すべて共産主義者の口車にのって、トンチンカンな方向に日本人の誠実さを悪用されて発揮しまった?のが、原因でああなったのであった。
しかも、恐ろしいことに悪質な共産主義者たちは、そういうやり方が日本の外交を破壊することを予測して確信して、それに日本を追い込んだのだった。知恵の足りない共産主義者や左翼は、心底それが平和だと思い込んでいたようだったが。知恵の足りない共産主義者や左翼の特徴は実社会の現実の情報ではなく、メディアの描く仮想現実を信じる傾向が強かった。
戦後の西ドイツ大統領は政治的には権限のない外交的には儀礼的な存在になったが、国家的には元首であり、国民に民主的な選挙で選出され、自分の権限で、演説をすることができる特権をもっている、と書いたのである。ワイツゼッカー氏ご自身が、立憲君主制との差を、立憲君主制の元首が、人が書いた紙を読むのと違って、ドイツの大統領は、自分で内容を考え、決定することができる、と述べられている。また、間接選挙であっても、民主的な選挙で選出されているわけで、反氏の方式を採用すると、間接選挙で選出される日本の安倍首相も、ドイツのメルケル首相も、民主的な選挙で選ばれていない、ことになる。アメリカの大統領にしろ、国民は、大統領の選挙人を選出するのであって、直接選挙ではない。ドイツと日本を比較するのは、国として現存しており、同じ第二次世界大戦の加害国であり、敗戦国であり、米国やロシア、中国、分断国家朝鮮との関係で比較対象になるから、書いている。反氏が、全く関係のない仮想現実である「ホメーロス」の「イーリアス」を持ち出されるのは、いかなる了見なのだろうか?
勇ましく猛々しい粗野極まる言辞に比して、まともに異論(ἀμφισβήτησις)を立てて反論する(ἀντιλέγειν)気など実はないようで、頬被りするか誤魔化すか、居直ることしかできない。
挙げ句は、前々回トピックスの225のように【大学時代哲学の成績もよかったし、哲学音痴とは思わないが……私は、哲学に関心がなかった】(12月2日)程度の見苦しい言い訳ばかり。コロコロとなり振り構わず論拠を変える狂態を晒し、愧じる気配もない。
反論の措辞と言ったところで、皆私の「猿真似」で、「政治音痴」も「一知半解」も「弱論強弁(τὸν ἥττω λόγον κρείττω ποιεῖν)も「意趣返し」(quid pro quo)も「日本文の誤読」も、何と「無学」も、悉く私の使った修辞を真似て、鸚鵡返しにするしか能がない。
相手の立論の分析も真面目に行う気がないのは、すべてコピペで済ませていることでも明白だが、カ氏にはゲーテ・ヴァイツゼッカー信仰や情動(πάθος)しかなく、およそ論理的意識が皆無だから、常に‘non sequitur’で前提と結論が論理的に不接合(不連絡)、即ち一致しない。
19~21ではホメーロスに倣って、カ氏ならではの比類ない「無学の」称号を、古代ギリシアの口誦詩である叙事詩の修辞として頻繁に繰り返される形飾詞(ἐπίθετον=エピテトン)に準えてカ氏に奉呈した訳で、【「イーリアス」を持ち出されるのは、いかなる了見なのだろうか?】もないものだ。
28ではドイツ連邦大統領は、【国民の直接選挙で選ばれる、などと書いてはいない】と言い逃れ。直接選挙でないのを、大統領ではない行政の最高責任者である首相の選出法と直結させ、大統領は【間接選挙で…も、民主的な選挙で選出……間接選挙で選出される…安倍首相も…メルケル首相も、民主的な選挙(直接選挙=筆者註)で選ばれていない】と私の立論の趣旨を「誤読」=無視する。
カ氏には共和制の一形態である大統領制、しかも特異なドイツ的形態の下での大統領や(首相も)、通常の議院内閣制の下での首相選出法の違いも度外視して、混乱した議論を展開して、反論を「偽装」するしか能がないようだ。
安倍氏も、最近党勢不振の責任をとって党首を辞任したメルケル氏も、それぞれ下院である衆議院選挙や連邦議会選挙という、民意の洗礼を国民の直接選挙という形で受ける。しかし、連邦共和国大統領はそうではない。民意の「反映の度合い」を基準に考えれば、とても民意の支持を背景に民主的に選出されているとは言い難い。選出の形式が、連邦議会ではなく、連邦基本法第54条に規定された選出機関「連邦会議」というのも特殊だ。
独大統領の地位の異形な実態、ドイツ的な特殊性を物語るもので、ヴァイツゼッカー氏が【立憲君主制の元首が、人が書いた紙を読むのと違】うと強弁しても、それこそ、日本の天皇や英国女王のような統治とは離れた「正統性」に基づく権威も正統性もないことを、甚だ驕慢な態度で正当化しているだけ。
しかも、【自分で内容を考え、決定】などと言っても制限が多く、実質的には権限なき「お飾り」であるのは既述の通り。
ヴァイツゼッカー氏のみ特別視して「格が違う」などと持ち上げているカ氏こそ、「政治音痴」の典型だろう。
米国大統領候補は、直接的な民意を獲得するため、予備選を含めて長期にわたる激烈な選挙戦を闘った末の選挙人獲得で、独大統領とは選挙人による「間接投票の意味」が全く異なる。カ氏の議論は、弱論強弁どころか、空理空論の法螺話に等しい。
しかも、選挙人は各州の選挙結果に強く拘束される。現行制度は「合衆国」という連邦制ゆえの選出方式に伴う制度的制約にすぎない。一言で言えば形式的な制約で、米国固有の選挙制度の属性だ。従って、全有権者の投票を形式的に集計した得票数で、当選者が集計上の最高得票者を下回ることも、現実問題としてあり得るし、現にトランプ氏とクリントン氏との間でも起きた。
しかし、それは現職のトランプ氏の正統性を少しも揺るがしはしない。最終段階における間接的投票の意味が、独連邦大統領とは全く異なるからだ。
なぜなら、独連邦大統領は実質的に連邦議会と州議会の代表者とによる投票という形をとった「調整」によって誕生するだけで、被選挙権の制約もあって、とても「お飾り」以上の存在を生む制度設計にはなっていないからだ。
このように、毒にも薬にもならない、あたかも「盲腸」のような存在として大統領を制度的に「制約」せざるを得ないのは、ドイツの「思い出したくもない罪業」の歴史の結果に伴う選択であって、ドイツ人(民族)の身から出たサビなのだ。[完]
☆私欲はあらゆる種類の美徳悪徳を総動員する。(ラ・ロシュフコー『箴言』253)
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