元徴用工問題で、関連企業の資産差し押さえ手続きが開始される期限である24日が近づいている。差し押さえ手続きが開始されれば、問題はさらに新しい段階に入る。日本も、準備が必要である。
対抗措置についての議論もなされている。http://agora-web.jp/archives/2036009.html 政策判断になるが、いかなる対抗措置も国際法上の妥当性を確保することが必須となる。日本は、国際法を味方について、対抗をしていかなければならない。
戦後の日本では、伝統的に、国際法の地位が軽んじられてきた。巨大メディアは、派手な憲法学者の政治的言動だけを、あたかも社会の良心であるかのように扱ってきた。その陰で、国際法学者の方々は、コツコツと地味で職人的な仕事を続けてきた。
今回の元徴用工判決問題は、そのような日本社会の現状に問題提起をする良い機会だろう。今こそ国際法研究を充実させ、政策的・理論的な準備を進めていかなければならない。
このブログで、今まで何度か日本の憲法学の「憲法優位説」の発想のガラパゴスな危険について指摘をしてきた。今回の韓国大法院の判決にも同じような自国「憲法優位説」が感じられる。うっかりすると国際法の論理が、韓国の「憲法優位説」的な発想によって飲み込まれてしまいかねない。危険である。
国際法の世界は、裁判所だけでなく、法的拘束力のない勧告をする条約委員会などが活発に動くなど、複雑な世界だ。たとえば、先月、「強制的失踪委員会」が、日本政府の慰安婦問題に対する対応を遺憾とする見解を表明した。他の人権条約委員会で慰安婦問題に関する勧告がなされていることに追随したものと思われるが、衝撃的な事実である。
多国間条約を基盤にして成立している条約委員会は、その活動を条約によって規定される。強制的失踪委員会については、2010年「強制失踪からのすべての者の保護に関する国際条約」35条で、「委員会は、この条約の効力発生後に開始された強制失踪についてのみ権限を有する」旨が規定されている。つまり、そもそも条約締結後の事件しか取り扱わないはずなのだ。それだけに慰安婦問題への言及は衝撃的であった。
10名の強制的失踪委員会の委員のうちの1名が日本の国際法学者だが、アジアからの委員は日本の委員のみだ。ほとんどの委員が欧州か南米の国からの選出だ。https://www.ohchr.org/EN/HRBodies/CED/Pages/Membership.aspx 慰安婦問題について十分な情報を得て、機微にふれる審議をしたうえで、判断をしているとは思えない。法的拘束力がない見解だけに、条文解釈も緩やかになりがちかもしれない。
一部の報道には、日本の委員がいるのになぜ慰安婦が議題になることを防げなかったのか、といったことを匂わせる論調があった。https://www.sankei.com/world/news/181121/wor1811210003-n1.html しかし、日本の委員は、日本関連の議題には審議に加われないため、慰安婦問題には関与できないのが実情だ。
日本の外務省は人出が足りないとされるが、対応が不十分になる体制のまま、条約に加入するくらいなら、入らない方がいいかもしれない。もちろん理想は、条約に加入したうえで、外交的なバックアップも提供する体制をとることだ。
そのためには日本国内で国際法の重要性に対する理解を深めていくことが大切だろう。
日本人委員の数を確保することだけで満足するのではなく、外交的な努力を払って、条約委員会のお世話もしていくべきだ。
それは条約委員会の議論に政治的圧力を加える、ということではない。条約委員会が正しい知識を持ち、正しく運用されるように、バックアップする、ということだ。
しかしそうした労力を日本の外務省にとらせるためには、前提として、日本国内で国際法に関連する事項を常に議論していく土壌を育んでおくことが必要だろう。
元徴用工問題を契機に、日本で国際法の重要性への理解が深まるのであれば、それは良いことだ。今こそ日本における国際法に関係した諸問題への対応の充実を図らなければならない。
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ドイツは、ワイツゼッカー氏の尽力もあって、それを、フランスやポーランドともおこなったので、両国と友好的な関係が築けているのであって、ただ、日本が戦前、戦中の自国の非道を、韓国や中国にあやまりさえすれば、中国や韓国と友好関係が築ける、などと主張した、日本の「空想的観念的知識人」の主張とは、180度の開きがある。
また、そのワイツゼッカー氏のこの姿勢が、ヨーロッパだけではなくて、国際社会での、平和の秩序への貢献の唯一の道だと私は思う。
その分「私怨」と我執は凄まじく、日頃はその時々のトピックスと直接関係のない議論は慎むよう言い募りながら、今回もこのありさまで、ご都合主義で自分から禁を破って愧じない。しかも冒頭から憂さ晴らしに余念がなく、何とも醜悪だ。
自らの怠惰で粗雑で粗悪な脳みそ(ἐγκέφαλος)では理解困難な問題を、ひたすら「常識」という名の検証されざる「雑識」を基に、幼稚園児並みのナイーヴな正義感、政治感覚で喋喋する、無駄なお喋りしかできない。しかも、習性なのか怠惰極まるから、調べ物は日本版Wikipediaが頼りで、あとは時代遅れの通俗書か教育課程での通説の無批判な受け売り、国際情報はドイツの高が週刊誌‘Der Spiegel’、テレビの討論番組と、世間知らずのドイツ文学専攻のドイツ人の元教授との「お勉強」程度という貧弱な有様である。
頻りに西ドイツ留学体験を特筆大書しているが、それも滑稽の沙汰で、授業についていくのがやっと、という程度の劣等学生の分際で、口をついて出るのが何かと思えば、留学体験のない‘domestic’な学生にも劣る無知蒙昧を平気で晒す糞度胸。まともに勉強したこともない法律学や政治学、歴史や哲学、宗教について、極めて偏頗で断片的な知識と理解しか有せず、初等中等教育の教科書レベルの水準に留まっていることが歴然としている。
かつて「泰西」の先進文化、最新事情を会得した「帰朝者」として特別視された時代があったが、カ氏程度では土台それも望めず、何ともお気の毒というしかない。
その程度に、現地からもち帰った知見が陳腐で低水準だ。精々の、外資系企業で「語学屋」として重宝がられる程度の存在だったのだろう。
留学は学ぶを「留(と)める」の謂いもあるから、本人は必死に勉強したつもりでも、実態を検分すればご承知の通りで、実に他愛もない「一人相撲」に興じていたことは、容易に推察できる。それほど、西洋文化全般について無知かつ不見識で、肝腎のドイツについても特異な偏向があり、それを裏書きするように政治的見識は幼稚で凡庸、かつ☆鈍極まる。
本人が懸命に存在感を示そうと書いているつもりでいる1~4も実に粗雑で、措辞も陳腐極まりない。いつもの独りよがりの焦慮感と「無学」故の立論の肌理の粗さ、論旨の不分明が際立ち、主観的信条表明と見当違いな私への悪意の異議申し立て(ἀμφισβήτησις)としての意思表示にすぎない。
一々相手にする水準の議論ではないが、まとめて解体処理すると、
▼2【ハリウッド映画は……ドイツ人を悪玉、扱いするケースが多く、そのような映画ばかり見ていると、反氏の様なドイツ人に対する悪い印象をもって……不思議ではない】⇒⇒米国映画に対する偏見も凄まじいが、私はイタリアやフランス、スペインの芸術的作風の作品を好む。ドイツ人の評判の悪さは共通。ヴィスコンティに『地獄に堕ちた勇者ども』(1969年)という親衛隊や突撃隊を頽廃的に描いた作品があるが、カ氏の紋切り型の映画観は凡庸そのもの。アラン・レネの『去年マリエンバートで』(1961年)など、欧州映画が容易にみられた幸福な時代だった。
▼2の②【西ドイツで実際のドイツ人と付き合ったので……「中下層階級のドイツ人が特に、政治に恨みを持っている」などということをまるで感じなかった】⇒⇒カ氏のような「単細胞」、しかも極東の島国から来たナイーヴな女子学生にどれだけ本音をみせるか分からないし、政治的に極めて微妙な問題への感度を欠いたカ氏には「何も分かっていない」ことの証明のような話。プロの外交官だって欺かれる場合がある。ナチズムを容認し(渇望し)、関与したドイツの民衆の心がそう簡単には変わらないのは、ドイツ人を含めて膨大な証言と研究の蓄積があり、カ氏の限定的な証言など問題外。
▼2の③【反氏の知識は、ほとんどすべて、書物、映画などの、仮想現実に根差している】⇒⇒私は「無学の老媼」と違って、限定的な自らの経験を基に安易に早呑み込みする粗忽者の世間知らずとは違うだけの話で、多量の関連文献にあたるのは、自らの経験や感覚が誤った印象や受け止め方によるものか、例外的な事例ではないか、別の見方、見解、解釈もある場合を想定して、独断と迷妄を避けるため。それぞれの事象の当事者または当該対象に精通した研究者の分析を検証するために研究や書籍は存在する訳で、「仮想現実」とは別の話。個人の特殊な体験を一般化するカ氏の単細胞思考こそ「仮想現実」に直結する。
▼2の④【憲法9条の解釈を含めて、政治課題に対するガラパゴス化を促しているのは…日本の知識層特有の観念的で空想的な思想傾向】⇒⇒日本の知識層はカ氏ほど「無学」でも☆鈍でもないし、必ずしも「観念的で空想的」でもない。大風呂敷の粗雑な一般論で愚の骨頂。9条解釈のガラパゴス化の最大要因は、篠田さんも説くように、英米法の文脈で起草された、自由主義的かつ福祉国家的な法秩序の建設を目指すプログラム的、宣言規定的な色彩の強い憲法の性格を没却していることにある。
⇒⇒従って、9条も国際法の文脈(実質は英米法)、つまり、確立した国際法規範の下で理解せず、国家の基本組織法的色彩の強い帝国憲法と同じように、ドイツ国(公)法学の概念で法実証主義的に規範体系として解釈していることによる。G. JellinekもケルゼンもC. シュミットも読んだことのない無学のカ氏が理解できないだけの話。
▼3【ドイツの大統領は、日本の最高裁判所の裁判官のように、内閣が任命するのではない。韓国も、大統領が任命するから、元徴用工裁判は、おかしい、と日本のマスコミは主張……日本国憲法上、最高裁判事の罷免権は、国民にあっても、任命権は、内閣にあるのである】⇒⇒意味不明な文章の典型。共和制の大統領と最高裁裁判官は何の関係もない。しかも、最初の文章と「韓国も」以下が論理的に接合しない。頭の中に蜘蛛(φαλάγγιον)の巣でも張っているの? と思わせるぐらい、錯乱している。
▼3の②【ドイツの大統領……任命権が……国民にあって、首相にはない……コール首相とワイツゼッカー大統領は別人格で、首相がコントロール…できなかった】⇒⇒「我が仏尊し」の与太話。任命権、というより選出方法だろうが理解が不正確なうえ、連邦議会多数党と州議会の政治的調整の「お飾り」の国家元首を首相がコントロールするも何もない。大統領に独自権限などない。人格は各自別個で、政治上の地位と権能の意味を議論する上で不要な夾雑物。カ氏の議論は瑕疵も多いが無駄が多い。それなのに措辞は何の工夫もない。「無学」だからだろう。
▼3の③【日本の知識層……観念的で空想的な知能指数の高い人々が……思想界を牛耳っていることが、日本が、国際法的対応ができない、日本社会をガラパゴス化させている一番の原因】⇒⇒政治家や官僚ではなく、意味不明な「思想界」が日本の政治的意思決定過程や社会全体にそれほど影響力があるとは、妄想も甚だしい。
⇒⇒そもそも、「思想界」が何を何を指すのかも曖昧模糊としていて言葉だけが踊っている印象だが、カ氏が本当にそのように考えているとしたら、それこそカ氏が「仮想現実」に毒された誇大妄想的なパラノイア気質=偏執狂的心性のもち主であることの何よりの証左だろう。自由主義陣営のどこの国に、思想界に政治や法解釈が左右される事例があろうか。莫迦も休み休み言えばよい。行き当たりばったりの無軌道な立論が混乱してくると生じるカ氏の悪癖で、つける薬がない。
▼4の全体は、性懲りもないヴァイツゼッカー演説への「信仰告白」で、相手にしようがない。ヴァイツゼッカー、カ氏の表記なら「ワイツゼッカー」は、「和一舌禍ぁ~」と読める。倭国=日本の世間知らずの「政治音痴」の単純極まる老媼が、一に(何事があってもひたすら一事にかけて信仰して)、本欄で「投稿公害」(慷慨)を撒き散らしている姿と即応する。「和一舌禍ぁ~」=‘Weizsäcker’――名は体を表すというが、抜け目のない政治家である御本尊はともかく、カ氏はナイーヴな「政治音痴」そのものである。神がかり(ἐνθυσιασμός)の妄言が取り柄の巫女だから、仕方ないのだろう。酔って舌がもつれると、政治家も「聖女以下」になる。とんだ、猿芝居だ。「ドイツ教(狂)」の「お告げ」(μαντεία)なのだろう。
▼1【京大の哲学科の恩師に対する発言、態度から……反氏は、極めて権威主義的……自身の知能指数は高い、と自負……本や映画などの、仮想現実の世界に……ずっと生きて来】⇒⇒下らない。偏差値が高くて「悪ろうございました」とでも言えばよいのだろうか。カ氏ほど凡庸ではなかっただけの話だ。少しは真面目に本を読めばいだけの話ではないか。学問は実体験を競う領域ではない。体験主義など、愚かな学生に任せておけばよい。学問(μάθημα)とは、本を読むことであり、それ以外にない。
日付が変わる12月18日は、田中美知太郎の33回目の祥月命日だ。師の藤澤令夫や他の弟子たちによれば、田中ぐらい学問に厳しかった学者はいない。
価値の「真空状態」になった戦後は、一貫して進歩派の説く流行思潮と浮ついた護憲平和主義を批判する戦後保守論壇の「主柱」と称されたが、それは古代ギリシア哲学に学んだ責任ある市民として、国内では稀有な該博なる学識を基に、世に行われる議論から頭一つ抜け出した視座を示すことだった。
そのためにも「まだほとんど何も学ばれなかったプラトン」(岩波書店版「プラトン前集』推薦文)研究を通じ、わが国に西洋と同水準の哲学研究の本格正統の系譜を根づかせようと獅子奮迅の、ほとんど奇蹟的な仕事を残し、「日本西洋古典学会」という専門研究者の集積を後半生を費やして実現させた。
同時に、自らの半世紀以上に及ぶプラトン研究の成果である畢生の大著『プラトン』(1979~84)を目を患い自分で吹き込んだテープを弟子に書き取らせることで原稿化し、一字一句点検、修正して完成させた。
その反面、演習や講義では、一種の「義務感からの行動だった」論壇での政論めいた議論を参加者には一切禁じ、ひたすら正確周到にテキストを読むことを要求した、非情な教師だった。
その衣鉢を継いだ後継者の藤澤も、「テキストの粗笨な読解から思いつきを述べることを唾棄する」厳しい姿勢を貫いた。学問で一切の妥協を排した。
演習は、ロゴス(λόγος)の重圧に堪え得ないような立論は問題にもされず、「無学」を思い知らされる学生の死屍累々の観があった。その煉獄の苦しみの中からしか、真の哲学的思考は生まれないと身をもって示した。[完]
会社員の方も書かれているが、戦後、日本の左翼知識人に作り上げられた「日本の歴史認識」これが諸悪の根源で、中国や韓国との国際問題を引き起こしていると私も思うが、反氏に代表される「世界の歴史認識」がもし、日本社会で認められているとすれば、それも問題を引き起こす一因になると思うので、反論している。
ナデイアさんが、ノーベル平和賞を受賞され、戦争における女性への性暴力、が問題となっているが、戦争中は平時とは違う。その環境において、人間も動物の一種である以上、男性による女性への性暴力が起こるのは、仕方がない、という前提に本来。立たなければならない、と私は思う。たった今、ISの性暴力、その性暴力の犠牲者なった女性、その子供、のことが、BSで放送されていたが、その女性の村の人々は、村を襲撃したり、村人を殺した男の子供を育てる、などということは、とてもできない、と主張していて、そういう村人の気持ちはとても理解できる。いくら、生まれてきた子供には罪がないといっても、そのお父さんは、村人を殺し、娘に性暴力をふるった人間である。そういう人間の自然な気持ちは、法律を作る場合でも、社会を考える場合でも、本来、考慮しなければならない、ものだと思う。
「ヒトラーに似せた安倍首相の仮面」を作ったり、篠田英朗教授に対する、三流蓑田胸喜、という表現に代表されるような、人を不当に評価し、イメージを作り上げる手法。反氏が私を形容する「政治音痴」の単純極まる老媼、という表現も同じであるが、どちらが、政治音痴なのだろう。反氏が私をさす、侮蔑語、一知半解、にしろ、なんにしろ、客観的に見れば、反氏の方があてはまるものが多いから、そのままお返ししている。つまり、反氏の知識は、あまりにも、机上の空論で狭いのである。
昨夜も在独17年に及ぶ人をはじめとするドイツにゆかりの日本人と話したが、戦後、ソ連では、プロテスタント信仰が許されないので、ドイツに戻ったロシア出身のドイツ人もたくさんいたそうだ。戦争中、ナチスの迫害を逃れて英国に移り住んだユダヤ人も多い。考えてみれば、現在のポーランドも、チェコも、ロシアも、第一次世界大戦前、ドイツ人で陸続きの東方に移民している人もいるわけで、彼らはドイツ語を母語として生活していた。第一次世界大戦で、第二次世界大戦でドイツが負けたから、生活の場が、自分の祖国ではなくなり、外国人として住むか、引き上げるか、二者択一を迫られた人が多くいるのである。
「和一舌禍ぁ~」=‘Weizsäcker’――名は体を表すという表現で、‘Weizsäcker’氏は、抜け目のない政治家である御本尊だと、疑うこともなく、一途に単純に、解釈されている反氏、反氏のその解釈は、本当に正しいのだろうか?そういう解釈をする人を、「政治音痴」以外のどの言葉で表現したらいいのだろうか?
そうではなく、国内法を努めて国際法に合致するよう最大限の努力を払うことが最も重要なはずです。国家の代表が署名し、批准した国際法が、憲法より軽く扱われるということはあり得ないし、あってはならないことです。
憲法98条後段「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」という条文は、憲法学者や法曹には、都合よく忘れられているようです。
また、憲法優位説もあくまでも国内法秩序における優劣関係の議論なので、国際法上の義務が憲法を理由に免責されるわけではなく国際法上の義務との調整の必要が生じることから、国際法上の通説である等位理論(調整理論)とも整合的です。これに対して、条約優位説をとった場合は国内法上も条約(国際法)が優位することになるので国際法秩序との調整の必要が生じないことになります。このように考えると等位理論(調整理論)は、世界標準(条約優位説をとるのはオランダ、オーストリア等の少数のようです。)の憲法優位説を前提に国際法秩序との調整の必要から生じた学説のような気がします。実際、憲法優位説を確立させたのは国際法学者の高野雄一による代表的研究書「憲法と条約」(東京大学出版会、1960年) とされているとの評価もあるようなので、世界標準の憲法優位説自体に問題があるのではなく、憲法の解釈において国際法を斟酌することを殊更に軽視する解釈態度にあるように思います。
凄まじい「老害」の実態は、結局のところ比類のない「我執」であり「私怨」なのは明らかで、過去の無残な本欄への投稿の記録がそれを雄弁に物語っていて、贅言を要しない。カ氏の歴史や国際認識に関する理解も実に幼稚かつ単純(‘einfach’)、ナイーヴそのもので、凡庸かつ陳腐で退屈極まる俗論の典型だろう。
例えば、11で【反氏を批判するのは、国際通であるかのように見えて、国際感覚があるように…思えないから……「国際法」の精神…は……国際感覚をもつ、ということ】と、国際感覚と国際法があたかも同一の根拠に基づくものであるかのように仮構しているが、素人論議の典型で、何の根拠もないどころか、典型的な思い違い(ἑτεροδοξία)、即ち解釈の誤謬である。
しかも滑稽なのは、西独留学経験があり、外資系企業に勤務し、英独二カ国語で一応、意思疎通や読み書きができて、ドイツのたかが週刊誌を愛読し、国際問題に通常より関心が高い、それは紛れもなくカ氏のことだが、それをもって、あたかも「国際通で国際感覚がある」かのような幻想(φάντασμα)をもち、自ら信じて疑わないことだ。
それに輪をかけて愚鈍(ἀφροσύνη)なのは、その粗雑な思考(διανοιά)と杜撰な論理によれば、【国際協調の精神、の基礎となる「国際感覚がある」】という、これまた検証されざる仮説(ὑποθεσις)を持ち出して、結局は国家間の国益をめぐる角逐を、武力的優位性の如何も含め、ぎりぎりの話し合いによる取引と妥協の産物の代名詞にすぎない側面もある「国際協調」を前提(ὑποτίθεοθαι)なしに慫慂、つまり信仰していることである。
そもそも、カ氏も含め、ドイツの無学な民衆でも一応読めて、通俗的な理解は可能な、しかも何より高名な(‘berühmt’)だけのゲーテやヴァイツゼッカー(両者を並記してあたかも同価値であるようにみなすのは本意ではないが)を、なにやら無条件で慫慂しなくてはならないように信じて疑わない、「無学」で頑迷ゆえのお目出度さが透けて見える。
アドルノやハーバーマスを同じフランクフルト学派というだけで同列に並べるのも愚劣極まる。主要著作を一行も読んだこともない「無学」の然らしむるところだが、アドルノの弟子でありながら、70年代以降は「コミュニケーション理論的転回」を通じてアドルノの後期哲学の批判者に転じたハーバーマスの問題意識を閑却している。
ハーバーマスのアドルノ批判の要点は、ホルクハイマーも共有する「道具的理性」(instrumentale Vernunft)という概念で、自然科学的、技術的認識による世界の合理的解釈や操作、即ち「脱魔術化」(Entzauberung)を特徴とする啓蒙的理性の自己展開が、「人間対自然」の枠組みから、やがて、「人間対人間」の支配関係まで肥大化する現象に関する分析は支持しつつ、なお、学派の第二世代として、それが啓蒙の一面的理解にすぎないと批判して、道具的理性に代わるもう一つの啓蒙的理性である対話的理性の可能性を模索したのものだった。
私の問題意識である道具的合理性(instrumentale Rationalität)への感度も含め、近代性(Moderne)の孕む問題への危機意識が皆無な無学のカ氏には、ゲーテ、ヴァイツゼッカー程度の、所詮は「お子様クラス」向けの民衆的思考がお似合いなのだろう。気楽でいい。
ついでに指摘すれば、ハイデガーのナチス関与について戦後一貫して仮借ない批判を続けてきたアドルノだが、難問(ἀπορία)を共有をしている点では意外なほど、親近性があり、「より良い立論には、強制を伴わない強制力がある」(zwangloser Zwang des besseren Arguments)ということなのかもしれない(以上については、8月26日・126~127参照)。
いずれにしても、カ氏の場合、自前の(αὐτός)思考、つまり自分が自らの主人(δεσπότης)であることを放棄した奴隷(δοῦλος)の思考、つまり思想的な奴隷根性の典型だ。自由で(ἐλευθερία)徹底的な思考の活動(ἐνέργεία)の典型である哲学など、カ氏にはそもそも無縁である所以だ。それにもかかわらず、一知半解で誤謬だらけのソクラテスの精神(ψυχή)を語る愚を、よく噛みしめたたらよい。
そこに顕著なのは致命的な論理意識の欠如(στέρησις)と比類なき臆面のなさ、端的に「恥知らず」(αναίδεια)の厚顔無恥(‘Unverschämtheit’)が結びついた粗雑な思考様式で、西洋文明に関する基本的知識の決定的な欠如も加わって、独りよがりの単細胞思考の域を出ていない。
自分に都合のよい、自分が信じたい都合のよい真実(τὸ ἀληθές)しか受け付けないし理解しようとしない。
ゲーテやヴァイツゼッカーが、国際感覚があると認められている教養人かどうかは措いて、カ氏にも理解可能だということをいくら揚言しても、二人がドイツの民衆や国際社会で如何に高名だろうと、問題の本質とは何の関係もない。思考とは、人気投票とは違うし、民主主義とは別の原理なのだ。そこでは、カ氏が説くような、俗耳に親しみ易い、「まことしやかな」(εἰκός)、所詮はまやかし(ἀπάτη)にすぎず、立論の価値などない。
ゲーテは文士にすぎず、本人もその自覚があったようで、ただ、如何に高名でも文士(ゲーテの表現では「詩人」)としか評価されないことへの不満を募らせていたようだ。だから二十年もかけて大著『色彩論』を完成させたのだろう。
ゲーテが仕えたヴァイマール公国は人口10万人にも届かぬ小邑で、そんな田舎宮廷で如何に気張っても、片手間の宮仕えには自ずと限界があったのだろう。有名詩人で顧問官といっても弱冠27歳だし、出世はしても(文教上の責任者)、奔放な若き大公カール・アウグストの相談役、遊び相手で、公国にとっても小邑なりに存在感を示す広報担当としても重宝な存在だったからだ。
カ氏が力説する小国の宮廷の「国際感覚のある教養人」と言ったところで、実態はその程度のものなのだ。
ゲーテのニュートンに対する素朴な汎神論的、アニミズム的な理論憎悪(μισόλογος)の反撥も、「後進国」ドイツ的心性の最たるもので、結局は素朴な実在論的思考のもたらす、抽象的思考への憎悪(μῖσος)と反感がその無謀な行動の根底に潜んでいるようだ。
人間性の観察に秀でたフランスのモラリストなら、「精神の狭量は頑迷をもたらす。われわれは自分の理解を超えるものをなかなか信じようとしない」(ラ・ロシュフコー『箴言』265)ということになり、ニーチェなら、「真理とは、それなくしては或る種の生きものが生きられないかもしれないような誤謬のことである。生にとっての価値が結局は決定する」(『力への意志』、シュレヒタ版全集=断片番号844)ということで、説明するまでもない、自明の真理だろう。
それは結局、現実(τὸ γιγνόμενον)をみているようで、特定の経験や直覚(αἴσθησις =Intuition,推論や思考に基づかない了解)を無批判に信じ込んでいるだけで現実の構造を徹底的に思考する姿勢も覚悟(πίστις)も認識(ἐπισθήμη)もないから実に他愛なく、そのまま不断に生成変化(μεταβάλλειν)して定まらない現実に裏切られて誤謬(δόξα)に直結する、空理空論(ἀδολεσχία)と呼ぼうと、カ氏がこのところ頻りに喋喋する「仮想現実」でもよいが、現実をみているようで少しも現実をみていないために現実に裏切られる愚劣な過誤(σφάλμα)を生む。
カ氏のような素朴な実在論者(ゲーテに代表される実感信仰の亜種)が陥りがちな所与の現在(παρουσία)、謂わば「自己にとって最も確実な対象である「事態」(=事実、Tatsachen=facts)」を真の現実=真相と取り違える危険性を顧ず、それを無批判に現実とみて執着することで、かえって真実の姿(τὸ ὄν)を見失い現実逃避に行き着く結果になる。
12の【歴史学や経済学に……ドイツ文化が花ひらいた】なる525文字を費やした「無学」の証明のような文章を読んで、如何に誤謬が多いか、列挙するだけでも一苦労だが、「莫迦の一つ覚え」のようなカ氏特有の「仮想現実」論を相手にしない。
古代ギリシア文化の摂取とルネサンスとの関係についても、カ氏は【十字軍による遠征により】文化交流が進んだことにしか言及していないが、とんだ無知で、十字軍によるイスラム圏を含めた東方との接触は限定的要因にすぎず、西欧におけるルネサンスの本格的開花の真の原動力となるのは1453年の東ローマ帝国の滅亡によって、大量の知識人がイタリアを中心に西欧に移動したことである。
海上帝国ヴェネツィアによる東方との交易もあったが、ルネサンスを本格的に準備したのは、ギリシア文明の遺産を細々と継承し続けたビザンツの知識人の影響、とりわけ人文学研究面で甚大だったということを閑却できない。カ氏のこの方面の知見は中等教育の教科書程度の水準を出ておらず、「無学」の分際で無謀な大風呂敷の議論をよくやるものだと、呆れるばかりだ。
もっとも、ドイツはルネサンス文化の「不毛地帯」=「後進国」で、メランヒトンを除いてこれといった人文学者を出していないから、相手にしても仕方がない。カ氏ときてはドイツしか知らないし、肝腎のドイツについても、肝腎なことを何も知らない。
ルターの聖書全体の独訳が完成するのは1543年だが、その後の改訂を含め16世紀末まで60版を重ね、推定で12万部以上は出たと推定されるが、それによって近代ドイツ語が直ちに確立した訳ではない。
このうち「初期新高ドイツ語」(1350~1650)は、都市の交流や東方植民、大学の創設、諸官庁におけるドイツ語の使用拡大、印刷術の発明、宗教改革や人文主義の浸透など、社会的文化的動きに伴って共通文章語として次第に形成されていく。
この時代の文化の担い手は市民階級、特に手工業者や印刷業者、宗教改革者、人文主義者、文法家たちだった。中世後期にドイツ語圏には三つの共通文章語があった。即ち、北ドイツを中心にハンザ同盟の商業語である「中低ドイツ語文章語」、東中部ドイツに東方政策に伴って13世紀以降、マイセン・上部ザクセン地域に入植者方言が混じった一種の「平均的ドイツ語」である商業語兼通用語の「東部中高ドイツ文章語」、上部ドイツ語地域に皇帝庁のドイツ語を範として成立した「上部ドイツ文章語」(所謂「共通ドイツ語」=das Gemeine Teutsch)である。
その後、ハンザ同盟衰退に伴って「東部中部ドイツ文章語」が「中低ドイツ語文章語」地域を支配し、スイス地域のドイツ語であるアレマン語を17世紀中に吸収した「上部ドイツ文章語」と覇権を争い、対立状態のまま18世紀を迎える。
ようやくドイツ語が統一的な標準語として確立するのは18世紀末から19世紀初頭であるのが、「後進国」の民族語であるドイツ語の実情であって、従来の学説では標準語の母体となったのはルター訳の言語「東部中部ドイツ語」とされたが、1960年代になって、「東部中部ドイツ語」だけでなく、上部ドイツ語地域を含めた諸官庁を中心とする地方的共通語が相互に影響し合って均一化したことが、精細な記録文書の調査で明らかにされた(以上、大修館『言語学大辞典』第2巻、1206~1210頁)。
学術研究によって明らかにされた以上の事実は、ドイツの上流教養層の共通語として18世紀までフランス語が慫慂されたことや、ドイツ最初の偉大な哲学者で数学者、外交官でもあったライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibnitz, 1646~1716=1700年にベルリンに学士院を創設、初代院長)の主要著作がフランス語で刊行された事情を裏付けている。ドイツ文化が花開くのはルターの時代の遥か後年であることは否定できない。
ところで、以前も指摘したが、ルネサンスの潮流を押し戻した反動の波のうち、特に顕著なものとして、1527年にローマがルネサンス文化の影響を充分享受していなかったドイツとスペインの軍隊によって占領された結果、ローマのアカデミーが破壊される、文化史上の大事件があった。
館長は貴重な写本や古代の遺物の蒐集の殆ど全部が略奪され、破壊されるのを目の当たりにした。その様子を歴史家パオロ・ジョヴィオは書き残している。
「疲弊したギリシアと眠れるイタリアから、平和と学問と芸術という飾りをドイツは奪った」
ドイツは欧州の歴史上、数々の蛮行を繰り返してきた。筆頭に挙げられるのが、ナチス・ドイツ、つまり第三帝国時代のドイツ人が国家の政策として行ったユダヤ人大量殺戮であることは言うまでもない。
15~16は私怨横溢の「クズ投稿」。[完]
国際連盟脱退の時の松岡演説は、当時の日本社会では、マスコミ報道の影響もあって、拍手喝さいであったそうであるが、現実は、スイスのジュネーブで国際連盟に参加している欧米各国から、日本は〝無頼漢″として追放されたのだ、と楠山義太郎さんは回想されているが、その認識の差、日本政府は、パリ条約に違反した明らかに侵略戦争を行ったのだ、という認識が、現在でも、日本人に薄いことが、問題なのではないのだろうか?軍隊をもつとか、もたないとか、という問題ではない。
つまり、古代ギリシャ文明、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、などとの唱えた「アカデミア」、智と善を愛する、「学問の自由」がそれによって担保されるようになったのである。「キリスト教文明」下では、聖書にかいてあること、歴史認識にしても、天文学の認識にしても、それが、唯一の真理であって、それを盲目的に信じることが、正しい、とされ、科学の知見を得て、真理を追究する、ということができなかった。それができたのは、古代ギリシャ文明であり、そのために、フランス語のリセにしろ、ドイツ語のギムナジウムにしろ、アカデミーにしろ、古代ギリシャ語起源の教育機関がヨーロッパには多い。もちろん、東ローマ帝国の崩壊で、多くの知識人たちが、西欧にやってきた、という影響も大きいが、一番の成果は、「ローマ法王」によるすべての面における呪縛から、市民が解放されたこと、それが、ルネッサンスなのであって、それが、中世から近世への分岐点なのである。
カ氏は単純(‘einfach’)極まりないから、「ゲーテ・ヴァイツゼッカー信仰」にみられるような極端な軽信(πίστις)を生むし、その帰結として、比類のない「無学」も手伝って、浅慮極まる単細胞思考に直結する。
確かな学識(μάθημα)に基づいたロゴス(λόγος)の吟味=検証(ἔλεγχος)を怠り、論理的思考の重圧に耐えきれない精神の懦弱(βλακικός)、即ち怠惰と慢心こそカ氏の宿痾とも呼ぶべき体質的悪癖で、救いようがない。留学体験などもっともらしく喋喋しているが所詮は「劣等学生」にすぎないし、行き当たりばったりの「体験主義」をリアルな「現実認識」と思い違い(ἑτεροδοξία)する程度の知性だから、「大体において、憤激の程度は、攻撃(者)の知性の程度に反比例する」(M. Warnock)ということになるのだろう。
せっかく、カ氏がしばしば言及する会社員氏から(冗談半分だろうが…)【カロリーネ さんの知的水準は高い】(12月2日・10=「ゴーン事件で東京地検のプレゼン力を憂う」の項)と「認定」されても台無しだし、篠田さんに一度褒められた記憶も色褪せてしまおう。
篠田さんはその後、日本国憲法の「ドイツ国(公)法学的解釈」の不当性をめぐる議論の際に、二度にわたって(6月5日・23と同7日・15)、幼稚園児に説くような懇切な言及をカ氏に行ったが、その気遣いなど無視するかのように、カ氏は依怙地になって見当違いな、トンチンカンな分からず屋ぶりを発揮したことを忘れたのか、頬被りして空ッとぼけて(‘εἰρωνεία’)いるのか知らないが、何ともご都合主義の身勝手な心性のもち主のようだ。
何ごとも好き嫌いで反射的に反応する軽挙妄動を慎み、しかも、立論を仕掛けては喰い散らかして放置する悪癖を改め、少しは自分の発信に責任をもったらよい。自らには叶わない学識などお構いなしの理論嫌い(μισόλογος)の「無学」ぶり、軽薄さ(κοῦφος)を発揮するのがカ氏だ。
「ワイツゼッカー」=「和一舌禍ぁ~」も、少々余計な冗語ながら、例えば「篠田さん」 (シノダサン⇒「死の打算」と同じ響き)も哄笑って受け流せないようでは、徹底した議論の息抜きもできない。憲法学者でも国際法学者でもない専門外の国際政治学者の篠田さんが、つまり、「異端」(hérésie)ではなく「異教徒」(paganisme)である身で、リクスを冒して専門家の憲法学者に論戦を挑んでいる姿を想定したらよい。
篠田さんはむざむざ論破されるような情けないことはないだろうし、充分な成算(ὠφελία=「打算」)があってのことだろうが、少なくとも真理(ἀλήθεια)と、正当な認識(ἐπισθήμη)を求めて、東大法学部系憲法学者や、世の頑迷で愚鈍かつ固陋な護憲派勢力と、言論(λόγος)の上で闘っている。正統派に異論を唱えたことで殺されることもあるまいが黙殺され、学者、研究者として「抹殺されるリスク」が皆無とは言えない。「死の打算」も、あながち空語ではないのかもしれない。
冗談(παίζειν)も通じないカ氏の狂信的偏狭性、硬直性(ακληρότης)は、早朝の投稿群30~32に特に顕著で、これほど無知なのも珍しいが、学問本来の自由(ἐλευθερία)で闊達、つまり伸びやかで柔軟な(μαλθακός)思考(διανοιά)、態度が決定的に欠けいて驚異的だ。
つまり、「世人が効果のない無駄話(ἀδολεσχία=筆者註)として嘲ったソクラテスの談話のうちに却って眞の學問的精神をみたプラトンは……哲學者はかゝる遊戯(παιδειίά=筆者註)を解しなければならぬことを敎へてゐる」という訳だ。
田中によれば、「而もその議論は註釋家によつてそれぞれその説を異にし、時には全く矛盾することもあるからして、吾々はどの解釋を取るべきかについて、丁度ソクラテスの問答法に於けるが如く、たゞ途方にくれてしまふのである……然しこの困惑こそ眞の學問を生むのである……學問の進歩のためには、誤謬は如何にして生じたかゞ理解されねばならず、明白にされ得る誤謬は曖昧な正しさよりも遥かに貴重」(田中訳『テアイテトス』の「凡例」3~7頁)だとする。
田中がプラトンにみたのは、「如何なる思ひつきにも執着せず、如何なる通念にも拘束されず、一切の先入見を放下して、たゞ自由な精神を以つて學問探究するがための絶對必要絛件をなすものなのである」との認識と、「現實の惡逆を極めた國家社会會のうちにあつて、なお學問探究の志をすてない、眞の哲學者の精神」だった。
哲学的議論に限らず、一般的に学問的議論でも時局的な政治認識でも、より広範なテーマでも、現実の仮象の欺かれない、衆愚(πλῆθος)の狭小な感覚や理論的脆弱性を超越した視点や立論を促し、それに伴う理論的困難との格闘こそ、真理への正道だと説く(ギリシア語でも同じ多数者を意味する「民衆」[デーモス=δῆμος]と、「大衆、群衆、俗衆」を意味する [πλῆθος]や [πονηροί]、[οἱ πολλοί]、[ὄχλος]の区別が存在する)。
そして何より、特定の前提や先入見に胡坐をかいた集団的思考を排する、哲学本来の徹底した吟味を追求してやまない。
京大での演習や講義では、論壇での政論めいた議論を自他ともに一切禁じ、参加者に、ひたすら正確周到にテキストを読むことを要求する非情な教師に徹した。
終生、明朗な節度を崩さず、狷介固陋に流れることもなく、独善や熱狂に溺れて極端に走ることを極度に嫌い、醒めてあることに驚くほど情熱を込め、その精力を学問に傾注した類まれな強靭な思考のもち主だった。
その衣鉢を継いだ後継者の藤澤も、「テキストの粗笨な読解から思いつきを述べることを唾棄する」厳しい姿勢を貫く。弟子の小池澄夫は「このおそろしい師の前で弟子どもは緊張を強いられ萎縮し、そして大なり小なり皆ぐれてしまったのである。……それぞれの論文は…一分の隙もない堅牢な構成をもって仕上げられ、その文体は明快で力強く、硬質な美しさをたたえている。……この思考の労苦をつぶさに体験できたことを幸福と感じるような殊勝な弟子がひとりでもいたか、少なくとも私は知らない」(書評・小池「藤澤令夫『イデアと世界』」、『西洋古典学研究』XLI, p. 130~132)と自戒を促す。
つまり、‘διὰ γὰρ τὸ θαυμάζειν οἱ ἄνθρωποι καὶ νῦν καὶ τὸ πρῶτον ἤρξαντο φιλοσοφεῖν’=「蓋し、驚異する(‘θαυμάζειν)ことによって人間(ἄνθρωποι)は、今日でもそうであるがあの最初の場合にもあのように、知恵を愛求し(哲学し=φιλοσοφεῖν)始めたのである」(‘For it is owing to their wonder that men both now begin and at first began to philosophize’ ; ibid., 982b 12, 『形而上学』982b 12)からである(引用textはW. D. Ross [ed.]; ‘‘Aristotle’s Metaphysics, A revised text with introduction and commentary.’’, 2 vols., 1924, Oxford.に拠った。英訳も同じW. D. Ross; The works of Aristotle translated into English under the editorship of W. D. Ross, vol. VIII, 2nd. ed., 1928. Oxford. 日本語訳は出隆訳=岩波書店版『アリストテレス全集』第12巻、1968年)。
とても、カ氏のような懦弱(δειλία)な精神の能くするところではなかろう。
そんな学問的精神はおろか、情動(πάθος)に流されない論理的思考を顧慮する、立論に当たっての最低限の心掛け(ἐπιμελεῖθαι)や節度(σωφροσύνη)の欠片もない。恐るべき粗野な心性を臆面もなく剥き出しにして愧じる気配もない。「学問の王道」などと、何の冗談だろうと思うような妄言を喋喋しておいて、恥知らずにも居直っている。
ところで、「無学の老媼」カ氏には無縁な学問の精神はこの程度にして、児戯に等しい「クズ投稿」27~32を簡単に解体処理する。
▼27【左翼思想……マルクス思想に毒された憲法学者や法曹関係者がマスコミを通じて言論界で主導権……日本国憲法9条に対して独自な解釈……主張を正当化するために……英米流の国際法を斟酌することを殊更に軽視】⇒⇒宮澤俊義も芦部信喜、長谷部恭男氏も石川健治氏も、憲法解釈を左右されるほど、左翼思想、マルクス思想に毒されている訳でもあるまい。典型的な老デマゴーグの法螺話。
▼28【〝無頼漢″として追放された】⇒⇒前坂俊之静岡県立大教授のネット上の「ジャーナリストからみた日米戦争」からの孫引きで、カ氏の比類ない横着さは、満州事変に関する欧米各国からの反応として、以上の楠山義太郎氏の見解を繰り返しコピペして再生産していることからも明瞭。「脱退なんて言っているが、全会一致で国際社会から〝無頼漢′′として追放されたんです」の一部をコピペして澄ましている、怠惰の裏にある憐むべき人間性を如実に示す。間抜けだから何の芸もない。申し訳程度に、引用符だけは調整してある。
▼29【「ファウスト」では、学識というものがどう捉えられているか……どう独白しているか……実体験をしてどのような結論になったか、これこそが、ドイツ文化の神髄】⇒⇒ゲーテの『ファウスト』は単なる創作。「虚構」の物語を基に学問や人生、政治を論じることは無意味。ゲーテに逆上せ上がった「物語思考」の典型で、倒錯している。ゲーテ程度の知性は履いて捨てるほどいるのが西欧文化の懐の深さ。ドイツのごく一部しか知らないカ氏が「無学」で怠惰だから思い及ばないだけ。
▼30の②⇒⇒冒頭の文章以外の、【この前のコメント……首都になった。】(214字)は、立論上の必然性がなく意味不明。つまり、反論を「偽装」するための姑息なクズ投稿の常套手段。コピペ率は実に74.8%。醜悪の一語。
▼31【ヨーロッパ文明も中東の文明も、宗教の影響を大きく受け……十字軍遠征で、ヨーロッパの強固な「キリスト教」支配が崩れたから、ヨーロッパの科学、文化は発展】⇒⇒ルネサンス以降も「キリスト教」支配は崩れてなどいない。国民国家が成立しても同じで、ギリシア文明の全容が西欧に再移入されたことが、人文系諸学や科学技術の発展につながったことは事実だが、権力の世俗化と学問文化の発展とは同一トラックではない。カ氏の粗雑な「物語思考」の典型。
▼31の②【古代ギリシャ文明、ソクラテス、プラトン、アリストテレス…の唱えた「アカデミア」…「学問の自由」】⇒⇒プラトン、アリストテレスは「アカデミア」も「学問の自由」も唱えていない。
▼31の③【「キリスト教文明」下では、聖書にかいてあること……天文学の認識……それが、唯一の真理で……盲目的に信じることが、正しい、とされ、科学の知見を得て、真理を追究する…ことが……できたのは、古代ギリシャ文明】⇒⇒ルネサンスに先立つ中世後期の、特に13世紀以降のアリストテレス受容が1230~1280年にかけての大学の創設と相まって学問研究の飛躍的発展をもたらした。聖書の啓示の信仰の真理とアリストテレスに依拠した哲学的理論的思考の調和を目指したのが中世スコラ哲学で、その後の自然科学的諸学問の発展の母体となる。
▼31の④【「ローマ法王」によるすべての面における呪縛から、市民が解放されたこと…が、ルネッサンス】⇒⇒ルネッサンス文化発展のパトロンはカトリック教会でもある。カ氏の一知半解の妄説の典型。
▼32【反氏が難しい言葉を使って表現して…る言語は、ドイツ語の方言……言語構造も似ているし、書き言葉となれば…互いに理解可能】⇒⇒25で指摘した通り、ドイツ語が統一的な標準語として確立するのは18世紀末~19世紀初頭で、それ以前は「方言」しかなかったのが「後進国」ドイツの実情。初期新高ドイツ語(1350~1650)、新高ドイツ語(1650~現代)には三つの共通文章語が並立した。いずれも文章語の商業語ないし通用語で細部の違いは措いて地域ごとに勢力を分け合った。カ氏の言及は内容皆無で、【正論のように誤解する】が意味不明。「ドイツ語」の項目(1189~1214頁)を収めた大修館『言語学大辞典』第2巻(1989年初版)は1冊45,000円するが、図書館にあるだろうから、偶にはお勉強したよい。
▼32の②【言語構造のまるで違うドイツ人がラテン語を理解するのは大変】⇒⇒不勉強だから、カ氏には到底理解できないだけ。
▼32の③【ルターの……の聖書の翻訳によって、ドイツ文化の華が開いた、というのは、定説】⇒⇒聖書訳だから目立っていて、過大に評価されただけで、実質的な影響力は別問題。1960年以降の学界の新たな動向を全く無視する、「無学」ならではの旧弊な物語思考=「負け犬の遠吠え」。[完]
一番反氏に問題があると思うのは、ゲーテの捉え方である。反氏は、劣等生と私をレッテル付けるが、大学の授業についていくのが大変であるか、否かにかかわらず、語学試験に通ってミュンヘン大学に合格し、授業の単位を取っているのであって、取っている、ということは、その授業の内容を理解した、と教授陣が認めたことを意味している。単位が取れたことと、取れないことには大きな違いがある。反氏のその見解は、だれかのお墨付きをもらったのだろうか?はっきり言って、ドイツ文化の素養のある人には、反氏の見解は、「無学そのもの」と映る。
あなた、という言葉は、英語ではyouしかないが、ドイツ語では、Du と Sieがある。
大まかに言えば、親友と知り合い、であるが、アメリカ文化は、表面上、みんなが友達、であるかのようにふるまうが、現実、その人の心の中は、そうではない。ドイツ文化は、それを分けるのである。知り合いは、Bekannte、つまりSie、で呼び合うが、つきあって、信頼できる人、とお互いに認め合えば、Freundとなり、Sie から Du へ移行する。現在のドイツでは、英米文化の影響で、学生同士Du、で呼び合うが、ゲーテやシラーの時代は、その区分けが厳格で、家族以外は、本当に信頼しあった同志でなければ、Duで呼び合うこともなく、Freund(親友)とお互いに認め合わなかった。私は、シラーのドン・カルロスのヴェルデイーによって作曲されたオペラが大好きであるが、そこに出てくるライトモティーフに彩られたカルロスとポサの友情は美しい。
「Wem grosse Wurf gelungen,Eines Freundes Freund zu sein, ・・・・mische seinen Jubel ein!
真の友になりたいと思っていた人に真の友として受け入れられた、という難事に成功した者も、共に歓声をあげよ。」
という文言を使われているが、シラーにとって、それはゲーテなのである。そしてゲーテとの共同作業で、ワイマールの地で「ドイツの演劇」を高めていく。
それがドイツ文化に意味をもつから、第一次世界大戦後の民主的な憲法に「ワイマール」という名前が使われ、「ワイマール共和国」が成立するのである。
ゲーテに認められたかった文化人は、シラーだけではない。ベートーヴェンもシューベルトも。「若きウェルテルの悩み」を読んだナポレオンも、ゲーテに会いたい、と願ったのである。ゲーテの生存中、ゲーテに会いたい、と「ワイマール詣で」をする文化人は、引きも切らなかった。その為に、ドイツ文化センターは、Adorno Institutではなく、Goethe Institutなのである。
論理的には文章が構成されてはいるが、すべてが反氏の主観的な憶測、推論に基づいた意見であり、現実からかけ離れている。
自分の意見が、いかに、書物だけに頼った「国際常識の欠けた」、主観的憶測に基づく現実を知らない、無学で、無教養な意見だということが、どうして反氏にはおわかりにならないのだろう?
私は、日本の安全保障上の観点から、「集団的自衛権を含む自衛のための軍隊」が必要だと思い、篠田先生を応援している。そして、このブログに触発されて、芦田均さん、の人柄、経歴も知り、もともと、日本国憲法9条の芦田修正は、国際法を加味した上で、自衛軍をもち、集団的自衛権を合憲とする目的でなされたものだ、ということがよくわかった。ところが、日本国憲法公布、施行後の1947年8月2日に文部省が発行した中学一年生用教材、「あたらしい憲法のはなし」には、日本国憲法9条の別の解釈が書かれている。「日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことを決めました。その一つは、兵隊も軍隊も飛行機も、およそ戦争をするためのものはいっさいもたないということです。・・・放棄、とはすててしまう、ということです。・・日本は正しいことを、ほかの国より先に行ったのです。」。
また、この思想が、いかに国際感覚からずれているか?以前のコメントで書いたが、戦前の国際連盟には軍隊はなかった。日本が満州事変を起こし、イタリアがエチオピアに侵攻し、ナチスドイツがチェコやポーランドに侵攻して、世論と経済制裁では、「平和が構築できない」ということが英米を中心とする国際社会でよくわかり、戦後国連軍が創設されたわけで、日本のこの種の主張をされる人、の考えというのは、ほかの国よりさき、なのではなくて、一周遅れているのである、
言えること、反氏に代表されるマスコミの人、の書く意見、というのは、なんとくだらない、空虚で内容のないものが、多いのだろう。楠山義太郎さんのような、現実感覚と国際感覚をもち、賢明で、蘊蓄のある、人生経験を踏まえた納得できる意見を書かれる日本人ジャーナリストは、現代日本にはおられないのだろうか?
agora-web.jp/archives/2036239-2.html
長谷川さんは、ウィーン在住のジャーナリストで、日本語でヨーロッパ人の視点が知れるので時折読むのであるが、反氏の主観的憶測に基づく意見ではなくて、ヨーロッパの現実が書かれている。それと反氏が反論される私の現状認識が同じなのである。
ヨーロッパ内の反ユダヤ主義、反イスラム主義についてもかかれているが、反氏は一貫して、アウシュビッツでのユダヤ人虐殺は、ドイツ人の邪悪な国民性に基づいて起こった、と主張されているが、長谷川さんは、ポーランドの反ユダヤ主義についても書かれている。
欧州連合(EU)は欧州内の反ユダヤ主義の拡大に憂慮し、反ユダヤ主義の台頭に警鐘を鳴らしたばかりだが、欧州の中でもポーランドは昔から反ユダヤ主義が強かった。アウシュビッツ強制収容所はポーランドにあった。ところで、第2次世界大戦後のポーランドにはユダヤ人はごく少数だけになった。にもかかわらず、欧州の中でもポーランドでは依然、反ユダヤ主義傾向が強い。中傷・罵倒する対象のユダヤ人がいないのに、反ユダヤ主義が治まらないのだ。
その後の、従軍慰安婦についての、日本は韓国が気が済むまで謝り続けるべきだ、という村上春樹氏の意見、については、同じ高校出身でも、私は意見がまるで違うが、反氏に臨みたいことは、推論ではなくて、ヨーロッパやドイツの現実を正しく把握、理解、してから意見を書いていただきたい、ということである。
何とも浅ましい限りだが、ドイツ教(狂)」の巫女(προφῆτις)よろしく、錯乱した神がかり状態(ἐνθυσιασμός)の戯言にも等しい誇大妄想的プロパガンダそのもので、その救い難い妄想に狂奔する心性こそ、まさに御本尊・汎知主義者のゲーテよろしく、前時代の呪術思想めいた理論嫌い(μισόλογος)の憐むべき実感信仰と相まって、伝説に基づく単なる文学的創作物(ποίησις)『ファウスト』に込められた、所詮は虚構(μῦθος)にすぎない物語(μῦθος=神話)を、あたかも「真実」(τὸ ἀληθές)であるかのように、つまり「まことしやかなもの」、真実らしきもの(εἰκός)のように逆上せ上がって悦に入っているが、所詮はまやかし(ἀπάτη)にすぎないものを「真実」と揚言する虚偽であり、常軌を逸した「文学的政治主義」という名の「物語思考」の極致のような「お告げ」(μαντεία)を見せられているようで唖然とさせられる。
ゲーテにも著しい「呪術的思考」の出来の悪い現代版=平成版で、マックス・ウェーバーならずとも、我々は「呪術から解放された世界」(die entzauberte Welt)に生きているわけで、「前近代的蒙昧」の脱却という意味での「呪術の克服」(Entzauberung)=アドルノやホルクハイマーが指摘する「脱魔術化」=が過去のものとなっても、妄説とカ氏=瑕疵と愚鈍の代名詞(形飾詞=エピテトン:ἐπίθετον)として、その教理(Dogma)である‘Karoline Doctrine’は、「問答無用」のモンスターのように本欄を跳梁跋扈していて、莫迦らしいながらに一種の壮観だ。
「無学」(ἀπαιδευσία=‘sine litteris’)には、「無教養」(プラトン『国家』第3巻411D)という意味があることは以前にも紹介したが、技芸の女神、つまり音楽や学芸を司るムゥサ(Μοῦσα, Μοῦσαι=ゼウスと記憶の女神ムネモシュネー [Μνημοσύνη]との九人の娘)が彩なす学芸に「縁なき衆生」であるカ氏のような無教養な人間のことを指して「音痴」(同『テアイテトス』156A)という意味にもなるから、カ氏が頻りにマーラーやべートヴェン、ヴァーグナーを喋喋することも、よく考えれば滑稽の沙汰だろう。カ氏が「二流の」知を衒う憐むべき俗物(Philister)である所以だ。
凄まじい「老害」の実態、つまり焦慮に瞋恚のほむら(群火)を燃え上がらせる過激な老デマゴーグ(δημαγωγίας)であるカ氏の歪んだ「論理と心理」については、これまで散々精神分析的に解剖してきたので繰り返さないが、結局のところ比類のない「我執」であり「私怨」なのは明らかで、過去の醜悪で無残な本欄への投稿の蓄積がそれを雄弁に物語っていて、贅言を要しまい。
☆精神の疵(精神の欠陥)は、顔の疵と同じように、老いるにつれて、ひどくなる。(ラ・ロシュフコー『箴言』112)
英語やドイツ語のidiot(Idiot)=「大莫迦」の語源である [ἵδιος]にしろ、[ἰδιώτης] 、[ἰδιωτεύειν]にしろ、いずれも私的とか、素人という意味であって、公共性を弁えない議論、そこには共通の普遍的形式的ルールである論理性も含まれるが、驕慢なカ氏はてんでお構いなしで、我が物顔に拙い、幼稚園児並みの政治的見解、歴史認識、杜撰な憲法解釈を臆面もなく披瀝して愧じる気配もない。しかも、大量で頻繁な誤謬と誤記、論点ずらしと頬被りが止まる所をしらない。
35で私が公私ともに親炙した元京大哲学科教授である藤澤令夫氏(1925~2004、西洋古代哲学専攻)の師である田中美知太郎が説いた「余裕」(βαρβαρίζων)について、学問に限らず、一般に真理(ἀληθεια)の認識を目指すうえで、「眞(ἀληθής=筆者註)の探求者は、時に結果を忘れて、悠々と探究を樂し」むことが不可欠で、そしてそれが一般に学問はもとより、学問を離れた歴史認識や政治的判断の面でも大切な心掛け、思考法の基本として欠かせないことを自戒の念を込めて紹介した。
恩師の師表である田中は文字通り、「巨大な足跡」をこの国の哲学と古典学研究のために残したが、終戦間際に東京を襲った空爆で全身、特に顔面に焼夷弾の油脂を浴び、二週間も意識不明のまま死線を彷徨うという壮絶な経験をくぐり、戦前は一貫してファシズムに抵抗した気骨ある人物だ。
晩年にほとんど視力を失うに近かった眼にもその痕跡は顕著で、「九死に一生を得た」人物の常として、世の一般の世俗的価値観に頓着もせず、かといって軽侮するでもなく、立身出世や名誉欲、経済的成功、遊興にも何ら関心を示さすこともなかった。
田中の炯眼にかかれば、愚劣な戦争指導が必敗に帰着する戦前の日本の病癖など、歴史上度々繰り返された「既知」の事実であって、リットン調査団の背後に控える国際連盟ならぬ英国外務省や、日本のこれ以上の膨張を望まない米国の国家戦略を体現したルーズヴェルト米国大統領の意を体した米国政府機関の戦略目標だった日本最古の新聞社の在外特派員、即ち楠山義太郎氏にスクープや単独インタビューという名の「餌」を投げて日本の出方を探ったり、牽制することなど国際政治の見え透いた常套手段であって、それをあたかもジャーナリスト個人の手柄のように自得=自画自賛したり、称賛したりする周囲のカ氏や研究者のお目出度さ、というか盲目と凡庸さに驚くばかりだ。
いずれにしても、田中は覚醒した人物の特質として、どこまでも醒めており、別に人情に疎い冷血漢という訳ではないが、終世を捧げたプラトンの研究に沈潜する一方で、同時に精通したトゥーキュディデースへの傾倒を通じて、激しく動いた同時代を見通し、時局認識で見通しを見誤り、見苦しく右往左往する凡庸な識者や市民と異なって、常に頭一つ抜きん出た視点から状況を見抜き、戦前戦後を通じて一度たりとも誤ることがなかった、文字通りの知者(σοφός)であった。
それを可能にしたのが真の意味での該博な学識であり、それに振り回されない自由で独立独歩の自立的思考だったことは言うまでもない。京大にありながら、「京都学派」の創始者である西田幾多郎を敬慕しつつも常に距離を置き、その独創的な思索の意味と限界を田中ほど知悉していた弟子はいない。
問題はそれを担うに相応しい基礎工事を要した。東大哲学科の外国人教師ケーベルの薫陶を受けた久保勉ら第一世代は、ケーベルを含めギリシア語の知識が揺籃期のアマチュアの域を脱しておらず、田中の前には容易には越えられない西洋古典学二千年の壁があったからだ。それを突破したのが田中の「ヘラクレス的力業」だった。
田中の哲学は畢竟、ニヒリズムよりも危険な、理想と現実との混同によって生じる「人間のもつてゐるあやゆるよきものが、愚劣なことへの奉仕に浪費されるやうな不幸」(田中『ロゴスとイデア』331頁)の原因を見極め、「無意味に利用された人間の誠實は、その反動として絶望的なニヒリズムを生み、道德や宗敎の破壞となる」(同)という、現実と理想の峻別を説く。そして、現代の課題を宗教的な汎神論(Panentheismus)批判にあるとした。
人は理想(イデア=ἰδεα, εἶδος)による現実否定と現実肯定の間で、理想の超越性や内在性の一面性から愚かにも特定のものだけを神聖視し、唯一絶対のものとしてしまう思考の脆弱性、つまり内在と超越の一体化、即ち「即一」がこの世のものである偶像と、あくまでも彼岸的存在である神とを混同するに等しい愚に陥りがちだ。
カ氏に顕著な、ゲーテやヴァイツゼッカーに対する「神聖病」は、宗教的、つまり信仰の対象物ならともかく、その阿諛追従は愚昧そのもので、奴隷(δοῦλος)の思考の最たるものであり、両者の世俗的盛名(‘berühmt’)は真理の規準(κριτήριον=Kriterium)にはならないのは自明だ。
良識に基づく自由討議の尊重、個々の価値観への相互承認、目の前の現実から目を逸らさぬリアリズム、議論のための議論に堕することない明快な論理意識、「事実」を揺るがせにせず、過ちを素直に認める潔さ、公正で真摯な態度、議論の帰結(勝敗)に固執しない大らかさ、何より熱心さや信念に囚われるあまり議論自体を楽しむ余裕を失わない明朗な態度、そのどれが欠けても真の対話(διάλογος)が成立しない。その間隙を縫って跋扈するのがethnocentrism(文化的自民族中心主義)でありchauvinism(盲目的排他主義)であることを肝に銘じたい、とも。
「殺伐非情の論理主義者」に徹している私。相手の論理と根拠を逆手にとって論破する、プラトン由来の正攻法、ソクラテス的問答(διάλογος)、プラトンがソクラテスの精神を基に彫琢深化させた哲学的問答法=概念問答法(διαλεκτική)、つまり精緻な概念分類・区分である分析(διαίρεσις)と哲学的、概念的錬磨である総合(συναγωγή)を心掛けてた(‘ὁ μὲν γὰρ συνοπτικὸς διαλεκτικός, ὁ δὲ μὴ οὔ. συνοίομαι, ἦ δ᾽ ὅς.’(Πλάτων; ‘‘Πολιτεία’’537C=「総合的な視力をもつ者は、哲学的問答法の能力をもつ者であり、そうでない者は、その能力のない者」〔プラトン『国家』第7巻・537C〕、訳文は岩波書店版『プラトン全集』第12巻、藤澤令夫訳549頁)。
現状はご存知の通りだ。
【根拠なき俗説や教条的信念の粗笨な解釈を排して、単なる思いつきを展開することを唾棄する。一部の隙もない堅牢な構成と論理で文章を練り上げ、平明さに留意するが、相手を見くびって水準を下げるようなことはしない。必要とあらば、ギリシア語やラテン語も使う。概念の微妙なニュアンス……明瞭に】するために、とも。
私は一貫して変わらない。迷妄を極めるカ氏の惨状を眺めつつ、間もなく歳を革める時期が近づいている。【相手を批判する際、紋切り型の言辞を極力排して努めて即物的であろうとする。明快で力強い、硬質な美しさを湛えた文章を綴りたい……それが、われらが共通に支持する篠田さんが提供するこの貴重な言語空間を守り、水準を抜く自由討論の場として……期待に応える唯一の道だと信じる】からだ。
聊か旗幟鮮明すぎて、我ながら気後れするが、私が最もこだわったのは主張の内容もさることながら、その知的水準だ。それぞれ、尊重されるべき主張はあろうが、とても「公共の言語空間」に相応しい水準とは思えない議論を時折、散見する。
憲法解釈論議も含め、この世の争論はすべて言説(λόγοι)、つまりディスクルス(discours)とディスクルスの闘いであり、論争の規則は論理でしかない。「建設的な議論」などという微温的な態度は甘え以外の何物でもない。実体験や特定の価値観、信仰は持ち出すのも愚かな夾雑物にすぎない。経験と人格が説得力(πειθώ)を生むことはあろうが、二義的な存在だ。
「誰が言ったかではなく、何が言われたかがすべて」――それに何ら変更はないが、匿名のベールに隠れた素人芸の獅子吼は、無駄口にすぎない。[完]
「ドイツを第二の祖国」とする「無学の老媼」カ氏の姑息な言い逃れは醜悪そのものだ。思い出したくもないアウシュヴィッツの記憶に絡むドイツの「罪業」の記憶を、何とか矮小化したいという魂胆が透けてみえる。
ホメーロスを読むのに忙しいので長谷川亮氏の論考には言及を控えるが、47⇒【欧州の中でもポーランドは昔から反ユダヤ主義が強かった。アウシュビッツ強制収容所はポーランドにあった】は、それをドイツ人(民族)が国家の政策として計画的に行ったユダヤ人大量虐殺との関係で、何らかの弁明を意図した発言なら妄言もいいところだ。
欺瞞に満ちたヴァイツゼッカー演説の綺麗ごとを臆面もなく並べ立てる傍らで、「ドイツ擁護」のために歴史的事実を無視または歪曲する悪質なご都合主義の最たるもので、恥を知ればいい。48⇒【推論ではなくて、ヨーロッパやドイツの現実を正しく把握、理解、してから意見を】はそのままお返しする。
ドイツ人でもないカ氏が無責任な「安全地帯」から、愚にもつかない「物語思考」で愚劣な発言を繰り返しているとしか思えない。
ポーランドはナチス占領時代にアウシュヴィッツでの殺戮計画にどの程度、協力または関与したかという問題は、ヨーロッパ最大のユダヤ人口を抱えていたポーランドにとって深刻な問題だが、ここでは触れない。
いずれにしても、ポーランドに主体的責任などない。中世以来、キリスト教徒の根深い反ユダヤ主義の一環として、歴史上しばしば繰り返された散発的な殺戮及び略奪行為であるポグロムとは、規模も組織的関与でも次元を異にする、欧州大陸から500万人を超すユダヤ人系市民を消し去った歴史上未曾有の徹底した民族浄化政策であるホロコーストに頬被りして、アウシュヴィッツの所在地がポーランド国内(オシュフェンツィム[Ośvięcim])であることを言い募るカ氏のピアノ線並みの神経と良識を疑う。
輸送の手間を省いたのだろう。
東方移住から南部のガリツィアを中心に平穏な秩序の下でキリスト教徒と共存してきたポーランドの東方系ユダヤ人(Ashkenazim)の運命を狂わせたのは、ポーランドではなく18世紀末に三次(1772~1795)にわたって、ロシア、オーストリア、プロイセンによってポーランドが分割されたことだ。
それに伴って、ユダヤ系市民は再び苦境に直面し、それまで築いた社会的地位を失ってロシアやハプスブルク帝国域内へ移住を余儀なくされた。東方系ユダヤ人にとって、一旦は得たキリスト教徒との共存を夢見た「安住の地」が幻に終わったことを意味した。
それでも、1900年の人口統計で132万人だったポーランドのユダヤ人口が300万人になるのは、第一次大戦後にポーランドが独立を回復してユダヤ系住民にも市民権、即ち国籍が認められたからだ。帝国内の十五余の民族集団がサン=ジェルマン条約(1919年)で、民族自決が承認され独立国となったチェコやハンガリーも同様の措置をとったが、小国に転落したオーストリア国籍の取得は条件が課されたし、ヘブライ語やイディッシュ語の何れも承認されなかった。共に大戦を戦い、ウィーンのユダヤ人口175,000人にしてこの扱いだ。
ドイツは第二次大戦で東欧諸国に侵攻し、自国内ではなく他国の領内で他国籍の大量のポーランド国籍のユダヤ系市民を計画的に殺戮して大量の記録を残した。
無知な女子学生時代に「ドイツ熱」を吹き込まれ、「ドイツ教」信者のまま齢70近くに至っても迷妄から覚めないのは、カ氏自身が相当の「ユダヤ嫌い」(Antisemit)だからかもしれない。
「無学の老媼」というのも、反氏独特の主観的な形容なのであって、私からみれば、反氏のドイツ文化観など、「無学の極み」である。そして、一般的にみれば、反氏の主張に客観性に欠けるから、会社員の方があのように書かれたと思うが、私は一度も、思い出したくもないアウシュヴィッツの記憶に絡むドイツの「罪業」の記憶を、何とか矮小化したい、などと考えていないし、そのような主張もしていない。反氏が、アドルノの主張を真に受けて、肥大化させすぎておられるだけである。反氏にその意識がないことも、非常に問題だと思うが、京大の哲学科を卒業され、古代ギリシャ語を読解する場合、一字一句厳しく吟味する、という勉強法を披瀝される反氏の日本語の読解力は、どうなっているのだろう?ワイツゼッカー氏のドイツ語の原稿を読んでも、氏には、矮小化させたい、正当化したい、などということがまるで念頭にないことは明らかである。彼は、アウシュヴィッツでドイツ人の行った組織的ユダヤ人虐殺事件を深く心に刻め、と主張しておられる。ないものにする、或いは、忘れてしまう、のではなくて、その事件を深く知り、ドイツ人が深く心に刻むことで、はじめて、ユダヤ人との和解ができる、と主張されているのである。私もそのとおりだと思うので、従軍慰安婦問題でも、元徴用工問題でも、深く知る努力もせず、ただ韓国人の気のすむまで謝り続けるべきだ、などという村上春樹さんの主張には、組しないのである。
本来、日本の報道機関も、宗教集団、イデオロギー集団によるテロの被害、例えば、オウムのサリン事件で犠牲になった人、その家族の現状など、もっと報道すべきことがあるのではないのだろうか?日本の報道は、被害者ではなくて、加害者の人権に、重きがおかれすぎている、と感じるのは、私の思い過ごしだろうか。
日本の従軍慰安婦問題、元徴用工問題についても、日本の植民地時代に韓国人がどの程度協力関与した、という点も重要だ、と私は考える。
学問において、一番大切なのは、論争に勝つことではなくて「真理愛」、である。長谷川良さんがAGORAに書かれている文章の中で、国際社会からみて一番問題だ、と私が思うのは、ポーランド上院が1月31日、物議を醸した「ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)に関する法案」(通称「ホロコースト法案」)を賛成57、反対23、棄権2の賛成多数で可決したことである。内容は、ユダヤ人強制収容所に「ポーランド収容所」といった呼称をつけたり、ポーランドと国民に対し、「ナチス・ドイツ政権の戦争犯罪の共犯」と呼んだ場合、罰金刑か最高3年間の禁固刑に処す、というものだ。その言葉が濡れ衣なら、そういう法案はポーランド人の名誉保持の為に、通すべきだろう。問題は、それが真実かどうかわからない、ということであり、現実のポーランドは、欧州の中でも昔から反ユダヤ主義が強かった国だった、という事実なのである。この姿勢こそが、あったことをなかったことにしたり、いやな記憶を忘れたい、とする典型的なやり方なのではないのだろうか?だから、ユダヤ人が去ってしまった国に反ユダヤ主義の勢いが今だに衰えないという現象が起こる。それが心理学的に考えた時の物事の帰結である。
なんども書いたように、私の大学時代の卒論のテーマは、ユダヤ系ドイツ人のグスタフ・マーラーである。もし、私が相当の「ユダヤ嫌い」(Antisemit)だったら、なんのために、そんな人の作品を研究し、その結果をふまえて、彼を偉大なドイツの音楽家と形容したり、ウィーンの大通りの名前がマーラー通り、という名前に戻っていることを知って、小躍りして喜ぶのだろう?
反氏の文章は、私を侮蔑し、そういう人物である、という印象を読者に与えようとする気持ちが強すぎるあまり、結果的に、本来大事にされておられるであろう、「論理性」の極端に欠いた欠陥文章になり下がってしまっている印象を、私は受ける。
「無学の老媼」は、古代ギリシアの口誦詩である叙事詩の修辞として頻繁に繰り返される一種の枕詞である形飾詞(ἐπίθετον=エピテトン)に準えてカ氏に奉呈した訳で、ホメーロスの『イーリアス』(“Ἰλιάς”)や『オデュッセイアー』(“Ὀδύσσεια”)ように、今後何度でも繰り返される。それくらい、カ氏と「無学」は不可分(ἀμερής)だ。
『イーリアス』の主人公アキレウス(Ἀχιλλεύς)だったら、「脚の速き」(πόδας ὠκὺς)、「脚の素早い」(ποδάρκής, ποδόκής)、「勇ましき」(δῖος)、「雄々しき心の」(δαἶφρων)、「神にも似たる」(θεοείκελος)、「ゼウスの寵児」(δαἶφιλος)のような56の「形飾詞」がある。アキレウスの父でオリュンポス(Ὀλύμπιος)の神々の主神ゼウス(Ζεύς)にも「高い御座の」(ὑψῖζῦγος)、「雷霆を轟かす」(ὑψιβρεμέτης)、「雷霆をはためかす」(τερπῖκεραυνος)、「閃く雷の」(ἀργῖκέραυνος)、「稲妻を起こす」(στεροπηγερέτα)「黒雲を遣る」(κελαινεφής)、「群雲寄せる」(νεφεληγερέτα)の如くでたくさんあるが、カ氏は目下のところ一種類である。
それにしても、62【学業でも論理力をも使って男子と競争してきた人間で、私立のカソリックのお嬢様学校出身の人間ではない】は滑稽だ。品性(ἦθος=Ethos)を疑う。
☆淑やかさの肉体におけるは、良識の精神に宿るがごとし。(ラ・ロシュフコー『箴言』67)
智略に富む(πολύμητις)オデュセウス(Ὀδυσσεὺς)のように、「賢明な」(δαΐφρον=δαῆναι)オデュセウス=‘Ὀδυσῆϊ δαΐφρονι’、「知謀豊かな勇士」オデュセウス=‘πολύτλας δῖος Ὀδυσσεὺς’(πολύτλας)ということも到底不可能だろう。当分は「無学の」で我慢してもらうしかない。
それが嫌なら、認識を改め、前非を反省することだ。
58で【反氏自体が、自分が「古代ギリシャ文化びいき」、である自分に気づいておられない】と寝惚けた、見当違いなことを言っているが、私は自覚がないどころではなく、頭の中は「古代ギリシア人」を自覚している。以下の発信例からも明白だ。
▽「古典学徒として、骨の髄から古代ギリシア人である私」(2018年08月30日・82)
▽「何度も書きましたが、私は身体は日本人でも、頭の中身は古代ギリシア人そのもの」(9月3日・59)
▽「本コメント欄でも、具体的な論証の限りを尽くしても相手が知的に不誠実だと、如何に論争が成り立たないか、一つの症例になると、気儘に構えて、しかし、相手を殲滅するまで、血も涙もなく、倦むことなく、古代ギリシア人の精神で、議論に勤しんでいる」(10月26日・101)
☆年寄りは悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる。(ラ・ロシュフコー『箴言』93)
▽「古典学徒として「遅れてきた(古代)ギリシア人」を自称する私も、拠るべき古代ギリシアのポリスがもはや存在しない以上、一通りの愛国の徒、ドイツの政治学者ミヘルスの説く「鐘楼のパトリオティズム」という有名な規定が含意する、国家への抑制的立ち位置を採る愛国者の端くれ」(8月16日・16)
古代ギリシア人の精神に倣うなら、
▽「破壊的ロゴスの威力であらゆるものを論じて倦むことがなかった古代ギリシア人のような強靭な論理と知性は、憲法学界には不在なようで、それがこの国の戦後が孕む知的不幸であることを憾む」(8月5日・33)
▽「およそ感傷性から遠い点では人後に落ちない古代ギリシア人は、民衆政(民主制)の発案者であると同時に、民衆政への厳しい内在的批判者でもあった。」(11月14日・27)
▽「田中(美知太郎)は、古代ギリシアの法廷弁論でも見るような冷徹な目で、官学民、戦前戦後を問わぬ日本人の思想的弱点を衝いている」(8月6日・42)
▽「事実の冷静で学問的な探究をもたらしたことが古代ギリシア人の最大の貢献」(11月15日・44)
▽「何事にもざっくばらんな古代ギリシア人の資質を反映して、ソフィストの倦まざる議論を技術的に先鋭化させた「争論術」(ἐριστική)が、「論争のための論争の技術」(ἀντιλογική)に堕さず、プラトンを通じてアリストテレスに受け継がれた」(11月24日・113)
▽「都市国家を基盤とした古代ギリシア人特有の合理的思考の結晶である「ポリスの哲学」」(12月12日・123)
古代ギリシアの精神を最もよく体現するアテーナイだったら、
▽「古代ギリシアの戦争と政治をめぐる歴史は、ソクラテスやプラトンのような卓越した知性とペリクレス(Περικλῆς)のような優れた政治的指導者の存在もあって、現代を逆照射する「鑑」になっている」(7月20日・23)
▽「戦後「民主主義とナショナリズムの閉回路」、とりわけ戦後の日本特有の人格分裂の心理構造、いわゆる「ねじれ」の感覚について考えるうえで、古代ギリシアの事例が参考になる」(7月11日・36)
▽「極端な直接民主制国家であるアテーナイにあって、常に反対勢力の激しい攻撃にさらされながら、文字通り鋼鉄の意志で民衆を叱咤激励して戦争指導にあたったのがペリクレス」(7月11日・37)
主だったものを取り上げたが、反論したかったら、他者の文章はよく読んで、その含意を充分呑みこんでから行ったらよい。いくら未明の闇の中(12月21日 04:18)でも、寝惚けている訳でもあるまい。
私は有り余る証拠を挙げて、カ氏の「無学」たる所以を論証しており、【「無学の老媼」……反氏独特の主観的な形容】のような軽率な冗語を反射的に連ねる前に、具体的な根拠を示して反論すればよい。それなくしては、浅ましい「負け犬の遠吠え」にすぎない。
カ氏は老人(πρεσβύτης)特有の気儘さから無駄なおしゃべり(ἀδολεσχία)で憂さを晴らしているだけなのだろう。「無学」なりに大した饒舌家だ。老い(γῆρας)が必ずしも智慧をもたらさないことをよく示している。
もっとも、ゲーテかぶれの理論ぎらい(μισόλογος)の老デマゴーグ(δημαγωγὸς)だから、激昂しやすい頭を冷やして、もう少しポーランドやユダヤ人の歴史について質実な勉強をしたらよい。
【ワイツゼッカー氏の…原稿(演説原文の誤りだろう=筆者註)を読んでも…矮小化させたい、正当化したい……がまるで念頭にないことは明らか】というが、演説の論理の前提になっているのは、すべてをナチス・ドイツに押しつける他人事のような反省の論理で、問題外。
ところで、「アゴラ」に投稿者したのは「長谷川亮」氏(47)ではなかったのか。一日で「長谷川良」氏に変わる理由が不明だが、また、間違えた?[完]
それは、学問的議論をするうえで致命的な欠陥であり、先入見や硬直した思考に囚われて大切な心掛けを見落としていることを意味する。「無学」(ἀπαιδευσία)の程度も深刻だが、「真理愛」など称しても(プラトンの『テアイテトス』(175E)にも「好学求知[φιλόσοφον]の士と呼ばれる」(‘ὃν δὴ φιλόσοφον καλεῖς’)の前提として「真の意味の自由と時間の余裕とをもって」[‘τῷ ὄντι ἐν ἐλευθερίᾳ τε καὶ σχολῇ’, 175E]として、自由[ἐλευθερία]と余裕[σχολή]の重要性が説かれている)、知性(νοῦς)と品性(ἦθος)の程度が窺える浅ましい一連の投稿をみていると、情動を抑えきれないのか、生来の驕慢な質の然らしむるところなのか、剥き出しの感情(πάθημα)の赴くままに好悪を含め偏狭に満ちた独断と独善、しかも稚拙な、児戯に等しい凡庸な思考の含意するところを充分に自己認識はおろか吟味、検証・検討せずに、ただ粗末な措辞が踊っている観がある。
具体的事実の確定、裏付けや、文献資料の正確な解釈に基づく論理構成を怠って反射的に立論しては、徒に「投稿のための投稿に」狂奔する。情動の赴くままに反射的に情念をぶつける。さすがの「真理」(ἀλήθεια)も恐れをなして逃げ出してしまいかねない剣呑さだ。
その「悲憤慷慨」たるや、愚にもつかないナイーヴな(εὐήθης)人生観や世界認識、歴史認識、政治意識を基に相手に非を鳴らすこと(ὀνειδίζειν)しかしらず、勢い一方的で見当違いな中傷(διαβάλλειν)に流れる粗末な措辞と隙だらけの論理で構成した程度の「作文」に終始する。
☆情熱には不正がある。また独善がある。だから、それを追うことは危険だし、如何に道理にかなっているとみえようとも、気を許すべきではない。『ラ・ロシュフコー箴言』9)
そこにあるのは、ゲーテやヴァイツゼッカーの盛名(κλέος=‘berühmt’)に無批判に寄りかかった「事大主義」丸出しの、無邪気で凡庸な「庶民感覚」に根差す無批判な追従(κολακεία)でしかないのは既説の通りだ。カ氏の剥き出しの、敵意(ἔχθρα)は凄まじい。
一方で、「無学」で頑迷ゆえのお目出度さ(εὐήθεια)が透けて見える。西独留学経験があり、外資系企業に勤務し、英独二カ国語に通じ、ドイツの週刊誌を愛読し、国際問題に関心が高いと、あたかも「国際通で国際感覚がある」かのような幻想(φάντασμα)があるようで、愚直さ(εὐηθικός)というのか、凡庸というべきか、単なるナイーヴなのか、自ら信じて疑わないようだ。それに輪をかけて「☆鈍」(ἀφροσύνη)なのは、その粗雑な思考と杜撰な論理からも明らかだ。
それは、よくメディアに登場する、外国人特派員やタレント紛いの事情通の在日外国人が、如何に日本の政治と歴史、文化に一知半解の通俗的知見しかもち合わせていない凡庸で愚鈍な人物が少なくないことでも分かる。
挙げ句の果てに、間違いだらけのマダム瑕疵=カ氏が如何に、▼11⇒【反氏を批判するのは、国際通であるかのように見えて、国際感覚があるように、まるで思えない】とか、【いかに国際感覚からずれているか】と言い募ろうと、変わりはしない。
滑稽なのは、▼43⇒【私のこのような知識は、日本でも、ドイツでも、その学識のある専門家から習ったこと……その知識に基づいて自分の意見を組み立てている】、同⇒逆に私=「反氏」が【いかに、書物だけに頼った「国際常識の欠けた」、主観的憶測に基づく現実を知らない】のに対して、▼45⇒【私は、きちんと授業料を払って、専門家の説明をきちんときき、理解をし、歴史的な事実を踏まえて文章を書いている】のだそうだ。
それにしては間違いだらけで、何の見識も感じないが、所詮は無学の付け焼刃だからだろう。
▼46⇒【反氏に代表されるマスコミの人、の書く意見、というのは、なんとくだらない、空虚で内容のないものが、多い】、▼58⇒【一般的にみれば、反氏の主張に客観性に欠けるから、会社員の方があのように書かれたと思う】と八つ当たり気味で、しばしば言及される「会社員氏」も傍迷惑だろうが、62⇒【私は小学校から男女共学の公立の進学校の出身で、学業でも論理力をも使って男子と競争してきた人間】だとか、46⇒【反氏と違って、私は、新聞記者でもない。実名で文章を書いて、出世しようとも、お金をもうけようとも考えていない】らしい。
道理で何の芸も工夫ないことが分かる。持ち前の(ἕξις)甘えと驕慢(ὕβρις)が著しい。
▼48⇒【ユダヤ人が去ってしまった国に反ユダヤ主義の勢いが今だに衰えないという現象は注目に値する。反ユダヤ主義という「感情」だけがそこに居座っている】、▼60⇒【ユダヤ人強制収容所に「ポーランド収容所」……ポーランドと国民に対し、「ナチス・ドイツ政権の戦争犯罪の共犯」と呼んだ場合、罰金刑か最高3年間の禁固刑……その言葉が濡れ衣なら、そういう法案はポーランド人の名誉保持の為に、通すべきだろう】のような、まるでポーランドで悪名高き「ドイツ並み」のユダヤ人迫害を引き起こす反ユダヤ主義(Antisemitismus)感情や反セム主義運動(Antisemitisum)が渦巻いていると誤解させかねない誇大妄想的妄論だ。
牽強附会のこじつけもいいところの暴論で,私は態々元同業者の長谷川氏なる人物に教えてもらうほどのこともないし、カ氏が自分の主張に都合のいいように論旨を捻じ曲げている可能性も否定できないから、相手にするだけ無駄だろう。
よく考えれば、カ氏の、例えば朝鮮や中国情勢、間違いだらけの国内政治分析や歴史認識に照らしてもそれは容易に類推可能で、誤謬や見当違いが少なくないのは明白だからだ。
長谷川氏が滞在するオーストリアの欺瞞と偽善性も相当のもので、ロシアも含め、プロイセン(ドイツ)と結託してハプスブルク帝国のオーストリアがポーランドを分割した歴史、ドイツへの「併合」と言っても、それを歓迎する民衆の輿望が第一次大戦の戦後処理であるサン=ジェルマン条約で域内の各民族集団が独立し、経済的にも片々たる弱小国に転落した結果、経済的にも苦境を極め、昔日の繁栄と栄華を渇望するオーストリア自身の中にも渦巻いていたことを見落としており、ご都合主義的解釈にもほどがある。
▼61【「アウシュヴィッツにおける組織的なユダヤ人虐殺」を過小評価するつもりもない。真実を深く知りたい】と称する傍らで、ホロコーストを過去の歴史上しばしば繰り返されてきた戦争犯罪や虐殺行為と「比較可能な」水準の虐殺行為へと矮小化する、ドイツの「歴史修正主義」的解釈を一貫して主張しているのが、ユダヤ嫌い(反ユダヤ主義者の心情的シンパに等しい)の「ドイツ教(狂)」信者の老デマゴーグであるカ氏であることは、言うまでもない。
欺瞞と偽善に満ちた政治的工作物であるヴァイツゼッカー演説への度を越した心酔も含め、自己に都合のよい「物語思考」に籠るカ氏こそ、歴史に盲目もいいところだ。
それでなくても、二十世紀初頭のドイツは、反ユダヤ主義が猖獗を際めた結果、ユダヤ人を標的に殺戮や略奪を度々に繰り広げたロシアやウクライナ、東欧のポグロム(Pogrom)や「儀礼殺人」(Ritualmorde)、ドレフュス事件が起きたフランスと異なり、反ユダヤ主義が吹き荒れることはない数少ない地域の一つとされたなかで、それが何故、アウシュヴィッツのような「根源悪」(das Böse)を為すに至ったのか、今なお解けない謎が残る。ドイツ人自身が頭を冷やして考えればよいことだ。他の国家はドイツのような極悪非道なことをユダヤ人に対し、組織的はしていない。
しかも、それが戦争行為とは別次元で、国家の政策として合法的に実施されたことが、実際にはほとんど裁かれることのなく戦後を生きた一般市民の居直りと無関心を招いていることも争えない事実だ。
いずれにしても、精神の「夢遊病者」にも似て、脳中に蜘蛛の巣でも張ったような、カ氏の行きつ戻りつして一向に焦点の合わない論旨不明な「迷文」にも似て実に取りとめがなく、およそ精神分析の対象にも比すべき一種の社会心理学的「類型」をなしている。
それはそれで如何に差し迫ったものであっても、結局は当を失した、行き場のない「焦慮」に基づき、所構わず、見境なく、誇大妄想的な言辞を繰り広げ、世の蒙を啓かんと欲するも、世に対する不平・不満や反感、反撥を、あたかも「巫女」の御託宣のように撒き散らす妄説は、明らかに精神の伸びやかさ、柔軟性(μαλακός)を欠いた硬直的(ακληρότης)な思考の典型であって、老化(γῆρας)の迷妄を窺わせる。
カ氏は一知半解の素人論議=無駄なお喋り(ἀδολεσχία)でしばしばソクラテスに言及する。「ソクラテス真理探究法」などと称してソクラテス的問答法である産婆術(μαιευτική)を喋喋して憚らない。
「無学」ゆえの典型的な思い違い(ἑτεροδοξία)であって、以前にも、カ氏がソクラテス流の真理の探究を今後も志すなら、「まず、虚心坦懐に己を見つめ直し、課題に正面から向き合うしかない。それができぬ幼稚園児なら、悪いことは言わない、退散することだ」と忠告したことがある(9月26・169=「軍隊としての自衛隊の合憲性)」の項)。
結局、議論を仕掛けてはその知度食い散らかして、窮すると頬被りして遁走するカ氏の常習的病癖で、その効はなかった訳だが、産婆術の挿話で知られるプラトンの対話篇『テアイテトス』は、何一つ積極的な結論を見出すことなく、「全篇の仕事の結局に於ける否定を説明するものであつて、全篇はソクラテスの否定的精神の言はゞ虚空のうちに浮んでゐる」(田中美知太郎訳『テアイテトス』の「序説」)。
しかし、田中によれば、それは所謂ニヒリズムではない。自由な学問的精神の絶対的条件である、如何なる思いつきにも執着せず、如何なる通念にも拘束されず、一切の先入見を放下して、ひたすら自由な徹底的吟味の精神で事に臨むことへと導く。
『テアイテトス』はプラトンの代表作『国家』の後に書かれた、中期を締めくくり後期に向かう時期(BC368~67年ごろ)、60歳前後の「論理的」対話篇で、プラトンの生涯では最も平穏な時期に位置し、プラトン哲学史上、重要な意味をもつ著作だ。
産婆術のエピソードも著名だが、副題の「知識について」、つまり、「何が知識であるか」⇒‘ἐπιστήμη ὅτι ποτὲ τυγχάνει ὄν.’(145E)=「まさに知識であるところのもの、それはそもそも何であるか」や、‘ἐπιστήμην αὐτὸ ὅτι ποτ' ἐστίν.’(145E)=「知識それ自体として、何が一体それであるか」をめぐる、古代ギリシア人ならではの徹底した議論が展開される。
成果にこだわらずに自由で徹底した議論を尽くす精神の伸びやかさこそ、プラトンや田中美知太郎が説く「余裕」であって、カ氏のような余裕なき観念の奴隷は、所詮は学問とは縁なき衆生のようである。
歳の取り方には、精々気をつけたいものである。[完]
☆訂正とお詫び
12月20日・35の冒頭「田中美知太郎はかつて、余裕(βαρβαρίζων)」及び、20日・51の第三段落=「田中美知太郎が説いた「余裕」(βαρβαρίζων)」の双方にある、余裕(βαρβαρίζων)を余裕(σχολή)に訂正する。とんだ凡ミス(辞書登録の際の瑕疵)で汗顔の至り。
読書の間隙を縫った投稿とはいえ、余裕がない(ἀσχολία)執筆は誤謬を生む危険性に満ちている。もって肝に銘じたい。[σχολή]=スコレーは暇、閑暇、余裕、時間の余裕、自由な時間等の意味。反対は余裕がない[ἀσχολία]。ついでに[βαρβαρίζων]は「夷狄」(βάρβαροι)に由来し、要するに言葉が通じないように、「トンチンカンなことを行う」というほどの意味。「夷狄」=「チンプンカンプン」の謂いといい、嗤うに嗤えない冗談のような間違い。
私は、高校時代、文科系の科目よりも、基本的に、理科系の科目、論理的に物事を考えれば、正解にたどりつく科目、物理や数学が好きだったし、得意だった。記憶力はある方ではないので、英語の単語をたくさん覚えることは苦痛だし、国語は正解がたくさんあって、なにを書けばいい点数になるのか、よくわからない。それに比べて、理科系の科目は、論理的に考えれば、正解にたどりつけ、高得点を期待できる。そういう私にとって、私が理論嫌い、などという言葉で形容されること自体よく理解できないのである。 私は、ゲーテと同じように、「哲学は、ただ、常識を難しい言葉で表現しているだけだ。」と認識している。
ただ、それを理論嫌い、というのだろうか?要するに、私は、哲学の抽象的な言葉を使って、理論先行で、ものごとを認識する手法が嫌いなのである。
別に、ゲーテやワイツゼッカーが有名だから、無条件に信仰しているのではなくて、ゲーテ、ワイツゼッカー氏のおっしゃっていることが、私自身、いろんな人と交友を持ち、読書をし、人生経験を積み、生きた知識として得たことを、筋道立てて考えた結論と同じだから、信頼し、尊敬しているのである。それが、本当の意味の、智を愛し、学問を愛する者の誠実な態度なのではないのだろうか?
私が読者の方に望みたいことは、一度二人に触れてみてほしい、ということである。わかりやすい言葉で、人生や社会の真理を語っている、と私は思う。
ものを考える(διανοεῖσθαι)ということの意味を知悉する(ἐπισθήμη)ことなき、思惟(νοεῖν)の構造の自覚(εἰδέναι)の欠如(στέρησις)は、不断に生成変化(μεταβάλλειν)、つまり変容(ἀλλοίωσις)して止まるところを知らない「このもの」(καθ’ ἕκαστον)の本質(τὸ τί ἦν εἶινι)を把握する(καταλαμβάνω)ことなき迷蒙(δόξα)でしかない。
現実の構造(ἔργον γιγνόμενον)を徹底的に思考する(διανοια)姿勢も覚悟(πίστις)も認識(ἐπισθήμη)もないから、現実を捉えたと思うそばから、それを実在するもの(存在するもの=ὑπάρχον)と軽率に思い込むことで、そのまま現実に裏切られて虚偽(ψευδής)と欺瞞(ἀπάτη)、つまり、誤謬(δόξα)に行き着く。
人生の否定できない現実=事実(φύσις)として、強者(κρείττων)の現実と弱者(ἥττονων)の現実とは異なる。強者の現実は法(νόμος)を形成する一方で、弱者の現実は桎梏となり、強者の支配(ἀρχή)、即ちヘーゲモニアー(ἡγεμόνεια)に甘んじざるを得ないのもまた、世の常だ。
ものを考える(διανοεῖσθαι)ということは、単なる観念(ἔννοια)の遊戯(παιδειίά)ではなく、思考そのものの地平を変え、経験の集積程度の凡庸な思慮分別(σωφροσύνη)の域を脱し、現実を批判的に超越することで、却って現実の根拠を解き明かす概念(νόημα)の認識をもたらす。
論理(λόγος)に照応した善(ἀγαθόν)と必然(ἀνάγκη)の構造、即ち現実の回路に参入し、何事にも囚われない自由な精神(ψυχή)の活動(ἐνέργεία)として、イデア(ἰδεα, εἶδος)=現実の構造、即ち現実の範型(παράδειγμα)を捉える。
学問的思考の究極の形態である哲学的思考(φιλοσοφεῖν)は、単なる人生の智慧(σοφία)や経験知(φρόνησις)にとどまらず、認識を通じて世界の構造を把握することに外ならない。それは、‘sub specie bienni’(須臾の相の下に) の皮相な考察ではない、哲学=学問本来の「永遠の相の下に」(‘sub specie aeternitatis’)の真理探究の道である。
無学(ἀπαιδευσία)の迷蒙に止まり続けることは知的な怯懦(βλακικός)でしかなく、厳しい学問的思考という煉獄(purgatorium)の労苦を通してしか、「真理」(ἀλήθεια)の啓示は望めない。
人は多数者の支配・統治(πλῆθος ἄρχον)、即ち民衆政(δημοκρατία)の下にあっても、能力に応じて(κατὰ τὴν ἀξίωσιν)、自らの運命(πεπρωμένη)を切り開くしかない。理性(λόγος)の重圧に耐えきれない懦弱(δειλία)な魂を錬磨する精神の眼(ὀφθαλμός)こそ学問だ。
そこでの大切な心掛け、必要条件(ᾧν οὐκ ἄνευ)こそ精神の余裕(σχολή)であり、哲学は奴隷(δοῦλος)の仕事(ἔλγον)ではなく、精神の自由な運動(κίνησις)である。
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